一子地(いっしぢ)の心

白井成允先生

親鸞聖人の『諸経のこころによりて弥陀和讃9首』と題される中に、次の一首がある。

平等心をうるときを一子地となづけたり
一子地は仏性なり安養にいたりてさとるべし
祖聖の初稿本には、「平等心」に「ほふしんの心をうるときなり」、「一子地」に「三かいのしゆしやうをわかひとりのことおもふことをうるをゐちしちといふなり」と左訓が添えられてある。この一子地という言葉がいかにも有り難い。

平等心とは一切の衆生を平等に感ずる心を云われるのであろう。平等にというのは差別を無くしてというのではない。老若男女賢愚もろもろの差別のあるのをそのままに感ぜられながら、しかもそれらの差別の奥に、それらの差別を超えて平等なるものを感ぜられる。その平等なるものが、一切の衆生を通して真実に具わっているのをそのままに感ぜられるのであろう。一々の衆生に等しく仏性を拝まれるのであろう。

私共の感ずる所は概ね物の皮相に過ぎない。しかも、どうしても自分を中心とし標準として他を眺めている。自分に対してこころよい人々とは親しむけれども、そうでない人々をば疎んずる。そして自分の願い求める所を規範とし標準として他を律しようとする。そのくせ自分がその規範に背くこと遠きをば省みようともしない。こうして一家の内に、一国の内に、一世界の内に、平安和楽を欠き、憎悪嫉妬闘争を招き、互いに苦しませ悩ませあうのである。まことに無明渇愛の根深い煩悩から、あらゆる修羅の巷を現しきたる必然が思われる。物の皮相しか感じ得ないところが、無明の所以であり、その皮相の存在としてこの五尺の身、束の間の寿命に因えられて、喜怒哀楽さまざまの時を経てゆくところに、渇愛のはてしない流れがあるのであろう。

衆生という言葉は、衆多の生死を経る者と言う意義をあらわしているといわれる。無明渇愛の根源から流れきたるいのちの流れが、厳しい因果の連なりを以て際限も無く渦巻いてゆく、その渦巻きの中心をなすのが、自分なのである。しかもこの事実を省みようとしないで、周囲の渦巻きによって自分が苦しまされ、悩まされているのだとして、周囲を怨み他を憎み、その心から、ひいて際限なき葛藤を演ずる。親子・夫婦・兄弟・朋友乃至国家等、凡そ人間の交わりにおいて、未だ曽って免れ得ざる事実である。(この事実を源として、原爆とか水爆とか恐ろしい虐殺の毒物を造りあい、しかもこれを造る責任のなすりあいをしあっている。我は正しく彼は邪だという、牢として抜き難い我執無明の狂いにおののかざるを得ないではないか。)

平等心とは「法身の心」であると云われる。法身とは、これを親子の間に見れば、親を親とし子を子として、親と子との両者を円(まどか)に摂め生かしてゆく共通の"いのち"であろうし、これを国家の間に見れば、相対する国と国との両者を互いに和らぎ栄えしめてゆく共通の"いのち"であろう。法という語が、自性をたもちて解(げ)を生ぜしめる軌(のり)となるもの、という意味を有する語であると云われるから、億万の親があり千百の国があれば、そこにあらゆる親を親たらしめる親そのものの自性があり、あらゆる国を国たらしめる国そのものの自性がある。

即ち、親には親の法性があり、国には国の法性がある。そして、その法性を現実の身に顕わすことによりて、現実の親があり国があるのである。国の法性があれば、あらゆる国々をすべる全世界に遍ねく通う法性があり、親の法性があり子の法性があれば、親子を親子たらしめる法性がある。しかして、親子は国家の内で現実に存在し得るのであるから、親子の法性も国家の法性を離れ得ない。かくの如き重々の関係を推し究めて、一切の衆生の法性が考えられる。

このように考えられる法性が、更に己れの身に感ぜられるような親しみにおいて、法身と云われるのであろう。祖聖がここに言われる「法身の心」という言葉は、一切の衆生の法性、人をして人たらしめ、鳥をして鳥たらしめ、草をして草たらしめる根源の法性そのものを、御身にしみじみと感ぜられるところに見出された言葉であろう。法性の身そのまま心であり、心そのまま身であり、一切の衆生が皆等しくその法性において一体であり、一心であり一身である。その一如なることを一切の衆生の根源の"いのち"そのものと感じて法身の心と云われるのであろうか。「一の有情はみなもて世々性々の父母兄弟なり」という御語が想われる。

法身の心において平等心が証されるといわれる。そうすると、平等心は一切衆生を一如に観、一体に感ずる智恵の感覚とも云うべき作用を具えているであろう。これは私共には思い及ばぬ境地である。この境地をすこしでも私共に彷彿せしめてくださろうとの慈悲から、ここに一子地という言葉が生まれてきたのであろう。

人間の心に現れ動く諸々の情意の中で、恐らく母が子をおもう憶念の本性ほど、清らかにして不断なるものはあるまい。それは善悪、賢愚、老若等あらゆる差別に係わらず、あらゆる母という母を貫いて、本能的に肉体的に具わり動いている共通の情意のようである。もとより人間のものとしてこの本性は、直ちに愛しみ、憎み、貪り、怒り、諂い、妬み、驕り、怨み等、諸々の煩悩に纏わられて際限無き葛藤を生み出すを免れないけれども、私共はこれらの葛藤の奥にも。ひとたび母の子を抱く憶念の本性に触れるときは、覚えずその厳そかさにぬかづかざるを得ない。

あらゆる子等はこの母性によりて育まれる。たとい若くして世を去った母であっても、その稚き子に寄せる憶念の心は、その子の生涯を不断に永遠に貫き育みて休まないのである。一子地という言葉を私共に滲み透らせるものは、実にかくの如き純粋なる母性である。母性を媒介として、私共は如来の一子地を感ずる。しかもその一子地は、すでに如来のものとして、それ自ら清浄無漏にして、私共の群がり起る諸々の煩悩罪濁を融かし清め、遍ねく等しく一切の衆生を摂めて遺すところもない。かくの如き広大無辺にして、私共の思慮を絶した如来一子地の御心が、はかりなくも南無阿弥陀仏に証せられて、今現にこの私共を懐き育んでいてくださると知らされること、いかにもありがたい。

「一子地は仏性なり、安養にいたりてさとるべし。」私共の今生有漏の身を以て、仏性を覚ることのあり得べからざることを痛み慚じられながら、しかも同時にそれが、安養浄土において必ず覚り得べきことに安らい慶びたまうお言葉と窺われる。南無阿弥陀仏のおんめぐみの故に然るのである。

『大般涅槃経』(巻卅)にいわく、「仏性をば一子地と名づく。何を以ての故に。一子地の因縁を以ての故に。菩薩は即ち一切衆生において平等心を得。一切衆生必ず定んで当に一子地を得べきが故に。是故に説いて、一切衆生に悉く仏性有りと言えり。一子地は即ちこれ仏性なり。仏性即ち是れ如来なり」と。

この有り難い経言も南無阿弥陀仏のおんめぐみを被りて始めていただかれる。もし私共がこのおんめぐみに値(あ)い得なかったならば、私共はどうしてこのありがたい経言をいただき得よう。この経言の一語一語が即ち南無阿弥陀仏である。即ち安養浄土の荘厳である。即ち私共の日々夜々の安住の基である。それにつけても一子地、「三界の衆生をわがひとりごとおもうを得る」と言われる法身の心を、南無阿弥陀仏と現わし恵ませたまうおんはたらきを、「親鸞一人がためなりけり」と告げたもうた祖師聖人の御言葉が身に滲みいることである。




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