続―信仰と生活
白井成允先生
それでは真面目にならなくていいかというと、この徹頭徹尾不真面目な私を、仏がかねてしろしめして迎えて下さるんだという仏の慈悲が、不真面目なる私の上に直接注がれていることを気付かせてもらえば、真面目にならねばいけないという焦燥感がおこるのではなくして、そのお慈悲の中に任せまいらすという、その態度がでてくるでありましょう。
真面目になり得るとも、なりえないとも、或いは善き事を行い得るか、悪を止め得るか、そのことが問題となるのではなくて、「善き事も悪しき事も業報にさし任せて、ひとえに本願をたのみまいらする」という、こういう心が自ずからおこってくるのであります。
自分の力で以て善を行い悪を止めようというのは、我慢の心というものであります。「我」は"われ"であり、「慢」は"たかぶり"であって、我慢とは俺が俺がといっておごりたかぶる心であります。しかし、こうした自分だけの行は必ず行き詰まってしまう。この行き詰まるところに凡夫の罪悪深重(ざいあくじんじゅう)という本性があるのであります。この本性を見抜いて救わずにはおかぬという本願の声に任せまいらするというところに、普通の道徳生活とちがった真宗念仏者の姿があるのであります。
先程の、「自ずからその意を浄くする」ということも、今申した真面目にならなければならぬという問題と連関して、仏のおん願いを聞くということによって始めて解決せられることなのであります。「諸善奉行」という、この奉行とは、奉じ行うことであり、善きことを大事なものとして、それを自分の身に受けて行うのだということであります。
例えば、六波羅蜜(ろっぱらみつ)の第一に布施という行があります。物を施すという場合、己が慈悲を行ったのだとか、己が施してやるんだという気持は、奉じ行うということとは違うのでありましょう。ここに施すという尊い道がある。それは釈尊が身を以て行なって下さった道であり、また仏に仕える人にとって、そういう道を行なうことによって仏とならせ給うた道である。私もこの尊い道を戴いて行なわせていただこうという気持が、諸善奉行という一語の中にこもっているのであります。
自分が施しをするんだというたかぶりの心でなく、また施しをなすことによって何かを得ようとか、人からほめられようとか、功利的な雑念を起こすのではなくて、ただ尊い道だから行なわせていただきましょうという純粋な心持になる。これが「自浄其意」であります。自は"おのずから"と読むべきでありましょう。"みずから"心を清くしようということであるならば、我々には先に申しましたように徹底して行なえないのでありましょう。清めようとすればする程自分の胸の中にあさましい煩悩が湧いてくるのが知られるでありましょう。
こういう状態を一体どうすればよいであろうか。聖徳太子は「篤く三寶を敬へ、三寶によらずば何を以てか枉(まが)れるを直さん」といっておられる。われわれの枉(まが)れるを直す、善を修め、悪を廃(や)める道は三寶に帰依するのが根本であるといわれているのであります。仏の教をいただき、仏の仰せに従う、ここに自らその心を清めるのでなく、おのずから仏の力によって清められていくのであります。
善きにつけ、悪しきにつけ、ひとえに本願に任せまいらせる、そこに自分のあさましさを気付かせていただくと共に、浄らかにして汚れなき仏のお心が私の心の中に入りみちて下さるのであります。ここに道徳――自分が浄く真面目になろうとする道――が砕けてしまって、仏のお力により自ずから浄められてゆく宗教の道が開けてくるのであります。これは私共の命の根本的展開であるといってよい。無始曠劫の迷いから流れながれてきた私の生命でありますが、今度は仏のおん願を中心として動いてくる生命となるのであります。
私は今日、仏法を聞く人々の間に仏法が本当に生きてこないということは、その出発点である生死(しょうじ)出(い)ずべき道を求めるということがはっきりしていないからではないか、と始終思うのであります。
仏教の根本の問題は生死出ずべき道であります。言葉をかえていえば、後生の助からんずる道を求めるという。生まれ変り、迷い来り、迷い去るこの生命を如何にして悟りの命に転ずることが出来るであろうか。そういうことが生死出ずべき道を求めるという言葉の内容でありましょう。そうして、これが本当に釈尊を始めとする、インド・支邦・日本の三国の高僧の方々が命を捧げて等しく求められた問題なのであります。この世に生まれてから死ぬまでの五六十年の今生一期の命をどうこうしようとする、これだけが仏教の問題であるのではなくして、この今生一期の命をあらわしている、知ることの出来ぬ遥かなる古(いにしえ)からの迷いを現している根本の力、そうしてこの身にその迷いの力によって未来において実を結んで流れてゆくという、このような過去・現在・未来にわたる私のいのちの迷いの流れ、苦しみの流れを如何にして悟りの命に転ずることが出来るでありましょうか。これがわれわれの根本の問題なのであります。
しかし、これは自分一人の問題ではありません。自分の父母の生命、妻子兄弟朋友の命、一切衆生の生命に連なる問題なのであります。この私が真実の悟りをうるならば、その悟りの生命が一切衆生を悟らしめ、安楽ならしめてゆくことになるでありましょう。一切衆生と共に生きるか死ぬか。共に迷うか、悟るか。親鸞聖人が九歳の時から二十九歳までの二十年間、命がけで求めたもうたのはこの問題であります。この問題が真実に求められなければならないという重要性を自覚しないで、人格の権利とか生活権の擁護だとか、浮き沈みのはてしない生命の表面だけを解決しようとしている。そしてそういうことを今すぐ解決しなければ意味がないという、こういう考え方は根本的に間違っていると私は思うのであります。
釈迦牟尼仏が二千五百年の昔にお説きになった仏の教えは、今では用のないものの如く考えられていますが、これは仏法を知らぬところからくるのでありましょう。生きとし生けるものをひとり子の如く感ぜずにおれぬ仏の一子地(いっしぢ)の境地から、この真面目になることも出来ず、浄くなることもできずして、迷いの生をかさねてゆく私共を必ず救おうとの、流れ出ずる仏のおん願をわが身の上に受けさせていただく、そこから仏の心を聞き、この世に生きてゆくという、これが私共の世の生き方であり、そこに少しなりとも日本国を栄えしめ、世界人類を平和ならしめてゆく道があるのではないか、ともかく私にはそれ以外の道はありえないのであります。
(昭和31年1月)