回心(えしん)について

鈴木大拙師

我々人間には内面的な分裂というものがある。この自己の分裂は、一つは事実の我(生物我、本能)であり、もう一つは、自己の中において価値を求める価値の我である。人間というものは必ず死を迎える事を事実として認識している一方、いつまでも生きたい、よりよく生きたいと言う気持ちを持っている。この二者が矛盾するところに我々の苦しみが存在する。この苦しみの解決策がいかなる具合で運んで行くかということになる。それについてはここに一つ回心ということについて、一応説明しておこうと思うのである。

いったいこの回心ということは、俗にいわゆる窮すれば通ずることを意味するのであって、われわれの内面的生活においても、この「通ずる」という事実がいくらでも存するのである。仏教ではこれを回心という。知、情そのいずれから入るとしても、われわれはこの窮してニッチもサッチも行かぬ所に迷い込むことがある。また宗教そのものの段取りが多くそのように出来上がっているのである。すなわち大いに窮してその窮地から忽然(こつぜん)と脱出する、これがその回心の意味の内容である。

ところがこの回心ということは必ず自己の内心から迸出(へいしゅつ)するものでなくてはだめである、人間はそうした経験によってはじめて更正することが出来るのである。しかしこれは何がなんでも自分でやらねば役に立つものではない。外部の人々はこれを見かねて、なんとか救ってやりたいと種々の方便(ほうべん)を講じてくれるが、いくら外部で種々の方便を講じても結局は自分自身で大死一番やった上で、そしてひっくり返って来ぬ以上はだめな事である。
けれども駄目だと言って、駄目で捨てておくわけにもゆかないので、ここに人間の社会性が美しく活動しはじめるという事実が現れてくるのである。しかしながらまた、他から施された方便や手段はいつまでたっても方便であり手段である。自分で本心一変せぬ以上はこれは真の回心とは言えないのである。知的である禅宗はこの事を悟道(ごどう)といい、他力宗では安心(あんじん)を得たというのである。

いったい禅宗ではどこまでも知的な宗教であるからして、これに入るには何にせよ幾ばくかの知識が必要である。他力本位の宗門ではこの知識と言う事を全然排斥するが、しかしその知識を排斥するところまで入ってゆくには、かえって非常な知識と非常な努力とを必要とするのである。知識の無用が考えられるのはただ出来上がった人、回心の人々から見ての話なのである。

ここにおいてわれわれが悟道なり安心(あんじん)を得る上に、知識は必然の前提と見ることが出来るのである。自己の内面の分裂を救い、または、この事実の世界から脱出して、完全なる価値の世界を建設しようという願望が生まれて来るまでには、そこに全体を達観するに必須なる理知が必要である。自分が関係のどの位置にいるのか、そういうことを自知するのには当然反省するということが必要である。そこでそうしたところに知識ということが考えられるのである。

宗教そのものに知識は不用であるが、しかしそこまで入って行く前提として、または宗教そのものの真の活動を始めるまでには、どうしても知識の必要なることが認められるのである。ここが大事な所である。阿含経に仏(お釈迦様)が菩提樹下に修行せられたという事実を説いてあるが、この境地にまで入るには、仏も四諦十二因縁というような苦しい道を通って来なければならなかったのである。これが無くては、すなわち、知識の苦しい修練というものがなくては、回心も、悟道もないことが証明されているのである。




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