浄土真宗と正覚(しょうがく)

鈴木大拙師

仏一代の教えというものは、菩提樹下の正覚ということ一つ説こうとするのが目的である。そしてこれが本(もと)となって、仏陀の教えというものが表現せられる。しかもその表現というものは、何を背景としているかというと、正覚ということになるのである。この二つのものを忘れないように見ていかねばならぬ。正覚というものが、なぜ、そういう具合に、大事になっているかというと、これは仏の一生の上において、いろいろの事件も起こったであろうが、どの出来事にも一層増して、われわれの心を動かしている事実は、さきにも言い及んだ通り、涅槃(ねはん)と成道(じょうどう)ということなのである。

もし涅槃ということが、われわれにその形式を与えてくれるというならば、成道ということは、われわれに仏教の精神を与えてくれるといってもよかろう。涅槃というものは相である。釈尊の相が現れたものである。その相の由って来るところのものは何かというと、これは成道・正覚というところにあるものである。この二つはどうしても仏教徒として忘れてはならぬものである。

それで、たとえば真宗というものは、他力というか、また極楽往生というか、念仏というか、いずれにしても、釈尊の正覚ということを離れたように説かれている。それは如来の本願を説く、そしてわれわれのような罪のあるものは、その本願に救われて助かるのである、とこういっている。しかしながら、しかも、よく、その経典に表れた、その本当の意味に考え及んでみると、それは必ずしも極楽へ行くということが真宗の目的でないのであって、真宗の究極の目的はというと、やはり正覚を成ずるというところにあるのである。私はそう信じている。

すなわち、正覚を成ずるということが、この世は穢れた世である、自分の業(ごう)はなかなか深い、重い、これを自分だけでは背負いきれぬだけの業を背負っている身体なのである。こういう身体であるからして、この世で正覚を成ずるわけにはいかない、そこで弥陀の本願を頼む、そして極楽へ往ってから、正覚を成ずるということになっている。

真宗というものも、禅宗と同じように、正覚を成ずるというのであるけれども、一はこの世において得よう、一はこの世を捨てて、あの世で得ようというので、この世を捨ててしまうというところに、多少の新しい分子がはいっている、ということも言えるのである。しかしながら、その終極の目的としているところは、どこかと言えば、やはり正覚を成ずるというところに眼目をおいている。そして正覚を成じたというあと、真宗ではどうなるかというと、極楽にじっとしておられぬ、この世間に再び還ってくる。これを真宗の人は:還相回向(げんそうえこう)という名をつけている。

真宗では時に往相回向(おうそうえこう)ということをやかましくいうけれども、還相回向のほうは、そうやかましくいわれないような傾きがある。けれど、実をいえば、極楽に往ったならば、正覚を開いて、そこからまた、この世界に生まれ返ってくる、これをもって、私は真宗の終極の目的であると思いたい。そしてこれが仏教において、もっとも大事なことであると私は言いたいのである。




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