意識と価値世界の出現

鈴木大拙師

ところが、人間にはいわゆる意識なるものが発生したので、面倒はここから出るのである。この天地の心が、心のままに、一直線に、垂直線的に、働いてゆかないで、その働きに対して反省を加えるものができた。それが人間の意識である。いつまでもドンドン進んで行く物理性や動物性がなくなって、その進み行くものをちょっととらえて、それを調べたいということになった。

この進むというものには、何か意味があるのか、この進むというものは何物か、どこから出てどこへ行くのかなどと考え始めた。ここに人間としての天地の心があるのであるが、これが為に天地の心そのものに対して、また一つの障礙(しょうげ)を与えることになってきた。天地の心の動きに対して反省と批判を加える。これが先に言ったところの矛盾ではないか。そしてこの矛盾が実にわれら人間の世界を作り出したのである。

今までわれらは何の気なしに来たのであるが、――すなわちいわゆる機械的に本能的に動いて来たところのものに対して、新たに意味の世界が創造せられて来たのである。これがやがて喜と憂との世界で、人生というものの端的である。

この意味の世界というか、価値の世界というか、ここにまた無心の世界が開けてくるのである。動物や物質の世界は勿論であるが、ここでは、無心ということも有心ということも言わずに、いわゆる神ながらの生活を行っていったのである。ところが、人間世界になると、神ながらと言いながら、人の道というものを別に立てているのである。

神ながらを離れて、人の道というものを作り出したというところに、またほんとうの神ながらというべき消息が窺われると、言ってもいいのであるが、そのほんとの道、神の道を離れたといっても神の道を離れたと言いながら、神の道と一緒になっている、その道のあるところに気がつかなくては、人の道であって、しかも神の道であるところの微妙な機微に、触れることが出来ないのである。

天地の心、神ながらの生活、これに対して反省をして、そうしてその心の動きに一時の障礙(しょうげ)を生じ、ここに矛盾を感じて、悩みを持つようになった。そしてこの悩みがまたさらに矛盾に拍車をかけることになった、そしてそこに転じた生活の進み方というものが見出された、それが意味を持ってくることになってきた。が、その意味なるものは、有心無心有意無意を離れたもの、無義を義とするものである。これがすなわち人間的無心というものである。この無意味の意味、無目的の目的を体得するところに、上述の無心の世界があると、自分はこういう風に言いたいのである。

言を改めていうならば、天地の心に背きながら背かないところ、神ながらの道をふまないで、しかもその道を出ないところ、動物的本能をもって、それによりて動きながら、またその上に人間的有心というものを加えて、そうしてその本能にもよらず、その有心にも停まらないで、つまり有と無との間というか、有でもない無でもないところを歩んでゆくところに、いわゆる人間的無心なるものを認めたいのである。

これを、言葉の表面から見れば、はなはだとりとめのないことのように見える、実際そうでもあろう。が、有心が無心、本能的で人間的、天地の心をもちながら、天地の心そのものにあらざるところの人間心を動かす、神でもなく人でもなし、しかも神であり人であるところの道――これをどうして認得(にんとく)するかというに、これは尋常一様でゆかぬことはよくわかるであろうと思う。

本能の世界は極めて容易である。怖い時には怖い、お腹のすく時にはすく、食べたい時には、蜂なら花の蜜を吸う、猫なら鼠を捕る、虎なら人間でも食う、というような本能の世界では何もかも自然である。神ながらである。ところが、人間にありては、そういうものをもちながら、ここにお腹がすいても食べない、いくら寒くても着物を着ない、いくら貧乏しても人のものには触れない、というような人間的有心の働きがなくてはならん。この働きがありながら、これにくくられぬ本能的無心の世界が、またここにあるのである。

無心で有心の世界、有心で無心の世界、神ながらでなくてしかも神ながらの世界、自然本能を否定して、しかも自然本能の働きで働く世界――これが無心で超道徳の世界だ。有心は道徳の世界である、無心になるということは道徳を無視するということにも見える。そうは見えるが、その実は、有心も無心もなく、道徳も超道徳もないところの世界が一つある。どうしても、それがないと人間としての矛盾が片付かぬ、したがって安心できぬ。すなわち今自分が言おうとするところの無心の世界が体認せられねばならぬのである。そしてこの体認は決して容易のわざではないのだ。

"矛盾のままの無心"に続く




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