禅とは心の名なり
松原泰道師
○禅とは何か
これから、「禅とは心の名なり」というテーマでお話を致します。
この言葉には続きがありまして「心とは禅の体なり」となります。禅は心の名前であり、心は禅の本体であると、要するに同じ事をいっているわけですが、これは13世紀末〜14世紀中頃の中国の禅僧、中峰和尚の言葉です。
禅はわかりにくいものですから、これまでに、いろいろと定義がなされてきました。調べますと、「禅とは何か」に対しても30以上の定義があります。この「定義がたくさんある」ということは、それだけ禅がわかりにくいということなのですね。
たとえば病気でも、風邪なんて簡単な病気のようですが、薬がたくさんあります。治ったようで治らないと、「あの薬がだめだから、この薬」ということになるので、治りにくい病気ほど、薬がたくさんあるんです。
禅も同じようなもので、説明しにくいからこそ、「こういったら、わかるのではないか」「ああいうと、わかるのではないか」といろいろな定義があるのです。その中でいちばん簡単でわかりやすいのが、「禅とは心の名なり」です。では、「心」とは何か、といいますと、これもやっかいなんです。−が、私達の喜怒哀楽の感情のことではなく、本性、あるいは本心というのが意味としては近いと思います。仏教の上では仏心とか仏性と申します。
仏心は人間に限らず、あらゆるものに宿っている本心・本性です。別の言葉にすれば、すべてのものをそのものであらしめる根元的な心と申し上げたらよいでしょう。この根元的な心を仏とも仏心とも申します。
たとえば、一枚のちり紙にも仏様は宿っています。というのは、ちり紙には、濡れたものをふくなどといった作用(機能)があります。いくら便利でも、携帯電話では鼻かめません。そのように、一枚のちり紙にも、一滴の水にも、みんな、ものにはそれぞれに違うは作用(はたらき)があり、そのものをそのものたらしめる本心(作用)が宿っているのです。ですから、栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)上人は、ちり紙が一枚落ちていても、「ああ、仏さまが落ちている」と拾って拝まれたのです。
この、すべてにそなわっている根元的な心、仏心が禅である、と申していいでしょう。
さて、山梨県塩山市の向獄寺の開山である抜隊和尚は、中峰和尚の禅の定義を聞き、「禅とは心の名であるそうな、心をもっていないものは一人もいないから、学ぶということは、自分の心を学ぶことだ」という解説をしました。これならよく分かりますね。
これがさらに、道元禅師の「仏道を習うとは自己を習うなり」という言葉に、そして私ども臨済宗では「己事(おのれのこと)を究めていくことが禅である」と、つながってまいります。○心を静め、動揺しない
さて、今日の禅の思想を固めたのは、中国の禅僧である達磨大師から数えて6代目で、慧能(えのう、638年〜713年、本来無一物と言う言葉を残されています)という方です。禅の原語は「ディヤーナ」というのですが、これには「心を静める」という意味がありまするそして、心を静める方法として、坐禅があります。
慧能の語録には、坐禅について次のように坐と禅を分けて説かれています。外、一切ノ境界ニ於イテ心念起ラザこれを平たい言葉で申し上げれば、自分の周囲の環境について。あれこれと心を動かさずに、こ心を静めることが「坐」である。そして、自分の心を見つめ、そこに仏性が宿っていると信じて、動揺しないことが「禅」だということですね。
ルヲ名ヅケテ坐トナシ
内、自性ヲ見テ動ゼザルヲ名ヅケテ
禅トナス
つまり禅とは、自分の心を内外にあるものにゆるがない状態に置くこと、静かに自分の心を見つめることです。○もう一人の自分との会話
心を静めるということは、坐禅の「坐」で説明すると分かり易いと思います。この字は、常用漢字にはありません。「座」の字で代用されることになっていますが、これはあまり好ましくないのです。「座」は、妻の座とか夫の座といったように、座標軸といいますか、場所や位置を示す名詞です。
それに対して、「坐」は、すわるという自動詞です。土の上に人が二人すわっているところを表していますしかも、この二人は、別々の人でなく、同じ人、さらに申し上げれば、自分の心を分解してふたりにしているのです。
以前、死刑囚の拘置所へ話しにいき、この字を説明すると、次の俳句をつくって見せてくれました。この裸(はだか)仏と凡夫とあい住めるこの意味は、「自分の心中には罪を犯す凡夫だけでなく仏様も一緒に住んでいたんだね」ということでしよう。仏も凡夫もどちらも自分の心ですが、一つは感情のままはたらいていく心ですが、もう一つが仏心です。感情のままに流れていく自分とそれを見つめて引き戻そうとしている自分が心の中にいて、その二人が常に対話を続けるのが好ましいのです。しかも、仏と凡夫は人ではないのです。
これを、武蔵野女子大学を創立した高楠順次郎先生は、仏も迷えば凡夫なり凡夫もさとれば佛なりと、詠んでおられます。素晴らしい歌ですね。○言葉に表すことができないもの
では、改めて「禅とは何か」と申しましたとき、一般に信じられておりますのが「教外別伝(きょうげべつでん)」。「教」は釈尊の教え、あるいはお経のことです。つまり、言葉や文字に表された内容とは別に、心から心へ伝わるものなのです。
だから、ちょっと、皆さんを煙に巻くようですが、禅とは何かを人に伝えるために記された、禅の語録にある文字は、「言葉や文字で表すことのできない内容を表した言葉や文字」というややこしいことになってしまうんですね。
また、禅では「不立文字(ふりゅうもんじ)」と申します。これは経典に書かれていることはすべて釈尊の教えであるが、お経に書かれている一字一句にこだわらないという解釈です。
それを私にいちばんよくわかるように教えてくだされたのは山本玄峰師のお言葉でした。私が心の師と仰ぐ三島の龍澤寺(りゅうたくじ)の素晴らしい禅僧です。玄峰師は、「不立文字」を「意味を先につかんでから、言葉や文字を理解すること」とおっしゃっていました。ふつうは、文字や言葉を読んで理解するのですが、不立文字はその逆の考え方ということです。
こう考えていきますと、「教える」ということは。「伝わる」ことにほかなりません。知識として理解することももちろん大事でしょうが、頭の先だけでなく、心や体に染みていくように、何かが伝わることがなければいけないのです。○私の中にいる私
それでは、最後に、習志野市の野村文生君という小学校6年生の詩をご紹介しましょう。鏡の中に私がいるこれは、野村文生君が自分の姿を鏡に映している詩ですが、傍点は私がつけました。実は、この作品も禅の教材になるのです。傍点のある「私」は、鏡に映る姿、つまり虚像です。傍点のない「私」は、この少年本人ですね。詩では、怒ったときでも、悲しいときでも、鏡の中の自分が自分に何かを話しかけてくると、素直になれるとあります。鏡の中の自分が自分を素直にするのではなく、自分が鏡の自分を素直にするようになる。
私の目に私がうつる
怒ったときでも悲しいときでも
自然ににこにこしてくる
鏡の中の私が
私になにか話しかけてくる
すると私はすなおになる
鏡の中の私が私をすなおにするのでは
なく
私が鏡の中の私をすなおにするように
なる
鏡の中に私がいる
私の中に私がいる
先ほど申し上げた、「坐」の文字にある二人の姿を思い出して下さい。そして、詩の最後がなかなかいいのです。「私の中に私がいる」。少年は何気なしにいっているのですが、この「私」とは何でしょうねぇ。
私は、下線をつけた「私」が、仏性、仏心を表現していると思います。私達凡夫の中には、本当にもう一人の自分がついている。子供さんはそれを無心に詩にしているのです。
私たち大人の言葉でいうところの「心の受信装置」がこまやかになってきますと、どんなことでも深く受信することができるのです。何気ない言葉の中にも、深い意味を見つけられるようになります。
「私の中に私がいる」。この言葉の意味を考えて見てください。自分の中にいる、もう一人の自分。とりとめのないような自分の中にも、素晴らしい自分が宿っているのです。そして、もう一人の自分に気付くことは、人間に本来そなわっている根元的な仏性を知ることにつながるのではないでしょうか。松原泰道師の略歴:
1907年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。臨済宗妙心寺派教学部長、龍源寺住職を経て、
現在、南無の会会長。大ベストセラー「般若心経入門」をはじめ、多数。