No.820  2008.7.7

親鸞聖人の和讃を詠む-19

● まえがき
今回の和讃以降の13首は『浄土のさとり』について詠われたものです。そして、この13首は又、①「他力の信心」 ②「信心によるさとり」 ③「本願を信じる人びと」に分けられるようでありますが、今日の和讃は、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願の世界をどのように受け止められているかを詠われたものでありますとともに、私たちに説き聞かせて下さっているものであります。

浄土門の教えの根本を理解するには、「法蔵菩薩の四十八願」を知らねばなりません。その為には浄土教の根本聖典である浄土三部経の中でも『大無量寿経』を読んで理解出来なければなりませんが、言葉も難解な上にそもそも『本願』と言うことを信じること無くして、とても真面目に読む気にはならないと思います。

法蔵菩薩も世自在王仏も実在の人格ではありませんし、その四十八願と言われましても俄かには信じられないと言うのが大方普通一般の気持ちではないかと思います。正直なところ私も今はその立場にあります。浄土三部経は西暦2、3世紀に製作されたものだと云われておりますが、その頃の大乗仏教の人々が作り上げた物語であると言っても決して間違いではないと思います。

ただ、私たち個々人が人間として存在する根本的な意味や由来を問う求道者となった時、人間の知識や智慧が到底及ばない世界がある事に気付かざるを得なくなる事、これまた必然だと思われます。 その時、宇宙を含めたこの現実世界に働く何某(なにがし)かの力を思わずには心落ち着く事が出来ないのではないかとも思います。

人間存在の意味と由来を真剣に自問自答された私たちの先達がそれこそ長い長い年月をかけて結実させた世界観が、『大無量寿経』と言う具体的な形になって表わされたのだと、私は理解しているところであります。

● 親鸞和讃原文

       超世無上に摂取し      ちょうせむじょうにせっしゅし
       選択五劫思惟して      せんじゃくごこうしゆいして
       光明寿命の誓願を      こうみょうじゅみょうのせいがんを
       大悲の本としたまへり    だいひのもととしたまえり

● 和讃の大意
法蔵菩薩(阿弥陀仏が求道者として修行していたときの名)が世に超えて優れた仏国土の建設の願いを立てるべく、世自在王仏の力を借りて、諸仏の国土を観察し、それに依って諸仏の国土のしつらいの中で、善いところを選び取り、悪いところを選び捨てて、如何にして優れた仏国土を建設しようかと五劫と云う長い長い年月をかけて瞑想の座に坐って修行なさいました。
法蔵菩薩の願いは、あらゆる生きとし生けるものが彼の完成した仏国土に生まれて仏になることであり、そのことが同時に彼も阿弥陀仏という仏になることだとしたのです。その願いは、四十八あって、法蔵菩薩の四十八願と呼びますが、この中の第12の光明無量の願と第13の寿命無量の願の二つを以て、衆生を救って仏たらしめるところの大悲(仏の大いなる慈悲のこころ)の根本とされたのであります。

● あとがき
現代知識人の中には阿弥陀仏を架空の存在としてキリスト教の神様と共に一笑に付す立場を取る人が居ます。自分の眼で見たり、触ったりしたことしか信じないと言う人々です。現代日本では99%の人が学校教育を受けておりますから、日本人を二分すればその立場の人々とは反対に、あまり疑うことなく神や仏を信じたり、特定の教祖を信じたりする人々も少なからず居ると言うことになります。

浄土真宗教団(古くは蓮如上人から)が、親鸞聖人の教えを一文不知の者(教育を受けず文字も読めない者)の為の教えとして世に広めてきた歴史がありますから、知識階級は『念仏を称える』とか『阿弥陀仏の本願』と言うことを聞きますと、どうしても低級な教えと言うイメージが付き纏っているように思われます。現代に至りましても、「難しいことは分からなくともよい、ただ念仏を称えましょう」と言うように説く布教師もいますので、一部の知識人には非常な抵抗感を持たれていることも事実であります。

私もどちらかと申しますと、架空のものは信じられない、自分が自分の眼で見えるもので頭が納得しないと信じない立場でありますが、しかし、人間と言うものはいい加減なもので、私も神社に参れば、幸せの到来を神頼みしてしまいますし、お墓参りした時にも亡き父母に「私たち家族を見守って下さい、そしていい事が来るようにお願いします」と拝んでしまいます。 神社にも行かない、お墓参りもしないと言う人も居られるかも知れませんが、そう言う人々でも多分、何の根拠も無く明日のわが命の存続を信じているに違いないと思います。つまり、自分は理論的だ理性的だと思っていても、その主張する立場は実にあやふやなものではないかと思います。

つまり、何が言いたいかと申しますと、人間は根本的には理性的存在ではなく、何某かの大きな力に依存しなければ、生きて行けない存在ではないかと言うことであります。私も今は未だ本願を信じ切れているものではありませんが、大無量寿経を製作した先達や、善導大師、法然上人、親鸞聖人、そして近くは、井上善右衛門先生や白井成允先生と同様に、『阿弥陀仏の本願に頭が下がる』時が来るに違いないと思っている次第であります。


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No.819  2008.7.3

63歳の夢

私は今年の3月に63歳となった。サラリーマン生活を続けた同期生達の殆どは60歳で既に定年を迎えたであろうが、運良く役員になった者も今年で現役を退くはずの年齢である。その証拠に、同級生の泊りがけクラス会の案内が年一度届くようになった。

私も大人しくサラリーマン生活を続けて居れば、今頃は悠々自適の前期高齢者生活に突入していたに違いないが、現実は同じ『ゆうゆうじてき』でも『憂々自敵』(これは私の造語です)の闘いの真っ只中なのである。ただ、心は夢に向って燃えているところであるから、バリバリの現役だと私は思っている。

夢に向ってと言ったけれども、いわゆる『夢』ではなくて、言い換えれば、『私が生きているうちに果たさなければならない目標、使命、義務』なのであるが、悲壮感はないので『夢』と表現した次第である。

今、私も妻も会社と個人の生活を守る為に必死で働いている。会社を守る為と言うことは、会社を何とか存続させて、特許を生かした製品開発をして、会社再建を図りたいと言うことである。一方、個人の生活を守る為と言うことは、現在住んでいる家を手放さず住み続けるためと言うことである。つまり、今私たち夫婦は会社の借金返済と家のローン返済の為にのみ働いていると言うことである。 妻は午後12時過ぎに出勤して深夜午前0時前後に帰宅すると言うハードなスケジュールなので三食の用意は私の役割である(妻は毎日の洗濯と週一の掃除をこなしてくれている)。私は会社の仕事もあり、夕方から塾もあって、二人共に時間的余裕は無い。

こう言う生活が6年続いているのであるが、私の夢の第一番目は「私が死んでも妻を路頭に迷わせず、孫達のよき“ばばちゃん”として老後を送らせたい」と言うものである。第二番目の夢は、「母が遺した仏法を聞く会『垂水見真会』を再開し、西神戸地区の人々に仏法を聞く場を提供したい」と言うものである。第一番目の夢は友人たちが既に果たしている当たり前のことであり、夢と言うべきものではないけれども、今の私の状況から言えば大きな、そして必ず果たさねばならぬ目標なのである。

第二番目の夢は、私の母が1950年に立ち上げ、亡くなった1986年まで主宰し続けた『垂水見真会』を再開すると言うことである。これは、幼くして亡くした長女への深い想いが込められた母の遺志であり、仏法に救われた者が果たさなければならない責務でもあるからである。実は母亡き後私はその意思を継いで続けたのであるが、丁度1年経った頃に、私の知らない間に幹部会が開かれ私は会長職を解任させられたと言う経緯がある。今以てその理由が分からないままであるが、私の後を3人の姉達が引き継ぎ、昨年末資金不足に依り閉会されたと聞いている。

垂水見真会と言うものは母が精魂込めて育て上げたものである一方、仏法を聞くために集(つど)われた多くの人々の願いが込められて続いたものであり、また井上善右衛門先生や山田無文老師、中村久子さんその他多くのご講師方の仏法への感謝と献身が有って続いた尊い存在でもある。遡れば時代を超えて親鸞聖人の願いが結実したものだとも言えなくも無いのである。

ただ、仏法を聞く会を存続するには気持ちだけでは為し得ない、お金が必要であることも確かであるから生易しいものではない。新興宗教でもないし、多額の会費を徴収することを好しとはしなかった母が大変な苦労をしたことは間違いない。これから再開するには会場費を別として年6回の会を開くには、講師への謝礼も含めて年間約60万円の費用が掛かると思われ、これは今の私には途方も無い金額である。しかし必ず再開しなければならないと思っている。

第一番目の夢も第二番目の夢も、方法論はただ一つ、私が会社を再建することでしか為し得ない。いや、会社を再建したら、両方とも果たし得る現実的な夢なのである。幸い、私の特許技術が10年目にして漸く日の目を見るかも知れない状況にある。偏に私の技術力、周囲の人々の協力を得られる総合人間力に掛かっているのだと思っているところである。

63歳、夢の実現に向って頑張っているところである。

これまで書き進んで来て思うことですが、今、こうして63歳の夢を語れるのも、こんな苦境にある私達を見限ることなくお励ましとご支援を頂いた方々のお陰でありますが、その中のお一人、チェコご在住の無相庵読者殿が日本に一時帰国された機会に、明後日わざわざ関東からお訪ね下さいます。1年4ヶ月振りの再会を楽しみにしているところであります。


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No.818  2008.6.30

親鸞聖人の和讃を詠む-18

● まえがき
昨日の6月29日は、亡き母の22回目の命日でありました。世間では23回忌として法要を営まれる場合もあるようですが、私たちは夫婦だけでお墓参りを致しました。母は1906年6月19日に生まれ、1986年6月29日、満80歳になって10日後に亡くなりましたが、母と言えば即仏法しか思い浮かびません。1936年に長女を亡くしてからの50年間は未亡人時代32年間を含んで色々と苦労は多かったと思いますが、母の人生は親鸞聖人の教え無くしては成り立たなかったとあらためて述懐した次第でありました。

その親鸞聖人の教えも、親鸞聖人が29歳の時の法然上人との縁が無ければ今日私たちが知る由もなかったと云うことになりますし、そうして辿って参りますと、七高僧を経てお釈迦様まで容易に遡ることが出来ますが、親鸞聖人がこの和讃で詠われている如く、阿弥陀仏の他力本願の教え無くしては在家の私たちが救われる道は無いのだと思います。

● 親鸞和讃原文

       像末五濁の世となりて      ぞうまつごじょくのよとなりて
       釈迦の遺教かくれしむ      しゃかのゆいきょうかくれしむ
       弥陀の悲願ひろまりて      みだのひがんひろまりて
       念仏往生さかりなり        ねんぶつおうじょうさかりなり

● 和讃の大意
正法の時代が終わって、像法・末法と云う五濁の世になり、釈尊が遺された聖道門の教えは隠れてしまった。けれどもそれに反して、阿弥陀仏の本願、他力念仏往生の教えだけがこの世にひろまり盛んに信奉されている。

● あとがき
五濁(ごじょく)とは、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五つの濁りで次の通りです。

         劫濁   時代の汚れのことで、天災とか戦争などの社会悪がはびこる汚れ
           見濁   思想の汚れで、邪な見解や邪な教えが横行する汚れ
       煩悩濁   精神的な悪徳のはびこる汚れ
       衆生濁   人間の身体や心が質的に低下する汚れ
           命濁   人間の寿命が短くなる汚れ

命濁以外は、現代そのものを表わしているように思われますが、末法に入ったとされる西暦1052年も、またそれ以前も、恐らくは人間社会が成立した大昔から、五濁悪世だったのではないかと思います。煩悩が煩悩を産み出し、そして情報が瞬時に世界を駆け巡る現代においては、感じる頻度が飛躍的に増大しているだけではないかと思います。

ただ、大切なのは五濁を自分の身の回りを見渡して感じるのではなく、自分の心の中に自らの五濁を気付くことだと思います。そしてその自らの五濁を詠われ、その五濁の自分への弥陀の悲願を感じ取られたのが親鸞聖人である事を忘れてはならないのだと思います。


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No.817  2008.6.26

自我を捨てると云うこと

極最近の無相庵読者からの問い合わせメールの最後に「自我が捨てられない女より」と、ありました。
「自我が捨てられない」とは、ご自分を見詰めてのお言葉です。このように自己を第三者的に見詰められていること自体、既に仏眼(ぶつげん、仏の智慧の眼)が宿っている何よりの証拠であり、この方は既に選ばれた方なのだと思った次第であります。

そして同時に“自我を捨てること”に付きまして、「私自身自我を捨てられているのか?」や「自我は捨てられるのだろうか?」とか、或いは「仏法は自我をどう考え、どのように対処するよう説いているのか」等、色々と考察をさせて頂きました。

自我とは「他の存在と区別した自分を意識する心」ですが、仏教では「自己を第一優先にして考える自己中心的な考えで、煩悩の根源として働くもの」と考えます。西洋の言葉では〝エゴ〟と云います。と致しますと、【自我=自己中心=煩悩】と云う風に断定しても良いと思いますが、果たして、私たちは煩悩を捨て切ることが出来るでしょうか?

お釈迦様の説かれた教えに四諦(したい)と言う仏教の根本教義と云われる教えがあります。四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦(くたい・じったい・めったい・どうたい)です。つまり苦を認識し、苦の原因を知り、苦から解脱出来る為の正しい道を歩めば、煩悩が自ずから滅すると言う教えであります。従いまして、表面的な受け止め方を致しますと、「煩悩は滅することが出来る」と言うことになります。

しかし一方、大乗仏教では『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』とか『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』と説き、生身のままで煩悩を滅することは出来ないと説きます。特に、私がお聞きして来ました限りは、親鸞聖人の教えはこの立場を明確にされた上でのものだと私は考えています。

でも、自我が捨てられないと云うことになりますと、何時までも悩みは無くなりませんから、私たちが救われることは有り得ないことになってしまいます。「自我は捨てたいが、捨てられない」、比叡山での青年期にこの事に悩み抜かれたのが親鸞聖人ではなかったかと思います。そして、親鸞聖人は法然上人の教えに出遇われて漸く心の落ち着き処(歩むべき道)を見付けられ、その道を歩みつつ後代の私たちにも色々な書物を遺されまして私たちが歩むべき道を指し示して下さっているのだと思います。

それは、多分、『他力に依って、自我を捨てられない自分に目覚めさせて頂いて、他力の働きのままに、自然法爾(じねんほうに、大自然、大宇宙の働きのまま)の世界を生きて往く身とさせて頂くこと』ではないかと思います。また言い換えますと、『自我が捨てられる程高等な人格ではない自分であることに目覚め、こんな自分でも今こうして大きな力に依って生かされて生きている。有難いことだなぁーと感謝の心が湧き上がってくること』ではないかと思います。

しかし、現実の私たちの日常生活は自分の思うようにならないことばかりであります。なかなか感謝の心が湧くまでには至り得ません。全てが自分の思う通りになれば、不平不満の心は起きないと思いますが、現実は全く逆であります。人間関係においては、人は決して自分の思う通りには動いてくれません。従って仕事の上でも自分が描く通りには進みません。そしてその全てがストレスとなります。これは、自分が生まれ持った性癖や過去に経験したことから描く〝こう有るべきだ、これが正しいはずだ〟と言う考え、つまり自我を満足させられないことから生ずるストレスだと思います。
たまたま、自我を満足させてくれる人や出来事に出会ったら、〝これはよい人だ〟〝これはなかなか良いことだ〟と云うことになります。良い人と言うのも悪い人と言うのも、それは自分の物差しが決めていることに過ぎないのだと思います。そう云う自分だけの物差しを持っている人間同士でありますから、お互いに不平不満に思い、そしてストレスを抱えるしかないと言うのが、現実の生活ではないかと思います。

親鸞聖人の様に「自我を捨てきれない自分」を心の底から懺悔出来るものではありませんが、日常生活を生きる人生の智慧として、私の自我だけを尊重せずに、他人の自我にも想像力を働かして見ては如何かと思います。「私に自我があるように、あの人にも自我がある」と・・・。私たちは自分の自我には寛容過ぎる位に寛容ですが、他人の自我は決して許せません。他人にも生まれ持った性癖があり、自我が育って来た過去があります。

親鸞聖人の教えをお聞きして「不断煩悩得涅槃」と参りたいところですが、日常生活を少しでも快適に過ごすべく、他人様(家族も含めた自分以外の人)の自我にも配慮して行きたいものだと思います。聖徳太子は、それを「共に凡夫のみ」と『和する心』を説かれたのだと思います。


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No.816  2008.6.23

親鸞聖人の和讃を詠む-17

● まえがき
九条武子さんの詩『聖夜』に、「ガンジス河の真砂より、数多(あまた)おわする仏たち・・・」と言う句があります。仏教では、無量無数をガンジス河の沙(すな)に喩えて、“恒河沙(ごうがしゃ)”と云うそうであります。今日の和讃の冒頭の“三恒河沙”は、その三倍ですから、無限無量無数と言うことでありましょう。

この和讃も、親鸞聖人が比叡山での20年間に及ぶご修行に依っても悟りが得られなかった、心の安心が得られなかったことを踏まえられまして、何回か生まれ変わり死に変わりして来た過去世においても同じ事を繰り返して来たことであろうと、救われがたい自分の業を自覚されたところを詠われたものではないかと思います。それと同時に、そんな自分が今生で法然上人に出遇い他力本願の教えに導かれた幸せを噛み締められたお気持ちが背景にあるのだと思います。

● 親鸞和讃原文

       三恒河沙の諸仏の          さんごがしゃのしょぶつの
       出世のみもとにありしとき      しゅっせのみもとにありしとき
       大菩提心おこせども         だいぼだいしんおこせども
       自力かなはで流転せり        じりきかなわでるてんせり

● 和讃の大意
私は過去世において無数の仏の出現に出会ってきたはずで、その時々に大菩提心を起こしたけれども、それは全て自力の菩提心であったため、私は空しく生死流転の迷いを続けて来たことであった (しかし幸いにも今生で、他力の菩提心に目覚めさせて頂いた、まことに有難いことだ)。

● あとがき
比叡山の千日回峰行などの難行苦行や、数十年に亘る座禅に依って悟りを開かれる方も居られますが、それは飽くまでも出家者、即ちお坊様・尼僧様であって初めて為し得ることだと思います。私のような在家で家族もあって、経済生活・煩悩生活を離れることが出来ない身の上の者にはとても為し得ることではないと私は思います(最近は特にその思いが強くなりました)。

親鸞聖人は、そういう在家止住(在家を離れることが出来ない力量)の凡夫が救われる道を身を以て求められ、七高僧が開拓・継続された他力本願の仏道に辿り着かれ、後代の私たちにも指し示して下さったのだと思います。

考えて見ますと、お釈迦様も人里離れた山奥での難行苦行が無意味なものだと気が付かれて山を下りられ、スジャータと言う娘から乳粥(米のお粥に、牛乳、蜜、砂糖を加えた柔らかい食べ物)を供養された後に菩提樹の下で瞑想に入られて悟りを開かれたそうでありますから、仏教は元々難行苦行を勧めてはいないものだと思います。

ただ、縁あって親鸞聖人の教えに出遇うことになった私たちが間違ってはならない事は、煩悩生活を肯定し溺れてはならないと云うことだと思います。「どうせ在家止住の凡夫だから・・・」と開き直ることがあってはならないと思います。思いますというよりも、斯く云う私自身に今強く言い聞かしているところであります。

仏道を歩む者は出家・在家に関わらず五戒を守らねばならないと思います。勿論その守り方の厳しさ・限度は出家と在家ではおのずから異なるとは思います。例えば殺生戒(生き物を殺してはならない)に付きましては、私たち人間は生き物である動植物を食べずには一日として生きられませんから、殺生戒を完璧に守ることは出来ません。また私がなかなか守れない不飲酒戒(お酒を飲んではいけない)も、アルコール嫌いな人には何でも無い容易い戒でありましょうが、アルコール好きの私にはなかなか守れないものであります(何とかして節酒はしないといけないと思っていますが・・・)。

確かに、五戒を完璧に守る事は出来ませんが、節度を持った生活をする事は仏道を歩む在家の人間にも必要欠くべからざることだと思います。在家だから、他力本願の教えだから、厳しい(自力的)戒は守る必要が無いと言うことでは決して無いと言うことを肝に銘じておく必要があると思います【実は、唯識の世界のコーナーで、「仏の道を歩むー布施ー(2)」で途切れておりますが、布施の次が持戒(五戒を守る)でありますが、私が出来ていないことを書く気にならず、持戒を書ける身の上になってからと思い、既に1年半が経過してしまいました】。

    五戒律
     不殺生戒(ふせっしょうかい)     生き物をみだりに殺してはならない。
     不偸盗戒(ふちゅうとうかい)     盗みを犯してはならない。
     不邪淫戒(ふじゃいんかい)      道ならぬ邪淫を犯してはならない。
     不妄語戒(ふもうごかい)           嘘をついてはならない。
     不飲酒戒(ふおんじゅかい)      酒を飲んではならない。


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No.815  2008.6.19

亡き母に感謝

今日6月19日は亡き母が生きていたなら102回目の誕生日である。最近、私自身が年老いた所為か、母のことを偲ぶことが多くなっている。そして、思うことは「よく我慢して育ててくれたんだなぁー、大変だったろうなぁー。そして心配掛けてばかりだったのに親孝行一つしないままで申し訳なかったなぁ。」と言うものであり、同時に、このコラム欄で度々紹介して来た窪田空穂(くぼたうつぼ、1877年~1967年、歌人)が70歳の時に詠んだ詩『今にして、知りて悲しむ、父母が、吾にしましし、その片思い』を「本当にその通りだなぁー」と感謝と懺悔の気持ちで共感すること頻(しきり)である。私は今63歳であるが70歳になった時には70歳でしか感じられない親への深い感謝と懺悔があるのであろうと思う。

母は48歳で未亡人になり、5人の子供を女手一つで育ててくれた。31歳の時に小学校入学したての長女を肺炎(多分)で亡くしたことから自分の生活姿勢を大いに悔いたそうである。そして求めた仏法を48歳からの主人として生き抜いた母であった。母が31歳と言えば昭和11年の頃である。母は3歳と1歳の子をお手伝いさんに任せて女学校の教師として働く、当時としては珍しい夫婦共働きの先駆者でもあったが、子供一人を亡くして何が人生で一番尊いことかを自問自答したことだろうと思う。そして、その子の死を無駄にしてはいけないと、自分が救われた仏法を世間一般にも広める使命感に燃え、未亡人ながらも『垂水見真会』と言う仏法を聞く会を立ち上げ、子育てしながら亡くなる日までの35年間を走り抜いた母であった。

私は一番出来の悪い末っ子であった。3人の姉達と直ぐ上の兄はいずれも所謂優等生であり、母に心配を掛けたことは無かったと思う。心配を掛けることに付いては私が一手に引き受けて母を悩ませたことは間違いない。恐らく亡くなる寸前まで末っ子が気に掛かっていたはずである。大学ではテニスに明け暮れて留年し、卒業してからも最初に入った会社を3年で退職し、大学に戻って研究者の道を歩むかと思えば1年半で諦めて退官し、地元のゴム会社に転職したがなかなか落ち着きそうに無かったのである。その会社に20年在籍したが、常に不満を抱えていて母にはしょっちゅう愚痴をこぼしていたから母は気がきでは無かったはずである。

少年期には激しい反抗期もあったし、匙を投げられても仕方がない息子であったのに、あの秋葉原の無差別殺人犯人になっても仕方がなかった息子であったのに、犯罪者にならなかったのは、母の息子への強い願いと忍耐のお蔭でしかないと思う。母が亡くなって歯止めを掛ける存在が居なくなって5年後には遂に脱サラしたが、苦労知らずの人間が成功するほど世間は甘くは無く、脱サラ7年後に今の苦境に陥ったのである。

母がもし今も生きていたら、今の私の状況を見てきっと寝込むほど心配したに違いない。しかし私は母にさんざん心配を掛けて来たが、母の仏法を受け継いでいるのは5人姉弟の中では心配を掛け続けた私しか居ない。母が長女を亡くして仏法に目覚めたと同じように、私はこの7年間の経済的苦境のお陰で真剣に仏法を求めるようになったのだと思っている。

会社の仕事も漸く遠くに光が差して来ているような状況にある。会社の再建そして仏法興隆の役割を果たすことで、今は亡き母へ恩返しをしたいと切に願っているところである。


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No.814  2008.6.16

親鸞聖人の和讃を詠む-16

● まえがき
今日の和讃に『自力聖道』と言う熟語がございますが、この熟語に付きまして、復習しておきたいと思います。
仏道を修する道には“他力と自力”の二つの道があるとされています。他力ということを言い出されたのは、親鸞聖人が浄土門の七高僧として挙げられている中のお一人、曇鸞大師であります(親鸞と言う名はこの高僧のお名前の一字を戴かれたことは言うまでもありません)。そして後に他力に対して自力と言う言葉が浄土門教えの中で使用されたようであります。またやはり七高僧のお一人である道綽禅師が聖道と浄土の言葉に依って仏教も二つに分けられたそうであります。

従いまして、自力・他力も、聖道・浄土も、これは浄土門で言われることでありまして、浄土門以外の宗派で使用されている訳ではないことを知っておく必要があります。
親鸞聖人が自力聖道門と云われている対象は、ご自分が得度を受けられた比叡山延暦寺の天台宗や、弘法大師空海が開かれた高野山の真言宗、そして奈良仏教の法相宗や律宗、栄西禅師の臨済宗等ではないかと推察致しますが、親鸞聖人がご修行された比叡山では既に千日回峰行と言う非常に厳しい壮絶な修行が為されていたでありましょうから、親鸞聖人が自力聖道と言われた時にはその千日回峰行が特別頭に浮かんでいたのかも知れないと思うのであります。

そして、私たちは、親鸞聖人が20年間に及ぶ比叡山でのご修行を経験された上で、それを自力聖道の仏道だと云われたと言うことを知っておく必要があると私は思っております。更に、その自力聖道の道を究められなかったご自分の身を以ての歎きが今日の和讃の背景にある事もまた知らねばなりません。単純に、自力聖道を批判されたものではないのであります。

● 親鸞和讃原文

       自力聖道の菩提心           じりきしょうどうのぼだいしん
       こころもことばもおよばれず      こころもことばもおよばれず
       常没流転の凡愚は           じょうもつるてんのぼんぐは
       いかでか発起せしむべき        いかでかほっきせしむべき

● 和讃の大意
浄土門とは別に用意されている自力聖道門の教えによって悟ろうとする道は、心で思念することも、また言葉で説明することが出来ない位に深く尊くまた難しいものである。従って私親鸞のような愚かな凡夫にはそのような自力の菩提心を起こすことは到底出来るものではなく、悲しく残念ではあるけれど悟りへの道は閉ざされているのである(しかし、有り難いことには本願他力の念仏の教えが用意されているのだ)。

● あとがき
現在では自力聖道門の代表的宗派は禅宗だとされているのではないかと思いますが、私の存じ上げている禅僧(山田無文老師、柴山全慶老師、西川玄苔老師、青山俊董尼)に限って申しますと、仏道には自力も他力も無いと思えてなりません。その方々から「結局は私たちを生かしている大きな力に依って生かされている自己に目覚めることが禅での悟りであり、浄土門における信心獲得(しんじんぎゃくとく)ではないだろうか」と学ばせて頂いた次第であります。現に、その方々は法話の中で頻繁に親鸞聖人のお言葉や歎異抄の文言を引用されましたし、今もよくされます。山田無文老師も柴山全慶老師も揃って妙好人の詩を引用され、禅の悟りの心境と一つも変わらないとまで仰っておられたことを今も覚えております。

敢えて自力・他力と云う言葉を使うと致しましたら、仏道の歩みは、自力から他力へと進んで行くのが極々自然の道であり、初めから他力・他力、或いはお念仏・お念仏と拘るのは却って道を誤るのではないかと考えているところであります。


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No.813  2008.6.11

自分の命、他人の命

今週の日曜日にまたしても7人の命を奪う無差別殺人事件が起きた。いつものようにワイドショーの話題を独占している最中である。今年になってもう何件目かすら明確に思い出せない理解し難い殺人行為が続いている。

「昔はこんな事は起こり得なかった。病んでいる現代社会特有の事件背景があるのでは?」と言うコメンテーターの見解が事件の度に繰り返され、社会の有り方、政治の有り方、教育の有り方に原因を求めようとするのである。私はそれを全く否定はしないが、「本当にそうかな?」とも思っている。 何故かと言えば、大昔から私たち人間が抱える根本的な意識の中に「自分の命は尊いが他の命は尊くない」と言う自己中心的な考え方があり、それは何も現代になって生じたものでも殊更激しくなったものでもないと思うからである。

強いて言うならば、マスコミの情報入手力、情報発信力が飛躍的に拡大したこの数十年の間に、事件が事件を呼ぶと言うか、事件に触発される、真似ると言う現象を引き起こすようになったことが影響しているかも知れない。しかし、無差別殺人は大昔から多発していたはずであり、記録に残っていないだけではないかと思うのである。そして人間の歴史は無差別殺人と言う戦争の歴史ではないか、戦争だから何の罪も無い庶民を無差別に殺してもよいはずはないではないかと思う。無差別殺人を容認し、現在も世界各地で現在進行形ではないか・・・それを命を張って止めようとはしない私に無差別殺人を無反省に批判する資格はあるのだろうかと思う。

私自身正直なところを言えば、中国四川大地震で8万人余りが亡くなったと聞いても、ミャンマーサイクロンで十数万人が亡くなったと聞いても、涙は流さなかったし胸も痛まなかった。少なくとも胸が痛んで瞬間的にでも食欲が落ちると言うようなことは無かったのである。茨城での無差別殺人、岡山駅のホームでの無差別殺人、舞鶴での女子高生殺人事件を聞いても、やはり涙は出なかったし、胸も痛まなかった。結局はそれらは私にとって他人事だったのである。そして、かなり前に起きた(いつ起きた事故かすら既に記憶が薄れている・・・)福岡の酔っ払い運転によって幼い三つの命が失われたことよりも、我が孫娘のたった指一本の障害の方が数倍、いや数十倍胸痛む事柄なのである。冷酷で浅ましい自己中心の自分の真の姿を目の当たりに直視させられ、むしろその事を傷ましく哀しく思うのである。

そして、以前のコラムの中で紹介した下記の『一番好きなもの』と言う詩を思い出し、キリスト教が言う原罪と言うこと、仏教が説く宿業と言うことを思わずには居られないのである。
そして、親鸞聖人はもっともっと深い慙愧の念を抱かざるを得ない位に強い仏様の光に自らを照らし出されたのであったろうと思うことである。

一番好きなもの

       私は高速道路が好きです
       私はスモッグで汚れた風が好きです
       私は魚の死んでいる海が好きです
       私はごみでいっぱいの街が好きです
       殺人、詐欺(さぎ)、自動車事故が好き
       そして、何より好きなものは
       多数の人が
       涙を流す
       血を流す
       戦争が大好きです
       飢えと
       寒さの中で
       戦って死んでいく姿を見ると
       背中がぞくぞくするほど
       楽しくなります
       毎日毎日
       大人が
       子どもが
       生まれたばかりの赤ん坊が
       次から次へと
       死んでいるかと思うと
       心がゆったりします
       歴史を歴史と感じ
       過去を過去として思う
       無感情な
       時の流れに、自分自身に
       たまらなく喜びを感じます

       こんな私を助けて下さい
       誰か助けて下さい
       たった一粒でもいいのです
       こんな私に
       涙というものを与えてください
       たった一瞬でいいのです
       こんな私に
       尊さというものを与えてください
       私の名前は
       人間といいます


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No.812  2008.6.9

親鸞聖人の和讃を詠む-15

● まえがき
昨日の日曜日のNHK教育テレビの『こころの時代』に比叡山の千日回峰行を成し遂げられた光永覚道師が出ておられました。この千日回峰行の歴史は約1000年と仰っていましたから、826年前に比叡山延暦寺で修行に入られた親鸞聖人も常行三昧と言う千日回峰行に先立って行なわれるご修行をされていたと云われていますから、当然その千日回峰行と言う修行の存在をご存知であったことでしょう。

千日回峰行とは?

千日回峰行を為し終えた行者は過去1000年の間に47人しか居ないと云われておりますから、20年に一人しか成し遂げられない大変な修行であります。親鸞聖人はそう云う修行に挑まなかった自己の機根を含めて、聖道門では救われない“低下の凡愚、清浄真実の心を持ち合わせていない”自分を見詰められていたのかも知れません。
千日回峰行を成し遂げる方はやはり特別な機根を持ってこの世に生まれて来られた方ではないかと思います。千日回峰行はインターネットで調べますと、次のように説明されているとてもとても大変な修行であります。
千日回峰行は、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峰行は七年間にわたる行である。
比叡山の無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。
700日目の回峰を終えた日から「堂入り」が行なわれる。無動寺谷明王堂で足かけ九日間(丸七日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥(「臥」とは、横たわること)の行に入る。入堂前に行者は生き葬式を行ない、不動明王の真言を唱え続ける。出堂すると、行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨(だいあじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入り、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻り、千日を満行する。
―千日回峰行の説明終わり

このような修行を成し遂げられた方を別格として尊敬申し上げますが、在家の私にはやはり親鸞聖人の方に親しみと有り難さと懐かしみを感じます。

● 親鸞和讃原文

       正法の時機とおもへども       しょうぼうのじきとおもへども
       底下の凡愚となれる身は      ていげのぼんぐとなれるみは
       清浄真実のこころなし        しょうじょうしんじつのこころなし
       発菩提心いかがせん         ほつぼだいしんいかがせん

● 和讃の大意
もしも正法の時代に生まれていたとしても、私のような愚かな凡夫の身では清浄真実の心を持ち合わしていないので、どうして悟りを求める気持ちを起こすことが出来るだろうか。(しかし、末法の世に生まれたこんな愚かな自分ではあるけれども、本願他力の教えに出遇えたのは何と有り難いことであろうか・・・)

● あとがき
親鸞聖人は比叡山延暦寺でのご修行中に、下界から聞こえて来る一般庶民の苦しみや不幸に胸を痛められて、庶民の救われる道を求める為には先ずは自分が救われなければならないと真剣に道を求められたのではないかと思います。それが後年、妻帯と言う形を取られることになったのではないかと私は推測しています。

自分だけが救われればよいと云う考え方は些(いささ)かも持たれてはいらっしゃらなかったのではないかと思います。そう云うお心を亡くなられる90歳まで持ち続けられていたからこそ、この正像末和讃が遺されているのだと思います。私は悟りました、私は救われましたと言う独りよがりの表白はこの和讃では一切見付けることは出来ません。それが私たちに親しみと共感と感動を与えてくれるのだと思います。


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No.811  2008.6.5

視点を変えること、視点が変わること

前回の木曜コラムで私は孫娘の手の障害のことを取上げました。娘が初めてブログで公表したから出来たことですが、その娘のブログに知人・友人から心温まるコメントや娘夫婦の心の強さを賞讃するコメントが殺到していました。しかし、後のブログ(題名:勇気づけられた詩)で私や妻が知らないところで娘が必死に闘っていたことを知りました。

娘のブログより転載:

恵愛を出産した直後、手指にこういう障害があって生まれた場合、内臓にも異常がある可能性もあるので定期健診で経過を見ましょう、と産後の問診で言われました。幸い、その後の健診で体には異常がなく健康にすくすく成長してくれています。平均よりもハイハイ、たっち、歩くのも早かったし、言葉も早い感じ。
生まれたてホヤホヤの恵愛を抱きながら、不安や自責の念やいろいろな気持ちが入り乱れ、入院中は恵愛と二人きりになると涙が出ちゃったなぁ・・・。
出産報告を病室で携帯からブログに載せる時も恵愛の手のことを載せるかどうか迷いました。
結果、載せませんでした。皆から生まれて来たことを純粋に「おめでとう」と言ってもらいたかったから。
指が多く生まれる確率は1000人に4~5人らしいけれど指が少ないケースは何万人に1人と聞きました。よりによってどうして我が娘が?と葛藤しました。

そんな頃出会って勇気付けられた詩です。恵愛が私の元に生まれて来てくれた意味を見出せたような気がしました。

       天国の特別の子供

       会議が開かれました。
       地球から遥か遠くで
       “また次の赤ちゃん、誕生の時間ですよ”
       天においでになる神様に向って天使たちは言いました。
       “この子は特別の赤ちゃんで 沢山の愛情が必要でしょう”
       この子の成長は とてもゆっくりかもしれません。
       もしかして 一人前になれないかもしれません。
       だから この子は下界で出会う人々に
       とくに気をつけてもらわねばならないのです。
       もしかして この子の思うことは
       なかなかわかってもらえないかもしれません。
       何をやっても うまくゆかないかもしれません。
       ですから私たちは この子がどこに生まれるか
       注意深く選ばなければならないのです。
       この子の生涯が しあわせなものとなるように
       どうぞ神様 この子の為にすばらしい両親を探してあげてください。
       神様の為に特別な任務を引き受けてくれるような両親を。
       そのふたりは すぐには気が付かないかもしれません。
       彼らふたりが自分たちに求められている特別な役割を。
       けれども 天から授けられたこの子によって
       ますます強い信仰と豊かな愛を抱く事になるでしょう。
       やがてふたりは 自分たちに与えられた特別の
       神の思し召しを悟るようになるでしょう。
       神から贈られたこの子を育てる事によって。
       柔和で穏やかなこの尊い授かりものこそ
       天から授かったこどもなのです。

             Edna Massimilla (大江裕子 訳)

ー娘のブログからの転載終わり

この詩はきっと何らかの障害を持って生まれた子を授かったキリスト教徒の方が悩み葛藤し、そしてキリスト教の教えを聞き続けた結果辿り着き落ち着きを得られた心境を綴られたものと思います。障害を持って生まれた子を天からの贈りものだったと視点を変えられたのだと思います。私の娘も視点を変えることによって、長いトンネルから這い出ることが出来たのではないかと思います。

私たち人間は誰しも他人には言えない悩みやコンプレックスを持って生きているものだと思います。幸せそうに見える人だって何かを抱えているのだと思います。それに負けて死を選ぶ人も居ますが、大半の人は何とか生き抜いています。自分より境遇がひどい人と比べて「未だ私はましだ」と考えたり、或いはわが娘のように“ある言葉に出会って”視点を変えることが出来て生き抜く力を得られることもあります。

宗教と言うものは、実は視点を変えるために人間の知恵が生み出したものではないかとも思います。
「自分の力で生きている積りだったが、実は大きな力に生かされて生きていた」と視点を変えられることもあります。自力ではなく他力に依って生かされている世界へと視点を変えられたのが親鸞聖人だったとも言えるかも知れません。仏教の信仰とか信心、悟りと言うものは、神秘的、秘密的なものではなくして、実は視点が大きく変わり、揺るぎない視点を持つことだと言えるかも知れません。

後に日本のヘレンケラーと言われた、幼くして(突発性脱疽と言う病気に罹り)両手両足を切断された中村久子さんは、後年『ある ある ある』と言う詩を書いておられます。

       ある ある ある

       さわやかな 秋の朝
       「タオル 取ってちょうだい」
       「おーい」と答える良人(おっと)がある
       「ハーイ」という娘がおる

       歯をみがく 義歯の取り外し かおを洗う
       短いけれど指のない
         まるいつよい手が何でもしてくれる
       断端に骨のない やわらかい腕もある
       何でもしてくれる 短い手もある

       ある ある ある

       みんなある さわやかな 秋の朝

中村久子さんは京都女子大学の創始者であった甲斐和里子女史の詩、『悲しみは みなとりすてて うれしさの 数のかぎりを かぞえてぞみん』を大切にされていたそうです。
この甲斐和里子女史の詩も“無いもの”を数える生活から“在るもの”を数える生活へ視点を変えられたことを詠われたものだと思いますが、あの偉大な甲斐和里子女史もやはり人には言えない悲しみを抱えられていたのだと思います。

視点を変えることは大切でありますが、そう簡単に変えられるものではありません。宗教のお話を聞くと言うことは、視点をどのように変えるべきかを聞くことでもあると思いますが、自力で変えられないと思います。何時の間にか視点を変えて頂く、他力に依って変えさせて頂くと言うことだと私は思います。

        

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