No.950  2009.10.26
人類の向かうべきところ

昨日のNHK番組『NHKスペシャルー自動車革命②』で、インドや中国が十数万円の電気自動車を開発販売し出したり、アメリカのシリコンバレーで飛行機に見間違うような電気自動車が既に数千台販売されていると云うショッキングな世界の自動車産業の現状紹介があった。日本の自動車メーカーでは、日産が既に開発中てあり、アメリカ工場でガソリン車の量産ラインの一つが電気自動車量産ラインに変えられつつあると言う。

この番組を見ていて、10年後には世界の街からガソリン車が消え去っているのではないかとさえ思ったのは私だけではないだろう。ガソリンスタンドに代わる充電施設が街々に必要であるとかと云う乗り越えるべき課題はあるのだろうが、それも、アメリカでは各家庭の太陽光パネルで発電された電気が自動車の蓄電池に貯められ、それがネットワーク化されて電気の供給方式自体が様変わりすることも研究されているらしく、20年後には産業形態が、そして世界が様変わりする可能性が高いのではないかとも思わざるを得なかった。

鳩山首相が炭酸ガス25%削減を謳ったからには、日本こそが、自動車産業変革、クリーンエネルギー産業関係に投資を増やし、中国、インド、アメリカに遅れを取らない様にしなければならないだろう。

ただ一方、これらのビジネスは喰うか喰われるかの熾烈な戦い・淘汰の世界を現出するものである。謳い文句は「クリーンな自然に優しい環境を!」と云うものであろうが、企業間、国家間に大きな格差を産み出し、結局は人間同士が間接的に殺し合う、これまでの弱肉強食社会から一歩も抜け出すことにはならないのではないかと思う。

今世界中(各種サミット)で話題にされ、関心を持たれて議論されているのは99%経済及び金融問題の様に思われる。教育問題は完全に隅っこに追いやられているかのようである。多分、多少議論されているにしても一部の心ある教育関係者間のみで、しかもそれらの議論や提案がマスコミに取り上げられることは無くなっていると云う状況なのだと思う。
昨夜も、ウォーキング中に、塾帰りの小学生の運転する多くの無灯火自転車、それも歩道横幅一杯に併走する中の一台の自転車に接触され、怖い目に遭わされかけた。塾に通って勉強出来るようになっても、老人一人を転倒させてしまって万一命を損なうようになったら、その子の将来はどうなるだろうか、何のための塾通いだったのかと云うことになりかねないのである。他人に迷惑を掛けたり、他人に不愉快な想いをさせることの罪悪がどのようなものかと云うことを家庭でも学校でも教えていない日本社会である、否、世界の国々の社会ではないかと思う。人類に幸せな未来が訪れるはずがないではないかと思う。

自動車産業革命や経済金融問題の前に人類の将来に対して最も議論されなければならないのは、実は教育問題であることは間違いないのである。人類の過去から現在に至るまでに、正しい人間教育が為されていたならば、広島・長崎に原爆は落とされなかっただろうし、その広島・長崎に落とされた原爆の数百倍の威力の核爆弾が2万発も世界の到る所に配備されることは無かったはずだからである。

命が『一繋がり(ひとつながり)』のものであることの真実を世界中の人々が学び知ったならば、戦争やテロが如何に無駄で愚かなことであることが身に沁みて共有化されるだろうに・・・と切に思う事である。これは、仏教の真理であるが、仏教としてではなく、人類が共有すべき宇宙の真理・真実として、日本から発信していくべきだと思う次第である。


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No.949  2009.10.22
自見の覚悟(じけんのかくご)

表題は、歎異抄の序文(漢文)の一節に使用されている「自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ」の中にある言葉でありますが、極最近DVDでお聞きした高史明師のご法話の一つのテーマでもありまして、心に留まった言葉であります。

平たく現代語に直しますと「自分勝手な考え」となりましょう。『見(けん)』は、『見解』『見識』の『見』だと思います。仏教では、『邪見』『悪見』『正見』と云う熟語がよく使われますが、単に物や風景を見ると云う意味ではなく、見方、考え方を表します。一方、『覚』も『悟』も「さとる、しっかり理解する」と云う漢字ですので、『自見の覚悟』とは、「自分勝手な考え方で、物事を判断し断定する」と云うことになりましょう。

実は、こうして、私が自分の持てる知識で、『自見の覚悟』の言葉の意味を説明させて頂いておりますが、まさに、この行為こそ、『自見の覚悟』を披露していると云うことになります。ですから、仏教を広く勉強され、深い信心をお持ちの方から見れば、極めて浅い説明と云うことになります。一人一人、また一人の人でも時が変われば、その見方・考え方は異なって行くものであります。

高史明師は、この『自見の覚悟』が人類を危機に曝してしまっていると力説されていました。例として、9.11の同時多発テロの後、アメリカのブッシュ大統領が、テロとの闘いとして、大量破壊兵器を隠し持っているとか、テロ集団をかくまっているとして強行したイラク戦争やアフガン戦争を挙げて居られました。アメリカが『善』『正義』で、テロリストは『悪』『不正義』と一方的に決め付けたアメリカの『自見の覚悟』が起した不幸な戦争だと云うことであります(事実、イラクは大量破壊兵器は持っておりませんでした)。

国家の戦争と申しますと大きい話ですが、今の日本の自民党と民主党の対立も「自分達が正しく、相手の考え方が間違っている」と云う、同じく『自見の覚悟』が根っこにありますし、私たちの日常生活に頻繁に見られる人間関係の縺(もつ)れや、親子断絶、夫婦の離婚も、その人間関係のスタートにも破綻時にも、根っこには『自見の覚悟』の見間違い、見当違いがあると申せましょう。

残念ながら、人間は自分の周りの物事を『ありのまま、このまま、そのまま』に見れません。自分の狭い経験と浅い知識でしか物事を見れないからでありますし、そして何よりも『自分中心』『自分さえよければ』と云う『自我』が意識の中心にあるからです。これを米沢秀雄先生は、大脳皮質(意識)と大脳辺縁系(本能的無意識)だけで生きているからだと仰っておられます。そして、人間には本来もう一つ奥の意識として超越的無意識或いは宗教的無意識と云う本来清浄な心を持って生まれて来ている(フランクルと云うオーストリアの精神分析学者の学説)と説明されていますが、この超越的無意識とは、『ありのまま、このまま、そのまま』に見える眼だと思われます。そして、お釈迦様が暁の明星を見られて悟られたのは、この『ありのまま、このまま、そのまま』の世界だったのではないかとも説明されています。

禅門では、『ありのまま、このまま、そのまま』に見れる修行を行われているように思われます。『自見の覚悟』を払拭しようと云うことではないかと思われます(これは私の自見の覚悟かも知れません・・・)が、親鸞聖人のお悟りは、『ありのまま、このまま、そのまま』に見れないと云う煩悩熾盛の自己の真実を悟られたところにあるようです。そして、実に矛盾致しますが、それが即ち『ありのまま、このまま、そのまま』に観る眼を仏様に戴いたと云う他力の信心ではないかと、米沢先生は説かれているように思われます。 『自見の覚悟』は、『自見の覚悟』を払拭する重要なキーワードなのかも知れません・・・。

『ありのまま、このまま、そのまま』に生きたいですね。

合掌


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No.948  2009.10.19
親鸞聖人が伝えたかったこと

日本には浄土宗、浄土真宗などの浄土門と言われる仏教宗派があります。一般の人々は浄土と云う熟語から、この世は苦しいものだから「南無阿弥陀仏」と念仏を称えて、死後に安楽な浄土に生まれることを乞い願う宗教ではないかと誤解されているのではないかと思います。

親鸞聖人(1173~1263年)が七高僧と仰がれた源信僧都(942~1017年)或いは親鸞聖人の直接の師である法然上人(1133~1212年)の弟子達の中やその流れを汲んだ人々の中に、そのような間違った教えを説く者も居たかも知れませんし、浄土真宗の教戒師や門徒の中にも親鸞聖人の教えを誤解している人々も居るかも知れません。

親鸞聖人は、命の平等を基本思想とされ、活き活きとした人生を生き抜きたいとお釈迦様と同じ仏教の悟りを求められて比叡山で修行されたのではないかと思います。そして、お釈迦様の教えが出家者のものではなく、私たちのような人生の荒波に翻弄される在家の者達が、人間として生まれた喜びを知って、生き甲斐、遣り甲斐のある人生を全う出来るための教えであることを自ら肉食妻帯の煩悩生活をされながら体現され、越後、関東、京都へと住まいを移されながら、庶民と共に生活をされながら、その考え方、教えを説かれたのだと思います。

親鸞聖人が伝えられたかったことは、死んでからの安楽ではなく、人間に生まれ、今生かされて生きている命を尊び、喜びを感じながら生活を送ろうではないかと云うことだと思います。そして、「南無阿弥陀仏」は、死んだ人を弔う礼拝の言葉ではなく、自分の今の命が遠い過去から続いている命であり、他力(宇宙全体の存在や働き)に支えられている尊い命であることへの感謝と喜びを表す礼拝の言葉であると思います。私は多くの師からそのように教えて頂いております。

合掌


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No.947  2009.10.15
地球の客人同士

先ごろ鳩山首相が国際会議で炭酸ガスの排出量を世界のリーダーシップを取って削減することを宣言した。漸く政治家が地球環境を考え、行動に移すようになった訳である。少なくとも21世紀に入るまでの政治家達は地球の支配者であると云う意識が高かったと思う。

自然を征服するのではなく、自然と共に生きて行こうと云う考え方を、宗教家はずっと以前から訴え続けていたし、ノーベル賞を受賞した科学者の中にも言及していた人々も居たのであるが、世界をリードする先進国の政治家の中には見出せないままであった。

親鸞聖人は、自然を「しぜん」とは読まず、「じねん」と読んでおられた。自然(しぜん)と云うと、人間以外を指す感じがするが、自然(じねん)は、人類も含めて全ての存在も現象も、そして宇宙全体、宇宙の現象や働きを含む大きな概念である。

私たち人類には、他の生物には無い、大脳皮質と云う眼耳鼻舌身で感覚したことを基にして色々と考える能力を与えられている。その能力を与えられたばっかりに、自然を対象として捉えて、何時しか科学技術と云う力で自然を傷めるようになったのだと思う。

私たちは地球に立ち寄った旅人だと云う考え方がある。考えてみれば、地球に生まれて以来、私たちは色々な自然の恵みを受けている。私が別に頼みもしないのに、空気が、光が、水が、動植物と云う食べ物が与えられている。考えてみれば先ず親が与えられてこの世に生まれ、人生を生きて行く上での知恵を与えられ、無数の人々に無数の世話をして貰って始めて今こうして生きているのである。まさに地球の客人である。

私は無数の命を戴き、無数の人の知恵や世話があって始めて存在し得ている地球の客人、否、大宇宙の客人なのである。

そして同じ地球上で生きる私たちは、皆、客人同士である。また、親鸞聖人が仰っている如く、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」である。めぐり会えた縁を想い、助け合い、敬い合って生きたいものである。

合掌


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No.946  2009.10.12
親鸞聖人の和讃を詠む-75(完)

● まえがき
親鸞聖人の和讃の勉強は今回にて一応終わることとさせて頂きます。1年8ヶ月の長い間私の勉強にお付き合い頂きまして、まことに有難うございました。

このように、一週間に一回のコラム化をさせて頂くことで、早島鏡正師のご著書一冊を読み終えることが出来ました。一人で読みますと、どうしても斜め読みをしてしまいがちですので、怠け者の私にとりましては、有り難いことであります。

今日の和讃に親鸞聖人がご自身を内省されまして、「人師を好むなり」と申されていますが、私の敬愛しご指導を頂いた井上善右衛門先生も、「法話をする身となりますと、知らず知らず、教えてやろうと云う高慢な心になりがちだ」と自誡されておられたことを思い出します。

私がこのコラムを書いている時も、「仏法を知らない人に私が知っていることを教えてあげよう」と云う気持ちが全く無いとは申せませんが、私の場合は教える程の深い知識も持ち合わせておりませんし、金剛の信心にも至っておりませんので、むしろ自分の勉強過程を公開させて頂いていると云う姿勢でこれからも続けさせて頂きたいと思っておりますので、お付き合いの程をお願い申し上げます。

●親鸞和讃原文

是非しらず邪正もわかぬ   ぜひしらずじゃしょうもわかぬ
このみなり           このみなり
小慈小悲もなけれども     しょうじしょうひもなけれども
名利に人師をこのむなり   みょうりににんしをこのむなり

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
私は物事の是非・善悪も知らず、また邪正、正と不正も判断できない無智で愚かな者である。わずかな慈悲の心も持ち合わせていないのに、私は名聞・利養、名誉を得たい、生活の糧(かて)を得たいと云う欲望のために、人びとの師となることを好んでいる。まことに恥ずかしい限りである。

●あとがき
私はこの和讃を勉強している間に、インターネットサイトで福井の方と縁を頂き、更に米沢秀雄師と再び縁を結ばせて頂くことが出来まして、在家の私たちは親鸞聖人の教えでしか救われないと云う確信を得ることが出来ました。そして和讃の背景にある親鸞聖人のお心を推察することが出来るようになった気が致しました。不思議な、そして有り難い縁を頂きました。そう云う意味から、この和讃の勉強は私の一つの転機になったように思っております。

さて、次に勉強する仏教書を未だ明確には決められておりませんが、出来れば、親鸞聖人の主著書である『教行信証』に挑戦したいと考えております。だだ、教行信証の原文を私の言語力、信心ではとても現代意訳出来ませんので、適切な参考書が見付かればと云うことで、少しお時間を頂きまして、取り掛かりたいと存じております。

追伸:
ご心配をお掛けした体調の方は一応安定して参りました。先週末に脳のMRIとMRA検査を受け、脳に異常が無かったか(MRI)、また今後脳に危険部位は無いか(MRA)を調べて頂きました。今週末に結果が分かりますが、高血圧の原因と治療法をはっきり掴めたらと思っております。

そんな中、今日は祝日ですが、今から技術顧問先の在る静岡まで出張です。

合掌


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No.945  2009.10.08
お金では解決しない!

今の政治は(政治家達は)、皆、お金で全てが解決するかのように奔走している。否、政治家ばかりではない、国民全員、振り返って自己分析すれば私の頭を駆け巡っているのも殆どお金だと思う。

でも、冷静に、そして長い眼で人生を振り返えれば、決してお金で解決したことは無かったことも確かであることに気付く。周りで起こっていることは確かにお金で解決することばかりであるかのように思えるが、しかしその解決は“瞬間的に”ではないか?

仕事に有り付けずにお金が無くなり食べることさえ出来なくなって助けを求めて来た時には、何よりも先ずは“食べ物を与える、お金を与える”ことでしか、その人を助けられないように思う。その人に高邁な人生論を諭しても、その人は耳を貸さないし、その人を救うことにはならないだろう。しかし、食べ物やお金を与えても、それらは直ぐに無くなってしまい、元の木阿弥となることも間違いないことだ。

人類がお金と云う価値を計る尺度を生み出した知恵は大したものだと云う考え方もあろうが、全てをお金に換えてしまうようになって、命の重みを感じたり、温かい心を感じ合うと云う人間に与えられている智慧(仏法では仏心、仏性と言う)を失ってしまったのではないかと思う。

牛肉をお金を出して買って焼いて食べる。「美味しい肉だ」と感じるが、命を差し出した動物の命や、動物の命を奪うことで生計を立てている人々の気持ちを推し量ることはない。牧場からスーパーの棚に並ぶまでに携わった人びとの手間を思うこともない。それらの手間に対応したお金を支払っているからケリが付いていると思っているのだろう。

物々交換して生活していた大昔は、手間が見える(感じられる)物と物の交換であるから、心の交流も同時に為されていたのではなかろうか。お金は有り難いが、でも、長い年月を掛けて人間を蝕んでいる恐ろしいものだと思う。 民主党政権が、自民党政権が60年間掛けて築き上げて来た官僚天国の膿みを取り除く作業をしてくれており、新しい国に生まれ変わるような期待感が生まれているが、お金の使い方が少し変化するだけで、日本国民がお金中心の無間地獄から解放されることは無いだろうと思う。

無間地獄から脱出するに為に私たちが出来ることは、縁のある人々とささやかな物々交換を通した心の交流ではないかと思う。

合掌


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No.944  2009.10.05

親鸞聖人の和讃を詠む-番外

● まえがき
昨日の午前11時頃、急に頭がボーとして、家庭の血圧計で測定したところ異常な血圧値(上の値が200)なりまして、救急外来に行きました。血液検査、心電図やレントゲン検査、心臓の超音波検査等をして貰いましたが、心筋梗塞や脳梗塞等、危険な原因から来る高血圧ではなく、3時間程度の安静で異常な高血圧は解消し4時間後には自宅に帰れました。 しかし、原因不明が心配で、今日は朝から掛かり付けの医院に行きましたので、コラムアップのタイミングが少し遅れました。

昨日、テレビを見ている途中に、元財務大臣の中川氏急死を伝えるテロップが流れ、何故か大きなショックを受けましたので、それもキッカケになった可能性は有り得ると医者は申しておりましたが、64歳で糖尿病を抱えておりますので、何があってもおかしくはありませんので、体調管理に心を砕かねばならない我が身を自覚しなければなりません(が、しかし、なかなか自覚出来ていない私です)。

さて、今回の和讃は、今日たまたま医院の待合室で読んでいた米沢秀雄先生の著書の中に引用されていました“帖外(じょうがい)和讃”の中の一つを番外として取り上げさせて頂きます。

親鸞聖人の『和讃』には三つの『和讃』(「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」)があり、これを三帖和讃と言いますが、この『和讃』が格調も高く、内容も充実したものとして、従来特に重視されていますが、このほかの『和讃』としては、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)といった「太子和讃」があります。しかしこれらとは別に「帖外(じょうがい)和讃」といったものもあり、総計、五百十余首にも及ぶそうです。今回の和讃は、その帖外(じょうがい)和讃の中の一つであります。

●親鸞和讃原文

超世の悲願ききしより     ちょうせのひがんききしより
われらは生死の凡夫かは   われらはしょうじのぼんぶかは
有漏の穢身はかはらねど   うろのえしんはかわらねど
こころは浄土にあそぶなり   こころはじょうどにあそぶなり

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
阿弥陀仏の本願をお聞きした限りは、もう生き死にや、人生に悩み苦しむ凡夫ではない。体は確かに常に煩悩を起して居るけれども、心は既に浄土に住んでいるのである。

●あとがき
自力聖道門では、煩悩を滅する為に座禅や回峰行など、色々な修行を行います。しかし、親鸞聖人の教えでは、煩悩が一切邪魔にならない、むしろ煩悩が悟りへの縁と捉えます。自力聖道門では心身共に煩悩から解放されることを目指すので有りましょうが、親鸞聖人は自らの身と心を以って修行に励まれましたが、煩悩は無くならないと悟られたのであります。しかし、そう云う自分を救う為に説かれたのが大無量寿経の阿弥陀仏の本願であると確信されたのであります。
これが、禅門で云うところの親鸞聖人のお悟りであります。煩悩を無くさないと駄目だと言われれば、私なぞはとてもチャレンジ出来ません。有り難いことであります。

合掌


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No.943  2009.10.01

(続)長嶋・王の実像―今からがスタートだ!

今週の日曜日、NHK番組『NHKスペシャル』で、“長嶋と王50年目の告白”第2弾が放映された。前回は、二人のスーパースターの現役時代の知られざる努力振りが紹介されたが、今回は現役を引退して後の二人のスーパースターが一転して人生苦と云う試練と闘い続けている事を紹介するものであった。しかしさすがにやはりスーパースターである。今もなお、「今からがスタートだ!」と、苦難から逃げずに受け容れ、苦難を乗り越えていく姿を私たちに見せてくれてたのである。

今現在、長嶋選手も王選手も不治の病と闘っている。長嶋選手は脳梗塞に依る右半身麻痺と、王選手は癌との闘いであるが、彼らは現役引退後、成績不振に依る監督解任劇、早すぎる奥様との死別と云う共通の人生苦に遭遇していたのである。

どの苦難にも比較し難い辛さがあるが、常にプロ野球ファンの期待に応え続けたスーパースターだけに、ファンの期待を裏切り続けた末の監督解任は私たちには計り知れない辛さがあったのだと思う。プロ野球界に「名選手必ずしも名監督ならず」と云う格言があるが、当時それは長嶋・王の為に用意された格言のように思えたものだった。そのショックの大きさは、彼らが再び監督に返り咲くまでの長いプランク(長嶋監督が12年、王監督が7年)に顕れていると言えるだろう。

でも、さすがに並のスーパースターでは無かったのである。やがて両雄共に日本シリーズを制して日本一の監督に輝き、2000年には、その二人が夫々巨人とダイエーを率いて日本シリーズを闘ったのであった。その後、相次いで日本の代表チームの監督に選ばれ、長嶋ジャパン、王ジャパンとしてオリンピック、WBCと云う桧舞台で輝かれたことは記憶に新しい。

番組のフィナーレでは二人がかつて選手として汗を流した多摩川グランドのホームベースを挟んで右打席と左打席に立たれていた。そして、昔の勇姿に思いを馳せながらも、そして不治の病と向き合いながらも、「今からがスタートだ!」と口を揃えられていたことに、私は深い感動を覚えた。そして、おそらくその言葉、その考え方こそが、スーパースターを作り上げ、今なおスーパースターであり続けせしめているのだと思った。

私たちも様々な苦難に遭遇しているし、これからも遭遇する。その時、二人のスーパースターの「今からがスタートだ!」と云う言葉を思い出し、共に苦難から逃げずに苦難を受け容れて、苦難を乗り越えて行きたいと思った次第である。

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No.942  2009.09.28

親鸞聖人の和讃を詠む-74

● まえがき
あと2回で、昨年の2月から約1年半に亘って勉強して来ましたこの『親鸞聖人の和讃を詠む』を終わりにしたいと思います。最後の2首は、正像末和讃の中には含まれません。親鸞聖人が88歳の時に書かれた『自然法爾章』と云う短文の末尾に認(したた)められた和讃であります。親鸞聖人は一般の人びとが読んでも分かり易いようにと、漢文ではない多くの和讃を詠まれたのでありますが、その自分の姿を振り返られて、「心の中は愚かであるのに、外向きには賢者ぶって、人を導こうとしていた自分だ」と、慙愧の念を正直に表白されたのでありましょう。

これは内省とか、謙虚とかと云う浅い自己分析から来るものではなく、仏の智慧の光に照らし出された自己の姿にただ慙愧するだけではなく、その自己を照らし出す光に出遇えたことに対する感謝の想いを表現せずには居られなかったのだと推察しなければならないと考えます。

こうして私も、賢者ぶっていますが、親鸞聖人を照らし出した光の木漏れ日を少しお裾分けして頂きたいものであります。

●親鸞和讃原文

よしあしの文字をもしらぬひとはみな   よしあしのもんじをもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを           まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは             ぜんあくのじしりがおは
おほそらごとのかたちなり          おおそらごとのかたちなり

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
善悪の文字さえ知らない人は、かえって、自分を飾らないし、嘘・偽りを言わないから、まことの心を持った人であるといえる。それなのに、善悪の文字を如何にも知った顔をして説明をし、物知り顔するのは、大嘘つきの姿というべきである。

●あとがき
88歳になられていた親鸞聖人が「賢者の心は、内は賢であるが、賢者の姿形は如何にも愚者そのものである。此れに反して、愚禿親鸞の心は、内全く愚かであるにも関わらず、外見の姿形は、賢者ぶっている」と表白されたのは、ただ単に経典を読まれて心を磨かれたからではなく、経験を通して自己の真実と向き合われたからだと思います。その一番の経験は、おそらく、長男善鸞様の背信行為ではなかったかと思います。「長男さえ導かれぬ自分が・・・」と苦しまれた体験からではなかったかと思います。

苦しい経験が無ければ、仏法はただ人生のアクセサリーとしてしか役立たないと思います。苦境・試練は辛くて出来れば遇いたくないというのが正直なところでございますが、苦境・試練を乗り越えようとするところにはじめて阿弥陀仏の本願を実感出来るのではないかと思っているところでございます。

合掌


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No.941  2009.09.24

心の中の政権交代とは?

前回の木曜コラムで私は「自分の心の中の政権交代に、より強い関心を持たねばならない」と申しましたが、その政権交代の意味が分からないと云うご意見を読者様方から頂きました。私は言葉足らずのところがあり、この度は大いに反省させて頂きました。心の中の政権の意味するところと、政権交代に付きまして説明させて頂きます。

さて、通常の教育を受けた私たちの心の中を支配しているのは、「自分は自分の力で生きて行くのだ!」「自分の幸せが第一!」と云う自己中心的考えです。また、「この世の中を過ごすにはお金が第一!」、「他人よりも少しでも高い地位に就かねばならない」と云う競争意識です。これらの考えが、私たちの心を支配しています。つまり、私たちの心を統治しているのは、自己中心的考えと競争意識だと思います。これを自力政権と言ってもよいと思います。そしてこの政権を支えているのは、私たちが根底的に持っている煩悩であります。

私は、この自力政権から他力政権、即ち「私は自分の力だけで生きているのではない、周りの色々な支えがあって初めて生きて居られるのだ」と云う考え方に変わらなければ、本当の幸せは得られないと云う意味で、「心の中の政権交代」と申し上げました。

勿論、私たちの今の心の中も煩悩だけではないでしょう。少しは他の人の役に立ちたいと言う心もあります。また、親鸞聖人でさえ、全ての煩悩を排除は出来ないとも仰っておられますように、政権交代を成し遂げても、自力に頼る心を全く排除出来るものでもないと思います。

ただ、政治の世界の政権交代と同様に、他力に生きる与党、自力を標榜する野党と言うような関係で、常に私たちの心の中での緊張感を保ちながら、しかし他力を第一とする与党政権を心の中だけは政権交代が無いようにしたいものであります。

合掌


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