No.760 2007.12.09
般若心経に学ぶー⑨
● まえがき
お釈迦様は29歳で出家されまして、その後5年間山中での難行苦行を続けられましたが、所謂悟りが得られず、山を下りられ菩提樹の下で沈思黙考され『縁起の道理』を悟られたそうであります。そして、最初の説法が今日の句にある『苦・集・滅・道(く・じゅう・めつ・どう)』の、悟りに到る道を説かれた四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)だと言われています。正式には、苦諦(くたい)・集諦(じったい)・滅諦(めったい)・道諦(どうたい)と云い、当時のインドで病を治すに際しての臨床学的方法形式として確立していた医師法をお釈迦様が参考にされたものだとされています。苦を知ることは医師の第一法、その原因を探求する(集)、治癒健康体にさせること(滅)、それに到らしめる治癒の具体的方法手段(道)、という極めて常識的な考え方を精神的宗教的方面に釈尊が応用されたものと言われています。
お釈迦様が最初に説かれたことでもありますが、私たち人間が抱える最大の問題である苦からの解脱、つまり悟りに到る道筋を説かれた教えでありますゆえに、この四諦の教えは原始仏教時代から仏教の根本教義とされています。今でもタイ、スリランカ、ミャンマー(ビルマ)などの東南アジアの仏教徒が最も大切にしている教義でもあります。
この教義を般若心経は、先の『十二因縁』と同様に『無苦集滅道』と断じているのであります。この般若心経は大乗仏教が産み出した経典であります。大乗非仏説論が小乗仏教側から唱えられたのは、この般若心経に象徴される十二因縁・四諦・八正道を否定(実は否定ではないのですが・・・)したかのような言い回しをのみ切り抜いてのものだったのではないかと思われます。
● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅 是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 眞実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
菩提ついに彼岸に至ることを得たり。●あとがき
般若心経は、別に四諦を否定しているのではないと思います。四諦の教えに拘り、自由度を失い、ただ形式的な修行に陥り易い仏法信仰者に一喝を与えているものだと受け取るべきでありましょう。そしてまた、苦も、苦の原因(集)の煩悩も、苦とか煩悩と言う明確な実体 があるのではなく、「苦楽はあざなえる縄の如し」や「苦は楽の種」と言う言葉がありますように、苦があって楽があり、楽があって苦があると云うのは誰しも実感出来ることでありましょう。煩悩についても、『煩悩即菩提』と言われますように、煩悩が悟りを求める種になるのでありますから、煩悩と悟りは切り離すことが出来ないもので、煩悩が無くなってしまえば悟りの悦びも失せるのだと思います。宗教と言うものは兎角排他的になりがちです。排他的と言うことは「自分の宗教が一番正しい」、「自分の掴んでいる信仰心こそ間違いない」と言う考え方です。私にも何処かにそのような想いが無いとは申せません。そのような固定観念を払い飛ばしてくれるのが、この般若心経の『空』の教えだと受け取りたいと思っています。
No.759 2007.12.06
感動―星野ジャパン
星野ジャパンが北京オリンピックへの出場権を賭けて戦いそして北京行き切符を手にした。多くの野球ファンがテレビ画面に釘付けになったことだろう。昨年のWBCでの王ジャパンの逆転優勝にも感動させられたが、それ以上の感動を今回くれたと思うのは私だけではないだろう。その感動は厳しい戦いに勝利したことにではなく、「心を一つにした集団の姿」と「それを作り上げた監督・コーチ・キャップテンの組織力」にではないかと思う。
特にあの韓国戦の選手達のヒタムキな姿はプロ野球選手のものではなかった。アマチュア選手、つまり甲子園で闘っている高校球児のヒタムキさだった。そのヒタムキさに加えて一流プロの技術集団であるからこその勝利ではあったと思う。
今回の星野ジャパンの戦いに感動したと言うことは、「心を一つにして」と云う事を何処かに置き忘れてしまっていた私たち日本人の心の奥底に未だ芽が残っていたということであろう。「心を一つにする」と云うことは、メンバー全員が自己を捨てる、つまり自我を捨てると云うことである。
今週の月曜日の般若心経の句の中に『無明(むみょう)』と言う熟語があったが、『無明』とは、自分さえ良ければよいと云う自己愛によって、「真実を見る智慧」、「本来あるべき正しいあり方を知る智慧」が働かないと言うことである。「心を一つに出来る」と言うことは、メンバー夫々が持つエゴイズムが自然と隠れてしまったということだと思う。エゴイズムが消えれば、つまり『無明』を滅すれば、自然と理に叶ったあり方になり、自分も周りの人をも幸せにする事になると言うことであろう。
そして、星野ジャパンに感動したと言う事は私たちの心の落ち着きどころ、つまり私たちが本当に求めている幸せは「自分さえ良ければよい」と言うところには無いのだと言うことであろう。。
今の日本は、地域社会にも、企業にも、政界にも、教育界にも、そして一番小さい単位の家族にも「心を一つにして」と言う想いが失われ、ややもすると「お金さえあれば」と言う考え方に支配されがちである。お金は大切である、しかし一番大切ではない。「お金さえあれば」と言うところには決して真の幸せは無いことに早く気が付きたいものである。
No.758 2007.12.03
般若心経に学ぶー⑧
● まえがき
般若心経は、お釈迦様が説かれた原始仏教的な教理や初期の大乗仏教で哲学された教説の悉(ことごと)くを『本来無いもの』つまり『空(くう)』だと主張し、ともすれば知識や言葉で仏法を捉えようとする私たちに心の転換を促して来たのでありますが、今日の句、『無無明 亦無無明盡 乃至無老死 亦無老死盡』も仏教の根本教理である『縁起説』をも本来空なのだと説くものであります。仏教とは何かと一口で申すならば、それは縁起を説くものであると言っても決して過言ではありません。縁起とは「縁(よ)りて起ること」であり、「縁りて」とは「条件によって」ということであり、「起ること」とは「起る道理」のことであります。従いまして、縁起とは「種々の条件によって現象が起る起り方の原理」と云うことになります。偶然起ったように考えてしまう交通事故や災難も、色々な原因や条件が集まって生じたことであり、偶然と考えるのは、私たちに全ての条件を把握する能力が無いからだと考えます。
さて、縁起説を定式化したのが今日の句の基となっている『十二縁起説』です。原始経典に『比丘らよ、縁起とは何であるか。比丘らよ、無明の縁(条件)から行(ぎょう)があり、行の縁から識(しき)があり、識の縁から名色(みょうしき)があり、名色の縁から六処(ろくしょ)があり、六処の縁から触(そく)があり、触の縁から受(じゅ)があり、受の縁から愛(あい)があり、愛の縁から取(しゅ)があり、取の縁から有(う)があり、有の縁から生(しょう)があり、生の縁から老死(ろうし)、愁悲苦憂悩が生ず。このように一切の苦蘊(くうん、苦の集まり)の集起がある。比丘らよ、これが起と言われる。』と、無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死、と私たちに苦悩や悲しみが生じる道理を十二の縁起として説いてあります。
なるほどと思われます、そして、苦悩や悲しみを無くすには、無明から滅して行く必要があると説かれますと、それはそうだと納得して、先ず私たちは直ぐにこれら十二の縁起を覚えようと致します。しかし、般若心経はこの十二因縁の教説も本来空だと説くのであります。
● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅 是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 眞実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
菩提ついに彼岸に至ることを得たり。●あとがき
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死の一つ一つを詳しく説明する余裕はございませんが、比較的分かりよい先師の著書から抜粋したいと思います。あらゆる失敗や苦悩の根源は無知の無明である。世の中の道理に暗く、真実を真実と知らないから、ものの考え方も、そこから起る行為や態度も、すべて誤ったものになる。これを「無明の縁から行がある」という。行は誤った行為であり、またその行為は誤った習慣や性格を残していくことになる。行の中にはそれらの習慣や性格も含まれているのである。
「行の縁から識がある」とは、誤った行為やその習慣力から識(しき、心)が生じるのであるが、その識の中に誤った性格や素質が含まれているのである。この識はわれわれの現在の識と見てもよいし、三世の因果というようにこの世に生まれた最初の刹那の識と見てもよい。われわれがこの世に生まれた時に、その識は白紙ではなく、必ず過去の無明や行の影響によって各人固有の性格や素質を持っているのである。また時々刻々のわれわれの識も、我々がこの世に生まれて以来経験したものを習慣力や素質としてその中に含んでいるのである。いかなる識でも過去の無明や行の影響を受け、無明や行の縁(条件)から現在の識が存在することになる。
またこの識が認識や判断を始める場合には、識の対象としての名色(色・声・香・味・触・法の六境)と六境に対する感覚知覚器官としての六処(眼・耳・鼻・舌・身・意)が存在し、この識と名色と六処との三者の接触和合によって、触という認識判断の作用が生ずるのである。以上が識・名色・六処の縁から触があるということになる。
触による認識作用から、その対象に対する好悪の感じと苦楽等の感受作用が生ずる。同じものを見ても、その人の識(しき、心)の中にある過去の経験の相違によって、ある人はそれを好ましいと思って、楽受を感じ、他の人はそれを見て悲しい嫌な思い出をもって不快に感じ、また苦とも楽とも感じない者もあるであろうし、過去の経験の強弱によって感受の程度にも差があるであろう。このことを経典は、「触の縁から受がある」と説いている。
苦楽などの感受があると、さらに不快で嫌なものはこれを憎み嫌い、好ましいものはこれに愛着を覚える。このよう強い愛着や憎悪の念が愛といわれる意思作用(意業)である。「受の縁から愛がある」とあるのはこのことを指したものである。
愛着や憎悪の念があると、それは更に愛するものは取り入れてわがものにしようという盗取や姦淫の誤った行動となり、憎み嫌うものに対してはれを捨て離れ、なきものにしようと云う殺害や闘争の誤った行動となるのである。つまり愛憎の念(意業)から取捨の行動(身業・語業)が生ずるのである。この事を経典は「愛の縁から取がある」といっている。
盗取や姦淫、殺害や闘争などの誤った行動があると、それはそのまま消失するものではなく、必ずその習慣力を残すものであることは、しばしば述べた通りである。このようにして生じた習慣的余力とか性格などの素質とかが有(う)といわれるものである。「取の縁から有がある」というのは、誤った行動は必ずその習慣的余力などの素質を残すことを示したものである。
この習慣力としての素質は必ず、次の経験の発生に対する影響を及ぼし、また次の生に始る場合にも、そこに生じた識には従来のすべての性格素質が引き継がれていくのである。これを「有の縁から生(しょう)がある」という。生があることから、種々の経験を生じて、そこに苦楽を感じたり、老死などによる愁悲苦憂悩を感じたりするのである。そして無明や愛などの煩悩が除かれないかぎり、輪廻転生を脱することは出来ず、永遠に流転縁起(無明→行→・・・愛→老死)が続けられ、それは結局「一切行苦」としての苦の生存となる。このことを経典は「生の縁から老死愁悲苦憂悩が生ず。このようにの一切の苦蘊の集起がある」と言っている。
このような生死流転の輪廻の連鎖を断つためには、先ず第一の無明が除かれなければならない。無明が除かれるならば誤った行為やその習慣力としての行もなくなるのである。そして、最終的に老死愁悲苦憂悩が滅するのである。
―引用終わり
仏教の「縁起の道理」は素晴らしい教えでありますし、今日勉強した十二縁起説も実に素晴らしい洞察で、大昔の人々の深い洞察力に頭が下がりますが、般若心経は、これらの洞察すらも、『空(くう)』だと洞察する訳であります。般若心経は『空(くう)』と云う考え方をも空じるのだと思われますが、私はここに他の宗教には無い仏教の科学的客観性を感じ、更に魅かれる次第であります。
No.757 2007.11.29
晩節を汚す同期達に想う
昨日、守屋前防衛省事務次官とその夫人が収賄容疑で逮捕された。守屋氏は63歳であるから、多分私と同学年であろうと思う。今年私の大学のクラス同窓会があったが、夫々各企業の要職に就いていたのであろう、今年漸く定年(役員クラスの定年は大体63歳)を迎えるという者もかなりいるようであったし、今なお現役中で海外出張のために参加出来ないと言う者もいたが、サラリーマンの大半は63歳までに〝サラリーマン人生を卒業〟すると云うことであろう。
斯く言う私は大借金を抱えた会社の社長であり、当分は卒業出来そうにない立場にあり、今回の同窓会にも参加出来ず、我ながら情けない思いをしたのは確かである。しかし、63歳で逮捕された守屋氏や、昨年末、家賃の安い官舎に妻以外の女性と同居していることを報道され、政府税制調査会長職辞任に追い込まれた本間正明氏(私と同じ大学の同期生)よりも、未だ私の方が人生に可能性を残している立場にあると言えよう。
考えて見れば、寿命が延びた現代の本当の人生は、63歳からではないかと思う。63歳までは、勝つか負けるか、或いは損か得かのリング上で闘うボクサー人生の様なものであるが、決して勝ち続けることはなく、いつかはリングを追われる日がやって来るのである。守屋氏にしても、本間氏にしても、安倍政権時には夫々の分野のトップランナーであったが、今や安倍氏と共に、自らの不明によって人生の表舞台から追われるように退出して行ったのである。そして、多分彼らには晴れやかな第2の人生は望むべくも無いだろう。人生の本当の勝負は63歳からなのに・・・である。
彼らのサラリーマン人生最終章の結末を想うとき、彼らには多分〝他の為に汗を流して働く〟と云う気概が無かったからではないかと推察している。もしかしたら、社会に出た当初は国のため、国民の為にと言う気概に溢れていたのかも知れないが、出世街道を歩き、勝ち続けることによって初心の気概を忘れ果て、そして自らの名誉欲、財産欲を満たす為にのみ仕事を利用し続けたのではないかと思うのである。
晩節を汚すと言う古くからの言葉がある位であるから、これは誰しもが陥り易い人生の落とし穴なのかも知れない。しかし、これは世間の勝負に勝ち続けた者だけが陥る穴であって、他の為に働くことを忘れない限りは、決して陥ることは無い穴だと私は思うのだが・・・。
No.756 2007.11.26
般若心経に学ぶー⑦
● まえがき
色受想行識、眼耳鼻舌身意、色聲香味触法、眼界乃至意識界は、五蘊六根六境六識と言う仏教の世界観であります。私たちには眼がありますが、眼がありましても、物が無ければ、物は見えません。しかし物が見えましても、それを認識する頭脳が無ければ、結局は何も無いことになります。音も匂いも味も感触もすべて、感覚があり識別する頭脳があって始めて私たちの周りに世界が存在する訳であります。犬にも眼があり、物が見えているはずでありますが、識別する頭脳が人間とは異なるでしょうから、夜の星空を見ても大宇宙を認識することは出来ていないでありましょう。犬と人間とは大きく異なりますが、同じ人間同士でも、感覚の鋭さの違い、識別能力の違いによりまして認識している世界は微妙にと言うよりも大きく異なるものでありますから、争いも生じると言うことでありましょう。
60歳を過ぎた私は最近眼と耳の感覚の衰えがあります。小声でしゃべり掛けられても、声を掛けられていることに気が付かないと思います。たまたま感覚があるから物や音を認識出来ているのでありますが、自分に与えられた感覚能力で世界とはこう云うものだと認識し断定しているだけなのだと思います。従いまして、「世界とはこう云うものだ」とは誰も言えないのであります。それを『空』とも言い、その『空』の立場から言えば、無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界と、五蘊六根六境六識を無と否定しているのではないかと思います。
● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅 是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 眞実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
菩提ついに彼岸に至ることを得たり。●あとがき
私たちは自分の目の感覚を確かなものと思っていますが、空中に存在する1ミクロン(1mmの千分の一)の埃(ほこり)を認識することは出来ません。しかし、太陽光線が部屋に差し込んで来たとき、空中の埃がはっきりと見えることがあります。もし、常にこのような埃が見えていたら、気になってとても平然と生きては居られないかも知れません。音だってそうだと思います。他の動物には聞こえている音を人間は認識出来ていないようであります。匂いにしても犬は相当に敏感のようであります。色々な条件によって、つまり縁に依って私たちは世界を自分なりに作り出しているとしか言えないようであります。青山俊董尼のお言葉をご紹介して、今日の般若心経を締めくくりたいと思います。
近視の人、遠視の人、耳の遠い人、近い人、体の上でも健康か病弱か、そしてそれまでの人生経験がどうであったか、それらの総合の上に一つの花を見、あるいは音楽を聴く。同じ場所にあって一つのものに対しながらも、一人一人全く違った世界をそこに経験していることを忘れてはならない。
嫁と姑、夫と妻、親と子、社長と社員、食い違うのがあたりまえであることを心に銘記しておけば、おのずから対応の仕方も違ってくるであろう。
六根、六境、六識の三者のかかわりあいようによって、初めて一つの世界が展開し、それは条件により、かかわりあい方により、一つとして同じものはないんだよということを、自分の見ているもの、経験しているものが絶対に間違いないというものではなく、自分の投影を見ているに過ぎないのだから、それに固執し、あるいはそれを振り回したり相手に押し付けてはならないのだよ、ということをしたがって自分と相手と話が食い違うのは当然のことであり、食い違っても相手を責めてはならないよ、ということを、「無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界」の言葉は語りかけているような気がする。
No.755 2007.11.22
成果主義を見直そう
『偽造(ぎぞう)』に代わって『偽装(ぎそう)』と言う熟語が社会で認知され始めたのは、2005年の年末から年明けにかけて国民の耳目を奪った『マンション耐震強度偽装事件』だったのではないかと思う。思い起こせば、この無相庵コラムの第一号『雪印乳業事件に思う』を書いた2000年頃から食品業界の偽装が顕在化し始めていた訳であるが、それまでは世に明らかにならなかっただけで、恐らく昭和40年代以降には色々な業界でその偽装の芽が芽生え始めていたに違いない。
勿論、こうした犯罪は大昔から存在していたに違いないのであるが、一流企業と云われる有名老舗企業の偽装は平成の世の特徴的な事件ではないかと思う。つまり、日本が昭和30年代から始まった高度成長期を歩む中で、「会社を存続させるために何が何でも利益を上げなければならない、会社は利益を上げなければ存在価値は無い」と言うアメリカ的利益至上主義によって、まさに悪貨は良貨を駆逐すると云われる如くに、「良い品質の品物を造り、お客様に提供する」と言う日本古来の職人気質は、日本企業から葬り去られてしまったのだと思う。
それをなお固定的にしてしまおうと云う取り組みが、大企業における「成果主義に基づく人事評価制度及び年俸の導入」である。「いくら頑張ったと言っても結果が出なければ、頑張らなかったことだ」と言う考え方が今の企業社会を席捲している。 私が17年前まで勤務していた企業でも、トヨタの生産現場の元管理職を家庭教師に招き、トヨタ生産方式の考え方とシステム導入に熱心だった。そしてその実践研究会では「結局改善した結果、一体なんぼ儲かるのか?」と言うのが締めくくりの言葉であり、当時は「確かに儲からなければ意味はない」と洗脳されつつあったことを思い出しているところである。 これは私の勤務していた会社だけではない。所謂上場企業なら殆ど全て、現在は中小の製造企業にまで広がって、製造現場指導が為されているのである。
トヨタの生産方式全てを否定する積りは無い。如何にしてムリ・ムダ・ムラを無くすか智慧を絞り工夫を凝らすことは大切であるが、それが「金儲け第一」と言う無言の合言葉で鼓舞されているところに大きな問題点があるのではないかと思う。トヨタの利益は製造業では世界一の2兆円と云われているが、その下請け・孫請けまでの中小企業はそれなりに儲かっているかも知れないが、ひ孫請けなどの零細企業は、果たしてどれだけ儲かっているのだろうか・・・。
「為せばなる。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と言う古くからの格言がある。この考え方は一見成果主義に思えるが、それは違うと思う。この格言は「精一杯の努力をする事」を強く奨励しているものだと私は解釈している。
成果主義を仏法の「縁に依って起る」と言う立場から考察すると、非常に無理があると云うか、間違いである。「縁に依って起る」を言い換えると「因縁果(いんねんか)の道理」となるのであるが、全ての現象には原因(因)があり、様々な条件(縁)が働いて、結果(果)が生じると考える。そして、ある偉い仏法者が言われた言葉であるが、「私たち人間に発言権があるのは『因』だけで、『縁』にも『果』にも発言権は無い」と。私たちの努力だけでは望む結果つまり成果は得られないというのが仏法的考え方なのである。これは冷静な考え方だと思う。「私はこのように頑張ったからこんなに成功した。我が社はこのようなシステムに改善したから、今日の興隆がある」と如何にも自分が成果を左右出来たかのように言う向きがあるが、これは「自分の努力も然ることながら、認識出来ていない様々な条件が揃ったお陰で今日の成果に恵まれた」と云うべきところである。
私たち人間には目標・目的が必要である。それが無ければ生きる意味も無いし、生き甲斐も喜びも無い。しかし、目標達成だけが生き甲斐にはならないだろうと思う。目標に向って智慧を絞って色々と工夫する、縁を巻き起こすべく様々な努力も怠らない、そう云う過程にこそ本当の生き甲斐があるのだと考えたい。人事評価に付いても、予め上司と部下が目標達成のために為すべき努力について合意して、その努力が着実に為されたかどうかを相互チェックするところにこそ、上司の指導力も発揮される場があるし、部下にとっても本当の遣り甲斐も出て来るのではないかと思う。精一杯背伸びさせられて立てた目標に対して達成したか達成しなかったかだけで人事評価が為される現状は、上司と部下のミュニケーションも無いに等しく、希薄な人間関係と逆境に弱い企業体質が育つだけではないかと危惧されてならない。
仏道を歩む目標も「悟り」にあるけれども、悟りへの過程である修行つまり努力の方も重要視される。「悟りには、これで終わりと云うことはない」と云われるし、「修証一如(しゅうしょういちにょ)」つまり「修行することが証(さと)りであり、証ればなおさら修行に励みたくなるものである」とも云われる。
50年近くかけて構築されてしまった成果主義・利益第一主義思想は一朝一夕に壊すことは出来ないだろうが、この間違いに気付いて、先ずスタートを切ることは出来るのではないだろうか・・・。
No.754 2007.11.19
般若心経に学ぶー⑥
● まえがき
『法(ほう)』と言う漢字が般若心経で初めて出て参りました。『法』と申しますと、私達は直ぐに『法律』や『規則』を思い浮かべますが、仏教の経典で用いられる場合は、主として私達人間が感覚し得る『この世に存在するもの』や『この世のあらゆる現象』を意味します。『色即是空 空即是色』と説かれた後に、「私たちが出遇う(感覚出来る)一切の存在や現象を〝空〟の姿であると捉えると言うことは」、と具体的に説き直してくれているのだと思います。そして「空の姿とは不生不滅・不垢不浄・不増不滅だからなのだ」と丁寧に説明されています。『不生不滅・不垢不浄・不増不滅』は、文字通り『生まれると言うこともなく、滅すると言うこともない、汚いと言うこともなく清いと言うこともない、増えたと言うこともなく減ったということもない』と言うことでありますが、私たちが生きている世間は、生まれた・死んだ、きれい・汚い、増えた・減った、更には勝った・負けた、得した・損したと言う世界でありますから、なかなか『不生不滅・不垢不浄・不増不滅』を実感出来ません。
それを私たちに分かり易いように、水を例に挙げて、詩と言う形で説き明かして下さっているのが、『まど・みちお』さんです(まど・みちおさんは、『象さんのうた』の作者として知られています)。そして、それを紹介して下さっているのが、私が敬愛申し上げている青山俊董尼です。〝あとがき〟にご紹介致します。
● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅 是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 眞実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
菩提ついに彼岸に至ることを得たり。●あとがき
まど・みちおさんの詩は、『水はうたいます』です。    水は  うたいます
    川を  はしりながら
    海になる日の  びょうびょうを
    海だった日の  びょうびょうを
    雲になる日の  ゆうゆうを
    雲だった日の  ゆうゆうを
    雨になる日の  ざんざかを
    雨だった日の  ざんざかを
    虹になる日の  やっほーを
    虹だった日の  やっほーを
    雪や氷になる日の  こんこんこんこんを
    雪や氷だった日の  こんこんこんこんを
    水は  うたいます
    川を  はしりながら
    川であるいまの  どんどこを
    水である自分の  えいえんを
        (『まど・みちお詩集「宇宙のうた」』銀河社)
青山俊董尼は、「一つの水が条件によって、液体となり気体となり固体となる。同じ液体でも、川や海の姿と変わるときもあれば雨の姿をとるときもある。同じ気体の姿をいただいても、雲や虹となって空を彩る日もあれば、川霧となって山裾を這い上がる日もある。一転し て雪となり氷となって山野をおおう日もある。雲や雪という一つの形をいただくと、始めがあり終わりがある。しかし無くなってしまったのではなく、水の命に帰っただけ、水という永遠の命を、今は雲という姿をいただいて生き、明日は雪という姿と変わって生きるという だけのこと。」と説明されています。
「水は増えもしないし、減りもしない。新しく水が生まれるのではなく、水と言う分子が無くなってしまうものでもない」。また、水は私たちの体内にある時は汚いと思わないけれども、一旦体外に出て尿や汗と言うものになると私たちは汚いと思いますが、それはただ単に他の物質分子を溶かし込んだだけのことであり、水自体が変わったわけではありません。つまり、『不生不滅・不垢不浄・不増不滅』であります。
人間の生死もその様に考えますと、少し捉え方が変わります。青山俊董尼が尊敬されている内山興正老師の『生死(しょうじ)』と題する詩をご紹介したいと思います。
    手桶の水を汲むことによって
    水が生じたのではない
    天地一杯の水が
    手桶に汲み取られたのだ
    手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって
    水がなくなったのではない
    天地一杯の水が天地一杯のなかにばら撒かれたのだ
    人は生まれることによって 生命を生じたのではない
    天地一杯の生命が私という思い固めのなかに汲みとられたのである
    人は死ぬことによって、生命が無くなるのではない
    天地一杯の生命が私という思い固めから
    天地一杯のなかにばら撒かれたのだ
注)『「天地一杯」という言葉を聞くと、われわれは体がムクムクと風船玉みたいにふくれあがるのかしらんというような錯覚に陥りがちだが、そうではない。老師は更に、「天地一杯と言うのはわれわれの思い以上の力ということであり、それが生命の実物であり、そこに帰るのを帰命といい、南無という」と付け加えられた』(青山俊董尼のお言葉より)
No.753 2007.11.15
『空(くう)』と日常生活
ここ最近の月曜コラムで『般若心経』を勉強中でありますが、『般若心経』の眼目は、『空』であります。『空』が分かれば般若心経卒業、と申してもよいと思います。いえ、仏法が分かったとまで申しても決して過言ではないと思います。
しかし、「空が分かった」と言うのは、頭の中での知識としての理解ではなく、所謂(いわゆる)体得出来たと言うことであります。それでは体得とはどう云うことかと申しますと、「十分会得して、自分のものにすること」だと広辞苑に説明されています。では、修行僧ではない私たち在家の者が会得するために具体的にはどうすればよいでしょうか?ここが非常に大切なところだと思います。ただ、「空を会得する」と言う事は取りも直さず『悟りを開いた』ことになりますので、そう簡単なものでは無いと言うことも前提としてお考え頂きたいと思います。
私は『空を会得する』ことはかなり難しいことであるとは思いますが、ものごとを会得する上で必要とされている〝繰り返し訓練〟に依って達し得ることではないかと思います。つまり日常生活において出遇う様々な出来事を通して『空』を実感することだと思います。しかし、「空を実感しよう」と思いましてもなかなか難しいことだと思います。それは『空』が漠然としているからではないかと思いますので、其処は『空』を『縁に依って起る』と言い換えまして、日常生活の出来事を『縁に依って起っている』と考察致しますと、「日常生活そのものが『空』と感じられるようになる」のではないかと思います。
私自身、今なお公私共に経済破綻の瀬戸際を生きているのでありますが、この状況はあらゆる条件(仏法ではこれを縁と申します)が揃っているからこそ続いているのだと思います一方、一つでも条件が変化すれば、それこそ状況は一変するのだと考えています。未来永劫今の状況が変わらないはずは無いからであります。逆境の時、今の状況が変わらないと思いますと、それは苦悩となってしまいます。又、逆に順境の時に、この状態がいつまでも続いて欲しいと思いますと、それは不安と言う苦悩になります。「全ては変化するものである」と言う見方が何時でも、どんな事に対しても出来るようになれば、苦難には遭遇しましても、それが苦悩とはならないのではないかと思います。
『空』を哲学するのではなく日常生活において『空』を体感して参りたいと思っています。
No.752 2007.11.12
般若心経に学ぶー⑤
● まえがき
この世を生きている人の中で、一つの悩みも無いと言う人はいません。誰でも〝気に掛かっている事〟の一つや二つは持ち合わせています。その悩みの種類は千差万別でありましょうが、大多数の人の根底には〝自分の死への恐れ〟があるはずであります。しかし中には〝死ぬより辛い目〟もあり、実際、人間関係の縺(もつ)れや経済苦から自死を選ぶ人はあとを絶ちませんが、仏教ではこれらの苦を四苦八苦に分類しています。私達は、自分の肉体に執着し、生に執着して死を忌み嫌います。誰しも病気したくありませんし、老いたくもなく、死にたくもありません。これらを『生・老・病・死』の四苦と言います。
この四苦に、 下記の四苦を加えて八苦となります。
愛別離苦(あいべつりく、愛する人と別れねばなら無い苦)
怨憎会苦(おんぞうえく、嫌な人・憎い人と会わねばならない苦)
求不得苦(ぐふとくく、欲しいものが得られない苦)
五取蘊苦(ごしゅうんく、心身が受けるすべての苦)
これらの苦しみや悩みは、私たちが現実を取り間違えている、或いは現実から目を背けているところから来ているものであると仏教は考えます。全てのものは変化し続けるものであり、この肉体も、やがては老い、そして滅びる事は間違いないにも関わらず、私たちはそれを認めたくないものであります。財産にしても、子供達にしても、何時までも自分のものであるはずが無いにも関わらず、執着して止みません。前のコラムで申し上げましたが、この世にはお客さんで来ているにも関わらず、自分の思い通りになるかの如く考え、そうはならない現実に苦悩しているのが私たちの姿であります。
そう言う私たちに『般若心経』は、現実・事実を見るようにと説き聞かせてくれるのであります。今日の一句の中にある『色即是空』は、この世の全ては変化して止まないこと、また全てのものは単独で存在するものではないことを教えている一句であります。
さて、これまで勉強して参りました『観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄』は般若心経の本文であり、その本文を詳しく説明しているのが、今日の『舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是』以下の言葉です。そして先ず、五蘊皆空と言う事に付いて、『五蘊』である『色・受・想・行・識』が全て『空(くう)』だと言い直しているのでありますが、冒頭の〝舎利子〟とは、お釈迦様のお弟子の中で最も智慧に秀でていたとされる「舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)」のことであります。そして〝子(し)〟は中国語で親しみを込めて呼び掛けるときに使用すると言うことですので、〝舎利弗さんよ〟と言うようなニュアンスで呼び掛けられていると考えられます。従いまして、この般若心経はお釈迦様が舎利弗尊者に『空の教え』を説き聞かせる形で製作されたものでありますが、〝舎利弗さんよ〟とは、舎利弗を通して私たちに呼び掛けているものだと受け取るべきでありましょう。
さて、『色不異空 空不異色 色即是空 空即是色』は、『色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり』と訓読されますが、『色不異空 空不異色』は、『色即是空 空即是色』をリズム良く導き出す枕詞的な言葉だと考えてよいと思われます。そして今日の一節は、色(しき)を代表させて、『五蘊即是空・空即是五蘊』と私たちに説き聞かせているものでありましょう。
般若心経は『色即是空 空即是色』この一句に尽きると言われますがその心は、『色即是空』で終わらずに『空即是色』と言い直しているところにあります。つまり、「私たちのこの世界に存在する全てのものも、また身の回りに見られる全ての現象も私たちの頭脳が〝在る〟と錯覚しているだけで、実は空っぽなのだ、実体は無いのだ」と悟ったところで終わってしまえば虚無主義、或いは厭世主義に陥ってしまいますが、その心境を踏まえつつ、やはり生きている証拠に心臓はドキドキと鼓動していると言う実感から、そっと押し返して、柔らかく『空即是色』と受け取るところに大乗仏教の妙味と合理性があると先人は洞察されています。
そして、色即是空から空即是色へと現実に戻ったところで自己への執着が軽減され、世の中に尽くしたい、他の人の役に立ちたいと言う報恩感謝の気持ちが湧いて来るのだと大乗仏教は考えているものと思われます。
● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不滅 是故空中無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明 亦無無明盡
乃至無老死 亦無老死盡 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 空竟涅槃 三世諸佛 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 眞実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 ●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
菩提ついに彼岸に至ることを得たり。●あとがき
『空(くう)』と言う概念はなかなか分かり難いものでありますが、私の頭脳での理解は「刻々と変化し続けるこの世の存在も現象の一瞬を捉えて〝これは何々だ〟と断じることは出来ないし、また、全てはそれ単体では存在し得ない存在である事を空(くう)と言うのである」と考えています。従って、『空』は『無常』と言い換えてもよいし、『縁起』と言い換えることも出来るのだと思います。そして、『空即是色』は、法然上人や親鸞聖人が大切にされた『自然法爾(じねんほうに)』と言うお言葉と同じところを意味するものだと考えております。
No.751 2007.11.08
主客転倒
地球温暖化が問題視されています。ゴア元アメリカ副大統領が、その重要性を訴える活動を評価されノーベル平和賞を授与された事は、漸く人類が地球は私達の物ではないことに気付いた証(あかし)だと思っているところです。
地球の歴史から申しますと人類は新参者であります。地球が生まれて以来、実に46億年を生きて来たのでありますが、46億年を地球の1年間に縮小して換算致しますと、人類らしきものが誕生したのは12月31日の午後11時過ぎてからであります。生命の誕生が4月頃、哺乳類の誕生が12月27日位になり、現在の人類の誕生に至っては午後11時59分頃と言う事でありますから、正に人類は地球を住処(すみか)とするルーキーなのであります。
そのルーキーがこの地球を勝手放題に荒らし回り、二酸化炭素を酸素に変えてくれる森林を食い尽す一方で、石油と言う貴重な地下資源を燃やし続けて二酸化炭素を大気中に放出し続けて来たのであります。温暖化が急速に進んだ最大の問題点が主客転倒した人類の〝思い違い〟にある事は否定のしようがありません。
〝思い違い〟と言う言葉で思い出しました。無相庵のリンク集に京都の『紫雲寺』と言う浄土真宗末寺のホームページがございます。その中にご住職、釋昇空師の法話コーナーがございますが、その(37)番に『心がけ、命がけー死は生を映す鏡』と言う今年9月23日のご法話がございます。その中で釋昇空師は「私たちは、この世の主(あるじ)ではなく、客なのです」、と語られている部分がございます。
釋昇空師の法話からの引用:
私たちは、「我が身が可愛い」ものですから、何でも自分の思い通りにしたいのです。それで、「私が、私が」と、「私」を前に押し出して「わがまま」になるものですが、もともと、この世は、思い通りにならないものなのです。
私たちは、思い通りにならないものを、思い通りにしようとするから、苦しいのです。「私が、私が」と、「私」を握りしめているから、苦しくて仕方がないのです。こころ安らかに生きたいと思うのなら、その手を緩めたらよいのですよ。
「私が、私が」と、「私」を握りしめている手を緩めて、楽になりましょう。実は、そのことを教えているのが、仏教なのです。仏教は、人生は旅だと教えています。そこから話を続けます。さて、もともと、「この世は、ままならない」ものなのです。というのも、この世は、私たちの持ち物ではないからです。私たちは、この世に生まれてきましたけれど、この世をもらったわけではないのです。
私たちは、この世を旅する「旅人」です。つまりは、この世の「主(あるじ)」ではなくて「客」なのです。「客」だと思えば、ご馳走が出なくても仕方がないし、お茶一杯でも「ありがたい」でしょう。
そのことを忘れていると、この世の本当の姿が見えてきません。お茶一杯の幸せに気づけるほど謙虚であること。それが、まずは、まっとうな旅人の「心がけ」です。もともと、私たちは、何も持たずに、裸で生まれてきたのです。お茶一杯でも、この世から与えられたものなのです。謙虚になって、この世の与えてくれるものを、両手を合わせて受けとめていく。そこに、はじめて、この世の本当の姿が見えてくるのです。
―釋昇空師の法話引用終わり
確かに私たちは〝主(あるじ)気取り〟で、この世を自分の思う通りにしようとして、そして、思い通りにならなくて、苦しんでいます。他所の家にお邪魔した客と言う立場にならば、誰しも遠慮と言うものがあり、接待する側の〝お持て成し〟にお任せすると言うのが当たり前のことでありましょう。
客である立場をすっかり忘れ果てて、傍若無人に振舞っているのが人類であり、そして、自己中心に生きている私自身の姿ではないかと反省させられた次第であります。『求めない』と言う詩集が最近のベストセラーになっている事を以前ご紹介させて頂きましたが、〝何かを求める〟と言うのは、客の立場を忘れた姿であります。
地球温暖化、釈昇空師の法話、そして詩集『求めない』を思い合わせまして、「日常生活の中ではすっかり数え忘れている〝多くの恵み〟を数え直しつつ生きることが、心豊かな、そして心安らかな人生を取り戻す唯一の道なのだ」と教えてくれるのが仏法だったのだと気付かせて頂いた次第であります。