第1話:南無(なむ)の世界

西川玄苔老師

最近、ある会合に出席した折り、70歳あまりのある方が、皆さんに自ら写経された巻物を 見せておられた。『法華経』28巻の大写経である。この巻物は、その2本目の中途のものであると申される。鳥の子紙で立派な巻物に出来上っている。字は細字で一糸乱れず楷書で書かれてある。この写経をしようと思うて、名古屋じゅうの筆屋から、「この筆は」と言うのを選び買って、墨も紙も吟味して、毎朝5時起床、3時間びっしり、この写経をしたのだと語られた。

一座の方々は、その精神努力の結晶に驚嘆された。私もこれは並々な業ではないなと思った。しかし、その時、フト私は感じさせられた。何故こうして、カバンからこの巻物を取り出して皆様に見せられるのであろうか?

写経行を専ら行じられる事は尊いことであるが、これを皆様に見せられるという行為に、自惚れ(うぬぼれ)根性、自慢根性があるのではなかろうか。

道元禅師は、無所得、無所悟で、ただ座禅せよ、と申されておられる。『歎異抄』には、念仏には無義をもて義とす、と説かれてある。大衆の前に、自らの精進を見せびらかすならば、たとえ如何に尊い行であろうと、これは強情我慢(がまん、仏教語としての、我賢しと言う想いの意味)をつのらすばかりではなかろうかと。

しかし、これは、その人を責めるわけにはゆかない。その方が正法の教えと御縁なかりしためであったろう。

また以前、私は座禅に精進しておられる、ある方に会った。その方は、私は座禅を始めてより、二千数時間座禅して来ましたと、やはり皆さんの前で発表しておられた。よくも座禅を行じた時間を数えておられたものだと思った。座禅を行じたと言う傲(おごり)が、このような言葉となって出たのであろう。これでは座禅でなく我禅(がぜん、西川先生の造語だと思われます)である。

前の写経といい、二千何時間も座禅された方といい、このようなお方の仏教を修養努力の仏教、自力の仏道と言うべきであろうか。

修養努力の仏教は、座禅したり、念仏申したり、写経や滝行や聞法に努めに努めて、自分を何ぞ物にせんと言う心根がある。腹も立てず、愚痴も言わず、悟りを開き、信心を得て、誰からも尊敬されるほどの人格者になりたい。また無我、無心になって、何ものにもとらわれなく、自在無碍(じざいむげ、何にも妨げられない自由自在)の心境になりたいと一生懸命に、努力精進するのである。これを道元禅師は、所得を求め、悟りを求めてする有所得行だと申される。これは、正しい仏法ではない事を懇々切々と説かれるのである。

しかし、殆ど誰も、残念ながらこの修養努力の過程を経過するようである。筆者自身も、若い頃より、無所得、無所悟の座禅をただ行ずるのみだと、幾度聞かされたことであろうか。幾度聞かされ、幾度自分で思い省みても、座禅をして、何とか、自分を物にしようと努力する根性は止まなんだのである。

そして、遂に、浄土真宗の白井成允先生にお会いし、先生より『私どもは、あらゆる縁におうて迷いさすらうほかない身です。悪い縁にあえば悪いで迷い、善い縁にあえば善いで迷い、天地一杯にならんとしても迷うものです』と申された。天地一杯にならんとは、悟りを開こうと言う迷いである。

この一語より、私は善悪迷悟(ぜんあくめいご)の縁に迷うほかない私が知らしめられたのである。我執我欲(がしゅうがよく)の迷いよりほかない身に、頭が下がってしまったのである。これが南無(なむ)であった。それより『座禅する』という座禅でなく、座禅せしめられる座禅にさせられたのである。念仏も申され候となったのである。

しかし、我執の身には変わりない。いや我執の深さが照らし出されるのみである。そこに自ら南無せしめられるのである。南無するのではなく、南無までせしめられる、有り難さである。威張るもの何一つない自分が照らし出されるのが有り難い。

【註釈】
南無とは、梵語のナマスの音訳で、『帰依する』とか『拝む』とか『参った』と言う意味です。




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