No.810  2008.6.2

親鸞聖人の和讃を詠む-14

● まえがき
前回の和讃の〝まえがき〟で申しましたが、当時の念仏の教えは新興宗教と言う位置付けをされ、京都でも越後でも関東でも、親鸞聖人が行かれる先々で旧仏教に属する僧侶や為政者から弾圧を受けたことがこれら和讃から窺えます。

平安時代までの仏教は為政者などいわゆる上流階級の人々の平穏無事や、国の平安を祈ることで公に保護され、そして寺院生活も保障されていたのであって、一般庶民のためのものではありませんでした。9歳で比叡山延暦寺に預けられた親鸞聖人が何故そして何歳から自分が救われることを目的として仏道に励むようになられたかは明らかではありませんが、29歳で法然上人の下で信心を獲得(ぎゃくとく、と読みます)され、そして妻帯をされたのは一般庶民が救われる仏教を目指されたからであることは間違いないと思います。

当時の旧仏教と云われる宗派では一般庶民に教えを説くことは殆ど無かったと思われますので、一般庶民の信者は居なかったものと思います。従いまして、今日の和讃の中で「悟りを得る能力の無い人々」と言われているのは、一般庶民ではなく大方は旧仏教界の僧侶を指されていたものと思われます。

● 親鸞和讃原文

       菩提をうまじきひとはみな       ぼだいをうまじきひとはみな
       専修念仏にあだをなす         せんじゅねんぶつにあだをなす
       頓教毀滅のしるしには         とんぎょうきめつのしるしには
       生死の大海きはもなし         しょうじのたいかいきわもなし

● 和讃の大意
悟りを得る能力を断たれた末法の人々皆、自己の姿を顧みようとしないどころか、逆に念仏を信じる人々を攻撃するのであるが、頓教(頓は〝速やか〟の意、難行苦行をしなくても悟れる教えと言うこと、ここでは念仏の教えのこと)を破壊する報いとして、これらの人々は生死流転の大海に沈んで、迷いの生存を果てしなく繰り返してしまうのである。実に傷ましいことである。 「人の生を享けること難く、死すべきものの生きること難し。正しい教えに遇うこと難く、目覚めた人びと(諸仏)のこの世に出現すること難し」とお釈迦様が言われているけれども、私親鸞は今生幸いにも念仏の教えに出遇うことが出来たのであるが真に有り難いことである。

● あとがき
私は歴史を詳細には勉強していませんが、一般庶民自身の信心(絶対者を崇拝することを信仰とするならば、信心とは自分自身が覚者を目指すことと考えます)の対象として仏法が浸透するようになったのは、親鸞聖人の念仏の教えではなかったかと私は考えています。

親鸞聖人は9歳から29歳までの20年間比叡山で聖道門のご修行を為されました。そして聖道門では救われない自分を〝末法の私〟と自覚され、比叡山を下りて当時念仏の教えを庶民に説き始めていた法然上人の下で始めて信心を獲得されたのでありますが、法然上人もまた比叡山で30年以上のご修行の末に善導大師の書物の或る言葉に出遇われて念仏を選択され、やはり比叡山を下りられたようであります。そう云う自身のご経験から親鸞聖人は在家の一般庶民が救われるのは、この念仏の教えをおいて他には無いと確信されたのだと思います。

今でこそ禅寺へ通い坐禅を組む一般在家の人々が増えており、聖道門の禅宗が一般庶民も歩める仏道になっておりますが、我々のように世間で家庭・家族を持ち仕事を持って煩悩生活に身を置く庶民には信心を獲得すると言う点では依然として聖道門は『菩提を得まじき道』ではないかと考察しております。

それが証拠に、念仏の教えでは『妙好人』と称される一般庶民で信心を獲得(悟りを開いた)人々が数多く居られますが、私の知る限りでは禅門でそのような方が出られてはいないと思います。従いまして、在家の知識階級が求める仏教としては『念仏』よりも『坐禅』の方が格好良いのかも知れませんが、本当の信心を求め、今生で信心獲得(しんじんぎゃくとく、悟りを開く、迷いから解脱する)を目指すならば、親鸞聖人の念仏の教えしかないのではないかと今の私は思っている次第であります。


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No.809  2008.5.29

恵愛のこと

『恵愛』とは〝恵愛(えあ)ちゃん〟と云う1年5ヶ月になる女の子の名前です。私には今5人の孫(小6男子、小5女子、小2女子、4歳男子、1歳5ヶ月女子)が居ますが、〝恵愛ちゃん〟は一番年下の孫になります。年上の3人は長男の子供達で、年下の2名は長女の子供です。

恵愛ちゃんのことを書くのは初めてになりますが、恵愛ちゃんは生まれた時から右手の指が1本足りません。一昨年の12月16日に生まれたのですが、娘婿から誕生を報告する電話があったとき、「母子共に大丈夫なんでしょう?」と言う問いかけに、「それが・・・指が・・ひっついていて・・・」と歯切れが悪く、何か異常があることを知って、誕生の喜びが少し冷めたことを覚えています。

しかし、その時の娘婿の言葉「とても可愛いですよ、生まれて来てくれて感謝してますよ」を今でも感動と共に思い返すことが出来ます。

私自身、仏教を学んでいる身であり、「あるがままを受け容れる」と言う仏法の考え方も知っているのですが、あるがままを受け容れることの難しさを体験しました。勿論、将来のことを取り越し苦労もしました。小学校へ上がってから苛められないか、女の子だけに、娘になった時のことも考えたりしました。そして、私の娘も色々と苦労することだろうと二重の心配もしましたが、恵愛ちゃんの誕生は私に色々なことを教えてくれました。以前『人生とは偶然から必然への過程である』と言うテーマで二つのコラムを書きましたが、人生の必然性を実感的に教えてくれ、そして私に『偶然×偶然×偶然・・・・=奇跡=必然』と言う『縁起の公式』を考え付かせてくれたのは、実は〝恵愛ちゃん〟でした。

私が今回このコラムで恵愛ちゃんのことを書くこととしましたのは、娘が今週の始めに自分のブログ(子育て日記)で初めて公に発表したからです。『恵愛の指のこと、既に周知の方も多いけれど、これまでブログ上で触れてこなかったことが、何かが抜けているようななんだか釈然としない気持ちだったのです。将来恵愛がこの成長記録を読んだ時のためにも記しておきたいと思います』と言う心情を書いておりますが、私自身もコラムに書かなかったことに付いて、ほぼ同じような気持ちを抱いておりました。従いまして私もこれでホッと致しましたが、私は娘の母としての強さにあらためて感動し、そしてその娘と恵愛ちゃんをしっかり支えてくれている娘婿の存在を本当に有り難く思っております。そして、恵愛ちゃんはこの両親だからこそ無数の両親の中から選んでこの世に生まれ出て来たのだと、その必然性を思っているところです。

『恵愛』と言う名を授けたのはパパです。多くの愛に恵まれるようにと言う気持ちを込めたものだと聞いておりますが、多くの愛に恵まれると共に、多く人々に愛を恵む女性に育って欲しいと思っている次第であります。


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No.808  2008.5.26

親鸞聖人の和讃を詠む-13

● まえがき
公家政治から武家政治へと大きく舵を切った鎌倉時代だったからだと思われますが、仏教も上流階級の宗教から庶民の宗教へと衣替えすることになりました。中でも法然上人・親鸞聖人の念仏の教えは、「念仏を称えるだけで、極楽へ往生出来る」と言う喧伝効果もあって、まともに教育を受ける環境には無かった庶民にとっては取っ付き易く、庶民の仏教としての地位を揺ぎ無いものとしていくことになりましたが、それだけに他の宗派、特に奈良仏教界からの攻撃の手は厳しく激しく、それは時の朝廷を動かし、法然上人と親鸞聖人の流罪と言う形になって表れた程でありました。

それは致し方ないことだったかもしれません。つまり、念仏は現代風に申しますと鎌倉時代における新興宗教であったからであります。新興宗教は何時の時代でも厳しい批判の眼に曝されます。当時は新興宗教と言う言葉は無かったと思いますが、親鸞聖人は他力本願の教えが所謂新興宗教ではなく、お釈迦様が説き示されそしてインド・中国・日本の七高僧方が伝えられた、在家の人間が救われる唯一の教えであると確信されておられましたから、念仏を否定し続けた旧仏教と云われる奈良仏教への憤りを生涯持ち続けられたのでした。親鸞聖人はそのご著書等で他力本願の念仏の教えが特に末法の世における仏法の王道であることを発信し続けられたのでありますが、そのお気持ちが今日の和讃にストレートに表れているのだと思います。

そしてまた、この和讃を製作されている頃には日蓮上人が鎌倉で辻説法を盛んに行い、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と他宗を不成仏の教えと非難していた頃でありますので、その様な状況は京都の親鸞聖人にも知らされていたでありましょうから、そのようなことも合わさって今日の和讃を詠まれたのではないかと推察しております。

● 親鸞和讃原文

       五濁の時機いたりては         ごじょくのじきいたりては
       道俗ともにあらそひて          どうぞくともにあらそいて
       念仏信ずるひとをみて         ねんぶつしんずるひとをみて
       疑謗破滅さかりなり           ぎぼうはめつさかんなり

● 和讃の大意
末法五濁悪世になったので、人々も五濁の汚れをうけて質的に低下して来た。それが証拠に同じ仏道を歩んでいるにもかかわらず、出家の人も在家の人もお互いに相争って、念仏の信者を疑ったり謗(そし)ったり、滅ぼしたりすることが盛んになっている。実に嘆かわしいことである。

● あとがき
親鸞聖人は生涯法然上人をお師匠さんと仰がれ、その他力本願の念仏の教えが在家庶民の救いとなることを願って布教に勤しまれたに違いありません。それが流罪の地であった越後から関東へ、そして故郷京都へと居を移されて行かれたことに顕れているのではないかと思われますが、そのご努力とその真実の教えが現代にも伝えられ生きているか、他力本願の教えを信奉する私たちは胸に手を当てて考えてみる必要があると思います。

表向きの信者数は多くなり、本願寺教団は組織的には立派になっているのでありますが、教えそのものはひょっとしたら鎌倉時代に思われていた新興宗教のままではないか、私はそのような懸念を抱かざるを得ません。

「念仏を称えるだけで救われる、極楽往生出来る」、お弟子の中にはそう云う短絡的教えで信者数を増やした人々が居たのだと思いますが、親鸞聖人ご自身はそのようなことを申されてはいません。ただ、当時の庶民層は現代のような教育を受ける権利も義務もございませんでしたから、ご説法もやや短絡的にならざるを得なかったのだと思いますが、それをそのまま教育を充分受け、溢れかえる情報を持ち合わし且つ鎌倉時代の庶民からすれば裕福そのものの現代人に当て嵌めてしまっているところに大きな問題があるのだと思います。

仏法は知識ではないと言われますが、やはり私たち人間は耳で聞いて頭で理解して信頼出来る教えかどうかを判断致します。ましてや私たちの悩みの種は頭が生み出しているものであります。やはりその頭に訴えかけるところからスタートするしかないと思います。親鸞聖人のご苦労、ご心情を和讃から読み取り、他力本願の教えを親鸞聖人から引き継がねばならないと思っております。


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No.807  2008.5.22

二灯二依(にとうにえ)

『二灯二依』とはお釈迦様の教えの一つです。『自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)』の教えとも云われております。「自己を灯明とし、法を灯明としなさい」と言うことですが、「自己を灯明とする、自己を依り処としなさい」と聞きますと普通一般の人々は違和感を感じるのではないでしょうか。私も教えを聞いた当初は〝頼りない自分〟を依り処にすると云う意味が分かりませんでした。

この二灯二依の教えを私の尊敬する井上善右衛門先生は、次の様に理路整然と解説しておられます。

釈尊は最後の遺誡を弟子達に示して、「当(まさ)に自らを灯明(洲とも異訳される)とし、自らを依所とせよ。法を灯明とし法を依所とせよ」(南伝蔵、長部。涅槃経二・二六)という名高い教示を垂れておられます。自己を灯明とし依所とすることと、法を灯明とし依所とすることが表裏一体に説かれていますから、これを二灯二依の教えとよばれています。自己を離れたものは戯論です。法を聞く場は自己を離れてはありません。先ず自己を依所とし自己に目覚め自己に還らねばならぬ。しかしそれは自己に止まり自己に執じることではない。法は外にあるのではなく、常に自己の内にあって心の扉を叩いているのですから、自己より外に法に触れる場所はない。「火は熱い」と聞いても自己をよそにしていては、「火は熱いものだそうだ」ということに止(とど)まる外はないでしょう。火の熱いことを証するのは自己自身を措いてはない。法は自己において顕現するものです。この故に自己を離れて法はないと言い得る。自己に還らずに法を聞くとき、法は物語になってしまう。それは知識の対象とはなっても、〝いのち〟の拠処とはならない。親に抱かれる子のように、自分の心は法に抱かれている。だから自分に還るものは法に還らしめられざるをえない。自らを灯明とすることが法を灯明とすることになる所以がここにあります。
道元禅師が『正法眼蔵』に、「仏道をならうというは自己をならうなり、自己にならうというは自己を忘るるなり、自己を忘るるというは万法に証せらるるなり」と言われている有名な言葉は、またこの消息を語られているものでありましょう。仏道は自己をならうことに始まる。それが自己を超え、法をいのちとする世界を開く、それが即ち万法に証せられることに外ならぬと示されているのであります。

井上善右衛門先生は倫理学の学者であられましたから、少し難しい表現もあるかも知れませんが、二灯二依を余すところなく解説されていると思います。自分と言う存在そのものが法そのものの現れであると考えられるのではないでしょうか。法つまり、自然の道理、宇宙の真理、宇宙の法則に従って今の自分があると云うことですが、昔から仏教では『法』に『存在』と言う意味を与えて来ました。存在=法だと言うことです。法に従って流れている時間と他の全ての存在との関わりの中で初めて存在している自己に目覚めることが、仏道をならうということだと思います。


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No.806  2008.5.19

親鸞聖人の和讃を詠む-12

● まえがき
今日の和讃は、法然上人が「偏に善導一師に依る」と尊敬され、また親鸞聖人も「善導独り仏の正意を明かせり」と拝まれ、日本浄土教に決定的影響を与えた中国唐代の念仏僧と云われる善導大師の著書『法事讃』を念頭にされて詠まれたものです。その『法事讃』には『九十五種、皆、世を汚す。唯、仏の一道のみ独り清閑(しょうげん)なり。菩提に出到(しゅっとう)して、心尽くること無し。火宅に還来(げんらい)して人天(にんでん)を度せん』と記述されています。

従いまして、唯仏一道と言うのは、善導大師のお言葉ですから他力本願の浄土門の教えのことだと解釈すべきでしょう。他力本願の教えと言いますと、直ちに『お念仏を称える』と言う風に一般には捉えられるのだと思いますが、それは親鸞聖人のお気持ちに副うものではなく、先ずは、『自然法爾(じねんほうに)』の世界に生きる我が身を自然と気付かしめられるようになり、その結果として報謝の『お念仏』を称えるようになるのが極々自然ではないかと私は考えています。

そして親鸞聖人は更に、お念仏を称える人になったら他の人にも他力本願の教えを説いて共に救われようとする働きが生じることもまた自然の成り行きだと仰っています。それが『火宅の利益自然なる』と言う句に表れています。

● 親鸞和讃原文

       九十五種世をけがす         きゅうじゅうごしゅよをけがす
       唯仏一道きよくます          ゆいぶついちどうきよくます
       菩提に出到してのみぞ        ぼだいにしゅっとうしてのみぞ
       火宅の利益自然なる         かたくのりやくじねんなる

● 和讃の大意
釈尊ご存命当時、お釈迦様が説かれた仏法以外に唯物論や快楽論、運命論、懐疑論、道徳否定論など95種の教説があった。そしてこの末法の時代には更に色々な教えが生まれているが、それらはことごとく世の中を混乱させ、汚している。その中で、私が出遇うことが出来た本願他力の教えだけが世の中を清浄にする教えである。そして、この仏法の信心を得て仏になった人だけが、私たち迷いの世界に生きている者を救うという利益を施すのだ。その利他の働きは、信心を得たことから当然として出て来るところの利益であり、それが本願他力の自然の働きに外ならない(菩提とは悟り、火宅とは、我々が生きている迷いの娑婆世界を言います)。

● あとがき
私はキリスト教もイスラム教のことも詳しくは知りませんし、それぞれの教えを信奉する信者さんが世界に何億人も居られますから、仏教だけが人々を救う教えであるとは考えていません。それぞれ個人個人の選択、相性に依るものだと思っていますが、私自身に取りましては仏法が唯一救われると言いますか、真理そのものである、宇宙の法そのものであると確信しています。

架空の神様や、開祖と云われる特定の人物を崇拝し、その特定の人物が説いた教えを信じると云う宗教を私は信じることは出来ません。一般の方は「仏教は仏様を信じるのではないのか」と言われるでしょうが、少なくともお釈迦様は架空の仏様の存在を認めて居られません。阿弥陀仏もいわゆる方便です。

お釈迦様は亡くなられる時、お弟子達に、「これからは法を依り処にし、自己を依り処にしなさい。」と遺言されたそうです。お釈迦様ご自身を拝めとか、私が説いた教えを依り処にしなさいとは言われなかったのであります。「法つまり宇宙の真理を求めて行きなさい、宇宙の真理が現れた自己という存在を問題として生きて行きなさい」とおっしゃったのだと思います。

仏法を求める者、特に親鸞聖人の他力本願の教えに共感を覚えて求める者は、親鸞聖人が最晩年に大切にされた『自然法爾(じねんほうに)』と言う言葉を、敢えて言いますならば、お念仏よりも大切にしたいものだと思っています。それが他力本願の教えそのものだと考えるからであります。


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No.805  2008.5.15

地球は誰のもの?

昨日、担当医師から大腸の内視鏡検査結果を「異常なし、大腸癌に関しては全く心配ありません。」と告げられました。内視鏡検査時の検査技師とのやりとりから、多分大丈夫とは思ってはいましたが、やはり診断日の昨日は、少々ビビッていましたので、内心ホッと致しました。ただ、腹部の腹部膨満感は解消しておりませんので、この原因を究明するまでは医者通いが続きます。

さて、五月に入ってからミャンマーではサイクロン、中国四川省では地震が相次いで発生し、実数が未だ把握出来ない位の死者が出ています。合わせて10万人に達する可能性もあると云う報道もあります。私たちが最近経験した阪神・淡路大震災の規模をはるかに上回る想像を絶する大災害です。
町全体が崩壊し、隣近所に住む全員が死亡すると云う私たちには非現実的なこの事実を私たちはどう受け止めたらいいのでしょうか。日頃「命の尊さ」を叫ぶ私たちにとりましてこの厳しい現実は受け容れがたいものでもあります。

「悲惨で厳しい災害を仏教はどう捉えるのだろうか、仏教徒はどう受け容れるのが教えに適っているのだろうか?」、と私は自問自答していました。このような悲惨な災害、或いは事故や事件に関する仏教サイドのコメントに出遇うことが意外と少ないのも事実です。そこで思い起こしましたのが、親鸞聖人が越後から関東に赴かれるときに、当時発生していた大飢饉で一般庶民に数万人の犠牲者が出ていることを悼み、浄土三部経の千回読誦を思い立たれたと言う史実です(しかし親鸞聖人は読誦し始めて3、4日目には他力の教えを信奉する自分が自力の行に頼むことを反省され中止されたと奥方である恵信尼が書き残されており、これは有名なお話です)。

親鸞聖人は一体どのような想いから自力の行を止められたのでしょうか、単に自力に頼ってはいけない、全て他力にお任せするのだと言うことではないと思います。「飢饉で大量の死者が出ることを自分一人の力ではどうすることも出来ない、阿弥陀仏にお任せするほかはない」と言うことではなかったと思います。それでは余りにも冷静過ぎて血の通った人間の考えることではないと私は思います。

親鸞聖人がどのように思われて心の中での決着を図られたかを今では知る由もございませんが、私が自問自答した結果は、「何故このような悲惨なことが起るのかを考えること自体、人間の驕(おご)りではないのか。サイクロンにしろ地震にせよ、生きている(宇宙の動き、宇宙に働く力の影響を受けて活動し続ける)地球に自然の道理として生じる現象であって、別に不思議なことでもない。特別人類に不幸を齎(もたら)せようと云う神の力が働いているものでもない。他の動植物の命は今回の犠牲者と比較にならない位に数十億単位で毎日刻々と奪われているのが地球上の出来事なのだ。地球は人類だけに与えられた人類の所有物ではない。地球を人類の独占物と錯覚していることこそが大問題なのだ。」と心が納得しました。

そして、今回の災害で命を奪われた方々に哀悼の意を表しますと共に、今こうして生きている我が命は偶然の積み重ねの奇跡であり、その必然を刻々感謝しながら生きるところにしか心の落ち着き処はないのだと思った次第であります。「今生きている一瞬の事実と、いずれ必ず死ぬと言うことのみが真実だ」と言うことと共に「地球は人類の所有物ではない」と言うことを忘れないようにしたいものです。


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No.804  2008.5.12

親鸞聖人の和讃を詠む-11

● まえがき
ここからの4首の和讃は、この五濁悪世において唯一つ仏となる教えは弥陀の本願を信ずるのみである事を詠っているようであります。『念仏成仏是真宗(ねんぶつじょうぶつこれしんしゅう)』(念仏による成仏の道こそが、浄土真実の教えのかなめである)という親鸞聖人のお立場がこれからの4首の和讃に一貫して流れていると云われています。

親鸞聖人と禅宗(臨済宗、曹洞宗)がどのような関わりを持っていたか知りません。ただ、臨済宗の開祖である栄西禅師、曹洞宗の道元禅師は、親鸞聖人と同じ時代を生きていた僧侶であり、しかも、その時期は異なりはしますが同じ比叡山延暦寺で得度した間柄でありますから、お互いに面識は無くとも、存在は知り合っていたはずではないかと思います。そして勿論、真言宗を開いた弘法大師空海、天台宗を開いた伝教大師最澄の事をご存知だったことは明白でありますので、救われる道が浄土門だけであるとは思ってはおられなかったはずであります。

そんな中で親鸞聖人は、末法の世に生きる全ての人々は本願他力の教えでしか救われないと云うお立場を取られました。私は少し前まではこの親鸞聖人の考え方に少々抵抗感を抱いておりました。つまり日蓮上人が他宗を『念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊』と排した立場とあまり変わらず、排他的な狭い考え方ではないのかと思っておりました。実際、親鸞聖人以降にも浄土真宗よりもむしろ禅宗に多くの優れた禅師達(一休禅師、白隠禅師、良寛禅師、盤珪禅師等)が世に出られていますから、私たちが救われる仏門には禅門と浄土門があると考えるべきでありましょう。

しかし最近になりまして私はその本願他力でしか救われないと云うお考えは決して排他的な立場ではなく、「私のような悪人が救われる道は、師匠法然上人が選ばれた念仏の道でしかないのだ」と言う自覚に裏打ちされた信心が言わしめたものだったんだと思うようになりました。

● 親鸞和讃原文

       末法第五の五百年         まっぽうだいごのごひゃくねん
       この世の一切有情の        このよのいっさいうじょうの
       如来の悲願を信ぜずば       にょらいのひがんしんぜずば
       出離その期はなかるべし      しゅっりそのごはなかるべし

● 和讃の大意
今私が生きているのはお釈迦様が亡くなられてから2000年が経った5回目の500年に入ったところである。この今の世に生まれた凡夫、悪人の私は、阿弥陀仏の悲願つまり本願を信ずるよりほかには救われる道はないのである。

● あとがき
鎌倉時代を生きられた親鸞聖人は、地球が丸いこともご存知ではありませんでした。天竺(現在のインド)や宋(現在の中国)が日本海の彼方に在ることはご存知ではありましたが、地球にはそれ以外にも多くの国があることを存知ではありませんでした。ましてや、キリスト教、イスラム教と言う宗教があることもご存知ではありませんでしたでしょう。

親鸞聖人がもし現代に生まれられたとしても、本願他力の教えを選ばれるではありましょうが、今では私たちが手にする原始経典も大乗経典も鎌倉時代よりも格段に増えておりますので、親鸞聖人の仏教観もそして宗教観も多少は異なったものになるのではないかと思います。

私たちが親鸞聖人の和讃を読みまして、念仏だけが凡夫が救われる道だと言うお言葉を表面上の解釈に留まって排他的になるのではなく、親鸞聖人の悪人としての自覚の深さ、仏の智慧の光を一杯に浴びられている信心の深さを感じ取るべきだと思うのであります。


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No.803  2008.5.8

初めての大腸内視鏡検査

1ヶ月前のコラムでお知らせしていた大腸癌の早期(??)発見の為の内視鏡検査を連休明けの昨日(水曜日)、近くの病院で受けました。最近はこの検査を受ける人が増えており、私も1ヶ月待ちでした。これから受ける方の参考になればと思い、内視鏡検査がどう云うものか実録しようと思います。

検査当日を迎えますと、少し「いよいよか」と言う気持ちにもなりました。医師による診断は一週間後ですが、胃カメラを飲んだときの経験から、今回も内視鏡の画像を自分でも確認出来るはずだと思い、一応腸壁に沢山のポリープが見付かった時の覚悟を致しました(やはり、検査技師と一緒に画像を確認しました)。

検査は午後2時からでしたが、二日前から食事内容制限があり、勿論検査当日の朝昼は絶食。午前7時にガスモチンと言う錠剤(一般名はクエン酸モサプリド。 弱った胃腸の運動を活発にして食べ物を胃から腸へ送り出すのを助け、吐き気や嘔吐、食欲不振や膨満感、胸やけなどの症状を改善する.)を3錠飲み、午前7時半までに、ニフレック(味の素株式会社の商品名)と言う経口腸管洗浄剤、137.155gを2リットルの水に溶かした(既にニフレックの粉薬が入っている2リットルの専用容器を渡されている)水溶液を準備しました。そして、午前7時半になってから、コップに180ccずつ採って、1杯あたり約15分掛けて飲み干し始めました。通常は5杯目位を飲みだした頃(1杯目を飲み足してから1時間後)に初回の便意を催すそうですが、私は7杯目を飲みだした頃、時間にして飲み始めてから1時間半位経ってから初めてトイレに駆け込みましたので個人差があるようです。2リットルを飲み終えたのは午前9時45分、飲みだしてから2時間15分でした。そして、午前11時までに5回トイレに通いましたが、最後の2回は殆ど透明の水と変わらなくなっていました(少し黄色いかなと言う程度)。

その後、病院に出発する午後1時半までにトイレには4回座りましたが、出るのは水そのものとしか言えないものでした。

そして、いよいよ車で約7分位のところにある病院へ行きました。受付に予約票を出して、簡単な問診票を書かされて待つこと15分で看護師さんからお呼びがかかりました。初めての大腸内視鏡検査ですから、どんな検査なのか、多少の不安を抱きつつ、検査室に誘導されましたが、優しい看護士(婦)さんでしたので、あまり緊張はしませんでした。

肛門から先端にカメラ機能がある管を差し入れることであろうことは、胃カメラを飲んだ経験から予測していました。妊産婦のように両股開きさせられるのか、横向きでお尻を突き出すだけなのか、老人の私ではありますが、色々なスチュエーションを覚悟しながら待っていましたが、検査時用の衣類を手渡されて、少し安心しました。肌着の上から羽織る上っ張りと、ステテコより少し短い程度のパンツを支給されて着替えさせられましたが、「パンツの開いている方が後ろですからね」と言われ、下半身真っ裸で検査台に乗るのではないことが分かって一安心しました。新しく購入した下着に着替えていましたがその必要は全くありませんでした。しかし一方、腸に差し込まれるカメラと管の太さが、人差し指程度と聞かされ、事前の説明書には柔らかくて細い管と書かれていましたから、そんなに太いのかと自分の人差し指を眺めながら少しビビりました。

検査を受けるに当って「おならが出そうになると思いますが我慢はしなくてもよいですよ。大腸に残っている水とか少量の便などは吸い込みながらカメラを入れていきますからね」と云う説明を受けた後、緊張を和らげる筋肉注射を肩に打ってもらってから直ぐに検査台へ連れて行かれました。ベッドでは右を向いた姿勢でベッドに寝、膝を胸元に引き寄せて、検査してくれる技師にお尻を突き出す姿勢をとらされました。肛門とその内部近辺に何かが塗りこまれましたが、これは多分カメラの先端が差し入れ易いようにと言う配慮だろうと思いました。いよいよ、カメラが差し込まれました。盲腸のところまで差し込まれて、引き抜いて行くときに、画像に映った腸壁を詳細に目視検査していくそうですが盲腸まで個人差があるものの約1m位の長さと言うことでした。大腸は曲りくねっていますからカーブをカメラが通る時は痛みが伴いますし、且つガスも発生し易く少し緊張しましたけれども胃カメラを飲むよりも簡単だったように思いました。

途中、姿勢を仰向けに変えたのですが、それからは私もテレビ画像を見てよいと云うことで検査技師と対話しながらの検査となりました。2個のポリープらしきものがありましたが、大きさ3mm程度で大したことは無いと言う検査技師の言葉にホッとしたりしながら、20分程度で全て終了致しました。
幸い癌らしき出血箇所は見当たらず、一週間後の診察でも多分大腸癌と言う診断は下されないと思いホッとはしていますが、依然として腹部膨満は解消しておりませんので、別の危ない病である可能性があり完全な開放感を得るには至っておりません。

初めての大腸癌内視鏡検査を受けた訳でありますが、腸の洗浄などの前準備は別としまして、検査自体は想像していたよりも簡単で、バリュウムを飲んで行なう胃癌検診と同程度のものではないかと思っております。これくらいなら、年に一回位は大腸内視鏡検査を受けてもよいなとさえ思っているところです。


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No.802  2008.5.3

おじいちゃん・おばあちゃんの連休

大型連休も明日が最終日、各交通機関、高速道路は今晩あたりUターンラッシュのピークを迎えることだろう。私達夫婦の連休は妻の勤務の関係で、3、4、5日の3日間だった。初日は友人の引っ越し祝いの宴、後の二日間は3人の孫達(小2、小5、小6)のおじいちゃんとおばあちゃんを精一杯努めた。

おじいちゃん・おばぁちゃんの持て成しぶりを少し紹介すると、メインイベントの夕食料理の希望を予め聞いたが、家族で意見が分かれたらしく、焼肉と手巻き寿司両方を振舞うことになった。ワイン、手巻き寿司用焼き海苔、野菜、海老等は前日に買い揃え、メインの牛肉はこの辺りで評判の美味しい牛肉をインターネット注文で取り寄せ、寿司ネタは中トロ、鰤(ぶり)トロ、はまち、鯛、イカ、イクラを買い揃えた。大人も子供達も焼肉と手巻き寿司を満喫し、最後はデザートのイチゴ、シュークリームでしめると言う賑やかで裕福な宴を催すことが出来た。
その後は、その三人相手に麻雀教室を開講。おばあちゃんと孫三人が麻雀卓を囲み、私はコーチ役で、3人から代わる代わるお呼びが掛かって大忙し。結局深夜12時過ぎまで麻雀三昧となった。そして三人の孫達はすっかり麻雀好きになって、今朝も朝食後は麻雀三昧、昼食後も麻雀・・・、帰りたくないと言う孫達はお母さんに促がされてシブシブ我が家を後にしたのであった。

全国の約一千万人のおじいちゃん・おばあちゃん達の連休も里帰りしたお孫さんのお世話に当てられたのではないかと思う。「来て嬉し、帰ってやれやれ孫の顔」と言う古来からの名文句があるが、そう言う想いもないではないが、後期高齢者に限らず年寄りに厳しい経済状況の日本にあって、お金も要った、体力も要った二日間ではあったが、幸運にも孫達の世話が出来たおじいちゃん・おばあちゃんである幸せを思ったことである。

そう思えたのは、昨年初めに最も厳しい経済状況に遭遇し、住まいを手放す寸前にまで追い詰められていた私達だからであろうと思う。そして、そう言う私達に支援の手を差し伸べて下さった人々の存在を思うからであろう。実際、昨年のご支援が無ければ、今この家には居ないし、孫達を呼んで料理を振る舞う気にもなれなかったであろうと思う。持て成された孫達も幸せだけれども、それ以上に孫達を世話出来たおじいちゃん・おばぁちゃんの自分達の幸せを思ったことである。

そして、直接支援して頂いた方も然ることながら、その方の陰に隠れて見えない無数の人々と無数の縁を思う時、孫達の世話が出来た今年の連休は奇跡だと言う思いが強いのである。前回のコラムで、偶然と必然と言うことを取上げたけれども、無数の偶然の積み重ねで生じた出来事は必然であるけれど、見方を変えれば、無数の偶然が積み重なった『奇跡』だとも言えるからである。

考えて見れば、今ここにこうして生かされて生きていることそれ自体、『奇跡』としか言えないと思う。平生は忙しさに紛れて、我が命の奇跡を思えないけれども、時々は我が命の奇跡を思い返してみる必要があると思った連休であった。


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No.801  2008.5.1

続―人生とは偶然から必然への過程である

私の妻とはある日帰りバス旅行でバスの座席が前と後になったことがキッカケで知り合った。そのバス旅行は私が社会人になって初めての赴任地であった熊本県水俣市にある、かの有名なチッソ株式会社の組合が主催したものであったが、妻はチッソに勤務していた訳ではなく、父親がチッソに勤務していた関係で半ば強引に参加させられたようなものだったと思う。しかし、まさかそれが長い人生が決まるバス旅行になるとは・・・。

それまで全く面識もなかったのであるから、座席が一つ違っていたら、勿論結婚していなかったであろうし、今の私も無いだろうし、この無相庵コラムも生まれていなかったはずである。ましてや、私達の二人の子供、そしてその五人の孫達もこの世に存在しなかったわけである。これを偶然と受け取るか、必然と受け取るかは本人次第である。「人生とは偶然から必然への過程である」と言う考え方を一般論として聞く場合や、他人の人生を見て他人に助言する言葉である場合にはあまり意味の無いことである。本人が自分の人生の出来事を必然と受け取れるところに大きな意味があり、人生が意義あるものに転換するのだと思う。

振り返れば、私が水俣で妻と出遇う以前にも多くの偶然が積み重なっている。そして、それら偶然は今は悉く必然に思えるのである。私は小学校高学年の時からソフトテニスに打ち込んでいた。中学では兵庫県の大会で準優勝し腕に自信があったのであるが、高校では国立大学への進学を目指すために部活は断念して受験勉強に打ち込み、そのお陰で何とか大阪大学に現役合格することが出来た。そして母親との約束通り現役で合格したので大学進学後は留年覚悟でソフトテニスに打ち込み、テニスの成績を輝かしいものにすることが出来たが、実際留年もしたのである。

この留年がチッソとの縁を生み出したことを、後になって研究室の教授の話しから知ったのである。私が留年して4年生になり就職先を考えていた頃に特別講義に来られたのが当時のチッソの研究所長だったのであるが、その方を招聘したのが私の研究室の教授であり、その関係で私の就職先が決まったらしいのである。もし、私が留年せずにすんなり卒業しておれば、チッソの研究所長とは無関係であって、チッソ株式会社との縁は無かったに違いないのである。
それに、その教授の研究室は6つあった研究室の中で一番人気がある研究室で希望者が多くくじ引きで私は所属が決まったのであるが、そのくじ引きに当たらなかったら、今日の私は無かったのである。
また、そもそも阪大に進学したのも兄が進学していた大学だったからであった。あれやこれやと一つ一つの偶然が無数に積み重なって私は今の妻と結婚したのだと思わざるを得ないのである。そしてそれはとても偶然の積み重ねとは思えないのである。

おそらく私だけではなく無相庵コラム読者の皆さまにも、私と、否私以上に必然の人生を歩まれているのではないかと思う。そう思う時、現在只今為していること、出遭っていることが大きな意味を持って来ることを思わざるを得ず、一瞬一瞬が尊い瞬間であり、尊い出遇いなのだと思えないだろうか。

人生に偶然は無い。全て必然なのだと本当に思う次第である。


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