No.870  2009.01.15

悩む力

『悩む力』と云う本が70万部を超えるベストセラーになっている。この事を私は昨日の朝日ニュースターと云うテレビ番組(著者である姜尚中東京大学大学院教授が出演していた)で知った。悩める日本、行き先が不透明な日本を憂えての執筆らしい。私は悩まないためにはどうすれば良いかを仏法に求めている立場であり、『悩む力』は必要無いと考えている・・・しかし、この本がベストセラーになると云うことは、今の日本人が悩んでいる、或いは悩むことに悩んでいるのだろうと思い、それに対して姜尚中氏がどのようなメッセージを与えているかを知り、仏法の考え方と比較し、仏法の出番が有りや無しかを確認したいと思い、本を読むことにした次第である。

読む前に、『悩む力』って何だろうかを以下に考察した。 『悩む』とは、自分の理想と現状のギャップがあり、そのギャップを埋める為の方策が見付からない時に陥る行動だと考える。そうすると、『悩む力』は、「理想を持っていないと湧いて来ない力だと受け取れるから、理想を持つ力」と云う風にも考えられるが、そう云う事ではなくて、単純に「悩み抜いた後に必ず解決策を見付けられる能力・気力・体力」のことを言っているのかも知れないと想像した。
仏法の立場から『悩む(苦悩する)』を考察すると、その原因は「煩悩に有り」と考える。『煩悩』とは、『必要以上の欲望』の事であるから、「煩悩を滅せよ」、つまり「必要以上の欲望は抱かないことだ」と諭すと云うことになろう。凡夫が抱く理想には、如何に高邁な動機を並べていてもその根底には必ず『煩悩』が潜んでいると見るのである。仏法は、財欲、食欲、性欲、睡眠欲を否定する教えではない。ただ、必要以上の欲望を『貪(むさぼ)り』として制御することを勧めるのである。
さて、ここまで考察して、いよいよ本を読むことにした。

さて、序章(今を生きる悩み)を読んだ時点で分ったことは、約百年前に時代を見詰めて悩んでいた二人の人物の『悩む力』を炯眼(けいがん)の持ち主として姜尚中氏は非常な影響を受けていると云うことであり、『悩む力』とは、炯眼、つまり『物事の本質を見抜く力、或いは見抜こうとする力』のことを言っているようだ。その二人とは、国は異なっても同時代に生きた夏目漱石(1867~1916年)とマックス・ウェーバー(ドイツの社会学者・経済学者;1864~1920年)のことである。姜尚中氏はこの二人にかなり影響を受けていると云うよりも、この二人の存在が彼の人生の依る辺(よるべ)になっているようだ。

彼、姜尚中氏が青年の頃からずっと答えを求めて来た(悩んだ)のは、「私は何者なのか」「私は何を求めているのか」「私は何のために生きているのか」「私にとってこの世界は何なのか」「私は何から逃げようとしているのか」だと言う。そして、それら全てに答えを見付けられていないようであるが、「自我と云うものは他者との〝相互承認〟の産物だと言いたい。そして、もっと重要なことは、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要があると云うことです。他者と相互承認しあわない一方的な自我はありえないと云うのが、今の私の実感です。」だと言う。
そしてまた、「真面目に悩み、真面目に他者と向き合う。そこに何らかの突破口があるのではないでしょうか。とにかく自我の悩みの底を〝真面目に〟掘って、掘って、掘り進んでいけば、その先にある他者と出会える場所まで辿り着けるのだと思います。中途半端ではいけないと思います。」とも言っている。
そして結論的には、『私は青春の頃から自分への問いかけを続けて来て、「結局、解は見付からない」とわかりました。と言うより、「解は見付からないけれども、自分が行けるところまで行くしかないのだ」という解が見付かりました。そして、気が楽になりました。何が何だかわからなくても、行けるところまで行くしかない。今も相変わらずそう思っています。』と言うことである。

彼の宗教観はどうなのかに私は関心を持ちながら読んでいるが、彼は必ずしも宗教(信仰)を否定してはいないが、彼自身は、今のところ自分の知性を信じて絶対に譲らない漱石やウェーバーと同じく既存のどの宗教にも頼らない立場であり、自分は自分の知性を信じる「一人一宗教者」(自分が教祖)だと断言している。そして、『自分でこれだと確信できるものが得られるまで悩み続ける。或いは、それしか方法がないということを信じる。それは〝不可知論〟だと言う人もいるでしょう。でも中途半端でやめてしまったら、それこそ何も信じられなくなるのではないかと思います。「信じる者は救われる」というのは、究極的には、そういう意味なのではないでしょうか。何か超越的な存在に恃(たの)むという他力本願のことではない、と思います。』と締めくくっている。

彼は私の様に宗教に頼っていないが、死も見詰めて、「老人の力は死を引き受ける力」とも言い、「悩み抜いたお陰で、今では未だかってないほど開き直っていて、大袈裟に言うと、矢でも鉄砲でも持って来い、という気分になることもあります。」と言っているので、ある種の悟りのような心境に至っているのかも知れない。

2回読み直したが、彼の今の心境と考え方が、挫折感の最中にある読者の助けになる教えなのか、地位と名誉、そしてある程度の経済的余裕を得た所謂勝ち組のものか、私は未だ分からない。人生には、上り坂としての思春期と、下り坂の思秋期があると聴いたことがある。仏法は、思春期と思秋期の生き方、死に方を説くものだと思うが(どちらかと言うと思秋期に重きを置き過ぎて、思春期の参考になる説き方をしないので人気が無いのでは?と残念思っているが・・・)、姜尚中氏のご主張が思秋期にも当て嵌まるものか、知的興味として、もう一度か二度読み返す積りである。


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No.869  2009.01.12

親鸞聖人の和讃を詠む-40

● まえがき
私たち凡夫の心の中の実態は、仏法を求める尊い心も間違いなくあるように思いますが、時には、否、殆ど常にと言うべきだと思いますが、神も仏もあるものかと云う恨み節の心が湧いたり、仏様が悲しむであろう、損得や自分勝手な善悪で物事を判断してしまいます。少なくとも私はそうです。

おそらく親鸞聖人も、ご自分の心の中を私よりももっともっと仏様に照らされていらっしゃったに違いありません。そして、その自分を照らす光を仰がれて、懺悔と悦びの想いを込められて今日の和讃を詠まれたのではないかと推察致します。

私たちと同じように妻帯され子供のみならずお孫さんも、ひょっとしたら曾孫までお持ちになられて、私たちと全く同じ在家の煩悩生活を営み続けられた方だからこそ、750年も後の時代を経た私たちの道しるべとなる素晴らしい仏法をお遺しになられたのだと存じます。 それも、またこの和讃も、他力本願力のお陰様だと云うことだと思います。

●親鸞和讃原文

       弥陀智願の広海に      みだちがんのこうかいに
       凡夫善悪の心水も      ぼんぶぜんまくのしんすいも
       帰入しぬればすなはちに   きにゅうしぬればすなわちに
       大悲心とぞ転ずなる     だいひしんとぞてんずなる

  ● 和讃の大意(早島鏡正師訳)
あたかも衆水の、海に入りて同一の鹹味(かんみ:塩辛い味)となるごとく、自力作善して仏になろうとする凡夫の善心や五逆罪を犯したり正法をそしる凡夫の悪心が、弥陀の本願の広大な智慧海に流れ入ると、それらの善悪の凡夫のこころは、たちまちにして大悲のこころにかわってしまう。

● あとがき
鈴木大拙師は、法然上人と親鸞聖人を一つの人格と見られて、鎌倉時代にこの二人に依って『日本的霊性』が発芽したと強く主張されています。私は、法然上人、親鸞聖人が敬愛された奈良時代の聖徳太子様が既に『和』と言う『日本的霊性』を世に問われたのではないかと思いますが、鈴木大拙師の言われている『日本的霊性』と言うものが私には未だ分かっていない可能性もあります。何れにしましても、日本の地に浄土門の教えの良い種を撒いて下さいましたお二人の存在(勿論、遡れば七高僧、そしてお釈迦様までになりますが)が無ければ、今私はどのような考え方で人生を渡ろうとしていただろうかと、我が運の良さに、それから他力本願力に合掌です。

合掌


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No.868  2009.01.08

私の眼力

私は今ある技術開発をしている。新しい製品を発明するのではなく、既に存在する製品を大幅に安く大量生産出来る技術を発明しようとしている。以前に開発に成功したことをこのコラムで報告したが、それは今考えると技術の90%が出来上がったと云うもので、最後の詰め、つまり、ある製品群の全てが大量生産出来る技術にまで高めるには至っていなかったのである。

技術開発の詳細話はさておき、最後の詰めの研究段階で『私の眼力』言い換えると「人間の眼力」に付いて考えさせられたのである。ここで云う眼力とは、物事を見通す眼力ではない。単純に物を見る能力のことである。人間の眼に見える最小の大きさは、通常10μ(ミクロン)、ミリ単位で言うと0.01ミリ、1mmの百分の一の大きさだとされている。従って、それより小さい物、例えば空中に浮遊しているインフルエンザのウイルスや細菌は私達には見えないのである(見えないから感染するし、見えないから普通に生活出来ているのだと思う。もし空気中に塵、細菌が常に見えていたらノイローゼになって、何も手に付かないことだろう。)。

私の眼力では精々10ミクロンの物体しか見えないが、人間が発明した透過型電子顕微鏡と云う拡大鏡(百数十万倍)では、0.1nm(ナノメートル=100億分の1メートル)程度の超微粒子まで確認出来るそうである。この眼力のレベルは、おそらく今日本でノーベル賞との関係で話題になっている『クオーク』を確認出来る程度だと思う。 もし、私の眼力がこの透過型電子顕微鏡レベルであったなら、この世界はどう云う具合にみえるのだろうか・・・。多分全てクオークしか見えず、人間を人間として確認出来ないし、空気も人間も区別がつかなくなるのではないかと思う。つまり仏教で云う『一如の世界』が目の当たりになるのだろう。

また逆に、人間の眼力が1センチ位の物しか認識出来なかったら、自分と他人、そして日本人とアメリカ人の顔の区別が付かないだろうから、これまた『一如の世界』が現出することであろう。

私の技術開発では人間の眼力そのものだけでは進められず、100倍~1000倍程度の拡大鏡の眼を借りないとこれ以上研究が進まない事が分ったのであるが、人間の眼力が何故今の程度に設定されたのか本当に不可思議なことであるし、眼力の精度に依って、世界観が変わることにもあらためて気付くことが出来たのである。

私達は、五感と第六感を信じて生きているのであるが、私達の感度(眼力だけではなく)で捉えている世界は、私達人類が捉えることが出来ている世界であって、感度を高めたり、低めたりすれば、全く別の世界が見えて来るのだろうし、人間の知的限界にも思いを馳せると、私が払拭しなければならなかった『賢き想い』も、何処かに飛んで行ってしまったような気もしたのであるが、書きながら、ひょっとすると、『一如の世界』を見て、区別のある世界を見直すのが、般若心経の『空即是色』であり、鈴木大拙師が云うところの『無分別の分別』と云うことかも知れないとも思い、仏法の奥深さにも触れたような気もした次第である。

合掌

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No.867  2009.01.05

親鸞聖人の和讃を詠む-39

● まえがき
今年も引き続きまして、親鸞聖人の和讃を勉強して参りたいと思います。
和讃は親鸞聖人が晩年になられ、その日常生活の中で詠われたものであり、しかも教行信証のような漢文ではありませんから、親鸞聖人のお心がそのまま伝わって来るようで、漢文が読めない私は大変有り難いと思っております。

さて、今日の和讃に出で来ました『廻向(えこう)』は分り難い言葉であり、『親鸞聖人の和讃を詠む-24』に説明しておりますが、「弥陀の功徳を回らして衆生の極楽往生に資すること」、親鸞聖人のご解釈としては、阿弥陀仏の本願力、即ち本願他力を意味されているものと受け取ってよいと思います。
親鸞聖人の他力の信心の大切なところは、全ては自分の力ではなく、他力即ち仏様の働きに依るものだと云うことでありましょう。私が仏法に出遇えたのも、お念仏を称えるようになったのも、信心を得られるのも、全ては仏様のお働きに依るものだと云うことでありましょう。

私が今こうして無相庵コラムを書いているのも、私の力で書いているのではなく、仏様のお働きに依って書かせて頂いていると云うことでありましょうが、それは全くその通りだと感じます。でなければ、こんなに長く続けられるはずがないからでありまして、深く深く頷けるところであります。

●親鸞和讃原文

       真実信心の称名は      しんじつしんじんのしょうみょうは
       弥陀廻向の法なれば     みだえこうのほうなれば
       不廻向となづけてぞ     ふえこうとなづけてぞ
       自力の称念きらはるる    じりきのしょうねんきらわるる

  ● 和讃の大意(早島鏡正師訳)
真実信心を得てから申す念仏は、阿弥陀如来から廻向されたものであるから、われわれ衆生にとっては不廻向のもの(衆生が仏にむけてさしむけるものではない)と名付けるのである。それにもかかわらず自力の称名念仏をするならば、それによって衆生自らの功を積んで浄土に生まれようと仏に廻向することになるから、そのことは本願のお心に背くことになって、仏から嫌われることになるのである。

● あとがき
「全ては仏様のお陰です。」と申しますと、謙虚とか遠慮深い考え方だと受け取られるかも知れませんが、そう云う〝考え方〟と云うものではなくて、そうとしか思えなくなるのではないかと思います。かなり以前のコラムで書いたことがございますが、私は30歳の頃に、「何故か念仏が素直に称えられないのですが、どうしてでしょうか?」と、当時、在家仏教協会初代理事長であられた加藤辨三郎師にお尋ねしたところ、「それは貴君が賢き想いを具して居られるからです。」とご指摘頂いたことがありました。しかし、私としては、「自分は賢いとは思っていない。」と考えていましたので、加藤師のお言葉の意味が分らないままに、いつしか『賢き想いとはどう云う想いなのか、そしてそれが無くなるものなのかどうか』が私の命題になっていました。

しかし最近、『我が賢き想い』とはこう云う事だったのではないかとおぼろげながら分りかけているような気がしています。そして、南無阿弥陀仏を称えることも、またお浄土に関する考え方も、法蔵菩薩のことに付きましても、抵抗が無くなりつつあるように感じています。その辺りの自分の心境の変化に付きましては、自分なりに考察して参りたいと思っておりますが、それは今日の和讃に示されていますように、他力に依るものであることは間違いないところであります。

合掌


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No.866  2009.01.01

平成21年元旦に思う

皆さま、明けましておめでとうございます。
共に、平成21年の元旦を迎え得たことを心からお喜び申し上げます。

私がいつも元旦に思いますことは、たまたまこの地球が太陽を一周する時間が人間にとって心を新たにするのに丁度良い1年であることです。また、それに気付いた人類の叡智と、その叡智を与えた仏様(宇宙の真理)の偉大な働きを思わずには居られません。そして更に、その人類の一人として生まれ、四季のある日本、お釈迦様の仏法の華が開いた日本に生まれ得て、しかも仏法に出遇えた奇蹟を思わずには居られません。

仏法は宇宙の真実・真理を説いた法そのものであり、私自身がその真理の中の存在であることを多くの祖師方と先輩から教えて頂いたことを皆さまと共に感謝したいと思います。

今年も私は皆さまと共に、仏法に生き方を聞きながら過ごして参りたいと思います。
どうぞ、宜しくお願い申し上げます。

合掌


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No.865  2008.12.29

年末に思う

今年最後のコラムとなりました。

世間は不況風、それも突風が吹いている。寒空に放り出された非正規雇用の人々、内定取り消しの卒業間近の学生達の行く末を案じる一方、政府与党のみならず野党のスピード感に欠ける政治のあり方に失望感を抱いているのは私だけではないと思う。

しかし、好況、不況のどちらも人間に宿る煩悩の為せる業であり、煩悩の炎を燃え盛らす限りは、人類は好況と不況の繰り返しを避けることは出来ないのだと思う。だから、今は不況でも必ず好景気の時は来るはずである。しかし、また不況の嵐が吹く時も来るのである。これを流転輪廻と言うのである。

人類がこの流転輪廻の業から脱け出すには、煩悩の炎に身を任せるのではなく、煩悩が苦悩の正因である事に気付かねばならない。それを2500年前に説かれたのがお釈迦様であり、時代時代に現れられた祖師方であるが、未だ人類は流転輪廻の繰り返しから脱け出しそうにない。

最近漸く地球環境への関心が高まって来たのは流転輪廻から脱け出そうとする一つの動きであり、大切にしたいものであるし、今回の金融危機がマネーゲームへの反省となって欲しいものである。

人類の幸せを願って煩悩に焦点を当てられたお釈迦様の考え方でしか、私たち人類は救われないと思う。仏法に縁を頂いた私たちの責任を自覚したいと思う年末である。

皆さま良いお年を。


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No.865  2008.12.25

受け身の人生=真理に生きること

『受け身の人生を積極的に生きる』と言うコラムを読まれた何人かの読者殿から、感想メールを頂戴した。幼い頃から競争社会を前提に育て上げられた私たちは、「常に目の前に目標を打ち立てて努力するのが立派な人間だ、消極的人間になるな!」と云うマインドコントロールを受けており、私自身も受け身の人生観にどうしても違和感を感じてしまう。だから、『受け身の人生を積極的に生きる』としたわけであるが、受け身の人生を積極的に生きるには、真理に沿って生きることに唯一の価値観を見出せなければ現実のものとはならないと思う。

そして、真理に沿って生きるには、その答えを仏法に求めるしかないと思う。つまり聞法を重ね続けるしかない、極論すれば、『真理に沿って生きると云うこと』は、『聞法を続けながら人生を生きること』だと言っても決して過言ではないと思う。これは仏法を求めている私が我田引水しているのではない。仏法と云うのは、たまたま釈迦牟尼と呼ばれたお釈迦様が気が付かれた(真理)だから仏法と名付けられたのであって、キリスト教徒にも、イスラム教徒にも当て嵌まる普遍の真理なのである。

その真理とは、仏教を求める人なら誰でも最初に知る『四法印』の中に示されている二法印である。

       諸行無常(この世のすべては変化してゆくものである)
       諸法無我(この世のすべてのものは関係し合って存在する)

この真理であり真実・事実である二法印を合わせて『縁起の道理』と纏めることも出来る。そしてこの仏法の真理は、日本人が良く受賞するノーベル物理学賞の研究テーマである『微粒子論』に依って25世紀をかけて科学的にも説き明かされたものである。つまり、宇宙に存在する全て、私たち人類も、他の動植物も、石も空気も水もプラスチックスも、そして地球も太陽も宇宙も、全ては数種類の微粒子の集まりであり、その集まり方に依って私たちの眼に異なったものに見えるだけだと言うのが現代の微粒子論なのだと思うからである。

ただ、この仏法の真理に目覚めるには、四法印の一つ『一切皆苦』を自覚しなければならない。

       一切皆苦(この世のすべては苦である)

『一切皆苦』と聞くと、「だから仏法は悲観的な教えだ」と捉えられるが、それは言葉が足りないからである。正確に言い直すと、「この世のすべては、真理に目覚めない者にとっては苦である」と云うことになる。そして、その真理が前述の二法印なのである。

この真理に気付いたなら、四法印の最後の一法印の『涅槃寂静』に至り得るのである。

       涅槃寂静(真理に気付けば煩悩の炎が消え、安らかな世界に至るのである)

この真理は時代を超え地域に関係なく、また宗教の如何を問わず普遍のものであり、否定出来る人は居ないと思う、そして、理解出来るし納得出来るはずである。しかし、我が身に引き当てて、安らかな世界に至れるかと言うと、それは別問題だと言うことになり、凡夫の苦悩が始るのである。

この四法印を体得し、お釈迦様と同じ境地に至るために用意されたのが八正道であるが、この実践を為し安らかな世界に至った、つまり悟りを開かれたお坊様を祖師方と言うのである。

親鸞聖人も祖師方のお一人であるし、親鸞聖人の比叡山での20年間はこの八正道を実践されたものだと思っているが、親鸞聖人でさえ、この八正道の実践では安らかな世界には至り得なかったのである。八正道は肉体的な苦行ではないが難行なのである。私の推測であるが、親鸞聖人はおそらく八正道を実践し切れない自分に気付かれたのだと思う。私は、『親鸞聖人は悟り済ますことが出来なかったのだ』と云うべきだと思うし、だからこそ、凡夫私にとって真に有り難い祖師、この世に生まれたのは親鸞聖人にお遇いするためだったと言っても良い位の祖師なのである。

―次回木曜コラムに続く

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No.863  2008.12.22

親鸞聖人の和讃を詠む-38

● まえがき
『法蔵菩薩の本願』とか『阿弥陀如来の本願』、そして「阿弥陀如来の本願が成就して南無阿弥陀仏の名号となった」と云うことを聞きますと、科学的思考をする世間一般の人々は「明らかに作り話であるから信じられない」と思うに違いありません。幼い頃から仏法に親しんで来た私も、その様な言葉や教えにはずっと抵抗感を抱いて参りましたので、その気持はよく分かります。

ただ最近になりまして、私の受け取り方が少し変わって来たように思います。大昔と言えども法蔵菩薩と云う仏道修行者が居たはずはありませんし、法蔵菩薩が阿弥陀如来になったはずもありませんが、事実か事実でないとかの問題ではないのだと思うようになりました。「『南無阿弥陀仏』と云うお念仏は阿弥陀如来が私たち苦悩する衆生の為に考え出された名号である。」と云う名号の説明に付きましても、「昔の祖師方、つまり人間が考え出したことであって、架空の仏様が考え出す訳がないではないか」と、私は科学的立場から批判を加えておりましたが、「いや、やっぱりお念仏は仏様から私たち苦悩の凡夫へのプレゼントだと言うべきかも知れない」と受け取りつつあります。

私が何故そのように受け取り始めたのか、筋道を立てて説明することは出来ないのですが、「お陰様とは仏様のこと」と云う言葉に出遇ってからのような気も致します。あの勉強家で智慧に優れた親鸞聖人や法然上人が、法蔵菩薩や世自在王仏が実在していたかどうかを問題に為さって居たはずは無く、実在しないから信じないと凝り固まっていた自分が余りにも低レベルの世界に住処を持っていたものだと恥ずかしくなっているところであります。

そう思えるようになってから読む親鸞聖人の和讃は、以前よりも素直にストレートに心に入って来るような気がしています。 今日の和讃の冒頭の『如来の作願』と云う言葉も、「阿弥陀如来が打ち立てた本願」と云うことでありますが、少し前までならば、かなりひややかに、第三者的に読んで居たはずでありますが、今日は不思議に抵抗感無く読めているような気が致します。

●親鸞和讃原文

       如来の作願をたづぬれば     にょらいのさがんをたずぬれば
       苦悩の有情をすてずして      くのうのうじょうをすてずして
       廻向を首としたまひて        えこうをしゅとしたまいて
       大悲心をば成就せり         だいひしんをばじょうじゅせり

  ● 和讃の大意(早島鏡正師訳)
阿弥陀如来が本願を立てられた御本意をたずねてみると、我々如き苦悩の生けるもの達を救うためであったのだ。如来は生ける者達に成仏のための善根功徳(念仏―信心)を施し与えることを第一として、大悲のお心を成就あそばされたのである。

● あとがき
『お浄土』に付きましても、架空か実在かを問題にする事自体余りにも幼稚な考え方だったなと思うようになりました。「架空だから信じられない」と言うのは、全く次元の異なる世界から仏法を眺めていたのだなぁと思うようになりました。お浄土や念仏を口にする人々は何回も何回も法話を聴いて、ある種のマインドコントロールを受けたと同じような精神状態になっているのではないかと思っていた程であります。むしろ私が科学的教育と云うマインドコントロールを長年に亘って蒙って居たのではないかと思っております。 そして、私が尊敬している故井上善右衛門先生がどのような理解で浄土をお考えになっていらっしゃったかがほんの少し分りかけて来たように思えまして、目の前が開けて来たように感じております。
こう思えるようになりましたのも、仏様の御働きに依るものとしか思えません。


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No.862  2008.12.18

続―受身の人生を積極的に生きる

少し前に、『求めない』と言う本がベストセラーになったことがありました。今考えますと、〝求めない〟と言うことは『受け身の人生観』で生きようと言うことではないかと思い返しています。 私はスポーツ好きなので、どうしてもスポーツに当て嵌めて考えてしまうのですが、今回は、弱い大関琴欧州の相撲と、イチローの打撃論に付いて考えてみたいと思います。

琴欧州は、身長2メートルを越える長身ですし、バランスの取れた体格をしています。その体格とレスリング欧州チャンピオンの経験を生かして入門後19場所と言う史上最速のスピードで一気に大関まで駆け上がりました。しかし大関に昇進してからはいわゆるクンロク(9勝6敗)大関の代表格で、角番を繰り返していましたが、どう云う心境の変化があったのか、今年の春場所初優勝を飾りました。

優勝をする位ですから技能面の実力があることは間違いないのですが、何のスポーツでも言えますが、スポーツは技能だけでは勝てません。自分の弱い心に勝たなければ相手にも勝てないのです。その弱い心とは、「勝ちたい、でも負けたらどうしょう」と言う悲観的な先読みをする心です。勝負に勝つには、どのような場面になっても、自分の力を発揮する事だけに集中し、また勝っても負けても、その結果をそのまま受け容れると云う受けて立つ勝負姿勢を持つことだと思います。琴欧州がこの受け身の勝負師魂を身に付けたなら、心・技・体が具わった大横綱になることは間違い無いと思います。

さて、今年8年連続200本安打達成と云う大リーグ記録に並んだイチロー選手ですが、琴欧州とは反対に、既に心・技・体が兼ね具わったスポーツ選手です。イチロー選手の特集番組で彼自身が吐露してくれていますが、彼も私たちと同じ弱い心を持っています。しかし、打席に立った彼は、ピッチャーが投げたボールを〝打ちに行く〟のではなく、〝体の正面に来るボールを待って弾き返す〟と云う言わば受け身の打撃姿勢に見えます。ピッチャーは、色々な変化球を色々なコースに投げ分けますから、普通の打者は変化球の種類とコースに山を張らないと打てないそうです。イチロー選手も、ある程度の予測をして待つのだろうと思いますが、極端な山を張らずに、瞬間的に対応出来る眼と技術を磨いて来たのだと思います。
きっと彼は、人生の生き方においても、受け身の姿勢で、どのような人生の出来事にも自然体で対応しているスポーツ選手だと私は思っています。

受け身の人生は、一見ひ弱そうに思えるのかも知れませんが、風の吹くままに撓(しな)る柳の木の如く、台風に遇えば根っ子から倒れる大木とは異なって、本当の強さを秘めた生き方だと思います。般若心経の中に『無有恐怖(むうくふ)』と云う言葉があります。仏法の智慧を体得すれば「恐怖が無くなる」と言うことだと聞いておりますが、受け身の人生観は、まさに不安に怯えない、恐怖の無い人生を実現してくれるのではないかと思っております。
私は未だその心境に至っておりませんが、受け身の人生を理想として、この人生を全うしたいと考えております。


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No.861  2008.12.15

親鸞聖人の和讃を詠む-37

● まえがき
阿弥陀仏の本願は、どのような者でも必ず必ず救い取って、浄土に迎え入れると云うものであります。そして、その本願力は非常に強いものであり、私たちの心が如何に我が儘放題で、煩悩まみれの生活からなかなか脱け出せ無くっても、そんな事が本願力の強さを失わせるものではないと親鸞聖人は確信されている事が、これらの和讃からよく分かります。

この辺りが私たちには大変分かり難いところだと思います。つまり普通一般的には、世の中の為に善いことをしたり、周りの人々の為になることをしなければ天国・極楽には往けないと考えます。その世間一般の考え方とは180度逆のことを親鸞聖人は仰っておられるように思うからであります。

私も少し前までは「親鸞聖人はご自分のことを悪人だと仰るけれども、親鸞聖人は世間から見て、普通悪人と言われることは決して為さらなかったでは無いか。むしろ庶民の為に法を説き、社会の為になることをされたではないか。仏法を極められて自己を見詰める内省の眼が強くなられたから、救われたのではないか・・・」と考察をしていました。
しかし、そう云う世間標準の善悪のことをのみ仰っておられた訳ではないようです。私たちは善行のみを積むことは出来ません。人を傷付けるような事を言ったり行なったりしてしまいます。表の言動に出なくとも、心の中では平気で人の悪口を呟いていたり、傷付けたりしています。極端な場合は、心の中で殺人を犯している場合すらあります。表の顔では仏法を大事にしているようでも、何か不幸な眼に遇ったりしますと、「神も仏も無いではないか、お念仏を称えているのに、何で私がこんな目に遇わなければならないのかぁー」と仏様を傷付け、殺すこともしかねません。

その時々に応じて心で起きることを私たちは決して制御出来ません。おそらくその様な心の奥底でうごめく汚くて悪い気持ちを親鸞聖人はそれがどんな些細なものであっても見逃せなかったのだと思われます。しかも、その見逃せない心は、自分の心ではなく、仏様の本願力に依って与えられた心だと言う気付き(これも自分が気付いたのではない)が懺悔と喜びの念仏になったのではないかと推察しております。

●親鸞和讃原文

       願力無窮にましませば     がんりきむぐにましませば
       罪業深重もおもからず     ざいごうじんじゅうおもからず
       仏智無辺にましませば     ぶっちむへんにましませば
       散乱放逸もすてられず     さんらんほういつもすてられず

  ● 和讃の大意(早島鏡正師訳)
阿弥陀仏の本願力は無窮(広大できわまりのないもの)であるから、本願力にとってわれわれの罪業の深重は何ら差し障りとはならない。阿弥陀仏の智慧は計り知れないものであるから、いかなる散乱心(直ぐ目の前のことに心が捉えられ、移り気で定まらない心)や放逸心(わがまま、勝手気ままでしまりが無い心)を持っている者でも、必ず摂取不捨して救いとってくださるのである。

● あとがき
親鸞聖人が自己を見詰める眼と心は、私たちが精一杯頭を使って自己分析したり、内観したりするものとは全く次元の異なったものだと思われます。私たち人間には他の動物には無い、自己を見詰める意識が与えられています。この他の動物に無い能力が人類が最も進化した動物だと言われる所以でありますが、しかしその能力は動物として生きて行く上で必要な力として人類に特別与えられたのであって、その能力が宗教的な目覚めに転換し得たのは、人類が誕生して数百万年~数千万年後でしょうか、お釈迦様やキリスト様などの宗教的天才が出現(これも仏様の本願力に依ると受け取られましょう)してからでありましょう。

宗教的天才ではなくとも、仏法を聞き続けて、この仏様の本願力を教えて頂き、信じる(我が心でそれを感じ取る)ようになれば、誰でも救われるのだと言う道を私たち凡夫の為に切り開かれたのが親鸞聖人ではないかと考察しているところであります。親鸞聖人もまた阿弥陀仏の本願力に依ってこの世に現れられた宗教的天才だと思わずには居られません。


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No.860  2008.12.11

受身の人生を積極的に生きる

極最近、仏教関係のある財団法人から『日本講演』と言う小冊子が見本として送られて来ました。中に大阪大学総長鷲田清一氏(哲学者)の『待つということ』と言う演題の講演要旨が掲載されていました。積極的に読む気持ちは湧かなかったのですが、私の母校の、私より4歳年下の総長氏がどんな哲学を語っているのだろうか・・・と冷やかし半分と云う不謹慎な気持ちで読み始めました。が・・・

仏教関係の財団法人からのご紹介でしたから、仏教的な考え方、仏教的な言葉が含まれているのだろうと予測して読み始めましたが、少なくとも仏教を思わせる言葉は一切出て来ませんでした。哲学者の文章ですから、なかなか難解な内容でした。表面的に読み取りますと、何事に関しても待てなくなった現代人に対して、待つ大切さを説いているように思えましたが、私は読み進むにつれまして、我田引水を免れないと思いますが、講演者の意図するところではない『他力本願』の教えに依る生き方が私たちの落ち着きどころではないかとあらためて思うようになっていました。

鷲田氏の講演の締めくくりは、「いずれにせよ、待つということは辛くて苦しいことですし、みんなして待つ側に回ってしまったら、世の中が動かなくなりますので、もちろん時間を先駆けるところはちゃんと駆けていただいて、世の中をどんどん回していっていただきたいものです。ただ、その過程において私たちが忘れてはならないのは、待つことと期待すること、そして時を駆ることと訪れを待つこと、この二極の振り幅バランスを崩さぬよう、これからも上手に保ち続けていくということなのではないでしょうか。」でした。

鷲田氏のお話にはそれなりに考えさせられる点がありますが、私は氏のお話の中にあった「産まれることによって現れた〝生きる〟ということも、あくまで受け身の出来事なのだと考えれば・・・」と云う一節と、「受け身の視点から考えると分り易い」と言う文言が『他力本願』の教えに依る人生の生き方の有意性を示唆しているように思えたのです。〝受け身〟と云う言葉は積極的に生きることを好しとする世間一般からは消極的姿勢だと毛嫌いされますが、勝負の世界において本当の強さは受けて立つ側にあり、あらゆる局面に淡々としかも万全に対応するのが横綱相撲と言われますように、受け身は決して負け犬ではありません。

鷲田氏が言われている通り、私たちは元々受け身でこの世に生まれて来ました。そして、死ぬのも自ら望んで死ぬのではなく、やはり受け身です。人生の出発も最後も受け身なら、生きている間も徹底して受け身で通すことが自然なのではないか、そしてそれが親鸞聖人が至られた『自然法爾』に適う生き方ではないかと考えた次第であります。

無相庵カレンダーの3日目のお言葉、『岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと、水の流るる』(甲斐和里子女史)は、徹底した受け身の生き方を詠ったものだと思います。 私たちの人生では、好むと好まざるに拘わらず、辛いことや楽しいこと、嬉しいことにも悲しいことにも出遇います。相性の良い人にも相性の悪い人にも出会いますが、人生で出会う全てに対して選り好みせず、全てを先ずは受け容れて、その時々に自分の出来る限りを尽くすと云う受け身で生きることが、人間本来の自然な生き方ではないかと鷲田氏の『待つということ』を読みながら考察した次第であります。

この受け身で生きる姿勢は、鈴木大拙師が他力本願の教えを「絶対的受容性」(全てを無条件に受け容れる)と言われていることにも通じていると思いました。そして現時点で私が確信した理想の生き方が表題の『受身の人生を積極的に生きる』であります。

追記:
『受け身の人生』と云う言葉に関連して思い付いたことがございます。

どの先生のご法話の中でのお言葉かは忘れましたが、「私たちはこの世を我が家に居るかの如く考えて生活しているけれど、事実はそうではなくて、私たちはこの世にお客様として産まれ出たと考え直す必要がある。」と言うニュアンスのお話がありました。お客様で来たからには、その訪問先の主人のお持て成しにお任せするのが自然の姿であります。誰でもお客になれば、正に受け身の姿勢で臨むはずで、持て成される部屋も、調度品も、お料理の出されるタイミングも、お料理の種類も、味付けに口出しはしないはずであります。お客様で来ているこの世においても同様に、私たちは与えられる人生の数々の場面・状況がどんなものであれ、選り好みせずに丸ごと受け取って、しかも、お客様として楽しむと云う姿勢で臨んでいきたいと考えました。

また、『受け身の人生』を、私が今向き合っている技術開発の仕事と関連させて考察しますとき、あるべき姿勢が見えて参りました。技術開発の仕事だけではなく、ノーベル賞の対象となる研究も含めてあらゆる研究の仕事にも言えることだと思いますが、目標とする製品や材料或いは手法を確立させる場合、自分の知識を総動員して仮説(自分なりの理論)を立て、その正否を実験に依って確認して行くのですが、殆どの場合、仮説が否定される結果となります。場合に依りましては、数年~十数年悉(ことごと)く仮説が否定され続けることもあり、多くの人は途中で挫折してしまうのが現状であります。

今回の『受け身の人生』から、私は仮説が否定された場合の受け止め方が大切なのだなぁーと考えるようになりました。つまり、飽くまでも自分の仮説の正しさを信じる人は、実験の仕方に間違いがあったとか、実験を任せた担当者にミスがあったのではないかなどと、目の前に出現した事実を受け容れられないために、目的がなかなか達成出来ないまま断念してしまっているのではないかと思うようになりました。そして逆に、仮説が否定された事実を素直に受け容れて、その事実が示した真実に沿って、淡々と次の新しい仮説を立てて真理を追究していく姿勢の人が、やがては新しい科学的理論に行き着き、且つ目的とする成果を得るのではないかと考えるようになりました。仮設が否定され続ける期間が長ければ長い程、値打ちのある結果が得られるのかも知れません。そう考えまして、私も、自分の仮説が否定され続けてもへこたれずに真実・真理を求めて開発研究を続け、オンリーワンの技術を確立したいと気持ちを新たにした次第であります。

最後になりますが、『受け身の人生を積極的に生きよう』と思うようになりましても、日常生活においては、どんな事に出遇っても、またどんな人に出遇っても、心騒がず、つまり怒りや後悔無く対処出来るようになる訳では無いと思います。生身の人間から煩悩が無くなる訳ではありませんから、出遇った瞬間、或いは出遇った当座は煩悩が先んじて、心が騒ぐものだと思います。
しかし、最終的には『受け身の人生』を思い起こして心が静まり、仏法に正しい生き方を聞きながら生活して行くのが、私たち仏法を求める者の歩む道だと思っております。


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