幼児と無心
鈴木大拙師
無心が本能に還ると言うことであるとすれば、赤児の方が大人よりもよほどその境涯を得ておることになる。そうするとわれらはだんだんに歳をとって経験を加えることは、無心の境涯をだんだんに離れるということになる。つまり人間の欲にとっつかまるか、ますます地獄に進むべき道を急ぐということにもなる。浄土系の人が、われら罪業のかたまりで、地獄必定の凡夫であると言うが、今のように考えてみれば、どうも尤もだと思われぬこともない。
西洋のある詩人の歌に、子供の時分にはちょっと前に天国を出て来たような気分がしょっちゅうしておった。ところがだんだん歳をとってくると、今出たばかりと感じていた、その天国がだんだん遠くへ去って行くように思われてならぬ、というようなことを歌っているが、それにもいくらかの、あるいは大いに真理があるようにもみられる。
この天国は無心の境涯でもあるようだ、そうしてこの無心の力というものの大きさは、何かにつけ感じられるのである。これを西洋のある哲人の書いたものの中にあったが、大人になると、あちらに気兼ねをし、こちらに気兼ねをして、いわゆる社会的制裁というか人間的拘束というか、そういう鎖や手かせ足かせの中に閉じ込められてしまう。それが天から与えられた、ほんとうの自由の気分で、ものをつくってゆく心持というものが年々に消耗してしまう。つまり人間としてもっているところの力が、ますます擦り減らされてゆくということになる。いつもおじおじして、ただほかの人と同じ様に、つまりどん栗の背比べをしてゆかなければならないようになり、汲々としてあちらを潜り、こちらを潜って、ただ人と同じからざらんことをこれ恐れている。
ところが赤児になると、いかにも自由で奔放、いわゆる天真爛漫である。何だか弱弱しいところがあるにも拘わらず、思うままに活動するのが赤児である。泣きたければ泣く、眠たければ眠る、大人なら人前ではというようなことになるが、赤児では人前が無い。天上天下唯我独尊である。そうしてこの独尊のところに赤児の絶大の力が認められる。大人は赤児の前に出てはまことに惨めな生活を送っている次第である。こう言った哲人もある。これも尤もなところがあると思われる。
そうだとすると、われらはむしろ歳をとらず経験も積まないで、赤児のままでおればいいのであろうか。どうもそうなくてはならないところがあるように思われる。キリストは「天国に入るには赤児のごとくなれ」と言ったが、どの宗教にあっても大抵は子供にかえれと教える。われらは本来清浄なのである。人欲というものが加わるほどいけない。神からくだされたいわゆる神ながらの道にかえれというようなことは、どこでも人の言うところである。
いわゆる孟子の惻隠の心ということもつまり人間としての本能と見てもよいのである。しかし人間は、嫌といってもいろいろの経験を積むようになっている。そしてその経験によっていろいろのことを覚えてゆくようになっており、いろいろのことを覚えるということは、いろいろなことの知識を持つということであるから、つまり自分の行為に対しては、あっちを見たり、こっちを見たりして、何らかの制裁を加えてゆくことになる。あるいは自分の行為をその境に順応さしてゆくと見てもよいのである。
つまり知識が増えるということは、環境に対してこの身をどういう風に処置してゆく方が、この身の利益になることが最も多大であるかということを考えるのであり、だからこの知識がなくてはならぬようであるし、そうしてこの知識を増やすように我らは本来してきているのである。
そうすると一方では、知識が増えて、智慧がついて、いろいろのことを考えたり、判断したり、計画したり、またそれぞれの境遇に順応してゆくということになるのであるが、また他の一方を調べて見ると、そういう塩梅(あんばい)にして得たところのものを、また棄ててしまわなければならないというような心持が、しょっちゅうわれらにあるのである。智慧を増やすのもよいが、増すとかえっていろいろの複雑な人間関係ができる。獲得がよいのか、棄却がよいのか。ここに人生の一大矛盾というものを見る。
次回、『無心と生活の矛盾』に続く