No.860  2008.12.11

受身の人生を積極的に生きる

極最近、仏教関係のある財団法人から『日本講演』と言う小冊子が見本として送られて来ました。中に大阪大学総長鷲田清一氏(哲学者)の『待つということ』と言う演題の講演要旨が掲載されていました。積極的に読む気持ちは湧かなかったのですが、私の母校の、私より4歳年下の総長氏がどんな哲学を語っているのだろうか・・・と冷やかし半分と云う不謹慎な気持ちで読み始めました。が・・・

仏教関係の財団法人からのご紹介でしたから、仏教的な考え方、仏教的な言葉が含まれているのだろうと予測して読み始めましたが、少なくとも仏教を思わせる言葉は一切出て来ませんでした。哲学者の文章ですから、なかなか難解な内容でした。表面的に読み取りますと、何事に関しても待てなくなった現代人に対して、待つ大切さを説いているように思えましたが、私は読み進むにつれまして、我田引水を免れないと思いますが、講演者の意図するところではない『他力本願』の教えに依る生き方が私たちの落ち着きどころではないかとあらためて思うようになっていました。

鷲田氏の講演の締めくくりは、「いずれにせよ、待つということは辛くて苦しいことですし、みんなして待つ側に回ってしまったら、世の中が動かなくなりますので、もちろん時間を先駆けるところはちゃんと駆けていただいて、世の中をどんどん回していっていただきたいものです。ただ、その過程において私たちが忘れてはならないのは、待つことと期待すること、そして時を駆ることと訪れを待つこと、この二極の振り幅バランスを崩さぬよう、これからも上手に保ち続けていくということなのではないでしょうか。」でした。

鷲田氏のお話にはそれなりに考えさせられる点がありますが、私は氏のお話の中にあった「産まれることによって現れた〝生きる〟ということも、あくまで受け身の出来事なのだと考えれば・・・」と云う一節と、「受け身の視点から考えると分り易い」と言う文言が『他力本願』の教えに依る人生の生き方の有意性を示唆しているように思えたのです。〝受け身〟と云う言葉は積極的に生きることを好しとする世間一般からは消極的姿勢だと毛嫌いされますが、勝負の世界において本当の強さは受けて立つ側にあり、あらゆる局面に淡々としかも万全に対応するのが横綱相撲と言われますように、受け身は決して負け犬ではありません。

鷲田氏が言われている通り、私たちは元々受け身でこの世に生まれて来ました。そして、死ぬのも自ら望んで死ぬのではなく、やはり受け身です。人生の出発も最後も受け身なら、生きている間も徹底して受け身で通すことが自然なのではないか、そしてそれが親鸞聖人が至られた『自然法爾』に適う生き方ではないかと考えた次第であります。

無相庵カレンダーの3日目のお言葉、『岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと、水の流るる』(甲斐和里子女史)は、徹底した受け身の生き方を詠ったものだと思います。 私たちの人生では、好むと好まざるに拘わらず、辛いことや楽しいこと、嬉しいことにも悲しいことにも出遇います。相性の良い人にも相性の悪い人にも出会いますが、人生で出会う全てに対して選り好みせず、全てを先ずは受け容れて、その時々に自分の出来る限りを尽くすと云う受け身で生きることが、人間本来の自然な生き方ではないかと鷲田氏の『待つということ』を読みながら考察した次第であります。

この受け身で生きる姿勢は、鈴木大拙師が他力本願の教えを「絶対的受容性」(全てを無条件に受け容れる)と言われていることにも通じていると思いました。そして現時点で私が確信した理想の生き方が表題の『受身の人生を積極的に生きる』であります。

追記:
『受け身の人生』と云う言葉に関連して思い付いたことがございます。

どの先生のご法話の中でのお言葉かは忘れましたが、「私たちはこの世を我が家に居るかの如く考えて生活しているけれど、事実はそうではなくて、私たちはこの世にお客様として産まれ出たと考え直す必要がある。」と言うニュアンスのお話がありました。お客様で来たからには、その訪問先の主人のお持て成しにお任せするのが自然の姿であります。誰でもお客になれば、正に受け身の姿勢で臨むはずで、持て成される部屋も、調度品も、お料理の出されるタイミングも、お料理の種類も、味付けに口出しはしないはずであります。お客様で来ているこの世においても同様に、私たちは与えられる人生の数々の場面・状況がどんなものであれ、選り好みせずに丸ごと受け取って、しかも、お客様として楽しむと云う姿勢で臨んでいきたいと考えました。

また、『受け身の人生』を、私が今向き合っている技術開発の仕事と関連させて考察しますとき、あるべき姿勢が見えて参りました。技術開発の仕事だけではなく、ノーベル賞の対象となる研究も含めてあらゆる研究の仕事にも言えることだと思いますが、目標とする製品や材料或いは手法を確立させる場合、自分の知識を総動員して仮説(自分なりの理論)を立て、その正否を実験に依って確認して行くのですが、殆どの場合、仮説が否定される結果となります。場合に依りましては、数年~十数年悉(ことごと)く仮説が否定され続けることもあり、多くの人は途中で挫折してしまうのが現状であります。

今回の『受け身の人生』から、私は仮説が否定された場合の受け止め方が大切なのだなぁーと考えるようになりました。つまり、飽くまでも自分の仮説の正しさを信じる人は、実験の仕方に間違いがあったとか、実験を任せた担当者にミスがあったのではないかなどと、目の前に出現した事実を受け容れられないために、目的がなかなか達成出来ないまま断念してしまっているのではないかと思うようになりました。そして逆に、仮説が否定された事実を素直に受け容れて、その事実が示した真実に沿って、淡々と次の新しい仮説を立てて真理を追究していく姿勢の人が、やがては新しい科学的理論に行き着き、且つ目的とする成果を得るのではないかと考えるようになりました。仮設が否定され続ける期間が長ければ長い程、値打ちのある結果が得られるのかも知れません。そう考えまして、私も、自分の仮説が否定され続けてもへこたれずに真実・真理を求めて開発研究を続け、オンリーワンの技術を確立したいと気持ちを新たにした次第であります。

最後になりますが、『受け身の人生を積極的に生きよう』と思うようになりましても、日常生活においては、どんな事に出遇っても、またどんな人に出遇っても、心騒がず、つまり怒りや後悔無く対処出来るようになる訳では無いと思います。生身の人間から煩悩が無くなる訳ではありませんから、出遇った瞬間、或いは出遇った当座は煩悩が先んじて、心が騒ぐものだと思います。
しかし、最終的には『受け身の人生』を思い起こして心が静まり、仏法に正しい生き方を聞きながら生活して行くのが、私たち仏法を求める者の歩む道だと思っております。


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No.859  2008.12.8

親鸞聖人の和讃を詠む-36

● まえがき
今日の和讃に『本願』と言う単語は見当たりませんが、和讃の始めに、『本願は、』と言う主語を入れて詠めば、他力本願の教えを端的に表わす独立した一首になるのだと思います。私はこの句には懐かしさを感じます。それは多分、私が未だ小中学生の頃に、私の母が折に触れて「無明長夜の燈炬なり・・・・」と口ずさんでいたからではないかと思われます。勿論、それが本願を詠った句であることも、何も意味などは分らなかったはずですが・・・子供心に大切な事を言っているのだろうなぁーと感じていたような記憶があります。

私たちは闇の中をある一つの方角に向って歩き進む事は出来ません。闇の中ではさ迷い歩き廻るしか無いと思います。しかし、一点の光を見付ければ、誰しも、その光に向って、或いはその光を頼りに歩き始めるに違いありません。

この世は楽しいところだと考えていた子供の頃には光は必要ありませんが、自分に意思が生まれ、自分の思い通りにしたいと思い始めた途端、闇の人生が始まります。この「私の人生は闇だ、この闇から何とかして脱出したい」と云う心を仏教では『菩提心(ぼだいしん)』と云うのではないかと思います。『菩提心』、すなわち、「救われたい」、「悟りを開きたい」、「安心を獲たい」と言う気持ちだと思います。闇を感じない人生には、欲望が満たされない苦痛はあっても、悩みはありません。 闇を感じた瞬間が仏道の出発点だと思います。

この人生の闇に燈(とも)る灯(あか)りが、『阿弥陀仏の本願』だと言うのが、親鸞聖人の信心だと申してもよいと思います。では、その『阿弥陀仏の本願』を、これから仏法を求めようとしている私たちはどう捉えたらよいのでしょうか?

●親鸞和讃原文

       無明長夜の燈炬なり       むみょうちょうやのとうこなり
       智眼くらしとかなしむな      ちげんくらしとかなしむな
       生死大海の船筏なり       しょうじたいかいのせんばつなり
       罪障おもしとなげかざれ     ざいしょうおもしとなげかざれ

  ● 和讃の大意(早島鏡正師訳)
阿弥陀仏の本願は、長い長い輪廻の迷いの夜を照らす常夜燈である。私には真理をさとる智慧の眼が無いと言って、それを悲しむ必要はない。そもそも、阿弥陀仏の本願は迷いの大海を渡すところの船であり、筏(いかだ)である。だから、私の罪障が重いといって歎く必要はない。何故ならば、阿弥陀仏の本願は、智眼くらく罪障重きわれわれを必ず摂取することを誓っているからである。

● あとがき
浄土門の所依の経典は、浄土三部経といわれていますが、その中の一つに『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』と言う名の経典があります。親鸞聖人が一番大切にされた経典でありますが、その中に、仏様の四十八の願いが示されていまして、その第十八番目の願を、親鸞聖人が『本願』と言われたのだと浄土真宗では受け取っているようであります(四十八願全てを本願と受け取ることもあるようです)。

下記にお示しするのが第十八願です。真宗学では親鸞聖人がこの第十八願を本願とされたお考えを理論的に説明されていますが、私たちにはなかなか難しいものです。私は、「私たちが自分の能力や意思の力で救われようと努力する必要が無い、もともと仏様が救い取ることを願われているのだから、その仏様の願いを信じて、お念仏しようと云う気持ちになったら、その時既に救われている。そして、仏様の願いを信じるのも、自分の力ではない。仏様に願われている自分に目覚めて、ただ念仏するたけなのだ」と、今は受け取っています。

第十八願
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
第十八願の意訳
  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。
もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。


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No.858  2008.12.4

お陰様

去年でしたか、『勿体無い(モッタイナイ、MOTTAINAI)』と言う古来からの日本人の精神を表わす言葉が、アフリカの女性として初めてノーベル賞を受賞したケニアの環境分野活動家ワンガリ・ マータイさんに依って、世界の合言葉として広められ始めましたが、最近ではあまり使われなくなった『お陰様(オカゲサマ)』も『勿体無い』以上に日本精神を表わす代表的な言葉だと思います。

私たち年配者が何気なく使う『お陰様』と云う言葉には非常に大切な仏教精神が込められています。私たちは自分の力で自分の意思で生きていると思っていますが、それは私たちの命を支えてくれている多くの人々や、生き物や、空気、宇宙の存在が私たちの眼に直接的には見えないからです。私たちの眼に直接的に見えないもの、つまり『陰のもの』への感謝を込めた言葉が、『お陰様』だそうであります。

『お陰様』に付いて、リンク先の『紫雲寺さん』の釈昇空師が法話集の中の29話で、次の様に説明されています。

釈昇空師の法話から引用ー
 私たちの人生は、たかだか数十年ですが、その数十年の間には、いろんなことが起こります。実際、自分の思いに叶うことも、叶わぬことも起こってまいります。ですが、日本語には、そんな、人生に起こってくる全てのことを、謙虚に受け止める言葉があります。それは、「お陰さま」という言葉です。

 私たちの目に見える世界が「陽」(ヨウ)だとすれば、目に見えない世界が「陰」(イン)です。目に見える現実世界は、目に見えない深遠な世界に支えられている。そういう「いのちの真実」の姿を学ぶと、人生に起こってくる出来事を、全て、この目に見えない世界からの「導き」として受け止められるようになっていきます。そこに出てくる言葉が、「お陰さま」です。

 昔の人は、「陰」(かげ)という言葉に、「お」と「さま」まで付けて尊び、大切にしましたが、私たちの人生を「陰」で支えてくださっている、この「お陰さま」というのは、「仏様」のことです。

 私たちが日々、「お陰さま」と手を合わして「仏様」とともに歩めることを願って、今日は、「お陰さま」という題で、お話させて頂こうと思います。例によって、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

 さて、このごろは、「お陰さま」という言葉を、日常会話のなかでは、あまり聞かなくなったように思います。例外は、「お陰さまで30周年」などといった、ビジネス上の社交辞令くらいでしょうか。これはこれで、味のある使い方だとは思いますが、いまはひとまず置いておきますね。

 日常会話のなかで、自然に「お陰さまで」とおっしゃるのは、そこそこ年配の方だけでして、まあ、若い方は、あまりこういう言葉はお使いになりません。
 心から「お陰さまで」と言えるようになるには、相応の人生経験が必要でしょうから、そういう意味では、若い方がお使いにならなくとも無理はありません。むしろ、この言葉は、あまり若い人には、そぐわない言葉かもしれませんね。

―引用終わり

私は既に60歳を超えましたので、様々な楽しい事や悲しい事、嬉しい事や悔しい事を経験して参りました。そして今は56歳からの経済的苦境が7年間続いておりますが、その苦境のお陰様で、貴重な掛け替えの無い人生の友や親族に出遇えました。そして私の技術者として最後とも言える技術開発の仕事にも出遇えました。これまでの全てが『お陰様』と思えますのは、それだけの年齢を重ねて来たからだと思います。 これからもまだまだ色々な経験を積んでゆくことになると思いますが、私が更にお陰様だと思いますことは、乳飲み子の時に母の背中で聞き始めた仏法と63年間も縁が続き、これからもこの肉体を失うまで縁が尽きないことを思います時、仏法に出遇えた事を『お陰様』と思う事、まことに切実であります。もし仏法との出遇いが無ければ、どうして人生を送って居ただろうか、きっと恨み辛みを抱えて歩む空しい人生、羅針盤の無い人生に違いないと思っております。

これからも、全ては『お陰様』と手を合わせて生きてゆきたいと思っております。

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No.857  2008.12.1

親鸞聖人の和讃を詠む-35

● まえがき
正像末和讃の中の第34首から第39首までは『本願のいわれ』を詠われたものだそうであります。

今日勉強する第34首で、親鸞聖人が「信心によるさとりは法蔵菩薩の願力によるのである。」と力強く打ち出されていると言うことでありますが、私は法蔵菩薩が阿弥陀仏と云う仏になると云うお話にはどうも付いていけないでいます。方便のお話であることは理解しつつも、何故このような物語で以て教えを説かねばならないのかが理解出来ないでいます。仏法を頭で理解しようとしている私の至り得ないところなのかも知れません。

法蔵菩薩と阿弥陀仏に付いて、早島鏡正師のご説明を下記に引用させて頂きます。

親鸞聖人の著作では、阿弥陀仏が本願をお立てになられたという「阿弥陀仏の本願」という言葉が一方で使われながら、しかもまた「法蔵菩薩の本願」という表現も同時に使われております。それでは、法蔵菩薩の本願と阿弥陀仏の本願はまったく違うかというと、そうではありません。法蔵菩薩がみずから本願を立てて、その本願が実現されたときに法蔵菩薩は阿弥陀仏という仏になっておられるのであります。そういう意味では、法蔵菩薩の本願は阿弥陀仏の本願といってよいかもしれません。しかしここで注目したいことは、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられて、しかもなお菩薩のときと同じ本願に生きつづけておられる。つまり仏も本願に生きておられるというところに、阿弥陀仏のほんとうのお姿があるのであります。菩薩としての本願を仏となってもなお持ち続けていくというところに、阿弥陀仏の真生命があると思います。
それならば、そのような法蔵菩薩の本願力はわれわれ衆生にとっていかなるものとしてしめされているのでありましょうか。どのようにわれわれ衆生にたいして働いているのでありましょうか。それが、第35首~第39首の和讃にかけて示されています。

● 親鸞和讃原文

       智慧の念仏うることは       ちえのねんぶつうることは
       法蔵願力のなせるなり       ほうぞうがんりきなせるなり
       信心の智慧なかりせば       しんじんのちえなかりせば
       いかでか涅槃をさとらまし     いかでかねはんさとらまし

  ● 和讃の大意
智慧の念仏を得ることは、法蔵菩薩の本願力によるものである。その本願力によって与えられたところの智慧の念仏を信ずる信心がもしもないとしたならば、わたくしはどうして涅槃のさとりをひらくことができようか。実はこの度、法蔵菩薩の本願力によるところの他力廻向の信心の智慧をいただいたわたくしであるから、当然浄土へまいって、往生即成仏の涅槃のさとりを得ることができる自分なのだ。

● あとがき
私は今のところ法蔵菩薩の本願や阿弥陀仏の本願は分りませんが、私に働きかけている『仏法を求める力』を感じていることは確かです。私の母親との縁も含めてひしひしと感じています。ひょっとしますと、それを『本願力』と云うのかも知れません。この本願力の働きに依って、私は仏法に出遇えたのであり、私がいわゆる救われるとしたら、この本願力に依るものであり、それを他力本願と言うのではないかと思います。

第35首から第39首を勉強させて頂いて、“本願のいわれ”を知りたいと思います。


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No.856  2008.11.27

「ただ念仏して」居ればよいだろうか?

浄土真宗教団、つまり東、西本願寺に所属しているお坊様のご法話にはよく、「仏法を頭で理解しようとせず、ただ念仏して居ればよいのだ」と云うニュアンスの言葉が出て来る。「仏法は知識ではない、法話を聞いて分ろうとしてはいけない」とも言われることが多い。そう云う面もあるとは思うが、私はいつも抵抗を感じてしまう。

「南無阿弥陀仏の意味や謂(いわ)れを知らずに、ただ呪文の様に念仏を称えるだけでよいのか?」と思うのである。「それなら、別に南無妙法蓮華経でも、南無観世音菩薩でもいいではないか?」とも思うのである。

「ただ念仏して」と云う文言は、歎異抄第3章の中の「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふむりて信ずるほかに、別に子細はなきなり。」から切り取って使用しているものであろうが、20年間に亘る比叡山でのご修行、ご勉学、そして色々な苦悩を抱えながら仏道を歩まれた親鸞聖人だからこその「ただ念仏して・・・」だと思うのである。

私の母も常念仏の人だった。しかし、それは「ただ念仏して」ではなかったと思う。仏法に出遇えた喜びの念仏もあっただろうけれど、懺悔の念仏、助けて欲しいと言う念仏もあったに違いないし、色々な素晴らしい出遇いに感謝する念仏もあったと思う。喜びも悲しみも苦しみも念仏一つで受け止め、流して居た人だったのだと、私がその時の母の年齢近くになって初めて分かった次第である。

他力本願の教えも、永らくの聞法と考察、勉強が必要だと思う。「ただ念仏して・・」は、数十年、聞法を重ねた人々に対して用いるべき言葉だと思う。人生の有り方を求めて仏法を聞きに来た若い人々を失望させる「ただ念仏して」をご講師方には慎んで貰いたいのである。


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No.855  2008.11.24

親鸞聖人の和讃を詠む-34

● まえがき
約一ヶ月ぶりに、親鸞和讃の勉強を再開させて頂きます。 今日の和讃にも一般人に取りまして、日頃聞きなれない難しい言葉が並んでおります。『願作仏心(がんさぶっしん)』、『信心の智慧』、『仏恩(ぶっとん)』などがそれに当たるのではないでしょうか。

『願作仏心』とは、「仏になりたいと思う気持ち、つまり悟りを開きたい、信心を獲たい心」と考えればよいでしょう。『信心の智慧』は、表面的には「信心を獲て身に付いた智慧」と言うことになりますが、どんな智慧でしょうか。通常私たちが使用する知恵は、世渡りする上で必要な知恵・才覚のことでありますが、仏教で使う『智慧』とは『真理』そのもの、或いは「真理に目覚めた考え方」と云ったところだと思います。

『仏恩(ぶっとん)』は、訓読みしますと「仏様から頂いたご恩」と言うことになりますが、『仏様』とは何か、『ご恩』とは何かをあらためて私なりに確認致しますと、『仏様』とは、キリスト教における神様、つまりこの世の中、宇宙全体の創造主を指し示す名称ではなく、この私、この地球、この大宇宙の全てを動かしめている働き、あるいは力を総合し、且つ人格化した名称だと私は考えています。神様と言う創造主すら産みだした働きをも含めたのが仏様だと考えてもよいと思います。

そして『ご恩』とは、私を人間としてこの世に産み出して頂いたご恩、そして生かしていただいているご恩、仏法に出遇い、親鸞聖人の教えに出遇えたご恩、妻・子供・親族・知人に恵まれたご恩などの一切を申します。それらは全て、仏様から頂いたご恩です。

この『仏恩』を想うと、その恩に感謝し、恩返しせずには居られなくなります。それが『仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)』と云うことであり、今日の和讃では『仏恩報ずる身となる』と詠われているのであります。

● 親鸞和讃原文

       釈迦弥陀の慈悲よりぞ       しゃかみだのじひよりぞ
       願作仏心はえしめたる       がんさぶっしんはえしめたる
       信心の智慧にいりてこそ      しんじんのちえにいりてこそ
       仏恩報ずる身とはなれ       ぶっとんほうずるみとはなれ

  ● 和讃の大意
慈父とも云うべきお釈迦様のお指図、非母とも云うべき阿弥陀さまのお招きによって、私ははじめて仏になりたいと願う浄土の菩提心、すなわち他力の信心を得させて頂きました。この成仏の因である他力の信心の智慧を得させて頂いたからこそ、仏恩に感謝する身とならせて頂いたことであります。まことに勿体無いことであります。

● あとがき
まえがきで、『仏恩報謝』について、ご説明させて頂きましたが、ご恩報謝すると云う事は、恩を貰ったから、その恩返しをしなければならないと云うような交換条件としてでもなく、私が努力してお返しすると言うものでもなく、そうせずには居られないと云う、自然の働き、これも仏様からのお働きに依るものだと言うのが他力信心の教えであると思います。

前回のコラムで『安心(あんじん)』に付いて私の受け取っているところを申し述べさせて頂いておりますが、『安心を獲る』と言うことは、自分が悟りを開いて、心安らかになればそれでよしと言う事ではなく、報謝の心が自然と言動に現れて、はじめて『安心をいただいた』と言うことになるのではないかと思います。そして、安心を頂いたからには、どのようにして周りの人々や世の中のために尽くそうか、どのように他の人にも『仏恩』をお伝えしようかと、忙しく頭を廻らせると言う日常生活になるのではないかと思っております。


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No.854  2008.11.20

安心(あんじん、悟り)の心境に付いて

この無相庵ホームページを訪ねられる方は、仏教に何を期待して居られるのでしょうか?どの様な精神状態になりたいとお考えでしょうか?あらたまって、そう問い質(ただ)されて、即答出来る方はどれ程いらっしゃるでしょうか。

本当のところは、禅宗の門を叩いておられる方は「悟りたいから」、浄土門を訪ねておられる方は「安心(あんじん)を獲たいから」とお答えになりたいところだと思いますが、それは少々大それた厚かましいと云うことで、遠慮がちに「幸せになりたいから・・・」、「苦悩から解放されたいから・・・」、「前向きに生きたいから・・・」、「人間に生まれて良かったと思いたいから・・・」、「本当の生き甲斐を感じて生きたいから・・・」、「死ぬことが平気になりたいから・・・」と言われるのが一般的ではないでしょうか。

しかし私がそうでありますように、「悟ったらどうなるのか、どんな心境になるのだろうか、そしてどうすれば、そのようになれるのか」、「安心を獲たらどうなるのか。安心を獲たら、どんな気持ちになるのか、それはどうすればなれるのか」を知りたくて、禅寺に参禅されたり、法座に通われたり、或いは仏教書を読んだり、在家として出来る限りの努力を続けることになります。

でも、私ももう40数年法話をお聞きし、数多くの仏教書も読んで参りましたが、悟りを開く、或いは安心を獲る具体的な方法や、悟りを開いたら(また、安心を獲たら)、どのような心境になったかと言う直接的なご回答に巡り会ったことはございません。悟りを開かれたであろう老師方や安心(あんじん)を獲られた先生方のお話をお聞きして参りましたが、核心に触れるお言葉に出会ったことはございません。そして消化不良状態のまま、しかし祖師方が到達されたご心境や、どのようにして到達されたかを知りたくて、聞法を続けて来たように思います。

一方、「私はこうして悟りを開いたのだ」とか、「私の廻心(えしん、安心決定、信心獲得)はこのような瞬間だった」と自己の体験を申される方や、廻心体験を売り物にされている教団もありますが、そう云う方のお話しや教団の姿勢に私は共感を覚えることはございませんし、そのような自己体験を審らかに語ることは外道(仏教の教えに反する道)なのかも知れないとも思ったり致します。実際、お釈迦様ご自身さえも、直接的・具体的に語られてはいらっしゃいませんし、禅宗では「不立文字、教外別伝、直指人心、 見性成仏」と申しまして、言葉で伝えるものではなく、以心伝心するものだとされています。

そんな中ではありますが、私はこれまで多くの先生方に接し、色々な仏教書に学んだ結果として、仏道を成就された方々に共通して感じるところを、次のようにまとめてみました。今なお、私と同様の消化不良状態を感じられていらっしゃる方に何らかの参考・或いは手掛かりにでもなれば幸いであります。

ある自称浄土門系統の教団の廻心体験者のお話を聞いた方が、「すっかり安心し て、さっぱりして、何にもとらわれのない、自然でスッカラカンになっている姿に 驚いた。」と云う感想を述べられていましたが、それは私が今理想としている心境とは全く異なります。
私は、悟りを開いても、廻心をしても煩悩はおそらく無くならないと考えていますし、やはり何かにとらわれることもあると思います。無の心境になるなんてことは、坐禅しているある瞬間には起り得ることかも知れませんが、生きている限り、脳細胞が活躍している限りは、四六時中自然でスッカラカンと云うことには有り得ないことだと思います。死が平気になることも無いと思います。生死の問題が片付くと致しましたら、生死が問題でなくなる程、現在只今の瞬間に、人の為、世の中の為に精一杯尽くし切りたいと云う心境になるのではないかと思います。親鸞聖人のお教えで言えば、自分の浄土往生が問題ではなくなり、今生きている此処、この瞬間に集中してしまう積極的状態が、仏道に生きる者の理想ではないかと今の私は考えていますし、またそう有りたいと願っております。

その為には、今生かされている不思議さ、有り難さを心底実感する瞬間を迎えるために、聞法を続けるしかないと思います。私たちはいい積りで生きています、自分の力を信じ頼りにして日常生活を生きています。何か自分に幸運なことが起きるのではないかと無意識の中に希望し、身贔屓にも自己に期待して生きていますが、聞法や坐禅を続けている間に、果たしてそのような自分かどうかが心底反省させられる瞬間が訪れるのではないかと思います。それが、ひょっと致しますと、廻心の瞬間なのかも知れません。

私もまだまだ修行中の身でありますが、悟り、安心(あんじん)とは、心安らかな、心に何も無いスッカラカンの心境ではないことは確かだと今の私は考えています。


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No.853  2008.11.17

科学的世界観と宗教的世界観

約2週間の入院に際して脳科学に関する本を数冊持ち込み、暇まかせに勉強しました。その動機は、私たちが日常感じる不安や怒り、そして希望や生き甲斐も、更には仏教の悟りまでもが私たちの脳の中で起こっている事だと云う現代の脳科学がどのように人間を把握し、世界を把握しているかを知りたかったからであります。

科学と言うのは、『宇宙に存在するあらゆるものを特別扱いするのではなく、それらに共通した性質や、普遍的に成り立つ法則を求める営み』であり、『人間を含めて、森羅万象の何ものも特別扱いしないこと』で発展して来たと云われています。

そして、『私』と言う存在に関しては、「無限の過去から未来へと続く無限の時間の中で、宇宙に存在する物質が複雑な相互作用をするうちに『私』が生まれ、やがて『私』と云う複雑な物質のシステムが崩壊して消えてしまえば『私』も居なくなる。つまり、物質としての『私』が消えれば、意識としての『私』も消滅する。生まれて来る前に『私』は存在しないし、死んだ後も『私』は存在しない」と科学は冷徹に考えています。

そして科学は宗教に関しても、「仏教の『解脱』、キリスト教の『原罪』、イスラム教の『帰依』と言う宗教的感情は、極論すれば全て『気のせい』、『勘違い』に過ぎない」と言うのが科学の言い分だそうです。

科学の限界、人間の限界を主張する立場からすれば、科学は無謀な試みだと言うことになりますが、おそらく人類が生きている限り、科学は「生命がどのよう物質と物質の相互作用で生み出されるかを突き止めるまで」努力し続けるに違いありません。ただ、科学万能を信じる脳科学者達も「意識を持つ『私』を生み出すものは何か?私たちが意識を持つと言う事実の背後にある第一原因を解明出来ないことが、今日、知的な意味での科学的世界観の『限界』を画すものだ」と現時点では弱気にならざるを得ないようであります。

アインシュタインが、「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」 という名言を残していますが、私も科学的な考え方を排する宗教であってはいけないと思います。そして私は、禅の悟りも真宗の安心(あんじん)も脳内現象であることは間違いないことであり、いずれは脳科学的に悟りに至る道筋も解明される時が来るのではないかと考えています。つまり、この世で悟りを得る人にはそれなりの前世があると云う伝統的な仏教の考え方は正しくなく、誰でも条件さえ整えば、禅の悟りとか真宗の安心(あんじん)を得ることが出来るのではないかと考えております。

実は、この私の考え方を後押ししてくれる『ある概念』を今回読んだ茂木健一郎氏の『「脳」整理法』と云う著書の中で見付けました。『セレンディピティ(serendipity)』と言う概念で、『偶然の幸運に出会う能力』と云うものであります。脳科学は「偶然を必然にしたいと云う願望を持ち、それを実際にある程度実現している人間の脳の働きと関係している」と考えているそうなのです。

こう書きますと難しそうに思われますが、ノーベル賞を受賞した偉大な発見・発明の殆どは偶然の出来事だと云うケースが多い事実を知りますと理解出来ます。何年か前の田中耕一氏のノーベル賞も、試料を間違って混ぜたことがキッカケでしたし、白川英機氏の導電性プラスチックスも、薬品の混合比率を間違ったところから生まれた事など枚挙にいとまはありません。偶然と言えば偶然ですが、この偶然を「行動を起こし、偶然の出遇いに気付き、そしてその意外なことを素直に受け容れた」ことによって生じた必然だと考えるのが、『セレンディピティ』と言う概念であります。

禅の悟りも、真宗の安心も、単に寝ていて得られたものではありません。数十年と言う歳月、仏道を歩み続けた結果として、「あっそうか、そうだったのか!」と云う『心の転換』の瞬間を迎えたものと云われています。それは恐らく1000億個と云われている脳細胞群が、ある言葉や現象に出遇った瞬間に極めて特殊な結び付き方をした結果ではないかと想像出来そうです。浄土真宗では「仏法は聞法に尽きる」と申しますが、聞法をひたすら続けているうちに、「あっ、そうか」と云う瞬間に出遇うと言うことではないかと思います。その瞬間的な脳細胞の特殊な結び付き方に付いては遠い将来に脳科学が解明するのではないかと思います。

浄土真宗と云う宗派内に、仏の世界は人間の知識・知恵で計り知ることは出来ないものとして、頭脳を働かせることを良しとしない立場があります。「何も考えずに兎に角お念仏を称えなさい、ただ念仏するだけでよいのだ」と説く先生方も実際に居られますが、私は親鸞聖人も法然上人も20年・30年と仏典を読まれ思考された結果、安心に至られたものだと思っております。お釈迦様も6年間の難行苦行と菩提樹下での瞑想の後に悟りを開かれたものと聞いております。真宗で安心(あんじん、禅の悟りに匹敵する心境)を獲られた妙好人と云われる人々も、何十年か聞法を続けられた方ばかりであります。いずれも永きにわたる脳内訓練上の『セレンディピティ』の成果だと考えてもよいのではないかと考えるようになりました。

私は科学を仕事の一部としている立場でもありますから科学の可能性に共感するところもありますが、人類が宇宙の働きに依って産み出された存在である以上、その人類の脳が宇宙の全てを知ることは出来るはずが無いと考えております。喩えとして適切かどうか分かりませんが、「親から産まれた私が私の親の心を知ることは出来ない」事と同じではないかと考察しております。 そして、おそらく人類は「『命』とは何か?」を永遠に解明出来ないと私は考えております。 そして、その不可思議さに頭を垂れるしかないのではないかと云うのが宗教的世界観と云うものではないかと考察しているところでありますが、これからも私は脳内訓練に励み、尊い瞬間に出遇いたいと思い直しているところでもあります。


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No.852  2008.11.13

無事退院致しました!

2週間(10月27日~11月10日)、眼の手術入院をしていましたので、コラム更新をお休みさせて頂いていましたが、今週の月曜日無事退院致しましたのでコラム更新を再開させて頂きます。これからもどうぞ宜しくお願い致します。

今回手術しなければならない病状にまで至りましたのは、医療費を節約しなければならなかった経済状態にあったことも確かですが、症状を自覚しながら素人判断してしまい、適切な治療を受けなかった私自身に大きな問題があったと反省し、自業自得とは正にこの事だと思っております。
手術を受けました左眼の視力は半減したままですので、得意だったテニスを以前のように楽しめなくなったままですが、仕事を含めて日常生活には困りませんので、失明を免れた幸運を噛み締めながら、頑張って参りたいと考えております。

さて今日のコラムは、私が患った緑内障と白内障とその手術に付いて書き記しておきたいと思います。同じ病で眼科に通われていらっしゃる方の参考になれば幸いです。
緑内障も白内障も老年期の病です。主治医の話によりますと、特に白内障は程度の差こそあれ老年になれば誰でもが必ず罹る病だそうです。私は自分の病は緑内障だけだと思っていましたが、今回入院して初めて軽い白内障にも罹(かか)っていることを知らされました。緑内障の治療の為にも白内障に罹っている水晶体を人工水晶体に取り替えておいた方がよいと云うことで、白内障の手術も同時に受けたのです。

緑内障とは、水晶体と角膜の間にある水溜り(眼房水)の水の排出孔が詰まって眼圧が高まり視神経が部分的に損(そこな)われ視野狭窄(しやきょうさく)を起こす病です。従ってその手術は家庭の排水管詰まりの時と同様、孔の通りを良くする為に細いメスで繊維柱帯と云う組織を切り開くと云う手術です。白内障の手術は自前の水晶体を超音波で粉々にして吸出した後に人工水晶体をはめ込むと云うものです。白内障の手術だけなら約30分程度で終わりますが、私の場合は緑内障の手術もありましたから、合計で1時間30分かかりました。

眼の手術ですから手術直前まで非常に恐怖を覚えておりましたが、手術に際しては眼(私の場合は左眼だけ)に麻酔液を滴下して局部麻酔されますから、術後も含めて痛みは殆ど感じませんでしたし、右眼はカバーされていますからどんな手術をされているかも全く分かりませんでした。でも、眼にメスが入る状況を想像してしまいますから、どうしても緊張して体全体に力が入っていました。そして、術後は眼房水中に手術で出血した血が混ざっていますから、私の場合は10日間位は何も見えませんでした(早い人は3、4日で視力を回復するようです)。

白内障の場合は擦りガラスの様になった水晶体を人工のレンズに取り替えますから、綺麗に見えるようになるのだと思いますが、緑内障の場合は、損った視野が回復する訳ではありません。視野狭窄の進行速度を遅くして、視野を全く失うことが無いようにするための手術ですから、治療して治ったと云う感覚はありません。私の場合は視野狭窄が生じ始めた初期に、もう少し早く緑内障手術を受けるべきだったと思います。

緑内障は体質に起因するようです。緑内障は一旦失った視野は元通りには回復しませんので、眼に異常を感じたら、億劫(おっくう)がらずに眼科に行って眼圧測定をして貰い、早めに治療(眼圧を下げる目薬や飲み薬)、場合に依っては早めに手術して貰う必要があると思います。

眼に限らず、体に何らかの異常を感じられましたら、素人判断せずに、出来れば大きな病院で調べて貰うなりして、手遅れにならないようにしたいものであります。


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No.851  2008.10.27

親鸞聖人の和讃を詠む-33

● まえがき
『あとがき』に書いておりますが、これから2週間、コラム更新はお休みとさせて頂きます。悪しからず、ご了承の程をお願い申し上げます。

前回の和讃と今日の和讃の中に出て参りました“勢至菩薩(せいしぼさつ)”と言う菩薩様の名に一般の方々はあまり馴染みを持って居られないと思います。菩薩様と言えば“観音菩薩様”を思い浮かべられるのではないでしょうか。
ただ、皆さまも歴史の勉強で学ばれた阿弥陀如来三尊像は、真ん中に阿弥陀如来、向って右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が祭られていますが、観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は智慧をあらわす化身とされていまます。

親鸞聖人は師匠の法然上人を勢至菩薩の化身であると言われたようでありまして、和讃にある勢至菩薩は師匠法然上人を思い描きながら詠まれたのではないかと推察しております。

● 親鸞和讃原文

       濁世の有情あはれみて       じょくせのうじょうあわれみて
       勢至念仏すすめしむ         せいしねんぶつすすめしむ
       信心のひとを摂取して         しんじんのひとをせっしゅして
       浄土に帰入せしめけり        じょうどにきにゅうせしめけり

  ● 和讃の大意
勢至菩薩は五濁の衆生を憐れんで、阿弥陀仏から授かった念仏をお勧めになられた。こうしてその念仏を信ずる人をことごとく摂め取って、浄土に迎え取られたのである。

● あとがき
濁世とは、濁った世の中、嘘偽りの世の中と言うことであります。我が身に照らしてもっと具体的に表現するならば、「自分が一番大切で、自分が得することしか考えない者ばかりが集まった社会」と言ってもよいでしょう。この我が身が救われるには、阿弥陀仏の本願を聞き知って信じる身となり、念仏を称える身となるより外は無いと言うのが、親鸞聖人の和讃の心ではないかと思います。

さて、私は、本日の午前10時から入院しまして、明日、左眼の手術を受けます(水晶体を人口水晶体に入れ替える手術)。眼圧が高く(緑内障)、若干の白内障も有ると言うことです。これまで薬で凌いで参りましたが、視界が徐々に狭くなっており、このままでは左目は光を失うと言うことで急遽手術することになりました。実は、私が通っていた眼科の先生が突然に亡くなられまして、他の医院に行ったところ手術の必要性有りと診断され、大病院で最終判断をして貰うことになりました。そしてやはり大病院の先生も即手術が必要と判断された訳であります。お医者様に依って判断が異なるのは有り得ることだと考えますが、今回の私の場合は左目が失明に至る可能性もありましたから、やはり病気に依りましてはセカンドオピニオンや、サードオピニオンすらも必要なことかも知れないと思ったことでした。

と言う訳でございまして、コラム更新は11月13日までお休みさせて頂く予定でございます。次回は手術のことや術後の事などを報告させて頂きます。


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