無心と本能
鈴木大拙師
火事で山が焼ける。風で樹が倒れる。崖が崩れて人間または動物が死ぬ。水が腐って虫が死んでしまう。あるいは蜂が花の蜜を吸う。雀が田んぼの米を食べる。牛や馬が豆を食べたり青草を食べたりする。別に火は山を焼く心はない。蜂も花の蜜を盗むという訳ではない。火は自然に物理化学の作用で出てくるとすれば、そこの焼ける道を塞ぐものは何でもことごとく焼いてしまう。それが枯れた草であろうが何千年経た大木であろうが、あるいは賤が伏家(しずがふせや、賤しい者の住む小さな低い家)でもあるいは秦の始皇帝がつくったという阿房宮でも火の広がる道を遮るならば、そういうものを、人間の分別の価値の上から詮索せぬ。人間から見てつけた価値などには一顧をも与えぬ。ことごとく自分の持っている特性によって、人間的に言えば、何でもかんでもみな焼き払ってしまう。
それがために、人間は自分がつくりあげた文化を損亡したと言って火を恨むかも知れない。しかしそれは人間の心持で、火にはそういうような心持は毫末(ごうまつ、ほんの少し)もないと、まぁそう見てよかろう。ちょうど太陽が悪い人の身の上にも、好い人の身の上にも、その光を平等になげるという意味も同じことです。雨は毒の草の上にも美しい花の上にも降ってくる。風や火やまたは日本によくある地震というようなものも、ただ物理の力―これを天地自然の法則と言うが、その力で動くので、そこには人間の価値を標準にして批判する余地はない。いわゆるいずれも無情の力であって、道徳上の批判を容れ得るところのものではないのである。
上来述べて来たところによると、木や石のようになってしまうところに、無心の機微が窺われると言ってもよいところであったが、果たして然るとせば、無心になるということは、人心をなくして、無情になること、風や雨のようになること、つまり物理の働きと同じ具合に、心が働くということになるのではなかろうか。そういう風に解釈せられても、よさそうに見えるところがある。
たとえば日本では夏の末から秋にかけていわゆる貿易風が吹きまくる。その時は誰も経験するように非常な勢いで、1分間の何メートルというかわからない、とにかく非常な速力で、たいてい南西の方から吹いてくる。そうするとそれは非常な損害を人間世界に及ぼすのである。自然界のものもことごとく倒されてしまうようなこともある。そういう風が吹いた晩にはおちおちと寝られもしないが、一朝明けると、太陽は昨日よりもいっそうの暑さで照り渡って、そうして無残にも壊された家の上、樹木の上などに、いかにも平和そのもののように照り渡る。太陽も知らぬ顔であるようだし、空気もそんな損害を何時間前には、人間に与えたかというような素振りもみせないでいるようだ。大風の名残りはいくらかあっても大体にはもう何もなかったようである。どういうひどいことが、この大風のために人間世界に起こったというようなことを、何も知らぬ風に、いかにも太平無事の景色が感受せられるのである。風や雨や太陽の場合ではそれでもいいかもしれないが、人間にはどうもそういう風な無心にはなりかねるがごとく思われる。人間を物理の方へ還元してしまえということははなはだ無理なことのように感ぜられる。
物理の力でなくして、今度は蜂や雀や馬や、牛あるいは虎狼の話に移る。ここではだいぶ違った趣が感ぜられる。蜂が花の蜜を吸うたり、虎が人間を食べたり、蟻が死んだ蝿でも蜂でも蝶でも細かく分析して自分の巣へもっていったりするのは、風の破壊力を逞しゅうするのとだいぶ違うように思われるところもある。風や雨の場合には物理的化学的な力の動きで、そこには人間の価値を云々すべきところはない。ところが生物の場合になると、何となくそこに目的ある働きが目につく。一面からみれば、風でものを吹き倒すのや、火が家を焼き払うのと、虎が人間を噛み殺してしまうのや、蝮蛇(まむし)が毒で人間を刺し倒すのとは何だかそこに違いがあるように感じられるのである。
それでわれらは火がものを焼いたからといって、火が大事な家を焼いたからといって、その火に対して復讐の心持は出ない。どうも仕方が無い、焼けてしまったという風に諦める。ところが虎や蛇の場合になると、われらはその蛇を殺すか、虎を倒すか、何か自分に対してなされた損害賠償を、相手のものに対して要求することになる。そういう点で、風と虎とは、どうも一様に見られないようにも考えられる。しかしまた他の一面からすると、虎の人を食うのと、風が樹を倒すのとなんらの区別もつけられないようにも見える。虎は別になんらかの悪意をもって人間を食ってしまうというのではあるまい。虎が人間に対して恐れを抱くか、あるいは食欲を感じたか、あるいは人間が虎に対して危害を加えんとしたので、虎の方では、いわゆる正当防衛的にしたか、いずれにしても虎は人間を殺した。出来るだけのことをやったのである。虎以上のことをしているのでもなく、虎以下のことをやったのでもない。虎は虎としての自然性を発揮したといってよろしい。
これをわれらは普通に本能と名付けておく。蛇の場合でも蜂の場合でもみなその通りである。みな本能の作用だ。風や火の場合には物理的と化学的というか、全く機械的な取り扱いをする。動物、生物一般の場合にはそれを本能と名付ける。いくらか違いがあるようにも思えるが、動物の本能も物理的物質的の働きとみられんこともない。ことに近頃の唯物論者の論法からいえば、いずれもその組織その機構に付帯して出て来た働きなので、そうしてその機構そのものに対しては、虎も蛇も責任を持たぬのであるから、したがってその機構から発生するところの働きについても責任がもてない訳である。
本能はいわゆるやむをえざるところのものであって、それを人間的に言えば、やむにやまれぬ大和魂というような訳で、大和魂の働きは、この点から見れば、責任もなければ、またしたがって意識ということもないので、価値の判断をそれに向かって加えるということは出来ない訳だ。いわゆる愛国心の発揚といっても、やっぱり虎が人間を食うように、良いことでもなければ、悪いことでもない。こういう風に考えられぬこともない。
無心ということが大体そういうことに考えられていいか、どうか。どうもある点からみるとそういう風に考えられもし、また考えられなくてはならないようでもある。それは昔からよく言うが、怒る時には雷のように怒鳴り散らすが、喜ぶ時には春風のようである。いわゆる大人は小児の心を失わずで、天真爛漫、赤裸々というようなところがある。これは風の吹くのと、蝶が狂い踊るのとなんらの区別もないように見られる。風がその物理の力を発展させるのと、蝶や狼がその本能を肯定するのと何にも違わないように思われる。無心というのは果たして本能に還元するという意味か、人の心を物理的、機械的に働かせるということか。そういう風に見られるところがあるように思われる。それを一つ考えてみなければならぬようである。
―次回の幼児と無心に続く