No.960  2009.11.30
無量寿・無量光を生きる私

無量寿(むりょうじゅ)・無量光(むりょうこう)を生きる私と云う表題は、米沢秀雄先生のご法話『何故、仏法を聞くのか』を読ませて頂いる中から拝借したものであります(後刻アップする「魂の重心→念仏は領収書」をお読み頂きたいと思います)。

『無量寿』と云うのは〝無限の時間〟のこと、『無量光』とは〝無限の宇宙空間〟と解釈されていますが、無量寿・無量光を生きる私と云うことは、「私の命を過去に辿って参りますと、地球が出来たのは46億年前と言われていますが、その地球に生命らしきものが誕生したのは最近では40億年前と考えられていますから、私の命は40億年受け継いで来られたものだと言えます。しかし、その命を生まれせしめた働きは、太陽を生まれさせ、そして宇宙を生まれさせた無限の過去から働いて居たのでありますから、私の命は無限の過去から続いていると言うべきであります。故に、無量寿を生きている私であります。」また、「今の私の命は、地球のあらゆる生物の命を戴き、そして空気、水、鉱物、太陽の光が無ければ生まれてもいませんし、今を生きることも出来ません。そして太陽が現在無事に存在しているのは銀河系の星達の存在に支えられ、銀河系は宇宙全体の星達との万有引力で支えられています。故に、無量光に生きている私であります。」

さて、この無量寿・無量光を生きている私を、もっと実感させてくれましたのが、昨日の日曜日の神戸新聞の『理科の散歩道』に掲載された〝太古の地球〟と云うコラムであります。
今、地球温暖化対策が世界の、否、人類の課題となっておりますが、この地球温暖化はヒトと云う生物の活動に伴う大気中の二酸化炭素の増加に依るとされていますが、太古の地球にも大気の成分が激変するという大事件があったそうであります。

地球が誕生して間も無いころの原始生物は、現代日本人が自殺に使用することもある人間にとっては有毒の硫化水素ガスなどから有機物を合成したり、海水に溶けている栄養分を利用してエネルギーを作って生きていたそうであります。その頃の地球の大気には酸素は無く、その頃の生物には酸素は有害な物質で、酸素が無いことは都合が良かったらしいのです。

やがて海水中の有機物が減少し、原始生物達に飢餓の危機が迫ります。すると太陽の光を利用して光合成を行い、二酸化炭素から有機物を作り出すシアノバクテイアなどが出現し、自分で栄養を作る能力を身に付け、飢餓の危機を脱しました。しかし、光合成の結果として酸素が発生し、太古の地球に酸素の増加という〝大気汚染〟が生じたそうであります。

いまでこそ人間を含めた動物は酸素無くして生きられないのでありますが、当時の生物の多くは、この酸素に依って絶滅の危機にさらされたということであります。ところがこれまた不思議なことでありますが、この酸素を利用して莫大なエネルギーを生み出す細菌が出現し、またまた地球上の生命は危機を脱しました。そしてその細菌は別の生物の細胞内にも入り込み、共生してこの生物をも生かすことになり、その生物は徐々に大型化して活発な高等動物へと進化し、私たちの祖先〝ヒト〟が誕生した訳なのだそうであります。

こう言う地球の歴史、ヒト誕生の歴史を知りますと、私の存在は実に不可思議なものだと実感されます。それにまた、ヒトもいつまでもこの地球に存在することも無いのかも知れないとも思えて参りました。数億年、数十億年の単位で地球の未来を考えますと、全く別の生命が誕生している可能性の方が高いようにも思えます。

そう考えますと、無限の過去から受け継いで来ているこの今の私の40億歳と云う命の不思議さ・尊さを思わずには居られません。
親鸞聖人の時代には、未だ地球が丸いことも、地球が太陽の周りを廻っていることも知られていませんでした。この地球の誕生や生命の誕生の真実、そして宇宙の真実も、また、昨年日本人物理学者達がノーベル賞を受けた微粒子(クオーク)のことは及びもつかなかった事だと思われます。でも、その無量寿・無量光に生かされて生きておりながら、煩悩具足・罪悪深重の凡夫の身である自己を嘆かれ、その自己を自覚されることに依って、阿弥陀仏の他力本願の念仏に救われた親鸞聖人を思う時、ぼやぼやして居られない現代に生きる私であると思うことであります。

「仏法は難しく考えることではない、別に『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』も読めなくとも良い。『法華経』も分からなくとも良い。仏教の哲学と言われる『唯識』も理解できなくとも良い。ただ、無量寿・無量光の命を生きていることを自覚し、多くの他の働きと支えに依って生かされて生きている自己の真実に目覚めることが仏法を聞く目的である事を忘れてはならない。念仏はその仏法を受け取った領収書なのだ」と言うのが米沢秀雄先生のご遺言ではないかと思います。

合掌


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No.959  2009.11.26
成功は失敗のもと、失敗は成功のもとー真実を求めて

私は昨年からある技術開発に取り組んでいる。工業における開発には、大きく分けて、世の中に無い品物を創り出す製品開発と、製品の新しい製造方法を開発する技術開発がある。現在私が取り組んでいるのは後者の技術開発である。

世界の技術者の殆どは私と同じ技術開発をしている技術者と言ってもよい。テレビなども、年々進化し画像は綺麗になっているが、これも技術開発の中の一つの例である。今は車もハイブリッド仕様とか、電気自動車が脚光を浴びつつあるが、これも技術開発によるものである。

技術開発は試行錯誤の繰り返しである。失敗が付きものである。失敗と成功の繰り返しで技術が進化して行くのであるが、圧倒的に失敗の方が多い。だから、一般的には技術者は精神的に強くなければとても務まらないと言えるのであるが、視点を変えて、真実を知る、真実に迫ろうと云う知的興味、好奇心を満足させようと云う姿勢で臨めば、失敗もあまり気にならなくなるのではないかと思う。

何故失敗が多いのかと云うと、成功体験から導き出した理屈(格好良く言えば理論)に間違いが多いからである。要するに、技術者がある成功事例から知り得た真実は宇宙の真実のホンの一部でしかないのであるが、頭の回転のよい技術者(セッカチと言うべきだと思うが)程早ガッテンして自分の理論を打ち立てて、「これまでの結果がこうだったから、こうすればこうなるはずだ!」と勇んで、新しいテスト(実験、試作)をするのであるが、失敗に終わるのが常である。その時の落ち込みは激しいものがある。私は大学を卒業してから殆ど開発に携わって来たが、ガックリしたことが殆どで、「やったぁー!」と悦び勇んだことは精々1、2回なのである。

これは私が技術者としてレベルが低いと云う証拠でもあるが、決定的に欠けていたと思うのは、真実を追究しようと云う真摯な科学的姿勢である。成功とか失敗に一喜一憂するばかりで、現実・事実を直視しようとせず真実を取り逃がしていたのだと思う。

成功も一つの真実が見えたことであるが、失敗も一つの真実に出遭った瞬間だったのである。成功も一つの情報、失敗も一つの情報、大げさに言えば、成功も失敗も宇宙の真実が目前につぶさに現れただけのことだったのである。

成功も失敗も、技術の進歩には同じ位に大切な事実なのである。64歳にして始めて気が付き、最近は、「こうなるはずだ」と期待して試作して失敗に終わっても、その失敗を以前よりは大切な情報として冷静に扱えるようになったように思う。勿論、成功して早くお金に結び付けたい気持ちは切なるものがあるが、真実を一つ一つ確かめて行く喜びも、お金には代え難いものがあると思えるようになったのである。

真実を追いかけていくと言う意味では、何も技術開発に限らないと思う。スポーツの絶好調とスランプにも当て嵌まると思う。かなり前にマリナーズのイチロー選手が、「スランプを精神的に乗り越えるのではなく、確かな技術で乗り越えたい」と云うようなコメントをしていたことを思い出しているのであるが、このコメントも真実を追究する姿勢から出たものでは無かったかと思う。
スポーツだけではない。真実を追求することが重要なのは人間社会で起きる様々な現象にも、また日常生活における人間関係にも言えることだと思う。

私ももうかなり年老いてしまったが、人生はこれからも続く。元来仏法は真実を大切にする教えである。あらゆることに対して真実を求めて行く姿勢を忘れないでいきたいと思う。

合掌


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No.958  2009.11.23
親心

私には母からの遺産として受け継いでいる仏教関係の書物が約200冊あります。昭和20年位から母が亡くなった昭和61年までの約40年間に亘って集められたものですから、見事な古本ばかりです。
その中では比較的新しい『聖典(浄土真宗)』(明治書院出版)と云う、浄土真宗が最も大切にしている経典類や歎異抄、親鸞聖人の書簡集等を集めて編集された、謂わばキリスト教における聖書のような存在の本がございます。

ある時、その本の裏表紙に次のような記述を見付けました。

  釈尼智光 昭和12年4月25日  贈 昭和59年4月25日
  大谷公子 行年8才          大谷政子

私の母は、公子、玲子、圭子、洋子、靖彦、國彦(私)の6人の子供が生まれましたが、長女の公子(きみこ)が丁度小学校に入学したての4月25日に突然病死(多分、肺炎だったろうと思われます)してしまいました。 母は、当時としては珍しい、働く女性(教師)でした。田舎から知り合いの娘さんを家事見習いとして呼び寄せ、子供の世話もその娘さんに任せて働きに出ていました。母は、突然の我が子の死を他人任せにした自分の所為だと自分を責めたようであります(でも、お手伝いさんを責める気持ちもあったのだろうと思われます)。
それから母は勤めを辞め、信心深かった祖父の影響だったと思いますが、仏法の話を求めてお寺を訪ね歩く日々が続いたようであります。そして、ある法話の席で、自分の人生の考え方に大きな誤りがあったのだと気付く瞬間があったそうであります。そしてそれは、長女の死を漸く受け容れられ、前を向いて歩いていける気持ちが芽生えた瞬間でもあったのだと思います。

その後、あの戦争を経て、長女公子が亡くなってから13年後(昭和25年、私が5歳の頃)に垂水見真会と云う仏法を聞く会を立ち上げることになったと云う経緯がございます。

私は、上述の裏表紙の記述を見て、亡くなって47年も経っているのに、未だその幼くして死なさせた我が子を想う親心に、『親心の深さと強さ』を感じますと共に、そう云う母親のもとに生まれた自分の幸せをも思った次第であります。

ただ、上述した聖典の裏表紙に記述した母の想いには、単に我が子を想う気持ちだけではなく、その我が子の死を機縁として仏法に出遇わしめた仏様の大慈悲心とも云うべき『親心』への感謝が強く込められていたのだと思います。

考えてみますと、無相庵ホームページが生まれましたのも、その長女公子(きみこ)の死が大きな縁となっているのだと思い、私も『親心』に依って生かされていることを実感するばかりであります。

合掌


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No.957  2009.11.18
有り難く遇い難い

12月に入りましてから、親鸞聖人の主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を勉強させて頂こうと計画しております。『教行信証』は、正確には『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』と云うのだそうであります。私はこの書物の名前は幼い時から聞いておりましたが、一度も読んだことはございません。ただ、この書物の序文と云われる『総序』だけは、母が折りに触れて口ずさんでおりましたので、今も部分部分を暗記しています。

その中でも、浄土真宗関係の方ならどなたでもご存知の『たまたま行信を獲(え)ば、遠く宿縁(しゅくえん)を慶(よろこ)べ』と、『ここに愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の親鸞、慶ばしきかな、西蕃・月支(さいばん・げっし、インド・パキスタン・アフガニスタン地域のこと)の聖典(経典)、東夏・日域(とうか・じついき、中国と日本のこと)の師釈(高僧方)に、遇い難くして今遇うことを得たり、聞き難くして、今聞くことを得たり』は極めて印象深く、母の声が今も耳底に残っております。 この総序は、親鸞聖人が他力本願の教えに出遇えた慶びをしみじみと書き残されていらっしゃる名文であります。

『たまたま行信を獲ば・・・』」の『たまたま』と言うことは単に偶然と言うことではなく、「有り得ない縁に恵まれて・・・」と言うニュアンスだと思いますが、私たちも、親鸞聖人と云う方がたまたま日本に生まれられたお陰で、仏法に遇い、中でも在家の私たちが救われる唯一の他力本願の教えに出遇えたことを慶ばねばなりません。

さて、最近、私は血圧が異常に上がる瞬間があり、主治医の勧めで脳のMRI・MRA検査を受けました。その結果、小さいけれども過去に脳梗塞を起した痕跡が2箇所見付かりました。また、右脳の血管の一部が細くなっていることも分かりました。専門医の診断では、急を要する程ではないそうですが、『脳梗塞での重度障害や死』を現実のものとして受け取るようになっております。そうなりますと、そろそろ自分の死後が気に掛かります。そして一番気に掛かるのが妻の行く末であります。

今住んでいる家は、実は妻と娘の名義で金融機関からの借り入れ金で建てた家ですが、現在何とか返済出来ているのは親族のご支援と、私に年金と技術顧問としての収入があるからですが、私が亡くなれば、妻一人の働きではとても返済出来ませんので、妻は直ぐに家を明け渡さざるを得なくなり、即、路頭に迷ってしまう状況にあります。

最近、テレビのニュースや報道番組に意味を見出せないようになり、なるべく見ないようにして、夫婦の会話を増やしているところでございますが、そういう中で今朝は上述の事情がありますので、「もし私が脳梗塞で倒れたら・・・・」と云うテーマでの会話となりました。

もし私が倒れますと妻は今の家を失いますし、収入も僅かな年金しか入らなくなりますので、「生きていると人の迷惑にしかならないから自殺しかないね、自殺する人のことをあながち批判出来ないね!」と、自殺する勇気も無い癖に短絡的合意を導き出し、そう云う悲惨さを回避するには、兎に角私が妻よりも一日だけでもよいから長く生きねばならないのだと云うのが、今朝の私たち夫婦の結論でした。
これで終われば今日の表題『有り難く遇い難い』は生まれませんでした。

その会話を終え、仏前で5分間座禅をした後、私は毎日糖尿病治療の一つとして続けている約50分間の『ウォーキング』に出掛けました。その道すがら、妻との会話を反芻しつつ、親鸞聖人と会話を致しました(親鸞聖人ならどう答えられるかと・・・)。

確かに財産もなく収入は年金のみ、その上片方が半身不随の老人の老夫婦の生活には何の希望も無いというのは誰にも想像出来るものだと思います。老々介護の行く末に希望の光は見えません。
無理心中を選択する老夫婦を簡単に批判することは出来ません。しかし、「生きていることが、子供達の迷惑になるから、人の迷惑にしかならないから・・・」と云う考え方は、仏法の考えから大きく外れたものだと思い直しました。

私は今誰にも迷惑を掛けないで生きていると思っているのだと反省致しました。勿論、他人に眉を顰(ひそ)めさせるような迷惑を掛けていないとは思っていますが(それもあやしいものなんですが)、大きな恵みを戴いたお陰で生きられているのだと思い直しました。具体的には一昨年の親族からの経済的支援が無ければ今の家は出て行かねばならなかったことは間違いありませんし、それが無ければ、今経済的な希望の光が見えている製品開発の仕事にも出遭えなかったと思うからです。また、糖尿病になっても生き続けられているのはインシュリンや降圧剤、その他の医薬品を苦労して、或いは多くの犠牲者があって開発をしてくれた過去無数の医薬研究者のお陰を始め、医療システムなど無数の恵みのお陰様だと具体的に気付かされました。

迷惑を掛けているかと云う視点ではなく、大きな恵みを受けていないかと云う視点で自分の生命と生活を振り返り見直しますと、「人の迷惑になるから死んでしまおう」と云うことは、実に不遜な考え方ではないかと思い直しました。むしろ、人間は迷惑を掛けながらにしか生きられない存在なのだと思います。
「多くの人の恵みや手助けがあって始めて生きて居られるのだ。そして、そのお返しを私もしていかなければならないのだ」と云うのが親鸞聖人との会話の結論でありました。そして、心がすっきりと致しました。

このように考え直すことが出来ましたのは、親鸞聖人を始めとする多くの先師方のお陰と、私が直接お出遇いさせて頂いた先生方のお陰で、有り難く遇い難い他力本願の教えに、たまたま出遇えたからだと思ったことでありました。
まさに遠く宿縁を慶びたいと存じております。

勿論、現実論としては、私が妻よりも一日だけでも長く生きるべく出来るだけの努力をすることは、無謀にもサラリーマンを辞めて、妻に苦労を掛け続けた夫としての義務であります。

合掌


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No.956  2009.11.16
成仏ということ

教行信証の勉強を始めたいのですが、アマゾンからの教科書到着が遅れております。今しばらく、ご猶予を頂きたいと存じます。

『成仏すること=死ぬこと』と云うのが、一般の方のみならず仏教徒の方々の間でも一般的な受け取り方だと思いますし、私はこの成仏の考え方を間違いだと言う積りはありません。
ただ最近、仏或いは丁寧な言い方をする場合の仏様と云うのは、キリスト教の方々が拝まれる神様とは全く次元の異なる仏教独特の概念であり、はっきり申しますならば『仏様=この宇宙全体に働いている働きそのもの』であり、『成仏すること=働きそのものに成る、或いは還ること』だと確信するようになりました。

『働きそのもの』を言い換えると『変化して止まない』と云うことにもなりましょう。従いまして、成仏とは、「働きそのものに成る」と云うことですから、死も変化の一つの現象である限り、冒頭の『成仏すること=死ぬこと』があながち間違いではないと云うことになるわけであります。

この世で変化しないものはありません。全て変化して止まないのでありますから、私たち人間は誰にしても何れは死を迎えます。即ち成仏致します。私たち人間だけではありません。他の動物も植物も全ての生き物、また生き物だけではなく、地球も太陽も、存在全てが成仏すると言ってよいと思います。

ですから、誰でも成仏出来るのですから心配は要らないのでありますが、犬も猫も成仏しますと聞けば、そう成仏が有り難いとは思えなくなるのではないでしょうか。 そこで、私は人間の成仏は他の生き物とはちょっと異ならねばならないと思っております。でなければ、別に仏教の話を聞く必要もありませんし、人間どんなことをしてもよいと言うことになり、享楽主義を認めることになりますし、前回と前々回のコラムで申し上げた人種差別の意味も無くなってしまいます。

生き物の場合、特に動物の場合の成仏は、肉体がなくなり、いわゆる本能の働きが無くなりますから、不安や恐怖から解放されます。つまり安らかな世界に解き放たれると言ってもよいと思います。私たち人間も肉体の消滅と共にまさに『安らかな眠り』に就くことになりましょう。

しかし人間は、肉体が消滅してからではなくて、生きている間に安らかな世界に生きたいと云う願いを持っているのではないでしようか。否、本当は他の動物達も、安らかでありたいと思う本能を持っているのだと思います。その証拠に、常に安住の場所を求めて移動し続けるのだと思われます。つまり、動物は安らかな世界を求める無意識を生まれながらにして持っているのだと思われます。ただ人間以外の動物達は、残念ながらと言いますか、可哀相なことには、その安らかな世界を意識したり感覚する能力を与えられていません。勿論、人間でも、乳幼児達にも未だその能力が育って居ません。つまり、無意識に安らかな世界を求めている自分を知らないまま生き死にしているわけであります。米沢先生は、その安らかな世界を求めている無意識をオーストリアの精神分析学者フランクルが唱えた超越的無意識と言われたのではないかと考察しております。

そして、人間は他の動物に比べて思考・記憶・企画・創造能力に相当する大脳皮質が飛躍的に発達した動物に進化したお陰で、その超越的無意識(つまり、安らかな世界を求める心)を自覚できる能力を持ったのだと思います。そして、生きている間に『安らかな世界に生きる=成仏したい』と願うようになったのだと思います。否、有り難いことには、生きている間に成仏出来るようになれたのだと思います。

それを親鸞聖人のお考えでは、『本願に出遇う』と云うことではないかと思います。私たちは、肉体を持っている限りは、本能的無意識を持ち、不信・不安・不満は常に頭をもたげますが、私たちが働きそのもの、つまり変化し続ける存在であると云う自覚に一旦目覚めたら(大脳皮質での理解ではなく、超越的無意識に目覚めたら)、常に安らかな世界に立ち還ることが出来るのだと思います。

安らかな世界と申しましたが、それは言うまでも無く、変化し続ける世界であることを無意識のうちに認定した安らかさであります。しかも変化し続けると云うことが、全てが無関係にではなく、お互いが『縁に依り合い』関わりあって変化し続けると云う動かし難い真実に目覚めたことに依る安らかさであります。つまり、今この瞬間に命を戴いて生きている有り難さを感じ、安らかで居られるのは、自分が変化し続ける世界に在り、自分自身そのものが他と無関係に変化する存在では無いと云う認識を無意識に持ち得て初めて可能になるのだと思われます。

小難しい理屈を並び立ててしまいましたが、肉体を持っている限り人間は常にもう一方の自己愛と云う無意識の世界に引きずり込まれがちであります。安らかな世界に住み続けますには、常に聞法、常に南無阿弥陀仏することだと思います。

合掌


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No.955  2009.11.12
続―私の人種差別論

千葉県市川市のマンションで2007年3月、英国籍の英会話講師リンゼイ・アン・ホーカーさん=(当時22歳)=の遺体が見付かった事件で指名手配されていた市橋達也容疑者(30)が2年7ヶ月間の逃走の末、昨夕(11月10日)逮捕された。

市橋容疑者のご両親の冷静な対応に驚かされる一方、私にも息子が居り、お父さんの「罪を犯した息子でも親としてはかわいい」と云う正直なコメントを述べられた心情は分かるような気がしたものである。

市橋容疑者は人間として、してはならない過ちを犯し、且つ贖罪するどころか顔を整形して、あわよくば時効まで逃げ切ろうとしたのであり、前回のコラムの①の人種(法律に照らして云々ではなく、女性や子供は言うに及ばず、抵抗する力の無い弱者の命を直接・間接に無差別に奪う人種)に相当する。ご両親も言われているように、事実を明らかにして、罪を償わねばならない。

私は前回のコラムで、世間に恐怖を与えたり、多大な迷惑や不快を与える人種を差別しなければならないと申し上げた。この意味するところは、弱肉強食の動物社会とも言うべき一面を持つ娑婆世界で生きる人間は自らの命を自己防衛する必要があると思うからである。

ただ、親鸞聖人の『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし』と云う歎異抄の言葉は、そのまま自分にも当て嵌まることを忘れてはならない。否、むしろ親鸞聖人は、自分に対する誡めの言葉として述べられたものであり、罪を犯した人間を差別するためのものでもないし、勿論擁護するために述べられた言葉では決して無いと言うことを付け加えておかねばならない。

報道番組を見ていると、コメンテーター達は、凶悪犯人をただ批判するだけであるが、一歩間違えば、自分もその凶悪な犯罪を犯す可能性を持っており、そう云う凶悪犯の父親にも母親にもなる可能性を決して否定出来ないはずである。私も、もし娘が眼の前で残虐な目に遭ったり、自分自身が許し難い屈辱や危険な目に遭いそうになった場合、私も条件が整えばバラバラ殺人を犯さないとは言い切れないし、もしまた運転者として何かの事情で危険運転致死を犯した場合、環境や条件が整ったならば、罪を恐れて咄嗟に現場を逃げる可能性を否定し切れない。『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし』なのである。

人夫々に異なった業縁を背負って生きている、差別と云うより区別があると云うべきであろう。娑婆世界では罪が許されることは無いし、許すことがあってはならない。無数の業縁に依って起こる事件の中に、事件が起きる主要因があるはずである。大脳皮質を与えられた人間の社会である限りそれらの要因を無くして行く努力をし続けるしかないだろう。

しかし結論としては、自力無効の身を自覚し、且つ、今生かされて生きている現実に「南無阿弥陀仏」しかない。

合掌


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No.954  2009.11.09
私の人種差別論

世の中で言う人種差別とは、生まれた地域別や国別によってのみ優劣を決め込む差別である。或いは同じ国に生まれても、生まれた家の貧富や階級・階層によってのみ優劣と云うレッテルを貼ることと言えよう。 昨年末アメリカでオバマ氏が大統領に選出された時、史上初の黒人大統領と云う修飾語が付くところを見ると、差別が無くなったが故の黒人大統領誕生ではあろうが、やはり厳然として差別があると云うことは否定出来ないのだと思う。

振り返って私自身にも差別意識が拭い去れずに在ると言わざるを得ない。白人と黒人を見比べた場合どうしても白人の方を高等に見てしまいがちである。これは幼い時からの誤った教育に依って頭に刷り込まれた所為ではないかと思っているが、こういうことは決してあってはならないことだと思う(幸い、私の子供達には私が抱いているような差別意識は無いようである)。

一方で私は、人間の生き方、考え方、倫理観においては大きな差があると思っている。つい最近起きた島根県立女子大生殺害事件の報道を知り、その犯人の卑劣・残虐さにあらためて、同じ人間でも人間の形をした鬼・畜生・悪魔が居るとしか思えない。 仏教で、『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)』と云うが、これは、この世に今現に生きている人間の全てが仏心を持っていると云うことではない。仏と成る可能性を持って生まれて来るが、生まれながらに持っている遺伝子(DNA)、育った環境等の縁に依っては、今回のように親御さんが大事に育て上げた何の罪も無い若いお嬢さんを平気で乱暴した上で殺害し、死体をバラバラにして遺棄するような、最早人間とは言えない猛獣・悪魔になってしまうのだと思う。

縁が催せば人間は何でもすると言う親鸞聖人の言葉が歎異抄に遺されているが、それは今回のような残虐な行為を想定した言葉ではないと思う。勿論人間には仏心もあるし悪魔の心を持っていると言うことも一概に否定は出来ないが、昨今の身勝手な無差別殺人事件を思う時、悪魔そのものが人間社会に人間の形と顔をして混じり込んでいるとしか思えない。それは、私を含め私の周りに居る普通の人間が起し得る業(わざ)とはとても思えないからであるが、どうだろうか・・・。

今日の表題を『私の人種差別論』としたのは、現代社会で起きている様々な現象を見たり、報道を見聞きしていると、人間にはやはり歴然として異なった人種(人間の種類と云う意味)が存在すると言わざるを得なくなって来ているのである。

人間の生き方、考え方、そして倫理観で人種を差別する場合、私は次の基準を適用してみたいと思っている。

① 法律に照らして云々ではなく、女性や子供は言うに及ばず、抵抗する力の無い人(弱者)を直接・間接に無差別に命を奪う人種   (;バラバラ殺人、婦女暴行殺人、危険運転致死も含む)。
② 全国民が納得して守らねばならない事として制定された罰則付きの法律・条例を守らない人種(強盗、麻薬、信号無視、騒音や悪   ;臭の条例違反も・・・)。
③ 地域・団体内で決められたルール・約束事を守らない人種(無断欠勤、ゴミ出しルール無視、自転車の無灯火運転、公共の場の使   用ルール違反)。
④ 殆どの人が共通して認めるいわゆる常識を守れない人種(適切な挨拶、TPOに応じた服装、冠婚葬祭への参列)。
⑤ 多少の犠牲を払ってでもしなければならない市民としての義務を果たそうとしない人種(自治会の全体清掃不参加、公職選挙権の 放棄)。
⑥ 他人の迷惑を考えない言動をしたり、弱者や困っている人の立場を配慮せず、無視する人種。
⑦ ボランティアで社会の役に立つことをしない人種。

①の人種は言語道断であるが、現代社会には②~⑥の人種が非常に多くなっている。これらの人種に依って育て上げられた人間が①の人種になるのだとすれば、今後ますます今回の女子大生殺害事件のような身勝手な無差別殺人が増え続けると思われ、やり切れない気持ちになるのは私だけではないだろう。

勿論、凶悪犯人もなりたくてなった訳ではないだろう。そう云う環境に生まれ育てられてしまった事は、仏教で言うその人の業(ごう)だと云う考え方もあろう。しかし、そう云う犯罪を犯すキッカケを極力与えない社会を構築する努力も一方で必要である。

『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし』と云う親鸞聖人の言葉を逆に読み取って、人間の中には上述した①の人種も同じ街に住んでいることも忘れず、個人でも用心する必要があると思う。

また、子育てに当たっては、人間は他の動植物の命を奪わずして生きることは出来ない存在であることを教えるために、食事の前に、自分が生きるために犠牲になった多くの命のことに思いを致す家庭教育、学校教育も必要ではないかと思う。

合掌

追記:
米沢先生の法話を更新し『超越的無意識』をアップ致しましたので、お読み下さいますよう、お願い致します。 また、月曜コラムに掲載する経典を親鸞聖人の『教行信証』に致しました。近々、スタートさせたいと考えております。


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No.953  2009.11.05
心の落ち着き処

私は毎朝ご仏前で夫婦揃って座禅をしております。もう半年位にはなりましょうか・・・。 当初は10分間しておりましたが、朝の10分間は結構長く、何かと忙しい娑婆生活をしておりますので、情けないかな・・・なかなか毎朝とは参らず、今では5分間に短縮して漸く毎朝欠かさず出来るようになっております。

座禅から始まる生活と言いますと、如何にも余裕の有りそうな生活振りと思われるかも知れませんが、座禅中、頭に浮かんで来ますのは、その日にしなければならない仕事の段取りから始まって、無相庵コラムのテーマを何にしようかとか、あとは申し上げるのも恥ずかしいような雑念ばかりが沸き起こり途切れることがありません。

私の心は常に「あれか、これか」「こうしょうか、否、これでは駄目だ。ああしょう」と“はからい”迷っていると云うのが正直なところであります。私には子供が2人、孫が5人いますが、一日に何回か、子供の行く末、孫の行く末、そして自分自身の行く末、自分が亡くなった後の妻の行く末等など、考えても仕方の無いことが次から次へと浮かんでは消えていきます。“はからい”とは自分の力で何とかしようとする仏法の説く「縁にお任せする」と云う境地から程遠いものであります。また“はからい”は煩悩の顕れであります。。

源信僧都(げんしんそうず)が、「妄念(もうねん)はもとより凡夫の地体(じたい)なり、妄念のほかに別に心は無きなり」と横川法語(よかわほうご)の中で申されていますが、言い換えますと、「はからいはもとより凡夫の地体なり、はからいのほかに別に心は無きなり」でありまして、目が覚めている時だけではなく、夢の中でさえ、はからっている私です。私はおそらく死ぬまで、否、死ぬ瞬間も生と死の間(はざま)で“はからう”に違いないと思います。
長年仏法を聞いているにも関わらずに・・・であります。では、仏法は何にもなっていないのでしょうか、否、そうではないと思います。

“何かとはからう生活”は落ち着かないものであります。誰しも明日のことを考えない人は居ないでしょう。明日のことだけではなく、先々の事で気になることを抱えて、「ああか、こうか」と、はからわない人は居ないのではないでしようか。そして、そんな人生は堪らないと、おそらくは誰もが心の落ち着き処を求めるに違いありません。落ち着いた気持ちで人生を渡りたいはずです。
それ故に人は落ち着き処を求めて趣味に精を出したり、本を読んだり、旅をしたり、或いは占いに賭けたり、色々と試行錯誤しているのだと思います。しかし、落ち着き処はなかなか見付けられないと思います。京都の静かなお寺の庭を眺めて瞬間的には精神が落ち着く時もありましょうが、あくまでも瞬間的だと思います。日常生活に戻りますと、元通りに心は落ち着かないままだと思います。

そして、一部の人々は宗教に信仰に心の落ち着き処を期待し求めるのだと思います。しかし、本当のところはそれ程簡単に心の落ち着きを得られないのではないでしようか。私も幼い頃から仏法と縁がありますが、冒頭で申しましたように、座禅をしていても心静かな瞬間ではないのであります。修行が足りないと言われればそれまでですが、修行を積まれた禅僧でも、無念無想にはならないものだとお聞きしました。

では、仏法は、心の落ち着き処を与えてくれないのでしょうか?
私はそうではないと思っています。仏法を聞くことに依りまして、日常のはからいが無くなることはありませんが、はからいに終始している自分の姿にふと気が付き、「またまたはからっている、自力無効ではないか、縁に任せと教えられているのに・・・」と反省すると共に、ますます仏法を求める気持ち、法話を聞きたいと云う気持ちが湧き上がります。そして、「米沢先生が『自力無効の南無阿弥陀仏』と仰って居られたけれど、この事なんだな」とか、「私の母もはからいが出た時にふと念仏が口をついて出ていたのだろうなぁ」と、先輩や先師方の念仏の心に気付かされ、何となく心が和み、落ち着く時がございます。そして、ますます仏法の話を聞き続けたい気持ちになります。おそらくそう云う時が、私にとりましては心の落ち着き処に居る時ではないかと思います。

信仰心を舟の錨(いかり)に喩えられることがあります。小舟は嵐の海に翻弄され激しく揺れ動くことはあっても、錨を下ろしているから、漂流することにはならないと・・・。私の場合も、日常生活では色々な問題に遭遇し、頭を悩ますことも、時には途方にくれることもありましたが、仏法を求め続けて居られたからこそ、これまではとんでもないところに漂流しなかったのではないかと思っています。仏法で何かを悟り、その悟りが錨(いかり)になるのではなく、仏法を求め続けるそれ自体が大切ではないかと思います。
仏法に縁が出来て、長年聴聞して、はからいが無くなることはありませんが、はからいがあるからこそ、仏法を求め続けられ、そして仏法と縁が切れないことこそが、私が仏法に救われていると云うことではないかと思っている次第であります。

合掌


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No.952  2009.11.02
抽象化した世界と浄土(真実の世界)

日曜日に米沢秀雄先生の『魂の呼びかけ』と云うご法話を更新致しましたが、その中に下記の一節に『抽象する(ちゅうしょうする)』と云う、なかなか理解し難い言葉が出て来ました。

法話からの抜粋―
『人間は生物的世界、或いは人間社会の中に生きている。本能の無意識に対応するものが生物的世界であり、我々は外に食える動物・食える植物を探し、また性本能に対応して異性を見ております。社会というのは、分別意識に対応する関係といえる。ところが我々は、もう一つの世界を持っているのであります。生物的世界とか社会は、本当の世界を抽象し、分別し、我執我欲で捉まえた世界でないかと思う。自民党と民主党(原文では社会党)とか云うのは、同じ一つの世界に生きながら、各々見方が違うのは、各々のイデオロギーによって、世界を抽象してきているために起こっているのでないか。そして、人間というものは、その抽象しているものをいつの間にか本当のものだと誤認するようになる。』
―抜粋終わり

私の知識不足に依るかも知れませんが、普通、『抽象的』という意味は、「具体性に欠ける」と云う意味で使用されていると思います。また広辞苑にもそのような説明もあります。しかし、米沢先生が使用されている『抽象する』と云う意味は「事物または表象の或る側面・性質を抽(ぬ)き離して把握する心的作用」と、広辞苑を引くと『抽象』の一番最初に出て来ている意味なのでした。そして「全体から切り離して一面的にとらえられた物や性質の概念」とも説明されています。

私は、この『抽象する』と云う難解で哲学的な使い方が非常に印象に残ると共に、米沢先生が私たちに伝えられたかった事が明確になったような気がしました。そして、今一つ考察しますと、 「世界を抽象する」と云う考え方は、仏教哲学『唯識』の考え方でもあるのだと思いました。

つまり、私たち人間は自分の意識の中で物事を一面的にしか捉えられず、真実を把握出来ていないと云うことだと思います。私たちは真実の中に存在しているけれども、大脳皮質と云う神経細胞を持つに至った故に(生物学的には進化したと言われるが・・・)、『分別』(物事を相対的に捉えてしまう。例えば、生と死を分けて考えてしまう。自分と他人を分けて考えてしまう)と言いますか、『はからい』と云いますか、自己中心意識でしか世界を捉えられない存在だということだと思います。

北朝鮮の金正日の捉えている(つまり抽象している)世界と、私たちが捉えている世界は全く異なるものだから、なかなか握手が出来ないと仏法は考えるのだと思われます。私たち人間は大脳皮質と云う物事を判断する能力を持ったが故に、夫々自分勝手な推測(憶測と云うべき)をし合うところに、争い、諍(いさか)いが絶えないと云う人類の不幸があるのではないか・・・。

他の動物には大脳皮質の発達がないので、虎同士、ライオン同士、じゃれ合いはあっても殺し合うことはありません。また彼らには大脳皮質の発達が無いから生と死の区別はありません。綺麗(きれい)と穢(きたな)いの区別も無いでしょう。好き嫌いの区別も無いのだと思われます。だから人間以外の動物に苦痛はあっても苦悩は無いのでありましょう。勿論『迷い』も無ければ『悟り』もないはずであります。

ただ、米沢先生が私たちにお伝えになられたかった事は、「だから他の動物の方が苦悩が無いから良い。」ということではなくて、人間には、超越的無意識と云う心の奥底に他の動物には無いであろう崇高な意識、すなわち真実に目覚め得る資質を与えられてこの世に生まれて来ていることが素晴らしいと云うことだと思います。この資質を古来から日本人は魂(たましい)と称し、その魂が真実の世界に目覚めてくれと私の大脳皮質に呼びかけているのだと云うことだと思います。そしてそれを親鸞聖人は『本願』と捉えられ、そして私たちが捉えている世界は娑婆と云う抽象化した世界であって、それとは別に真実の世界があることに気付きなさい、それを浄土門では浄土と称するのではないかと思われます。

勿論、私たちに真実の世界を感覚することは出来ません。仏法も、「真実の世界を知りなさい」と言うのではないと思います。おそらく、「真実の世界があることに気付き、真実の世界に生きながら、真実の世界を感覚出来ない自分自身を知り、自力無効の己の実態を悟り、生きとし生きる全て共に凡夫のみの一如の世界を生きようではないか」と云うことであり、その自覚が「南無阿弥陀仏」と云う呼びかけであり、また私たちがその呼びかけに応えるのも「南無阿弥陀仏」しかないのだと思う次第であります。

合掌

追伸:
少々難しい話にはなってしまいましたが、米沢先生のご法話『魂の呼びかけ』を是非お読み頂きたいと存じます。


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No.951  2009.10.29
自分だけは・・・

仏法が私たちに教えてくれるのは、結局のところ、『自分を見詰め直そう、己(おのれ)自らを知りなさい』と云うことだと思う。

しかし、私たちは何故か何の根拠も無く、「自分だけは災難に遇うはずがない」「自分だけはすぐには死ぬはずが無い、当分生きているはずだ、死ぬのはもっと先のことだ」「自分にはいつか良いことが起こるはずだ」「自分はきっと良い人達に出会っていくはずだ」「自分だけは騙されるはずがない」「自分だけは間違ったことをしていない」と、無意識に思っているのだと思う。これらは何も根拠があるはずがないのに、である。その証拠に誰に限らず、過去を振り返って見ると順境ばかりではなく、自分が思いもかけなかった逆境に遇っているはずだからである。また、この人とは運命の出遭いだと思った結婚が離婚に至っていることをしばしば見聞するからである。究極的な思い違いの現実は、思いもかけず死に遭遇することである。私たちの命は死と隣り合わせなのである。つまり、上述の勘違いの全ては自分と云う存在が如何なるものかが分かっていないところから生じているのである。自分と云う存在がどういうものかを知らないのである。他人の事よりも、先ずは自分のことが何一つ分かっていないのが私たちの現実なのである。

世間で問題になっている振り込め詐欺も、偶数月の15日の年金受け取り日、銀行のATMの出入り口ではお巡りさんが注意を呼びかけているにも関わらず詐欺被害が後を絶たないし、今報道番組で話題になっている34歳の女性に依る、連続殺人事件を絡むかも知れない結婚詐欺事件も、「自分だけは騙されない」「自分は良い人に巡り合うはずだ」と云う根拠の無い自信が為せる災難ではないかと思う。

根拠の無い自信は、仏法で自己中心の心から来ると説くものである。これは他人事ではない。皆、たまたま今現時点で出遇っていないだけなのである。次の瞬間、形を変えて我が身に起こり得ることなのである。 仏法には古来から、「主人公、騙されるな!」と云う言葉がある。禅門の言葉だったと思うが、「真理を知れ!自己の真実を知れ!」と云うことだと思う。

自己の真実とは、私の存在は縁に依って生じたものであり、また縁に依って生滅する存在であると云うことである。そして更に大事なことは、私も他の人も、また私の周りで生じる全ての物事、現象も、全てが縁に依って生じ、縁に依って生滅・変化して行くものであると云うことである。ただこの縁と云う仏法の考え方は、一般の人々には受身の消極的な人生観と受け取られてしまうようであるが、『縁』とは、『原因』が『結果』を生じるまでに働く様々な『無数の条件』のことなのである。そして、その『無数の条件』とは私たちが予め予測したり、私たちの力の影響が及ばないものなのである。私たちの眼にも心にも頭でも把握出来ない無数の条件を『縁』と云うのである。だから「不思議なご縁で・・・」と云う言葉が古来からあり、また見えない縁を『お陰様で』と、日本人は今も日常生活で普通に使っているのである。

全ては縁ではある。「私はこうしたい!私はこんな人間になりたい!」と云う気持ちが私の心に芽生えるのも、何かの縁ではあるが、この気持ちを大切な『因』として目標に向かって弛(たゆ)まない努力を続けるのである。しかし、その『結果』は『縁』に任せるしかないのである。そして、得られた『結果』をそのまま『因』として、次の目標に向かって努力をし続けて進むのである。そう仏法は、私たちを導いてくれる教えであり、決して消極的な教えではないのである。

「自分だけは・・・」と云う考えが芽生えたなら、自分と云う存在が縁に依って移り行く存在であると見詰め直したいと思う次第である。

合掌


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