No.890 2009.03.30
親鸞聖人の和讃を詠む-50
● まえがき
今日の和讃も、他力の信心の難しさを詠って居られます。あらためまして、何が難しいと仰っておられるかを確認したいと思います。それは、歎異抄から引用させて頂いてよいのではないかと思います。それは、歎異抄第1章の『弥陀の誓願不思議にたすけまひらせて往生をばとぐるなり、と信じて・・・』と第2章の『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるほかに別の子細なきなり。』の親鸞聖人のお言葉から明らかなように、『阿弥陀仏の本願を信じることが難しい』と云うことだと考えてよいのではないかと思います。それはやはり難しいことではないでしようか?阿弥陀仏も、本願も、報土(浄土)も、親鸞聖人のご在世当時でも、人間が作り出した架空の話の中のものだと云うことにしかならなかったと思われるからであります。ましてや、科学的教育に依って人間の手と頭に依って明らかになって掴んだ事実しか信じられないとされる現代においては、到底容易に受け容れられない夢物語でしかないと思われるからであります。
そして、他力の信心は、第三者に依って認証されるものでもないからではないかと思います。他力の信心を獲たことに相当すると思われる禅門のお悟りは代々、悟りを開いた弟子に師匠が与える『印可』と云う免許皆伝の有無に依って、悟りを開いたことが自他共に認められるのですが、他力の信心にはそう云う明確な免許皆伝と云う証明書もありません。結局、自覚しかない訳であります。しかし、自覚して「私は信心を獲得(ぎゃくとく)した」と他に表明した途端に、それは他者から認められない結果になるのでありますから、他力の信心は獲得するのもそれを判定するのも難しいことであることは間違いございません。
親鸞聖人がこの和讃だけでなく、本願他力の仏道は、易行だけれど難信だと仰っておられるのは、 一つはそれ程、私たちの我癡・我見・我慢の我執の心が強いと言うことと、難行ではないが、易信でもないことを仰りたかったのではないかと思います。
「念仏さえ称えたらよい」と云う安易な道に迷い込まないように、常に自己を問い直し、聴聞を続けて欲しい、そして必ず真実報土に往く身となって貰いたいと言う親鸞聖人の願いでありそれが阿弥陀仏の本願だと思います。
●親鸞和讃原文
報土の信者はおほからず ほうどのしんじゃはおおからず
化土の行者はかずおほし けどのぎょうじゃはかずおおし
自力の菩提かなはねば じりきのぼだいかなわねば
久遠劫より流転せり くおんごうよりるてんせり●和讃の大意(早島鏡正師訳)
浄土の菩提心、すなわち他力の信心によって、われわれは真実の報土に生まれることができるけれども、本願他力を疑い、みずからの計らいを差し挟んで、疑いながら浄土に生まれるものは、たとい生まれても、浄土の片ほとり(辺地)にもうけられた方便の化土に生まれるに過ぎない。それ故に、真実の報土に生まれる人は少なく、方便の化土に生まれる人の数がはるかに多いのである。まして、多くの人びとは聖道自力の菩提心ではひらくことができなかったので、かれらは久遠劫の昔からいままで生死流転を続け、化土にすらうまれられなかったのである。●あとがき
「私は真実報土に生まれられる」と思ったら、「私の他力の信心は何処かで取り違えているのかも知れない」と自分の信心を疑うべきではないかと思います。「このままでは化土に往く」と、否、「私の往く先は地獄一定だ」と思えてこそ初めて阿弥陀仏の他力に救うて頂ける身にさせて頂いたと言うことではないでしようか・・・。親鸞聖人が、『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるほかに別の子細なきなり。』と仰るまでには、どれほどの自己との葛藤、疑いの心が払拭出来ないもどかしさに苦しまれたかと云うことをおもわねば成らないと思います。
この和讃で、親鸞聖人が聖道門の仏道を否定されているように受け取られかねませんが、私はこれはご自分の機根、或いは同じく難行に耐えられない私のような後進の者に対して仰っておられるのだと思います。
合掌
No.889 2009.03.26
続―聖なる心
今週の月曜コラム、『親鸞聖人の和讃を詠む』をサボってしまいました。アクセスされた方には本当に申し訳ないことでした。お詫び申し上げます。
言い訳になりますが、先週から今週の月曜日にかけまして、下記の過密スケジュールでした。
3月17日(火曜日)娘の嫁ぎ先のおばあちゃんが亡くなる。
3月18日(水曜日)おばあちゃんの通夜に参列。(神戸市西区の私の家から往復約4時間かかる西宮の式場)
3月19日(木曜日)おばあちゃんの葬儀・告別式に参列。
3月20日(金曜日)新幹線で博多に移動。博多にある万行寺にある義父母のお墓参り。
(娘一家4人と共に博多へ、娘の居住するマンションに宿泊)
3月21日(土曜日)博多の天神ソラリアホテルで催される姪の結婚式に参列。
(結婚披露宴の後、娘婿と甥と博多の夜を満喫)
3月22日(日曜日)博多から車で往復約5時間の熊本県水俣へ里帰り。夜10時帰宅。
(水俣は、私が社会人スタートした街であり、妻の故郷でもある)
3月23日(月曜日)新幹線で午後3時頃に帰神。
過密スケジュールではありましたが、私たち一家の原点でもある水俣市に12年振りに里帰り (妻の実家はもうありませんが・・・)出来ましたし、私も社会人スタートしたチッソ水俣工場の正門に38年振りに立てましたので、満足しております。
さて、前回コラム『聖なる心』の補足をしておきたいと思います。
前回、『聖なる心』とは無意識の心だと申し上げましたが、意識の世界と無意識の世界について、アメリカの精神分析学者のエーリッヒ・フロムと云う人が、興味深い考え方を述べられています。これまた米沢英雄先生のご著書から抜粋してご紹介し、『聖なる心』と云う無意識で見る世界を想像たくましくして頂ければ、信心の世界も、少し匂いを嗅げるかも知れません。
引用―
意識とは自己関心の世界であり、無意識の世界こそ本当の世界である。意識しているのはただの一部に過ぎない。我々が外界に接して我々の意識で見ているのは、自己関心で見ているので、つまり自分の都合のよいものだけを取り出して、そしてそれが世界だと思っているが、それは意識が虚構した世界である。私たちが見ている世界は、自己関心という意識でもって見ている世界であって、つまり虚構の世界であって、真実の世界でない。真実という世界は無意識でもって接している世界である、と言っています。
ちなみに浄土教で娑婆と言っているのは、自己関心の意識で見ている虚構の世界ではないでしょうか。我々は真実の世界を自己関心でとらえており、自己関心で捉え、自分で妄想し作り上げている虚構の世界であることがわかりますとき、我々は真実に触れるのだと指摘しているのが、面白いと思うわけでございます。
―引用終わり
人間と言うものは、苦・無常・不浄を感じるものです。苦しさ・はかなさ・きたないを感じます。いや、それを感じるのが人間であって、感じないのは未だ人間になっていないと仏法は考えます。 赤ちゃんは、お腹が空くと泣きますから苦は感じているのかも知れませんが、きっと、綺麗・汚いは分らないでしょうし、はかなさも感じていないのですから、未だ人間にはなっていないと言えます。
しかし、赤ちゃんの無意識の心には、それを感じる種が宿っており、成長するにしたがって、無意識のうちに、苦・無常・不浄を感じ出し、且つそれらの感情を放置しておけないと云うのが、無意識の『聖なる心』ではないかと思います。そして、その『聖なる心』を目覚めしめ、真の人間たらしめるのは、やはり仏法を聞く、聴聞しかないということだと思います。
私たちの日常生活における思考、行動、言葉は、意識と無意識が混在しているものと思いますが、意識の背景にある本能(自己愛、性欲、食欲などの欲望)と云う無意識よりも『聖なる心』と言う無意識が座を占めるようになった時、『信心の人』、或いは成仏したと言えるのではないかと思いますが、何れ精神分析学、大脳生理学上で解明される時が来るのかも知れません。
No.888 2009.03.19
聖なる心
私が最近のコラムで度々使用している『聖なる心』とは、仏法で言う『仏心』とか『仏性』、『仏種』のことと殆ど同じものでありますが、米沢英雄先生がオーストリアのフランクルと云う精神分析学者の主張した『超越的無意識』が、日本で古来から使われている『たましい』を言い換えたものと受け取られたことを参考にさせて頂いたものであります。下記にその米沢先生の考え方を『宗教に近づいてきた現代の精神分析』と云う法話から引用し紹介させて頂きます。
引用文―
オーストリアのフランクルという精神分析学者は、人間の自由とか決断とか、責任を負うとか良心とかいう意識は私たちの大脳の何処に宿るのであろうかと考えました。
大脳皮質は前頭葉(創造、企画、感情)、頭頂葉(知覚、認識、思考野、随意運動、体性感覚野)、後頭葉(視覚野)、側頭葉(味覚、聴覚、言語、判断、記憶野)と分かれ夫々が機能を分担していますが、自由・責任・良心などの意識の場所は確認されていません。フロイドが見つけた意識の下の無意識というのは、本能的衝動的なものであります。そこでフランクルは、本能的衝動的無意識の層の下に、同じく無意識ではあるが、フロイドの無意識とは質の全く異なる層を見出しました。そして、この無意識を、人間の一番内面にあって、しかも人間を超えているので、超越的無意識、或いは、ここが責任、良心、自由、真の人間存在の場所であるというので、実存的無意識、或いは神とはここで出会うというので、宗教的無意識と名付けました。フランクルはカトリックの信者であります。
つまり、フランクルによりますと、人間の意識は三層に分かれる。上層がいわゆる意識、大脳皮質に相当している場所で、文化を生み出すところ。次が本能の宿る無意識、大脳辺縁系に相当するところ。その下が超越的無意識で、時実教授が生命を尊重すると言われましたが、尊重する意識は、実にこの超越的無意識にあたるのではないでしょうか。
超越的無意識は、無意識であるが故に、みんなに気付かれていない。しかしみんなが持ち合わせている、そういうものであると思います。私たち日本人が、昔から呼び習わしてきたところの、あの〝たましい〟というのは、途中色々の誤解もありましたけれども、究極は、この超越的無意識のことを言い当てたのではないでしょうか。また仏法で、仏性、仏に成る可能性ということを申しますが、その仏になる可能性というのは、この超越的無意識のことではないでしょうか。 無意識に止まっている間は、可能性、仏性であって、これが自覚にもたらされる時、仏に成る、成仏と言われるのではないでしょうか。
意識を分別智としますと、この超越的無意識というのは、無分別智、仏智と言われるものではないでしょうか。意識と衝動的本能的意識は、差別を生み、束縛を生じ、苦悩を現じますが、意識のもっとも奥底の、この超越的無意識まで降りてきて、或いは、この超越的無意識に目覚めて、初めて平等無差別が成り立ち、独立と自由が得られ、真実に触れ得るのではないでしょうか。
上層の意識と、本能的な無意識さえあれば、私たちの日常生活、社会生活は、ともかくも営んでいくことが出来ます。しかし、これだけでは人間の生活とは言えないのでありましょう。どんなに富を得ても、どれほどの権力を得ても、世俗的幸福を得ても、何か物足りないという、そこにこそ、一番内面の、たましい、超越的無意識が目覚めようとしているのではありませんか。
世俗的には、誠に恵まれないように見えても、不平不満なく、喜んで、楽しんで人生を生きた人があります。そういう人には、この〝たましい〟が目覚めていたからではないでしようか。フランクルは超越的無意識を、また精神的無意識とも申しておりますが、私たちの言う精神生活というのは、人間の意識のもっとも奥底の、意識とは質の違った精神的無意識の存在に目覚め、常にその存在を自覚し、それを見失うまいとし、それに導かれて生きる生活のことではないでしょうか。フロムが無意識に接している世界が真実であり、それを自覚して生きるのが全人の生活であると申しましたが、やはりこの超越的無意識に立っての生活のことではないでしょうか。
今まで、大雑把ながら大脳生理学について申し上げ、また精神分析を紹介して参りましたのは、実はここに到達するためでありました。科学的精神分析学が、東洋の昔、内観によって見出した領域に、しかも人間の尊厳を決定づける、もっとも大切な場所、聖というなら、ここだけが聖なる場所として探しあててきたわけであります。西洋の科学が、精神分析によって、東洋の仏法と握手しようとしているのだと私は思うのであります。
―引用終わり
ということから、私は『聖なる心』と表現したわけでありますが、『良心』と言わないのは、『良心』と云う言葉のニュアンス、と言いますか、使われて来た言葉の歴史を思い浮かべますと、『良心』は人間が大脳皮質の働きである〝意識〟で捉えている心のような気がするからです。つまり、『聖なる心』は、生まれ付き人間に埋め込まれている心、本能と同レベルの無意識なものと考えているからであります。
本能は大脳辺縁系の働きとされていますが、この『聖なる心』が大脳生理学上どの部位に埋め込まれているのかは今後の研究を待つしかございませんが、私は無意識の本能が埋め込まれている大脳辺縁系とそれに近い位置にある『小脳』が関与しているのではないかと素人の推測をしております。
小脳は、大脳の細胞数140億よりも約7倍も多い1000億の細胞を持っているそうです。そして、その働きは、『歩行に関する機能や頭を動かしたりする機能、また、手足の協調運動を司っています。脳幹と密接な関係にあり、絶えず情報交換を行っています。飛行場の管制塔のような役割です。』と説明され、具体的には私たちが自転車に乗れるようになるのは、何回も何回も練習した結果、この小脳が覚えこむそうであります。つまり大脳と云う頭で覚えるのではなく、「体で覚える」と言われる場合の器官が小脳なのです。
自転車の運転は、水泳と同様、一旦覚えると体が覚えていますから、無意識のうちに倒れることなくスイスイと走れます。右に倒れそうになれば、右にハンドルを切る等と云う理屈を意識しません。『聖なる心』も、元々私たちが持っておりますが、それが目覚めて無意識的に表面化するのは、繰り返し繰り返し法話を聴聞し、且つ日常生活の経験を通して体が仏法そのものになる時だと思われます。そして、その時「信心を獲た」と云うことではないかと思います。
『聖なる心』が無意識のうちに、私の思考・言動を支配し出した時、私たちは二度目の誕生により『人』となるのだと思います。
No.887 2009.03.16
親鸞聖人の和讃を詠む-49
● まえがき
前の和讃で、〝難きが中の難き〟他力の信心を詠われたのでありますが、それが即、その信心を得られた喜びとなって、今日の和讃になっているわけであります。そして、大事なのはそれが自分の力に依るのではなく、仏様のお陰、つまり他力に依って賜りたる信心だと受け取られた喜びだと云うことだと思います。『無始流転』と云う罪悪深重煩悩熾盛の凡夫の自覚が、この上無い悟りと云う無上涅槃の身の確信に転じたのは、まさに他力の御働きに依るものであり、「弥陀五劫思惟の願は親鸞聖人一人がためなりけり」と語られたと歎異抄で知られる感謝・感動を、親鸞聖人は再び和讃で詠われたのではないかと思います。
●親鸞和讃原文
無始流転の苦をすてて むしるてんのくをすてて
無上涅槃を期すること むじょうねはんをごすること
如来二種の廻向の にょらいにしゅのえこうの
恩徳まことに謝しがたし おんとくまことにしゃしがたし●和讃の大意(早島鏡正師訳)
凡夫の私にとっての得がたい他力の信心ではありますが、その信心は私の作った信心ではなくして、 他力廻向の信心に他ならなかったと知らされた以上、ここにおいて、いつ始ったとも言えぬ流転輪廻の生存の苦が捨てられ、やがて往生即成仏のさとりを期待する身と決定させていただいたことに対して、私はその如来の御恩を思うと、どんなに感謝しても、感謝し尽すことが出来ないのである。●あとがき
無始流転と云うことは、自分の命が、父母そしてその又父母と遡れば、数十億年前の生命の誕生にまで辿り着くと云う現代の私たちの知識と同じ感覚を持たれていたのであろうと思われます。地球の歴史、宇宙の歴史知識も乏しいあの鎌倉時代に、自分の命の実態を考察されていたことが窺われますし、ご自分の煩悩、つまり自分さえよければいい、自己中心の自我が容易に払われないのは流転輪廻して来た命の遍歴を考察された結果でありましょう。親鸞聖人の求道心・菩提心の強さをこの『無始流転』と云う熟語から感じさせられます。
合掌
No.886 2009.03.11
親鸞聖人の和讃を詠む-49
広辞苑では『自己満足』を「自分自身または自分の行為に、みずから満足すること」と説明されています。ただ広辞苑を含めた世間で云う『自己』と仏教の『自己』では大きな違いがあります。仏教、特に禅門では、『真実の自己』を「自己」、それ以外のごく普通の自分を示す言葉を「自分」のことだと説明されています。
今日の表題に使用している自己は、まさしく、『真実の自己』と云う場合の『自己』であり、世間で云う『自己満足』をお勧めしているのではないことは言うまでもありません。
では、『真実の自己』とは何でしようか。米沢先生は、私たちの心を『自己と自我』に分けて考えられています。そして、自我とは、自分の思うようにしたい、自分さえよければいい、自分一人のために全てがある、と云う自己中心の考え方をする心で、自己とは、自我と反対に、相手の身になって考えることの出来る心、人の悲しみが、自分の悲しみであり、人の喜びが、自分の喜びである、と考えられる心だとおっしゃっています。
私は最近のコラムで、本来の自己を『聖なる心』と言っておりますが、その聖なる心に沿うことを『自己満足』と云い、それをお勧めするのであります。
私たちは、人の役に立つことをすれば、やはり心は明るく、気持ちが良いものです。人が嫌がることをしたり、言ったりした後はやはり気持ちは晴れやかではありません。それは、自分の〝本当の心〟つまりは『聖なる心』に沿っていないからだと思います。これが、人間が『聖なる心』を持っている何よりの証拠ではないかと思うのです。
また、私の独断と偏見かも知れませんが、凶悪事件の犯人達の顔は総じて、見るからに悪人顔に見えます。モンタージュ写真やテレビ報道される殺人犯の顔は、先入観ではなくして、殺人を犯してもおかしくない顔に見えてしまいます。以前から私は、それは心の奥底にある『聖なる心』に反していることを本人達が無意識のうちに認識しているから不平不満で落ち着かない顔になってしまうのだと考えています。
世間で云う『自己満足』は、米沢先生の言葉をお借りするならば、『自我満足』ではないかと思います。自分さえ良ければいいと言うエゴイズムから出た行為は、周りの役に立ちません。自我の満足は、周りには迷惑でしかない場合が多いのは、誰しも経験していることではないでしようか。
仏教的『自己満足』は、周りの人が満足し、従って自分自身も満足と云うことになるものであり、顔も自然と柔和・穏やかな顔になるのだと思います。そう申して鏡に映る自分の顔を見ます時、恥ずかしながら、まだまだ『自我満足』に終始している顔に見えます(皆さまも一度、鏡に映るご自分の顔付きを自己チェック為さってみて下さい)。
『自我の心』の奥底にあるはずの『聖なる心』の開発に心傾け『自己満足』を目指して参りたいと思う次第であります。
No.885 2009.03.08
自己満足の勧め
● まえがき
親鸞聖人の教え、すなわち他力本願の念仏門は、『易行難信(いぎょうなんしん)』と言われております。「仏道修行と云う面では易しい行ではあるが、その教えを信じることは容易いことではない、むしろ難しいものである。」と言うことであります。何故難しいのかを考えますと、阿弥陀仏そのものの存在や概念を信じることも難しいし、また念仏の謂(いわ)れを聞いて信ずるのも難しく、お念仏もなかなか口をついて出ないものだからです。そしてその難しさは、科学的思考を初めとして自分の考え方を正しいとする自我を取り払う難しさであります。仏を疑う心がなかなか消えないからであります。素直さが無いからとも言えましょう。
和讃の冒頭にある『不思議の仏智』の『不思議』は、「私たち人間の浅はかな頭、先入観に満ちた頭ではとても考えが及ばない」と云う意味で使われていると思います。そして『仏智』」とは、「私を目覚めさせよう、救い取ろうとして、アラユル事物や事象を生じせしめる働き、即ち本願力」のことであります。
この本願力は、理論的に理解するものではなく、感じるものだと言われております。でありますから、本願力を感じられない者には、本願力などと云う力は昔のお坊さんが考え出した架空のものだろう位にしか受け取れないのだと思います。眼に見えるか、肌で感じるかしないと信じない人間にはなかなか受け容れ難いものだと思います。だから、昔から念仏門は『易行難信』と言われているのでしょう。親鸞聖人も恐らく自分自身もなかなか信じられなかったご経験から、「難きが中になお難し」と今日の和讃で詠われているのだと思います。
●親鸞和讃原文
不思議の仏智を信ずるを ふしぎのぶっちをしんずるを
報土の因としたまへり ほうどのいんとしたまえり
信心の正因うることは しんじんのしょういんうることは
かたきがなかになをかたし かたきがなかになおかたし●和讃の大意(早島鏡正師訳)
浄土に生まれて仏となるには、誓願不思議と言われる本願力を信ずる信心を正因とするけれども、この信心を得ることは「難中の難」である。●あとがき
親鸞聖人がこの和讃をお詠みになったのは、「本願力を信じることは難しいけれども、念仏の教えは信ずるに値する教えであるから、決して挫(くじ)けずに、求め続けてくれよ。自分を誤魔化さず、聴聞を重ねてくれよ。そうすれば、誓願不思議の他力本願力で信じせしめられる時が必ず来るのだから」と云うお励ましのお心からだったのではないかと推察しています。私たちはその親鸞聖人のお心を大切にしなければなりません。そしてその上に、正師(せいし)を求めて聞法に努め、仏教書も勉強し、いわゆる善知識(浄土真宗では信心を得られた方、禅宗では悟りを開かれた方)に遇うことだ思います。 私は今日(3月8日)で64歳になりましたが、今日までに、浄土門だけに限らず禅門の善知識にもご縁を頂きました。それは今振り返った時に初めてそう思うことであり、これまでは善知識にお遇いさせて頂きながら、善知識と明確に認識出来ないままに今日に至ってしまいました。逆に申しますと、なかなか阿弥陀仏や本願力を信ずるには至らなかったと言うことになります。
しかし、社会に出ましてからの約40年と云う永い歳月を経ている間に、色々な立場と人間関係を通して、遭遇した世間の四苦八苦とその悩みを縁として、最近漸くこの世に生まれて仏法に出遇えた不思議、そしてそれこそが本願力の働きではないかと思えるようになりました。そして、ますます仏法を聞いていきたい、仏法の本を読んで参りたいと思う気持ちが強くなったところです。 私は、最近になって漸く仏門の入り口に立てたと思っている次第でございます。
合掌
No.884 2009.03.05
続―人間運転免許
前回のコラムで私は、「私たちが人生を渡る上で必要な運転免許は仏法だ、それも親鸞聖人の教えだ」、と申しましたが、何故親鸞聖人の教えなのか・・・。うまく説明出来るかどうか自信はありませんが、最近勉強している米沢英雄先生のお言葉をお借りもし、且つ自動車の運転に引っ掛けて説明してみたいと思います。
私たちは朝から晩まで頭の中で先々の段取りを考えています。休む間も無くです。自分が何とかしなくてはいけないと言う頭があるからです。それは自分が何とかすれば上手くゆくと、自分の力を信じているからです。しかしそう簡単にはゆかない、思う通りにゆかないから悩みが出て来るのだと思います。従いまして、私たちの苦悩は自分の力を過信しているところから生じていると言ってもよいと思います。つまり自力を頼りにしているから悩みが尽きないと言うことではないかと思います。
自動車の運転では、自分の運転に自信の無い人は案外事故は起こしません。長年乗り回して、「車は自分の足や」と言う位に運転に自信を持っている人が、「少々お酒を飲んでも自分は大丈夫だ」と過信して事故を起こします(恥ずかしながら私もその一人でした)。自分が車を運転出来ているのは、他の車がルールを守って運転してくれていることが前提にありますが、自動車の設計が上手く為されているお陰で車に故障が無く、製造ラインでキチンと製造されているからブレーキを踏めば止まり、ハンドルを切れば思い通り方向を変えられるからであり、更には運転者の自分自身の体と頭が正常に機能してくれているからこそ事故なく運転出来ているからです。自分の力だけで運転出来ていないことを知っていたら、少なくとも飲酒運転事故は激減するのではないかと思います。私たちが自動車を事故なく運転出来ているのは、他力に支えられた自力で車を運転出来ているのだと考えねばなりません。
人間の運転も同じく、人生の出来事の殆ど全ては、自分の努力に加えて、私たちの眼に見えない、頭で想像が出来ない多くの条件(これを縁とも云い、お陰様とも云う)が整って、結果が生じていることは誰も否定出来ないと思います。まさに車の運転同様、他力に支えられている人生だとはっきり言えると思います。
他力本願と云うと、虫のよい考え方、怠け者の考え方だと世間では誤解されていますが、親鸞聖人の教えを他力と自力で表現された米沢英雄先生のお言葉をお借りしますと、次のように説明されています。
『親鸞聖人の教えというのは、人間に対して自信喪失をもたらすもの、人間の自信を失わせるものと言うことが出来ます。しかしその自信というのは、いわゆる自力でございまして、その自力というのは実は他力の上に乗っかっておるものでございます。他力に乗っかっておりながら、他力に乗っかっておるということを忘れておるのが、自力というものでございます。この他力に目覚めるということが人間にとって一番大切なことであって、他力に目覚めることによって初めて、どんな境遇におかれましても、生き抜く力というものが、われわれの中に与えられくるのであろうと思うわけでございます。』「自分の力に自信を持たなかったら生きてゆけないだろう」と云う反論が聞こえますが、それが〝うぬぼれ〟と云うものであろうと思います。自信が無いと精一杯の努力をします。他の人の協力も貰います。結果を素直に有り難く受け容れるようになります。〝うぬぼれ〟は、結果を受け容れられず、怒りを生み、周囲をも不幸に陥れます。米沢先生が『自信喪失をもたらす』と云う思い切った表現をされていますが、禅門で言われる『大死一番、絶後に蘇える』を平易に言い換えられた表現だと思います。
人間運転免許は、私たちが全てにわたって他力に依って生かされている事を知ること、これが先ずは取得への第一歩だと思います。
他力に依って生かされていることを知れば、お陰様と云う気持ちが生じます。お陰様が分れば、感謝の心、報謝の心が芽生えます。精一杯努力する精進の心が湧いて来ます。そして、周りの人々、社会の役に立ちたいと思う心が湧いて参ります。これらの心は元々私たちが生まれ持っている『聖なる心』だと思います。
自分の思うようにしたい、自分は正しい、自分が一番大事と云う自我が崩れ落ちて、この『聖なる心』である本来の自己に立ち返った時、初めて人間になれた、人間運転免許を取得したと言うことになるのだと思います。
今まで私が申し上げて来たことは、全て私の頭の中で考えたことであり、他力に目覚めて申し上げたことではありません。これ位のことは私の自我の頭で勉強すれば分ることであります。本当に他力が分かると云うことは心と体で分らなければなりません。それを邪魔しているのが自我と云う難敵です。
この難敵の自我は恐らく完璧に滅することは無いと思われますが、聞法を重ねることにより薄らぎ、自我の奥底に眠っている『本来の自己』とも云うべき『聖なる心』を自覚することが出来るようになるのではないか、そして、それを親鸞聖人の教えでは「信心を獲得した」、禅では「悟りを開いた」と云うのではないかと思います。
私たちは、自分の心の奥底の『聖なる心』を信じて聞法に精進することに尽きると思っております。
合掌
No.883 2009.03.02
親鸞聖人の和讃を詠む-47
● まえがき
私たちが生きてゆく上で信じているものは何でしょうか。仏法を求めているから、仏様を信じて生活していますでしようか?或いは、浄土真宗の門徒でお寺参りをしているから、弥陀の誓願を信じていますでしょうか?
そう自問自答するとき、「恥ずかしながら、たまには仏様のこと、本願の有り難さを思い出す時もあるけれど、常に頭の中に去来するのはお金の算段だったり、自分の思い通りにならない仕事や人間関係の不満とか自分の健康問題などが殆ど・・・」と言うことになりはしないでしょうか。即ち、私たちは頼りになるはずもないお金や社会的地位や我が体を信じて生きているのではないでしょうか?そんな生活を繰り返し、そして苦しんでいる私たちを見捨てることが出来ずに、何とか救いたいと云う願いを建てられて、五劫と云う永い間ご苦労され続けられているのが仏様だと聞いております。
作り話のように聞こえますが、私自身が今こうして仏法と関係を持つに至ったのは、お念仏を喜んだ母や祖父、歎異抄を世に明らかにされた清沢満之師(1863~1903年)、歎異抄を遺した唯円坊、親鸞聖人、七高僧、お釈迦様、お釈迦様以前に真理を探求した人々、その他無数の先輩方のご苦労・ご努力があってのことであることは事実でございます。
先輩方、そしてその背景にある宇宙全体の働きを仏智不思議と今日の和讃で詠われているのだと思います。そして、その働きを弥陀の誓願或いは本願とも称します。本願は私たち人間だけが感じ取れます。犬や猫は本願に依って生きてはいますが、その本願を感じ取れないでありましょう。
本願を感じ取れるのが人間であり、感じ取れないのはまだ人間に成っていないと云うこととなり、犬や猫と同じ世界に生きていることになります。得難い人間に生まれて、それは誠に勿体無いことであります。そして、幸い本願の教えに出遇えたからには、信心を獲得された先輩のお話をよくお聞きして、本願を信じ、念仏を称える人間になりたいものであります。念仏は、ともすれば日常生活に紛れて本願を忘れてしまう私たちの為に考案された阿弥陀仏からの贈り物だと考えては如何でしょうか。
●親鸞和讃原文
仏智不思議を信ずれば ぶっちふしぎをしんずれば
正定聚にこそ住しけれ しょうじょうじゅにこそじゅうしけれ
化生のひとは智慧すぐれ けしょうのひとはちえすぐれ
無上覚をぞさとりける むじょうがくをぞさとりける●和讃の大意(早島鏡正師訳)
仏智の不思議つまり仏の本願を信ずる人は、その信心の利益として、この世にある間は正定聚不退転の位(必ず仏になる身に決定して、その決定から退かない位)を得る。そして命終わってこの人が浄土に生まれる場合、信心の智慧を如来によって恵まれているから、この世の汚れある身が、汚れなきものと変化して浄土に生まれる。つまり、化生という生まれ方をとって浄土に生まれ、そこで直ちに、この上なきさとりを開くことである。●あとがき
私たち生身の肉体を持っている限りは、煩悩から逃れることは出来ませんが、幸いにも本願を信じ得た人は、煩悩有るが故に、私たちの心の奥底にある仏心を自覚させて頂くことが出来、この世にありながら、浄土の風光、真実の世界の風光に浴すことが出来るのだと思います。それを身を持ってお示し下さったのが親鸞聖人であります。私たちはその親鸞聖人が辿られ、遺された道を歩める得難い幸せを忘れてはならないと思います。合掌
No.882 2009.02.26
人間運転免許
日本人の自動車の運転免許の取得者は約8000万人、全人口12800万人の62%、免許取得可能者の72%が持っていると言うデーターがあります。車社会とも言われる現代社会、免許を持っていないと仕事上でも不利であるし、生活も不便だから当然のデーターだと思います。
何故運転免許制度があるのかを考察しますと、車は機能からして運転者に依っては走る凶器に一変し、他人を殺(あや)め、自分をも殺めることになるからです。従って、免許無しで運転すると逮捕されるし、自分自身も死に至る可能性大であることから、身を守るためにも自らの意思で自動車教習所に通って免許を取ってから一般道路・高速道路にデビューします。ところが、人間にとって道路以上に危険な人生と云う道を走る上での免許制度がありません。人間にもその運転を誤ると凶器となる可能性が高い『自我』と言う思考機能があり、他人を傷付け、自分をも傷付け、場合に依っては自他共に殺めることがあることは衆知の通りです。殆どの人間が、結果的に事故を起こしているにも関わらず、何故有効な免許制度を構築していないのか不思議です。
多分、免許制度に代わるのが家庭教育であったり、義務教育だと考えられますが、果たしてそこで人生を渡る上で本当に必要な運転教習が行なわれているでしょうか・・・。私は全くとは申しませんが、殆ど行なわれていないのではないかと考えます。 現代の家庭教育や義務教育で行なわれているのは、経済生活を営む上で必要な知識と技能と自立意識だけだと言っても良いのではないかと思います。言い換えれば、『金儲け』と『自分が大切と云う自我意識の確立徹底』だけだと言っても過言ではないのではないかと思います。
だから、金銭を廻っての殺人・自殺が後を絶たないし、自己中心的考えから、人間社会での事故(トラブル)が頻発しているのではないかと思います。そして、折角皆が羨む様な社会的地位を得たお金持ちが晩節を汚したりします。また、たとえ目立った事故を起こさずとも、人生と云う道を遣り甲斐を持ちつつ自由自在に運転し得る人は実に稀です。あの名誉・権力・財力を欲しいままにした太閤秀吉でさえ、『露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢』と云う淋しい辞世の句を詠まざるを得なかったのです。
考えますに、社会に出るまでに本当は読み書きソロバンよりも、自我(生物故に誰しも持って生まれた生き残る為に必要な本能、そして自分第一と云うエゴイズム)と自己(人として持って生まれた『聖なる心』)の違いに付いて教習しておく必要があると思います。自我の満足を求めて行なう運転には必ず事故が伴わざるを得ません。本来の自己と言われる『聖なる心』を仏教では『仏心(ぶっしん)』と云い、真の自由を求める心、真実を求める心、他の為に役立つことを求める心、相手の悲しみを自分の悲しみとする心、相手の喜びを自分の喜びとする心であり、その『聖なる心』を人間は誰でも必ず持っていますが、この『聖なる心』を持っていることを知らずに人生を渡り終えてしまうことが多いのです。この『聖なる心』が事故を起こす元凶の『自我』を気付かしめ、よくコントロールする上で非常に重要な思考機能であることを教習しておく必要があります。
ただ、『聖なる心』つまり『仏心』は無意識の心であって気が付き難いのです。殆どの人が不安・不満・不信から解放されることなく、真の生き甲斐を感じないままに人生を終わってしまうのは、人間の無意識の心の底にある『聖なる心』を満足させていないからだと思います。本当の満足・安らぎを感じていないからであります。その証拠に、その不安・不満・不信はそのまま顔に表れてしまうように思います。一度鏡で自分の顔を眺めてみれば満足な人生を送っているかどうかが直ぐに分ると思います。
従いまして、『自我の満足を追いかけて、聖なる心を満足させることがない人生は決して真の幸せは訪れないこと』を徹底して教習しておく、それが自動車運転免許以上に人間に必要な運転免許ではないか、そしてその人間運転免許を持って運転を重ねてゆけぱ、やがて無事故無違反のゴールド免許が貰えるに違い無いと思っております。
人生運転免許を確実に取得するには宗教と云う教習所に入学することしかないと思われます。宗教は仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、他の宗教でも良いでしょう。ただし、自我と自己の違い、自己とは人として本来生まれ持った聖なる心であり、それを自覚することを教える教えでなければ、人生を渡る運転免許にはなりません。
我田引水と思われましょうが、私は仏教を推奨致します。そして特に、ご自分の心の中で自我と自己を一生涯闘わせ抜かれた親鸞聖人の教えこそ、世界に通用する運転免許が早期に取得出来る人間教習所だと考えます。
私は極最近、この親鸞聖人の教習所に入学させて頂きました。未だ入学したばかりで、オリエンテーションを受けたところですので免許取得は未だ出来ていません。でも、オリエンテーションを受けて、もっと早い時期に入学すべきであったと後悔しております。そして、私の子供や孫達に、今からでも遅くないので、入学を促がそうと思っているところであります。 子供には、生きる上で必要な得意技を一人一人に生まれ付き与えられていることを教え、その素質に早く気付くことが、より人生の運転を楽しく充実したものにすることも教えたいと思っています。
次回の木曜コラム続編として、何故親鸞聖人の教えなのかに言及したいと思います。
No.881 2009.02.23
親鸞聖人の和讃を詠む-46
● まえがき
この二月に入りましてから、私は故米沢英雄先生のご著書に学んでおります。読み進むに従いまして、私が受け取っていた親鸞聖人の教え、即ち本願他力の教えの解釈は、「間違っていたなぁー、甘かったなぁー、全くの勉強不足だった」と思うようになって来ました。こう申しますと、無相庵ホームページの読者の方々に失望と落胆のお気持ちをお与えするのかも知れないと思いもしましたが、私がこのコラムを書き溜めて参りました趣旨は、「仏法の真実を伝えたい」と云うことでもなく、「私が得ているところのものをお示しする」と云うものでもなく、ただ、 「私の勉強の過程を公開させて頂き、共に仏法の真実・真理を求めて行きたい」と云うものでありますので、勉強している内容包み隠さず申し上げて、やはり、共に真実・真理に近付く努力を重ねて行きたいと思っております。
そう思っていましたところへ、昨日のNHK教育番組『こころの時代』で、故盛永宗興老師(元花園大学学長)のお話の中に、「何かを掴む為にお話を聞いたり、勉強するのではなく、自分の間違いに気付かせて頂くと云う姿勢でなければ、自分の掴んだものを他人に押し付けたりする邪道に陥るものだ」と云う非常に示唆に富んだお話がございました(少し前のコラムで『衣変』 と云うことを申し上げましたが、今考えますと、同じ事を示した言葉だと思います)。
間違いに気付いていくと云うことは、永遠に真理を求めて行くことでもあります。終わりが無いのであります。これこそ、お釈迦様や親鸞聖人が歩まれた仏道ではないかと思います。
私は、読者様に私が今勉強して感動を感じている米沢英雄先生のご著書を是非読んで頂きたいと存じます。同じ言葉に出遇いましても、人それぞれに感じ方は異なるものだと存じますが、長年無相庵コラムを読んで頂いた読者様には、私と同じ感覚で、否、私以上に新鮮に受け取って頂けるものと信じております。
今日の和讃に致しましても、表面上の解釈は、これまでと変わることはございませんが、感じる深さが以前とは全く違っているように思っている次第であります。
今日の和讃以降の7首は、早島先生の仰いますには、『大悲の恩徳』に付いて述べられたものだと云うことであります。つまり、この世に生命を受けて、この本願他力の教えに出遇えたことがどんなに有り難いことかを讃嘆されたものであります。
●親鸞和讃原文
往相還相の廻向に おうそうげんそうのえこうに
まうあはぬ身となりにせば まうあわぬ身となりにせば
流転輪廻もきはもなし るてんりんねもきわもなし
苦海の沈淪いかがせん くかいのちんりんいかがせん●和讃の大意(早島鏡正師訳)
われわれが浄土に生まれて仏となる姿の往相と、仏となってただちにこの世に帰って来て衆生救済の働きを為す姿の還相との二つの利益は、如来がわれわれに廻向されたところのものである。もしもそうした如来の廻向に私がお会いする身にならなかったとしたならば、すなわち往還二種の廻向を信ずる身、如来の本願力を信ずる身とならなかったとしたならば、流転輪廻の生存をいついつまでも続けなければならなかったであろう。そうだとするならば、私は迷いの輪廻の大海に永く沈んで、無限の迷いの苦しみを受けるのを何としましようか。●あとがき
「人身受け難し、今すでに受く。仏法聴き難し、今すでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、更に何れの生においてかこの身を度せん(度は、渡であり、到彼岸、真理を悟ること)」と云う三帰依文の冒頭の言葉がございますが、この仏法の中でも、特に他力本願の教えに出遇えた有り難さを、親鸞聖人は常に噛み締められていたのでありましょう。私たちは、その親鸞聖人の教えに偶々今出遇えているのであります。その悦びを感得できないままに、この世を空しく過ごし、苦しい辛いと嘆きながら、この世を去ることは勿体無いことであり、愚かなことであります。臨済宗中興の祖と称される白隠禅師が坐禅和讃の一節、「水の中に居て、渇と叫ぶがごとくなり(水に浸かりながら、喉が渇いたと叫んでいる愚かなことと全く変わらない)」と仰っていることと同じ愚かさであります。
これからも、皆さまとご一緒に、仏道を歩んで参り、お釈迦様や七高僧、そして親鸞聖人、そして直接私たちがお出遇いした善知識のご苦労にお報いしたいものであります。
合掌、
追記:
これから、徐々に、米沢先生のご法話を『法話コーナー』でご紹介させて頂きます。