No.982  2010.02.18
幸せ力―その3

幸せ力―その2は、「『本願力』が『幸せ力』に転換したと言えるのではないかと思います。」で終わりました。『本願力』は、「私たちの幸せを切に願っている仏様のお働き」だと申してよいでしょう。「救われて欲しい、助かって欲しい」と云う仏様の願いの表れと申しても良いでしょう。助かるとはどう云うことかを端的に纏められた言葉をインターネットで見付けました。大阪の由緒ある明教寺(浄土真宗本願寺派)のご住職の下記のお言葉です。

『救われるとは、生きる自信が持てること。迷いが晴れること。苦しみを乗り越えること。悲しみが癒されること。私が私であってよかったと喜べること。当たり前ではなく、おかげさまといただけること。生きる人生の方向が決まること。どういう状況になっても、しっかりと生きていける拠りどころ(因)を得ること。生きる居場所が与えられること。』

このお言葉は無相庵が申します、「当たり前のことが当たり前ではなくお蔭さまと拝めるようになることだ。」とした『幸せ力』を、過不足なく且つ現代的に説明されたものだと感銘を受けました。では、そう云う心境になる為にはどうすればよいのかと云うことになりますと、「聞法を重ねるしかありません」、と前回の『幸せ力―その2』で申し上げました。 普通はこれで終わらねば、「斯くあるべし」と云う自力的な倫理・道徳論に陥ってしまいますので避けたいところでありますが、敢えて矛盾覚悟で私の考察したところを申し上げたいと思います。

私たちが生まれ立ての赤ちゃんの頃は、嬉しい時は声をあげて笑い、辛い時(赤ちゃんの時は、お腹が空いた時とか眠たい時や、おしっこをもらしたりして気持が悪くなった時位でしょうか・・・)には泣き叫んでおりました。辛い時にはお母さんが面倒を見てくれましたので、問題は解消していました。従って自分の思う通りにならない時には、意思表示すれば、何でも解決するものだと思うようになり、自我が芽生えました。成長するに従いエゴが段々強くなってきました。そして一方、生まれて初めて出遭う新鮮な発見に喜びを感じて笑っていましたが、それが何回も繰り返されると何でもが当たり前になって、段々心の底から喜べなくなってきました。

そうして大人になって、当たり前が喜べなくなり、エゴを満足させられない辛さ苦しさばかりが目立つようになり、幸せに感じることが殆どなくなって来たように思います。つまり、エゴの成長に依って、『幸せ力』を失い、『不幸せ力』が私たちの心の中で王座を占めるようになっているのだと思います。私たちから幸せ力を奪い取っている真犯人はエゴであります。 「自分を優先させたい」、「自分が一番大事で可愛い」、「自分さえ良ければよい」と云うエゴが『幸せ力』を押し込めてしまっているのだと思います。そして、不安、不満、不信に苦しんでいるのが私たちの現実のように思われます。

しかし、幼い時から無意識の中に育て上げて来たエゴは最早消し去ることは不可能であると云うのが、親鸞聖人の仏法の考え方であります。しかし、エゴが無くならないとしたら、私たちは永遠に救われないと云うことになりますが、逆説的にエゴがあるから救われると云うのが、親鸞聖人のお立場ではないかと思います。

親鸞聖人の教えを大切にされ、その心を沢山の詩に込められた竹部勝之進と云う方に次のような詩がございます。

        タスカッテミレバ
        タスカルコトモイラナカッタ
     ワタシハコノママデヨカッタ

これはエゴがなくならないままに救われた心を詠われているのだとお聞きしたことがございますが、私にはなかなか理解出来ませんでした。しかし、最近こう云うことではないかと思うようになりました。つまり、例えば私たちの日常生活において不満、不安、不信の心が芽生えた時や腹が立ったりした時に、直ぐにその解消や対策に乗り出さずに、「あっ、エゴの心が動いたな!」と自分のエゴを見付けて行くことではないかと。エゴを満足させることは、他人のエゴとぶつかり合うことでありますから、必ず苦しみになって帰って来ます。また、自分のエゴを消し去ろうという努力は尊いのでありますが、決して目的が達成されることの無い努力ですから、これまた苦しみになります。

ただ単に、「エゴの心が動いたなっ!」と我が心の中のエゴを再確認するだけでよいのだと思います。そうすると多分、四六時中、我が心の中のエゴに出遇うことになるのだろうと思います。「不平、不満、不安、不信、不足、腹立ちの心を感じたら、これは自分のどのようなエゴから生まれ出ているのかを考察する習慣を付ける事」に依って、エゴはそのエネルギーを失うに違いないと思います。そして、徐々にエゴの塊の自分が明確に認識され、やがて罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫の自分に目覚めしめられて、自然と頭が下がる時が来るのだと思います。

その時が確実に来るように、聞法を重ねることだと思う次第であります。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.981  2010.02.15
教行信証を披く-教巻―1

● まえがき
さて、いよいよ親鸞聖人が、私たちが安心して人生を渡り、安心して死んでいけるようになれる仏法の教えはこれしかないと確信された浄土門の教えを纏(まと)められた本論の勉強に入ります。 その前に、親鸞聖人が使われている『浄土真宗』と云う言葉は、現在仏教宗派として使われている『浄土真宗』ではないと云うことを知っていた上でお読み頂きたいと思います。また、親鸞聖人は飽くまでも法然上人を仏法のお師匠として仰がれ続けられたのであり、決してご自分が新しい宗派を新しく建てられたと云う立場を取られたのではなかったこともあらためてご認識頂きたいと思っております。

私は現在の本願寺教団、即ち東西本願寺を非難する立場にはありません。親鸞聖人の教えが鎌倉時代から現代の私たちまで伝えられたのは、親鸞聖人の子孫の方々や子孫を門主として教団を支えて来られた無数の方々のお蔭であると思っております。しかし、時代の流れ、時節が変遷して、組織であるが故に親鸞聖人の思いとは異なった有り方になっている面もあり、親鸞聖人の教え即ち現在の教団の教えではない部分があることも認識しておかねば親鸞聖人のご苦労が報われないのではないかと思っているのも確かでございます。

つまり、親鸞聖人はお葬式や法事の儀式でお経をあげられることはありませんでしたし、お寺をお持ちにもなりませんでした。また、仏壇も必要とはされていませんでしたし、儀式的なことと言えばただ、『帰命尽十方無碍光如来』と云う十字の名号を前に拝まれてお念仏を称えられていたとお聞きしているだけでございます。

私は親鸞聖人が死んでから後に自分の魂が浄土へ参ることを成仏とか浄土往生と言われていたのかどうかも今現在は確信を持って答えられません。多分そのようなことではないだろうとは思っておりますが、一切先入観を排除して、真っ白な頭でこの『教行信証』から学び取り、結論を得たいと考えております。

●教巻の原文
謹按浄土真宗有二種廻向。一者往相、二者還相。就往相廻向、有真実教行信証。

● 和文化(読み方)
謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の廻向について、真実の教行信証有り。

● 語句の意味
二種の廻向―廻向とはめぐらしひるがえして、さしむけることを言う。一般には自分が行った善をめぐらして、人びとにさしむけることを言うが、親鸞聖人はそのような自力の廻向に対して他力の廻向を明かされた。すなわち、衆生が浄土に往生する往相も、往生して仏になり、衆生を救うためにこの世にかえって利他教化をする還相も、弥陀本願の他力廻向によってなさしめられるということで、これを往相・還相の二種の廻向という。
教行信証―十方の諸仏如来が阿弥陀仏の徳を讃嘆されるのが「教」であり、その讃嘆される名号が「行」であり、その名号を聞いて信ずる一念が「信」であり、それによって得られる覚りが「証」である。

● 無相庵の現代私訳(解説含む)
今一度静かに浄土の真実を顕した教えの肝要なところは何かつぶさに調べ直して見ると、如来より2種類の相が廻向されると云うところにある。その一つの廻向とは私が浄土に往生して悟りを開かせて貰う往相の廻向であり、もう一つは往生した浄土からこの世界に還って来て他の人びとを救うという還相の廻向である。そしてその往相の廻向については真実の教と行と信と証がある。

● あとがき
『廻向(えこう)』とも『回向(えこう)』とも申しますが、説明を聞きますと、「自分の善行の結果現れる良い報いを他の人に回してあげること」ではないかと受けられますが、何となくすっきりとは分かり難い言葉だと思います。おそらく、親鸞聖人のおっしゃりたいのは、浄土へ往生するのも、この世に還って来るのも、自分の力ではなく全ては阿弥陀如来(仏様)の本願力にお任せするだけであると云う「本願他力」に依る救いだと思われます。しかし、往相も還相も、浄土と云う概念がすっきり理解出来ておりませんので、「浄土へ往くこと」、「浄土から還って来ること」と説明されても頷けない訳であります。

多分私たちには、お浄土が私たちの感覚でその存在を捉えられるものではないけれども、でも、お浄土を信じられるようになるのだと思い、勉強して参りたいと思います。

合掌―なむあみだぶつ


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No.980  2010.02.11
幸せ力―その2

『今を幸せに感じることが出来なければ、永遠に幸せは得られないのではないか』と云うことで、前回のコラム『幸せ力―その1』は終りましたが、勿論、私たちが今を幸せだと感じる時もあるにはあります。例えば、気のおけない友達や家族と美味しいものを食べながら会話を楽しんだりしている時や、新しい家に住み始めた時、好きな異性と楽しいデートをしている時、趣味の時間を過ごしている時、好きなスポーツで汗している時などがそうでしょうか。でも、それは飽くまでも刹那瞬間的なものであり、私たちの心の奥底が求めている幸せではなさそうに思います。

そう致しますと私たちは今現在の幸せを感じることはなかなか無いと言うことになりますが、実は私たちは何かを失った時に、「あれが幸せと云うものだったのだなぁー」としみじみと思うことがあることに気付きます。実際、私も経験がありますが、大切な人を亡くしたり、健康を失ったり、住む家を失ったり、仕事を失ったりと、日常生活の中で当たり前と思っていたものを失った時に、「あの時幸せとは感じていなかったけれど、あの当たり前だと思っていたことが幸せと云うものだったんかなぁー」と思うのが私たちの現実ではないかと思います。

そうしますと、私たちは幸せと云うものを過去にしか認められない存在ということになりますが、過去に幸せを感じると云うことは、幸せとは感じていない平凡な繰り返しが続いているこの毎日の今現在そのものが幸せだと云うことになりはしないでしょうか。そして、毎日幸せを取り逃がしているのではないかと思うのです。私の妻が、前回のコラムを校正してくれた後に、「何でもない事が幸せなのだから、何でも無い平凡な繰り返しを幸せに思うことやね。〝まど・みちおさん〟も、“今現在を肯定出来て、まわりの全てに感謝できることが幸せだと思う”と言っておられたし・・・」と感想を述べてくれましたが、いつもの事がいつも通りに在る時間を尊く思い、幸せに思うことでしか私たちは幸せを感じることはないのだと思います。

ただ、「だから今を幸せに思いましょう!」と云うことでコラムを終われば、これは倫理道徳の話として終わってしまいます。これだけでは私たちを幸せにさせてくれる『幸せ力』にはならないと思います。「今を幸せに思おう」と自分に言い聞かせれば、確かに瞬間的には幸せに思えるような気が致しますが、それは決して持続する幸せではないのではないでしょうか。言い聞かせた幸せは虚構の幸せであります。
ここで親鸞聖人に学ぶ必要が出て参りました。親鸞聖人ならば、こう言われるのではないかと思います。
つまり、「今を幸せに思おうと頑張って見ても、なかなか幸せに思えないのも煩悩の所為なり」とお仰せになりましょう。そして、「無相庵、私もそうなのだよ」と・・・。『煩悩の所為』と云うよりも、『エゴの塊りだから』と言った方がよいでしょう。『自分中心の考え方でしか生きられないから』と言った方がよいでしよう。

私たちは、自分勝手に描いた幸せを幸せだと思い込んでいます。煩悩の満足を幸せだと思っていると言うべきかも知れません。そのエゴの塊りの自分に気付き、自分一人では生きられない、全てに亘って他の人のお蔭と、他の存在のお蔭で初めて今現在存在し得ている自己の真実に目覚めた時に、まど・みちおさんと同じ幸せを感じられるようになるのだと思います。 その時、幸せ力を得たと言うことになるのだと思います。その幸せ力は、考え方を変えた時に得られるのではなくて、聞法を重ねている中に自分の考え方を変えずには居られなくなる、つまり自分の力ではなく、果物が熟して木から自然の営みの力に依って落ちる時が来るように、私たちにも仏法の縁が熟して【親鸞聖人のお言葉をお借りますと、如来の本願力(ほんがんりき)が私に届いて】、自然に頭が下がる時が来るのだろうと思います。頭が下がれば、この世に有り難くないものは何も無いと言うことになり、『本願力』が『幸せ力』に転換したと言えるのではないかと思います。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.979  2010.02.07
教行信証を披く-総序―5

● まえがき
このコラムを書き始めようとした時に、メール着信のチェックが入りました。メールを開きますと法友からの有り難いお知らせでした。それは私が敬愛する西川玄苔師が出演されたNHK教育テレビの『こころの時代』の再放送(本日の午後2時から)があると云うお知らせです。最近は、『こころの時代』の放送時間帯が変わっており、見逃すことが多く、今回の西川玄苔師のものは本放送も見逃しており、再放送も見逃すところでした。A様本当に有り難うございました。

西川玄苔師は法話コーナーでも紹介させて頂いておりますように曹洞宗のお坊様ですが、甲斐和里子女史と白井成允先生とのご縁から親鸞聖人のお念仏にも出遇われて、お念仏を大事にされている禅僧でいらっしゃいます。また西川玄苔師は、仏教だけではなく神道にも通じて居られますから、正に天地宇宙の真理と共に生活されているとてもスケールの大きな、そして尚且つ私たちと同じように家庭生活を営まれて来られたお方ですから、本当に有り難いお坊様であります。

本日(2月8日)午後2時までにこのコラムを読まれた方々には是非番組を見て頂きたいと存じます。

●総序の原文
竊以、難思弘誓度難度海大船、無碍光明破無明闇恵日。然則、浄邦縁熟、調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃、権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆謗闡提。故知、円融至徳嘉号、転悪成徳正智、難信金剛信楽、除疑獲証真理也。爾者 凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。捨穢欣浄、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多、特仰如来発遣、必帰最勝直道、専奉斯行、唯崇斯信。噫、弘誓強縁多生叵値、真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也、此回覆蔽疑網、更復逕歴曠劫。誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

● 総序の和文化(読み方)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせい)、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち、浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ちょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機(じょうごうき)彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。これすなわち権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萠(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。故に知んぬ。円融至徳の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。爾(しか)れば凡小(ぼんしょう)修し易き真教、愚鈍往(ゆ)き易き捷径(しょうけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、是(こ)の徳海に如(し)く無し。穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)し、悪重く障多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専(もっぱ)ら斯(こ)の行に奉(つか)え、唯(た)だ斯の信を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信億劫にも獲叵(えがた)し。遇(たまたま)行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ。若しまた此のたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(ま)た曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なる哉(かな)、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。爰(ここ)に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃(せいばん)・月支(げっし)の聖典、東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇い難(がた)くして今遇うことを得たり。聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞く所を慶び、獲(う)る所を嘆ずるなりと。

● 語句の意味
愚禿釈の親鸞―愚禿とは愚かな“かむろ”と云う意味で、親鸞聖人が自ら選ばれた号である。これは聖人が流罪になられたとき、非僧非俗と云う意味で名乗られたもの。釈は仏教徒と云う意味で自分の名の上につけるもの。西蕃月支―西蕃は印度(インド)のこと。月支は西域地方にあった国のこと。。東夏日域―東夏は中国のことで夏は大と云う意味。日域は日の出る国ということで日本を指す。

●無相庵の現代私訳
それにしても、私の様な愚かで且つ非僧非俗の立場にある親鸞が、印度西域で生まれた様々な経典に巡り遇うことが出来、そして中国や日本の祖師方の経典の解説書にも出遇うことが出来、その上法然上人から直接教えを聞かせて頂くことが出来たことは実に有り難いことだと思う。そこで、阿弥陀如来・釈迦如来の恩徳への感謝の気持を込めて、ここに私が確信した浄土の真宗の教・行・信・証の教えをまとめて書き記しておきたいと思うのである。

● あとがき
今日の午後2時からのNHK教育テレビ番組『こころの時代』で久し振りに西川玄苔師にお会い出来ました。西川玄苔師は、髭を蓄えられ、また少しお歳を召されたように思いましたが、語られ始めましたら、いっぺんに昔の西川玄苔師そのものだと思われました。 見出しは『我(が)を照らされて』でございましたが、我(が)は自我の事であり、現代風に言えば『エゴ』のことであります。「エゴは決してなくならない」と断言されていましたし、「エゴがあるから有り難い」とも「エゴが無ければ仏様は必要ないことになる」とも申されていましたが、「エゴを無くすか、エゴを無くせないかが問題ではなく、エゴを自覚するか、エゴを自覚しないかが問われている」と仰って居られましたが、仏法の一番大切なところだと思います。 「エゴは無くならない」、「エゴが有り難い」とは、普通の禅僧では決して言えないお言葉だと思います。このお言葉は、坐禅に打ち込まれながら、家庭生活と宗教がなかなか一致しない自己の現実に真摯に向き合われ、白井成允先生とのご縁を通して親鸞聖人の念仏に出遇われた西川玄苔師ならではの重みのあるものであります。 自分の心の奥底に潜む『エゴ』を人間として史上最も深く深く掘り下げられたのが、今日も勉強している『教行信証』を遺された親鸞聖人であると申しても決して過言ではないと思います。

        浄土真宗に帰すれども
        真実の心はありがたし
        虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
        清浄(しょうじょう)の心もさらになし

これは最晩年に詠われた愚禿悲嘆述懐和讃の中の一首ですが、私たちが見過ごしているホンのちょっとしたエゴを仏様に照らされて知らされて居られる親鸞聖人ならではの和讃ではないかと思います。

合掌―なむあみだぶつ


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No.978  2010.02.04
幸せ力―その1

ここ数年、『・・・力』と云う題名の本が出版されます。『悩む力』『鈍感力』などが今思い当たります。今回はそれに真似て『幸せ力(しあわせりょく)』を題名に選び仏法的に考察してみたいと思いました。

この世に命を得た人で、幸せを願わない人は誰一人居ないと断言してもよいと思います。そしてそれも、心の根底にその願いを常に秘めつつ(無意識の中にも)生活していることも間違いないところだと思います。

しかし、不思議なことに、本当の幸せに行き着く人は希(まれ)ですし、第一「これが幸せと云うものだ」と定義し得ること自体出来ていないのではないかと思います。つまり、万人が認める『幸せ』の定義を未だ人類は為し得ていないと言ってもよいのではないでしょうか?否、実は今後もそれは為し得ないと云うのが今回のコラムの結論であります。

『幸せ力』とは、『幸せを感じる力』であります。 昨日は節分の日。数年前から『恵方巻き』とか云う巻き寿司が店先に並び始めましたが、今年はバレンタインチョコも目立たなくなる位に一段と派手な売り込み合戦が繰り広げられているように見受けました。これも、幸せを求める人の心理を利用した商売人の知恵でしょう。西南西の方向を向いて、太巻き寿司を頬張る人は年々多くなっているのでしょう。私は、あまりにも見え透いた幸せを求める行為に恥ずかしさを感じますので致しませんが、でも、そう云うことを素直に行動出来る人々を「幸せを求めているのだなぁー」と好ましく思っております。

私は今、技術開発に必死で取り組んでいます。最近毎朝目が覚めると頭には直ぐに技術開発のことが浮かびます。ウォーキング中も、殆どの時間、仕事のことばかりが浮かびます。我が心の根底にある想いを分析しますと、詰るところ金儲けです。何やかや申しましても、お金儲けが幸せに直結すると思っているのでしようね。お金が幸せそのものではないと言い聞かせながらも、やはり、お金が生活の基本だと云う想いが拭えていません。これは多分、公私共に(会社も個人的にも)大きな借金を抱えている私だからでは無く、今このコラムをお読みの読者さんにおかれましても同様ではないでしようか・・・。

勿論、人間は〝無いものねだり〟で、病気や介護で苦労している人に取りましては、『健康で元気に自由に動けることが幸せの第一条件!』と言われるに違いありませんし、離婚や嫁姑の人間関係問題で疲れ果てている人にとっては、お金も健康も大切だけど、人間関係が悪いと何にもならない。「良き人間関係があれば何でも乗り切れる」と主張されるに違いありません。

では、人間関係もよく、お金も十分あり、健康にも問題がなければ幸せかと云うと、それでも幸せではないと言う人も居ます。「生き甲斐が欲しい。打ち込める仕事が欲しい、一生楽しめる趣味が欲しい」と・・・。
では、これまで述べて来た全てが満たされたらそれで幸せかと云うと、どうでしょう?そう云う人は極々希でしようけれど、案外「何も問題が無いこと程つまらぬものは無い。多少の苦労や悩みがあってこそメリハリのある人生ではないか。」と云うことになりはしないでしようか。幸せを求める人間の貪欲さには限りがありませんが、一方、これが幸せと云うものも無いと言えるのではないでしょうか。
結局は、今を幸せに感じることが出来なければ、永遠に幸せは得られないのではないかと云うことで、『幸せ力』に付きましては次回に譲らせて頂きます。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.977  2010.02.01
教行信証を披く-総序―4

● まえがき
親鸞聖人が生きておられた鎌倉時代は、戦争や飢饉や大火事等が頻発し、一般庶民や小作農民が貧困・飢えに苦しむ時代でありました。そう云う世相を目の当たりにしながら、自分の力ではどうすることも出来ずに自問自答をされたようです。越後での流罪生活を終えられ、常陸の国(現在の茨城県)に向かわれる途中、庶民の生活苦を仏様に何とかして貰おうとされたのでしようか、阿弥陀経と云うお経を千回を目標にして読み始められたことがあったそうです(直ぐさま、これは自力に頼る行為だと反省されて中止されたそうですが・・・)。

今の日本の庶民の経済状況は鎌倉時代よりも格段に恵まれていると思いますが、格差はむしろ拡大しているのかも知れません。また人と人の心の繋がり具合は希薄で寂しいものになっているのかも知れません。統計が残っておりませんので分かりませんが、少なくとも自殺者の数は天文学的に増大してしまっているのではないでしようか。

宗教は、否、仏法は庶民のものだと思います。少なくとも親鸞聖人の仏法布教の対象は一般庶民であったことが冒頭の実話で窺えます。最近の報道で、築地本願寺のお坊さんグループが、自殺を少なくする活動をされていることを知りました。自殺を考えるまで思い悩む人々からのお便りを受付け、皆で考えて適切な返事をお返しすると云う活動だそうです。決して説得するとか説教するとかではなく、「そんな状況でよく頑張って来られましたね」と云う包み込むような共感し寄り添うような対応だそうです。番組の中でそう云う往復書簡を20回重ねられた末に立ち直られた方の紹介がありました。

私は浄土真宗の教団の有り方には今一つ納得出来ないで参りましたが、報道を知りまして、親鸞聖人のお心が鎌倉時代から遠く離れた現代の浄土真宗のお坊様の一部にでも受け継がれていることを知り、私は誇らしく思い、また嬉しくなりました。

私はこの難しい『教行信証』を一般の人々にも分かり易く、一緒に勉強したいと考えて始めさせて頂きました。その心を忘れずに頑張りたいと思います。今回から一つの試みとして、現代意訳を『無相庵の現代私訳』と模様替えし、仏法の言葉に馴染みの無い方にも理解出来ることを心掛けたいと思います。僧侶の方々、長年仏法に親しんでおられる方々には物足りなく、又私の解釈間違いもあると思いますが、ご容赦下さるようお願い申し上げます。

●総序の原文
竊以、難思弘誓度難度海大船、無碍光明破無明闇恵日。然則、浄邦縁熟、調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃、権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆謗闡提。故知、円融至徳嘉号、転悪成徳正智、難信金剛信楽、除疑獲証真理也。爾者 凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。捨穢欣浄、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多、特仰如来発遣、必帰最勝直道、専奉斯行、唯崇斯信。噫、弘誓強縁多生叵値、真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也、此回覆蔽疑網、更復逕歴曠劫。誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

● 総序の和文化(読み方)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせい)、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち、浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ちょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機(じょうごうき)彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。これすなわち権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萠(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。故に知んぬ。円融至徳の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。爾(しか)れば凡小(ぼんしょう)修し易き真教、愚鈍往(ゆ)き易き捷径(しょうけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、是(こ)の徳海に如(し)く無し。穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)し、悪重く障多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専(もっぱ)ら斯(こ)の行に奉(つか)え、唯(た)だ斯の信を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信億劫にも獲叵(えがた)し。遇(たまたま)行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ。若しまた此のたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(ま)た曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なる哉(かな)、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。爰(ここ)に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃(さいばん)・月支(げっし)の聖典、東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇い難(がた)くして今遇うことを得たり。聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞く所を慶び、獲(う)る所を嘆ずるなりと。

● 語句の意味
弘誓の強縁―阿弥陀如来の本願力の強いこと。多生―何回も生まれ変わり死に変わりすること。億劫―劫は梵語の劫波Kalpaのことで、長時と訳す。遠く―遠い過去からの。宿縁―因縁。疑網に覆蔽―次からつぎへと疑いの心が沸いて来る状態。曠劫を逕歴―果てしなく長い間繰り返すこと。摂取不捨の真言―念仏の行者を光明の中におさめとって捨てたまわないということ。必ず救うという本願の教えのこと。遅慮―疑いためらう。

●無相庵の現代私訳
それにしても、この他力本願の教えに私たちは滅多に遇えるものではなく、またたとえ遇えたにしても真実の信心はなかなか得られないものである。もしもお念仏を称えられる身となり、真実の信心を得られたとしたならば、それは遠い遠い過去からの有り難い無数の因縁に依るものだと慶ぼうではないか。もし折角この教えに出遇えても次から次へと疑いの心が湧いて来て信じるまでに至らなかったならば、無二のチャンスを逃したことになり、またまた果てしなく長い間迷い続けることになってしまうことだろう。阿弥陀仏の本願は私たちが信じるに値する誠そのものである。決して見捨てないという強い誓いから生まれたものであり、私たちが信じるから救うと云うような交換条件を持つ教えではないのである。この本願の根底に流れる真実をしっかり聞けば、最早疑うにも疑えない教えであることが分かるに違いない。

● あとがき
昨日も、米沢先生のご法話を更新致しました。『御伝鈔にない話』と云う題でありますが、米沢先生も親鸞聖人が家庭を持たれて、家庭を持たねば経験出来ない色々な悩み・苦労をされながら仏法を説かれたことに価値を見出されておられるように思います。実際、家庭と云う場、娑婆と云う世間と云う場に身を置かねば分からないことは多いと思います。山奥のお寺で修行した出家者では分からないことも多いと思います。想像することと経験することの違いは大きいと思われます。

私も、やはり、そう云う意味で親鸞聖人の教えは世界でも無二の教えではないかと思うようになりました。勿論、夫々持って生まれた人格・性格により、宗教には相性と云うものがあり、親鸞聖人の教えがすべての人にとってのオールマイティーではないことも確かでありますが、私にはオールマイティーの教えだと思っています。

合掌―なむあみだぶつ


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No.976  2010.01.28
今を生きる

私たちは毎朝目が覚めると、その日にやらねばならない事や、近々予定されていることで準備しなければならない事などが頭に浮かび、やがて連想ゲームの様に目まぐるしく次から次へと生活の雑事が頭に浮かび、煩悩生活に埋没してしまうものであります。これは我々在家生活者だけに限らず、恐らく仏道修行を積んだ禅僧でも大差は無いと思われます。それがこの世に生まれた全ての人間の宿業だと思います。他動物では発達していない大脳皮質を持ち合わせた限りは逃れられないのではないかと考えます。

でも、それに流されて毎日毎日を過ごしてしまうのでは、本能でしか生きていない犬猫と同レベルであり、これまた生き甲斐を求める(生まれて来た意味を考察出来る)能力(仏様に願われている)を埋め込まれて生まれた人間としては甚だ勿体ないことになるのではないかと思います。

仏法は、『今を生きること』を説きます。『今を生かすこと』を説きます。
お釈迦様の教えに次のようなお言葉が遺されています。

過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ
過去 そはすでに捨てられたり
未来 そはいまだ到らざるなり
ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
たれか明日 死のあることを知らんや

これを現代風の詩に詠われたのが今日ご紹介する東井義雄(とういよしお)師の詩であり、その詩の心を読まれた米沢先生の解説文であります。

東井義雄師(1912~1991年)は、兵庫県但東町にある浄土真宗のお寺に生まれられ、姫路師範学校を卒業された後、小学校の先生そして数校の校長を歴任され、『いのちの教育』に心血を注がれました。そして1959年には、民衆教育に貢献した人や団体に毎年1名にしか贈られない教育界最高の賞である『ペスタロッチ賞』を受賞された方ですが、(黒柳徹子さんや山田洋次監督も受賞されている)、その依って立たれて居られたのが親鸞聖人の教えです。東井義雄師は念仏に生きた教育者として、晩年には全国各地からの要請に応えられ、講演に著作に多忙を極められました。私は青山俊董尼のご法話を通して存じ上げましたが、その後1984年には垂水見真会にも一度ご出講して頂いたことがあります。

自分を戒(いまし)むる

あすがある
あさってがある と
 思っているあいだは
なんにもありはしない
かんじんの
「今」さえないんだから

待ったなし―米沢先生の解説

今しなければならんことを、つい私たちは面倒がって、明日やろう、明後日やろう、とのばしがちだ。そんなことではいけないとて、東井校長さんはこれを自戒の言葉とされたんだろう。
全く明日とか明後日は来るか来ないかわからん。その点、むしろ空想的なものだ。こちらの無常が計算に入っていないから。現実にあるのは今だけなんだ。その現実をおろそかにして、明日や明後日に期待をかけているのは、生きていないのと同然だ。今が今として充実していなければなるまい。その今が、次の今へと続いてゆくのだ。哲学者は非連続の連続と難しく言うけれど。

禅門に『一大事は今日唯今にあり』との言葉があるが、地震だ、火事だ、交通事故だ、という話じゃなくて、宇宙全体と共にある今の一瞬の重さ深さに、驚きをたてよということだろう。これだけは生きているとはっきり言える今の一瞬を、私たちはうかうかと過ごしているようだ。徒らに過去をなつかしみ、未来にはかない夢を描いたりして、現在のこととなると愚痴しかこぼれない。

「朝(あした)に道を聞きて夕べに死すとも可なり」、と孔子は言われた。道というのは真実の生き方、真実の自己に遇う教えではないか。真実の生き方を、身を以って知るために人間に生まれてきたのであれば、それが体得出来たら、たった一日のいのちでも輝かしい生涯と言えるのじゃないか。

よく年寄りが、死んだら極楽という結構な世界へ生まれさせていただくのだと言っているが、それは現在に満足がないからだろう。

真実に触れて、これが人間の真の生き方だとうなずくことが出来、今の一瞬をいただけた時、絶対の満足、死すとも可なりという喜びが克(か)ちとられ、充実した一瞬一瞬が連続してゆくのであろう。これを往生浄土の生活と言うのであろうか。

私たちは心の底ではこうした生活を求めているのに、それに気付かぬばっかりに、表面的な自我の満足を追い求めているのだ。

―引用終わり

『今を生きよ』と言われましても、命を保つ為に毎日同じ仕事を繰り返してお金を稼がねばなりませんし、毎日同じ人間関係の中での日常生活があり、どうしても惰性で時を過ごしてしまいます。四六時中今を大切にとは参らないことも現実であります。でも、せめて週に一回、否、毎日一瞬でも良いので、自分の今一瞬存在している命の不思議を見詰め直したいものであります。私はこうして週に2回のコラムを更新する(殆ど義務感の様になっています)機会があることで、自分を振り返る瞬間を持てているのだと思います。これは煩悩生活に陥り易い私への仏様の有り難い配慮ではないかと思うことであります。

合掌ーなむあみだぶつ


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No.975  2010.01.25
教行信証を披く-総序―3

● まえがき
昨日更新した米沢先生のご法話には、親鸞聖人が84歳で勘当した長男の善鸞(ぜんらん)の話が引用されています。子供を勘当すること程悲痛で不幸なことはありません。親としては子育てに失敗したことに受け取られます。その悲痛なご心情は和讃の中に見出せるように思われますが、その善鸞事件を経験されることによって、ますます本願他力の信心を深められたのではないかと私は思います。

今勉強中の『教行信証』は、善鸞事件以前に完成されていたものと考えられていますが、家庭内で起きる問題が象徴されている『王舎城の悲劇』をこの総序に引用されていることは、総序が最晩年に書き加えられたか、或いは書き換えられた可能性もあり得るのではないかと想像した次第であります。

●総序の原文
竊以、難思弘誓度難度海大船、無碍光明破無明闇恵日。然則、浄邦縁熟、調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃、権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆謗闡提。故知、円融至徳嘉号、転悪成徳正智、難信金剛信楽、除疑獲証真理也。爾者 凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。捨穢欣浄、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多、特仰如来発遣、必帰最勝直道、専奉斯行、唯崇斯信。噫、弘誓強縁多生叵値、真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也、此回覆蔽疑網、更復逕歴曠劫。誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

● 総序の和文化(読み方)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせい)、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち、浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ちょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機(じょうごうき)彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。これすなわち権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萠(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。故に知んぬ。円融至徳の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。爾(しか)れば凡小(ぼんしょう)修し易き真教、愚鈍往(ゆ)き易き捷径(しょうけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、是(こ)の徳海に如(し)く無し。穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)し、悪重く障多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専(もっぱ)ら斯(こ)の行に奉(つか)え、唯(た)だ斯の信を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信億劫にも獲叵(えがた)し。遇(たまたま)行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ。若しまた此のたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(ま)た曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なる哉(かな)、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。爰(ここ)に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃(さいばん)・月支(げっし)の聖典、東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇い難(がた)くして今遇うことを得たり。聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞く所を慶び、獲(う)る所を嘆ずるなりと。

● 語句の意味
円融至徳の嘉号―一切の善根功徳を円満にそなえている弥陀の名号のこと。難信金剛―他力廻向の信心のことで、その信心は自力のはからいではどうしても得られないものであるから難信といい、またその信心は堅くて破壊されないから金剛に喩えたもの。信楽―疑いなく信じて歓喜愛楽(あいぎょう、法を信じ希求すること)する心をいう。凡小―凡夫のこと。菩薩などの大人に対して凡夫は小人であるから。捷径―ちかみち、はやみち。大聖―偉大な聖者である釈尊のこと。徳海―功徳の大宝海のことで、弥陀如来の本願の教えのこと。穢を捨て浄を欣い―穢土であるこの娑婆世界を捨てて、極楽浄土を願いもとめること。如来の発遣―この場合の如来は釈迦如来のことで、その釈尊が弥陀の浄土に往生せよと勧められることをいう。直道―遠回りしないで、直ちに涅槃に到達する道。念仏を称えて直ぐに往生する道、即ち他力本願の仏道のこと。

● 現代意訳
私たち庶民から見れば幸せの象徴のように思われる王様一家の悲劇も、お釈迦様が韋提希夫人に説かれた浄土の教えに依って、韋提希夫人も阿闍世王も救われたのである。
従って、この有り難い南無阿弥陀仏の名号には、私たちがこの世間で出遇う様々な災難や悩み、それらは私たちの煩悩から生じて来るのでありますが、それら全てを縁として、この世に生まれて良かったなぁーと私たちが気付かせて頂ける教えが含まれています。そして、その教えそのものを疑う私たちの疑いをも取り除いて、悟りを開かせる仏の強い願いと智慧が含まれています。

そして何よりもまた南無阿弥陀仏の名号はわれわれ凡夫にとっては難行苦行を必要としない極めて修め易い教えであり、そしてまた私たちのような愚かな者が人間に生まれた喜びに気付き、安心して人生を生き抜く力が沸いて来るようになる実に有り難い近道なのです。私(親鸞)も比叡山で20年間に亘って様々な教えを学ばせて頂き、また厳しい修行も致しましたが、今では、釈尊が一生を通じて説かれた教えの中で、この他力本願の教えに及ぶものは無いと信じています。

この世の苦しさに負けて、浄土往生を願うあまり、誤って自力の行に迷い込んだり、或いは浄土の教えに出遇いながらも他力の信心を誤解してしまうことがありますが、それは実に不幸なことであります。私たち罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫は、ただただ釈尊のお勧め下さっている、この最も勝れた本願他力の教えに帰依して、ただ念仏してこの信心を徹底させたいものであります。

● あとがき
お釈迦様が亡くなられて数百年後に書き残された一連の経典に説かれている教えを大乗仏教と称されています。それ故に大乗仏教はお釈迦様の説かれた教えそのものではないと云う大乗仏教非仏説論があります。中でもお釈迦様が生まれられた現在のインドに、阿弥陀信仰の痕跡も、また南無阿弥陀仏の痕跡も無いとして、念仏の教えはお釈迦様の教えではないと主張される学者も居るそうであります。そう云う見解は親鸞聖人の時代にもあったのでしょう。そう云う背景から親鸞聖人が敢えてこの総序で、念仏の教えがお釈迦様の教えだと言明されているようにも思われます。

念仏の教えがお釈迦様の教えであるかどうかはそれ程重要な問題では無いと私は思いますが、南無阿弥陀仏は、梵語を音写したものでありますから、やはりインドで生まれたものではないかとも思います。真理は一つと言いますが、宗教の教えも説き方を含めて進化する部分もあるのではないかと思われます。「月を指差す指先を見ずに、月そのものを見よ」と云う教訓もあります。枝葉を論じることにエネルギーを費やさず、自分自身が本当に納得し、生まれ甲斐に目覚めて、日常生活の一日一日に生き甲斐を感じられるようになるようになりたいものです。
私は親鸞聖人に共感しつつ聞法を重ねたいと思っております。

合掌―なむあみだぶつ


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No.974  2010.01.21
検察官と弁護士

今のマスメディァの話題は、『日航』と『小沢』である。
『日航』問題の方は、自分には責任が無いとして、民主党は涼しい顔のように見える。自民党は脛(すね)に傷を持っている所為だろう、政府の巨額の公的資金投入を決して批判しようとせず、ダンマリを決め込む。しかし、『小沢』問題は、参議院選挙の劣勢を逆転出来る唯一絶好のチャンスとばかりに意気込んでいる。一方の民主党議員達はダンマリを決め込む。 どちらも子供っぽくて批判する気にもなれないが、日本をリードして貰わねばならない二大政党だけに、これで日本の将来は大丈夫かと思うのは私だけではないだろう。

しかし、国民も政府や政治家の個々人を批判出来ないのだ。個々の政治家を国会に送り込んだのも、政権を選んだのも、間違いなく我々国民である。国民の精神文化程度がこの程度だと云うことを忘れてはならない。

大体、私たち凡夫の心の中には、検察官と弁護士が居る。他人に対しては追求鋭い検察官になり、自分に対しては実に素早く有能な弁護士となる。否、弁護団を結成してあらゆる角度から弁護するのだ。そしていよいよ罪を認めざるを得なくなると情状酌量を求める頼もしい弁護団となる。与野党が逆転した自民党と民主党の変わり身の見事さを見ればそれは一目瞭然であるが、それはそのまま私たち自分の姿なのだ。

理想(?)を言えば反対にならねばならないのかも知れない。つまり他人には弁護士となり、自分には検察官として処する位で丁度良いのだと思うが、やはり、ここは裁判官に登場して貰うべきではないか・・・。心の中に裁判官を育てるのに必要なのはこの場合、法律に強くなる事ではない。法は法でも、仏法に強くなることだ。

仏法に強くなると云うことは、米沢先生がよく言われている私たちの無意識の底にある超越的無意識、宗教的無意識に目覚めることだと思うが、それを分かり易く言えば、仏から「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫よ」と呼び掛けられたら、そっぽを向かず、「はい!」と答えられるようになることなのだ。「邪険驕慢の悪衆生」と呼び掛けられたら、他人を指差さずに、「はい!」と手を挙げられる自分になることだ。それには実に聞法しかないと思う。

その聞法を重ねた人の歌を紹介しておきたい。米沢先生の『心の詩』(中日新聞連載コラム)からの抜粋した竹部勝之進さんの詩である(解説は米沢先生)。

        

       蝶が飛んでいる
       軽やかに飛んでいる
       軽やかに飛んでいるから
       疲れないのですネ

柔軟身(にゅうなんしん)―米沢先生の解説

花から花へ、蝶はかろやかに飛んでいる。時々とまって翅(はね)をとじたりひらいたりしているが、あれは疲れを休めているのではなくて、次の観光プランを案じているのだろう。あんなに方々とびまわったら、さぞかし疲れるだろうと思うのに、かろやかに飛んでいるから疲れないのか。
われわれはすぐにくたびれるなァ。かろやかに動けないからだろうか。そりやァ蝶にくらべれば万事造作が大型だからなァ。それでも禅を極めた人とか、妙好人(みょうこうにん)といわれるような人は、どうも身軽に動いていられるようだなァ。

信心というのはまた悟りというのは、ああも身を軽くするものかなァ。身が軽いというより、身をひっさげている心が軽いのかもしれないなァ。われわれも気がすすまぬ時には、からだもハキハキと動かんものなァ。

禅の修行というのは、馬鹿になりきるのだというから、他人のいうことを気にせず、自分のしたことの効果も期待しないから身軽なのかもしれないぞ。
妙好人というのは、自分ほどの悪人はないと、まるで最高裁の判決でも受けたように言うとるなァ。人間がやる裁判じゃない。閻魔(えんま)の庁の『浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ、注を参照)』にうつった自分を見ているんだな。この鏡ときた日には、生まれてこの方自分のやった一切、自分の知らず知らずやったことまで、ビデオのようにはっきりと、しかも四方八方上下左右から写して保存されているので、逃げもかくれもないなァ。上告も控訴もあったものじゃない。文句なしだよ。

これでやられては、三千大千世界をもぶちぬくような傲慢不遜の、自惚(うぬぼ)れの鼻もへし折れざるを得んだろうなァ。そこで身軽に動けるようになるんだろう。それでも煩悩のこやしがきいて、またしても鼻が伸びてくるから、忘れぬように鏡の前に立ち通し、だからまたしょっちゅう身軽に動きどおしというわけか。

合掌ーな・む・あ・み・だ・ぶ・つ

(注)ー『浄玻璃の鏡』とは「地獄の閻魔王庁で亡者の生前における善悪の所業を映し出すという鏡」


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No.973  2010.01.18
教行信証を披く-総序―2

● まえがき
仏教の祖師方の中で、私たち一般庶民と同じように家庭を持たれたのは、私が思い起こせる限りでは、お釈迦様と親鸞聖人しか居ません。これは仏法を知識として理解する上でも、信者として正しい信仰心を持つ上でも非常に大切なことではないかと思います。

私の推測の域を出ませんが、親鸞聖人が家庭を持たれたのは、比叡山での仏道修行の中でお釈迦様の人生の歩みを知られたことと無関係ではないのではないかと考えています。また、お釈迦様が経済的にも名誉面でも何不足の無い王位継承の立場を投げ捨てて、本当の人生の〝生き甲斐〟と人間の命に恵まれた〝生まれ甲斐〟を求められたことへの強い共感も持たれたことも無関係ではないと思っております。

そして、今日のコラムに出て来ますところの、親子関係に纏(まつ)わる煩悩生活を象徴的に描いた『観無量寿経』と云うお経の中の「王舎城の悲劇」は、親鸞聖人が一生の生まれ甲斐とされた『本願他力の念仏』に決定的な動機となったのではないかと、総序を勉強し始めまして思った次第であります。

考えてみますと、この『教行信証』を理解するには、親鸞聖人が勉強され、最も大切にされた浄土三部経(大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を知っておく必要があるようです。しかし、私たちは仏教学者を目指している訳でもありませんので、それはしばらくさておきまして、この総序に引用されいる有名な物語「王舎城の悲劇」のあらましだけは知らねば何のことか分かりませんので、クリックして頂いてあらましを把握して頂きたいと思います。私たち凡夫の姿を象徴的に表した物語です(実話か一部実話か、全くの創作かどうかは分かりません)。

●総序の原文
竊以、難思弘誓度難度海大船、無碍光明破無明闇恵日。然則、浄邦縁熟、調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃、権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆謗闡提。故知、円融至徳嘉号、転悪成徳正智、難信金剛信楽、除疑獲証真理也。爾者 凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。捨穢欣浄、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多、特仰如来発遣、必帰最勝直道、専奉斯行、唯崇斯信。噫、弘誓強縁多生叵値、真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也、此回覆蔽疑網、更復逕歴曠劫。誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

● 総序の和文化(読み方)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせい)、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち、浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ちょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機(じょうごうき)彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。これすなわち権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萠(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。故に知んぬ。円融至徳の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。爾(しか)れば凡小(ぼんしょう)修し易き真教、愚鈍往(ゆ)き易き捷径(しょうけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、是(こ)の徳海に如(し)く無し。穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)し、悪重く障多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専(もっぱ)ら斯(こ)の行に奉(つか)え、唯(た)だ斯の信を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信億劫にも獲叵(えがた)し。遇(たまたま)行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ。若しまた此のたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(ま)た曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なる哉(かな)、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。爰(ここ)に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃(さいばん)・月支(げっし)の聖典、東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇い難(がた)くして今遇うことを得たり。聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞く所を慶び、獲(う)る所を嘆ずるなりと。

● 語句の意味
浄邦縁熟―浄邦とは阿弥陀仏の浄土をいい、その阿弥陀如来の浄土の教えである浄土教の説かれる因縁が熟したことをいう。調達―提婆達多(だいばたった)Devadattaのことで釈尊の叔父ドローノーダナ・ラージャーすなわち、斛飯王(こくぼんのう)の子である。阿難の兄にあたり、はじめは釈尊の弟子であったが後に釈尊を妬(ねた)んで、阿闍世(あじゃせ)をそそのかして王舎城の悲劇の原因を作った人物。闍世―阿闍世王(あじゃせおう)のこと。マカダ国の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)の子。提婆達多(だいばたった)にそそのかされて父を殺し王位についた。後に後悔して仏門に入り、釈尊のよい外護者(げごしゃ)になった。浄業機彰して-浄土に往生する因である念仏を修する人があらわれてきたことで、韋提希(いだいけ)などによって浄土教の説かれる機縁が熟したことをいう。韋提―韋提希夫人(いだいけふじん)のことで、頻婆沙羅王の妃(きさき)であり、阿闍世の母である。『観無量寿経』は、夫人が、阿闍世によって座敷牢に幽閉されたとき、その請いによって釈尊が説かれた教え。安養―阿弥陀如来の極楽の世界、西方浄土のことをいう。権化の仁―仏や菩薩が衆生を救うために仮に姿をあらわしてこられたことで、親鸞聖人は提婆達多や阿闍世や韋提希などを権化の聖者とみられたのである。仁は慈悲のこと。群萠―一切衆生のことをいい、衆生は雑草がはえるように群がり生ずるから群萠という。世雄―仏は世の中で最も雄なるもので、一切の煩悩をおさえるから世雄という。ここでは釈尊のこと。逆謗―五逆と謗法の事をいう。闡提―一闡提(いっせんだい)のことで、仏法に全く縁の無い者のこと。

● 現代意訳
さて、有り難いことに、ここに浄土の教えを説き明かされる縁が熟して、提婆達多が阿闍世をそそのかして、その父母を害させることとなり、念仏によってそれを救われねばならない者が明らかになり、釈尊が韋提希を導いて浄土を願うようにと勧められたのである。これは菩薩方が仮に提婆達多や阿闍世や韋提希などの姿になられて、苦しみ悩むすべての人を救おうとされたのであり、お釈迦様が慈悲の心から、五逆の罪を犯す者や、仏法を謗る者や一闡提の者を救おうとされたのである。

● 解説
古来から仏教研究者の中には、念仏の教えはお釈迦様が説かれた仏教ではないと主張される方も居られるようであります。そんな中で親鸞聖人は、この王舎城の物語がお釈迦様のご存命中に在った話でありますから、お釈迦様としては、本当は在家の者達こそ救われねばならないと考えられておられたから、お念仏の教えを示されたのだと確信され、その確信をこの『教行信証』の冒頭に王舎城の悲劇物語を掲げられることによって示されたのではないかと思いますが、どうでしようか・・・。

● あとがき
私たちの日常生活を振り返りますと、お金と体裁を護ることが主題となっています。朝一番目覚めて思いますことは仏法ではありません。少なくとも私の頭を先ずよぎりますのは、何らかの形で『お金と体裁を護ること』と関係している事柄であります。そして、それを毎日毎日繰り返して人生を空しく過ごしてしまうことになるのだと思います。

それではいけないと一大決心されて『本当の生き甲斐、生まれ甲斐』を求めて6年間の修行をされ仏教を開かれたのがお釈迦様であります。お釈迦様は結果として家庭を捨てられて出家されたのでありますが、自分だけが悟ってそれで良いと云うことではなく、人間に生まれながら悩み苦しむ当時の私たちと同じ一般庶民が幸せになる道を求めて出家されたのだと思います。

そのお釈迦様に学ばれて親鸞聖人も、僧の身に在りながら妻帯されて家庭を持たれ、煩悩生活を経験されながら、在家に在っては念仏の教えに依ってしか救われないと確信されたのだ思っております。そして、確信の根拠として書き遺されたのが『教行信証』ではないかと勉強し始めの今思っているところであります。

無相庵 大谷國彦

合掌―なむあみだぶつ


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No.972  2010.01.14
死ぬまで普通に生きる

ジャーナリストでノンフィクション作家としても有名な立花隆氏(69歳)が一昨年膀胱癌に罹り、手術を受けられて以降、転移の不安を抱かれつつ「人類はなぜ、がんという病を克服できないのか?」と自らの命を護る為にも、また人類の可能性を追求するためにも、世界中の最前線の研究者たちを取材する中で、がんの正体を根源的な部分から見つめなおそうとしているそうである。

現時点で明らかになって来ているのは、癌という病が、生命誕生の謎と深く結びついているという神秘的な事実である。つまり、約40億年前の地球に誕生した生命は、酸素の無い地球上に生まれ、むしろその生命にとっては酸素は毒ガスだったのであるが、やがて光合成をする生命の誕生で、地球は酸素を含む大気に覆われるようになったが、その劇的な環境変化にも対応して生き残って来た我々の体を形成している細胞は、その強い生命力を持った癌の幹細胞に変異するのには必然性があるのだそうだ。

私たちの体の中では刻々と細胞の生き死が行われており、生まれてくる細胞(細胞の増殖)は細胞内の核となっている遺伝子のコピーの繰り返しだそうであるが、そのコピーの時に起こるミスで癌細胞が生まれると云う。そして、そのコピーミスは起こらないのが奇跡だと言われている。だから長生きすれば必ず癌に罹るのが普通であり、癌に罹らずに死んでいく人は〝奇跡の人〟なのだそうである。

立花隆氏は、今では人類の可能性(人類の頭脳を以ってすれば何でも解決出来る、人類に分からないことは無いと云う考え方)に見極めを付けて、「癌と闘うことはしない。抗がん剤治療を受けて、体力を損ないながらも延命することはせず、死ぬ間際まで普通に生き抜く」と云う決断をされたそうである。

私はこの立花隆氏の話をテレビで知り、紫雲寺の釈昇空師の法話集ー第43話『自分に出遇う』の下記の一節が頭に浮かんだ。

法話からの引用―
死神はね、前で待っているわけではないんですよ。死神は、後ろからそっと近づいてきて、ポンポンと肩をたたくんですよ。「あんたの番だよ、さあ、行こうか」ってね。
 ちょっと余談ですがね、以前、原付バイクで銀閣寺の近くを走っているときに、白バイに捕まったことがあります。白バイというのはね、サイドミラーに映らない死角のなかを、音もなく、後ろから近づいて来るんですよ。そして、思ってもいないときに、ポンポンと肩をたたくんです。その瞬間に、死にましたね。私の財布のなかの虎の子が。…ああ、死神って、こうなんだと思いましたね。
 まあ、それはともかく、死神は、後ろからそっと近づいてきて、ポンポンと肩をたたくんですよ。それが今日かもしれない、明日かもしれないって、考えたこと、おありですか。
 「死ぬことを 忘れていても みんな死に」という川柳がありますが、死ぬことを忘れて生きているあいだは、人生は始まっていないのではないでしょうか。
毎田周一先生は、何か書いてほしいと、揮毫を頼まれるたびに、「お前も死ぬぞ」とお書きになったそうです。「お前の人生は始まっているのか」という問いかけでしょう。はたして、私たちの人生は始まっているのでしょうかね。いちどじっくりと、お考え頂きたいところです。

―法話引用終わり

先日、69歳のおじいちゃんが孫娘(県でトップの少女剣士)を中学校の朝練に車で送る途中、凍結した川沿いの道路でスリップし、川に転落して二人とも亡くなると云う痛ましい事故があった。死は年齢順には訪れないし、その人の才能も可能性も全く考慮せずに突然とやって来るのである。

私たちは死を前方に眺めながら、しかも、まだまだ先と思いながら何時しか死を忘れて日常生活を漫然と生きているが、釈昇空師の仰るように、死はふいに後ろから肩を叩かれるようなものなのである。

私は想像して見た。
地球の人口を60億人とすると、その60億人を一箇所に集め年齢順に整列させると、ほぼ30km四方内に収まる(先頭は百何歳かで1 名、次の横列は何百人、その次の列は数千人と増えていく)。その60億人が、前を向いて行進している時、死神に肩を叩かれるのは、決して前列からではない。確率から云うと、前の方の列程叩かれる人は多いだろうし、後列の人が叩かれる確率は低いが、決して叩かれないと云う訳ではない。誰が何時叩かれるか分からないままに、前に向かって行進しているのである。

そう考えた時、叩かれる瞬間に怯えず、叩かれる瞬間まで、毎日、毎瞬間、精一杯普通に生き抜くことしかないのではないかと思った次第である。そして、それは死を忘れて生きるのではなく、死のある生、誰とも異なる掛替えの無い命を意識して、スマップの歌ではないが、世界で唯一つの自分の花を咲かせることに一生懸命になって肩を叩かれるまで生き抜くことが大切なのだと、立花隆氏から学んだ次第である。

合掌ーなむあみだふつ

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No.971  2010.01.11
教行信証を披く-総序―1

● まえがき
さて、今回からいよいよ教行信証の中味の勉強を開始することになりました。少し緊張を覚えますのは、難しいと謂われている文献に挑戦することから来るのかも知れませんが、一方、親鸞聖人が老いられた心身に鞭打たれて多分心血を注いで書き残されたお言葉に直接触れられるワクワク感も少しあるように思われます。
先ずは、『総序』からです。

進め方と致しましては、総序の原文(漢文)とその訓読みの全文を毎回掲載し、その日(1コラム)に現代意訳と解説をする箇所を太文字に致します。
現代の私たちには馴染みの無い漢字や熟語が殆どですから、一回のコラムで勉強するのは、1行にも満たない単文毎になるものと思われます。参考までに、読み方が一般的でない熟語と漢字には『ふりがな』を付けさせて頂きました。私と致しましては、国語の勉強をしつつ親鸞仏教を学ぶと云う姿勢で進めたいと思っています。

漢文や和文は鬱陶(うっとう)しいと思われましたら、現代意訳と解説をのみお読み下されば良いかと思いますが、それにしましても、約800年前の鎌倉時代に漢訳の経典を読み、その解釈書をしかも漢文でよくぞ創作出来たものだと、親鸞聖人の勉強家ぶりと博学ぶり、その粘り強さ、そして自分が信じ得た浄土教仏法を後世に伝え遺したいと云う志の高さに、未だ読み始めても居ないにも関わらず、尊敬の念をあらためて感じているところでございます。

●総序の原文
竊以、難思弘誓度難度海大船、無碍光明破無明闇恵日。然則、浄邦縁熟、調達闍世興逆害、浄業機彰釈迦韋提選安養。斯乃、権化仁、斉救済苦悩群萌、世雄悲、正欲恵逆謗闡提。故知、円融至徳嘉号、転悪成徳正智、難信金剛信楽、除疑獲証真理也。爾者 凡小易修真教、愚鈍易往捷径。大聖一代教、無如是之徳海。捨穢欣浄、迷行惑信、心昏識寡、悪重障多、特仰如来発遣、必帰最勝直道、専奉斯行、唯崇斯信。噫、弘誓強縁多生叵値、真実浄信億劫叵獲。遇獲行信遠慶宿縁。若也、此回覆蔽疑網、更復逕歴曠劫。誠哉、摂取不捨真言、超世希有正法、聞思莫遅慮。爰愚禿釈親鸞、慶哉、西蕃月支聖典、東夏日域師釈、難遇今得遇、難聞已得聞。敬信真宗教行証、特知如来恩徳深。斯以慶所聞、嘆所獲矣。

● 総序の和文化(読み方)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせい)、無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇(あん)を破(は)する恵日(えにち)なり。然(しか)れば則(すなわ)ち、浄邦(じょうほう)縁熟(えんじゅく)して、調達(ちょうだつ)闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機(じょうごうき)彰(あらわ)れて、釈迦、韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまえり。これすなわち権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萠(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。故に知んぬ。円融至徳の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。爾(しか)れば凡小(ぼんしょう)修し易き真教、愚鈍往(ゆ)き易き捷径(しょうけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、是(こ)の徳海に如(し)く無し。穢(え)を捨て浄を欣(ねが)い、行に迷い信に惑い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)し、悪重く障多きもの、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝の直道(じきどう)に帰して、専(もっぱ)ら斯(こ)の行に奉(つか)え、唯(た)だ斯の信を崇(あが)めよ。噫(ああ)、弘誓の強縁(ごうえん)、多生にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信億劫にも獲叵(えがた)し。遇(たまたま)行信を獲(え)ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ。若しまた此のたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、更(かえ)って復(ま)た曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なる哉(かな)、摂取不捨の真言、超世希有の正法(しょうぼう)、聞思して遅慮(ちりょ)すること莫(な)かれ。爰(ここ)に愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃(さいばん)・月支(げっし)の聖典、東夏(とうか)日域(じちいき)の師釈(ししゃく)に、遇い難(がた)くして今遇うことを得たり。聞き難くして已(すで)に聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知んぬ。斯(ここ)を以(もっ)て聞く所を慶び、獲(う)る所を嘆ずるなりと。

● 現代意訳
静かに考えをめぐらしてみますと、仏様が私たち全ての凡夫を救おうと誓われた願い、つまり『阿弥陀仏の本願』と云われますものは、この悩みや苦しみの絶えない世を苦海と呼びますならば、その苦海を渡って行く、とても大きな船のようなものであり、私たちが安心して身を任せられるものでございます。また、仏の智慧の光とも云われます仏法の真理は、私たちの煩悩に遮(さえぎ)られることなく必ず私たちの心の奥底にまで届き、私たちの心を転換させてくれます。それは丁度、雲に覆われて闇のように暗い下界に、雲間を破って差し込む一筋の太陽の光のようなものなのです。

● 解説
『竊(ひそ)かに』の『竊』は、『窃』(窃盗と云う熟語に使用されています)の旧字で、「わからないように、静かに」と云う意味ですが、歎異抄の冒頭に「竊(ひそ)かに愚案を廻らし」とお弟子の唯円坊が、多分お師匠の親鸞聖人の教行信証から転用されたのではないかと思われ興味深く感じます。念仏が弾圧を受けておりましたことからも、「ひそかに」と云う言葉が出たのかも知れませんが、慎み深いと思われる親鸞聖人のご性格も現れているのではないかとも思うことであります。

この『教行信証』のしかも総序の冒頭のお言葉は、親鸞聖人の確信が強く表されていると考えられます。つまり、この世が苦しいのは、私たちの煩悩の所為ではあるが、何かの縁に依って私たち自身が「このままでは幸せになれない」と気が付いたならば(つまり発心して、仏法を求める気持になったならば)、厳しい修行をしたりして煩悩を断ち切ろうとしなくても、或いは阿弥陀仏の本願を疑って掛かりなかなか掌(て)を合わせて念仏を称えることが出来ない私たちでも、必ず必ず救われる時が来るのだと、親鸞聖人ご自身のご体験(法然上人に出遇えたことなど)から確信されたことを、先ずは表現されたのではないかと思われます。

● 語句の意味
難思の弘誓―思いはかることの出来ない広大な弥陀の本願。難度海―生死の迷いの世界のこと、この迷いの世界を海にたとえたもの。無碍の光明―いかなるものにも遮(さ)えられない弥陀の光明のこと。無明の闇―無明は梵語アビトヤーの訳で事理(道理・真理)にくらいこと、この事理にくらいと云う無明がすべての迷いの根本である。いまは仏智の不思議を疑って弥陀の本願を信じない自力の疑心をいう。恵日―弥陀の知恵の光明は疑いの闇を破って明らかにするからこれを太陽にたとえたもの。

● あとがき
年初に「お蔭さま」と云うことを申し上げましたが、その「お蔭さま」に関して、ある読者様から実に率直な有り難いご感想メールを頂きました。

お陰さまについてー 明けましておめでとうごじます。
今年のキーワードとしての「お陰さま」と、今回のお陰さまの意味についての解説、ありがとうございました。
仏教に少し関心を持つようになってから、「お陰さま」とう言葉はよく聞くようになりましたが、心の中で自分の意識が、お陰さまと言うことは少ないと思っていました。反対に俺が、自分が、であり、家族を含めて、「お陰さま」という、柔らかく、暖かい雰囲気が育っていないのは、一家の主である私のこれまでの生き方の反映だろうと思っています。
今年のキーワード「お陰さま」は今の自分にも、ぴったりの言葉だと思います。しっかりと噛みしめて今年1年を送ろうと思います。よろしくお願いいたします。
―引用終わり(N様、頂いたメールを勝手に引用させて頂きましたことをお詫び申し上げます。どうかご容赦願います)

実は無相庵の私も同じことでありまして、常々「お蔭さま」と感謝している心ばかりではございません。従いまして、このお方こそは、既に仏様の光に照らされていらっしゃる方だなぁーと思った次第でありまして、下記のご返事を書かせて頂きました。

明けまして、おめでとうございます。
早速に、ご感想メールを頂きまして、有り難うございます。今年最初の無相庵へのメールでした。感謝申し上げます。

お蔭さまに関するN様の内省のお言葉自体が非常に尊いものだと存じます。お蔭さまの心から程遠い自分を見詰める眼は、仏法的に考えますと、仏様から賜った眼ではないでしようか。もし親鸞聖人様に問い掛けることが出来たと致しましたならば、「親鸞もそうだよ」とお答えになられるのではないでしょうか。
「お蔭さまの心を常に持ち続けなさい」と云うのが仏法の教えなら、私はついていけないと思います。「常にお蔭さまとは思えない自分に気付こうではないか」と云うのが仏様からの呼び掛けだと私は思っています。
そして、そう気付かせて頂いた事自体も、お蔭さまだと思います。お蔭さまならざることは何一つない命を生きて居るのでしようね。

でも、私は恵まれた状況の中では「お蔭さま」と思えますが、辛い目、悲しい目、悔しい目に出遇った時や、面白くない人間関係の中に在る時にも、果たして「お蔭さま」と素直に拝めるかどうか・・・極めて疑問でございます。
恐らく、その時の為に感謝と慙愧の両方を兼ね備えた「なむあみだぶつ」と云う言葉が生み出されたのでしようねぇ・・・。

無相庵 大谷國彦

合掌―なむあみだぶつ


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