No.970  2010.01.07
お蔭さまとは?

新年のパスワードは『お蔭さま』であると今年最初のコラムで申し上げました。「お蔭さま」という言葉は、古き良き日本の古来から使われているのでありますが、現代の日本人の中でどれだけの人たちに本来の意味が知られているでしょうか。今回は初心に戻って「お蔭さま」と云う言葉の本来の意味を考えてみたいと思います。

実は、年初のコラムを書き終えた直後(1月3日の日曜日の夜9時半)から始まったNHKテレビの『NHKスペシャル』と云う番組「まど・みちお百歳の詩」を見ましたが、その中で偶々「お蔭さま」をモットーとして生きて来られた〝まど・みちおさん〟のお姿に出遇うことが出来、阿吽(あうん)の縁に驚かされました。

まど・みちおさんは誰にでも知られている童謡『ぞうさん』(作曲:團伊玖磨)や、『いちねんせいになったら』(作曲:山本直純)等の作詞をされ、昨年百歳を迎えられたと云う一生を詩人として生きて来られた方でありますが、無相庵の法話コーナーの青山俊董尼のご法話『仏様の御手の中だから大丈夫』の中でもご紹介した『水は うたいます』と云う詩も、まど・みちおさんの詩であります。まど・みちおさんは仏法の言葉を一切使われていませんが、語られたり、詠われたりされている内容は仏法そのものだと思います。

まど・みちおさんは、昨年の11月16日に百歳を迎えられ、今なお、現役の詩人として、日常出遇う〝不思議〟を題材にして作詞を続けて居られます。歩行には少々不自由されていますが、好奇心はますます旺盛で頭脳は極めて明晰でいらっしゃいます。冒頭の番組の中で一番心に残っていますのは、女子高校生からインタビューを受けられている場面で、「どういうことが幸せですか?」と云う問い掛けに、「今現在を肯定出来て、まわりの全てに感謝できることが幸せだと思う」と答えていらっしゃったお言葉です。また、人間にとって一番大事なのは〝息〟であり、その次に大事なのが〝言葉〟だと云うことも、〝息〟をせしめている自然の働きの不思議を「お蔭さま」と感謝されているのでありましょうし、言葉によって始めて人と人との心の交流が出来ることにも「お蔭さま」と感謝されているのだなぁーと強い共感を覚えました。また、あらゆる場面で、何に対しても誰に対しても「ありがとう、ありがとう」と仰って居られましたが、まど・みちおさんは、『お蔭さま』を体得された方、否、仏法を体得された方ではないかと思いながら拝見させて頂いた次第でありました。

さて、『お蔭さま』と云いますのは、『蔭』とは、「蔭で糸を引く」とか「蔭で舌を出す」とか「蔭になり日向になり」と云う風に使われる場合の蔭であり、「目に見えないところ」と云う意味でありますが、それに、「お」と「さま」を付けられたのが『お蔭さま』ですので、「私たちには見えない、或いは私たちが気付かない何か知らないが〝恩〟を受けているもの」と云う意味だと思われます。

例えば、難関の大学や高校に合格した時に、人々から「おめでとうございます」と言われた場合、「お蔭さまで」と答えたり致しますが、勿論これはお祝いを言ってくれた人のお蔭と云う意味だけではなく、また、自分の努力や実力だけで合格したのではなく、合格に至るまでに指導を受けた先生方や友人たちとか両親とか色々な人のお蔭であり、体調も良かったとか、自分の努力が運よく実ったとか、具体的には言えないけれども色々多くの縁に恵まれて、と云う意味合いが込められているのではないでしょうか。

また、会社が発展して創立記念式典を開いた時などにも、「お蔭さまで弊社も順調に・・・」と云う社長の挨拶で始まりますが、これも、式典に出席した人々のお蔭さまと云うことだけではなく、直接的には目に見えない顧客や、多くの取引先、或いは近隣の人々も含めたお蔭さまと云うことだと思います。

仏法的に「お蔭さま」を考えますと、無限の過去からの無数の縁に依って今日があると云うことだと思います。現に、今私はパソコンのキーを叩いてコラムを作成しておりますが、こうしてコラムが作成出来ますのは、今日のパソコンが出来るまでには過去数百年に亘る無数の技術者の智慧と工夫がありますし、このパソコンの製造に従事した無数の人々、それに私の手元に届くまでにこのパソコンを運んでくれた無数の人々、それだけではなく、私が文章を書ける力を指導して下さった小学校以来の先生方や私を育ててくれた両親、それに加えて仏法を今日まで伝えて下さった無数の先師・先輩方・・・と考えますと、無限無数の目に見えないお蔭さまが在って初めて、このコラムを無相庵ホームページに掲載出来るのだと云うことに思い至ります。
こう考えますと、日常生活の全ては私に見えない、また考えも及ばない無数のお蔭さまに依って成り立っていることは間違いないことだと言えると思います。

目に見えない色々なお蔭さまと申しましたが、私たちは目に見えていても、そのお蔭さまに気付かないで居ることも多いのです。例えば、太陽は見えていても、その太陽の存在のお蔭で、今の自分が生きられていることに思い及びません。息をしていても、生命を維持する為に必要な酸素を含んだ空気の存在とそのお蔭さまはすっかり頭の中から抜け落ちています。更に炭酸ガスを酸素に変えて私たちに供給してくれている植物のお蔭さまを思う事もありません。すべての「お蔭さま」が〝当たり前のこと〟になってしまっています。

今一度、色々な「お蔭さま」に敏感になる必要があると思い、私は今年の新年を始めるパスワードに「お蔭さま」を取り上げさせて頂いた次第であります。

この「お蔭さま」と云う日本語を外国語には訳せないそうであります。それは、日本以外には、「お蔭さま」と云う考え方が無いからでありましょう。この「お蔭さま」の根底に流れる考え方が広まらなければ、私たち一人ひとりに心安らかな日々は永遠にめぐっては来ないでしょうし、人類にも平和が齎(もたら)されることは無いと思われます。

縁あって無相庵を訪ねられた読者様方と共に「お蔭さま」と云う言葉を心の中心に置いて、日常生活を送って参りたいと思っている次第であります。

合掌―お蔭さま


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No.969  2010.01.04
新年のパスワード「お蔭さま」

皆さま、明けまして、おめでとうございます。 世間は何かと落ち着かない状況にはありますが、兎にも角にも、新しい年を迎えられたことを、素直にお祝いしたいと思います。

私達を取り巻く状況は、環境問題にしましても、雇用状況にしましても決して芳しくはありません。でも、これまでも、常に問題を抱えていない時代はありませんでした。高度経済成長時代と言われた時代にも、バブル崩壊とか失われた10年と言われた時代も勿論、庶民は満腹感を味わったことは無く、何時の時代にも不安・不平・不満・不信の中を生きて来たのではないかと思います。

きっとこれからも、今のままの世界(の指導体制)が続く限りは、日本だけに限らず、全人類は不安・不平・不満・不信から逃れ出ることは出来ないと思います。経済の発展も、地球温暖化の環境問題も、世界が今抱える問題のすべては、人間の自我(他より良い暮しがしたい、自分さえよければいいと云うエゴイズム)から生まれ出たものであり、人類がその事に気付かない限りは人類にも、私達個人個人にも永遠に幸せ(心安らかな日々)は来ることはないでしょう。

無相庵は、今年も仏法に人生の生き方を聞いて参りたいと思います。仏法が私達に教えてくれることは、簡単に表現するならば、『私達は「お蔭さま」の中で生きているのだよ。』と云うことに尽きるのではないかと思います。私達がそのことになかなか目覚められませんので、手を変え品を変えて説き聞かせてくれるのだと思います。

今年も親鸞聖人の他力本願の念仏の教えを中心に学んで参ります。米沢秀雄先生は『南無阿弥陀仏』を現代日本語に言い換えれば『お蔭さま』と云うことだと仰って居られます。皆様と一緒に親鸞聖人の仏法を学び、このことに心の底から頷けるようになりたいと思います。

本年もどうか宜しくお願い申し上げます。

合掌―お陰さま


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No.968  2009.12.28
年末コラム休みます

今年の年末のコラムは、お休みさせて頂きます。 皆様、良いお年をお迎え下さい。

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No.967  2009.12.24
最終章―私の人種差別論

インターネットのエクスプローラーのバージョンがアップした所為で、更新処理に手間取り、更新が遅くなり、アクセスして頂いた方々には大変ご迷惑をお掛け致しました。お詫び申します。

さて、先日の新聞記事に、あの元厚生事務次官らを連続殺傷した小泉毅被告の公判におけるコメントが掲載されていた(『来世もまたやる』と言うショッキングな見出しがついていたので目が惹かれたのである)。

小泉被告は、検察側の被告人質問に「動物を虐待する人を皆殺しにするという決起は未完成なので、生まれ変わったらまたやる。これは自分の本能」と述べたということである。私は、勿論この小泉被告の発言は筋が通らないと思う。動物の虐待を非難する同じ人物が人間の命を平気で抹殺するというのは説明が付かないだろうと思うからである。
単に、自分のペットを殺された腹いせでしかないであろうし、また「自分の本能であり、来世もまたやる。」というのは、この世の自分の命を正当化したいための強がりでしかないとも思う。

しかし彼をここまで言わしめたことに付いて、何故なのかと深い考察と同じ時代を生きる人間として反省せざるを得なかった。そして、彼が使った『本能』と云うのは多分、仏法で云うところの『宿業(しゅくごう)、前世からの因縁』のことだろうとも思った。

彼に限らず、誰もが他人が代わることの出来ない人生を生きている。代わって貰うことも出来ないし、代わってやることの出来ない宿業を持っていることは確かではないか。『宿業』と言うと暗いイメージがあるが、そうではなくて、この世に生を受けた夫々が数十億年に亘る命を引き継いでいる固有の命だと云うことを『宿業』と表現しているのである。つまり指紋やDNAで個人が特定される如く、夫々が掛け替えの無い千差万別の尊い命だと云うことである。そしてそれは私たち人間に限らず、他の動植物も同じく掛け替えの無い尊い命なのである。

私は何回かに分けて人種差別論を論じて来たが、犯罪者や他人に迷惑を掛けて厄介者と見られている者達に限らず、今年WBCで活躍したイチロー選手も、18歳でプロゴルフツアーの賞金王になった石川遼君にしても、誰でもが、遡(さかのぼ)れば数十億年の命を受け継いでおり、私たちには千差万別の命と人生があるのである。それ故に、お互いの掛け替えの無い命の貴さに目覚めれば、お互いがお互いの命を思いやり合い、助け合って生きて行くのが自然の成り行きではないかと思う。自らの命と人生を大切にすることは勿論、他の人の命と人生をも大切することになろうと思うのである。
そして、お互いの千差万別の掛け替えの無い命の貴さに目覚めることが、人間に生まれた喜びと意味を見出すことになると説くのが仏法だと思うのである。

この社会から犯罪を無くし、戦争の無い平和な世界を目指すならば、幼い時から、『命は尊い』と言う抽象的な表現ではなく、数十億年引き継いで来ている命の真実を教えることが何よりも大切ではないかと思う次第である。

合掌


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No.966  2009.12.21
教行信証を披く-予備知識②

●まえがき
来週は新年を迎えると言う年の瀬であります。何かと忙(せわ)しない気持になるものであります。皆様も、ゆっくりと『教行信証』を読む気持にはなられないかも知れませんが、どうかお付き合い下さい。

今日は、『教行信証』の中にある三つの序文の概略と、これから勉強する『教行信証』を構成している六巻が、真実の教えと方便の教えに分かれていることを高木昭良師の説明文を転載致しますので、予備知識として知り置いて頂ければよいと思います。

●『教行信証』の序文(高木師のご説明)
『教行信証』は、教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻から成り立っている。その一部の始中終にそれぞれ序文が掲げられている。すなわち巻頭には総序の文があり、巻尾には後序の文があり、さらに中間の信巻には別序の文がある。

総序の文は、『教行信証』一部の大要を述べられるところで、まずはじめに浄土真宗の法義を讃嘆され、有縁の人びとに弥陀他力の法をすすめ、聞法のよろこびを表白して製作の意図をしめされるところである。

信巻別序の文は、信心は他力廻向のものであることを示し、自力の迷執(めいしゅう、迷った心で物事に執着すること)を悲嘆して、信巻を別開する理由をのべられるところである。ことに信巻の重要なところが、31問答釈にあることから、三心即一心の要意がこの序文にもしめされている。

【三心即一心とは?】
「至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)」を本願の三心と申し、この三心が信楽一心におさまる旨を示され、さらに信楽の一心が往生成仏の正因となる旨をお述べになっております。 そして、如来の願力にうちまかせて喜ぶ信楽一心には真実の智慧(至心)と慈悲(欲生)の徳をそなえているから、信心(信楽)が正因であるということになります.

後序の文は、聖浄二門の盛衰を述べ、真宗の興隆はひとえに法然上人の功績であることを讃嘆され、さらに上人から『選択集』の書写と真影の図画を許されたことを述べ、『教行信証』の製作はこれまったく知恩報徳のためであることを述べられるところである。

●教行信証の構成(高木師のご説明)
『教行信証』一部6巻の組織を大科(たいか、大きく分けること)してみると、大要二つのに分けることが出来る。すなわちそれは、真実と方便(ほうべん、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた法門)とを対簡(たいけん、対比し選び分けること)することによって、そこに弘願(ぐがん、広大な誓願、阿弥陀仏の本願中、特に第十八願を云う)真宗の実義(じつぎ、真実の意義)がいよいよ開詮(かいせん、詳しく説き明かすこと)されているといってよい。故にその前五巻は真実を顕わすものとしてこれを顕是(けんぜ)の巻といい、第六巻は方便を簡(えら)ぶものとして顕非(けんぴ)の巻とされている。すなわち顕是の巻においては真実の教・行・信・証を明かし、顕非の巻にあっては、方便の四法が明かされているのである。四法というのは教・行・信・証の四法であるが、その証から真仏、真土を開示することによって六法が展開されるわけである。
ではその真実の教行信証とは何であるかというに、まず教とは『大無量寿経』の教えをいい、行とは南無阿弥陀仏の名号をいい、信とはその名号を信ずることをいい、証とは信ずることによって仏の悟りを開くことをいう。また真仏、真土というのはその悟りを開く浄土のことをいうのである。
次に方便の教行信証というのは、方便化身土巻に説かれるところであるが、教とは『観無量寿経』と『阿弥陀経』の教えをいい、行とは自力の万行と自力の念仏をいい、信とは自力の信心のことをいい、証とは化土(けど)に往生することをいうのである。

●あとがき
方便(ほうべん)と言う言葉が出て参りましたが、一般には「嘘も方便」と云うような使い方をされており、『方便の教え』と言いますと、嘘の教えと誤解されるかも知れませんが、そうではなくて、自力に頼りがちな私たちを何とかして真実の教えに導こうとするお釈迦様の慈悲心から出ている教えと考えるべきでありましょう。


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No.965  2009.12.17
大脳皮質の功罪

「仏法は頭で理解するものではない」とよく言われる。殆ど全ての講師方、特に浄土門の先生方は「知識はむしろ必要ない」とまで言われます。もともと日本の浄土門の始祖である法然上人は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と仰ったそうであります。 今法話コーナーでご法話を連続転載させて頂いている米沢先生も、「人間の意識は、大脳皮質の意識層、大脳辺縁系の無意識層、その奥底にある超越的無意識層の3層構造になっているのではないか、そして、超越的無意識層の目覚めが仏法の悟りとか信心獲得(しんじんぎゃくとく)と言えるのではないか」と仰っておられます。

そう云う考え方をされるのは無理も無いとは思います。実際、数十年間に亘って法話を聞いたり、仏教書を読み漁るだけでは、いわゆる禅門で言うところの悟りが開けたり、浄土門で言われる安心(あんじん)を獲ることにはならないからであります。仏教研究と信心獲得(しんじんぎゃくとく、お覚りの事)の間には説明のつかない深くて広い溝が有るのは誰しもが感じているのではないかと思います。

しかし、宗教(或いは信仰)を求めて、安穏な生を全(まっと)うするのは人間にしか見られないと思います。従って、私が思うには、それを可能ならしめているのは大脳皮質が発達した人間だからこそだと思いますので、大脳皮質を目の仇にする事には私はどうも全面的に賛成致しかねているわけであります。

そもそも人間同士のコミュニケーションは大脳皮質の脳細胞の働きが無ければ成り立ちません。 仏法も法話を聞いて理解したり、経典や仏教書を読んでお釈迦様の教えを知ることが出来るのは、実に大脳皮質の140億もあると言われる脳細胞の働きのお陰ではないかと思うわけです。

しかし、お釈迦様の「この世のことは縁に依って起こる」ことを聞いて理解し納得致しましても、また、「宇宙のあらゆる存在とその働き、そして周りの人々の支えがあって生かされて生きている我が身である」ことを理解し納得出来たと致しましても、我が心の悩みはいっこうに消えず、安穏な人生に程遠い日常生活を繰り返していると云うのが私たち大方の感じているところではないでしょうか。

さて、仏法がある意味で否定的に捉えているその大脳皮質でありますが、私はむしろ大脳皮質を大いに使うことに依って信心獲得に到るのではないかと推察しているところであります。その使い方が問題だと考えております。

人間の大脳皮質にある神経細胞の数は乳児の時点で既に約140億あるそうです。しかしその重さは、乳児で400gですが成人になりますと1400gにまで増えるようであります。その重量の増加は、神経細胞同士のネットワークを形成するに必要な『シナプス』と云う微小組織の増加に依るようであります。詳しいことは分かりませんが、シナプスが神経伝達物質を神経細胞間でやり取りしてはじめて、人間は眼で見たものが何かを認識したり、記憶を蘇らせたり、連想したり、工夫・創造したり出来るそうであります。
従いまして、ノーベル賞を受賞する科学者達は、そのシナプスの量が多く、脳の重さは私よりも必然的に大きいと言われています。

『シナプス』は成長と共に増えて行きます。勉強したり、友達と遊んだり、色々な経験をしながら増やして行くのでありますが、このシナプスのネットワークの形成のされ方において、多分、誰でも自己中心的傾向が強くなるのではないかと想像しております。それは、親が子どもを育てるに当たっては、子供が世間を生きて行く上で絶対的に必要だとして、自分のことは自分で守るべきと云う教育方針を立て、「他人によりも、自分にとって都合の良いように思考する」ように訓練するからではないかと思われます。

こうして形成されたネットワークは、実に強固であり、他人の為に尽くせと言うアドバイスを受けても、ネットワークは受け付けないのだと思います。乳幼児から営々と築き上げたこのネットワークを壊すことは不可能だと思います。このネットワークを『煩悩ネットワーク』と言ってもよいと思います。

浴びるほど法話を聞いて、自己中心のネットワークに負けない利他のネットワークを形成したいものですが、それは今更難しいと思われます。私はお釈迦様と同じ悟りに到るには、大脳辺縁系が持つ生存本能(食欲、性欲、集団欲)を大脳皮質で思考する、『誰よりもより良く生きたい』と云う非常に強い自己愛が目覚めた時に、『煩悩ネットワーク』が、『利他ネットワーク』に転換し始めるのではないかと考えています。

それを仏法は古来から「煩悩即菩提」と云う表現で説いているのではないかと・・・。
以上は、現在只今の私の脳細胞ネットワークの必死なるアガキの途中経過報告であります。

合掌


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No.964  2009.12.14
教行信証を披く-予備知識①

● まえがき
『仏法』はお釈迦様が説かれたものでありますが、『法』とは『真理・真実』と云うことであり、たまたま、悟りを開いて仏となられたお釈迦様が説かれた『真理・真実』でありますから『仏法』と称するだけであり、『仏法』は世界の一宗教である仏教の教理と云うものではなく、『この世の真理』、或いは『宇宙の真理』と言うべきものであります。

でも、『真理・真実』とは何でしようか?誰が『真理・真実』と認めたらこの世の『真理・真実』と言えるのでしょうか?私は、時代や地域・人種を問わず、世界中の全ての人々が誰一人残らず『真理・真実』と認めたものだけを『真理・真実』と云うべきだと思います。

私は不勉強ですので分かりませんが、その『真理・真実』を生涯徹底して求め続けられたのが親鸞聖人だと多くの先輩諸氏が言われています。それを象徴するように、主著書の題名に『真実』と云う言葉が入っているのは真実を求めて止まない親鸞聖人だったからではないかと思われます。

『教行信証』の本文の勉強を直ちに始めてもよいのですが、題名の事や、親鸞聖人がどうしてこの書物を書き表されたのかと云う事や、何時頃に書かれたものかを予備知識①として知っておきたいと思います。そしてまた、書物がどのような構成をされているか(目次的なこと)を予備知識②として知った上で、中味の勉強に入って参りたいと思います【再来週から、『教行信証』の有名な冒頭が「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、・・・」で始まる『総序』の勉強に入ります】。

●題名に付いて
『教行信証』は略称でありまして、正式には『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』と云うようであります。しかし、略称名に在る〝信〟が無くて正式題名に〝教・行・証〟しかないのはどういうことでしようか?「ただ信心を要とすとしるべし」と言われた親鸞聖人ですから、不思議に思うのですが、『顕浄土真実教行証文類』の構成が、教巻・行巻・信巻・証巻・真実土巻・化真土巻となっておりますものの、信巻は後から付け加えられたと云う説もあるそうです。そのあたりの事は他力の信心を求める上では、それ程に重要ではないと思いますので、その道の研究者にお任せしたいと思います。

●親鸞聖人と教行信証
『教行信証』は浄土真宗の立教開宗の根本聖典と言われていますが、それは宗派としての浄土真宗の言い分ではないかと思われます。また、親鸞聖人が師と仰ぐ法然上人の『選択本願念仏集』の注釈書であるとか、法然上人滅後に、その門弟達の間に異議が輩出していたのを嘆げかれて、法然上人の真実の教えを明らかにする為に著述されたと云う見解もあるそうですが、私は、そう云う思いも抱かれたかも知れませんが、むしろ真実の仏法とは浄土の真実を説く教えであることを過去七高僧の著述などを引用しながら理論的に論じ、後世の仏法者に言い残したい思いで、老齢に鞭打ちながら完成させたものではないかと推察しております。

●教行信証の製作年時
製作年時には諸説あるようですが、広く認められているのは、親鸞聖人が関東に居られた鎌倉時代の元仁元年(西暦1224年、親鸞52歳)に著作され、親鸞聖人が74、5歳の頃までに加筆・訂正されて完成したものではないかと言われているようであります。

親鸞聖人は、35歳頃に越後の国の国府(現在の新潟県上越市と云う説もある)に流罪され、42歳の時に、常陸の国(現在の茨城県笠間市)に移られ、63歳の頃に生まれ故郷の京都に戻られたのでありますが、『教行信証』は関東ご在住の後半から、京都に帰られてから和讃を製作される80歳以前には完成されたものと考えればよいのではないかと思われます。

●あとがき
浄土と云うのは『真実の世界』のことでありますから、『顕浄土真実教行証文類』と云う題名は、真実の世界に目覚めるための「真実の教え」「真実の行」「真実の信心」「真実の証し」を顕しますと云う気持で親鸞聖人が決められたのではないでしようか?

『真実の世界』の反対は、『私たちの日常生活の場である娑婆世界』です。そう申しますと、一般の方々は「否、私がこの眼で見て、感覚している私を取り巻く世界は確かに存在しており、これは真実以外の何ものでもない」と仰るかも知れません。しかし、残念ながら、真実に目覚めていない私たちは真実を見ては居ないというのが仏法の考え方ではないかと思います。

例えば、対人関係においては、自分の知識と経験から相手の考え方を憶測して決め付けてしまいがちなところがあります。特に最近のマスコミの報道は事実を把握せずに、決め付けてしまった論評が目立ちます。真実・事実を報道するのがマスコミの仕事でありますが、特に政治の世界の報道においては、憶測記事、捻じ曲げた報道が多いように思われます。 こう論評している私自身が過去の経験に照らしたり、キャスターの人物を正しく把握せずに、憶測でマスコミ批判をしている訳であります。

従いまして、私たちに見えている娑婆世界は必ずしも真実ではないことに気付きなさい、目覚めなさいと云うのが仏法の説くところだと思います。 私自身、真実とは何かを常に意識したいと思っていますが、親鸞聖人が目覚められた真実の世界、そして、それに至る教・行・信・証をしっかりと勉強したいと思っています。

合掌


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No.963  2009.12.10
続々―私の人種差別論

丁度1ヶ月前に、『私の人種差別論』と『続―私の人種差別論』と云う表題でコラムを書きました。その後、しばらく経ってからお一人の読者殿から、「重篤な犯罪を犯す人のことを種類の違う人間として解決されようとしていますが少し違和感を感じています。」と云うご意見を頂戴しました。その方は発達障害などを含む障害者のお世話をされていらっしゃる立場から、『“重篤犯罪者”=社会の犠牲者』と云う考え方も出来るのではないかと考察されていました。

ご感想を頂いたことに対しては下記の返信メールを差し上げましたが、その方が感じられた〝違和感〟に対しましては、「大切なお問い合わせでございますので、お答えには少しお時間を頂きたいと存じます。」とさせて頂きました。今日のコラムは、そのお答えの積りではあります。お答えになっていないかも知れませんが、私なりに1ヶ月考察して至ったものであります。

返信メール:
この度は、ご感想メールを真に有難うございました。
私の『人種差別論』に違和感を感じられたとの事、書いた人間が言うのもどうかと存じますが、素直なご感想だと存じております。仏教の正当な考え方からしますと、私自身少し無理があるかなと思っております。仏教徒がよく陥る「すべては業のなせるところだ」と云う考え方に一石を投じようとしました。
確かに人夫々に異なったものを背負って生まれて来ているように思いますが、だからと言って、凶悪犯人を認める訳にはいかないだろうと・・・。凶悪犯人も別になりたくてなった訳ではなく、生まれ育った環境、成長するに連れて築き上げた人間関係等など・・・様々な条件が重なって、犯罪を犯すことに至ったと云う、多くの仏教徒が古来から持つ業思想は、お釈迦様の説かれた縁起思想とは異なるのではないかと思うのです。
障害と犯罪の問題は、私の今回のコラムの論点から大きく外れている問題だと思います。医学・医療が扱うべき問題ではないかと思う一方、仏教の考え方「差別があるままに平等」が根本になければならないのではないかと思います。
―返信メール終わり

違和感を感じられたのは、障害者をお世話されているお立場から、『障害者を差別してはいけない、差別して欲しくない』、『障害者こそ犠牲者だ』と云うお考えを常日頃お持ちであるにも関わらず、仏教イメージとして一般化されている『一如』、『平等』、『慈悲心』とは逆イメージである『差別』と云う言葉を正当化した仏教コラムだったからではないかと考察しました。

私もある程度意識してショッキングな題名を用いたことも確かですが、仏教で云う『一如平等』とは、『同一一味』を意味するものではなく、「この世に存在するもの、この世に生きるものは、特性・外観は夫々異なりながらも、同じく平等に尊い存在同士である。」と云うことを言いたかったことと、中でも尊い命を認識出来る能力(他の生物に較べて特別発達した大脳皮質)を戴きながら、その自己の尊い命を認識しないままに育ち、結果的に他の尊い命を奪ったり、他の命や立場を軽んじたりする人間になってしまっては、誠に残念であり、悲しく口惜しいことだと訴えたかったのだと振り返っています。

最近、私は今この瞬間この世に生きている生物は、すべて同じ40億歳だと思うようになりました。ウォーキング中に目を楽しませてくれる草木達も、その命を過去に遡っていけば、私の命と同様に、果てしない過去、地球に生命らしきものが誕生したと言われる40億年前まで遡ることが出来る、否、極論すれば、宇宙の誕生時点まで遡れる、同じ無量寿を生きている命の仲間ではないかと思うようになりました。

そしてそれは生物だけではなく、例えば、私の家の仏壇に、母の形見のように考えている一体の〝こけし〟がありますが、その〝こけし〟も、その姿に至る歴史を遡ると、本体のもとは何処か(外国かも知れません)の山で生きていた木と云う命であったでしようし、綺麗な塗料は何処かの野原で美しく咲いていた花びらだったことでしょうし、首に掛けられた金色のネックレスは、何処かの山で採掘された鉱物だったでしょう。それらも、結局は宇宙の誕生時点にまで遡る命であり、それらが無限の時間をかけ、しかも寄り集まって、今一体の〝こけし〟として私と同じ瞬間を生きているように思う時があります。

そう考えますと、目に見えるものすべては、今を共に生きている命の仲間だ、誠に尊い命だと思うのです。そして、例えば犬や猫達はその自分の尊い命を認識することは出来ませんが、幸い私たち人間に生まれたものは、自分の命の尊さを認識出来る能力を与えられています。

その尊い命をお互いに大切にしたいものだと思います。そう云う意味では、残虐殺人を犯した凶悪犯人達は犬猫達と同じく自分の尊い命に気付かず、従って他の尊い命を思い遣れずに他の命を奪ってしまったのだと思われます。言い方を変えれば、命の尊さを知らされないまま育てられてしまった社会の犠牲者と言えるかも知れません。

そう云う意味では、障害者とか健常者と云う区別ではなく、人間は人間として生まれた尊い命を知る能力と権利(或いは義務)があると思います。尊い命を認識出来ない動物達でさえ、同じ仲間で殺し合う事は無いそうであります。人間社会は、犯罪の無い、また自殺の無い世界を実現することに努力を惜しんではならないと思います。道は程遠いけれども、一人ひとりがささやかな努力を積むしかないのだろうと思っている次第であります。

合掌


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No.962  2009.12.07
教行信証を披く-はじめに

● まえがき
いよいよ、親鸞聖人の主著書『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の勉強を始めさせて頂くことになりました。経典勉強のタイトルを『教行信証を披(ひら)く』とさせて頂きましたが、『披』は「結婚式の露宴」に使用されている馴染みのある漢字でありますが、『披(【音読み:ヒ、訓読み:ひら(く)】』と云う漢字には、「あける、ほりおこす、身につける」と云う意味があります。私は初めて『教行信証』の本を開きますし、親鸞聖人のご勉強の跡が記されているといわれている『教行信証』を知的興味を以って勉強したいと思いますので、『教行信証を披(ひら)く』とさせて頂いた次第であります。

●使用する教科書:
原文を読み解く学力も能力も持ち合わせて居りませんので、私は、『教行信証の意訳と解説』(永田文昌堂、昭和50年4月1日出版、1002頁)と云う高木昭良師(大正5年~昭和60年)を教科書として勉強して参ります。本の厚さが5.5cmもあり、文章には難しい漢字や熟語が並んで居り内容量そのものが相当膨大なもののように思われますので、果たして生きている間に勉強し終えられるのかどうかも分かりませんが、運よく読み終えることが出来れば幸いだと考えて、焦らず、丹念に勉強して参りたいと考えております。

●勉強の仕方:
親鸞聖人の原文は漢文ですが、私は漢文を読めませんし、読める人も今では少ないと思いますので、訓読み文を転載し、意訳文も転載させて頂いた上で、その意訳文も一般の方々には難解なところも多そうですので、仏教に初めて接する方々にも理解出来るように努力して参りたいと考えています。意訳文の更に意訳にチャレンジしようと云う訳であります。

従いまして、難しい漢字や熟語の勉強も兼ねますので、進む速度はゆっくり・ゆっくりを心掛けたいと思っております。

●勉強に当たって最も心掛けたい点:
知的興味を以って勉強して参りますが、私たちは確かな信心を獲て、自分がこの世に生まれて来た意味を確かなものとして受け取れねば何にもならないと思いますので、学問的な知識も身に付けつつ、信心を確かなものにする為に勉強していることを常に忘れずに進めて参りたいと思っております。

●あとがき(読者へのお願い)
お読み下さって分からない漢字や熟語、或いは私の意訳文章自体に分からない点や、疑問に思われる点がありましたら、遠慮無くご指摘或いはご指導を頂きたいと思っております。共に勉強して行くと云うお気持をお持ち頂けたら実に幸いであります。

合掌


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No.961  2009.12.03
人生苦=仏法の応用問題

私たちは、人生で色々な苦難に出会う。嫌な事、悲しい事、辛い事に出会う。人生では楽しい事にも出会うが、気の所為かも知れないが、苦難の方が圧倒的に多いと思うし、その出会っている時間・期間が長いように思うのは私だけだろうか。

さて、『=』とか『応用問題』と云う表題は難しそうで申し訳ないが、一応、現役の科学技術者として格好をつけただけであるとしてお許し頂きたい。

算数・数学には、ある決まりとか定理と云われる、それをどうしても覚えなければ応用問題が解けないと云う基礎知識がある。『三角形の内角の総和は180度』とか、『平行な2直線に一つの直線が交わって出来る同位角、錯角は等しい』とか、『円の面積は、半径×半径×円周率(3.14)』等など、小学校で覚えなければならない基礎知識だけでも凄い量であるが、これらの基礎知識が無ければ、中学・高校・大学の入学試験に出る応用問題を解くことが出来ず、希望する進学は覚束(おぼつか)ない。

仏法と人生の間にも同じことが言える。平生、いくら何回念仏を称えていても、人生苦に出会った時に、それを有意義に乗越えられなければ、仏法を体得している、或いは仏法が分かっているとは言えないと思う。ご法座の席でも、インターネットサイトでも、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と繰り返し称えている人も多いのであるが、果たして人生苦と云う応用問題をしっかり解けているのであろうか、人間関係に問題は無いのだろうかと要らぬ心配をしている。しかし、これは決して他人事ではない。仏教コラムを書き続けている私自身、本当に厳しい応用問題に出会った時、仏様が『◎』を下さる答えが書けるのか、自誡せねばならないのである。

仏法は、嫌な事、悲しい事、辛い事に出会った時に、平静に淡々と受け止めよとは言わない。愛しい人の死に遭遇した時は泣くしかない。「涙が枯れるまで泣いたら良い」と云う考え方をするのが真っ当な仏法だと思う。辛い事に出会った時にも「一切愚痴をこぼすな!」と言わないし、嫌な人を好きになれと云う無理なことも言わない。

では、算数や数学の基礎知識に相当する人生の基礎知識と云うか、基礎的な考え方と云うか、基礎哲学とも云うべき仏法とは何であろうか。

米沢先生は、仏法は『魂の重心』と言われているけれども、その重心とも言う「とどのつまりの考え方」は何かと云うと、私は、『人生で出会う嫌な事、悲しい事、辛い事は、あなたが必要なことでは無くて、あなたに必要なことだ』と云う仏法の考え方なんだと思う。 誰しも嫌な事、悲しい事、辛い事は自分には必要ではない。出来れば一生そんなことに出会わずに済ましたいと言うのが誰しもの願いだと思う。しかし現実はそうはいかないのだ。である限り、「私たちが出会う、嫌な事、悲しい事、辛い事は、すべて自分に必要なことだと受け止めて生きて行こうではないか」と云うのが、『仏法の勧め』なのである。

そして、その出会った嫌な事、悲しい事、辛い事を通して自分と向き合い、自分とは何か、何の為に生まれて来たのか・・・と、本来の自己に出遇うに必要な出来事だったと振り返りたいものである。 『本来の自己』とは、前回のコラムで言及した『無量寿・無量光の世界に生きる私』だと私は思う。私を育て上げるのに万全の心配りをしてくれた両親、そしてその両親と同じ位に命を守り継いでくれた過去無数の両親達の40億年にも亘る苦労を思う時、私の命がどれ程掛け替えの無い尊いものであるかに気付くに違いない。その気付きが、実は人間として生まれた私の一番大切な目的だと思う。そして仏法は、その気付きを促す教えなのだと思う。

『本来の自己』に気付けば、自ずから世界が変わり、人生の生き方が変わるに違いないと思う。 ただ、気付きがあっても嫌な事、悲しい事、辛い事が無くなる訳ではない。でも、それらは自分が必要としていることではないが、自分に必要なことだと受け止め、前を向いて生きて行ける自分が居るに違いないと思う次第である。

合掌

追伸: 法話コーナーに連載中の米沢秀雄先生のご法話『何故、仏法を聞くのか』を併せてお読み頂きたく思います。


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