No.1000  2010.04.22
初心に還る

今週の日曜日(18日)、阪神タイガースの4番バッター金本選手(42歳)は、11年間続けて来た連続フルインニング出場世界記録更新を自ら決断してストップした。1492試合、あと8試合で区切りの1500試合連続となる直前に、である。1492試合の記録がどれほどのものであるかは、6年前に日本記録の700試合を抜き去り、4年前にはアメリカ大リーグ記録903試合(カール・リプケン選手)を抜き去っての記録更新中であったことから明白である。

金本選手は今年の開幕時点から左肩(本人サイドから見れば右肩)に痛みを抱えていたのであるが、これまでも、腕を骨折しながらも出場し続けて来たのである。今回はどうして連続出場を断念したのであろうか?今もなおベンチ入りしているところから推測すれば、決断に至らしめたのは体の状態だけではないと思われる。彼ほどの選手の頭の中を凡人が想像出来るものでもないが、私は自我(欲望)と本来の自己(真実に生きることを求める魂)の激しい闘いの末に、本来の自己が勝った、即ち初心に還った結果では無かったかと思っている。

彼はこれまで記録だけを求めていた訳ではないだろう。無論、記録を意識していなかったはずはないが、チームの中心選手としては連続出場を目指して日々の体調管理、精神面の鍛錬をすることがチームの為であり、またファンの期待に応えるべきプロとして当然の有り方であり責任だと考えて来たに違いない。しかし、区切りの1500試合を前にして記録を意識する自我と、打率1割台と云う4番バッターとしての不甲斐なさが心を占めるようになり、プロとしてあるべき姿を追い求めて来た本来の自己との闘いから逃げる訳には行かなくなったのだと思う。そして、初心に還ってプロ野球選手の役割と取るべき態度を考察した時、金本選手は自分の連続出場記録よりも、チームの勝利の為にはどうあるべきかを考えることが大切であると思い至ったのだと私は思う。そう彼が思い至ったとき、今年のタイガースには城島選手と云う大リーグ帰りのスター選手が入り、ブラゼルとマートンと云う二人の外人選手の調子もよく、今は自分が居なくとも、否、むしろ自分が先発メンバーから外れる方がチームが勝利する確率が高くなると心秘かに計算したのだと私は推測している。

金本選手の場合に限らず、我々の人生においても、苦難に直面し、どっちに進むべきかと迷う局面で初心に還ることは迷いから脱出する上で非常に有効である。就職した会社で行き詰った時、結婚生活がうまくいかなくなった時、脱サラ起業して行き詰った時、何か新しいチャレンジをして壁にぶち当たった時などには、先ずは初心に還って見ることだと思う。今支持率低下の歯止めがかからない民主党政権の場合にも、政権を目指して一致団結した時の初心に還ることが何よりも肝心であろう。初心に還るとは、どう云う目的・目標・意志を立てて始めたかを思い出して見ることだと思うが、我々が最も初心に還るべきは、人生の初心ではないかと思う。勿論我々は自ら意識して意志を持ってこの世に生を受けたのではないが、本能的に初心を持たされて生まれたのだと思うからである。
仏法、特に親鸞聖人の仏法における人生の初心を『本願』と云うのだと思う。人間に生まれた意味に気付いて欲しいと云う願いである。ある先生は『本願』は仏様の側からの表現であり、私たち人間の側から表現すれば、本当の人間らしい生き方をしたいと云う『本能』だと言うのである。
『本能』と云うと食欲とか性欲、睡眠欲が浮かび、あまり立派なものとは受け取れないが、人間の食欲・性欲・睡眠欲は、なまじ大脳皮質が発達したことに依って単なる欲ではなく貪欲になるからであって、『本能』を人間が汚しているだけのことであるらしい。本来、人間は人間らしく生きたいと云う崇高な『本能』を仏に願われ持って生まれたと云うことだと思う。

人生の初心に還る事とは、即ち『本願』を知ることなのである。つまり、仏法を聞くことなのである。

少し話はまとまりがなくなって来ましたが、実は、今回のコラムが第1000作目となりました。1000作目を意識したのは950前後でしたが、最近は忘れておりまして、前回、たまたま999作目であることに気付き、今回の1000作目は意識致しました。2000年7月13日にコラム第一作を書きましてから今年の7月で丸10年。ほぼ週に2回のコラムを書いて参りましたので、年に約100作、10年続ければ1000作にもなると言うことであります。

金本選手ではありませんが、1000作は区切りです。別に1000作を目標にして来た訳でもありませんし、これからも続ける積りでありますが、コラムと云うのは、正直なところ、テーマを決めるまでに大変な頭の中の作業があります。本当に書きたいテーマが浮かび上がって参りませんと1行も文章は書けないものなのであります。その代わり、一旦テーマが決まりますと文章は意外と次から次へと出て来るものあります。そうなればしめたもので、これまでも、いわゆる義務感だけで1行1行苦心して書き連ねたコラムは一作もございません。格好よく言えば、コラムを書くときには常に人生の初心に還らせて頂いており、私の魂の底からの声、つまり仏様の声をそのまま書き写しているだけ、或いは仏様に書かされているのではないかとさえ思っているところであります。

これからいつまで仏様の声が聞こえるか分かりませんが、コラムを書く時には常に初心に還らせて頂いていると感謝して続けられればと、金本選手の事を思いつつ考察した次第であります。


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No.999  2010.04.19
教行信証を披く-教巻―9

まえがき
古(いにしえ)のお坊さんや学僧達に依って仏法とは何かを説明された書物は、経(きょう)・論(ろん)・釈(しやく)に分類されます。経は釈尊の説かれた経典。論は印度の仏教学者が解説したもの。釈は経論の意味を中国、日本の仏教学者が解釈したものでありますが、この親鸞聖人の『教行信証』は親鸞聖人ご自身が題名を『顕浄土真宗真実教行証文類』とされているように『経論釈』ではなく『文類(もんるい)』とされています。『文類』とは、教・論・釈の重要な部分を集めて整理したものという意味ですので、ご覧の通り引用が多いのであります。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。唯然大聖、我心念言。今日世尊、住奇特法。今日世雄、住仏所住。今日世眼、住導師行。今日世英、住最勝道。今日天尊、行如来徳、去・来・現仏、仏仏相念。得無今念諸仏邪。何故威神光光乃爾。於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪、自以慧見問威顔乎。阿難曰仏。無有諸天来教我者、自以所見問斯義耳。仏言。善哉阿難、所問甚快。発深智慧、真妙弁才、真妙愍念衆生、問斯慧義。如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教、欲拯群萠恵以真実之利。無量億劫難難見、猶霊瑞華時時乃出。今所問者、多所饒益霊瑞華、開化一切諸天人民。阿難当知、如来正覚、其智難量、多所導御慧見無碍無能遏絶。 無量寿如来会言。阿難曰仏言、世尊、我見如来光瑞希有故発斯念、非因天等。仏告阿難。善哉善哉、汝今快問。善能観察微妙弁才、能問如来如是之義。汝為一切如来・応・正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間、故問斯義。又為哀愍利楽諸有情故、能問如来如是之義。
平等覚経言仏告阿難。如世間有優曇鉢樹但有実無有華、天下有仏、及華出耳。世間有仏、甚難得値。今我作仏、若有大徳、聡明善心、縁知仏、若不忘在仏辺侍仏也。若今所問、普聴諦聴。
憬興師(述文賛巻中)云。今日世尊住奇特法、「依神通輪所現之相非唯異常亦無等者故」今日世雄住仏所住、『住普等三昧能制衆魔雄健天故』今日世眼住導師行、『五眼名導師行引導衆生無過上故』今日世英住最勝道、『仏住四智独秀無叵故』今日天尊行如来徳、『即第一義天以仏性不空義故』阿難当知如来正覚、『即奇特之法』慧見無碍、『述最勝之道』無能遏絶、『即如来之徳』

● 和文化(読み方)
憬興(きょうごう)師(述文賛巻中)の云く、今日世尊住奇特法というは、『神通輪(じんずうりん)によりて現じたもうところの相なり、ただ常に異るのみにあらず、また等しき人なきが故に』今日世雄住仏所住というは、『普等三昧(ふとうざんまい)に住して、能く衆魔雄健天(おごんてん)を制するが故に』今日世眼住導師行というは、『五眼を導師の行と名づく、衆生を引導するに過上なきが故に』今日世英住最勝道というは、『仏、四智(しち)に住したもう、独り秀でたまえることひとしきことなきが故に』今日天尊行如来徳というは、『即ち第一義天なり、仏性不空の義を以ての故に』阿難当知如来正覚というは、『即ち奇特の法なり』慧見無碍というは、『最勝の道を述するなり』無能遏絶というは、『即ち如来の徳なり』

● 語句の意味
憬興ー7世紀後半の新羅の人で法相宗の学僧である。神通輪ー仏が衆生を救うはたらきを三輪といい、身業を神通輪、口業を説法輪、意業を憶念輪という。神通輪は身輪をさし、身に超自然的なはたらきを現されること。普等三昧ー一切の諸仏を同時に等しく観ずる三昧のこと。雄健天ー欲界の第6天の魔王のことで、悪鬼神の中でも最も力の強いもの。五眼ー肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五つをいう。四智ー仏の智慧のことで、大円鏡智(だいえんきょうち)・平等性智(びょうどうしょうち)・妙観察智(みょうかんさっち)・成所作智(じょうしょさち)の四つをいう。第一義天ー第一義とは真如法性のこと。この理を悟った仏と言うので、仏を第一義天という。

● 現代訳(本願寺出版の現代語版より)
憬興が『述文賛』にいっている。 「<世尊は、今日、世の中でもっとも尊いものとして、とくに優れた禅定に入っておいでになります>とあるのは、仏の神通力によって現された姿であり、ただ普通と異なるというだけでなく、等しいものがないからである。<煩悩を断ち悪魔を打ち負かす雄々しいものとして、仏のさとりの世界そのものに入っておいでになります>とあるのは、普等三昧に入って、多くの悪魔や魔王を制圧しておられるからである。<迷いの世界を照らす智慧の眼として、人々を導く徳をそなえておいでになります>とあるのは、五眼を導師の徳といい、人々を導くのに、これ以上のものはないからである。<世の中でもっとも秀でたものとして、何よりもすぐれた智慧の境地に入っておいでになります>とあるのは、仏は四智をそなえて、独り秀でておられ、等しいものがないからである。<すべての世界でもっとも尊いものとして、如来の徳を行じておいでになります>とあるのは、仏は第一義天にであり、仏性は無量の徳をそなえ常住であることをさとっておられるからである。<阿難よ、よく知るがよい。如来のさとりは>とあるのは、とくにすぐれた禅定について述べられたのである。<その智慧は、実に自在であり>とあるのは、何よりもすぐれた智慧の境地について述べられたのである。<何ものにもさまたげられない>とあるのは、如来の徳について述べられたのである。」

● あとがき
親鸞聖人は文類と謙遜(?)されていますが、『大無量寿経』が釈尊の心底説かれたかった教えであることを、説かれるお釈迦様のご様子やお側に仕えていた阿難とのやり取りを記述している経論を引用されて示しておられ、親鸞聖人の他力本願の念仏の教えが本当の仏法であることを伝え遺したいと云う強い意思を感じます。

「他力本願の教えが本当の仏法だ」と云う表現を致しましたが、米沢先生のご表現をお借りするならば、仏法の卒業過程つまり最終過程だと思います。最後は他力本願の教えに依らなければ本当の救い、本当の安心は得られないのではないかと思います。そう云う意味では、禅も唯識も仏法の入門課程だと思います。しかし、入門課程だから易しい課程だとか、すっ飛ばしてよい課程だと云うことではなく、仏法を求める者ならば誰でもが通らねばならない大切な課程だと私は思います。むしろ、入門課程を経ずしていきなり他力本願の教えに触れてしまうことは本当の他力本願の教えに出遇えない可能性もあるのではないかと思われます。

親鸞聖人(或いはご師匠の法然上人)が、これほどまでに他力本願の教えに固い信を得られているのは、比叡山での20年間(法然上人の場合は30余年間)のご修行と云う遠回り、即ち入門課程を経られたからではないかと思っております。
仏法は縁を説きますから、いきなり念仏の教えに触れる場合もございますが、念仏一直線ではなく、むしろ疑う心を抑え込まず、徹底して疑い抜き、真実の教えを求める心を貫き通すことが、本当の念仏の教え、本当の仏法に出遇う近道ではないかと私は考察しているところであります。

合掌ー帰命尽十方無碍光如来


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No.998  2010.04.15
仏と私

漢字の仏と私は読み間違うくらい似ていますが、仏法的に考えて見ると、仏に手足を付けたのが私だなと昨日ウォーキングしながら考えたことです。
私はウォーキングしながら色々なことが頭に浮かびます。研究開発の仕事のことが大半を占めると言えば格好良いのですが、これは生きる為のソロバン勘定の延長線上のことですから大したことではありません(これもウォーキング中に自問自答したことです)。そして、木曜コラムの題材を思いめぐらす関係上、仏法のこともソロバン勘定と同じ位に浮かんで来ます。

昨日は、私と仏法の関係に付いて考えました。皆様の場合、殆どの方には仏法を求められる動機があるのではないかと思っているのですが、私の場合は物ごころついた時には仏法の中に居ましたので、仏法に出遇えた感動を覚えたことが無いのはそのためかと考えたりしました。そしてまた、始から親鸞聖人の教えが仏法でしたから、親鸞聖人が20年に亘る聖道門のご修行を経て他力本願の念仏に遇われて回心されると云うようなチャンスが無いのかと思ったりしました。

私が最初に接したのが親鸞聖人の教えだったと云うのは、それは母が、否、元はと言えば祖父が念仏者だったからです(祖父は石膏鉱山業を営む経営者でしたが、会社にお坊さんを呼んで社員さん達と共に説教を聴く様な仏法者だったようです)。
実は、今日4月15日は私の長姉(ちょうし)公子(きみこ)の命日です。公子は、昭和12年4月15日、小学1年生に入学して1週間後に亡くなりました。母が31歳の時ですが、公子の下には次女と三女が居たはずですのに、母は田舎からお手伝いさんを呼び寄せて、自分は教師として勤めに出ていました。そう云う無理なことをしていた罰が当たったと大いに反省し、多分、心の安定を求めて、祖父の信仰していた仏法を思い出して拠り所を求めてお寺参り(聞法)に励んだそうです。

母からは聞法に依って「雪道を真っ直ぐ歩いていても、足跡を振り返って見ると、ジグザグ曲がっている。人生も同じで、自分では正しい生活をしていると思っているが、間違っていることに気付かなければならない」と教えられたと聞いたことがあります。母は長姉公子が自分を仏法に導いてくれた善智識であったと申していましたが、すなわち私も長姉公子が仏法との縁を開いてくれ、こうして無相庵コラムを書いているのだと思うことであります。

振り返ってみますと私にとっての仏法は、若い時には「社会的地位も得て立派な人間と言われるために必要なもの」でした。そして、だんだん人生の荒波に揉まれるようになってからは「苦難を平気で乗り越えられるために必要なもの」になり、死がそれ程遠くない老年を迎えてからの当初は「平気で死んでいけるために必要なもの」、そして今では「死を目前にした時、この世に別れることは名残惜しく思うだろうけれど、人間に生まれて良かったと思い、感謝しつつ死んでいくのに必要なもの」と考えるようになっております。

そして、今日の標題にありますように、私と云う人間は仏に手足がついたもので、もとは仏であります。しかし、人間として生まれたからには、人間にしか出来ないことをして死ぬまで生きたいと思います。仏とは、仏様と言って崇め奉る有り難い仏像のような存在ではなく、この世(宇宙)を動かす『働きそのもの』であります。私は一切のものに生かされている存在でありますが、一切のものも私も『働きそのもの』が偶々私たち人間の目に依って感覚されるだけのものであります。私は偶々人間と云う形として現れている『働きそのもの』でありますから、その人間にしか出来ないこと、つまり他の動物に出来ないこと、例えば、感謝の心を表すとか、他の役に立って喜んで貰うとか、宇宙に付いて考えるとか、地球を大切にするとか、人類全体の事を考えるとか、単に己の欲望を満足させるだけのために生きるのではなく、人間として生き、人間として死んで行きたいと思う今日此の頃であります。

親鸞聖人も、仏とは『働きそのもの』に思い至られたから、〝働きそのものが宇宙全体に行き渡っていることが分かりました〟と云う意味の『帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)』と云う名号を壁に掲げられて、お念仏されたのではないかと思います。

合掌ー帰命尽十方無碍光如来


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No.997  2010.04.12
教行信証を披く-教巻―8

まえがき
歎異抄からイメージする親鸞聖人は弟子に優しい慈悲溢れるお師匠さんと云う親しみ易く慕わしいものでありますが、この自ら執筆された『教行信証』からイメージする親鸞聖人は仏教研究者或いは学僧と云う雰囲気を感じさせます。つまり、他力本願の念仏の教えがお釈迦様の仏法そのものであることを異なる漢訳経典類を引用して証明しようとする姿勢に、私は理詰めの研究者魂を感じるからです。 漢訳経典の大無量寿経、無量寿如来会、平等覚経は、多分インドで編集された一冊の梵語経典を時代が異なる中国の僧侶達に依って訳出されたものだと思いますので、これら経典を並べて引用することにあまり意味があるとは思えません。もしかしたらそう云う史実を親鸞聖人はご存じなかったのかも知れません(私の知識不足かも知れませんが・・・)。 いずれにしましても、客観的な事実を根拠にして、師匠法然上人の他力本願の念仏が仏法の正統な教えであることを主張しようと云う親鸞聖人の姿勢に、親鸞聖人の人となりの一面を感じる次第であります。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。唯然大聖、我心念言。今日世尊、住奇特法。今日世雄、住仏所住。今日世眼、住導師行。今日世英、住最勝道。今日天尊、行如来徳、去・来・現仏、仏仏相念。得無今念諸仏邪。何故威神光光乃爾。於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪、自以慧見問威顔乎。阿難曰仏。無有諸天来教我者、自以所見問斯義耳。仏言。善哉阿難、所問甚快。発深智慧、真妙弁才、真妙愍念衆生、問斯慧義。如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教、欲拯群萠恵以真実之利。無量億劫難難見、猶霊瑞華時時乃出。今所問者、多所饒益霊瑞華、開化一切諸天人民。阿難当知、如来正覚、其智難量、多所導御慧見無碍無能遏絶。 無量寿如来会言。阿難曰仏言、世尊、我見如来光瑞希有故発斯念、非因天等。仏告阿難。善哉善哉、汝今快問。善能観察微妙弁才、能問如来如是之義。汝為一切如来・応・正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間、故問斯義。又為哀愍利楽諸有情故、能問如来如是之義。
平等覚経言仏告阿難。如世間有優曇鉢樹但有実無有華、天下有仏、及華出耳。世間有仏、甚難得値。今我作仏、若有大徳、聡明善心、縁知仏、若不忘在仏辺侍仏也。若今所問、普聴諦聴。

● 和文化(読み方)
『平等覚経』に言く。仏、阿難に告げたまわく。世間に優曇鉢樹(うどんばじゅ)有り、但だ実(み)有りて華(はな)有ること無し、天下に仏有(ましま)す、乃(ない)し華の出(い)づるが如くならくのみ。世間に仏有(ましま)せども、甚だ得ること難し。今、我、仏に作(な)りて天下に出でたり。若し大徳有って聡明(そうみょう)善心(ぜんしん)にして、仏意を知るに依って、若し忘れずば、仏辺に在って仏に侍(つか)えたもうなり。若し問えるところ普く聴き、諦らかに聴けと。

● 語句の意味
平等覚経ー『大無量寿経』の異訳で後漢の僧が訳したもの。優曇鉢樹ー優曇華の花が咲く樹。

● 現代訳(本願寺出版の現代語版より)
『平等覚経』に説かれている。 「釈尊が阿難に仰せになった。<世間にある優曇華鉢樹には、ただ実だけがあって花は無いが、この世に仏が現れることは、その優曇鉢樹に花が咲くほどまれなことである。たとえ世間に仏がおられても、出会うことはきわめて難しい。今、わたしは仏となってこの世に現れた。阿難よ、そなたはすぐれた徳があり、聡明で善い心をそなえ、あらかじめ仏のお心を知って忘れず、いつも仏のそばに仕えているのである。そなたが今尋ねたことについて説くから、よく聞くがよい。>と。」

● あとがき
3000年に一度しか咲かない優曇華の花を、如来がこの世に現れる確率が極めて小さい喩えとして引用されますが、仏教ではもう一つ 私たちが仏法に出遇えるのが極めて希であると云う喩えに『盲亀の浮木(もうきのふぼく)』と云うお話があります。これは「盲目の亀が大海の中にすんでいて百年に一度だけ水面に浮かび上がり、水面にただよっている一本の木の穴に入ろうとする」という寓話であり、このことから、出会うのが容易でないこと、容易になしがたいことのたとえや、また、めったにない幸運にめぐり会うたとえに使われますが、『阿含(あごん)経』『法華(ほけ)経』にある寓話だそうであります。 実際、私たちの周りに仏法を生きる糧にされている人に出遭うことは殆ど無いのではないでしょうか。私自身の65年間の社会生活の中でも、仏法に関わっている人に出会ったことは一人としてございませんでした。 仏法に関心の無い人にすれば、仏法は人生の役に立つものではないのでしょうが、私にすれば、仏法無くして人生は無い、これからの人生も考えられないと云う程大切なものであります。そう思えること自体、遇い難いものに遇えたのだと喜んでいるところであります。

合掌


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No.996  2010.04.08
お釈迦様の眼(仏の眼)

今日は、花祭りの日(お釈迦様のお生まれになった日)ですが、キリスト様のお誕生日を祝うクリスマスとの差は歴然として、一般の人々の中で花祭りの日をご存知の方は皆無に等しいと言えるかも知れません。多分、仏教=死と云うイメージが定着してしまっているからなのでしょう。
大乗仏教の華が唯一開いた日本であることを思う時、何とかしなければと思う次第であります。

さて、青色青光ブログに『雀の母さん』と云う〝金子みすず〟と云う26歳と云う若さで亡くなられた方の詩の紹介と感想が綴られています。このブログの作者(浄土真宗本願寺派明教寺ご住職、〝不死川浄〟をハンドルネームにされています)は、この詩の言葉に〝頭をガツーンと殴られたような衝撃〟を受けたと言われているのですが、何に衝撃を受けられたのか私には分かりかねましたので考察を重ねました。皆様は如何でしょうか。

青色青光ブログからの転載―
昨日、大丸心斎橋店へ金子みすず展に行ってきました。最終日だったので、たくさんの人でした。金子みすずさんは、私の郷土の人で、高校の先輩です。しかし、20年前までは名前も知りませんでした。矢崎節夫氏が発掘され出版されたおかげで知るようになりました。みすずさんのまなざしは、仏さまのまなざしのようです。あらゆるものに優しいまなざしを注いでいます。多くの詩に感動しましたが、私が一番印象に残っている詩は「雀のかあさん」です。「子供が小雀をつかまえた。その子のかあさん笑ってた。雀の母さんそれみてた。お屋根で鳴かずにそれみてた。」最後の「お屋根で鳴かずにそれみてた」という言葉に出遭った時、頭をガツーンと殴られたような衝撃を覚えました。本当に悲しい時は声も出ないのです。雀の母さんはどんなに悲しかったことでしょう。
―転載終わり

金子みすずさん(1903~1930年)は、浄土真宗界において近代の妙好人と言われている童謡詩人です。私もお名前は何度かお聞きしたことはありましたが、正直なところ、詳しいことは存じ上げておりませんでした。
金子みすずさんの事は、また別途勉強したいと思いますが、「雀の母さん」に表れている〝仏様のまなざし〟とはどう云うまなざしなのか、そして、不死川浄氏は何に衝撃を受けられたのかを考察してみました。

先ずは一回読んで直ぐに、「子供は仕方無いにしても、ひどい母さんも居るなぁー」と思いました。そしてまた、「こんな母さんに育てられた子はどうなるのか・・・」と心配しました。しかし、正直なところ、私は不死川浄氏の受けた衝撃までは受けませんでした。

しかしその後この詩が読まれた情景を思い浮かべながら考えているうちに、不死川浄氏が受けられたであろう衝撃を感知したように思いました。
それは、金子みすずさんが、どのような気持でこの詩を作ったかが分かったからでした。金子みすずさんはその子雀をつかまえた子の母親に自分を重ね、母さん雀を仏様の眼として詠った詩であることに気が付いたからです。
不死川浄氏はそれに気付かなかった自分の無慚無愧振りに衝撃を受けたのではないかと推察致しました。そして私も、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫を他人事にしている自分に衝撃を受けた次第でした。

私たちは、自分の手で鳥や魚、牛や豚を殺しはしませんが、食卓でそれらの肉を美味しい美味しいと笑いながら食べています。そして、命の尊さを叫び、金子みすずさんの詩に詠まれたお母さんをヒドイお母さんだと非難してしまいます。

そう云う私たちを観て悲しみの涙を流して居られる仏様の眼を説き聞かしてくれるのが、親鸞聖人の他力本願の教えでありました。 お釈迦様は、木の小枝の上で小鳥が虫を啄(つい)ばむ情景を見られて無常を感じて出家を思い立たれたと云う逸話が伝えられています。金子みすずさんの眼も仏様のまなざしそのものだったことに漸く気付いた次第でありました。

合掌

追記
一般の方々に誤解を招くかも知れませんので付け加えますが、仏法は殺生を禁止している訳ではありません。勿論、殺生を勧めるのでもありませんが、少なくとも親鸞聖人の仏法では、他の命を犠牲にして生きるしかない私のこの命の真実を自覚し、自分を生かすために犠牲になっている無数の命に思いを廻らし、感謝しつつ、人間としての命を全うしようと説く事を知って頂きたいと思います。


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No.995  2010.04.05
教行信証を披く-教巻―7

まえがき
親鸞聖人は、この『教行信証』の教巻で、『大無量寿経』を説くことがお釈迦様の〝出世の本懐(この世に生まれた本当の目的)〟だったことを、お釈迦様が生まれられた当時のインドで著された浄土経典を中国の僧達が漢訳した三つの経典(大無量寿経、無量寿如来会、平等覚経)を引用して示されて居られます。 このことから親鸞聖人の論理的思考される〝人となり〟が伺い知れると私は思っております。そう云う親鸞聖人の姿勢から鑑みますと、その後蓮如上人などに依って組織化されて来た浄土真宗教団が辿ってきた道は、親鸞聖人が思って居られたであろう方向からは若干隔たりがあるのではないかと思われます。 つまり、私は歎異抄の第二章に親鸞聖人のお言葉として紹介されている「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」から、「ただ念仏して」と云う部分だけを切り取って、「念仏を称えるだけで救われる」と一般庶民に布教して来たことが今日の浄土真宗が親鸞聖人のお心、そしてお釈迦様の〝出世の本懐〟から少々外れさせて来ているのではないかと推察しております。

●教巻の原文
何以得知出世大事。 大無量寿経言。今日世尊、諸根悦予、姿色清浄、光顔巍巍、如明鏡来淨影暢表裏威容顕曜、超絶無量。未曽瞻覩殊妙如今。唯然大聖、我心念言。今日世尊、住奇特法。今日世雄、住仏所住。今日世眼、住導師行。今日世英、住最勝道。今日天尊、行如来徳、去・来・現仏、仏仏相念。得無今念諸仏邪。何故威神光光乃爾。於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪、自以慧見問威顔乎。阿難曰仏。無有諸天来教我者、自以所見問斯義耳。仏言。善哉阿難、所問甚快。発深智慧、真妙弁才、真妙愍念衆生、問斯慧義。如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教、欲拯群萠恵以真実之利。無量億劫難難見、猶霊瑞華時時乃出。今所問者、多所饒益霊瑞華、開化一切諸天人民。阿難当知、如来正覚、其智難量、多所導御慧見無碍無能遏絶。
無量寿如来会言。阿難曰仏言、世尊、我見如来光瑞希有故発斯念、非因天等。仏告阿難。善哉善哉、汝今快問。善能観察微妙弁才、能問如来如是之義。汝為一切如来・応・正等覚及安住大悲利益群生。如優曇華希有大士出現世間、故問斯義。又為哀愍利楽諸有情故、能問如来如是之義。

● 和文化(読み方)
無量寿如来会(むりょうじゅにょらいえ)に言(いわ)く。阿難、仏に曰(もう)して言(もう)さく。世尊、我、如来の光瑞(こうずい)希有なるを見たてまつるが故に斯(こ)の念を発(おこ)せり、天等に因(よ)るに非(あら)ずと。仏、阿難に告げたまわく。善き哉(かな)、善く哉、汝、今、快く問えり。善く微妙の弁才を観察して、能(よ)く如来に如是(にょぜ)の義を問いたてまつれり、汝、一切如来・応・正等覚及び大悲に安住して群生を利益せんが為に、優曇華の希有なるが如くして、大士(だいし)世間に出現したまえり。故に、斯の義を問いたてまつる。又、諸(もろもろ)の有情を哀愍し利益せんが為の故に、能く如来に如是の義を問いたてまつれりと。

● 語句の意味
無量寿如来会ー『大無量寿経』の異訳で、唐の菩提流志が訳したもの。応ー如来のこと人びとの尊敬と供養を受けるにふさらしいものの意。正等覚ー正偏知、等正覚ともいい、如来は平等の真理を悟っていられるから正等覚という。大士ー菩薩のこと。ここは菩薩道を完成された釈尊のこと。

● 現代訳(本願寺出版の現代語版より)
『如来会』に説かれている。 「阿難が申し上げた。〝世尊、わたしは世尊のたぐい稀な輝かしいお姿を拝見して、このように思ったのです。決して、神々から教えられてお尋ねしたのではありません〟 釈尊は阿難に仰せになった。〝よろしい、そなたは今まことによい質問をした。如来のすぐれた弁舌の智慧をよく観察して、このことについて尋ねたのである。すべての仏がたは大いなる慈悲の心から人々を救うために世に現れるのであり、それは優曇華が咲くほど極めて稀なことである。今、わたしが仏としてこの世に現れた。そこで、そなたはこのことを尋ねたのである。また、あらゆる人々を哀れんで、恵みと安らぎを与えるために、このことについて尋ねたのである。〟」

● あとがき
親鸞聖人は「牛盗人と言われても後世者、念仏者と言われるな」(改邪鈔)と言っておられるそうですので、親鸞聖人は、「念仏さえ称えておけばよい」と云う立場には無かったのではないかと推察しております。 親鸞聖人がもし生き返られて、現在の浄土真宗の教えの有り方を見られましたら、今こそ『歎異抄』を書き著すべき時だとして、泣く泣くパソコンのキーを叩かれるのではないかと思っている次第であります。

合掌


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No.994  2010.04.01
正師を得ざれば学ばざるに如かず

「正師を得ざれば学ばざるに如かず」とは道元禅師のお言葉で、「正しい師匠を得ることができなかったらむしろ学ぶな!」と云う意味であります。青山俊董尼がよく引用される道元禅師のお教えでもありますが、『どんないい材料でも、腕の悪い大工に出会ったら台無しになってしまう。一方、腕の良い大工に出会うことができたら、材料が節(ふし)だらけだったり、ひん曲がっていても、その節を生かし、曲がりを生かしてくれる。そのような正しい師匠を選ぶべきである。』とも説かれています。

仏法に限らず、何の道におきましても、良い師、正しい師に付きたいものでありますが、学問、スポーツ、芸術の道での師を選ぶ場合には目に見える判断基準がありそうでございますが、これから入門しようとする者には見分けられないと思われる仏法における正しい師はどのようにして見分けたらよいのでしょうか。仏法を標榜する怪しげな宗教団体も数多くあり、知らないままに入信したばかりに、殺人事件、集団自決事件に巻き込まれることもあり、正師の見極めは人生を左右する大切なテーマであります。

佐藤俊明氏のちょっといい話』と云うサイトには、「自分自身が仏だと名乗る教祖」や「自分の利のみに走り、他人の利を考えないリーダー」を正師として選んではいけない例として説明されています。

私はお蔭さまで、山田無文老師、柴山全慶老師、井上善右衛門先生、米沢秀雄先生、青山俊董尼、西川玄苔師と、多くの正師にめぐり会うことが出来ました。これらの先生方に共通しますのは、夫々にまた立派な正師をお持ちだと云うことではないかと思います(そして、またその師の師を辿って参りますと、お釈迦様に行き着くということではないかと思います)。 井上善右衛門先生が、「正師を持っている人は、常に仰ぎ見る存在が目の前に在り、自分は未だ未だ至らない、これで良しとはならない」と仰っておられました(井上善右衛門先生は白井成允先生を師とされ、白井先生は島地大等師を師と仰がれておられたそうであります)。つまり、正師とは、正師然としない、正師の匂いがしない努力の人を云うのではないかと思います。

それで思い出しましたが、「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」と云う古来からの言葉があります。そして、禅門で「禅の禅臭きは禅に非ず」と言い換えられています。私の出会った先生方には不思議と仏法臭さが無く、「仏法の仏法臭きは真の仏法に非ず」とも申せましょう。仏法の匂いが鼻につく師匠は正師ではないと思います。

昔、私の家に泊まられた仏法を説く先生が食事の前に礼拝の言葉をもっともらしく唱えられたことがございましたが、仏法臭さに興醒めした経験がございます。また逆に、ある有名な茶道の先生がお越しになると云うことで、ある迎える側のお家の方が緊張してお茶を出したところ、その先生は、一般の人と全く変わらない様子でお茶をガブ飲みしたと云う話をお聞きしたことがあります。「茶の茶の道臭きは茶の道に非ず」と云うことでありましょう。

仏法臭い師には近づかない方がよいと思われます。


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No.993  2010.03.29
教行信証を披く-教巻―6

まえがき
この教巻に引用された大無量寿経の一部分は、親鸞聖人がお釈迦様がこの世に生まれ出られた本懐が、私たち凡夫を救うためであることを釈尊ご自身が宣言されている場面だと考えられたからであります。 ここに親鸞聖人のご性格が窺われるのではないかと思われます。つまり、法然上人をお師匠として他力本願の教えに帰依されたのでありますが、根拠無く信じるのではなく、信じるに値する根拠を求められ、またそれを以って他力本願の教えが、後代の私たちにも信じるに足るお釈迦様直々の教えであることを示されようとされたのではないかと思います。そう云う親鸞聖人のお心に接した思いが致しまして、難しい『教行信証』ではありますが、親鸞聖人の人となりに接しられるご著書であると思い、勉強し始めてよかったとも思う次第であります。

●教巻の原文
於是世尊告阿難曰。諸天教汝来問仏邪、自以慧見問威顔乎。阿難曰仏。無有諸天来教我者、自以所見問斯義耳。仏言。善哉阿難、所問甚快。発深智慧、真妙弁才、真妙愍念衆生、問斯慧義。如来以無蓋大悲矜哀三界。所以出興於世。光闡道教、欲拯群萠恵以真実之利。無量億劫難難見、猶霊瑞華時時乃出。今所問者、多所饒益霊瑞華、開化一切諸天人民。阿難当知、如来正覚、其智難量、多所導御慧見無碍無能遏絶。

● 和文化(読み方)
如来、無蓋の大悲を以て三界(さんがい)を矜哀(こうあい)したまふ。世に出興する所以(ゆえ)は、道教を光闡(こうせん)して、群萠を拯(すく)ひ、恵むに、真実の利を以てせむと欲(おぼ)してなり。無量劫に値(もうあ)ひ難く、見たてまつり難きこと、霊瑞華(れいずいげ)の時あて時に乃し出づるがごとし。今問える所の者は、饒益(にょうやく)する所多し、一切諸天人民を開化す。阿難、当(まさ)に知るべし。如来正覚は、其の智量り難くして、導御(どうご)したまう所多し。慧見(えけん)無碍にして能く遏絶(あつぜつ)すること無しと。

● 語句の意味
無蓋の大悲ーどんなものにもおおわれることのない仏の慈悲を云う。三界ー迷いの三世界(欲界、色界、無色界)をいい、①欲界とは欲のために生活を苦しむ世界をいい、②色界とは欲にとらわれないで清らか物質に依って生活している世界をいい、③無色界とは物質にとらわれない世界を云う。霊瑞華ー優曇華(うどんげ)のことで、三千年に一度だけ開くといわれる花。仏あるいは転輪王が出世するときに咲くといわれている。稀なことの起こるたとえとされるもの。

● 現代訳(本願寺出版の現代語版より)
如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになられるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益(りやく)を恵みたいとお考えになられるからである。このような仏のお出ましに会うことは、はかり知れない長い時を経てもなかなか難しいのであって、ちょうど優曇華(うどんげ)の咲くことが極めて稀れであるようなものである。だから、今そなたの問いは大きな利益をもたらすもので、すべての神々や人々をみな真実の道に入らせることが出来るのである。阿難よ、知るがよい。如来の覚りは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実に自在であり、何ものにもさまたげられない。

● あとがき
仏法に出遇うことは、優曇華の花が咲くことが極めて稀である位に稀れなことであると云う表現がありました。実際、今の現代社会では、新聞テレビで仏法に関連する情報に接することは殆どありませんし、有ったとしましても、一般の人々は聞き流し、見流しして、仏法そのものに接すること(法話を聴きに行くなど)は先ず有り得ないことではないかと思われます。 こうして、無相庵のホームページを訪ねられて、ここまで読み進められた方は、まさしく優曇華の花の咲くことに出遇われた位に稀なお方ではないかと尊く思います。 私たちは人生における幸せを求めているわけでありますが、私はこの仏法に出遇ったことそのものが極めて稀な幸せにめぐり会えたと思うべきではないかと思います。そして何が不幸かと言えば、人間として生まれながら、欲望の満足のみを追い求め、結局は空しく人生を終えることではないかと思うことであります。

合掌―な・む・あ・み・だ・ぶ・つ


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No.992  2010.03.25
日常生活における仏法の応用問題

「仏法を聴くと腹が立たなくなる」と云うことはありません。むしろ、「仏法を聴くと腹は立つものだと云うことが分かる」と言われています。

腹が立つのは自我があるから、自分可愛さがあるからだと仏法は説きますが、では、「腹が立っても、それは自我から来たものだからじっと我慢せよ」と云うことでは不親切ではないかと思います。以下の応用問題はあるお寺のご住職様(世間ではご院さんとも云います)の法話から引用したものでありますが、腹が立ったらどうすればよいのかを考察してみたいと思います。

法話からの引用―
あるお宅に月参りにうかがいまして、お勤めが終わりましたら、待ち構えていたように、そこの奥さんが、おっしゃるんです。「ご院さん、私、腹が立って、腹が立って、ちょっと聞いてもらえますか」と。それで、お話を聞きましたら、こういうことでした。

 五歳になる外孫さんの七五三の御祝いに、子供用の着物を新調して送ってやった。しばらくして、七五三の写真を送ってきたけれど、その着物を着ている写真がなかった。お孫さんは、洋服を着ていたんですね。それでね、きっと嫁さんが着せなかったんやと、腹が立って、電話をかけたんだそうです。

 で、こうおっしゃるんです。「そしたらね、ご院さん。子供が着たがらなかったんで洋服にしたて、言いよりますね。そんなアホなことありますかいな。五歳の子供が、そんなこと言いますか。あれは嫁が着せなんだんですわ。
 これまで、いろんなもん買うて送ってやったんですけど、いっぺんもええ顔したことないんですね。何が気に入らんのや言うてやったら、息子が電話に出てきましてな、そんな言うんやったら、何にもしてもらわんでもええて、言いますんや。親の心、子知らずや。腹立ちますやろ、ご院さん。

 息子は、あんな子やなかったんですわ。結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やったんです。あんななったんは、嫁のせいですわ。腹立ってしょうがないんで、いっかい聞いてもらお思いまして」と。まあ、こういう話でした。いかがです。皆さんとは関係ない話ですか。

 まあ、それはともかく、それでね、「いや、奥さん、気持ちは分からんでもないんですけど、奥さんは、仏法を聞いてこられたんやから、腹が立って仕方がないというときには、何で腹が立ったんやろと、ちょっと考えてみるということが大事でないですかね」と申しましたら、その奥さん、ちょっと首をひねってこうおっしゃった。「腹が立ったんは……嫁が悪いからですわ」と。

 「目の中に入れても痛くないほど可愛い孫を、腹を痛めて産んでくれた嫁のことが、死ぬほど憎い」って、珍しくもない話ですが、自分が見えないというのは、実に難儀ですね。

 私たちは、我が身大事なエゴに支配されています。ですから、何でも自分の思い通りにしたいし、自分の都合が一番大事。「自分は偉い、自分は正しい、自分は間違っていない」と、自分が大事で仕方がない。何があっても、自分は悪くない、悪いのは相手だということになる。仏法を聞いていないと、そんな自分が見えません。仏法を聞いて、はじめて見えてくる。  「結婚するまでは、よう言うこと聞くええ子やった」と言いますが、「よい子」って、どんな子ですかね。親の言うことを聞き、親を大切にし、親を喜ばせ、親の世間体がよくなるような、勉強のできる、おとなしい、親にとって「都合のよい子」ではないですか。  「いろんなもん買うて送ってやった」のに、いい顔をしないので腹が立つというのもね、自分がしてやったことを相手が喜ばないのが、面白くないということではないですか。

 もう、お分かりでしょう。「買ってやった、送ってやった」というのはね、相手を喜ばせたいからではなくて、自分が喜びたいからしたことですよ。腹が立つというのは、つまりは、相手が自分の思い通りにならないので、気に入らないということです。  私たちは、悩むことや苦しむことがあると、その悩みや苦しみの原因は、みんな自分の外にあると思いがちですが、そうではないのですね。原因は、私たちの内にあるのです。

 私たちのこころはエゴに支配されているので、何でも自分の思い通りにしたいのです。ですが、そうは自分の思い通りにはなりませんからね、それで、腹が立って、苦しくて仕方がないということになるのです。
 私たちの苦しみの原因は、こころをエゴに支配されているところにある。仏法は、そのことを教えているんです。その「こころがエゴに支配されている」という教えを、自分のこととして聞く。それが、自分を仏法の鏡に写すということなんですよ。  「自分のこととして聞く」。ここが大事なところですよ。「お姑さんに聞いてほしい話や」なんて他人事として聞いたり、「なるほど、そういう理屈か」なんて知識として聞いたりしたのでは、仏法を聞いたことにはなりません。仏法は、自分を聞く教えなんです。

―法話引用終わり

さて、皆さんはどう思われましたでしょうか。私の妻は、「私だって腹が立つと思う。でも、腹立ちまぎれに電話して、息子にもうこれから何もせんといてと言われたら、もう息子一家との付き合いが断絶になるから電話したんは不味い。5歳の子どもでも服の好き嫌いがあるから、本当にその孫が着なかった可能性もあるから私は我慢するけれど・・・でも、だいたい人それぞれに好き嫌いのある着物や服は送らないほうがいいんちゃう?お金がいいと思うわ」と申しました。

実際のところ、おばあちゃんから送って来た着物を着て写っていない七五三の記念写真をおばあちゃんに送ること自体信じられないのですが、おばあちゃんは腹が立ったとしても、「一体自分は何に腹が立っているのか。自分が送った着物を着ていないことに腹が立っているのか、それとも着物を着ていない写真を無神経に送って来たことに腹が立っているのか、もともと気に入らない嫁だから腹立っているのか・・・」と、自分の自我を見詰め、私が一番可愛い自分の感情を蔑(ないがし)ろにされていることに腹が立っていることが分かる頃、腹立ちは完全に収まり、電話する気もなくなり、関係断絶と云う自分にとっても不幸な結果にならなかったのではないかと思います。そして、自分の自我が見えてくると、相手の自我にも気付き、相手に気に入られる着物を送らなかった自分の非にも気付くのではないかと思われます。

本当に自分が可愛いならば、自分自身も相手も不幸な結果にならないように、短兵急(たんぺいきゅう、『にわかに、非常に急いで』)な腹立ち紛れの行動を起こさないようにするのが、この娑婆を上手に渡る知恵ではないかと思います。

この2、3日、民主党の生方副幹事長の解任そして解任撤回と云う何とも可笑しい政治劇が話題になっておりますが、これも真相は分かりませんが、双方共に自我を見詰めることなく、短兵急に事を為して、相手の自我に更に火を点けて燃え上がらせたと云うことだと思います。結局は双方共に評価を落とすことになっているのではないでしょうか。

腹が立ったら、自分の自我を見詰め、相手の自我にも思いを致し、時を置く。事を起すのは時を得てからと云うことにすれば、最悪の事態にはならないはずであります。

西川玄苔師の『老僧のねごと』の中に、次のお言葉がございます。

        本来
        自我というものは
        無い
        自我意識が
        あるのみだと
        気づけば
        ゆきづまりがなく
        なる

意識は意識すれば取り除けると云うことではないかと思います。瞬間的に自我意識から腹立ちが起きても、意識を働かせば、冷静さを取り戻せて、取り返しのつかないことをせずに済むと云うことではないかと思います。

私は、セッカチで、人一倍腹立ち易い性格です。最近、取引先が契約違反していることが第三者からの通報で分かり、やはり腹が立ちました。しかし、時を置いたお蔭で自然な形で付き合いを止められましたので、喧嘩別れの状態になるのは免れました。世間が狭くならなくて済んだと思っています。腹は立ちます。しかし、今後の取引一切停止と云う極端な結果には至らなかったと思っています。

腹は立ちます。でも、自分の自我と相手の自我を大切に取り扱い、自我意識と自我意識のぶつかりあいにならないように努力したいものであります。それが仏法で日常生活の応用問題を解く方法ではないかと思います。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.991  2010.03.22
仏法は物足りないものである

この連休、孫達の世話に明け暮れておりまして、勉強の時間が取れませんので【『教行信証』を披く】はお休みさせて頂きまして、西川玄苔師(法話コーナーでご紹介しております)のお言葉を紹介させて頂きます。

今年2月8日(月曜日)に、NHK教育テレビの『こころの時代』にご登場された西川玄苔師には映像ではございましたが実に8年振り位のご縁でございました。奥様を4年程介護されて後に見送られたことも初めて存じ上げた次第でございました。

大変ご無沙汰をしておりましたので、先日、ご挨拶方々京阪神では3月の旬の味であります『イカナゴの釘煮』をお送り申し上げましたところ、ご丁重なる礼状と共に、極最近(3月8日)中日出版社から出版された『老僧のねごと』と云うご著書をお送り下さいました。

独特の文字で記された『言の葉』は、仏法に関する折々の味わいを綴られたものでございます。 解説がございませんので、どのような思いを抱かれているのかは私などに窺う由もございませんが、私はこう受け取りましたと云うところの感想と共に、このコラムで時々ご紹介させて頂こうと思います。

今回ご紹介させて頂きますのは、下記のお言葉です(老僧のねごと 11ページ写真)。

        人間から見て
        張合いのないのが
        坐禅である
        人間から見て
        物足りないもので
        なければ仏法ではない

仏法は物足りないものだと云うことでございますが、一体どういうことでしょうか?私たちは物足りようとして、物足りようとして仏法を聞きかじっているのに、仏法は物足りないものだと・・・。 多分、この私のボンクラな頭で、この罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の頭で理解して納得出来る程低レベルなものが仏法ではないと云うことではないかと思います。

考えてみますと、私たちは分かろう分かろう、納得したい確実なものを掴みたいと思って法話を聴いたり、仏教書を読んだりしています。しかし、なかなか分かりませんし、これだと云うことに行き着きません。

仏法は頭で理解するものではない、また理解出来るものではない。もし、「分かった、これでよし」と思ったとしたら、それは本当の仏法ではないと云うことではないかと思われます(超能力が身に付くとか、特定の教祖を崇拝する教団とか、病気が治ると商売が繁盛するとかの現世利益を標榜する新興宗教等はその典型かと思われます)。

坐禅の方も、私が充実感や遣り甲斐を感じる坐禅だとしたら、それは何等かの自我が混じった心で坐っている坐禅だと云うことなのかも知れません。私が毎朝している5分間坐禅位では、その本当のお心を知ることは出来るはずがありませんが・・・。

合掌―お蔭さま

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