No.920  2009.07.13

親鸞聖人の和讃を詠む-64

● まえがき
前の和讃に引き続きまして、今日の和讃も虚仮不実のわが身を悲嘆して詠っておられます。親鸞聖人の教えに多少の知識を持って居られる方がこの和讃を読まれた場合、自己を厳しく見詰められて深く内省されたお坊さんだと思われることでしょう。或いは実に謙虚なお坊さんだったのだと・・・。そして、自分にはとても出来そうに無い内観を重視する教えだと敬遠されるかも知れません。私も実は若い頃そのように受け取っていた時期がありました。

確かに和讃の言葉だけを表面的に眺めれば罪悪深重煩悩燃盛のご自分を悲嘆されている詠でありますが、この和讃を詠まれた時のお心には、そう云う自分をこそ救い取ろうと云う阿弥陀仏の本願に出遇えた悲嘆に優るとも劣らない位に大きい慶びも充満していたであろうと思います。悲嘆と歓喜、慙愧と法悦が同時に心に湧き上がると云うのが親鸞聖人の至られたところだと云うことが大変重要であり、私たちの胸を打ち、これこそ真実の教えだと実感出来るのだと思います。

早島鏡正師は、次の和讃とこの前後を含めた三首の和讃は、善導大師が『散善義』と言う著書の中で述べておられる下記の文章(親鸞聖人の解釈された和文にしています)を参考にして詠われたものだと仰っておられます。

『外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮を抱けばなり。
貪瞋邪偽、姧詐百端(かんさももはし)にして悪性やめ難し。事、蛇蠍(じゃかつ;蛇やサソリ)に同じ。三業を起すといえども、名づけて雑毒の善となす。また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。若(も)しかくのごとき安心・起行をなすものは、たとい身心を苦励して、日夜十二時に、急を求め急に作して、頭燃を炙(はら)うがごとくする者は、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を廻らして、彼の仏の浄土に来生せんと欲する者は、此れ必ず不可なり』(ももはしとは『百端』と言う熟語で、色々なことと言う意味です)

七高僧のご著書を勉強され、それをご自分流に読み替えられたところに、庶民生活に身をおきながら在家人が救われる道を究められた親鸞聖人の偉大さ、独自性があると思います。独自性がありながら、お釈迦様の説かれた教えを深く掘り下げられていることに、他力本願の教えに縁を頂いた私たちは感謝したいものであります。

●親鸞和讃原文

外儀のすがたはひとごとに    げぎのすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ          けんぜんしょうじんげんぜしむ
貪瞋邪偽おほきゆへ        とんじんじゃぎおおきゆえ
姧詐ももはし身にみてり       かんさももはしみにみてり

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
人はだれでも、その外にあらわれた姿形は賢善や善人ぶっていて、努めて善を実行しているようにみせかけている。だが、内心はどうかというと、貪(むさぼ)りと怒りと偽(いつわ)りに満ちている。それ故に、その身は数多くの悪賢くて偽り騙(だま)す行いばかりをしている。まさにそのような姿の私なのである。

●あとがき
『外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を抱けばなり』は、『外に賢善精進の相を現し、内に虚仮を懐くことを得ざれ』と云う善導大師の言葉を親鸞聖人の読み替えられた言葉としてあまりにも有名であります。

善導大師が、「外向きには賢善精進に見せかけておいて、心の中に不真実を懐いてはいけない」と言われたのを、親鸞聖人は、「心の中は不真実ばかりだから、賢善精進の顔つきをしてはならない」と読み替えられたそうであります。以前の私は、要するに、外と内を一致させよと言うことではないかと思っておりましたが、そうではなく、親鸞聖人は「凡夫の私の心の中には不真実ばかりだ」と徹底されていたことが大変重要だと考えるようになりました。一方、善導大師の言葉からは、不真実の心を懐かないようになれると言う希望的観測があるように感じられ、多少自力的な部分が残っているように思われます。

浄土門の教えはお釈迦様そして七高僧に依って伝えられたのでありますが、いわゆる他力本願の教えは、親鸞聖人に依って完結し、私たちに伝えられたことに感謝しなければならないと思います。

ただ一つ心配事がございます。この親鸞聖人が読み直された『外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を抱けばなり』を「心の中は不真実ばかりだから、凡夫は凡夫らしく、悪人は悪人らしくそのまま振舞えばいいのだ」と読み替えてしまっては、『本願ぼこり』とは異なった意味で、これまた親鸞聖人のお心に背き、他力本願の教えが誤解されると言う懸念を抱きます。これはいかにも自然体を主張するかのようでありますが、親鸞聖人の真面目さとは大きくかけ離れた振る舞いであり、自力・他力・自然法爾云々とは次元の全く異なる考え方でありますので、自誡を含めて申し添えたい思います。

合掌


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No.919  2009.07.09

無差別殺人事件の背景にあるもの

最近、やたらと無差別殺人事件の報道が多い。4日前の日曜日にもパチンコ店で放火による無差別殺人事件が起きたばかりである。 「仕事も無い、金も無いので自暴自棄になって、誰でもいいから沢山の人を殺したかった。」と云うことである。まことに身勝手極まりない犯人の動機である。今の日本には、仕事も手持ちの金も無く、多額の借金を抱えて苦しんで居る人は彼だけではない。

借金の額で云うと、私は彼の数十倍の借金を抱えている。しかも老い先は短く、返済し切れるかどうかは正直なところ不透明である。が、人生に嫌気がささない。何故だろうかと考えてみる。
今は幸い仕事もあり手持ちの金も数ヶ月分位の生活費はあるが、7年前には仕事も無い、手持ちのお金も、会社と個人を合わせて数万円しか無かった瞬間がある。しかも金融機関や税務署からの返済の督促に日々悩まされていたものである。正直なところ私は苦しかったし、その境遇に陥った人生を後悔しかけた時もあったが、人生を投げ出したりはしなかった。それは私が精神的に強かったからでもない。貧乏神に纏わり付かれた私に愛想をつかさずに傍に居てくれ続けた妻や親族と友人が心の支えになってくれたからであったと思う。

もし、そのような人々が周りに居なかったとしたら、私も人生に嫌気がさして無差別殺人事件を起していた可能性を否定出来ない。お金も無い、仕事も無いけれど、私に関心を持ってくれ、私の肩を持ち味方になってくれる人が居たからこそ乗り越えられて今日があると思っている。

無差別殺人事件の容疑者は概ね親からも見離され、伴侶にも恵まれていない一人暮らしの男である。其処に至る経緯は色々とあるだろうが、無関心時代ともいわれる現代社会が抱える大きな問題点である。何とかしなければならない。

彼等が無差別殺人事件を起すのは、自分に関心を持って貰いたい強い自己愛が真因にあると思う。 自己愛は誰でも持っているものである。だから誰でも無差別殺人事件を起す可能性を持っている。 ウツ病が自己愛が表に顕れたものであることを先週の木曜コラムで言及したが、無差別殺人事件も同じ自己愛の違った形での顕れである。

無差別殺人は決して許されるものではないが、他人事の様に切り捨てるのではなく、お互いの自己愛を認め合い、声をかけ合える社会に変えて行かないと、無差別殺人も、うつ病も増えこそすれ、減ることは無いのではないかと思う。 この社会を変えられるのは、自己愛を通して仏様の本願に目覚め、仏様の慈悲を身一杯に受け取られた親鸞聖人の教えに学ぶしか方法はないと私は思っている。

合掌


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No.918  2009.07.06

親鸞聖人の和讃を詠む-63

● まえがき
これから愚禿悲歎述懐和讃に入ります。全部で16首あるのですが、自分の自身の内と外の両面における不真実の姿を見詰められて詠って居られます。ただそのご姿勢は、内省と云うものではなく、心の中を仏様の智慧の光によって照らし出されてのものであると云うことが大切なところであります。

この和讃の冒頭に『浄土真宗』と云う言葉を使われていますが、これは今日の宗派としての『浄土真宗』ではなく、浄土の真実を説く教えと云うことであります。親鸞聖人は生涯法然上人を師と仰がれ、親鸞聖人ご自身は一宗一派を開くと云うお考えを持たれなかった事の意味を私たちは学ばねばなりません。つまり、親鸞聖人が帰依されたのは、お釈迦様が説かれた法に対してであって、一つの宗教や建物や仏像に対してではないことがとても重要なことだと思います。

親鸞聖人は、お釈迦様が見付けられた法を拠り所とされ、その法に照らされた自己に目覚め続けられた方であります。すなわち、お釈迦様のご遺言とも言い伝えられている、『自灯明・法灯明』の“二灯二依”の教えを実践された方であります。

この和讃は、親鸞聖人の最晩年85歳前後に詠われたものだそうですが、新興宗教の人々からは、「親鸞自身が浄土真宗に帰依しても、綺麗な心にならないと断言しているではないか。そんな念仏の教えを信じると地獄に落ちるぞ」と攻撃に利用されるものになっていますが、親鸞聖人は和讃では仏に最も遠いご自分を表現されているように受け取られますが、親鸞聖人の心に仏様が棲みついているからこそ発せられる慙愧(仏に対しての申し訳無さ)と歓喜(仏に見守られている喜び)の和讃であることに気付きたいものであります。

●親鸞和讃原文

浄土真宗に帰すれども      じょうどしんしゅうにきすれども
真実の心はありがたし      しんじつのしんはありがたし
虚仮不実のわが身にて      こけふじつのわがみにて
清浄の心もさらになし       しょうじょうのしんもさらになし

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
浄土の真実を説く教えに帰依する身となり、本願の心にお任せする自己となったけれども、それにもかかわらず、わが身を振り返ってみると、真実の心は少しもないし、清らかな心さえもない虚仮・不実の自分であり、恥ずかしく心痛むしだいである。

●あとがき
親鸞聖人の教えは、善人になろうとしても善人になりきれない人を救う教えだと言ってもよいと思います。悟りを開こうとして悟りに至れない人を救い取る教えだと言ってもよいでしょう。或いは、キリスト教の神様の愛から落ちこぼれた人を救う教えと言えるかも知れません。

善い心にならなければ救われないならば、煩悩まみれの人間は救われません。そう云う者をこそ救い取りたいと云うのが阿弥陀仏の本願であると云う法然上人を始めとする七高僧に学ばれた親鸞聖人の教えであります。

合掌


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No.917  2009.07.02

天下無敵―ウツ病を考える

『天下無敵』は、無相庵カレンダーの24日のお言葉として掲げてあります。 天下無敵と聞きますと豪傑侍を思い浮かべがちで、敵を次から次へと切り倒してゆく姿を想像してしまいますが、むしろ、『敵に囲まれない』と云うことであります。仏法にある言葉を借りますと、『無碍(むげ)の一道』を歩むと云うことであります。

米沢先生のご説明を引用させて頂きますと、「無碍の一道というのは、さわりのない一本道という意味です。さわりとは、自分に気にいらんことがさわりです。人間が生きていく上に、さわりが出てこないはずはない。しかし、さわりをはじめは恐れている。さわりがないようにと、逃げ回っている。それが、さわりを拝めるようになると、さわりが来てもそれを受けて生きていくことができる。そうしたら、さわりがさわりとならんようになる。これが無碍の一道です。さわりを恐れていたら、無碍ではないわけです。さわりを恐れないで、さわりを転じて善と成していくことができる、そのことを無碍というのです。」と云うことでございます。

私は、23年前のサラリーマン時代の管理職に登用された直後にウツ病になりました。その頃は世間一般にウツ病が取り沙汰されていませんでしたので、自分がウツ病だとは認識していませんでしたが、会社に行くのが嫌で嫌で当社拒否状態でしたから、間違いなくウツ病でした。自分の味方は誰一人居ない、理解者ゼロ状態でした(と、私が勝手にそう思い込んでいた)。『天下無敵』とは正反対の「天下には敵ばかり」の状況でしたが、今考えますと、そう云うウツ状態の自分を認められず、「こんなのは自分ではない」と遠ざけて居たわけですから、自分さえも自分の味方ではなかったのだと思います。

あの頃は、ウツ病が自己愛(自己中心の心、他人によく思われたい心)から来ていることに気付いていませんでした。何とかして自信を取り戻そう、管理職としての力を身に付けなければならないと焦っていたのだと思います。ウツ病には誰でも罹る可能性があると言われておりますが、それは誰もが自己愛を心に持っているからだと思います。

でも、自己愛を無くすことは出来ませんし、仏法も自己愛を無くせとは申しません。むしろ、自分の心の中にあって自分を動かしている自己愛に気付こうではないかと云うことであります。 先ずはウツ病の自分を受け容れ、ウツ病の自分と真向かいに向き合い、ウツ病の真因である自己愛に気付くことがウツ病脱出のスタートとなるのではないかと思います。自己愛は真実の自己に目覚める手掛かり、否、天下無敵、無碍一道の人生に目覚めるための仏様からのプレゼントだと考えるのが親鸞聖人の仏法だと私は思っています。

ただ、私が23年前にウツ病から脱出出来たのは、会社に退職願いを出し、結果的には関連企業への出向と云う会社の配慮に依り職場を変えられたからだったと思います(働く職場が変わったその日からウツ病は解消しました)。出来れば、人間関係を一新することが最も手っ取り早い治療方法だと思います。でも、それは飽くまでも一時的な快復で、永遠にウツ病から開放され、天下無敵、無碍一道の人生を歩むためには、自己愛と一生涯向き合われた親鸞聖人の教えに学ぶしか方法は無いと、自らの経験から思っている次第であります。

合掌


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No.916  2009.06.29

親鸞聖人の和讃を詠む-62

● まえがき
歎異抄第1章に「弥陀の誓願不思議に助けられて往生すると信じて念仏を称えようと思い立ったその時に既に救われているのだ」、そして「阿弥陀仏が救おうとなさる対象は、老いも若きも関係なく、善人とか悪人とかも関係はない。兎に角、本願を信じるか信じないかで決まるのだ」と唯円坊が親鸞聖人のお言葉として伝えていますが、今日の和讃は、全く同じことを親鸞聖人ご自身が詠われたものであります。

親鸞聖人の和讃には、頻繁に「・・・べし」と云う命令形の語尾がよく使われています。しかし、以前にもご説明しましたが、親鸞聖人が使われる「べし」が命令を表す助動詞と云うことになりますと自力の勧めになります。そんなことを言われるはずがなく、これは、「必ずそうなる、・・・に相違ない」と云う強い確信を表す「べし」であり、「道理として・・・となる」と捉えるべきでありましょう。

●親鸞和讃原文

仏智疑うつみふかし         ぶっちうたがうつみふかし
この心おもひしるならば       このしんおもいしるならば
くゆるこころをむねとして       くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし     ぶっちのふしぎをたのむべし

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
仏智を疑う罪はまことに深いけれども、この疑う罪の深いことを自ら知るときが来て、必ずその悔いる心が転じて、仏智の不思議を頼むようになるのは自然の成り行きであろう。

●あとがき
弥陀の誓願を信じることはなかなか出来ません。信じられないことは辛いことでありますが、でも、信じられないことを嘆くことはないと思います。むしろ信じられないのが当たり前であって、もし「わたしは弥陀の誓願を信じられた」と思った場合には、その信じる心を疑う位でもよいと思います。

親鸞聖人も、自力と他力の間を死ぬまで行ったり来たりされたのだと思います。そして、その仏智を疑う自己を照らす仏様の智慧の光を感じられたのだと思います。親鸞聖人ほど信じることに苦労された方はいらっしゃらないと思われます。しかし、親鸞聖人は、法然上人に出遇われましたから、それ以後も自力と他力の間を往復されつつも、結局は法然上人の存在が弥陀の誓願を確信させたのではないかと思います。

早島鏡正師は、親鸞聖人が『教行信証』の中で、『涅槃経』の文を引用されて語っておられる『信心』の見解としまして、「信心には二種あるとし、一つには道ありと信じる、二つには道を得た人(或いは道を得つつある人)を信じる、と云う二つの信がそなわっていなければ、完全なる信心ではないと告げておられます。仏となる道、さとりの道があるということを信ずるだけでは、完全な信心ではない。道のあることを信ずると共に、実際にその道を実践し、乃至は実践しつつある人のことが信じられなければ、完全な信心にはならないと仰せられるのであります。」と紹介されています。

それは親鸞聖人が、正信偈でお釈迦様と七高僧を称えられていることに表れています。そして、何よりも法然上人に直接遇われたことが信心を確かなものにしていたことは間違いないと思いますが、私も、お釈迦様の教えを知り、親鸞聖人の確信を知り、直接禅の高僧方にも、親鸞聖人の教えに帰依されている多くの先輩方に出遇っているのですが、常に信心を慶ぶ生活を送っているかと言いますと、そうではありません。おそらくはこの生命を全うする瞬間まで変わらないと思いますが、ただ確信出来ることは、仏法と共にこれからも人生を歩んで行くことは間違いないと云うことです。 そしてそう思えますのは、やはり親鸞聖人の教えに出遇ったからこそだと思いますし、その教えをご自分の言葉で私に説き聞かせて下さった井上善右衛門先生、西川玄苔老師、米沢秀雄先生のお陰であると思っております。

合掌


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No.915  2009.06.25

スポーツチームの監督の言葉から

先ごろ行われた全日本大学野球選手権で優勝した法政大学監督(金光興二氏)のインタビュー記事の中に、「プレッシャーを感じないようだったら監督は退かなきゃいけない」と云う言葉があった。また、別の記事に、サッカー日本代表前監督のイビチャ・オシム氏が監督論として「監督はアイディァを持たねばならない。最初にアイディァがなければならないのが監督である。監督はストレスが多すぎる。サッカーを見るのはストレスが多すぎる。悪いプレーを見れば怒らねばならない。それは辛いことだ。でも、もう一回監督をやってみてもいいかも知れない。私はもう一回何かを試したい。新しいアイディァで何かを」。

監督のプレッシャー、ストレスについては、プロ野球の、特に阪神タイガースの監督を見ていたら相当大きいことが分かる。でも、どうやら、そのプレッシャーとの闘いの何処かに男達を惹きつける魔力があるのだろう。確かイチロー選手にも、「記録の懸かった打席で感じるプレッシャーがたまらない!」と云うプレッシャーを楽しんでいるような言葉があったと思う。

考えて見れば、私たち普通の者にも生きる上でのプレッシャーは大きい小さいの差はあろうが、殆どの人が抱えているだろう。プレッシャーを感じない人が居るとしたら、それは人生を諦めた人だと言えるかも知れない。プレッシャーは、理屈で言えば、自分が抱く理想と現実の差を感じるところに生まれて来るものだろうから、プレッシャーが無いと云うのは、理想(或いは目標)を持っていないと云うことになるからである。

ただ、理想(目標)の持ち方が大事なのだと思う。冒頭の二人の監督や、世界一を達成したような監督達は目標の持ち方が上手いのではないか。つまり現状からあまりにもかけ離れた目標を打ち立てず、徐々に目標を上げて行っているのではないかと思う。大きな目標を心に秘めつつも、目の前の目標は、少し努力すれば手が届くレベルに設定しているのだと思う。と言うことは、現状・現実をよく把握出来ていると云うことであろう。オシム氏が言うアイディァとは、目標と現実の差を埋める課題と方策のことであろう。

そのことから思うのが、ウツ病に苦しむ人々や家族のことである。私も40代のサラリーマン時代、管理職成り立ての頃、ウツに悩まされたことがある。会社には何とか出ていたが、1年間は登社拒否状態にあったことがある。近しい家族がウツで悩んでいるおり、状況が分かるだけに何とか出来ないものかと思案しているところであるが、冒頭の監督達のプレッシャーに関する話から、ウツは自分の実力と抱く理想の差が余りにも大きいところから来る場合が多いのではないかと思った。どんなことででも良いが目の前に手が届く目標を立てて徐々に歩き出せば、意外とウツ脱出が可能ではないかと思った。
ウツは誰でも陥る可能性がある。現在ウツ病に罹っていない人も、プレッシャーを楽しめるあまり高過ぎない目標を持つことが競争社会を生き抜く一つの知恵ではないかと思う。

更に思ったことは、仏道にも当てはまるのではないかと云うことである。「仏法のことは急げ急げ」と云う蓮如上人の言葉があるが、信心を獲よう、悟りを開こうと急ぎ過ぎると、挫折してしまうかも知れない。むしろ毎月一回、或いは毎週一回或いは毎日一回は法話に耳を傾ける時間を持つことを目標にして、ついつい煩悩本位の生活に追われてしまう自分を見詰め直すことから始めてはどうかとも思った次第である。

合掌


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No.914  2009.06.22

親鸞聖人の和讃を詠む-61

● まえがき
一般の方々にとりまして、禅宗は「座禅して悟りを開く教え」と云う風に受け取られていると思います。即ち「座禅し精神統一して雑念・煩悩から離れた境地になるのだろう」と表面的には分かり易い教えと云うことになっているのだと思われます。勿論それはかなりと言って良いほど間違っているのですが、法然上人や親鸞聖人の他力本願の教え、念仏で救われると云う教えは更に全くと言ってよい程、間違って受け取られていると私は思っています。

私は敢えて『浄土宗と浄土真宗の教え』と云う言葉を使いませんでした。それは、現在の宗派としての浄土宗も浄土真宗も、法然上人や親鸞聖人ご自身がその宗派を開設したのではないと云うことと、今はどちらも人々を集めて仏法を説く仏教教団ではなく、葬式や法事の儀式に人々を集めることを中心にした教団になっており、一般庶民を苦悩から救いたいと云う法然上人や親鸞聖人の願いと異なる状況にあるからです。

そう云う現代にあっては、一般の人が他力本願の教えを間違って受け取ることは致し方ありませんし、『阿弥陀仏の本願』と云いましても、「阿弥陀仏って何?本願って何?」とキョトンとされるでしょうし、それを現代の科学教育を受けた人々に分かり易く説ける人も少なくなっていますから、「そもそも実在しない阿弥陀仏に願いがあるなんておかしい」と云うことになりましょう。
また、「ただ念仏さえ称えれば救われる」と説教されて、素直な人々が教えを守って、ただヤミクモに念仏しても救われるものではありませんから、お寺参りも長続きはしません。

今日の親鸞聖人の和讃は、念仏して本当に救われるのかと思いながら念仏する人々も、また、阿弥陀仏の本願が信じられない人も、真実信心を得て念仏で救われている先輩や先生方のようになりたいと聞法を重ねながら念仏を称えていれば、必ず救われるようになるのが自然の成り行きだと仰っておられるのですが、そのこともなかなか信じ難いはずであります。またそんな簡単に信じられるはずがありません。

法然上人も親鸞聖人も、20年乃至40年に亘る比叡山での自力修行ではなかなか悟りが開けずに比叡山を去り、阿弥陀仏の本願に付いても、また念仏で救われることに付いても、なかなか納得がいかないずに悶々とした時期を経た後に、善導大師の他力本願の教えに出遇って漸く念仏一つで救われると云う確信を得られたのでありますから、修行もしない在家の私たちがそう簡単に念仏で救われることに確信が持てる訳がありません。

●親鸞和讃原文

信心のひとにおとらじと     しんじんのひとにおとらじと
疑心自力の行者も        ぎしんじりきのぎょうじゃも
如来大悲の恩をしり       にょらいだいひのおんをしり
称名念仏はげむべし       しょうみょうねんぶつはげむべし

●和讃の現代訳(早島鏡正師の現代意訳)
たとい疑心自力の念仏者であっても、他力の信心の人に劣るまいと、如来大悲のご恩を知って、称名念仏を励むべきである。そうすれば、やがて他力の真実信心を得る身となるのである。つまり信心の人にふれることによって、その人は大悲のご恩の中に生きている人だと知られるから、私もそのような信心の人になりたいと、はじめは自力の称名をとなえ続けているけれども、そのうちに、自然法爾、願力の働きで、おのずと他力信心の身に育てられていくのであります。

●あとがき
でも、「救われたい。人間として生まれて来たからには、人間として生まれて来た意味や価値を知りたい、親鸞聖人のようになりたい」と云う願いを持ち続けて居れば、善き師にも出遇い、必ず親鸞聖人の他力本願の教えにより、念仏して救われることは間違いないと私も思います。でも、私たちはやはり法然上人や親鸞聖人よりも永い30乃至50年の聞法が必要ではないかと思います。
もしも、10年・20年位で救われたと思ったならば、少し自分の信心を疑ってみる必要がある位に思って丁度よい、それ程、他力本願の教えは、易行だけれども難信だと親鸞聖人も仰っておられます。

要するに、救われたいと云う菩提心を持ち続けて居れば、いずれは自力の心が翻って他力にお任せする他力信心の心が他力に依って心に芽生えて来ると云うことではないかと思います。ひたすら聞法生活を歩み続けようと云うことだと思います。

合掌


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No.913  2009.06.18

親の願い通りに生きているか?

極最近、『厚生労働省崩壊―「天然痘テロに日本が襲われる日」』(講談社出版)を読んだ。木村盛世と云う女性の現役キャリア官僚が書いた本である。
彼女は医師であるが現在はいわゆる臨床医ではなく、アメリカ留学で学ばれた公衆衛生学を生かし、先ごろ日本中が大騒ぎした新型インフルエンザなどの感染症などから国民を守りたい一心で、旧態依然、国民の方を向いていない官に在って孤軍奮闘されている勇気ある女性である。

官庁は国民の生命と財産に関する安全と安心を守るためにのみ在るべき存在であるが、彼女に言わせると、そこで働く役人の殆どは、官庁のボロを外部に知られないように、そして、自分の保身・出世のみを考えて行動しているらしいのである。

一昨日かに逮捕された厚生労働省の女性局長はそう云う組織のトップである。多分、厚生労働省のボロ、政官の見苦しいもたれ合いを隠すために全面否認しているのだと思われるが、そう云う組織のボロを内部告発的に執筆されたのが、冒頭で紹介した『厚生労働省崩壊―「天然痘テロに日本が襲われる日」』である。

役所が私たち国民を守るために必死に働いているとは思っていないが、木村氏の本を読んで、役所がここまで無責任で、且つ仕事の無駄を垂れ流している組織であることを知り、愕然としたのであるが、愕然としているだけで済む問題ではなく、日本を守り私たち国民の安全安心を守る政治と行政を実現するために、政治と行政の現実を知り、国民一人一人が行動を起こさねばならないと思った次第である。勿論、私たちに出来ることは、選挙権の行使でしかない。そして、木村盛世氏のような官僚に活躍して貰える日本国家にしなくてはならないと思うのである。

私は、彼女の本を読んで、もう一つ思ったことがある。それは彼女を衝き動かし、そして彼女の支えになっているのが父親の願いではないかと云うことである。そして、人間誰でも、親から願いを懸けられてこの世に生まれたであろうことである。そしてその親も親から願いを懸けられていたはずであろうことである。そうすると、遠い先祖からの願いの合唱が聞こえてくるような気がしたのである。

その願いは金持ちになって欲しいとか、出世して欲しいとか云う具体的なことではなかろうと思う。多分それは、人間に生まれて良かったと思える人生を歩んで欲しいと云うものだと私は思うのである。私は仏法に人生を聴きながら生きているので、それを仏様の願い、親鸞聖人の教えでは『阿弥陀仏の誓願』だと思うのであるが、自分の人生を振り返ったり、今現在の自分のあり方を考察するとき、「自分は親の願い通り生きて来ただろうか、そして今親の願いに沿った生き方をしているであろうか?」と自己に尋ねてみてはどうかと思う。

木村盛世氏は現在のところ厚生労働省の出先機関で恵まれない立場にあるのかも知れないが、WHOの要職を勤めながら臨床医としては弱者には無料で診たと云う慈父の生き方を踏襲し、立派な人生を歩んでおられ、私は木村氏は親の願い通りに生きている自信と満足感も心の何処かに感じられているのだと思うのである。そしてそう云う私も立身出世面では親の期待に沿えはしなかったが、母親の背中で聴いた仏法を人生の拠りどころにして何とか生きている自分の人生晩年は、親に喜んで貰えていると慰めているところである。

合掌

木村盛世氏の経歴紹介:
医師・厚生労働省医系技官。筑波大学医学部卒業。米国ジョンズ・ポプキンス大学公衆衛生大学院疫学部修士課程修了(MPH〔公衆衛生修士号〕)。優れた研究者に贈られる、ジョンズ・ポプキンス大学デルタオメガスカラーシップを受賞する。内科医として勤務後、米国CDC(疫学予防管理センター)多施設研究プロジョクトコーディネーターを経て財団法人結核予防会に勤務。その後、厚生労働省大臣官房統計情報部を経て、厚労省検疫官。専門は、感染疫学。


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No.912  2009.06.15

持ち物を替えても人生は変わらない

自称宗教団体と云われる組織に高額の印鑑や壺、仏像を買わされると云う事件が度々話題になります。その度に、自称仏教徒の私は歯がゆい思いを抱きます。

しかし『宗教とは何か』を論ずることは避けたいと思います。宗教の歴史を思いますとあまりにも様々な形の宗教が存在しますし、また世界の三大宗教と言われる、キリスト教・イスラム教・仏教の間にさえ(絶対超越者としての神を信仰し救済教とされるキリスト教・イスラム教と、絶対者を否定し真理や法の中の自己に目覚める自覚教とされる仏教)根本的な差異があると私は思っているからです。また、仏教の宗派間にもキリスト教と仏教の間と同じ位の隔たりがあると思いますから、どの宗教が正しいと云うことを誰も言ってはならないと思います。従いまして、宗教に付いて自分の意見を言う場合には、「私は縁あってこの宗教を信じています。」と云うべきであると私は思っています。

しかし、よく問題になる「あなたの今の不幸は印鑑が悪いからで、この印鑑に替えれば、あなたに幸せが訪れる」と云うキャッチセールス、これは宗教でも何でもありません。持ち物を替えることで人生が変わるはずがないことは是非心に刻んでおいて欲しいものだと思います。印鑑に百万円も支払うことは実に惜しいことです。

「人生は持ち物や名前を変えて変わるものではない」し、「信心や信仰によって金持ちになったり、出世したり、病気が治ることはない」と云うのが仏教の言い分です。でも、仏教で人生は変わります。仏教徒で人生が変わらないと言う人が居れば、それは正しい仏教を信仰していないからだと言ってもよいのではないかと思います。

私は禅宗と浄土真宗(親鸞聖人の教え)しか知りませんが、お釈迦様の教えは自己の真実を知る、真実の自己に目覚めて人生を転換しようではないかと云う教えだと思います。

この私の命は、宇宙の始まりから、と言いたいところですが、少なくとも、私の命を過去に遡って行けば、二十数億年前の地球に初めて誕生した単細胞生命に行き着くに違いありませんし、今の私の命は、地球に存在するあらゆる生命と無関係に存在していません。地中の微生物の働きが無ければ、植物は生きていけませんし、植物が存在しませんと私たち人間は(酸欠になり)、生きてゆけません。ましてや、他の動植物の命の犠牲が無ければ、食べてゆけません。そして、太陽が無ければ、空気が無ければ、海(水)が無ければ、片時も生きてゆけません。太陽系の惑星である地球の恩恵を身一杯に受けている私の命は、結局は銀河系、否、宇宙全てと共に在る命だと言うことになります。そして、この自分の命の真実を自覚することに依って初めて人間としての生き方がはっきりする、つまり、その自覚によって人間として二度目の誕生日を迎えることになると仏教は教えてくれるのです。

二度目の誕生日を迎えますと人生は変わらざるを得ないと思います。少なくとも、印鑑を替えてお金を儲けようとか、神社にお参りして入学試験に合格しようと言うことはなくなるのではないでしようか。

自分の命(心身)の実態を知ることなしに、生まれ難い人間としての命の人生は始まらないと思います。

合掌


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No.911  2009.06.11

命と命の入れ物

3ヶ月前のコラム『人間運転免許』で、「車の運転は教習所に通って運転の技能を学び、免許証を取得してからでないと事故を起こす。同様に、私たちが事故なく人生を歩んで行くには人間としての運転免許が必要である。そして『自我の満足を追いかけて、聖なる心を満足させることがない人生は決して真の幸せは訪れないこと』を徹底して教習しておく、それが自動車運転免許以上に人間に必要な運転免許ではないか?その人間運転免許の教習に当たるのが自我と自己の違いの自覚を目指す宗教、即ち仏法ではないか」と云うようなことを語りました。

仏教は『本来の自己』を自覚せしめる宗教です。神や仏に救済を求める宗教ではありません。どこまでも『自己を尋ね求めてゆく』のが仏道です。

米沢秀雄先生が看護学校に招かれて講演された中で、「命と命の入れ物は違う。命そのものを救うのは宗教であり、医療は命の入れ物の修理をすることしか出来ない」と云うような事を言われていますが、米沢先生が仰りたかったのは「命と命の入れ物は繋がっている。命の入れ物だけを修理しても病気は完治しないのだよ。宗教心を養って、命の入れ物だけを見ずに、命を救う看護師になって欲しい」と云うことだと思います。

この無相庵を訪ねられた方は、人生の上に何らかの問題意識を持たれたからだと思います。その問題を解決するには、「自己を尋ね求めてゆく」しかないと思いますが、往々にして、自分の心の動きだけ即ち精神作用だけを対象にして、『自分の思い違い、考え違い』に気付こうとしがちでありますが、自己を尋ねるに当たりましては、医療と同様、命と命の入れ物の両方を対象にして学ばれる必要があるのではないかと思います。

命の入れ物を知る第一歩として、私は、私たちの脳の仕組みを知ることをお勧め致します。人間と他の動植物との大きな差異は、大脳皮質にあります。大脳皮質があるからこそ、『自分が一番可愛い、大事だ』と云うエゴイズムを抱き、その煩悩に悩まされますが、その大脳皮質の働きがあるからこそ、本来の自己に目覚めることが出来、苦が苦でない自由な人生が展開することになるのだと思います。

命は、脳の脳幹と云うところが休み無く働いてくれていることで確認されるようであります。その脳幹が色々な臓器を動かし、血液を体中に循環させ、呼吸させてくれるお陰で私たちは生きているそうでありますが、その脳幹は大脳皮質とも常に情報の交換を行っておりますから、私たちの心と体は一体だと言うことになるのだと思います。

医者である米沢先生が、大脳生理に関して講演された内容を、法話コーナーでご紹介しております。数回に分けて、アップしますので、是非目を通されることをお勧めします。

車の運転は、車の仕組み・構造を知らずとも運転出来ます。しかし、人間は体の仕組み、特に脳の仕組みと命の仕組みを知ることで、より正常な運転が出来るのではないかと思います。


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