No.790  2008.3.24

親鸞聖人の和讃を詠む-6

● まえがき
前回のコラムで申し上げましたように、これからの五首は末法五濁悪世に生を受けたと自覚された親鸞聖人が法滅尽を予想して書かれた経典の言葉を引用されてお気持ちを詠われたものだと考えられていますが、私が思いますには、正法・像法・末法と言う時代が現実にも史実的にも存在すると言うものではなくして、私たち在家の煩悩生活を送る者にとりましては、何時の時代においてもこの世は苦に満ちたものであります。

しかし、煩悩を満足させられる瞬間もありますから、煩悩具足の身には、なかなかこの世が『一切皆苦』の世とは思えません。なかなか五濁悪世とは思えずに、何かよいことがありそうだ、いや在って欲しいと、煩悩の満足に東奔西走する私でしかありませんが、心の底からそうは思えない私でもあります。

そういう自己と真剣に向き合われた親鸞聖人が、他力本願の教えによって救われた慶びがお有りだからこそ、詠われた歌だと思います。

● 親鸞和讃原文

       数万歳の有情も           すうまんさいのうじょうも
       果報やうやくおとろへて       かほうようやくおとろえて
       二万歳にいたりては         にまんさいにいたりては
       五濁悪世の名をえたり        ごじょくあくせのなをえたり

● 和讃の大意
人間の寿命は、始めは限りなく長かったけれども、次第に短くなって八万歳になり、そして長寿を得る果報が衰えて、とうとう二万歳の寿命しか得られなくなったのである。そうした時、この世は五濁悪世と呼ばれるようになってしまったのだ。

注)『転輪聖王師子吼経』と云う古い経典に、人間の寿命が悪業を積むことに依って短くなって行くと説かれているようであります。その経典を勉強された親鸞聖人が引用されたのだと思われます。史実と致しましては、医学の発達で逆に寿命が延びておりますので、飽くまでも例え話であります。

● あとがき
浄土門の教えは、罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫だと自覚せねばならないとか言う教えで暗いイメージを持たれていたり、一方で念仏すれば救われると言う幼稚な教えであると云うイメージを持たれているようでありますが、それは親鸞聖人の教えを説く立場の方々の説き方に誤りがあったからだと思います。

懺悔だけ、歎きだけでは宗教でもなく信仰でもないと思いますし、祈りや念仏を称えるだけで救われると言うものではないと私は思います。

親鸞聖人の和讃の一部を読むだけでは親鸞聖人が深い反省心を持たれた方だとしか思えないのだと思います。和讃を全て読めば慙愧と慶びが同時にあることに気付くはずであります。先入観を廃して和讃全体を読み進みたいと思っております。


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No.789  2008.3.20

米沢英雄師の縁側仏法―信知(しんち)

親鸞聖人の教えを信奉する人々の中に、信仰というものを誤解されている方々がいらっしゃるように思います。更に、まことに遺憾に思いますのは、親鸞聖人の教えを説く立場の方々の中にさえ、親鸞聖人のお考えになって居られる信仰と異なる考え方をされている方がいらっしゃる事であります。

私は、親鸞聖人のご心境に到達したいと云う気持ちを強く抱いておりますが、未だ未だ道遠しと言うのが現状であります。従いまして、色々と仏教書を読み、ご法話もお聞きし、同じ道を歩んで居られる方々の参考にもなれば幸いだと考えまして私の勉強している過程をこのコラムでお伝えさせて頂いております。しかし、私の二、三のコラムを読まれた或る先生(各地で親鸞聖人の教えを説いて居られる方)が、念仏を素直に称えることが出来ないでいる私に対しまして、頭で考えているだけでは駄目だと言う意味の次の感想メールを下さいました。

『自覚が徹底された姿は必ず、「念仏、一つ」になった時ではないでしょうか。そして、念仏する事実が展開するのではないでしょうか。 念仏しないことには徹底はできないようにおもわれます。仏の光によき師・友を通して照らされるとき、すなわち「阿弥陀仏」に触れたら「南無阿弥陀仏」と念仏に必ずなる、南無と頭が下がる、ということが徹底した姿ではないでしょうか。「考察」の域を超えるのが仏法だと教えられています。具体的には「自覚が徹底されていない----」と言うよりは「これが私の現実、南無阿弥陀仏」と念仏で受け取ることが大切だとお聞きしています。』

考察の域を超えるのが仏法だと言うことは間違いではないと思いますが、私は考察を放棄してしまうと考察の域を超えられないと思っています。そして、考察せずして他力本願の教えを疑うことなく信じて念仏を称えられる人々は、もともと上等の人格を持ち合わされている方ではないかと思っておりますが、米沢師の下記の文章に出遇い、私は救われる想いが致しております。

抜粋――

私は、人間は考えるために頭を持って生まれてきて、頭が与えられておると思うので、生きている間になるべく頭を使って、考えさせていただいた方が、いいんじゃないかと思うんです。 仏法とは信ずるもので、考えるものでないと、こうよく言われるかも知らんけれども、まあこれは曽我量深先生も言うておられるけれども、信知というて、やみくもに信じるのではなく、信知。その筋道がはっきり分かって信じるものであると、こう思う。やみくもに信じるのを罪福信(ざいふくしん)と云うたんだろうと思う。親鸞聖人の真精神というのは、よく納得して信じると、こういうものでないかと思うですね。

――抜粋終わり

本願寺教団のご講師方は、歎異抄の第二章の中の「ただ念仏して・・・」と言う親鸞聖人のお言葉を取り出されまして、「何も考えず、何も計らわずに念仏だけを称えればそれでよいのである」と説かれる傾向にありますが、今は鎌倉時代から750年にもなろうとしている現代であります。当時には全く有り得なかった科学教育を受けている私たち一般民衆でありますから、禅宗の学びの姿勢を取り入れまして、疑うことを排除せずに説かれる方が、親鸞聖人の教えがより多くの人々に理解され、それらの人々の救いになるのではないかと考えます。米沢師は本願寺教団に属さない立場であるからこそ出来たご発言なのかも知れませんが、大切なご発言だと思います。

さて、罪福信に付きまして、インターネットから詳細な説明を引用させて頂きます。

「人事を尽くして天命を待つ」ことはなかなか出来ない私たちです。
そして、どこまでも自分の不幸は避けたい、幸せは手に入れたい、そのためには神さまだろうと仏様だろうと利用出来そうなものはなんでも利用します。
親鸞聖人はそれを「罪福信」と呼ばれました。罪福信は人間である限り誰でもが持っている欲望です。この罪福信を信仰だと思っている人が多いのではないでしょうか。
人間はだれでもこの世での幸福を求め、不幸からは逃れたい。その上何が起こるか予測のつかない将来に対する不安からは逃れられません。
そういう人間の強い執着心と弱いこころとが合作したのが罪福信です。


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No.788  2008.3.17

親鸞聖人の和讃を詠む-5

● まえがき
今日から勉強致します正像末和讃の第4首から第9首までは、親鸞聖人が生きて居られる末法の世の姿を悲しみを込めて詠われているものであります。この悲しみは悲しみだけに終わらず、第10首からの和讃で、その末法の世で他力本願の教えに出遇えた慶びを詠われるのであります。
親鸞聖人は悲嘆から法悦へと大転換されている事が和讃から窺えますが、元々、他力本願の教え自体、悲嘆があるからこそ法悦が湧き上がるものだと云われています。

今日の和讃の中にある『第五の五百年』と言うのは、インドの法滅尽思想を集大成した『大集経』が漢訳されており、その月蔵分に,釈迦滅後2,500年の仏教の盛衰を500年に区切って表した五堅固説(解説堅固・禅定堅固・多聞堅固・造寺堅固・闘諍堅固)が説かれているところから引用されたと言うことであります。
第一の五百年間は慧堅固の時代、つまり智慧を学ぶこと堅固(心がしっかり定まっていること)で、したがって解脱を得ることが確実であるという時代、第二の五百年間は、禅定をおさめることが確かな時代、つまり禅定をおさめる人々が実際に存在するという時代、つぎの第三の五百年間は、多聞・読誦堅固と申しまして、釈尊の教説をよく学び信奉することの盛んな時代。次の第四の五百年間は、お寺を造ったり、善事をおさめたり、犯した悪事を懺悔したりして、とにかく形の上ではあるけれども、宗教的な生活が保たれている時代。やがてそれが終わって第五の五百年間は、釈尊が亡くなられてから二千年ないし二千五百年の間ですが、この期間は三時の思想で申しますと、末法の時代に入った頃で、この時代には争いがサンガ(仏教教団)の中に起り、聖者のおさめる善法が隠れてすたってしまう時代であります。

● 親鸞和讃原文

       大集経にときたまふ         だいじつきょうにときたもう
       この世は第五の五百年        このよはだいごのごひゃくねん
       闘諍堅固なるゆへに         とうじょうけんごなるゆえに
       白法隠滞したまへり         びゃくほうおんたいしたまえり

● 和讃の大意
大集経に説かれているように、今の世は第五の闘諍堅固の五百年に当たるから、仏教徒達は論争や闘争に明け暮れ、釈尊の正法が滅んでしまう時代なのである。実に悲しい世に生まれたものである。

● あとがき
親鸞聖人が闘諍堅固の時代と言われた背景には、50年前に奈良の旧仏教の働きかけで念仏の布教が禁止され、師匠の法然上人は土佐へ、自分は越後へ流罪された事や、鎌倉の日蓮(1222年~1282年)が『念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊』と他宗を批判していることが京都に住む86歳の親鸞聖人の耳に入っていたからではないかと思われます。

しかし考えて見ますと、親鸞聖人の生きて居られた時代よりも、現在の方が末法の世と言うに相応しい位に、仏法が廃れておりますし、昔は有り得なかった親が子を殺し、子が親を殺すと言う他の動物が決して犯さない罪さえも平気で犯すようになっております。そして地球環境も破壊されています。末法万年と云われますが、時代と共に末法の度が増しているように感じられます。
親鸞聖人の和讃は現代の私たちこそが詠うべきものでありますのに、その感情さえ失くしてしまっているのだと深く反省させられる次第であります。


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No.787  2008.3.13

米沢英雄師の縁側仏法―裸の自我に出遇う

今回も引き続きまして、米澤先生の縁側仏法(縁側で日常会話を楽しむような気楽な仏法の話)をご紹介したいと思います。今日のお話は、昨年末のコラム『五十歩百歩』でご紹介した『一番好きなもの』と言う詩に通じるものであります。自分の心に巣食う自我を知ると言うことは、こう云うことだと思いますし、それはそのまま真実に照らされた自己に出遇ったと云うことではないでしょうか。自我にまみれた自分から、真実の自己を生きる自分になりたいものだと思わずには居られません。

抜粋――

松任市に松本梶丸と云うお寺の住職さんが居る。その門徒さんの人でおばあさんが胃ガンで入院しとる。自分の門徒が入院しとるということになると、お寺さんとしてはやっぱり見舞いに行くだろうと思う。で、松本君は見舞いに行った。そしたら、息子の嫁がおしゅうとめさんを看病していた。これはどこでもあることや。で、門徒のおばあさんに見舞いをいうて出てくると、お嫁さんが送って出る。これもまあ従来のしきたり通りや。

で、松本君がそのお嫁さんに、「毎日看病ご苦労さんですね」――これも常識的に誰でもいうことや。そうしたらそのお嫁さんがいうた。「もうしばらくですから、うれしいです」と。それは医者が、もう一ヶ月のいのちやというた。それで「もうしばらくですから、うれしいです」と。こんなこといえますか。ひどい嫁さんや。そして、その次の言葉はもっとひどいわ。 「こうして、おしゅうとめさんを看病していて、思い出すのは、おしゅうめさんからいじめられたことばかりです」と。ひどい嫁さんや。こんな嫁さんに当たったら、かなわんな。

で、私はその嫁さんこそ、おしゅうとめさんを真心から看病していると思うんや。というのは、その後に「ここで初めて親鸞聖人にお会いしました」というた。親鸞の「虚仮不実のわが身で、清浄の心もさらにない」――そういう自分の心をどん底まで照らし出されておるというか、これが浄土真宗の生命だと、こう思うんですね。「ここで親鸞聖人にお会いしました」と。いかにつとめてもつとめても、心の中では虚仮不実があるぞということを見逃さない。そういう鋭い目を、本願の念仏から、そのお嫁さんが頂いているということですね。 その話を聞いて、この嫁さんこそ、心の底からそのおしゅうとめさんを、看病しておるなあと、私は想いましたね。

まごころから看病しながらも、自分の心を内観すると、こういう心があるということを悲しんでおったと、こう思うんですね。そういうところで、親鸞の教えというものが、いかに人間の現実、実際というか、そういうものを見抜いているか。鋭い眼(まなこ)で人間を見た教えか、それは人間の眼(まなこ)ではなくて、仏の智慧の眼から見られた人間、自分というものを親鸞がさらけ出すことが出来たということです。

親鸞が自分で仏を信ずるというそんなもんではない。自分が仏を信じるのだったら、信じないときもあるのや、忙しい時には、それどころでない。そういう目に我々は再々会うけれども、仏から信じられている身でそういうことになると、別にナンマンダフとなえねばならんとか、となえんでいいとかいうものが何もない。

行くところ可ならざるはなし。これを自在身という。仏法というのは我々を自在身にならしめる。格好よくとかそういうものでなくて、自在身ならしめる。自在身と自由は違うわけやね。自由とはわがまま、自在身とは行くとろ可ならざるはなし。何を言うても何を行なっても仏法にかなってる。それを自在身と、こういうんだろうと思う。仏法の目指すところは皆を自在身たらしめる。一人一人を自在身にしたいというのが本願のねらいであるといえるのではないかと思うんです。

――抜粋終わり

真実の自己に目覚めれば、自由自在の人生を生きられるのだと思います。


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No.786  2008.3.10

親鸞聖人の和讃を詠む-4

● まえがき
この和讃で分かることは、他力本願の教えはお釈迦様が生きて居られたときからあったもので、末法の世だけの教えではないと親鸞聖人は考えられていたと云うことです。
それは浄土三部経がお釈迦様の説法として遺されていると考えられたからでしょう。他力本願の教えをお釈迦様が直接説かれたものかどうかは分かりません。今ではそれを詮索する意味もないと思います。お釈迦様は『対機説法』とか『次第説法』と言われますように、説く相手に依って説き方を工夫されていたようですので、実に様々な内容の経典が生まれております。

他力本願の教えは、私たち在家の人間を対象として説かれたお話が後年にまとめられ編纂されたものだと思われます。そして親鸞聖人が在家の生活を為されながら、他力本願の教えに依って救われる道を体現され、末法の私たちに道を示されたのであろうと思います。

● 親鸞和讃原文

       正像末の三時には          しょうぞうまつのさんじには
       弥陀の本願ひろまれり        みだのほんがんひろまれり
       像季末法のこの世には        ぞうきまっぽうのこのよには
       諸善龍宮にいりたまふ        しょぜんりゅうぐうにいりたもう

● 和讃の大意
正法・像法・末法の三つの時機にわたっては常に弥陀の本願の教えだけがひろまっている。これに反して、諸善を積んで悟りを開く自力聖道の教えは、像法の末から末法のこの世にかけて姿を消して龍宮に隠れてしまった。

● あとがき
親鸞聖人が七高僧として尊敬されている祖師方は、法然上人にしても、源信僧都にしても、また善導大師にしましても、妻を持たず家庭を持たない僧侶であります。煩悩生活にまみれた私たち一般庶民とは縁遠い方々であります。おそらくは、親鸞聖人がこの世にお出ましにならなければ、他力本願の教えは、それこそ龍宮に入って、私たちが出遇えることは無かったであろうと思います。

他力本願の教えが日本で花開いたことは正に奇跡の中の奇跡でありますが、また一方、聖徳太子から親鸞聖人へと仏法が伝わったことは自然の成り行きだったとも言えるのかも知れません。


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No.785  2008.3.6

米沢英雄師の縁側仏法―本当の救いとは?

先週に引き続きまして米沢英雄先生のご法話から抜粋させて頂きます。今日は『本当の救い』と言うテーマですが、でも『救い』とはどう云うことでしょうか。これ自体なかなか即答するには難しいテーマであります。いや、難しいテーマと言うよりも、何を以って『救い』とするかが、人生最大のテーマだと言うべきだと思います。

空中浮揚などと云う奇跡を起こせることが救いであると考える人はそのような教団に入るでしょうし、難病が治る、お金持ちになれることを救いとする人は、そう云う現生利益を叶えると云う教団に入るでしょう。即身成仏こそ本当の救いと考える人は真言密教を求めるでしょう。禅定に依ってお釈迦様と同じ悟りを開くことが救いだと考える人は禅宗の門を叩くでありましょう。阿弥陀仏に救われたいと云う人は、救済教と云われる浄土門を訪ねるのかも知れません。

今日の『本当の救い』と言うのは、米沢先生が確信されているところの『本当の救い』であり、それは親鸞聖人が求められた『本当の救い』でもあります。 米沢先生のザックバランな話し言葉を筆録したものでありますことをお断り申し上げます。

抜粋――

この前、能登半島へ講師で呼ばれて行ったとき、こんな質問があってね。この質問は面白かったな。ある聞法会で門徒の人が講師に、「人間はどういう風に生きたらいいのか」と聞いたんやて。そうすると講師は、「それは即答できん」と。そして、法話の一番最後に、「こうこう、こういう質問があったが、人間らしく生きればいい」と、こう講師がいうたちゅうんやね。で、それに対して、どう思うかという質問や。

そんなことなら(つまり、人間らしく生きればいいと言うことなら)、別に浄土真宗の教えを聞かんでもいいんや、と。モラロジーでも、宏正倫理でも、そういう教えを聞いてれば、あれは人間らしく生きる教えをいうとるんやね。モラロジーというのは道徳を守るということ。それから宏正倫理というのは、あれは朝起き会というのをやっておるんやが、朝行くと五つの誓いというのがあるんやそうや。「今日一日、腹を立てないでおきましょう」とかね。それ、まことにもっともや。腹を立てないでおけたら、まことに結構や。ところが立てないでおきましょうと言うだけで安心しとるんやね。そして家へ帰ると腹を立てとるんやぞ。多分そうやと思うんや。そんなもの、かっこうだけやね。かっこうだけ・・・。

親鸞さんは、格好(かっこう)に満足出来なんだ人や。そいで能登の時にも言うたんやけれども、善導大師が「外に賢善精進(けんぜんしょうじん)の相を現じて、内に虚仮不実(こけふじつ)の心を抱いておってはいかん」と。内外一致せないかん、と。こういう事を善導大師が言われた。まことに尤もです。すました顔をしておって、心の中で悪いことを考えておってはいかんので、内外一致しなければいかん。まことにもっともや。これならどこへ出したって通る。ところが親鸞はそれを読み変えられた。

    「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を抱けばなり」

虚仮不実の心を、心の中に持っとるんや。で、外だけは格好良う見せとるんや。そう云うことを親鸞が言われた。で、こう云うことが親鸞の、真宗の面目であってね。「腹を立てないでおきましょう」、そんなことは、まことにもっともやて。昔の修身の教科書みたいなもんや。しかしそれが実行できるかどうかと云うことが問題やね。実行出来ない、こう云うところまで見極めたところに、親鸞の真宗がある。だから、人間らしく生きられない、人間失格というんか、人間から落第した。そういうものが親鸞の教えであろうと思う。

で、この親鸞は、ご承知のように晩年になってまで、

       虚仮不実のわが身にて
       清浄の心もさらになし

と、こう云う風に言うとられる。だから救われん奴や、と。救われん奴やと云うことが、親鸞の信心の究極であると思う。救われん奴やという。歎異抄の第2章にも「地獄は一定(いちじょう)住処(すみか)ぞかし」――こういう言葉がありますが、地獄は一定住処ぞかし、と云うたら、これは救われん奴やと云うことや。救われん奴やという自分自身を確認した言葉で、この救われん奴やと云うことが、決定的に分かった方が、救われておると、こう云うことやね。これは西田哲学の言葉を使うと、「絶対矛盾の自己同一」と。これは絶対に矛盾しとるんや。絶対矛盾しとるが、ひとつになる、と。これは親鸞が「虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」というのは、人間と云うのは、自分自身に対して一番甘いので、人間と云うのは、自分自身に対して一番甘いにもかかわらず、親鸞は虚仮不実のわが身という。それから「心は蛇蠍(だかつ)のごとくなり」――蛇やサソリのような心を持っておる、こういうふうに自分自身の一番内面まで見られたと云うことは、仏の智慧に照らし出されておられたと、こう云うことで、いかに親鸞を照らしておった仏の光が、非常な力を持っておったかと、こう云うことが分かると同時に、救われん奴やと云うことが分かったことが、仏に摂取されている証拠である。つまり自分自身はこう云うものを持っておると云うことが、人前にさらけ出せると云うことは、人がどう思おうが、そんなことは問題でない。自分自身は仏から信じられている、こう云う確信が親鸞には持っておられたから、自分の虚仮不実の我が身、そう云うことをさらけ出すことが出来たんだと思うですね。

――抜粋終わり

『本当の救い』とは、私が仏を信じる(仏に帰依する)と云うことではなく、仏から私が信じられていると思えることだと言うことでありますが、私の理解としては、どちらかが一方的に信じるのではなく、端的に云えば相互信頼状態を云うのではないでしょうか。

仏と云うのは仏教で云うところの法身仏(ほっしんぶつ)でありまして、私をこの世に生ましめた働き、或いは力のことを人格化して称するものであります。この働きは勿論、宇宙を動かし太陽系を生み、地球を生み出した働きでもあります。『真理』とも言い換えてもよいと思います。

真理を掴み、その真理に随順して生きていると言う自信があれば怖いもの無し、『天下無敵』であります。歎異抄第8章の『無碍の一道』を歩んでいることになります。


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No.784  2008.3.3

親鸞聖人の和讃を詠む-3

● まえがき
著述にしても、和讃にしても、それが書かれた時代背景やそれを著された人の境遇を知らねば、その真意・心底を汲み取ることは出来ないと思います。
親鸞がこの和讃を詠んだ1250年~1260年は、鎌倉時代(北条時頼将軍)の中期でありますが、鎌倉で大火や台風洪水、それに大地震が相次ぎ、親鸞(86歳前後)の住む京都でも大地震に見舞われると云う正に末法の世と言うに値する世情の真っ只中にありました。

仏教界はと言えば朝廷や幕府の上流階層の為にあり、度重なる飢饉・災害・戦乱に苦しむ庶民を救うどころか、庶民の幸せを願って布教していた法然・親鸞の念仏を排除するために朝廷や幕府と結託すると言う立場にあり、悟りを開き在家庶民を導くお釈迦様の姿勢からは程遠いところにあったものと思われます。その頃既に栄西と道元が中国で悟りを開き、帰国後に臨済宗と曹洞宗を日本で開宗していたのでありますが、情報の伝達手段が稚拙な時代においては、未だ親鸞の耳には届いて居なかったのではないかと思われます。

今日の和讃の中にある『五濁(ごじょく)』とは、正に末法を説明したものであり、次のように説明されています。

   ① 劫濁(こうじょく)。時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
   ② 見濁(けんじょく)。思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
   ③ 煩悩濁(ぼんのうじょく)。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の煩悩が盛んになること。
   ④ 衆生濁(しゅじょうじょく)。衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。
   ⑤ 命濁(みょうじょく)。衆生の寿命が次第に短くなること。

● 親鸞和讃原文

       末法五濁の有情の          まっぽうごじょくのうじょうの
       行證かなはぬときなれば      ぎょうしょうかなわぬときなれば
       釈迦の遺法ことごとく          しゃかのゆいほうことごとく
       龍宮にいりたまひにき        りゅうぐうにいりたまいにき

● 和讃の大意
汚れによごれた末法の生きとし生けるものは、自らの修行によって悟りを得ることは既に不可能になってしまった。お釈迦様が説かれ遺された教えはすべて龍宮(海中にいる龍神が住む城)に隠されて、この世から姿を消してしまった。

● あとがき
親鸞聖人は20年間比叡山で天台宗の修行をされたのでありますが、いわゆる悟りを開くことは出来ませんでした。その経験も踏まえられまして、「末法の世に入ったとされる1052年以降に生まれた私はお釈迦様が説き遺された悟りを開く道筋を知ることは出来ない」と歎かれているのですが、しかし、この歎きは慶びに転じる歎きでありまして、この和讃の次に続く和讃で、「その末法の世で唯一救われる他力本願の教えに出遇えた」慶びを詠っておられます。

末法1万年と云われるのでありますから、現在も末法の世と云うことありますが、元来人間社会は、年代が進むにつれて科学文明の進化と自我の増大が相乗的効果で勢いが増し、それに伴って精神文明・文化が逆比例的に荒廃して来ているのだと思われてなりません。それを見越した仏法の正法・像法・末法の三世思想だと思います。さすれば、現代こそますます末法の世になっていることは間違いないところであります。そういう末法の世を生きている自覚を私が持っているのかどうか・・・大いに反省させられる次第であります。

ただ、末法の世においては本願他力の教えに依ってしか救われないと云うのは、少し前提が必要な考え方ではないかと思います。人間は誰しも自我・我執を持っていますが、その強さは個人差があるように思います。私の様な我執の強い人間は、それを目当てにした本願他力に依ってしか救われないと思いますが、それ程我執が強くない方々は、お釈迦様が悟りを開かれたご修行によって智慧の眼(まなこ)が開かれ、悟りを得られるのだと私は考えております。私は実際そのような禅僧の何人かにお会いしております。

親鸞聖人の和讃は、他人のことではなく、飽くまでもご自分を詠っていらっしゃるものであると云うことを忘れてはならないと思います。


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No.783  2008.2.28

米沢英雄師の縁側仏法―ないものねだり

米沢師(明治42年~平成3年)は、福井で内科の開業医をされる傍ら全国各地から呼ばれて親鸞聖人の仏法を説かれていらっしゃいました(垂水見真会には昭和60年12月1日にご出講頂きましたが、母と一緒にJR垂水駅でお見送りしたことを覚えております)。時には仏法専門家であるお坊さん方相手に仏法を説かれるお立場でもありました。今日は、師の『歎異抄ざっくばらん』と言うご著書の中から、日常生活に生きる仏法をお届けしたいと抜粋してみました。このご著書は、師のご講演を筆録されたもので、師のザックバランな話し言葉そのままであります事をお断り申し上げます。お言葉はザックバランですが、内容は仏法の根本を説かれている非常に深いものだと存じております。

―抜粋―
私は、非常にだらしない人間やから、私の仏法は縁側仏法や、というんです。縁側仏法というのは、縁側で腰掛けながら、日常起る問題を仏法に聞くと、こういう立場です。日常起る問題を、日常問題と見過ごさずに、それを仏法に聞いていく。仏法がどう答えるか、そういうことを確めていくと――そうでないと、仏法と日常生活と離れてしまうのではないか、こう思うんですね。

この四月二十日(多分、昭和55年)に、私は東京へ行きました。そして話をさせられたのですが、そこへ来ておられたらしい(来ておったと言うことが書いてありました)、――茨城県の主婦が、手紙をよこされました。その手紙を読んだらね、非常に面白い。深刻なんや。そんな深刻な人の悩みを、面白いと言うのは失礼になる。深刻な悩みなんです。

それはどういうことかというと、その奥さんは非常に内気で、人見知りする性質(たち)で、高校のときに登校拒否をしたこともあると、こういうことが書いてあるんです。
それが縁あって、その内気な、人見知りする人がですよ。結婚して子どもが二人ある。で、ご主人は神さまのようなひとやと、こう書いてある。神さまのような人やろな。そんな人見知りする奥さんを大事にしとるんやから、間違いなく神さまみたいな人なのでしょう。

で、その悩みというのは、自分が人見知りする性質なので、近所の奥さんとお茶を飲みに行ったり来たり、そういう交際ができんというのですね。近所の奥さんは、方々へ出かけて訪ねて行って、お茶を飲んだり話をしたりするけれども、自分はその人見知りする性質のため、交際ができんというので、それでこういう性格をどうしたら直すことが出来るかという相談なんです。
確かに本人としては深刻な悩みなんでしょうけれども、私は「それは東京で話をした時に、私がいうとるはずや。あんたは何を聞いとったんや」と。

それは、相対的生活と絶対的生活というんかな、こういうことを東京で私がいうたはずや。まあ、仏法聞いてどうなるかというと、絶対的生活ができる、人をうらやまん、自分は自分でよかったと。こういう生活ができるのは絶対的生活というもので、それこそ、仏法というものが与えてくれる功徳であろうと思うんですね。皆、相対的生活をしておる。例えばその奥さんが、自分は内気で困った、と。他の人は行ったり来たりして、お茶飲んで楽しそうにしていると。これは他をうらやむので、相対的生活をしとるわけです。

で、私は非常に皮肉な人間やから、その返事を書いたときに、「あなたは他の奥さんが、行ったり来たりしてお茶飲んで非常に楽しんでおると思うとるが、あんたもやってみると、ガッカリすること間違いない。つまり、お互いに行ったり来たりしてお茶飲んで、何を話しとるかというと、近所の奥さんの悪口や」と。こんなくらいなら、別に出てくるんでなかったと思うこと間違いないんや。初めは着物の話くらいしてるかしらんけれど、終わりになってくると、人の悪口になってくるんやで、そんなことせん方がええんや。それより絶対的生活をしなさい、と。あなたもご主人があって、子供さんがおるからには、ご主人の会社の友だちが来るやろうし、子どもの友だちが遊びにくる。その時あなたは放っとくか。放っときはせんと思う。それだけができれば上等でないの。

まあ、ないものねだりというのがあるんやね、ないものねだり。その奥さん、ないものねだりしてるんや。自分の性格にそれがないから、それがあって欲しいと思うんやね。そういうように、自分にないものねだりをやっておると、自分に与えられておるものに気がつかん、ということがあるんですよ。そういうことが非常に大事なことやと思うんです。その奥さんひとりの問題でなくてね、誰にでもある問題でね。ないものねだりをやっておると、自分に与えられたものまで、見えなくなってしまう。そういうことがあるのでないかということを書いてやったのですが、その奥さん分かったかどうか、分かりませんけれども。

その相対的生活から絶対的生活をするかどうか。その絶対的生活とは、「自分が自分に生まれてよかった」と、こういう生活を絶対的生活というので、奥さんに書いたのは、内気な性格とか、人見知りする性格というのは、そういう性格そのものは、別に悪いものでない。そういう性格に生まれてきたということは、悪いことではない。それを悪いことだと思うコンプレックスが問題なのだ。そのコンプレックスというのは、相対的生活をしたいというところから生まれてくるので、仏法というのは、そういうコンプレックスをどうして除くかというと、「私が私に生まれてきてよかった」という絶対的生活が出来る――。

私はえらいなまいきな話やけれど、親鸞の教えを非常に喜んではおるけど、親鸞のようになりたいと思わん。なろうたってお前がなれようかと、こういわれるかもしらんけれども、そうでない。皆、あのようになりたいとかこのようになりたいとかいうのを、迷いというので、それが相対的生活であって、自分はこのままでけっこうだと、こう自分に落ち着くことが出来るのが、絶対的生活というものだと思うんですね。その奥さんは、私が手厳しく書いたんで、怒ったかもしらんけれども、怒ってもかまわんのや。怒ってもかまわんけれども、そういうことが、根本的なことが分かるということが、非常に大事なことやと思うですね。

―抜粋終わりー

米沢師は、死ねば自我がなくなるから誰でも成仏するけれども、死んでから成仏しても仕方が無い。生きているうちに成仏しなければ仏法の値打ちがないと仰っています。そして、「浄土というのは死後の浄土ではない。親鸞が死後の浄土を説いたはずがない。現生不退といい、現生正定聚というからには、死後の浄土でなくて、生きておる今、浄土におる自分自身を確める、それが親鸞のいのちであったと思う」とまで仰っています。

また、「救いというのは何でもない。法身仏(地球を含めた宇宙全体に働いている根源的力)によって、生かされて生きとる私であるということが分かるのが、真宗の救いであるし、それを我々に教えたいというのが、弥陀の誓願がたてられなければならなかった理由であると、こう私は思うんですね。」とも申されています。

僧籍を持っておられない立場であられたからこそ、このような思い切った見解を示されたのだと思いますが、宗教は、少なくとも仏法は生きている人々の日常の問題に解答を与えるものでなければならないと私も思っております。

そして、絶対的生活つまり「自分が自分に生まれてよかった」と思える生活が実現するには、この世に私を生ましめ、私の命を生かし続けてくれている『宇宙の働き』を自覚し、その働きの中に「自分が自分に生まれてよかった」と思って欲しいと云う願いが込められていることに気付くことだと思います。その為には仏法のお話を沢山聴くことでしかないのではないかと思っております。


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No.782  2008.2.25

親鸞聖人の和讃を詠む-2

● まえがき
仏教には、お釈迦様が亡くなられて以降を「正法」、「像法」、「末法」の三時に分ける考え方があります。 「正法」とは、お釈迦様の教えがそのまま残っており、お釈迦様と同じ悟りを開く人も多い時代。 「像法」とは、お釈迦様の教えは何とか残っているが、修行は形式だけになり悟る人が居ない時代。 「末法」とは、お釈迦様の経典として伝わっているが、修行人も居ないし悟る人も全く居ない時代。

今日から勉強する3首の和讃は末法に生まれた親鸞の想いを詠っているのですが、末法に入った時期については、お釈迦様の入滅した年と、正法・像法時代を何年と数えるかによって諸説があります。私は、中村元博士の主張される紀元463年誕生、紀元383年入滅と言う見解を記憶していますが、その他に、近年仏暦として使用されているのは、釈迦入滅を紀元前544年とし、紀元前543年を仏暦元年としているようですので、今日の和讃を読まれたのが親鸞聖人86歳としますと、西暦1258年になりますから、仏暦では1801年となります。しかし、親鸞聖人が生きておられた頃の日本では、釈迦の入滅時を紀元前949年として、正法・像法各1000年とし,1052年(永承7)に末法を迎えたと言うことになっていたようですので、今日の和讃では、この立場から、お釈迦様が亡くなられてから二千余年が経ったと詠われた訳であります。

親鸞聖人が生きて居られた時代は、平家の台頭、そして源平の争いへと公家政治から武家政治に変わる戦乱・混乱の時代でありましたし、大飢饉や大火災にも見まわれ、街や川原に死体が散乱していると云う、末法を実感するには十分の社会様相でありましたから、親鸞聖人だけではなく当時の民衆は末法の世であることを認識し、この世は穢土で苦しいことばかりであり、極楽浄土への往生を求める気持ちが強かったのかも知れません。

● 親鸞和讃原文

       釈迦如来かくれましまして     しゃかにょらいかくれましまして
       二千余年になりたまふ       にせんよねんになりたもう
       正像の二時はおはりにき      しょうぞうのにじはおわりにき
       如来の遺弟悲泣せよ        にょらいのゆいていひきゅうせよ

● 和讃の大意

この和讃を詠われた親鸞聖人は、既に他力本願の教えに依って、金剛の固い信心を得られて(悟りを開かれて)いました。従って、末法の世の中ではあるけれども、私は幸いなことに遇い難い他力の教えに遇うことが出来たのだと云う慶びと確信を胸に抱きながら、「お釈迦様が亡くなられて既に二千余年になり、既に正法と像法の時代は終わってしまった。お釈迦様と同じ悟りを求めても、それはもう叶わない末法の時代に生まれた私は歎き悲しむばかりである。」と、この和讃を詠まれたものと思われます。

● あとがき
親鸞聖人は、9歳から29歳まで、比叡山で聖道門の修行をされましたが、悟りには至り得ませんでした。そう云うご自身の過去を振り返りながら、『末法の私』を実感されていたのかも知れません。

この正法・像法・末法の三時思想に関しまして思いますことは、確かに、今ではインド、中国では完全に仏教が廃(すた)れ、お坊さんは数えるほどしか居ないようであります。しかも、悟りを求めて修行するお坊さんは皆無と言う状況ですので、三時思想はものの見事当たっていると言えるかも知れません。しかし日本においては、親鸞聖人がこの和讃を詠まれた時には既に、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師が宋での修行を終え、悟りを開いて、禅の普及に努めて居ましたし、その後、江戸時代には白隠禅師をはじめ、聖道門において、お釈迦様と同じ悟りを開かれたお坊さんは枚挙にいとまがなく、私は今が末法の世と言ってよいかどうか、若干の躊躇があります。

そして、浄土門の考え方では末法の世には他力本願の教えが広まるとされていますが、私は、人それぞれの持って生まれた気質・性格があって、親鸞聖人の他力の教えと相性が合う人も居るし、禅宗と相性が合う人があるのではないかと考えています。ただ、私のような在家で煩悩まみれの生活を送る者には、どちらかと言いますと、親鸞聖人の教えが悟りへの近道なのかなと思っております。


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No.781  2008.2.21

仏教の価値観

私たちが生きている世間の価値観は、序列と物質(私達の五官で感知出来るもの)にあり、五官では感知することが出来ない仏教の「悟り」や「安心(あんじん、安らかな心境)」を価値観とする人は極わずかしか居ないだろう。

私たちはもの心が付き始めると、自分と他人の区別を教えられ競争意識を植え付けられ始める。そして、成長し大人になるに従ってますます競争は激しくなり、学歴も、仕事も、地位も、家も、車も、服装さえも少しでも上級を目指して努力しなければならなくなる。そして、それはきっと死ぬまで続いているものではなかろうか。火葬場に運ばれる棺桶や霊柩車にまで序列があると云うのがこの世間である。

こんな競争の世界に落ち着きがあろうはずが無い。ましてや変化して止まないのがこの世である、安らかに生きることなんてとても望めそうに無いと言うのが現実であろう。その上、努力家で実力も有って競争社会でトップに立てたとしても幸せが保証されている訳でもないと言うのもまた現実だ。

考えて見れば、仏教の開祖であるお釈迦様は、小国とは言え、カピラヴァスツ(迦毘羅衛)国と言う現在のネパール付近に位置する一国の皇太子として生命を受け、長じて家庭も持ち庶民の私たちから見れば最高に幸せな青年時代を送っていた。しかし、私たちが目指す価値観(地位、財産)のトップレベルのものを一切捨てて、悟りを求めて出家されたのである。

従って、もし私たちが幸せを仏法に訊(たず)ねるならば、世間の価値観から目を転じなければならない事になるだろう。そう言えば、親鸞聖人も一生涯、お寺を持たずに粗末な庵で暮らされたと言うことであるし、あの良寛禅師の衣食住も本当に質素なものであったことからしても、先師方が世間の価値観から程遠いところで人生を歩まれて居たことは間違いない。

では、仏法を求める年齢が競争社会にどっぷり浸かっている年頃に在る私たちはどうすればよいのであろうか。私たちはどうすれば価値観を転じることが出来、救われて、残りの人生を安らかに生きることが出来るのであろうか。既に家族が居る身の上となればそう簡単に競争を放棄する訳にはいかないと言うのも確かなのである。

その為には競争を放棄せず、自己評価を競争に勝つことに置かず、自己評価や価値観を勝ち負けやお金でしか手に入れられないものから、お金では絶対に手に入れられないものにシフトして行く努力をすることだと思う。つまり、競争はしてもよいが、自分の身の丈に合った土俵で相撲を取ればよい。そして、その相撲を、その競争を第三者的に楽しめば良いのではないか。そして、仏法の説く価値観、仏法上の自己評価を唯一の問題とする身になることだと思う。

そう云う身に成る為に、仏法を聞き、仏法を読書で学び続け、仏法を羅針盤として生きている人々と心を通わしながら生きて行くことに最も心を遣うことだと思う。 実はそう云う生き方をする事自体に本当の幸せも生き甲斐も感じられるのである。何故かと言えば、仏法はとても奥深く、常に新しい気付きがあるからである。元々仏法はとてつもなく広く大きいものであろうが、学ぶに従って、毎日毎日、世界が広がって行く楽しみがある。また聞きたい、もっと聞きたい、もっと読みたい、もっと知りたいと云うのが仏法の楽しみでもあり、喜びでもあるのだ。

競争社会で勝ちたい気持ちが全く無くなる訳ではない、しかし、もっと楽しい、もっと幸せな世界を仏法が教えてくれるような気がするのである。


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