人間的無心と天地の心
鈴木大拙師
本能は無心といえば無心であるが、それは動物の無心であって、人間生活の無心ではない。人間界の無心には今一つ洗練されたと言うか、あるいは人間化というか、あるいは仏化したとでも言うか、何かそういう風な無心の世界がなければならぬ。つまり本能の無心から出て、人間的有心に出たが、この有心を今一度無心の世界へかえしてしまわなければならぬのである。かえすと言う意味は、本能的無意識的、無目的的無心から人間的有心の世界へ出て来なければならなくなったという、その矛盾のところを克服するというか、あるいはその矛盾を超越するというところの働きが、どこからか出て来なくてはならぬのである。
なるほど本能は無心であろう。しかし本能に停まってはまだ動物の世界を出ない。風の吹くところ、火の焼くところに無心はあるが、そこに停まっては、人間として今まで経過して来たところのものを無視してしまうことになる。もう一遍言えば、人間生活としては、動物生活および物質生活と何か違うところがなくてはならぬ。その違う意味に対して、今一つ徹底した見所がなくてはならぬと思うのであります。
この見所によれば、人間的無心――本当の無心でこれがあろうと思うが、この無心を体得しなくてはならぬのである。この無心――人間的無心というのは、それなら何であるか。それは人間的有心、この有心の世界から、物理的無心の世界、または一般生物界に認められる本能的無心の立ちかえるという意味ではない。それは人間としてはどうしてもできないことなのである。またそうできたにしても、そこに我々の最後に進むべき目標があるとは考えられない。
それで人間的無心ということを言わねばならないが、その無心の中にはどこかにやはり物質的または一般生物的無心に通ずる道があるように思われる。それを天地の心と言ってもよい、この天地の心というものを体得する時に、人間的無心が認得せられるのである。
物質界でも、一般生物界でも、天地の心を体得していることは勿論であろう。いずれも天地の外に出ることのできないものなのである。天地の心を体得しないというものがあるならば、それは無と同じである。すなわち存在しないということになるのである。そんなものは風ということもできない、火ということもできない、いわんや蜂、蝶、狼、虎、そうしたものであるということも不可能である。 元来そういうものが存在することが言われなくなってくるからである。何であっても、天地の間に存在するか、生存するかと言われる限りは、どうしても、みなことごとく天地の心を持っていなくてはならぬのである。
春になれば花が咲く、秋になれば草や木の葉が落ちる、次に明るい月の世界になる、星斗欄干(せいとらんかん、星がきらきら輝くこと)ということになる。冬になると雪が積もってどこもかも白皚々(しろがいがい、雪一面の白いさま)、白―色に塗り潰されることになる。こんなことはやはり天地の心と言わなくてはならない。天地の心は一言にして尽くせば、生々の力である、創造である、いわゆる乾の徳で、日に新たにして、また日々新たなりというような塩梅(あんばい)に新しい世界を、次から次からと、創造してゆくのが天地の心である、乾の徳である。
人間的に言えば、努めて努めて休まないというところに、天地の心を見るのである。これはどの宗教でもみな一様に見ているところと信ずる。そこで物質界では物質として天地の心を表現している。物質の世界は繰り返しだというが、決してそうではない。そこにはまた創造の世界があるのである。一般生物はまた一般生物として、物質とは違った様式で、天地の心を表現している。天地の心を表現しないものには、存在ということがないのである。
次回、"意識と価値世界の出現"に続く