No.830  2008.8.11

親鸞聖人の和讃を詠む-24

● まえがき
世の中は北京五輪の熱戦に沸き立っています。甲子園もプロ野球も〝置いてけぼり〟状態になりそうです。さすがに無相庵へのアクセス数も激減しております。それこそ仏法どころではないと言うことかも知れませんが、それはそれで自然でよいと思います。世の中の出来事に関心を持たない、世間が沸き立つことに自分は一緒になって興奮することは出来ないと言うのは、病的、異常ではないかと思います。仏教は無感動の人間を育てることを目的としてはいません。喜怒哀楽を否定するものではないと思います。無感動の人間に、人間として生まれて来た感動を味わえるはずがありません。世の中のこと、世の中の動きをよく知り、そしてその世の中を見ている自己を見詰めて真実の自己を発見する立場でありたいと思います。

『廻向』と言う熟語も仏教のお話にはよく出て来ます。元々は「自分の修めた功徳を他に回(めぐ)らして、自他共に仏果を成就しようと期する意」であると広辞苑で説明されていますが、世間一般では、「仏前で読経するなどの仏事を行うこと」として使われているようであります。広辞苑にはさらに「弥陀の功徳を回らして衆生の極楽往生に資すること」とも説明されていますが、今日の和讃に使われている『廻向』は阿弥陀仏の本願力、即ち本願他力を意味するものであります。

そして、二種類の廻向と云いますのは、往相廻向、還相廻向と云われるものでありまして、自分自身が信心を獲る(悟りを得ること)ことを往相、そして自分が信心を獲るだけに止まらず、他の人々にも信心を獲て貰いたいと云う働きに還ることを還相と云い、それらは自分の力ではなく、仏様からの働きに依るものであると云う考え方であります。

● 親鸞和讃原文

       如来二種の廻向を      にょらいにしゅのえこうを
       深く信ずるひとはみな     ふかくしんずるひとはみな
       等正覚にいたるゆへ     とうしょうがくにいたるゆえ
       憶念の心はたへぬなり    おくねんのしんはたえぬなり

● 和讃の大意
阿弥陀如来の往相と還相の二種の廻向を深く信じる人は、皆正定聚(仏となる身に決定した位の人びと)の仲間入りをするから、如来の本願を憶念する心が持続して絶えることがない。

● あとがき
日本の浄土門の宗派には浄土宗と浄土真宗があります。浄土宗と浄土真宗との間に教義上の違いがあるかどうかは学者でもない私は存じません。深く研究していない私だから言えるのかも知れませんが、歎異抄に法然上人のご信心と親鸞聖人のご信心の間に何の違いも無いと云う件(くだり)がありますので、もし現在の浄土宗と浄土真宗との間に教義上の違いがあるとされるならば、後の世の学者達が作り上げた、我田引水の差別化ではなかろうかと思います。

浄土宗は肉体が滅んでから浄土に往生し、浄土で修行してから成仏すると言う体失往生(死なないと往生はしないと言う考え方)を説き、浄土真宗はこの世で信心を獲て現生正定聚と言う往生が確定した身となり、肉体が滅ぶと同時に浄土往生し即成仏すると言う不体失往生(生身のままで往生への道を歩み始めると云う考え方)を説くのだと主張する立場があるようです。

浄土門以外の宗派は浄土往生と言う考え方を取らずに、生身のままで仏に成る(悟りを開く)道を説きます。苦悩に喘ぐ私たち衆生が苦悩から解放されなければ宗教の価値は無いと言う考え方からしますと、親鸞聖人が『現生正定聚』と言う、生身のままで往生が確定する身となれると考えられたことは、清僧ではなく肉食妻帯された唯一の祖師だからこその如来の還相廻向の証しではないかと思います。


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No.829  2008.8.7

仏法どころではない

先月の21日から福岡在住の娘と孫二人が帰省している。孫は4歳の男の子と1歳7ヶ月の女の子である。
「二人のお孫さんと一緒でいいですね!」と言ってくれる人が居るが、料理担当の私は買い物の量も料理時間も増えているので少々負担が掛かっている。それに、この年齢の子ども、特に1歳7ヶ月の女の子は何をするか分からないので瞬間も目が離せない。しかし、瞬間的に目を離すことがあるので、何回か石造りのリビングテーブルの角で頭を打って号泣されている。そういう慌しい日々が続いているのであるが、それに加えて7月から開発研究の山場を迎えており、土日の研究試作で体も頭も忙しい、そしてその上に塾の先生もしなければならないので、目まぐるしく落ち着かない日々なのである。

こうなると正直、仏法どころではない。今朝も只今6時15分。これから朝食の用意に掛かる前の40分を利用してこのコラムを書いているところであるが、もし、月曜・木曜の無相庵コラム更新がなければ、私の頭から仏法は完璧に何処かに飛んで行ってしまっているはずであり、慌しい時間がただただ過ぎ去って行くだけの生活になっていたであろうと思う。

そうなるに違いない私を仏法から離れられないように、ちゃ~んと仏様の方が智慧を働かせて、無相庵コラムを与えてくれているのだと思うのである。ずっと仏法ではない、今は仏法のことが頭をかすめるのは瞬間的ではあるのだが、その一瞬が有ることが有り難いのだと思っているところである。

それから蛇足ではあるが、私も31才の頃、3歳の男の子と1歳半の女の子の父親であった。妻が大変な目に遭っている居ると云う認識はあったので、妻と子供の姿を見て「地獄絵図やなぁー」とよく言っていたのであるが、当時企業戦士と云われていたサラリーマンの私は早朝から深夜までの勤務があったので、本当のところは分かっていなかったと今は思う。今、1日中娘と孫との関わり合いを見ていてやっと本当にこの年齢位の子育てはまさに『地獄絵図』であることが分かった。そして、私も当時はサラリーマンとして苦しい日々を送って居たが妻も本当に本当に大変だったんだと云うことが30年経って漸く分かり、自分のことしか考えていなかったなぁーと反省しきりである。そして、人間体験しなければその人の立場を本当には分からないのだと改めて経験の大切さを知らされた思いもしているところである。


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No.828  2008.8.4

親鸞聖人の和讃を詠む-23

● まえがき
浄土門の教えに『海』と言う漢字が使われています。よく出て来る『難度海(なんどかい)』『苦海(くかい)』は私たち凡夫の苦悩に満ち満ちた娑婆世界を表わす熟語です。そして『本願海(ほんがんかい)』はあらゆる衆生を救い取りたいと云う仏の智慧と慈悲が溢れている世界を表わす熟語で、今日の和讃で使われている『智願海水』は『本願海』を言い換えたものであります。

他力と自力に付いて考えますとき、私は海で浮く人と沈む人の違いを思い浮かべます。海には、人を浮かせようとする浮力が自然の力として働いています。ですから、海に自分の心身を預け任せますと難なく浮き上がりますが、自力で浮こうとしてモガキますと沈んでしまいます。浮力を信じ、海を信じますと海の方が私の体を持ち上げてくれると言う訳であります。

仏教の『本願海』も全く同じだと思います。娑婆世界には私たちを救い取ろうと云う『本願力(ほんがんりき)』が常に働いています。それを信じれば救われると言うのが浄土門の考え方だと思いますが、これは禅宗も全く同じだと私は思っています。自分が本願力を信じたから悟りが開けたと考えるか(禅宗の立場)、本願力を信じられたのも本願力の働きに依るものだと考える(浄土門の立場)かの違いだけだと思います。
親鸞聖人は勿論後者の立場を取られまして、今日の和讃をお詠みになられました。

● 親鸞和讃原文

       弥陀の智願海水に      みだのちがんかいすいに
       他力の信水いりぬれば    たりきのしんすいいりぬれば
       真実報土のならひには    しんじつほうどのならいには
       煩悩菩提一味なり       ぼんのうぼだいいちみなり

● 和讃の大意
弥陀如来の本願海のなかに信心の水が流れ入るように、われわれが弥陀の本願を信じたとき、真実の報土(阿弥陀仏の浄土)の持つ自然(じねん)の働きによって、その浄土に往生することができ、煩悩がそのまま悟りに転じ、煩悩即菩提の平等一味の悟りを得させてもらうことである。

● あとがき
本願力と言う力が本当に働いているかどうかは、その人が感じ取るものですから言葉で説明しても分からないかも知れません。母親の愛情も同じだと思います。母親の子供に対する様々な愛情の仕草と言う働きを通して、子供は母親の愛情を確信するのであります。本願力も、例えば私がこの無相庵コラムを書かずには居られないと言う事実に顕れているのではないかと私は感じ取っていますし、その他にも色々と本願力を感じずには居られません。

『南無阿弥陀仏』と言う名号も本願力が具体的な形として顕れ、私たちに与えられたものであると云うことだと思いますが、私は未だ未だそこまでは至っていない。


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No.827  2008.7.31

取敢えず3000本安打達成おめでとう!

更新ミスをしました。ご迷惑をお掛けしたものと存じます。済みませんでした。

昨日のアメリカ大リーグの試合でイチロー選手が日米プロ野球で産み出した安打数が3000本となった。日本では二人目、アメリカでは28人目の大記録である。そのイチロー選手の人となりが出ている達成した後のコメントを二つ紹介しておきたい。

一つ目は「アメリカ人の中には〝日本での記録なんて〟という声が絶対あると思う。でも申し訳ないけど、アメリカでのヒットのペースの方が速い。〝日本のレベルの方か高いんじゃないの〟と言い返したい」である。日本のプロ野球界を代表して大リーグに挑戦している彼の真骨頂が顕れているのではないかと思う。いよいよ応援したくなる。

二つ目は、表題にある「取敢えず3000本安打達成おめでとう!」と言うアナウンサーの祝辞に対してのコメント、「〝取敢えずは〟止めて欲しいですね・・・」である。取敢えずと言うアナウンサーの枕言葉に反応したイチロー選手に彼の物事に厳格な一面を見た想いである。3000本はイチロー選手にとっては通過点にしか過ぎないと言うアナウンサー氏が尊敬の念を込めて気持ちを表わしたのであろうが、やはり、取敢えずと言うには重たすぎる3000本であるし、その3000本を産み出すための努力の日々を〝取り合えず〟で片付けられてはイチロー選手も抵抗を感じたであろうと思う。

イチロー選手は中学での学業成績も大変優秀で高校進学の時に学問とスポーツの両立を周りから勧められたそうであるが、彼は両立は中途半端となりどちらも死んでしまうとして、迷いなく野球を選択し野球の名門高愛工大名電高校に進学しそれからは野球一筋である。

多くの成績優秀な中学のスポーツ少年が迷うところスパッと選択したところにイチロー選手の非凡さがあると言えるだろう。成績優秀でその後東大へ進学したところで、その人が持てる能力の限りを発揮するのは難しい。多くの人は社会の片隅でそれなりに幸せな人生を送るであろうが、素質と言う華を咲かせないまま終わると言うのは言い過ぎであろうか・・・。

イチロー選手の仕事はたかが遊びの野球ゲームの中のものであり、人類の歴史の中での価値を評価しない向きもあるかも知れないが、私は学問やビジネスだけが人類の価値を生み出しているとは言えないと思う。科学技術が発達して人類が失ったものは同じ位あると思う。スポーツでも芸術や芸事でも、そしてお笑いの世界でもその人に与えられた素質をそのまま開花させることが最も大切な人生の価値だと思う。

浄土教の経典に『青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光(しょうしきしょうこう、おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう、びゃくしきびゃっこう)』と言う言葉がある、存在夫々に異なる光があると云うことである。全ての存在が同じ光を放つのはつまらないのである。
イチロー選手の快挙に、阿弥陀経の言葉を思い出した次第である。


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No.826  2008.7.28

親鸞聖人の和讃を詠む-22

● まえがき
先週の月曜日から福岡に住む娘が子連れ(男児4歳と女児1歳7ヶ月)が帰省しており、土曜日から日曜日に懸けては長男の家族を加えた食事会も催したりと、研究開発仕事のピークを迎えている主夫の私には超忙しく心身共に余裕の無い一週間でありました。でも一方、孫5人を含む総勢10人で食事会を我が家で開ける現状を本当に有り難いことだと感謝しなければならないと妻と話しているところです。

今日も、朝から朝食の準備と開発試作、そして小学生6年生を教える塾を終えて、漸くコラム更新する為にパソコンに向ったところです。折りしも凄い雷鳴が轟いています。まるで家の真上に雷が居座っているような感じがする午後3時です。

多分落雷に依るものと思われますが、午後3時過ぎから電話が不通になり更新が大幅に遅れました。

● 親鸞和讃原文

       如来の廻向に帰入して    にょらいのえこうにきにゅうして
       願作仏心をうる人は      がんさぶっしんをうるひとは
       自力の廻向をすてはてて   じりきのえこうすてはてて
       利益有情はきわもなし     りやくうじょうはきわもなし

● 和讃の大意
阿弥陀仏の大悲の恵みに依って仏になろうとする人は、自力にすがる気持ちが無いから、衆生を利益すること、数限りないのである。

● あとがき
浄土門は自力を否定します。これは単に悟りを開く上でのことだけであり人生全ての面での自力を否定する教えではないと云う見解を述べる方もいらっしゃると思いますが、私は親鸞聖人のお考えはそうではないのではないかと考えています。

私たちは生まれて以来大体の人は「自立しなさい」とか「他人に頼らず自分の力で進みなさい、歩みなさい」と教育されて大きくなったものと思います。直ぐ他人に頼るのは「依存心が強いよ!」と叱られたものであります。そういう教育を受けて育った訳でありますから、他力を強調する浄土門の教えに人気が出ようはずがありません。

世間一般では、「プロ野球選手になりたい」とか「大リーグで活躍したい」と自分が考えて自分が頑張るからプロ野球選手や大リーガーになれるのであって、他人任せでは何にもなれないではないかと云う事を言われる方もいらっしゃいます。確かにその通りです。自分がプロ野球選手になろうと思わないとプロ野球選手にはなれないでしょう。自分が大リーガーになろうと思わないと決して大リーガーにはなれないでしょう。しかし、自分がそう考えただけでなれるものではないでしょう。夢破れた者達は夢実現した者の何百倍、何千倍も居るはずです。それは決して素質だけに依るのではありません。背中を押してくれた両親の存在、よき指導者との出遇い、よき環境と幸運もあるでしょう。これらは自分が意図したものではありません。全て自分以外のお陰、つまり私たちの想像力を超えた他の働き、つまり他力に依るのです。

世間の全ては他力に依らなければ何も始らないことを肝に銘じ、そして子孫に伝えて行かねばなりません。それは決して負け犬人生の勧めてはなく、人生の勝利者への道だと思うからです。


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No.825  2008.7.24

無差別殺人は格差社会がもたらしたか?

無差別殺人事件が止まらない。八王子の書店でアルバイト女子大生が面識の無い男に殺された。 またしても「誰でも良かった」と・・・。犯人達が抱いていたであろう疎外感、劣等感、孤独感、絶望感に共感を覚える者は万単位、否数十万単位で存在している現在の日本。恐らく、当分は日本各地で続くのではないかと思う。

連続する無差別殺人事件を古舘ニュースキャスターは資本主義社会が産み出した格差社会がもたらしたものだと断じていたが、簡単にそう断じてよいのだろうか。 歴史を学んだ限りにおいては、飢饉や戦乱で犠牲になっていたのは一般庶民であり、貧農であった。古代から公家社会、そして封建社会においては今よりも格差はひどかった可能性もある。

ただ、下級階級がその不満・うっぷんを晴らす手段は『一揆』と言う集団行動であり、個人が単独で無差別殺人などを起こす社会環境には無かったのではないかと思う。もし現代の無差別殺人事件を『主義』の所為にするとしたら、私は資本主義ではなく戦後育まれた個人主義に少なからず問題があるのかも知れないと思う。

現代社会は隣近所の家庭状況が明らかではない。私自身、隣の子供さん(おそらく成人となっている二人の女性)の姿をここ数年見たことがない。何をしているかも全く知らないのである。おそらく皆さんも私と殆ど同じ状態ではないかと思う。それだけ近所付き合いが希薄なのだ。希薄と云うよりも無関心なのだ。良いように表現するなら、お互いのプライバシーを尊重する社会になったのではあるが、人間味がなくなった社会でもある。これは戦後の個人主義教育がもたらしたものだと私は考えている。プライバシーに立ち入り合う社会は鬱陶しいが、見方を変えるとお互いに監視し合う社会である。昭和30年頃までの社会では、突然隣の子供が殺人者になることは極めて稀れなことだったと思い返すことが出来る。

そして現代は情報時代である。世界各地で生じた出来事を瞬時に私たちは知ることが出来る。無差別殺人なんて云う言葉も知らなかった私たちであるが、報道に依って全国民が頭にインプットされ、負の学習をして連鎖している面があることを否定出来ないと思う。

ネガティブ報道(事件、事故の報道)は視聴者に注意を喚起する狙いがあるのだろうが、全く逆に事件を連鎖させる働きもしているのではないかと思う。今ではもうストップは効かないだろうが、マスコミのあり方とテレビが私たちにもたらした負の面を吟味する必要があるのではないかと思う。


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No.824  2008.7.21

親鸞聖人の和讃を詠む-21

● まえがき
『度』と云う漢字は、『渡(わたす)』と云う漢字の略字的な意味合いもあります。『済度(さいど)』と云う風に使われますように、この世からあの世に渡す、つまり往生させる、或いは救うと云う意味の漢字として使われています。仏教で使用される『度』の殆どの場合は『渡す』と理解してほぼ間違いがないようです。

前回の和讃と今日の和讃にある『度衆生心(どしゅじょうしん)』と云うことは、自分だけが救われればよいと云う心ではなく、自分が救われたら他の人も救いたいと言う心でありますが、それは、自分が救われたから度衆生心が起こるのではなく、全ては他力本願の働きに依るものであるから、同時に起こる心であると云うことだと思われます。

親鸞聖人が正信偈の中で『自信教人信』と言う言葉を使われていらっしゃいますが、前回と今日の和讃を詠われた心を別の言葉で言い表されたもので、自分が本願を信じることそれ自体が即ち他の人をして本願他力を信じせしめるということでありましょう。

● 親鸞和讃原文

       度衆生心といふことは    どしゅじょうしんということは
       弥陀誓願の廻向なり     みだせいがんのえこうなり
       廻向の信楽うるひとは    えこうのしんぎょううるひとは
       大般涅槃をさとるなり      だいはつねはんをさとるなり

● 和讃の大意
私たちのような煩悩具足の凡夫の心に衆生を救う心が芽生えると云うのは、阿弥陀仏の本願が顕れたものであるから、その本願を信じて喜ぶ人は、その本願力に依って、真の悟りに導かれるのである。

● あとがき
私は元来怠惰な人間ですが、もう8年間一日も休まず月曜と木曜のコラム更新を続けています。正直なところ、時には休みたい想いに駆られたときもございました。しかし、何故か休めないままに今日に至っております。これは決して私の努力や励み心ではなく、仏様の御働き、他力の働きとしか思えません。

私は未だ未だ救われるには至っていませんが、縁あって無相庵を訪ねて来られる方々と共に、いつか救われたい、つまり煩悩を抱えつつも生かされている喜びを感じつつ生きる身の上になりたいと言う願い、それは即ち他力の本願に依ってコラム更新を続けさせて頂いているに違いないと思っております。


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No.823  2008.7.17

続―63歳の夢

前々回のコラムの続編です。
前々回で二つの夢を語りましたが、それらの夢の実現と一体的な夢と云いますか、或いは夢を叶えるために果たさなければならない課題とでも云うべきことについて補足したいと思います。

この世の中ではやはりお金は大切です。お金が一番大切だとは申しませんが、お金が無ければ人間として生きては行けないと云っても過言ではないと思います。だからこそ、誰しもが人生の大部分の時間と身体をお金を得る為に費やしていると言うのが現実であります。そして、頭では四六時中ソロバンを弾きながら日常生活を送っていると云うのも又私たちの現実ではないかと思います。

私も今、ある製品を従来の技術よりも半値近くで生産出来る技術を開発していますが、これを成功させれば何千万円、否何億円かになると云うソロバンを弾きながら試行錯誤している最中であります。お金を得れば、借金が無くなり、妻を路頭に迷わせることがなくなり、垂水見真会も再開出来る訳でありますから、技術者として生きて来た中でも最もワクワクさせる課題であることも確かなのです。しかし、これだけが私の夢ならば、世間一般には苦もなく果たしている人々が居ますから、人間に生まれた本当の甲斐では無いと思います。

私の本当の夢とは、折角人間としての命を授かった訳ですから、人間にしか感じ取れないであろう宇宙の真理、法、つまり仏法を究めたいということです。それは私の場合、親鸞聖人や、私にとっては親鸞聖人と全く同じ信心を戴かれていると敬愛させて頂いている井上善右衛門先生と同じ信心を得ると言うことです。そして、その信心を自分の言葉で次の世代に引き継いで行きたいと言うことです。 それにはまたお金も必要であって、そのお陰様で技術開発の仕事にも励めると云うものであります。

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No.822  2008.7.14

親鸞聖人の和讃を詠む-20

● まえがき
私が会社設立した当初の社訓に仏教の教えの一つである『自利利他(じりりた)』と云う言葉を借りたことがありました。「自分の幸せを願うのならば、先ずは他の幸せを優先しよう!」と言う意味合いで採用したものでありましたが、『自利利他』をかなり軽薄な意味合いに受け取っていたのだなと今では思っております。

今日の和讃は浄土教の菩提心が『自利利他』の菩提心であることを詠われているものだと思われます。菩提心と言うものは、そもそも「悟りを求める心」でありますが、浄土門側の考え方は、聖道門の菩提心と云うものが先ず自分が悟りを開いて、そしてその後に他の人にも悟りを開かせる働きをすると考え、浄土門は悟りを求める心そのものが他力の働きに依って私たちの心に生じたものでありますから、その菩提心には他の人々にも菩提心を生じせしめる力が既に備わっていると考えます。つまり、利他の無い自利は無いし、自利の無い利他も無いと考えます。

浄土門側の考え方はそうでありますが、私は禅宗の方々がその通りだとはお答えにはならないのではないかと思います。少なくとも、私がお出遇いさせて頂き、ご法話をお聞かせ頂いた、山田無文老師や柴山全慶老師は自力と他力を超えた世界に生きていらっしゃいましたし、自利即利他、利他即自利の世界を説いていらっしゃったと記憶しております。

● 親鸞和讃原文

       浄土の菩提心は       じょうどのぼだいしんは
       願作仏心をすすめしむ    がんさぶっしんをすすめしむ
       すなはち願作仏心を     すなわちがんさぶっしんを
       度衆生心となづけたり    どしゅじょうしんとなづけたり

● 和讃の大意
浄土教で言う大菩提心とは、阿弥陀仏がわれわれに願作仏心(仏になろうと云う願いの心)をすすめたもうもので、したがって他力廻向の信心なのである。しかし、われわれが仏になると云う点で、大菩提心はわれわれの自利に属する。この自利はそのまま生ける者たちを救うと言う利他の働きを示すものであるから、自利としての願作仏心を利他の度衆生心(生ける者たちを済度するこころ)となづけるのである。

● あとがき
親鸞聖人の生きて居られた時代には禅宗も新興宗教的存在でありましたから、親鸞聖人が聖道門と言われる場合の宗派は、多分、奈良仏教の三論宗、法相宗(唯識)、華厳宗、倶舎宗(説一切有部)、成実宗、律宗や平安仏教の天台宗、真言宗等を指していたと思われますが、親鸞聖人は特に法相宗の興福寺からの朝廷への働き掛けに依って念仏が断罪せられたことから、聖道門=奈良仏教に対する怒りを生涯抱かれていたと思われます。

親鸞聖人がもし道元禅師の禅の心をお知りになる機会があったなら、聖道門に関する論評は少々変わっていたのではないかと思いますが、もともと宗教は排他的なものであります。同じ宗教内でも宗派が異なれば、宗教間よりももっと激しい対立が生じ易いものです。大乗仏教も浄土教も、原始仏教(お釈迦様の直接的な教えと主張されている)を重んじるグループ(大乗仏教サイドはこれを小乗仏教と呼んでいます、東南アジアに伝わっている仏教)からは、『大乗非仏説(大乗仏教はお釈迦様の教えではなく、後の世の人々が作り上げた教えだ)』と非難されています。

しかし、お釈迦様には『自灯明・法灯明』と云うご遺言があると伝えられています。つまり、「私(お釈迦様)が亡くなった後は、私の教えを依り処にするのではなく、この世の真理・法則を依り処としなさい。私を依り処にせず、他の人をも依り処にせずに、法に照らされた自分を依り処にしなさい」と言い遺されたということでありますから、大乗仏教と云われる教えも浄土教も禅宗も、また東南アジアに残る教えも、法に照らされた上で取捨選択された教えならば、夫々にお釈迦様の遺志を継いだものであり、同じ仏教であると考えたいものであります。


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No.821  2008.7.10

毎年年末に京都「清水寺」にて、一年を振り返って、漢字一文字で表す儀式があります。昨年は、ミートホープの食肉偽装、赤福の製造日改ざん等が相継ぎ、『偽』と言う文字が選ばれました。今年に入っても、鶏肉、牛肉、うなぎの産地偽装、船場吉兆の食べ残し食材の使い回し、製造日改ざん、産地偽装が報道番組を賑わし続けています。古くは人命に関わるマンション耐震偽装もあり、今や日本は偽装社会とも言える状況になっています。

『偽』は音読みで「ぎ」、訓読みで「いつわり」「にせ」ですが、漢字字典『漢語林』では意味合いとして、【あざむく】【うそを言う】【見せかける】【ふりをする】【まねをする】、と聞き心地の悪い意味が並んでいます。

国産の半値、しかも使用禁止されている薬物が検出される“中国産うなぎ”をブランド国産と称して高単価で売り抜けた業者や、ブラジル産の鶏肉を国産として学校給食用に卸していた業者を軽蔑せざるを得ませんし、容疑者の罪の意識の無さには驚かされるばかりであります。しかし、私は報道番組でニュースキャスターやコメンテーターがその偽りを言葉だけで批判し糾弾する様(さま)を見るとき、「そうだ、そうだ。実にケシカラン!」とは何故か同調出来ません。
昨日のMBSのニュース番組『報道ステーション』でもキャスターの古舘伊知郎(ふるたちいちろう)氏がいつもの如く怒りの表情で鶏肉偽装事件と大分県の不正教員採用事件の関係者や事件を生み出した背景を批判していましたが、批判するのが仕事であり課せられた役割でありましょうから彼を批判しても始らないことは承知の上ですが、やはり私は空虚さを感じていました。

『偽』は、「人+為」と言う形声文字ですが、「為」は〝人が手を加えて作る〟と言う意味ですから、「人がつくりごとをする=いつわる」と言う意味を表わすことになったようでありますから、昔から人は誰でも偽る存在だと公に認識されていたと考えられます。従いまして一方的に他人の偽りを声高に責め上げ、貶(おとし)めることに抵抗を感じるのは私だけではないのではないかと思っております。

「人は誰でも自分を偽っているものだ」と言っても過言ではないと思います。本当は自分だけの事しか考えていないのにさも社会全体のことを思い遣っているように振舞うものです。人の眼に触れない心の奥底では『ソロバンと義理と体裁』だけをモノサシにして生活しているのに、表(おもて)ズラは偽装して、善人ぶったり博愛者ぶったりします。しかもそれを無意識のうちに出来てしまうのだと思います。

そういう自己の偽りと真正面から向き合って、一生涯自己を問い直し続けられたのが親鸞聖人ではなかったかと思います。また親鸞聖人が和国の教主と仰がれた聖徳太子が『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』と嘆じられたのは、『和』が実現しない人の世の根っ子に『偽』を実感されていたからではないかと推察している次第であります。

偽装事件は決して好ましいものではありませんし、許される行為ではありません。しかし他者に向う厳しい目をひっくり返して、更に厳しい目を自己に向けることが周囲と和する心に繋がるのではないだろうかとも思います。


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