No.770  2008.1.15

般若心経に学ぶー⑬

● まえがき
今日の般若心経の『三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提』の件(くだり)は、現在仏道を歩む者が般若の智慧によって究極の悟りに至ると言う前文を受けて、「過去・現在・未来の数多居られる仏達もまた般若の智慧によって、この上無い悟りを得られたし、また得られるのである。」と言うことであります。

仏教経典に私たちが馴染めない理由の一つとして、今日の『阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼたい)』の様に、漢字から意味を類推出来ない言葉が沢山混じっていることをあげることが出来ます。それは現在の日本語の中に英語がそのまま音訳されたカタカナ語が混じっているのと同じだと思います。『阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼたい)』も、『アヌッタラーサンミャクサンボーディ』と言う梵語(インドの言葉)を音訳したもので、『ア(阿)』は「無い」と言う意味、『ヌッタラー(耨多羅)』は、「上」と言う意味ですから、『アヌッタラー』は「無上」と言う意味になります。漢語に訳する時に、言語に忠実な訳語が無かったりした時に、しばしば原語そのままに音訳されている訳であります。 勿論、『般若』も、『パンニャー』を音訳したもので、「智慧」と言う意味であることは、最初にご説明申し上げている通りであります。

さて、般若の智慧は〝世間を生きて行く上で必要な知恵〟ではなく、〝仏様の智慧〟でありますが、それはこの世の現象や存在を『色即是空 空即是色』と観察出来、自分の存在も含めてその様に体得出来る智慧であります。言い換えますと『縁に依って起きる』と言う仏教の根本的な考え方を『般若の智慧』だと言うことだと思います。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

● あとがき
『縁に依って起る』と言う仏教の『縁起の道理』を体得する上で忘れてはならないのは、自分の身のまわりの現象を観察の中心に置いてはならないと言うことであります。観察の中心に置くべきは、『自分自身の心の中で起こっている事』だと思います。何故かと申しますと、自分の身のまわりで生じている現象の真実を煩悩で曇った私たちの眼では観ることが出来ません。しかし、自分の心の中で生じていることは静かに観察すれば、はっきりと観れると思うからであります。

つまり、自分の煩悩については自分の努力に依って嘘偽りの無いところを観察出来るはずだと思うのです。そして、その一つの手段として重要なことは、常に仏法の話しを聴き、我が身、我が心の有様を教えて貰うことであります。そしてまた、仏法を聞くだけではなく、仏法を人生の指針にして居られる先輩に直接接すると言うことは更に重要なことだと思います。しかし、仏法を大切にしていると申しましても、間違った仏法を身に付けている人にだけは就いてはなりません。その為にも最初の間は、一つの宗派に偏らず色々な先輩、先師のお話を沢山聞き、広く仏法を学ぶ姿勢が大切であることは言うまでもありません。

私が存じ上げている官長を務められた禅僧方も、また浄土真宗において学徳共に優れていると尊敬されている方々も、共に、禅僧は親鸞聖人のお教えを、そして、浄土真宗のご講師は禅門の教えを等しく学んでおられます。本当の仏法を追求するならば、一つの宗派に偏ることは有ってはならないことだと思います。その点で、親鸞聖人の教えだけを仏法として考えて居られる方々や、日蓮上人の教えだけが仏法であると考えて居られる方々には、私は仏法が本来有している広やかさを感じることが出来ません。こう言う私の了見が狭いのかも知れませんが・・・。


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No.769  2008.1.10

心安らかに生きるために

正しい宗教が目的とするところは、私たち人間が安らかに生きて行ける心構えや生活のあり方・方法を授けることだと思います。安らかに死にたいと言う動機で宗教を求める方も居られると思いますが、それは裏を返せば、安らかに生きる為にということではないかと思われますが、如何でしょう。

そこで、私が現在まで仏法を聞いて参りまして、安らかに生きるためには、こう考えればよいのではないかと思うところを申し述べ、皆さまの参考になれば幸いと存じ、勇気を振り絞って、コラムとして纏めることと致しました次第であります。

さて、安らかに生きたいと申しましても、この世を生身の体を持って生きて行きます限り、様々な苦難、つまり、病気、事件、事故、失敗、失意に遭遇することは何人も避けられないことであります。しかし、これらの苦難が苦悩、つまり心を悩ませ、心安らかに生きることが出来なくなるのは、多くの場合、突き詰めますと人間関係の不具合や不満、不信が心を重苦しく悩ましくするからだと思います。そしてそれは全ての人間が本能的に持っている『煩悩(ぼんのう)』の働きに依るのだと仏教は考えます。

私たちを〝心安らかに生きらせない犯人〟は『煩悩』だと仏教は考えますが、しかし、仏教は「だから、心安らかに生きたいならば、先ず煩悩を失くせ」とは説きません。これまで何回も申し上げて参りましたが、『煩悩』とは「誰よりも自分が一番可愛い」、「誰の都合よりも自分の都合が第一番」、「自分の考えは間違っていない」と言う自己愛のことであります。お釈迦様は悟りを開かれて自分の煩悩を吹き消されたように思われていますが、自己愛を否定はされていないことが分かる次の様な逸話が伝えられています。

お釈迦様のご在世当時、コーサラ国にパセーナディ王と、王妃のマツリカが居られました。お釈迦様の教えをお聞きになっていたお方ですが、ある日、パセーナディ王が王妃のマツリカに「しみじみと自分を振り返ってみたときに、何よりも誰よりも私自身がかわいい。『私よりあなたを愛する』とか『わが子を愛する』とよくいうけれど、よくよく振り返ってつきつめれば、誰よりも私だけがかわいい、そういう結論に達する。あなたはどうなんだ」と聞きます。マツカリも賢い妃でした。自分の心の中をじっと見詰めて、「私も同じでございます。誰よりも我が身がかわいい、自分だけがかわいいという私の姿がそこにあります」と答えました。
お二人ともが、お釈迦様の教えに、長い月日、真剣に参じていればこそ、自分達の本能とも言うべき我愛の姿に気付き、それを懺悔の思いを込めて語り合う姿があるわけです。
しかしながら、慈悲を説かれるお釈迦様の教えにもとるような気がしてなりません。そこで、お釈迦様に「二人とも、誰よりも自分がかわいい、自分だけがかわいい、そんな結論に達しましたが、どうも心が落ち着きません。お釈迦様、お教え下さい」と教えを請いました。 その時、お釈迦様は、こうおっしゃいました。

     人の思いは
     いずこへもゆくことができる
     されど、いずこへおもむこうとも
     人は、おのれより愛しいものを
     見いだすことはできぬ
     それと同じく 他の人々も
     自己はこの上もなく愛しい
     されば
     おのれの愛しいことを知るものは
     他のものを害してはならぬ

つまり、自分が自分を一番かわいいと思うように、他の人も自分が一番かわいい、だから、他の人を害してはいけないのだと言うことであります。

近年、経済苦を理由に自殺する人々が増えていると言われますが、この6、7年経済苦で苦しみ続けて来ました私の経験からですが、周りに励ましてくれる人が一人でも居れば乗り越えられると思います。私はそれでこれまで乗り越えられて来たのだと思っています。身内にも、知人にも近隣の人々の中にも温かい言葉で励ましてくれたり、食物などを差し入れてくれる人が誰一人居なかったならば、自殺を選択してしまったのではないかと思います。経済苦でと云われる自殺は実は人間関係に絶望した結果の自殺ではないかと我が身に引きかえ想像している次第であります。

よき人間関係を維持し、心安らかに生きてゆくためには、日頃の付き合いの中で、上述のお釈迦様の教えを実践することだと思います。こちらが煩悩を押し立てますと、相手も煩悩で立ち向かって来ます。煩悩と煩悩のぶつかり合いの中から心安らかな結果は得られるはずがありません。自分の煩悩を認めると共に、相手の煩悩を認め、煩悩の炎が際限なく燃え盛ることがないようにしたいと思います。それが、心安らかに生きるために最も大切な教えだと考えます。


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No.768  2008.1.7

般若心経に学ぶー⑫

● まえがき
今日から般若心経の勉強を再開させて頂きます。
さて、今日は『遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃(おんりいっさいてんどうむそう くうぎょうねはん)』と言う件(くだり)ですが、この一句は勿論、『菩提薩埵 依般若波羅蜜多故』を受けてのものであり、「仏道を歩む者は仏様の智慧の眼を磨くことにより、一切の顚倒(真理をその通りに見ず、さかさまに間違えて見ること)した夢想(あてもないことを心に描くこと)から解き放たれて、涅槃に至るのである」と現代直訳出来ると思います。

私たちは「顚倒」してものを観(み)ていると思います。そして、その自分の顚倒した眼に気が付いていないものであります。例えば、今では地球が太陽の周りを廻っているのは常識でありますが、ほんの400年前までは、人類は太陽が地球の周りを廻っていると固く信じていましたから、これは正に宇宙の動きを顚倒した眼で見ていたことになります。このような事は自然現象を捉えた科学知識の世界だけに言える事ではありません。私たちのものの考え方には更に決定的な顚倒があると仏教は考えます。

『顚倒(てんどう)』とは、仏様の眼から私たち凡夫の言動を観られた場合のご指摘であります。私たちが考えることは、すべて煩悩を出発点としたものだと仏教は説きます。『煩悩』とは、つまり「誰よりも先ず第一に自分が可愛い、誰の都合よりも先ず自分の都合を優先する」性癖であります。最近お聞きした法話(紫雲寺ご住職、釈昇空師)の中に、次のような統計数値が紹介されていましたが、私たちの顚倒を数値化した一つの例だと言えましょう。

ご法話からの引用―
昨年、国連大学研究所が発表した「世界の個人の富の状況」という調査によりますと、平均すれば、日本人は一人あたり約2000万円分の財産を持っていて、日本は世界一豊かな国なのだそうです。まあ、あるところには、あるということでしょうが、豊かなら幸せかというと、そうでもないのです。 これも昨年のことですが、イギリスで発表された「国民の幸福度」という研究によりますと、世界178カ国の国民の感じている幸福度を順位付けしたところ、日本は半分より下の90位だったそうです。 ちなみに、1位はデンマークです。アメリカは23位、ドイツは35位、イギリスは41位、フランスは62位で、全体的に見れば、「資本主義の国」「人口の多い国」「福祉政策の充実していない国」で、「国民の幸福度」が低くなる傾向があるそうです。
―引用終わり

確かに今の日本人は、『金持ち=幸せ』と考えて毎日忙しくしています。政治の施策も、国民の関心もお金。テレビニュースも、株価や為替レート、医療費・年金と金・金・金・・・・。確かにお金は生活する上で大切なものではありますが、幸せを感じていない日本国民の現実を知らされますと、お金を追いかけている限り、心安らかな幸せは得られないと言うことだと思います。正に今の日本人は顚倒した考え方で幸せを求めていると言ってよいと思います。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

● あとがき
私たちが根本的に顚倒していると思われることの代表は、私たちが私たちに突きつけられている事実を忘れていることであります。それは、「いつか必ず死ぬこと」と「今の瞬間生きていること」であります。それを忘れて、未だ来るか来ないかも知れぬ明日、或いは近い未来や、もう既に過ぎ去ってしまって居て今やどうすることも出来ない過去に最大の関心を払って今を生きていることであります。

「私は全て顚倒した考え方で毎日を生きている」と自覚出来たとき、仏様の眼で世間を観ることになり、正しい人生を歩み始めることが出来るのだと思います。顚倒した考え方は、煩悩に依るものであります。生きている限りは煩悩を断つことは出来ませんが、本当に煩悩を自覚出来たとき、自己中心的な考え方が自然と霧散し、仏様から観て、偏らない、顚倒しない道が自ずと開けるものと思います。

自分の煩悩を自覚すると申しましても、これは自己批判や内省を強めることでは為し得ないと思われます。聞法や書物に接して仏法の中に身を置き続けることでしか為し得ないのだと思います。

そう云う意味からも今年も、この般若心経の勉強を始めとして、仏法に接し続けたいと考えております。


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No.767  2008.1.3

年頭のご挨拶

皆さま、明けましておめでとうございます。 地球が太陽の周りを一周するのに要するのが1年という時間でありますが、それを人類共通の一年とし、心新たにすると言う智慧は、とても人間業(にんげんわざ)とは思えません。もし、一年という区切りを私たちの先輩達が考え出してくれていなかったならば、どのような人生に、またどのような社会になっていたでしょうか。人類の智慧に感謝したいと思います。

昨年末、私はふとしたことで、自分の心の奥底に陣取っている邪見と驕慢の煩悩が白日の下に焙り出される瞬間を経験致しました。唯識のコーナーで勉強させて頂いていますように、私は人間の煩悩にどんなものがあるかは知っている積りでいましたし、それらの煩悩を自分も持ち合わせていると考えてはいましたが、それはどうやら私の理性の世界でのことではなかったかと思い返しているところであります。

まだまだ煩悩具足の身とは自覚出来ていない証拠に、人の前では気恥ずかしさからお念仏は私の口からは出ません。でも、もう少しだと思います。それも多分昨年末と同様にふとした瞬間に、私の意思とは関係なく発現するのだろうと思っております。

今年も色々な縁に遭遇するものと思いますが、それらの経験を縁と致しまして、信心が開発される事を心待ちしたいと思っておりますし、この無相庵コラムを通して更に勉強を積み重ねて参りたいと思っております。そしてまた、私のこのコラムが無相庵を訪ねて下さる皆様方の信心開発のキッカケになることがありましたら、真に幸いであります。本年もどうか宜しくお願い申し上げます。


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No.766  2007.12.31

年末のご挨拶

今年もあと7時間半で年越しとなりました。今日は、般若心経の勉強をお休みさせて頂きまして、年末のご挨拶とさせて頂きます。

今年は歎異抄に続きまして般若心経の勉強を始めました。色々と勉強をして参りましたが、未だいわゆる信心を獲たとは言えない私でありますが、この12月になりましてから、思うところがありまして、当ホームページのリンク先の一つであります紫雲寺のご住職、伴戸昇空師のご法話CDを買い求めて聞き出しましたところ、私の心に大きな変化が起りました。

12月20日の木曜コラムでご紹介した『一番好きなもの』と言う詩に出遇い、大きく心が転回した気がしております。他人の煩悩に鋭い眼を注いでいた眼が自分の煩悩に向いたと云うことだと思います。勿論、これまでも自分の煩悩を見詰めていた積りでありますが、それは上っ面のことであったと言うことになります。

煩悩の根底には、「誰よりも自分が可愛い」、「誰の都合よりも先ず自分の都合を優先する」と言う気持ちがあります。これは生きている限り払い落とすことが出来ないものだと思いますし、誰しもが持っている心だと思います。この世の中は、煩悩と煩悩のぶつかり合いで、人間同士の喧嘩も起りますし、国と国の戦争も起っています。また、煩悩と煩悩の利用し合いで、ビジネスも成立しているのだと思います。

私は自分の煩悩がパーフェクトにあらゆる煩悩を持ち合わせていることに気付いたからには、煩悩が顕れた他人様の煩悩を責める気にはならなくなりました。これは或いは瞬間的なものかも知れません。 しかし、これまで、5回程度人間関係を壊して付き合いが途絶えた経験がある私は、「私も悪いけど・・・あの人が世間の約束事、常識を破ったから仕方が無い」と結局は自分の正当性に確信を持ち、人間関係の修復に動こうとはして来なかったように思います。

しかし、縁が熟したと云うことかも知れませんが、「私も悪いけど・・・」の「けど」が自然と取れてしまいました。自分の努力で取れたのではなく、自然と取れたように思います。そして、過去に壊れた人間関係を修復したいと云う気持ちになり、たまたまキッカケに恵まれた二つの人間関係が修復に向けて動き始めました。

お蔭様で、心軽やかな年越しを迎えました。これは多分、聞法を続けて来たお陰だと思います。そして、他力の働きによるものだと思います。
2007年の前半は経済的破綻から救われ、後半はモヤモヤとしていた心が救われる方向付け、つまり少し暗闇の遠い向こうに灯りが見えかけたように思い、少しウキウキとして新年を迎えられそうであります。

無相庵ホームページの読者の皆様のお陰で、私も永年に亘って仏法の勉強を続けられ、そして、色々な素晴らしい出遇いをさせて頂いております。来年も本年同様に無相庵を宜しくお願い申し上げます。


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No.765  2007.12.27

この一年を振り返って

今日が今年最後の木曜コラムであります。昨年の年末は経済的には大変な状況でありました。会社と個人の税金数年分を滞納しておりましたから県と市の税金徴収課から差し押さえの通告が頻繁にあり、しかも、手持ちの現金は底を付いている状況でした。従いまして住宅ローンの支払いが出来なくなる5ヶ月先には家を出なければならないと覚悟を決めつつあった昨年の年末でありました。

しかし、分からないものです、思いも掛けなかったお二人の方から経済的支援のお申し出を頂きまして、お陰様で今こうして年末コラムを書かせて頂いている次第であります。正に『お陰様』であります。

最近集中的にお聞きしている京都の紫雲寺(リンクしております)のご住職のご法話の中で、「お陰様とは、私たちの目には見えない、また想像も出来ない無数の因縁の結果で有る今日の事である。しかも、お陰様とは、私たちが自分に取っての都合の良い事も、悪い事も、全てお蔭様なのである」と言う事をお聞きしましたが、確かに昨年末の状況から今の状況を思いますと、正にお蔭様としか申しようがございません。

そのお二人の直接的なご支援は勿論お蔭様でありますが、今なお明日知れぬ身である事には変わりはございませんので、お蔭様と思いますのは、こうして無相庵コラムを続けられていることであります。人には色々な苦悩がございます。心配事は尽きることがありません。「この世は苦」だと思えなければ、私の筆は進めないことを実感しております。

無相庵コラムを開設し、そして丸7年間続けるに到るには無数のお働きがあっての事であり、仏様の仕業である事は間違いないところだと思っています。

無相庵の年末のご挨拶は、12月31日の月曜コラムに譲ります。


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No.764  2007.12.24

般若心経に学ぶー⑪

● まえがき
前回までの般若心経では、『一切皆空』を説いて来ましたが、此処へ来まして、『空』を体得したらどうなるのかと言う事を説いてくれます。つまり「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」 と言う自由を得られるのだと言うことです。『空』が体得出来ましたら、つまり『縁起の道理』に目覚めたら、「心に罣礙なく、心に罣礙が無いから怖れる何ものも無くなる自由の身となれる」と言うのです。「罣礙(けいげ)」とは、「さしさわり」「こだわり」のことであります。

「誰よりも自分が可愛い」と言う煩悩が自己の中心にデーンと居座っている煩悩具足の凡夫、言い換えれば、自分が煩悩まみれであることにすら気が付かない者には、自分に都合の良いことしか考えていませんから、何事にも(自分が満足するにはこうあらねばならないと云う)〝こだわり〟を持っているが故に、「心配の先取り」をして不安で堪らないのであります。

無相庵カレンダーの『今日のお言葉コーナー』の第24日に『天下無敵』があります。これは正に「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖」の心境にある状態を言っているのであります。誰しも、このような心境になりたいものでありますが、それには『空』を体得さえすればよいのであります・・・。

『空』と言いますと哲学的ニュアンスがあり、禅門で言うところの『無念無想』のような概念を思い浮かべてしまい、難しく考えがちでありますが、これまで何回も申し上げているように、私は、『縁起の道理』つまり存在も諸々の現象(人間模様も含めて)『縁に依って起る』と言うお釈迦様が人類で初めて気付かれた真理そのものでありますから、無数の縁の中で生きている私達も気付き得るものではないかと思っております。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
浄土真宗教団が、『般若心経』を経典として取り扱っていないのは何故なのかなぁーと考えて来ました。一つは親鸞聖人が般若心経に関する見解を遺されていないからなのかと云うこと、もう一つは、般若心経の字句・その他表現に他力本願と言うニュアンスが感じられない点にあるのかなぁーと推測はして参りましたが、般若心経を再び勉強するようになりましてから、『空』とは、「実体が無いと言うこと」であり、それは、「全ては縁に依って様々に変化すると言うこと」でしょうから、親鸞聖人が晩年に大切にされ、法然上人がその四字熟語から名前を付けられたと云う「自然法爾(じねんほうに)」と切り口が異なるだけではないかと考えるようになりました。

或いは私の考え方が間違っているかも知れませんが、歎異抄に『念仏者は無碍の一道』とありますが、この心は、今日の般若心経の『心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖』と同じものではないかとも思ったりもしていますが、さて・・・・。


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No.763  2007.12.20

五十歩百歩

私はこれまで「自分は正しい」と思って生きて来た。だから、他の人がルールを破ったり、人の迷惑を考えない言動に遭遇した場合、腹が立っていた。そして、その都度どうして寛容になれないのかと自分の短気な性分を悔やみもして来た。 しかし、極最近聞いた法話の中で紹介されていた詩とその解説を聞き、これまで私が批判してきた事や人々と私は五十歩百歩だったことに気付かされた。つまり、人を批判する資格なんかは私には全く無かったのだと思わずには居られなかったのである。

私は、例えば駐車マナーの悪い車に遭遇した時、「人の迷惑も考えずに・・・」と厳しい目を向けて来た。昨年だったか酔っ払い運転で尊い三つの幼い命が奪われた福岡の事件の犯人をとんでもない人間だと心の中で批判して居た。度々猥褻行為を繰り返しながら今なお無罪を主張し続ける元大学教授の往生際の悪さに辟易してきた。官舎に奥さん以外の女性と同居して居たことが報道され、政府税制調査会長の職を辞することになった大学同期生の迂闊(うかつ)さと人生観をこき下ろしたこともあった。

しかし、その批判は自分の現実を自己批判することなく為した恥ずかしいことだったのである。自分も駐車違反は何回もしていたので人々に迷惑をかけて来たに違いないのである。酔っ払い運転も何回かして自損事故まで起こして来た。たまたま他人を殺さずに済んで来ただけだったのである。猥褻行為だって私は実際にしたことは無いが、心の中で猥褻なことを全く考えて来なかったとは言えないのである。全てはたまたま公にならなかっただけである。

他人の為したことには腕利きの検事の目で追求し、自分の言動には頑固な弁護士で押し通して来たように思う。結局は私が批判して来た人と私は五十歩百歩だったのだと気付かされた。そんな気にさせられた『一番好きなもの』と言う詩(関本理恵さんと言う方が18歳の時に書かれた詩)とその詩を解説した法話の一部を紹介したい。この詩を読んで偉そうに他を批判出来なくなった次第である。

       一番好きなもの

        私は高速道路が好きです
        私はスモッグで汚れた風が好きです
        私は魚の死んでいる海が好きです
        私はごみでいっぱいの街が好きです
        殺人、詐欺(さぎ)、自動車事故が好き
        そして、何より好きなものは
        多数の人が
        涙を流す
        血を流す
        戦争が大好きです
        飢えと
        寒さの中で
        戦って死んでいく姿を見ると
        背中がぞくぞくするほど
        楽しくなります
        毎日毎日
        大人が
        子どもが
        生まれたばかりの赤ん坊が
        次から次へと
        死んでいるかと思うと
        歴史を歴史と感じ
        過去を過去として思う
        無感情な
        時の流れに、自分自身に
        たまらなく喜びを感じます

        こんな私を助けて下さい
        誰か助けて下さい
        たった一粒でもいいのです
        こんな私に
        涙というものを与えてください
        たった一瞬でいいのです
        こんな私に
        尊さというものを与えてください
        私の名前は
        人間といいます

  いかがですか。これは自分自身を見つめた人の詩です。私たちは、おそらく、「好き」という言葉に抵抗を感じるのではないかと思いますが、それは、自分を知らないからです。
  よく考えてみてくださいね。私たちは、殺人であれ、詐欺であれ、自動車事故であれ、新聞で読み、ニュースで聞き、ワイドショーで見て、週刊誌で読む。嫌いだったら、そんなことしないでしょう。違いますかね。
  世界貿易センタービルに飛行機が突っ込んだとき、あのシーンを何度見ました。あのシーンを見ながらワクワクしていた人や、心の中で「もっとやれ!」と叫んだ人も、少なくないでしょう。イラク戦争の生中継を、お茶の間のテレビの前に、釘付けになって見ていたのではないでしょうか。
  「好きで見ているわけではない、関心があるだけだ」とおっしゃるのなら、どのような関心なのでしょうか。私たちには、自分自身や家族に関わりがない限り、殺人事件であれタレントの結婚式であれ、たいした違いはないのではないでしょうか。


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No.762  2007.12.17

般若心経に学ぶー⑩

● まえがき
今日の般若心経は、『無智亦無得 以無所得故』(むちやくむとく いむしょとくこ)です。 般若心経には、私の数えたところでは、21個の『無』が出て来ますが、この『無』は、「無し」は無しでも、「実体として無い」と言うことです。つまり、極論しますと、「何事も人間が人間の頭で決めて名付けたものであって、そう云うものが、単独で存在するものではない」と言うことです。

今日の『無智亦無得 以無所得故』を意訳しますと、「本来これが智慧だと言うものは無いから、その智慧で何かを得る、つまり悟るということは無い」と言うことでありましょう。世間でも「智に溺れる」と云う言葉がございますが、友松圓諦師も、『「智」というものには往々にして、副作用があって、智はうっかりすると物の実相を見失うことがあり、禅門で文字を嫌い、言語道断(言葉や熟語で考えることを止める)の風光を大切にするように、法然上人なども「智慧第一」といわれたのに、自らは「愚痴の法然」と自称し、「愚痴に還りて念仏すべし」と自覚されている。智慧は分別や定義に落在してしまいがちです。智あるものはかえって智慧の病気にかかることがあります。「大賢愚の如し」とも言われるように、童心にかえると実相がうつることがあるのです』とおっしゃっています。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、
菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
極最近聞いた法話で、「私たちは現在よりも未来を大切にして生きている。つまり目標を定めて、その目標達成の為に今を頑張ると言う思考パターンに慣れさせられている。つまり未だ来るか来ないかも知れない未来を大切にして、目の前に確実に在る現在を大事にしない或いは楽しまないという生活パターンを毎日毎日生きている。そして、それを何とも思っていない」と言うお話を聞きました。

確かに、明日の何かのために今日その準備にあくせくしているのではないでしょうか。つまり、結果を予測して、或いは良い結果を求めて今その為に努力しているということだと思います。

仏法を求めるということも、安らかに過ごしたい、悩みから解放されたいと云うことを目標にして、本を読んだり、法話を聞いたり、坐禅を組んだり、お念仏を称えたりします。しかし、それは如何なものかと主張するのが、「仏法は無所得を以っての故に」と言う般若心経の『空』の考え方であります。

「仏教は因果論というけれど、われわれが発言権を持っているのは因のみ。果に発言権はない。ただよき師のもとに、限りなくよき因を積むのみ。果は向こうからやってくる」とは唯識で有名な大田久紀師のお言葉であります。これを「無所得行」だと言うのであります。

無相庵カレンダーに「この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田草とるなり」と言う歌があります。今日どんな努力しても秋の台風でお米を収穫出来ないかも知れない。しかし、そんなに結果ばかり案じていては、何も出来ない。結果はすべて天にお任せして、「今なすべきことを懸命に為すだけだ」と言うことであります。これもまた「無所得行」と言うのであります。それを懸命に解いているのが、この般若心経なのです。


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No.761  2007.12.13

ある御会葬御礼の言葉

        本日は、私のためにお忙しい中、
        お越しいただきまして、ありがとうございました。
        私は、特定の宗教・宗派をもっていませんので
        こういう形で葬儀を行ってくれるよう
        希望いたしました。
        振り返ってみますと、
        私の人生は本当に幸せな一生でした。
        それは、縁あって出会った人たちがすべて
        いい人たちだったからです。
        お陰様で、楽しい日々を
        過ごさせていただきました。
        満足感で一杯です。
        素晴らしい人生を与えてくださった皆様に
        感謝しながら、お別れしたいと思います。
        ありがとうございました。
        (向こう側で待っていますよ)

これは私の親しく付き合っていた友人(59歳、男性)が自分の御会葬御礼の言葉として遺したものである。癌と言う病だからこそ死を目前にして遺せたものであるが、誰でもが遺せる言葉ではないと思う。

昨年の8月に体調不良で病院へ行き、胃と肝臓の癌を告知された。しかもそれは余命3ヶ月と言う差し迫ったものであった。色々と手を尽くされ延命はされたものの遂に先月亡くなられたのである。第二の人生を楽しまれることもなく、ちょうど定年を迎える月に亡くなられたのであるが、一流広告代理店に勤務して仕事も思う存分に為し、好きな週一ゴルフを楽しまれ、充実した60年だったと推察している。

氏とは、昭和62年から平成11年まで住んでいた街では筋向いの家同士と言う近所付き合いから始まり、平成11年年末にお互いに引越し、車で1時間位の離れ離れにはなったのであるが、それからも一年に一回は家族揃って飲み会をする関係であった。もとはと言えば、氏の奥さんが私の高校・大学の後輩であったから親近感を持って付き合いが始ったと思うのであるが、氏自身が大変気さくな人で、私の家に来られた時には私の家を我が家の如く、勝手に冷蔵庫から飲み物などを物色すると言う親しさを見せてくれるので、私たちも本当に親族以上の親しみを感じていたものである。おそらく彼ほどフレンドリーに接してくれる友人にはこれからも出会えないと思う。それだけに真に残念である。

そう云う友人の死であるが、彼が最後に残した言葉には非常な感銘を受けたので、その言葉をより多くの人に披露したいと思った。私は日常の付き合いでは仏教の話は一切しない主義である。彼とも他愛の無い話ばかりで人生を語ることは一切無かった。したがって彼がどんな人生観を持っているかは知らなかったが、冒頭の彼自身が書いた自分のご会葬御礼の言葉で、彼が素晴らしい人生観を持ち、そして素晴らしい人生を生き切ったのだと深い感銘を受けた次第である。

このように思ってこの世と別れられるのが、人と云う尊い命を授かった私たちの一番の理想ではないかと思い、皆様にも彼の生の言葉を披露させて頂き、彼への供養にもなれかしと思う次第である。


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