No.913  2009.06.18

親の願い通りに生きているか?

極最近、『厚生労働省崩壊―「天然痘テロに日本が襲われる日」』(講談社出版)を読んだ。木村盛世と云う女性の現役キャリア官僚が書いた本である。
彼女は医師であるが現在はいわゆる臨床医ではなく、アメリカ留学で学ばれた公衆衛生学を生かし、先ごろ日本中が大騒ぎした新型インフルエンザなどの感染症などから国民を守りたい一心で、旧態依然、国民の方を向いていない官に在って孤軍奮闘されている勇気ある女性である。

官庁は国民の生命と財産に関する安全と安心を守るためにのみ在るべき存在であるが、彼女に言わせると、そこで働く役人の殆どは、官庁のボロを外部に知られないように、そして、自分の保身・出世のみを考えて行動しているらしいのである。

一昨日かに逮捕された厚生労働省の女性局長はそう云う組織のトップである。多分、厚生労働省のボロ、政官の見苦しいもたれ合いを隠すために全面否認しているのだと思われるが、そう云う組織のボロを内部告発的に執筆されたのが、冒頭で紹介した『厚生労働省崩壊―「天然痘テロに日本が襲われる日」』である。

役所が私たち国民を守るために必死に働いているとは思っていないが、木村氏の本を読んで、役所がここまで無責任で、且つ仕事の無駄を垂れ流している組織であることを知り、愕然としたのであるが、愕然としているだけで済む問題ではなく、日本を守り私たち国民の安全安心を守る政治と行政を実現するために、政治と行政の現実を知り、国民一人一人が行動を起こさねばならないと思った次第である。勿論、私たちに出来ることは、選挙権の行使でしかない。そして、木村盛世氏のような官僚に活躍して貰える日本国家にしなくてはならないと思うのである。

私は、彼女の本を読んで、もう一つ思ったことがある。それは彼女を衝き動かし、そして彼女の支えになっているのが父親の願いではないかと云うことである。そして、人間誰でも、親から願いを懸けられてこの世に生まれたであろうことである。そしてその親も親から願いを懸けられていたはずであろうことである。そうすると、遠い先祖からの願いの合唱が聞こえてくるような気がしたのである。

その願いは金持ちになって欲しいとか、出世して欲しいとか云う具体的なことではなかろうと思う。多分それは、人間に生まれて良かったと思える人生を歩んで欲しいと云うものだと私は思うのである。私は仏法に人生を聴きながら生きているので、それを仏様の願い、親鸞聖人の教えでは『阿弥陀仏の誓願』だと思うのであるが、自分の人生を振り返ったり、今現在の自分のあり方を考察するとき、「自分は親の願い通り生きて来ただろうか、そして今親の願いに沿った生き方をしているであろうか?」と自己に尋ねてみてはどうかと思う。

木村盛世氏は現在のところ厚生労働省の出先機関で恵まれない立場にあるのかも知れないが、WHOの要職を勤めながら臨床医としては弱者には無料で診たと云う慈父の生き方を踏襲し、立派な人生を歩んでおられ、私は木村氏は親の願い通りに生きている自信と満足感も心の何処かに感じられているのだと思うのである。そしてそう云う私も立身出世面では親の期待に沿えはしなかったが、母親の背中で聴いた仏法を人生の拠りどころにして何とか生きている自分の人生晩年は、親に喜んで貰えていると慰めているところである。

合掌

木村盛世氏の経歴紹介:
医師・厚生労働省医系技官。筑波大学医学部卒業。米国ジョンズ・ポプキンス大学公衆衛生大学院疫学部修士課程修了(MPH〔公衆衛生修士号〕)。優れた研究者に贈られる、ジョンズ・ポプキンス大学デルタオメガスカラーシップを受賞する。内科医として勤務後、米国CDC(疫学予防管理センター)多施設研究プロジョクトコーディネーターを経て財団法人結核予防会に勤務。その後、厚生労働省大臣官房統計情報部を経て、厚労省検疫官。専門は、感染疫学。


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No.912  2009.06.15

持ち物を替えても人生は変わらない

自称宗教団体と云われる組織に高額の印鑑や壺、仏像を買わされると云う事件が度々話題になります。その度に、自称仏教徒の私は歯がゆい思いを抱きます。

しかし『宗教とは何か』を論ずることは避けたいと思います。宗教の歴史を思いますとあまりにも様々な形の宗教が存在しますし、また世界の三大宗教と言われる、キリスト教・イスラム教・仏教の間にさえ(絶対超越者としての神を信仰し救済教とされるキリスト教・イスラム教と、絶対者を否定し真理や法の中の自己に目覚める自覚教とされる仏教)根本的な差異があると私は思っているからです。また、仏教の宗派間にもキリスト教と仏教の間と同じ位の隔たりがあると思いますから、どの宗教が正しいと云うことを誰も言ってはならないと思います。従いまして、宗教に付いて自分の意見を言う場合には、「私は縁あってこの宗教を信じています。」と云うべきであると私は思っています。

しかし、よく問題になる「あなたの今の不幸は印鑑が悪いからで、この印鑑に替えれば、あなたに幸せが訪れる」と云うキャッチセールス、これは宗教でも何でもありません。持ち物を替えることで人生が変わるはずがないことは是非心に刻んでおいて欲しいものだと思います。印鑑に百万円も支払うことは実に惜しいことです。

「人生は持ち物や名前を変えて変わるものではない」し、「信心や信仰によって金持ちになったり、出世したり、病気が治ることはない」と云うのが仏教の言い分です。でも、仏教で人生は変わります。仏教徒で人生が変わらないと言う人が居れば、それは正しい仏教を信仰していないからだと言ってもよいのではないかと思います。

私は禅宗と浄土真宗(親鸞聖人の教え)しか知りませんが、お釈迦様の教えは自己の真実を知る、真実の自己に目覚めて人生を転換しようではないかと云う教えだと思います。

この私の命は、宇宙の始まりから、と言いたいところですが、少なくとも、私の命を過去に遡って行けば、二十数億年前の地球に初めて誕生した単細胞生命に行き着くに違いありませんし、今の私の命は、地球に存在するあらゆる生命と無関係に存在していません。地中の微生物の働きが無ければ、植物は生きていけませんし、植物が存在しませんと私たち人間は(酸欠になり)、生きてゆけません。ましてや、他の動植物の命の犠牲が無ければ、食べてゆけません。そして、太陽が無ければ、空気が無ければ、海(水)が無ければ、片時も生きてゆけません。太陽系の惑星である地球の恩恵を身一杯に受けている私の命は、結局は銀河系、否、宇宙全てと共に在る命だと言うことになります。そして、この自分の命の真実を自覚することに依って初めて人間としての生き方がはっきりする、つまり、その自覚によって人間として二度目の誕生日を迎えることになると仏教は教えてくれるのです。

二度目の誕生日を迎えますと人生は変わらざるを得ないと思います。少なくとも、印鑑を替えてお金を儲けようとか、神社にお参りして入学試験に合格しようと言うことはなくなるのではないでしようか。

自分の命(心身)の実態を知ることなしに、生まれ難い人間としての命の人生は始まらないと思います。

合掌


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No.911  2009.06.11

命と命の入れ物

3ヶ月前のコラム『人間運転免許』で、「車の運転は教習所に通って運転の技能を学び、免許証を取得してからでないと事故を起こす。同様に、私たちが事故なく人生を歩んで行くには人間としての運転免許が必要である。そして『自我の満足を追いかけて、聖なる心を満足させることがない人生は決して真の幸せは訪れないこと』を徹底して教習しておく、それが自動車運転免許以上に人間に必要な運転免許ではないか?その人間運転免許の教習に当たるのが自我と自己の違いの自覚を目指す宗教、即ち仏法ではないか」と云うようなことを語りました。

仏教は『本来の自己』を自覚せしめる宗教です。神や仏に救済を求める宗教ではありません。どこまでも『自己を尋ね求めてゆく』のが仏道です。

米沢秀雄先生が看護学校に招かれて講演された中で、「命と命の入れ物は違う。命そのものを救うのは宗教であり、医療は命の入れ物の修理をすることしか出来ない」と云うような事を言われていますが、米沢先生が仰りたかったのは「命と命の入れ物は繋がっている。命の入れ物だけを修理しても病気は完治しないのだよ。宗教心を養って、命の入れ物だけを見ずに、命を救う看護師になって欲しい」と云うことだと思います。

この無相庵を訪ねられた方は、人生の上に何らかの問題意識を持たれたからだと思います。その問題を解決するには、「自己を尋ね求めてゆく」しかないと思いますが、往々にして、自分の心の動きだけ即ち精神作用だけを対象にして、『自分の思い違い、考え違い』に気付こうとしがちでありますが、自己を尋ねるに当たりましては、医療と同様、命と命の入れ物の両方を対象にして学ばれる必要があるのではないかと思います。

命の入れ物を知る第一歩として、私は、私たちの脳の仕組みを知ることをお勧め致します。人間と他の動植物との大きな差異は、大脳皮質にあります。大脳皮質があるからこそ、『自分が一番可愛い、大事だ』と云うエゴイズムを抱き、その煩悩に悩まされますが、その大脳皮質の働きがあるからこそ、本来の自己に目覚めることが出来、苦が苦でない自由な人生が展開することになるのだと思います。

命は、脳の脳幹と云うところが休み無く働いてくれていることで確認されるようであります。その脳幹が色々な臓器を動かし、血液を体中に循環させ、呼吸させてくれるお陰で私たちは生きているそうでありますが、その脳幹は大脳皮質とも常に情報の交換を行っておりますから、私たちの心と体は一体だと言うことになるのだと思います。

医者である米沢先生が、大脳生理に関して講演された内容を、法話コーナーでご紹介しております。数回に分けて、アップしますので、是非目を通されることをお勧めします。

車の運転は、車の仕組み・構造を知らずとも運転出来ます。しかし、人間は体の仕組み、特に脳の仕組みと命の仕組みを知ることで、より正常な運転が出来るのではないかと思います。


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No.910  2009.06.08

親鸞聖人の和讃を詠む-60

● まえがき
前回までの58首の和讃は、正像末和讃の中の正像末浄土和讃に分類されています。正像末和讃は、全部で116首あるのですが、夢告讃(1首)、正像末浄土和讃(58首)、仏智疑惑和讃(23種)、皇太子聖徳奉讃(11首)、愚禿悲嘆述懐讃(16首)、善光寺如来和讃(5首)、自然法爾讃(2首)に分類されているそうです。

これからの3首は、早島鏡正師が仏智疑惑和讃の23首の中から選ばれた和讃でありますが、仏智疑惑とは、仏様の本願を疑ったり、或いは自力の心で本願を信じようとすることであります。

大無量寿経に仏の48願が示されています。私は仏が実在するとは思っていませんが、仏という概念そのものを如何なものかと疑念を抱いたり、本願と云うものにも、所詮は人間が考え出したものではないかと考えたりすることがあります。まさに仏智を疑惑しています。

おそらく親鸞聖人も、法然上人に出遇われて、仏の本願と云う言葉を説き聴かされても、なかなか信じられなかったのではないかと思います。そういうご自分の心の遍歴を踏まえられて、仏智を疑うことの愚かさを和讃に託されたのではないかと思います。

●親鸞和讃原文

不了仏智のしるしには     ふりょうぶっちのしるしには
如来の諸智を疑惑して     にょらいのしょちをぎわくして
罪福信じ善本を          ざいふくしんじぜんぽんを
たのめば辺地にとどまるなり  たのめばへんちにとどまるなり

●和讃の現代訳(早島鏡正師訳)
自力の人が仏の智慧を信じない証拠には、かれは阿弥陀如来の五つの智慧(仏智、不思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智)を疑い、善因善果・悪因悪果の因果の理を信じて、自力の善根を積んで福徳を得、悪や罪の行いを止めて苦しみをなくそうと努める(罪福を信じる)。或いはまた、諸々の善の根本である如来廻向の名号を疑いながら、自力のこころで称名念仏している(善本をたのむ)。 それだから、かれがたとい浄土に生まれても、浄土の辺地、つまり浄土のかたほとりにある化土にとどまって、真実の報土そのものに生まれることは出来ない。

●あとがき
疑うと云うことは悪いことではないと思いますが、疑うと云うことは、自分が持っている知識や経験に照らして信じられないと云うことであり、その知識や経験が非常に狭く乏しいものであるところが大問題なのであります。つまり自分の考えは正しいとする自我の心が問題であります。

仏智を疑う心が無くなるのは、多分、仏智を疑わない人に出遇うことでしか達成され得ないと思います。お陰さまで私は多くの正師に出遇わせて頂きましたが、最近著書を通じて出遇えた米沢秀雄先生に依って、仏智を疑う心が取り払われつつあるように感じています。 正しい師に出遇うことが何よりも大切なのだと実感しているところであります。

合掌


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No.909  2009.06.04

幸せはすぐそこに

私たち人間は誰でも幸せを願っていると思う。しかし、瞬間的に幸せを感じることはあっても、確実に幸せを掴んだと云う実感が持続したことがあると言える人は極々少ないのではないかとも思う。

考えて見れば、私たちは今この瞬間の幸せを取り逃がしながら、少し先の幸せを追い求めているのではないかと思う。「もう少し・・・になれば幸せになる」或いは「もう少し・・・になれば楽になる」と、常に幸せの目標を少し先に置いて、その実現に向かって努力することが習い性になっているのではないかと思う。

仏法に「この世で間違いないと言える事は、『私たちは今この瞬間に生きて存在している』ことと、『私たちはいずれ死ぬ』ことである。」と云う教えがある。つまり私たちの未来は保証されていないと云うことである。

この考え方に異論を唱えられる人は居ないはずである、にも関わらず、人生で私たちが最も望んでいる幸せを常に未来のこととして描き、そしてその幸せを掴むことなく死を迎えているのではないかと思う。私自身がそうであったし、今もその癖がなかなか直せないで居る。

「いい結婚相手が見付かったら・・・」、「この子が希望の学校に入学出来たら・・・」、「息子に一流企業への就職が決まったら・・・」、「一戸建ての家に住めたら・・・」、「この仕事が成功したら・・・」、「この借金の返済が終わったら・・・」と、常に幸せを先に置いて、今確実にある幸せを取り逃がして来たように思うのである。

実に愚かなことだと思う。そして更に愚かなことは、財産と名誉が幸せに直結しないことの実例が誰の身の回りにも溢れているにも関わらず、財産や名誉の獲得が幸せそのもののように思い込んでしまっているところである。これもやはり、先祖代々受け継いできた人生観であり、習い性となってしまっているのだと思う。

仏法の説く幸せは、他の動植物ではない命の人間に生まれた慶びに気付くことに依って得られるものである。すべてを受け容れて自由自在に生きて行くところに幸せがあると云うのが仏法の説くところだと思う。

人間は赤ちゃんの時には誰しも計らいなくお任せで生きている。すべてを受け容れて自然である。お腹が減れば泣き叫ぶ、お腹が一杯になれば直ぐに眠り出す。楽しいときは声をあげて笑う。「今泣いたカラスがもう笑う」と云う大人には真似ることの出来ない自然さがある。これは犬猫も同じである。 禅では「赤子の如き無心になれ!」と悟りの境地を指し示す場合があるが、法然上人、親鸞聖人が大切にされた『自然法爾(じねんほうに)』の心境である。
ただ、赤子とか犬猫の心になれと云うことではない。赤子や犬猫は自然法爾に生きているが、そう云う自分を自覚出来ていないから生かされている慶びを感じることは出来ていない。大脳皮質が発達した私たち成人は、その慶びを自覚する事が出来るのである。
大脳皮質が発達していることで自我に苦しみ悩まされる代わりに、その大脳皮質のお陰で、人間に生まれたお陰で、本来の自己を自覚することが出来るのである。

仏法は本来の自己を自覚することこそ永遠の幸せを獲得出来る唯一の方法だと説くのである。
表題の『幸せはすぐそこに』は歌手天童よしみさんのヒット曲の題名であるが、「幸せを遠くに求めず、自己に求めよ」と云うお釈迦様の言葉に読み替えて、今この瞬間に生かされて生きている幸せを噛み締めたいと思う。

合唱


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No.908  2009.06.01

親鸞聖人の和讃を詠む-59

● まえがき
今日の和讃は『恩徳讃(おんどくさん)』と云いまして、浄土真宗の信徒に最も広く歌われているものです。母が主宰していた垂水見真会の講演会の最後には参加者全員で唱和していましたので、私ももの心ついた頃には歌っていたと記憶しています。当時のテープに、テープレコーダーの傍で歌っていた母や私や私の妻の声が残っていて懐かしく感じます。

でも、この和讃の深い意味は、今まで分っておりませんでした。『如来』、『大悲』、『恩徳』、『報ず』、『師主』、『知識』、『謝す』、それぞれの単語の表面的な意味は教えて貰えば分りますが、和讃を作られた親鸞聖人が使われた背景と言いますか、感じ取られている深い意味合いまでを理解するには、未だ未だ年齢を含めて信心を重ねる必要があるのではないかと思います。

●親鸞和讃原文

如来大悲の恩徳は        にょらいだいひのおんどくは
身を粉にしても報ずべし     みをこにしてもほうずべし
師主知識の恩徳も         ししゅちしきのおんどくも
ほねをくだきても謝すべし     ほねをくだきてしゃすべし

●和讃の現代訳
仏様(宇宙を動かし、私たちを生かしめる働きや真実真理そのもの)が何とかして私たちを狭い自我の世界から広く自由自在な世界に目覚めさせようとして立てられた(大無量寿経に示された四十八願として表れている)本願に出遇えた私たちは、その恩徳の深さをよくよく知らなければなりません。また、その本願をお釈迦様から代々受け継がれて来られた祖師方をはじめとして、直接私に仏法を説き明かして下さった先輩や先生方の恩徳にお応えするためにも、聞法を重ねさせて頂いて、真実信心に目覚めたいものであります。南無阿弥陀仏。

●あとがき
私たちが親のご恩に報い感謝すると云うことは、お墓参りを欠かさないこととか、法要をキチンと執り行なうと云うことではなく、親の願いに添った人生を全(まっと)うすることだと思います。

それと同じく、仏の恩に報謝すると云うことは、真実信心を得て、本当に幸せな人生、生き甲斐のある人生を渡り切ることだと思います。仏法に出遇えた意味、受け難き人間の命に恵まれた意味を自覚することにあります。

合掌


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No.907  2009.05.28

妄念はもとより凡夫の地体なり

約二ヶ月前位から、毎朝夫婦で坐禅をしております。ほんの10分間ですから大したことではありません。きっかけは仏法の実践ではなく、たまたま妻がお世話になっている歯医者さんから、姿勢をよくする訓練をした方がよいと云う指導を受けましたので、それなら坐禅がよいと考えまして、始めたということでございます。

坐ってみますと、10分間というのは結構長いものです。野球中継のテレビでも見ている10分間はあっと云う間ですが、坐禅の10分は2倍か3倍に感じます。そして、たとえ10分のことでも毎日続けると云うことは大変な意志力が要ることも感じているところです。夫婦でやっているから辛うじて続いているようにも思います。

坐禅をしたのは初めてです。坐っていますと、心に去来するのは、仕事のことや、その日に予定されていることや、まったく関係ない昔の出来事や、実に様々なことが浮かんでは消えていきます。日常生活において、色々な雑念が頭に浮かんで来ますが、あまり気に掛からないものです。しかし、坐禅をしていますと、自分の妄想・雑念がはっきりと意識され、源信僧都が横川法語(よかわほうご)の中で述べられている、「妄念はもとより凡夫の地体なり」と云う言葉が思い出されます。この意味するところは、「妄念は私たち凡夫そのものだ、妄念以外のなにものでもない」だと思いますが、この言葉に本当に頭が下がったとき、逆に自我を離れて自己に目覚めた時と云うのが、真宗の立場ではないかと思います。

読者の皆さまも一度お座りになられ、ご自身の心と向き合われて見られたら如何でしようか。新しい発見があると存じます。

合掌


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No.906  2009.05.25

親鸞聖人の和讃を詠む-58

● まえがき
今日の和讃は、『大無量寿経』にある「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」 (法を聞きてよく忘れず、見て敬い得て大きに慶べば、すなわち我が善き親友なり)を和讃にされたものであります。

念仏はお釈迦様の仏法ではないとする考え方に対して、「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」と云う『大無量寿経』の言葉が、お釈迦様もお認めになっていたと云う根拠になっているのかも知れません。

『親友』と漢訳された梵語が何かは存じませんが、現代の私たちが使っている〝親しい友人〟と云う『親友』ではなく、〝真理を求める同行者〟と云う意味の言葉ではないかと思います。

親鸞聖人は、『正信偈』にも、「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」から引用されて、「信を獲て、見て敬い、大きに慶喜すれば、仏、この人を芬陀利華(ふんだりけ、白蓮華、稀有な花と云う意味)と名づく」とも詠われています。

●親鸞和讃原文

他力の信心うるひとを          たりきのしんじんうるひとを
うやまひおほきによろこべば     うやまいおおきによろこべば
すなはちわが親友ぞと         すなわちわがしんゆうぞと
教主世尊はほめたまふ        きょうしゅせそんはほめたもう

●和讃の現代訳
他力の教えをよく聞いて、敬いそして大いに慶ぶ人は私の親友と思うとお釈迦様は褒め称えられました。

●あとがき
当時の仏教界で念仏の教えを異端的に捉えていたことは、法然上人も親鸞聖人も流罪に処せられたことから明らかであります。親鸞聖人は、その考え方はおかしい、念仏も、否、念仏こそ、末法の世に生まれた者達が救われる教えとしてお釈迦様がお認めになっておられたことを世の中に知らしめたいと思われていたのだと思います。

親鸞聖人の主たる著書である『教行信証』に「それ真実の教を顕さば、 すなわち 『大無量寿経』 これなり」 とおっしゃり、 真実の経 (釈尊の本心が説かれている経典) は 『大無量寿経』 ただ一つであると断言されているのは、この「聞法能不忘 見敬得大慶 即我善親友」と云う言葉の存在が大きいのではないでしょうか。

親鸞聖人は、「弟子を一人も持っていない」と仰っておられたそうですが、それもこの大無量寿経のお釈迦様の『親友』と云う言葉から学ばれて共感を得られたからではないかと想像致します。それにしましても、あの時代に、実に丹念に経典を読まれていたものだと思います。

合掌

追伸:法話コーナーに『米沢英雄先生』のご法話を順次転載させて頂いております。現代科学教育に洗脳されている私たちにとりまして、親鸞聖人の他力本願の教えが実に理解しやすく説かれていると思いますので、是非参考にして頂きたく思っております。


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No.905  2009.05.21

太郎と花子は何処へ

前回の木曜コラムで、ツバメの巣作りとの闘い振りをお知らせ致しましたが、その木曜日の昼前に、玄関の上のバルコニーに五箇所目の挑戦となる巣作りを始めました。相手も時間との闘いがあったのでしよう、でも相手も必死でしたが、こちらも障害物を張り巡らせて巣作りを断固拒否しました。

しかし、さすがに夕方になると可哀相な気持ちが沸々と湧き上がってきました。日本にやって来るツバメの数を知りませんが、恐らくは数十万羽、或いは数百万羽になるかも知れません。たまたまその中の一組のツバメ夫婦が、何かの縁で我が家を気に入ってくれたのだと思うようになり、夜、勤務から帰って来た妻に、ツバメさんとの縁を大切にしようではないか、糞も必要に応じて清掃すれば済むことだからと協議し、妻も同意してくれましたので、太郎と花子と云う名前を用意して、翌朝からは巣作りを温かく見守り、子育てにも協力することにしました。

しかし、その翌日の金曜日の朝は、今度は待てど暮せど姿を見せてくれませんでした。ちょいちょい玄関先に出て様子を窺ってみましたが、結局は、その日は一度も姿を見ることがありませんでした。あれ程、執念を燃やして我が家に巣を作ろうとしていたから明日には帰って来るだろうと思いながら・・・一日が終わりました。

でも、結局は今日までの一週間、全く姿の影さえも見ることが出来ませんでした。何処かに巣作りの場所を見つけたのでしょう。少々後味の悪さを感じつつ、ツバメさんとの闘いは終わりました。来年もし巣作りに来るツバメ夫婦があったら、快く迎えようと思っています。

振り返って、何故自分の気持ちが180度変わったのかを考えてみました。それは、「同じ命を生きている仲間ではないか、そしてツバメさんに汚されたく無いと思っている我が家も所詮は預かり物ではないか、清掃の労力を厭わず縁を大切に生きてゆくのが仏法を学んでいる者のあるべき生き方ではないか」と云う仏様のささやきが聞こえてきたからだったと思います。

そして、もう一つ思ったことは、あるがままを受け容れられることが、どんなに気楽で楽しいことになるかということであります。少し視点を変えることで、心模様が一変し、生活態度も一変するということであります。
ツバメさんが我が家の玄関に運んできたのは、巣造りの土と糞だけではなく、仏様のメッセージ(仏法)も運んで来てくれたのでした。

それにしても、太郎と花子は今何処に・・・来年は我が家に帰っておいでよ!

合掌


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No.904  2009.05.18

親鸞聖人の和讃を詠む-57

● まえがき
親鸞聖人が浄土門の七高僧として敬われている方々は、インド・中国・日本にまたがります(和讃にある『三朝』の『朝』は『朝廷』を意味する漢字で、『三朝』は『三国』と云うことであります)。七高僧とは、インドの龍樹菩薩(西暦150~250年頃)と天親菩薩(西暦320年~400年頃、世親菩薩とも呼ばれる)の二人、中国の曇鸞大師(西暦476年~542年)と道綽禅師(西暦562年~645年)と善導大師(西暦613年~681年)の三人、日本の源信僧都(西暦942年~1017年)と法然上人(西暦1133年~1212年、源空とも呼ばれる)の二人の合計7人であります。正信偈にはこの七高僧を讃える句が並んでいます。

今日の和讃は、この七高僧に恵みを乞うものであります。

●親鸞和讃原文

三朝浄土の大師等        さんちょうじょうどのだいしとう
哀愍摂受したまひて        あいみんしょうじゅしたまいて
真実信心すすめしめ        しんじつしんじんすすめしめ
定聚のくらゐにいれしめよ    じょうじゅのくらいにいれしめよ

●和讃の現代解釈(早島鏡正師)
三国の七高僧よ。慈しみを垂れ、わたくしたちを摂取して真実の信心をすすめ、正定聚不退の位につかしめてください。

●あとがき
禅宗の方では、達磨大師を始祖として始祖1達磨→2慧可→3僧粲→4道信→5弘忍→6慧能⇒と法脈が受け継がれ、そこから青原行思(曹洞宗)、南嶽懐譲(臨済宗)へと分派して、日本の禅宗が誕生することとなりました。そう云う事を知っていた親鸞聖人が、他力本願の念仏門もお釈迦様の仏教の正統派であることを世に明らかにするために、七高僧の存在を辿り知らせられたのではないかと思います。

その中で、日本の末法時代に入って(1052年)から生まれた法然上人を末法の私たちを救う為に世に出られた阿弥陀如来の化身であると崇められたのではないかと推察しております。

親鸞聖人がどの程度まで当時の禅宗の教えを知っておられたか私は存じません。日本の臨済宗は栄西禅師(西暦1141年~1215年)が中国で印可を受けて帰国された1191年(親鸞聖人18歳の時)に始まり、曹洞宗は道元禅師(西暦1200年~1253年)が同じく中国で印可を受けて帰国された1228年(親鸞聖人が55歳の時)に始っていますが、当時の情報伝播状況から考えますと、それ程深くはお知りになっていない、否、むしろ学問重視の南都北嶺の旧仏教と同列に見なされて、無視されていた可能性さえあると私は想像しております。

その後の日本の禅宗は、大いに発展し、曹洞宗では良寛禅師、臨済宗では一休禅師・白隠禅師が出られ、そのお悟りの内容は浄土門の信心と変わらず、仏様の他力に依って生かされて生きる我が身を自覚されたものではないかと思われますので、私たち現代に生きる者は、入門の縁に依って禅門と浄土門と異なっても、行き着くところは同じお釈迦様の悟りの世界であると考えてよいのではないかと私は思っております。

合掌


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No.903  2009.05.14

小慈小悲もなき身にて

今我が家の玄関に2羽のツバメが巣作りしようとしてしつこく飛来して参ります。今の家に住んで今年の12月で10年になりますが、これは初めての経験です。そしてその糞害と闘っているところです。

ツバメの巣作りに気が付きましたのは、今週の月曜日です。来客を迎えるために玄関先を清掃していたときに、玄関ドアがこれまでになく汚れていたことからです。少し離れた頭上を見ますと、隅っこに黒い汚れがこびり付いていました。それでも、未だツバメの巣作りだと云うことに思い及びませんでしたが、1、2分の中に、黒い影が目の前を横切ったような気がしました。それがツバメだと分ったのは、直ぐ傍の電線に2羽のツバメがとまって鳴いているのに気付いたからでした。

ツバメは人を怖がりませんね。保護鳥ですから、人間に危険を感じて来なかった親を始めとする先祖からDNAでその情報が受け継がれて来ているのでしょうか、私や妻が玄関先に居ても、堂々と巣に黒土を運び込もうとします。

対策として、巣作りの箇所を水洗いし、紙袋を洗濯物の干し竿に被せて、その巣作りしようとしていた箇所を覆い隠しました。が・・・、直ぐにもう一方の隅っこに黒い土を擦り付け始めました。また其処にも同様の処置をしましたが、飛来を止めません。今は写真の様に、鳥達が嫌がるらしい銀色の反射シートをセットして様子を見ているところです。

効果があるかどうか、ツバメさんが諦めてくれるかどうかは暫く様子を見る必要があります。なかなか手強い相手かも知れません。ツバメは幸せを運んで来るとして、むしろ巣作りを待っている人々も居るようですが、インターネットで検索しますと、多くの人々がツバメ糞害に悩まれていることも分りました。

ツバメとの闘いをしながら、親鸞聖人の和讃の言葉が思い浮かびました。

       小慈小悲もなき身にて        有情利益はおもふまじ        如来の願船いまさずば        苦海をいかでかわたるべき

 『如来の大悲どころか、小慈小悲すらもない私であるから、衆生を救うという利他教化の働きともなれば、それはまったく思いもよらないことである。それ故に、如来の本願の船がなかったならば、わたくしごときものは、どうして生死流転の苦海を越え渡って、さとりの彼岸に達することができようか』と云うお詠です。

「私たち人間の命は、他の動植物の命との関わり合いで成り立っている、だから命を大切にしなければならない」といつもは偉そうなことを申していますが、現実生活では、小さな命を愛おしみ、3、4ヶ月の宿を提供する利他の心を持ち合わせていない我が身・我が心であることを知らされます。

多くの生き物達の命の犠牲無くしては生きてゆけない人間の業を親鸞聖人は常に慙愧しながら生活をされていたのだと思います。

小慈小悲もない我が身に「なむあみだぶつ」、小さな命に「なむあみだぶつ」と称えるしかございません。

このコラムを書き終えまして写真を撮りに玄関先に出ましたら、2羽のツバメが既に来ており、扉に糞を飛び散らかし、また別の隅っこに黒い土を擦り付けた跡が見付かりました。やはり手強い相手です。

合掌


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No.902  2009.05.11

親鸞聖人の和讃を詠む-56

● まえがき
日本では1052年(永承7年)に末法の時代に入ったとされています。そしてその頃の日本では末法思想が世の中を支配するようになり、末法の救いを阿弥陀仏に求める浄土信仰が盛んになっていきました。そして、この年に関白・藤原頼道が宇治の平等院に阿弥陀堂を建立したと言われています。

仏教では、お釈迦様の入滅後、正法時代・像法時代・末法時代が到来し、末法時代が続くと云われる1万年後には法滅の時代が来ると云う説があります。正法時代は、お釈迦様の教えや修行方法が守られ、悟りを開く者も多く居るが、像法時代には教えや修行方法を守る者は居るが悟りに至る者は居ないと言われています。そして末法時代ともなると、教えは残っているが教えを守る者も居ないし悟りを開く者は一人も居なくなると言われています。

その考え方を知っていた親鸞聖人が、今日の和讃でその説を取上げて詠い、私たちはその末法を生きる私たちだと強調されたのでありましょう。そして、この末法時代には、阿弥陀仏の本願を信じて救われる道しかないし、そういう道に偶々(たまたま)回り逢えた縁とその幸運を喜ぼうではないかと云うお気持ちではないかと思われます。

●親鸞和讃原文

釈迦の教法ましませど      しゃかのきょうほうましませど
修すべき有情のなきゆへに   しゅうすべきうじょうのなきゆえに
さとりうるもの末法に        さとりうるものまっぽうに
一人もあらじとときたまふ    ひとりもあらじとときたもう

●和讃の現代解釈
末法の時代になった今、お釈迦様の教えは残っているけれど、その教えに従って修行するものが無く、悟りに至る者は一人も居ないのである。

●あとがき
お釈迦様の入滅年を紀元前何年にするかに依りましても、正法時代と像法時代を500年にするか、1000年にするかに依りまして、末法元年が異なりますが、日本の末法元年を1052年とした当時の算定方法は、お釈迦様の入滅を紀元前949年とし、正法・像法の時代を1000年ずつにしたかららしいのです。

その後の研究では、お釈迦様の入滅は、どうやら紀元前383年(お生まれは、紀元前463年)と云う説が一般的に認められているようでありますので、計算方法に依りましては親鸞聖人は末法時代前になってしまい拙いことになりますが、現代の私たちは、どのような計算方法によりましても、仏教上の時代としては、間違いなく末法の時代を生きていることになります。

末法思想は一つの説でありますが、無常を説く仏教の立場からしますと、教えもまた無常であり、何れは滅すると云う説が出て来たことは至極自然なことであろうと思います。そしてまた、その末法時代を見越して生まれた大乗仏教の中に、阿弥陀仏の本願を説く大無量寿経が生まれ、他力本願を説く親鸞聖人が世に出られたこともまた至極自然な歴史ではないかとも思われます。

合掌


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No.901  2009.05.07

続ー如(にょ)

前回のコラムで、『如』とは、「ありのまま、このまま、そのまま」と云うことであるとご紹介致しました。そして、私たち人間は、私たちの周りに存在する物事、現象を「ありのまま」に見ることが出来ないと云うことも申し上げました。

そして、親鸞聖人の教えを現代的に表現するならば、『「ありのまま、このまま、そのまま」に見ることが出来ない自己の真実に頭が下がるとき、逆に〝如〟に還ったことになる』と云うことになるのではないかと、米沢英雄先生のご解釈を紹介させて頂きました。

犬や猫、そして、人間の赤ちゃんは、如の世界を生きているのだと思います。ありのままを生きているにように思えます。苦痛もあり、楽しいこともあり、それを感覚していることはその表情や仕草から想像出来ます。しかし、苦痛が苦悩に変わることは無さそうですし、楽しいことを貪り要求することもなさそうです。「今泣いたカラスが、もう笑った」と云う表現がありますように、瞬間・瞬間を生きていることはどうやら間違い無さそうです。つまり、〝ありのまま〟に生きていると云うことだと思います。

ありのままに生き、ありのままに存在するものを『如来(にょらい)』と申します。『如の世界からこの世に来ている』ことから『如来』と申しますので、私たち成長した人間以外は皆『如来』なのです。

その私たちと他の動物や人間のあかちゃんとの差は、記憶・推測・思考をする大脳皮質の細胞の数或いは使用している細胞の数の差だと言われています。本能的無意識を宿す大脳辺縁系(古い大脳皮質)のままに生きているのが人間以外の動物であり、人間の赤ちゃんでもありますが、人間は成長するにしたがい、大脳皮質に芽生える意識に依って本能的無意識の自己防衛本能を拡大させ、自己中心性(エゴイズム)が思考の中心を占めるようになってしまうのだと思います。

それでは私たち人間は絶望的かと言いますと、そうではないと、それを身を持って明らかにされたのが親鸞聖人ではないかと思います。大脳皮質を含めた肉体を持つ人間故に、肉体を持ったまま『如』には還れない、しかし、大脳皮質があるからこそ、『如』の境地を推察しそれを理想とすることが出来るのだと思います。他の動物や人間の赤ちゃんは『如』の世界を生きているけれども、それが『如』であることに思い及ばないのでありましょう。

仏法は人間の頭で考えるものではない、仏法は人間を超えた大きなものだと云う考え方が多数派でありますが、人間にのみ与えられた思考力、想像力を存分に生かして、自己の心身の真実に思い至ることこそが私たちに働きかけている本願他力に応える道ではないかと、私は米沢英雄先生のご著書を勉強させて頂きながら考えた次第であります。

先週から、法話コーナーに、米沢英雄先生のご法話を掲載し始めました。今年一杯かけまして、ご紹介して参りたいと考えております。是非ご覧頂きたいと思っております。
第一話は、『法蔵菩薩の誕生』です。親鸞聖人の正信偈の冒頭の『帰命無量寿如来、南無不可思議光、法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所・・・』に出て来る『法蔵菩薩』です。私はこれまで、架空物語の登場人物である『法蔵菩薩』に抵抗感を持っていたのですが、米沢英雄先生の『法蔵菩薩の誕生』を読ませて頂き、私の実に大きな誤り、そして勉強不足、想像力不足に気付かして頂きました。
私と同じように法蔵菩薩を誤解されている方には是非お読み頂きたいと思います。

合掌


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