No.850  2008.10.23

真実を生きる

仏法は私達を世間で言うところの“人生の成功者”に導くための教えでは無い。「お金儲けがしたい」、「社会的名誉が欲しい、出世したい」「病気を治したい」と言う人は、夫々、経済・経営全般を指南する経営塾や自己啓発塾、或いは病院の門を叩く方が近道である。

真実を生きると云うことは、私達が当たり前にしている毎日の生活の中ではすっかり忘れ果てている真実に立ち返って、生活を根本的に見直すことだと思う。

仏法の教えでよく「この世で確かなことは二つしかない、何でしょうか?」と問われる。答えは『私達は必ず死ぬ』と言う事と『私達は今生きている』と言う事である。なるほど、これに異を唱えられる人は誰も居ない。相手の言うことに悉く異を唱え合う政治の世界の与野党の人々も、これには一致して頷かざるを得ない。

「しかし・・・」、である。この我が身に今起きている、或いは必ず近い将来に起きることが間違い無い事実から眼を背(そ)けて、朝早くから忙しく動き回り、四六時中過ぎ去った過去や未だ来ぬ未来のことに頭を目まぐるしく回転させているのが私達の実態であろうと思う。「今生きているのは当たり前、死ぬなんてまだまだ先のこと、他人事」だからである。

「誰でも死ぬことは分かっている。でも、死ぬことを考えても仕方ない、暗くなるだけのことだ。明るく積極的に毎日を精一杯生きるしか無いのではないか」と言う人も居るが、そう言っている人も、身近な人を亡くしたり、自分が死に直面した時に、我が人生を振り返り、初めて「生とは何か?死とは何か?」を真剣に切実に考え出すのである。考えるだけでも大したものであるが、それではそれまでの人生が惜しい気がするのである。

私達は富を得たいし、出世もしたい、名誉も得たい。この人間の欲望を仏法は否定する訳ではない。しかし、自分の『生の真実』を忘れた人生は無意味だと主張するのである。
それはどうしてなのだろうか。それは多分、『生の真実』が価値判断の規範となれば、この世に生きる者は皆お互いに死を背負った者同士だと慈しみ合う気持ちや、今この瞬間生きているお互いの生命(いのち)を大切にし合おうと言う気持ちに心が支配されるようになり、そしてそういう心に支配された生活をこそ『人生』と呼ぶに相応(ふさわ)しいと考えるのが仏法だからではないかと思うのである。

「この当たり前の真実に目覚めた生活を取り戻せば、本当の人生の成功者になれる」。そう考えるのが仏法だと思う。そしてそのためには毎日僅かな時間を割いて、ナムアミダフツを称えたり、坐禅をしてエゴイズムに陥りがちな頭脳の思考停止を図って、『生の真実、死の事実』を忘れない生活を取り戻しましょうと言うことだと思っている次第である。


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No.849  2008.10.20

親鸞聖人の和讃を詠む-32

● まえがき
紫雲寺さん(リンク先の寺院のお一つ)から今年の永代教法話『愚者になりて、・・・ひとすじの道』が届きました。「愚者になってお念仏を称えましょう」と言うことでありますが、ご法話の中でも仰っていますが、「お葬式やご法事の時に、お仏壇の前でお経をご一緒にあげられても、念仏を称えるとなりますと、皆さん抵抗がお有りなのか、なかなかナムアミダフツとおっしゃらない。」ようであります。

それは「賢き想いを持たれているから」、「自分の頭を頼りに生きて居られるから」だと言うことであります。「自分が賢いとは思っていない。」とは誰しも言いますが、そう云う賢さではなくて、「私達は浄土からこの世に生まれて、やがて浄土に帰る身だ」と教えられても、「お浄土って本当にあるの?何処にあるの?誰も見たことが無いし、死んでしまったら何も分からないから、そこがお浄土かどうかも分からないのではないか・・・」等と、自分の知識や思考能力・想像力に合わないものはとても信じられないと言う賢さ(?)を誰しもが持っています。私は人一倍その『賢き想い』が強く、「愚者になりて念仏を称えなさい」と言う言葉にすら抵抗を感じてしまいます。

「愚者になりて」と云うことは多分「いろいろな計らいを捨てて」と云うことだと思います。それを親鸞聖人は、今日の和讃で、『智慧の念仏』と申されています。智慧の念仏とは、宇宙の真理・真実に頭が下がって称える念仏のことではないかと思います。

● 親鸞和讃原文

       無碍光仏のみことには       むげこうぶつのみことには
       未来の有情利せんとて       みらいのうじょうりせんとて
       大勢至菩薩に              だいせいしぼさつに
       智慧の念仏さづけしむ       ちえのねんぶつさずけしむ

● 和讃の大意
無碍光仏、すなわち阿弥陀仏が仰せられることには、未来の末法五濁悪世の世に生まれる衆生を浄土に救いとっていくために、大勢至菩薩に智慧の念仏(仏になるための覚りの念仏、すなわち他力の信心にもとづく念仏)をさずけたのである。

● あとがき
今年のノーベル物理学賞に、日本人3名が選ばれましたが、その受賞理由とは、宇宙の始まりは物質の最小単位であるクオークと言う素粒子が、それまで3種類だと考えられていましたが、6種類存在することにすれば全て説明が付くことを発見したことだそうです。人類はすごい頭脳を持っていると思いますが、でも、人類には分からないことが現在でも余りにも多いのです。さすがの人類も、その現代科学を総動員しても単細胞の生命すら生み出すことは出来ません。生命は生命からしか産み出せないのです。

私は一分野の発明・発見を目指している技術者ですが、自分が考えた通りの実験結果にはならない事が殆どです。ノーベル賞の受賞技術も、殆どが偶然の結果や偶然の現象を見逃さなかったからこそ偉大な発明・発見に結び付いたものです。

宇宙の真実は人間の思考をはるかに超えたものであります。その人間の知恵の限界を知らしめられて称える念仏を親鸞聖人は『智慧の念仏』と仰ったのだと私は思っています。まことに残念で歯痒いのですが、私はまだまだ私の知恵を信じる愚者でしかありません。


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No.848  2008.10.16

私の仏法現世利益論

親鸞聖人の和讃の勉強コラム『親鸞聖人の和讃を詠むー31』で、親鸞聖人の現世利益(げんせりやく)のメニューをお示ししましたが、最近読んでいる茂木健一郎氏の著書を読み始めまして少し齧(かじ)り掛けている脳科学と結び付けて、私なりに仏法の現世利益を考えて見ました。『仏法現世利益論』と大袈裟な表題を付けましたが、大したことはございません。気楽にお読み取り下さい。

仕事におきましても、勉強におきましてもやる気を起こさせるのが『ドーパミン』と云う快感を増幅する神経伝達物質が脳内に大量に分泌される時だそうであります。人間の神経の中に、脊椎近くにある腹側被蓋野  A-10(エー・テン)と呼ばれる  という原始的神経核からはじまって、高度な人間らしさを司る前頭葉まで達している神経路(快感神経系と呼ばれています)があるそうですが、この快感神経系のスイッチを入れるのがドーパミンで、このドーパミンはA-10神経系で作られると云うことであります。

この快楽神経系が興奮すると、ヒトは快感を感じ、身体の動きが活発になり、ユーフォリア(多幸感。ハイな感じ)を得ます。ドーパミンを過剰に消費するようになると、幻覚や幻聴、妄想などが生じるようになり精神分裂病によく似た症状が出てきます。ドーパミンは覚醒剤ととてもよく似た構造を持つので、覚醒剤を使用するとドーパミンが放出された時と同じような「ハイな感じ」を得ることになります。覚醒剤依存がやがて精神分裂病によく似た症状を来すのも、ドーパミンの過剰消費と同じ原理だそうです。

このドーパミンは、例えば、一生懸命考えていた問題がやっと解けた時、「やった!出来た!」と小躍りしたくなる時があります。この時、脳の中にドーパミンが分泌されます。ドーパミンが分泌されますと、快感神経のスイッチが入り、もっと快感を得たいと思うようになり、また別の問題を解きたくなります。これがやる気として自分も感じ、他人の目にもやる気がある姿勢として目に映るのだと思います。

このドーパミンと、仏法の話しを聴いたり、考えたりする喜びは大いに関係しているのではないかと私は考えました。法悦と言う言葉があります、また悟りの瞬間を禅の世界では「手の舞い、足の踏むところを知らず」と申しますが、それは神経伝達物質ドーパミンの大量分泌の瞬間でもあるのではないかと思います。

私はそのような法悦の瞬間も、悟りの瞬間も経験したことがございません。しかし、例えば、私がこの無相庵コラムを8年間も書き続けられているのは、私の脳が仏法を常に考え、常にドーパミンが分泌されて、仏法のことを考える喜び、仏法のことを書く喜びが持続しているからではないかと、茂木健一郎氏の著書を読んで考察してみた次第であります。

ドーパミンは、自分に出来そうもないあまりにも難しいことに挑戦しても分泌されないそうです。また逆に「誰にでも簡単に出来ることを続けても脳は喜ばず」、従ってドーパミンは分泌されないそうであります。本能のままに遊び呆けても、人間の奥底の気持ちでは嬉しくないのです。徹夜麻雀しても、吾を忘れてパチンコをしてもドーパミンは分泌されないということであります。また、仏道修行で申しますと、お釈迦様が捨てられた難行苦行も、ドーパミンを分泌するには程遠い修行だったのではないかと想像しております。

宗教団体に入信して、お金を寄付したり、早起き会に参加して、病気が治ったり、商売が繁盛したり、社会的地位が上がれば、それも瞬間的には嬉しいことかも知れませんが、本当の喜び、或いは法悦、或いは親鸞聖人が仰られた現生利益を味わえるのは、常に仏法の話しを聴いたり、この世に生まれて来たわけや目的を考えたり、仏法を語り合う仲間と交流したりして、脳内に大量のドーパミンが溢れかえる日常生活の中にこそではないかと思います。

これから、もう少し脳科学を勉強してみたいと思います。そして、自分の経験と自分の言葉で『脳科学と仏法現世利益論』を書き残したいものです。今まさにドーパミンが分泌しているのかも・・・。


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No.847  2008.10.13

技術開発成功記念日

先週の木曜日から土曜日にかけまして、私達夫婦は親友の定年退職記念旅行に招待して頂き、大山・皆生温泉に二泊三日の旅行に行って参りました。何年振りかの旅行でしたが、親しい友人ご夫婦と私達夫婦の四人だけの楽しい旅行でした。夫婦同士で旅が出来る間柄に恵まれたこと、一生の宝だと思っております。

その旅行から帰って直ぐに、5月以来取り組んでいる製品開発の為の研究試作を行いました。これまで半年の間に合計8回の試作を繰り返し、今回は9回目の試作でした。そして、昨日の10月12日(日曜日)、9回目にして漸く目標としていた品質に達したことが確認出来ました。

これから技術確立の為にやらねばならない研究や、商品化の為に必要な量産技術の確立など色々な仕事が残っておりますが、今回開発した技術は世界的にも確立した例はなく、この技術は世界の企業に売れると考えており、永年の苦労が漸く結ぶのではないかと興奮しているところです。

記念旅行直後の10月12日は、技術開発成功記念日として、記念旅行と共に多分一生忘れてはならない記念日として、この無相庵コラムに記しておきたいと思いました。


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No.846  2008.10.9

宗教と科学に関する一考察

今年のノーベル賞に物理学賞、化学賞合わせて日本人科学者4名が選ばれた。物理学賞、化学賞の同時受賞は初めてではなく、6年前の小柴昌俊氏と田中耕一氏に次いでの受賞である。物理学賞は素粒子に関するものであるが、素粒子に関して“ウィキペディア(Wikipedia)”では、『物理学において素粒子(そりゅうし)とは、物質を構成する最小の単位のことで、最小の単位であるということは、それより小さな存在がないということであり、従って内部構造を持たず空間的な大きさを持たないとされている。現在のところ物質を構成する素粒子と考えられているものはクォークとレプトンと言う2種類で、これらに内部構造が存在することが発見されれば、その内部構造を構成するもののほうが素粒子と呼ばれ、クォークやレプトンは素粒子ではないということになる。』と説明されているが、物理が苦手な私には素粒子の概念は理解出来ても、それが原子や分子、そして我々の眼に見える物質にどのように繋がって来るのかとなると、もう全く分からない。

ただ、今回受賞となった素粒子論が、宇宙がどうして出来たかを解明する上で無くてはならない基礎的論理だと言うことを聞くと、科学も宗教と同じく、私達人間の存在理由に関わる宇宙の真理・真実を追究しているものなんだなぁと再認識したところである。

アインシュタインが、「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。」と言ったように科学と宗教を別物と考えるのが常識的であるが、私は科学も宗教も(哲学も含めて)人間の脳内で行なわれる知的活動である限り、別物ではないと思っていたので、宇宙の真実に挑戦した結果に関する今回のノーベル物理学賞受賞に関して、これまでに無く心動かされたのである。

勿論、宇宙の真理・真実を求めるアプローチの仕方は、科学と宗教では全く異なることは間違いない。科学は何らかの手段で人間が存在や現象を知覚できなければ公には認められない。聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚で誰もが確認出来るものでなければ、真実とは認められないのであるが、宗教や哲学では、聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚を或る一瞬に過去の感覚も含めて統合して、全ての現象や存在の意味を瞬間的に「これはこの故にこうなった」と頭脳・感覚が総動員して納得したことが真実であり真理なのである(これを『信』とか『悟り』と言うのだと思う)。だから、過去に同じ感覚を共有していない者には、その真実や真理を理解することは出来ないのである。

科学も宗教も頭の中の知的活動だと私は言った。それは、信仰も、日々新しい発見がなければならないと思うからである。法話を聞いて「はいそうですね」と言うのでは、信仰ではないと思う。親鸞聖人の言葉を理解し頷くだけで終わってしまうとしたら、それは信仰とは言えないと思う。親鸞聖人を崇め奉り、親鸞聖人の言葉の意味を知っても、それは信仰ではないと私は思っている。親鸞聖人の言葉を超えて、自分自身が自分なりの宇宙の真実・真理を発見して行かねばならないと思う。信仰にも創造性が必要だと言うことである。

今回の物理学賞は、南部先生の理論を小林先生と益川先生が実証したと言うことだと思うが、仏教も、お釈迦様から龍樹菩薩や天親菩薩、そして各宗派の祖師方へと進化して来た。過去に学ぶと共に、過去を越えて新しい息吹を仏法に吹き込んでいくのが、私達の使命ではないかと思っている次第である。


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No.845  2008.10.6

親鸞聖人の和讃を詠む-31

● まえがき
親鸞聖人が七高僧として挙げられているその第一番目の龍樹菩薩(西暦2、3世紀の南インドの僧)が、仏道には難行道と易行道の二つの道があると説かたそうであります。私の推測ですが、難行と易行の考え方はお釈迦様が数年間に亘って為された山中での難行苦行を捨てて山を下りられ、ガンジス川の支流ナイランジャナー川【尼蓮禅河 (にれんぜんが)(現リラージャーン川)】畔にあるブッダガヤー ( 仏陀伽耶)の菩提樹の下で沈思黙考され、暁の明星を観られて悟りを開かれたと言う言い伝えから考え出されたものではないかと思います。従いまして、易行とは容易(たやす)く楽な修行を意味するのではなく、難行を否定する意味で用いられた言葉であろうと思われます。それは丁度、他力に対して自力と言う言葉が生まれた経緯と同じだと私は推測しています。

本願を信じると云うことが決して容易(たやす)いことではないことは、親鸞聖人ご自身が、『本願を信じることは難中の難であって、これ程難しい事は無い』とまで仰って居られることからも分かります。決して、念仏を称えればそれで良いと云うことでは無いと思います。何の訳も謂(いわ)れも知らないままに、呪(まじな)いのように「ナムアミダブツ」と称えても、何の功徳も利益(りやく)も身に起らない事は、科学的に考えましても至極当たり前のことではないかと思うからです。

しかし本願の謂れをお聞きして自然に信じせしめられましたら、その時には念仏も自然に称えるようになりましょうし、功徳も利益もこの身に生じるのではないでしょうか。それが、私がお聞きして来た親鸞聖人の教えであります。

しかしその利益(りやく)と言うものも、私のような煩悩熾盛の人間が追い求めている幸せとは全く趣を異にするものであります。その利益に付きましては、親鸞聖人が『現生十種の益(やく)』と言う表現で記されていらっしゃいますので、“あとがき”の中で、インターネットの或る仏教サイトから引用させて頂きご紹介したいと思います。

● 親鸞和讃原文

       五濁悪世の有情の        ごじょくあくせのうじょうの
       選択本願信ずれば        せんじゃくほんがんしんずれば
       不可称不可説不可思議の    ふかしょうふかせつふかしぎの
       功徳は行者の身にみてり    くどくはぎょうじゃのみにみてり

● 和讃の大意
五濁悪世と云われる末法に生まれた私達衆生でも、仏様の本願を信じることさえ出来たら、人智が及ばない功徳がその本願を信じた者の身に充満するとお聞きしている。罪悪深重・煩悩熾盛の私親鸞は他力の御働きに依って、実に有り難い教えに出遇えた。報謝の念仏を称えるばかりである。

● あとがき
和讃の中に『功徳が信者の身に充満する』といわれていますが、その功徳とは、現生不退と言う利益と浄土に生まれて仏としての仏果を得ると言う功徳ですが、現生不退の利益は、『現生十種の益』として、親鸞聖人が教行信証の信巻の末尾で、次の様に言及されています。

これより引用ー

(『教行信証』信巻)
 金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。  一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには 常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

現代語訳
 金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに、五悪趣・八難処という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を越え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。十種とは何かといえば、一つには、眼に見えない方々にいつも護られるという利益、二つには、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、三つには、罪悪が転じて善となるという利益、四つには、仏がたに護られるという利益、五つには、仏がたにほめたたえられるという利益、六つには、阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、七つには、心によろこびが多いという利益、八つには、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、九つには、常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益、十には、正定聚に入るという利益である。

ー引用終わり

お読み頂ければお分かりになられるように、信心を獲たとしても、望み通りにお金儲けが出来ると言うものではありません。社会的地位が恵まれると言うわけでもありませんし、災難に遇わなくなると言うものでもありません。しかし、諸仏に護られて、歓喜に満ちた人生が始ると言うことだと思います。どんな歓喜に満ちた人生かは、真実の信心を獲て初めて体感出来ることだと思います。

私には説明出来ませんが、親鸞聖人の人生や直接ご指導頂いた井上善右衛門先生や、そのご師匠であられる白井成允先生の人生、そして我が母親政子の人生は、様々な苦難や問題にも出遇いながらも、まさに仏様に護られ、仏様の本願の中で生き抜かれた人生であったと容易に推測出来ます。私はそのような生きた手本を知り得たことを不可称不可説不可思議の出来事だと実感し、これこそが本願の御働きであると慶びを感じているところであります。


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No.844  2008.10.2

生きる目的(京セラ稲盛会長のお話)

稲盛和夫氏は1兆2000億円の売上高を誇る京セラグループの創業者です。1932年生まれ(鹿児島)でありますから、私よりも13歳年上の当年76歳です。稲盛氏は昭和34年弱冠27歳でセラミックスを製造する会社を設立されました。昭和34年と申しますと、現天皇陛下と美智子妃のご成婚の年でもあり、日本の高度経済成長期の幕が開いた絶妙のタイミングに船出され、しっかりした経営哲学を確立しつつ実践され成功された方ですが、65歳で京都の臨済宗妙心寺派円福寺にて得度を受けられ仏門に入られると言う異色の経営者でもあります。現在、盛和会と言う経営塾を主宰され、若手企業家の指導に当たられているそうであります。

私は、氏の『楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する』と言う処世教訓は、万人向け、そしてあらゆる場面で役に立つ経済生活成功の秘訣ではないかと、自分の過去を反省を込めて振り返りながら感じ入っている次第です。その言葉は、『物事を行うときに取るべき態度を表した言葉。構想を練る段階では、そのアイデアの可能性を引き出せるように楽観的になるのがよい。具体的な計画を立てる段階では、あらゆるリスクを想定し、慎重かつ細心の注意を払って厳密にプランを練るのがよい。実行する段階では、思い切って行動するのがよい。』と言う説明書きが添えられています。
あらゆる場面で役立つと申しましたのは、たとえば、結婚の場合でも、結婚相手を探す時(構想段階)には楽観的に広く求めた方がよいと思いますが、いざ結婚に踏み切るかどうかと云う決断し将来を予測する時(具体的な計画を立てる段階)には、あらゆる可能性(相手に長所はあるが必ず欠点もあることや、育った環境が異なるところから来る意見や見解の相違・衝突が必ず有る等・・・)を排除せずに、決断し、いざ結婚した(実行する段階)ならば、片目を瞑(つぶ)り、楽観的に夫婦関係を樹立して行く方が幸せではないかと思います。 また、私の様に脱サラして起業する場合は、勿論悲観的では起業には至りませんから、楽観的にスタートするはずです。しかし、いざ起業して計画を立てる時は、あらゆるリスクを想定し、その対応策を準備している位でないと成功は夢と消えるに違いありません。しかし、一旦起業した限りはどんなに困難にぶち当たろうとも、乗り越えられるのだと言う楽観的な考え方を持ちませんと、企業の活力は萎えてしまいます。楽観的に構想し、悲観的に(うまく行かない場合を想定して)計画し、必ず成功すると楽観的に計画を実行する。これが経済生活を成功させる教訓だと、私は経験からもそう思います。

さて、その稲盛氏の講演を直にお聞きになられた“まきさん”と言う私のインターネットサイト“mixi(ミクシー)”の友人が次の様な講演内容の紹介と感想を認(したた)められています。「運命は生まれた時から個々に定まっているものなのか?」、「運命とは何か・・・」等などを考え、ひいては『我が生きる目的』を自分の言葉で確めておきたいと思いました。 以下に“まきさん”の文章をそのまま転載させて頂きます。

転載―

ずっと書き溜めていて、なかなかアップ出来ませんでしたが、皆様にもご紹介したいお話がありますので、かなり長いのですが、ぜひ読んでみてください。

先日、京セラ名誉会長、KDDI最高顧問、稲盛和夫さんの講演会に連れて行ってもらいました。稲盛先生は、心を大切にした経営をなされているということで、私は以前より、とても興味を持っていました。今回、有り難いおはからいを頂き、お話を聞かせて頂けました。 どんなお話を聞かせて頂けるのかと、わくわくしていました。

テーマ  『人は何のために生きるのか』

一気に興味が湧き起こりました。私達、仏教を学ぶ者たちが、いつも聞かせて頂き、いつもお伝えさせて頂こうとしていることですから☆ 答えは仏教にしかないような、このテーマを、日本を代表する大企業の稲盛先生が、どのように教えてくださるのか、私は、更にわくわくしていました。
以下、聞かせて頂いたまま、ものすごく細かく書かせて頂きます。

稲盛和夫さんの講演内容

中国に、『陰隲録(いんしつろく)』という古書があります。400年前のお話です。
著者は中国・明の時代に生きた袁了凡という軍人であり、政治家でもあり、学者でもあった人です。その書の中に「運命と立命」を考えさせるお話が紹介されています。

代々医者の家系に生まれた了凡は、医師だった父を早くに亡くし、母子家庭で育ちました。当然、母親は了凡を医者にしたいと思っていました。ある日、南の国で易を極めたという白髪の老人が、その易学を、了凡に伝えろという使命が下ったと言って、やってきました。そして、その老人は、了凡の未来を易学にて予測し、話し始めました。 了凡は、医者にはならない。将来は高級官僚になる。さらに何歳でどの試験に何番目で合格し、どの様な役所に入るか、いずれは、中央の役人になり、最終は地方官長にまで出世し、53歳で死ぬ。また結婚はするが、生涯子供には恵まれない、と占いました。 その後の了凡の人生は白髪老人の占い通りに進み、何度かの試験にパスし、確かに役人としての道を進んでいきました。 やがて、中央の役人を経て地方の官長になりました。結婚はしましたが、子供には恵まれませんでした。

そこで彼は「人間は生まれた時から運命が定まっているのだ。仕事も出世も、すべて運命で決まっていることなのだ。いくらどうあがいても、なるようにしかならないのだ。」と、堅く信じるようになり、それ以来、ああしたいこうしたいというような欲が、なくなってしまいました。

ある日、南京の棲霞山(せいかざん)に雲谷禅師を尋ねた了凡は、禅師と共に座禅を組まれました。座禅を組むその姿勢、雑念もないすみきった心に禅師は驚き、「あなたは、お若いにもかかわらず、よほどの修行をなされたに違いない、これまで、どのような修行をなさっておられたのか?」と、了凡に尋ねました。聞かれるままに了凡は答えました。

「私は、とりたてた修業は致しておりません。ある日出会った易の白髪老人に未来を予測され、 私は高級官僚になる運命にあり、何歳で試験に受かり、何歳で役人になる、結婚はするが、子宝には恵まれない、そして53歳で死ぬ。」と、言われました。
これまでの人生はその老人の占い通りになっています。人間は最初から運命が決まっています。それを知った時、ああもしたい、こうもしたいという欲が無くなってしまいました。ただ、私は自分の運命の命ずるままに、人生を全うしようと思っているので、雑念も無念もありません。」
それを聞いた禅師は、「悟りを開いた賢人かと思ったが、君はなんて大馬鹿者か。運命は備わっているが、運命は変えられるのだ。因果の法則というものがあって、善い事をすれば善い事があり、悪い事をすれば悪い事がある。運命は、自分の行いによって変えられるのだ。」と、教えました。

雲谷禅師に懇々と諭されて、了凡は愕然とし、その後、毎日少しでも善い事をしようと実行し始めました。そして自らの考え方を変え、行いを改めていくうちに、老人の予言そのままだった人生が、変わり始めました。 できないと言われた子供が生まれ、53歳を過ぎても元気でいられました。その自らの人生を、生まれた子供に話し、運命というものはあるけれど、運命は変えられるという事を教えました。

以下も、稲盛先生の言葉です。

一寸先の人生をどうやって生きていけばいいのかと悩んでいた時に、このお話を知り、因果の法則を知りました。そして、運命の命ずるままに生きていく中で、少しでも善い事を思い、善い事をするように生きていこうと誓いました。けれど、もともと技術者であるので、合理的、科学的でなければいけないという心が捨てられませんでした。

優しい人が幸せそうにしていなかったり、悪い人が幸せないい生活をしていたり、そういうものを見て、どうしても因果の法則を信じられませんでした。けれど、簡単に結果が出なくても、すぐに人生が変わらなくても、それは、運命と因果の法則が折り重なっているためであり、長い目で見ると、必ず因果の法則は成り立っていると実感しました。 宇宙には全てのものが幸せな方向へ発展していく為の力があります。全てのものが幸せになるようにという想念があります。これは、仏陀の慈悲のような、キリストの愛のような、この慈悲と愛の想念に波長が合った時に、その法則が助けてくれるのではなかろうか。そう思いました。

けれど、一般大衆の為に、このようなきれい事を言っているけれど、本当は金儲けをしたい、大きな事業に挑戦したいという私心ではないのか、「動機善なりや、私心なかりしか」と、心に問うてきました。そして、どんな時も、この因果の法則を常に心に、幸福な時にこそ、謙虚であること、幸運も、また試練であることを肝に銘じ、人生をまじめに一生懸命生きてきました。

人は生まれてから20歳までの間に、世の中に出る準備をする、そして、20歳からの40年は世の為に働き、60歳からの20年は何の為にあるのかを考え、65歳で、京都の臨済宗妙心寺派円福寺にて得度を受け、仏門に入りました。 死ぬ時、自分の人生を振り返り、自分の行ってきた事、経歴を自慢しても何の役にも立たない。人生、幸せに生きる為には、利他の心、優しい心で生きていく。魂が美しい立派な魂になっているか、自分の魂を磨く為に、この人生がある。これが、生きる目的だと思っています。

以上・・・・・・・

実に感動的なお話を聞かせて頂きました。実際、内容としましては、私は仏教を学ばせて頂いておりますので、常に聞かせて頂き、心に刻み込んでいる仏教の根幹、因果の道理ですので、珍しいお話ではなかったのですが、稲盛先生という方を通して、たくさんの方々に、仏教の根幹が伝わっているということ、今回の講演会でも、2300人という多くの方に伝わったこと、本当に嬉しく有り難く、本当に感動しました。

善因善果、悪因悪果、自因自果

善行をしているつもりでも、実際本当に善なる心でやっているのかと、思い悩む時があります。稲盛先生の仰る通り、私心はないのかと・・・実際、よくよく考えれば、私には何が善なのかさえ分かりません。私心しかないように思えます。それでも、釈尊が説かれた沢山の経典に書かれている言葉を信じ、私の仕事を通して、善行にはげみたいと、 稲盛先生のお話を聞かせて頂いて、また改めて思いました。

「動機善なりや、私心なかりしか」

常に心を正し、因果の法則のもと、自らの人生を自ら選択し、運命を開いていきたいと思いました。

各地で托鉢・辻説法も行っている稲盛先生に、心から感謝し、一人でも多くの方に、稲盛先生のお話をお届け出来ればと思い、今回日記を書かせて頂きました。

―転載終わり

運命は変えられると言いましても、変えられた運命そのものが元々定まっていた運命だと言う言い方も出来ます。でも、現実問題として、日々色々な面で選択を迫られている私達です。あれやこれやと進む道を自分の頭で考えていることも確かでありますから、自分が自分の運命を決めながら人生を歩んでいると言う意識は強いものがあります。従いまして「運命は自分次第で変えられる」と考える方が、積極的な生き方が出来ますので、一般的には「運命は変えられる」と考える方が良いと思いますが、仏教は「全ては縁に依って起る」と考えますので、『人事を尽くして天命を待つ』と言うよりも、『天命に安んじて、人事を尽くす』と言う自然体に私は憧れています。

すなわち、稲盛氏が言及されている『因果の道理』に関して考察しますと、唯識の太田久紀師が「私達が関与できるのは、因だけで、果には力が及ばない」と言うことをおっしゃっておられます。つまり、『因』と『果』の間に最も厄介で人智が及ぶべくも無い『縁』が働きますから、こうすればこうなると言える程に人生は簡単なものではないと私も思います。『因果の道理』と言うよりも、『因縁果の道理』と言う方がお釈迦様のお考えに近いのではなかろうかと考えている次第であります。

さて、テーマであります『人は何のために生きるのか』に付きまして、稲盛氏は『人生、幸せに生きる為には、利他の心、優しい心で生きていく。魂が美しい立派な魂になっているか、自分の魂を磨く為に、この人生がある。これが、生きる目的だと思っています。』と結んで居られます。これは稲盛氏が求められた仏門が臨済宗であったことと無関係ではないと思われますし、一般の人々に受け容れられやすい『生きる目的』だと思いますが、“まきさん”や私が敬愛している親鸞聖人の人生観とピッタリ一致するものではありません。美しい立派な魂に磨き上げたいと切に希望致しますが、到底そのような魂では無いことに気付かされる瞬間が仏に遇うことではないかと考えます。そう云う仏に出遇う事が生きる目的だと私は考えています。

まきさん、転載を快くお認め下さり、まことに有難うございました。


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No.843  2008.9.29

続ー私には政治家の資質は無い、しかし・・・

今日は、大事な研究開発の試作が朝早くからあり、コラム更新が遅くなってしまいました。朝からアクセスして頂いた読者殿には大変申し訳けなく思っております。 さて、前回のコラムを補足しておく必要を感じましたので、続編を書きました。

私に政治家の資質が無いことは確かなのですが、前回の内容では、政治家は非情で無責任な者にしか務まらないから私には資質が無いと考えていると受け取られても仕方が無いと思い直しました。昨今の政治家にそう云う面があると感じておりますが、国家に取っても又我々の生活にも政治家と言う立場の人間は必要です。トラブルの無い安心・安全な生活を、法律を作ることによって我々に保証してくれるのが政治家の役割だと思うからである。

ただ、政府は国会で成立した法律の施行を官庁の役人組織を使って行なわねばならない。そして本当は国民全員が満足するように運営すべきであるが、多分人材と能力に限界があるのだろう。従って首相になった者は、歴史的に評価される何某かの成果を残したいと考えるからであろうが、どうしても日本が抱えている色々な問題点に優先順位を付けて、問題解決に注ぐ力の配分を考えざるを得ないのだろうと思う。

極最近引退を表明した小泉元首相は、就任当初、不良債権処理をして金融機関を立ち直らせ、企業を金融面で支えて景気回復を図ろうと云う考えであったろうと思うが、確かに大企業は息を吹き返したが、大企業は賃金コストの低い中国に生産機能を移管して行ったために、雇用は拡大せず、サラリーマンの80~90%を占める中小零細企業に仕事が廻らず、賃金の上がらなかった国民の多くは消費を手控えざるを得なかった。結果的に国民感覚としての景気は快復しなかったのである。これは小泉・竹中ペァの誤算だったのではないかと思う。

小泉元首相の最優先課題は景気回復に依って、疲弊した国民の生活をより良くすることであったと思うが、中国ファクターの重要性を読み違ったのではないかと思う。中国の低賃金対策として、派遣労働法を改訂し労働力の流動性を高めようとしたが、これも非正規雇用者を増やし、結果的には賃金格差を生み出し格差社会を現出させてしまったのではないかと思う。

政治家には的確な優先順位を付けられる能力と、実行して結果を評価し適宜施策を改良して行く柔軟性が求められるのだと思う。そう云うことになると、私にはそんな能力は無いことがますますはっきりしたので、やはり政治家の資質は皆無である。

今年中には行なわれるであろう衆議院総選挙では、私に代わってその重要なしかも難しい役割を担ってくれそうな政党と政治家を選びたいと思っている。そして、私はやはり身の丈に合った、一隅を照らせる人でありたいと思っている次第である。


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No.842  2008.9.25

私には政治家の資質は無い、しかし・・・

麻生内閣がスタートした。今回も政治家二世の首相である。少なくとも、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生と7代連続の二世首相の誕生である(森首相の父、祖父は衆議院議員ではないが、いずれも町長だった)。はっきり世襲ではないのは、私の知る限りでは田中角栄首相、中曽根康弘首相であるが、その子達もやはり大臣を務めているから、要するに政治家は世襲するだけの魅力があると云うことではないかと思う。

考えて見れば、人間の代表的欲望である財産欲と名誉欲、場合に依っては色欲も一気に満たされる可能性が最も大きい職業が政治家だと思えるので、世襲は当たり前だと考えるべきであろう。 政治家が栄えて農民・庶民は冷や飯さえ食べられないと言うのが現代の日本だと言っても過言ではないだろう。そして、政治家を操って、農民・中小零細企業や商店のサラリーマンが納めた税金を思うように分配して悠々自適に生活しているのが役人達であり、日本が役人天国と言われる所以である。

庶民を代表して愚痴を吐かずには居られないのである。「愚痴を言う前にお前が政治家になれば良いではないか」と言う声が聞こえて来そうであるが、私にはとても政治家は務まらないと思う。 生真面目だけど気が小さく、責任感は強いが企画力・実行力・統率力が伴わない私は、日本が抱える多くの問題を前にして立ち往生してしまうに違い無いからである。

この5年間なかなか進展しない拉致問題、拉致被害者家族の苦しみと歯痒さを思うと、私が首相なら、たとえ無責任と言われても1週間も持たずに辞任するだろう。毎年3万人を超す自殺者が出続け、家庭教育、学校教育に多くの問題があって地域社会が崩壊し、様々な傷ましい事件が頻発し、結婚さえ出来ない非正規雇用の独身者が増え続けている日本社会、老々介護の老人家庭が増え、年金も受け取れるかどうか分からない社会保障が崩壊しつつある日本の現状を思うと、もし私が首相なら一日として眠りには就けず、如何に無責任と言われようとも即刻辞任せずには居られないだろう。

そう思う時、様々な問題を抱えつつも5年間政権を投げ出さなかった小泉首相を簡単に辞任しない責任感の強い政治家だったと評価すべきなんだろうかと思う。本当に国民の顔が見える首相ならば、自分の力不足を恥じて辞任するのが・・・否、元々首相の座に坐ってはいけないのではないかと思う。

そういう私の甥も実は政治家を目指している。東大を卒業し一流商社マンを経て、この度野党から立候補するのであるが、苦労していないだけに当選は難しいだろう。東大卒のプライドも捨て、地面に這い蹲(つくば)って、庶民の顔の一つ一つが票に見えるのではなく、庶民の顔からその生活感を読み取れるようにならないと当選は出来ないし、政治家になっても国家の役に立つことは出来ないと思う。親族として当選を祈ってはいるが、本当の政治家になるためには挫折感を味わってからの方が良いのではないかとも思っているところである。

本来政治家の役割・使命は、国民の財産を守り、命と生活を守ることにある。政治家にならなければ、国そのものを変えることは出来ない。本当は最も尊い仕事であるし、遣り甲斐のある職業だと思う。しかし、自分の名誉と財産を獲得し守ろうとする者が政治家になっているところに、日本の不幸があるのだと思う。日本だけではないだろう。世界の不幸は世界の政治家が志を失ってしまっているからではなかろうかと思う。

散々愚痴を言って来たが、私が愚痴をどれ程並べても日本は変わらないだろう。私は政治家にはなれないから、多くの弱者を助けたり、守ったりすることは出来ない。しかし、自分の周りで困っている人の助けになることは出来そうである。無相庵ホームページを通して、或いは親族・知人との付き合いの中で、自分の能力の範囲で、人の役に立ちたいと思う。その輪が広がれば、もしかしたら日本は変わるかも知れないとも思うのである。


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No.841  2008.9.22

親鸞聖人の和讃を詠む-30

● まえがき
福岡の小一男児殺害事件は、最悪の結末を迎えました。当初から母親の経緯説明と現場状況との間に矛盾点が多く、警察もかなり早い段階から母親の事情聴取中心として慎重に捜査を進めて来たようであります。矛盾点の多さと共に、殺害された児童が特別支援学級に通っていたことがインターネット上で流されていたこともあって、早くから母親の犯行を予測している人が多かったようであります。

どんな事情があったにせよ、殺害行為を認める訳には参りませんが、短絡的にこの母親を批判することは避けたいと思います。その人と同じ立場に無い人間が簡単にコメント出来るものではないと思います。かなり前のコラムで、私の孫(現在、1歳10ヶ月の女児)が右手指に障害があることをお伝えしましたが、障害を持つ子を身近に持っていなかった時と現在では、パラリンピックや読売テレビ番組の『24時間テレビ』を見る眼も心も以前とは全く異なっています。そして、一日たりとも、この孫のことを忘れることはありませんし、これから先にこの子が出遇うであろう心の痛みに胸を痛めることもしばしばです。従いまして、私は福岡の事件に無批判なコメントは出来ないのです。

人間には誰しもに夫々異なった苦難が必ず押し寄せて参ります。嬉しいことも起りますが、同じ位に悲しい出来事も起ります。親鸞聖人も、身分の低い貴族一家に生まれ、8歳位の頃に母親を亡くされ、食べていくためにと思うのですが、9歳で比叡山に預けられたようであります。史実として明らかな、85歳前後と言う晩年に起きた長男の善鸞事件と義絶(勘当)は、深い悲しみであったと思います。しかし、親鸞聖人は、今日の和讃に詠われていますように、喜びも悲しみも、弥陀の尊号、すなわちお念仏一つで乗り越えて行かれました。しかし、お念仏で悲しみが消えたのではないと思います。

● 親鸞和讃原文

       弥陀の尊号となえつつ       みだのそんごうとなえつつ
       信楽まことにうるひとは       しんぎょうまことにうるひとは
       憶念の心つねにして        おくねんのしんつねにして
       仏恩報ずるおもひあり       ぶつおんほうずるおもいあり

● 和讃の大意
お念仏も称え、そして他力の真実信を得た人、すなわち行と信が一致している人は、阿弥陀仏の本願を思う心が常に強く、その仏様のご恩に報いたいと思う心が自然(じねん)として湧き上がるものである。

● あとがき
お念仏には歴史があります。七高僧もそしてその他名も無き人々が、喜びにつけ、悲しみにつけ称えられた念仏です。念仏の中に多くの人々の仏恩に報いたいと云う気持ちが入り込んでいます。従いまして、独りで称える念仏も、決して独りではないものに感じるのではないかと思われます。現に、「一人で念仏する時は、二人で念仏していると思いなさい。2人で念仏している時は、三人で念仏していると思いなさい。その一人は親鸞である。」と言い残されたのは確か親鸞聖人ではなかったかと思います。 人間は一人では生きられません。一緒に悲しんでくれる人、一緒に喜んでくれる人が欲しいものです。お念仏は、多分、過去・現在・未来の多くの人との繋がりが実感出来る効用があるのではないかと思います。


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