No.750  2007.11.05

般若心経に学ぶー④

● まえがき
今日の『度一切苦厄(どいっさいくやく)』と言う言葉は梵語経典には見当たらないそうで、漢訳般若心経を訳出した玄奘三蔵が何らかの意図を以って差し挟んだと言う見方があるようです。従いまして梵語経典から直接訳出した後述の『国語経典編集委員会の新訳』には『度一切苦厄』の訳文は省かれています。学問的には色々な立場での論争があるようですが、それは学者さんにお任せして一般の私達は素直に「五蘊全てが空(くう)」だと悟り得たら、私達が遭遇する一切の苦厄を度(ど)し得るのだと理解したいと思います。

私達が日常あまり使わない『度(ど)』と言う漢字にはサンズイが付いた『渡る』と言う意味があり、「彼岸に渡る」、つまり「悟りを開く」と言う意味があります。また、『度脱(どだつ)』と言う熟語は「悟りを開いて俗世の苦しみから逃れること」と言う意味があるそうですが、「苦厄を度する」と言う意味は、「苦厄が無くなる」と言う事ではなく、「苦厄を超える」或いは「苦厄が苦厄では無くなる」と言う意味だと受け取りたいと思います。これは、青山俊董尼のご法話の中で紹介されていた言葉に「苦しみから私が救われるのではなく、苦しみが私を救ってくれるのである」と言う言葉がありましたが、その様な意味合いに受け取ればよいと思います。

「一切の苦厄」とは、苦とは私達の煩悩が生み出す生老病死の四苦に求不得苦、怨憎会苦、愛別離苦、五陰盛苦を加えた八苦であり、厄とは突然遭遇する様々な災難であり、此の世に生きている限り何人(なにびと)も避けることが出来ないものであります。これらが私達の悩みとなって、私達は二重の苦しみを受けることになっています。 しかし、この苦厄は五蘊が『空(くう)』であると照見出来れば、苦厄が苦厄でなくなると言う訳です。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
私は、この『度一切苦厄』が玄奘三蔵の創作した言葉であろうと無かろうと、この一句がある事によって、仏法を知らない人々に、仏法が私達を苦しみから救う教えを説くものだと言う認識を与えて来たのであろうし、また、苦集滅道の四諦と八正道の教えを説かれたお釈迦 様の意に副うものではないかと思う次第であります。

私達人間と他の動植物との違いは、「何故だろう?」「何とかならないか?」と思考する頭脳が発達したところにあります。それ故に文明が発達して来た訳ですし、更に発達しようとしています。それは「何とかならないか?」と欲望を満たすために頭脳を使ったが故に何もかもが便利になって来たのでありますが、しかし、他の動植物例えば犬や猫と私達人間との違いは、苦に対する姿勢にあります。犬や猫にも苦はあるでしょう。お腹が空いたという苦痛、石をぶつけられると苦痛はあると想像されます。しかし、それは瞬間的な苦痛であって苦悩にはなっていないように見受けられます。苦痛に対して実に淡々としているように見えますし、それは一見悟りの世界に生きているようにも見えますが、単に頭脳未発達の為せる業でありましょう。

一方、人間は頭脳を働かせて苦に遇わないように様々な準備を致します。それが文明を発達させてきたのでありますが、幾ら文明が発達しても人類は未だ幸せを獲てはいないのであります。つまり、頭脳を使う方向を間違えたのだと思います。本当は2500年前にお釈迦様が説かれた教えに耳を傾け、その頭脳を働かせて苦悩が生まれて来る心の働きを見詰めて、苦悩を乗り超える深い智慧を磨くべきでありました。また、そうする事に依ってはじめて人間の人間たる価値があると言えるのだと思います。

犬猫には悩みが無いから悟りもありません。しかし人間には苦悩があるから悟りもあるのだと考えたいものです。そして、それは般若の智慧を行じて『空』を照見することだと言うのが『般若心経』の立場だと思います。『空』を行じると申しますと禅の世界の難しい話のように感じますがそうではなくて、「全ては縁に依って起ることに気付く」ことだと言ってよいと思います。


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No.749  2007.11.01

『無相庵家庭墓』誕生の経緯

本日(2007年11月1日)、無相庵ホームページのトップページに掲載させて頂いた家庭墓(かていぼ)を誕生させた背景に関しましては、前回と前々回の木曜コラムにて縷々申し述べさせて頂きました。端的に纏めさせて頂きますと、「本来お経と言うものは、亡き人を弔うために生まれたものではなく、今生きている私達の命の尊さ・人生のあり方に関するお釈迦様の教えが書かれているものである事を一般の人々にお知らせしたい」と言う事であります。

この私の想いと願いは私の母から受け継いだものでありますが、今回、『無相庵家庭墓』と言う具体的な形となりましたキッカケは、東北地方で石材業を経営されている方とこの無相庵コラムを通して、たまたま、ご縁を頂いたことにあります。

ご存知の通り、日本の製造業は中国が世界の工場に伸し上がるに連れて空洞化して参りました。私の会社も然りで、今以って苦戦を強いられている最中でありますが、その経営者の方とメール交換させて頂く中でお墓の製造販売業もご多聞に漏れず大苦戦されている事を存じ上げました。お節介な性格で且つ発明好きの私は「石材加工技術を活かした新製品は無いものか」と思案を巡らし、前述の私の想いと願いと必然的に結び付きまして、「床の間にお墓を飾って一般の方々に『般若心経』などの短いお経を読んで貰おう」と言う考えになりました。

色々な方にこのアイディアを聞いて貰ったり、世間の状況を知るに付け、「お墓が遠いところにあってなかなかお墓参りも出来ずに不便しているお年寄りの方」「数十万~数百万円もするお墓を造るお金の目途が立たず骨壷を家に保管したままの方」「地方から都会に出て来られ、既に故郷とは縁が無くなり、お寺との接点が全く無くなって困られている方」等など、お墓のことで悩まれている方は結構多いことが分かりました。そして、これらのニーズを敏感に感じ取り、様々な家庭墓が誕生していることも分かりました。

特許調査をした上で、他の特許に抵触しない構造を考えまして、上記の石材業の方にサンプル試作をお願いして出来上がったのが写真掲載したものであります。私は、この『無相庵家庭墓』の普及によりまして、日本のお墓文化を変えたいですし、お経の内容と意味を一般の方にお伝え出来、無相庵読者である石材業の方と共に経済的にも立ち直れれば、真に有り難いと思う次第であります。

無相庵読者の方々のご賛同とご協力が得られれば、幸いであります。


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No.748  2007.10.29

般若心経に学ぶー③

● まえがき
今日の『照見五蘊皆空』、これもなかなか耳慣れない言葉ばかりです。そして、初めて『空(くう)』と言う語が出て参りました。「照見(しょうけん)」と言う熟語は広辞苑には載っていません。「照」は、神や仏の智慧の光で明らかにすると言う意味がありますし、「見」は「見解」の「見」の意味だろうと思われますので、「照見」は、人間の頭で知ったと云う程度の浅いものではなく、仏の智慧の眼で見てはっきりと悟ったと云う事だと思われます。

さて、問題は「五蘊(ごうん)」です。「蘊(うん)」は、自分の学識・技能の精一杯を発揮すると云う意味で使われる「蘊蓄(うんちく)を傾ける」の「蘊」で、「積み蓄える」と言う意味の漢字です。後に出て来ます、「色・受・想・行・識」の五つの要素の集まりを「五蘊」と言います。そして、お釈迦様の時代のインド(当時の天竺)では、私達の肉体と精神を含めましてこの世の全ては、この五蘊から出来ていると言う考え方をしていたのです。

そして、この五蘊は全て「空(くう)」だと観自在菩薩が「照見」したと云う訳であります。それが、「照見五蘊皆空」と言う漢語であります。そして「色・受・想・行・識」は私達を取り巻く物質的存在と精神の働きの全てを分別したもので、下記の如く意味付けられます。

(しき)とは、私達人間が眼・耳・鼻・舌・身の五官で直接、間接に感受出来る全てを意味します。
(じゅ)とは、感覚です。感じ受け取る力です。薔薇の花が咲いているのを見て、綺麗な花が咲いているなと感じ取る働きを云い ます。
(そう)とは、知覚です。薔薇の花を切り取って家に飾ろうかと考える働きを云います。
(ぎょう)とは、心で想った事をそのまま実行しようとする働きです。
(しき)とは、知識・理解・認識のことです。薔薇の花には棘(とげ)があるから切り取る時に痛いだろうな、止めようと考える 働きです。元々、識は「識別(しきべつ)」と言うように、物を特定したり、選別したりする意を表わす漢字です。

これら『五蘊』が「すべて空だ」と言うこの『空(くう)』が分かれば、大般若経の要を纏めた経典と云われ、更には大乗仏教の要の経典と云われる『般若心経』のそのまた要点が分かったことになります。しかし、頭で理解した『空』は飽くまでも知識の『空』でありますから、悟りには程遠いものであります。この般若心経をも忘れ果てるところに人間智を越えた『空』の真実があるように思います。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
私達は何でも分かろう解ろうと致します。これは五蘊の中の『識』と言う働きでありますが、恐らく、他の動物には受・想・行の働きはあると思いますが、識は持ち合わせていないと推察され、『識』は人間だけに備わっている働きだと思います。そして、この識が備わっているが故に人間には煩悩があり苦悩が生じます。しかしまた、識のお陰で動物には起り得ない『悟り』も有り得るのだと思います。

『空』に関しましては、色々な方が解説されていますので、多くの仏教書を読まれることをお勧め致しますが、本当に『空』が分かったと言えますのは、お釈迦様が菩提樹の下で瞑想されていた時に暁の明星を見られた瞬間に「あっ、私が光っている」と天地と一体の自分を悟られたその心境を私達も体験し得た時である事を忘れてはならないと思います。その為の準備として本を読んで知識を積み重ねる事も必要でしょうし、また行としての坐禅も必要でしょうし、聞法を続けるのも必要なのだと思っている次第であります。


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No.747  2007.10.25

続―お葬式・お墓・法事と仏教の関係について

前回の木曜コラムで、お葬式や法事と仏教は本来関係の無いものと申しました。そして今日の日本仏教の低迷状態を生み出した最も大きな要因は、仏教がお葬式とお墓に関与したことにあるとも申しました。しかし、何処で(インドか中国か)、何時の時代に、何がキッカケになってお坊さんがお葬式でお経を読み始めたものか、その歴史を存じませんが、仏教の三法印の一つである『諸行無常』をまざまざと実感出来る場がお葬式であり、そのお葬式と言う場を借りて集まった人々に『無常』を説き、「縁に依って起る」と言う仏教の根本的考え方である『縁起の道理』を知らしめようとしたのが始まりだったと考えるのが自然ではないかと思います。

そして、日本に仏教が伝わり鎌倉時代に大乗仏教の華開いた中世以降、お坊さんの肉食妻帯が当たり前となって行き、お寺は最早仏道研鑽の場ではなくなって、お坊さん家族の住居となってしまったのだと思われます。そうしますとお坊さんは必然的に経済的な安定だけを考えるようになり、お葬式や法事の読経とお墓の管理が欠くべからざる日常業務になってしまったのだと推察致します。そして、お坊さんは悟りを開きたいとか或いは信心を深めたいとか仏法を広めたいと言う僧侶本来の仏道から離れた存在になってしまったのだと思います。このような状況を続けていますと、仏教は葬式・法事を司るためだけにあり、お釈迦様の仏法は完全に忘れ去られるに違いありません。そういうことでは、インド・中国・日本の祖師方に大変申し訳ないことになってしまいます。

このような状況を打開致しますためには、一般の方々に仏教のお経と言うものが私達の誰もが抱える人生の苦から救われるための処方箋を示していることをお知らせしなければならないと思います。その方法としては、今や一般の人々が仏法に接する唯一の機会は家庭における命日とか法事しかないと思われますので、その機会に工夫を凝らしたいと考えました。

従来よりお墓はお寺が経営管理する墓地に造るものだと思われていますが、実は遺骨を家庭に保管することが法律で認められています。わざわざ遠い墓地に、しかもかなり高額の費用を掛けて造る必要はありません。むしろ、例えば家庭の床の間などにご遺骨を安置出来るミニお墓的なものがあれば、都合が良いのではないかと思います。

そうして、お経の内容を理解した上でご家族自身が毎月の月命日や年毎の祥月命日毎にお経を読んだり、仏法の話しを聴く機会に出来れば仏法が身近になり、また人々の人生が生き甲斐のある生き生きとしたものになるのではないかと思います。

私は、母から受け継いだ仏法を広げる役割を果たすべく、ミニお墓的なものに音声再生装置を付属させまして、お経の中で最も短い『般若心経』とその内容を解説した法話を15分程度に編集して自習出来るようにすれば、お経を一般の方々に取りまして身近なものに出来るのではないかと考えております。


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No.746  2007.10.22

般若心経に学ぶー②

● まえがき
今日は、『行深般若波羅蜜多時』の意味を勉強したいと思います。しかしその前に、経典の難しさに付いて、一般の方々にご説明が必要だと思います。経典は遅くとも西暦5世紀頃までにインド(当時は天竺と呼ばれていました)で製作されたものですが、私達がお葬式や法事で耳にするお経はインドで製作(当時の言語は梵語、つまりサンスクリットとかパーリー語と言われる)された経典を中国の言語つまり漢語にやくされたものであります。そして、その難しさの一つの要因は、漢語に訳す時に訳し切れなかった梵語をそのまま音写したものがかなり多く混じっているところにあります。

例えば、「般若(ハンニャ)」はサンスクリットで「智慧」と言う意味の〝プラジュニャー〟、パーリー語で〝パンニャー〟を音写したものであり、「波羅蜜多(ハラミタ)」も、サンスクリットで「彼岸に到る」即ち「悟りを開く」と言う意味の〝パーラミター〟を音写したものであります。 また、前回の「観自在菩薩」の「菩薩(ボサツ)」は「菩提薩埵(ボダイサッタ)」を短縮したもので、これも、サンスクリットの「悟り」と言う意味の〝ボーディ〟と「生命ある者」を意味する〝サットゥバ〟を合わせた〝ボーディサットゥバ〟の音写語から「ボサツ」となったものであります。

そして本日の『行深般若波羅蜜多時』の「行(ぎょう)」も「深(じん)」も「時」も文字通り漢訳されたものであり、このように、音写語と漢訳後が無秩序に混じっているところに、私達日本人が解釈し難い原因があります。

さて、漢訳された「行」は「修行」と言うことでありましょうが、これは悟りに至る智慧を行ずると言う具合に直訳的に解釈するよりも、悟りに至る六つの修行として設定されている六波羅蜜(ろっぱらみつ)、布施。持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を行ずると受け取るべきだと言う見解があります。般若心経はなるべく短く纏めたいと言う作者の意図を思いますと、これは自然な受け取り方だと思われます。そしてもう一方の「深」は文字通り〝浅く無い〟〝普通では無い〝深遠な〟と解釈してよいと思います。

『般若心経』は『一切皆空』を説くお経だと思います。従って、『般若』とは『空を悟った智慧』だと言う根本的な考え方があっての『般若波羅蜜多』ではないかと思われます。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょ うじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
音写と言うことは、経典のみならず、日本語がそのまま音写されて国際的に使われている例も多いものです。例えば、「駅伝」は「EKIDEN」として通用していますし、「寿司」も「SUSHI」と音写されています。意味さえ広く知られるようになれば、それぞれの国語に訳すよりも、その方が却って気持ちにぴったり来るようなところがあるように思います。

般若心経も内容を十分に理解出来ましたら、わざわざ現代日本語に訳さなくとも、漢訳経典を読めば、そのままで意味が分かるようになると思いますので、そのままがいいのではないかと私は思うようになりました。


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No.745  2007.10.18

お葬式・お墓・法事と仏教の関係について

仏教は2500年前のインドにお生まれになったお釈迦様が、永遠の幸せ(生老病死の四苦からの脱却)を求めて修行された結果として、この世の全ての現象は『縁起の道理』(末尾に説明あり)に従って生じる事に気付かれたことを起源としています。そして、先ず初めに、苦集滅道(くじゅうめつどう)の四聖諦(ししょうたい)の教え、即ち苦の原因と苦から解放される道を説かれたのでありました。その後300~400年の間にお釈迦様の教えは出家修行者中心から私達一般庶民を対象とした大乗仏教へと変化してゆきました。

そして更に数百年、仏教の隆盛はインドから中国に移り、そして中国或いは韓国を経由して飛鳥・奈良時代の日本に伝わり、鎌倉時代に大乗仏教の大輪の花が開いたのでありますが、その時からインド・中国の仏教は逐一滅びてゆき、今では仏教国と言えるのは東南アジアの一部と日本だけになっている次第であります。

しかし今の日本、仏教国と言えるのでしょうか。確かに今の中国におきましては、お寺は形として残っているようでありますが、お坊さんは指折り数えられる程度だとお聞きしていますから、中国には仏教は無いと言ってよいと思います。しかしそれではお寺も沢山あり、街中で度々お坊さんに出遭うことが出来、お彼岸には日本国中のお墓がお墓参りの人々で賑わう日本の現状を仏教興隆の証しとして喜べるかと申しますと、私は甚だ疑問であると言わざるを得ません。

確かに、日本にお寺は7万7千ヶ寺もあり、お坊さんは約30万人も居られ、信者数も統計上は6千万人と数えられているようであり、表面的には仏教国のようではあります。しかし、一般民衆に仏法を説いているお坊さんは一体何人位居られるのでしょう。一般市民の人生を歩む上での杖になっているお坊さんはどの程度居られるのでしょうか。葬式や法事の際の読経はするが、説教(法を説く事)はしないお坊さんしかいないと申しても過言ではないと思います。従いまして、日本にはお寺もあり、お坊さんも居るけれども、中国と同様、仏法は過去の遺産と言うべき状況だと思います。

元々は、仏教とお葬式、お墓、法事は関係のないものでありました。2500年前のお釈迦様も、750年前の親鸞聖人も、ご自身が亡くなられた後の遺骨の処理方法に付いては甚だ無頓着でいらっしゃいました。極論しますと、「遺骨に何の値打ちも無い」と言うことであります。親鸞聖人も、「私が死んだら、遺体を賀茂川に流し、魚の餌さにしてくれ」とまで言われたそうであります。そして、何よりも、お釈迦様も親鸞聖人も、亡くなられた方のお葬式に出られてお経を読まれたことは一度もございませんでした。お経自体が葬式とは何の関係も無い内容でありますから当然のことであります。

仏教は或いは仏法は、人の死を葬式と言う儀式で送らねばならないとか、その後1回忌、3回忌、7回忌等の法事を執り行なわねばならないとかを規定していません。むしろ、本来はその様なことに全く意味を認めていないのであります。それが何故今日の様な困った事態になってしまったのでしょうか?

それは仏教が中国、日本の慣習と結び付いて来た歴史にあります。法事の初七日はインド古来からあった中陰の七仏事(初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日)を起源とし、そして中国に仏教が伝わって道教と結び付き、百か日、一周忌、三回忌(満2年)の三仏事が加わり十仏事となり、日本に来て、初七日の七から7回忌を作り出し、13、17、23・・・とお坊さん側の(お布施を貰う回数を増やしたいと言う)事情から法事が増えて来たのが真相のようであります。

今日の日本仏教の状況を生み出した最も大きな要因は、仏教がお葬式とお墓に関与したことにあります。そして、お葬式の時に死者をあの世に送る歌のような形でお経を読むことによって、一般の人々にお経本来の役割を伝え損なったからだと思っております。

お経は、私達に人生のあり方、考え方を説いているものであります。お釈迦様が亡くなられて以降の約2500年に亘って、様々な人々が、色々な切り口からお釈迦様の見付けられた『縁起の道理』を解説してくれているのがお経であります。お経が仏法そのものであります。この真実を一般の方々に知らせて行く責任と義務が、幸いにも仏法に出遇う事が出来た者にあると私は思っており、今後も努力をし続けたいと考えております。

『縁起の道理』とは?
仏法で言う『縁起の道理』の〝縁起〟は、世間一般に使われている「縁起が悪い」と言う言葉の〝縁起〟とは全く意味が異なります。『縁起の道理』の〝縁起〟とは、「物事(存在物や現象)は、縁に依って起る」を意味する熟語であります。そして、〝縁〟とは、人間の意志や、環境条件、社会情勢等を含めた〝様々な条件〟を意味します。従いまして、「神様の思し召しで起る」とか「霊魂が持つ運命に従って起る」などと言う考え方とは根本的に異なり、極めて科学的な考え方であります。

様々な条件に依って起ると言う考え方ですが、全ての条件を私達が規定出来る訳ではありませんから、仏教徒の間には「縁に任せる」「随縁(縁にしたがう)」と言う表現が為される事もあり、「宿命論」「運命論」に取り違えられがちでありますが、様々な条件に中に、私達の意志も含んでいるところが極めて大切だと思います。


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No.744  2007.10.15

般若心経に学ぶー①

● まえがき
今日は、般若心経の最初に出て来る『観自在菩薩』に付きまして、色々と勉強してみたいと思います。梵語原文では、「アヴァローキティシュヴァラ」と表現されていると言うことです。これを『法華経』では『観世音菩薩』と漢訳【鳩摩羅什(くまらじゅう)と云う経典の訳僧による漢訳経典】されており、『般若心経』では『観自在菩薩』と漢訳(玄奘三蔵訳)されていると言うことであります。私達は、どちらかと申しますと、観世音(かんぜおん)を観音(かんのん)と短縮した『観音様』として馴染みがあり、『観自在菩薩』と言うお名前には少し威厳めいたニュアンスを感じます。玄奘三蔵は「アヴァローキティシュヴァラ」が『法華経』には『観世音菩薩』と漢訳されている事を知っていたはずであります。従いまして、玄奘三蔵が敢えて『観自在菩薩』と漢訳したのは、この『般若心経』に重みを持たせる為ではなかったかと言う考え方もあるようでございます。

ただ、『観自在菩薩』にせよ『観世音菩薩』せよ、勿論実在の人物ではありません。先ず「観」と云いますのは、人間のモノサシを外して、仏様のモノサシで見る、つまり「とらわれの無い透明な眼で、全ての物事の真実の姿を、ありのままに観る」と言う事であります。そして、「自在」とは、「観る立場が束縛されない自由自在」だと云う事だと思います。従いまして、青山俊董尼のお言葉を引用させて頂きますならば、「観自在」とは「様々なとらわれを去った眼、凡夫のメガネを外した眼で、ものの真実を徹見する働き」を意味すると言うことになります。

そして『菩薩』とは、広辞苑では「悟りを開く以前のお釈迦様とか、お釈迦様の前世」と言う説明や「仏陀になる事を理想として悟りを求めている修行中の人」を意味しますが、小乗仏教と云われる東南アジアの仏教のお坊さん達を菩薩とは言いません。飽くまでもそれは「修行僧」と云うべきもので、『菩薩』とは大乗仏教において悟りを求めるお坊さんは勿論のこと、むしろ、自分だけの悟りを求めるのではなく、縁ある人々と共に救われたいと願う在家の人を指すものだと思います。

従いまして、般若心経の冒頭の『観自在菩薩』は、特定の、例えば修行時代の『お釈迦様』だけを意味するものではなく、自分だけの救いを求めず、全ての人々と共に救われたいと願う私達を含めて、仏道を命を賭けて歩む者を総称した「代名詞」と考えてよいのではないかと思います。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょうじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

●玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。
およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
        歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
        菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
瀬戸内寂聴尼も柳澤桂子氏も、『観自在菩薩』を現代意訳して、「観音さま」或いは「聖なる観音は求道者として」とされています。全くの間違いではないと思いますが、私達とはかけ離れた存在の方のような感じが致します。

これでは、どこか偶像崇拝的な考え方があるように思い、大乗仏教本来の考え方から少し逸脱していると誤解されないとも限りません。

現代意訳の試みの努力は必要でありますが、現代意訳することで、どこか軽々しくなって、却って目的から外れてしまう事もありはしないかと考えさせられている次第であります。日本の国歌の『君が代』を私達が日頃使う現代言葉に意訳したと致しましたら、国歌としての重みも深みも何もかも無くなるような気が致します。読み手にある程度想像力を期待して、現代訳する事も極めて大切な事ではないかと思い直している次第であります。


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No.743  2007.10.11

求めない、すると・・・

今朝のNHK朝のニュース番組で、詩集としては珍しい10万部も売れている、『求めない』と言う詩集が紹介されていました。著者は、加島祥造と云う、信州・伊那谷に住む83歳の方だそうです。

「求めないーーすると、本当に必要なものが見えてくる」、「求めないーーすると、自由になる」 とか「求めないーーすると、今持っているものの豊かさに気付く」と云うように、「求めないーーすると、」で始まる詩を集めた詩集だそうです。そして、多くの読者から「人生の有り方を見直すことが出来た」と言う読後感想のお便りが次々と著者のもとに届いているそうです。

私はこの詩集のことを初めて知りましたが、最初聞いた瞬間、「ああ、これは仏教の教えそのものだ。」と思い、そしてまた、『少欲知足(しょうよくちそく)』と言う仏教古来からの言葉を思い浮かべました。そして、仏法と言う匂いがしない、けれども仏法の教えそのものである上述の詩集が求められていると云うことは、本来的に日本人の心には仏法を受け容れる素地があり、そして一方、現代の多くの日本人は、仏法が『四苦八苦』の一つとして説く『求不得苦(ぐふとっく)』、即ち、求めても得られない苦しみの中にあって、仏法を求めないでは居られない状況にもあると云うことではないかと思いました。

今でこそ、仏教に携わる方々の中には仏法を一般の人々に広めようと色々な努力は為されていますけれども、約700年近く仏教が期せずして育んで来たイメージ「お寺=葬式・お墓・法事=仏教」が一般の人々に刷り込まれて居り、仏法の本来の役割である『私達が歩む人生の杖』にはなかなかなり得ていない状況にあります。それどころか、約2000年も前から受け継がれて来た大切な『お経』は死者をあの世に送り弔う儀式の歌としてしか、一般の方々には認識されていないのであります。

私達、仏法を大切に思う者としては、上述の詩集のように、仏法の教えを現代の日本人が受け容れ易くする工夫をする一方、「お寺=葬式・お墓・法事=仏教」と言うイメージを壊す努力をし続けなければ、お釈迦様のご苦労も祖師方のご苦心も無駄にしてしまう事になります。

私の母は、「お寺=葬式・お墓・法事=仏教」と言うイメージを壊す努力の一つとして『垂水見真会』と言う仏教講演会を約60年前に立ち上げましたが、私も私が出来る努力をすべく、ある試みを準備しております。近々、この無相庵ホームページでご披露し、また皆様のご協力をお願いしたいと考えているところであります。


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No.742  2007.10.8

般若心経に学ぶー全文(漢文、訓読、新訳)

● まえがき
先ずは、玄奘三蔵の漢訳『般若心経』原文と、その訓読み下し全文を掲載致します。 そして、玄奘三蔵が漢訳したと考えられるサンスクリット原典を直接和訳した新訳(昭和20年頃ご存命の日本の学者方による)を合わせて掲載させて頂きました。ただ、新訳の原典の梵文『般若心経』には、玄奘三蔵の漢訳に在りますところの、「度一切苦厄」が存在しないそうですので、新訳にも取り入れていません。

いずれも、友松圓諦師のご著書から引用させて頂いたものでありますが、新訳に付きましては、例えば「般若波羅蜜多」、「空」、「色」を「智慧のきわまり」、「空ろ(うつろ)」、「形あるもの」に訳されていますが、むしろ玄奘三蔵の漢訳をそのまま使用した方が馴染みがあると思われるる言葉に付きましては、私の判断で、そうさせて頂きました。

● 玄奘三蔵の漢訳般若心経原文

観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみたじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう  度一切苦厄どいっさいくやく 舎利子しゃりし
色不異空しきふいくう 空不異色くうふいしき 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき 受想行識じゅそうぎょうしき 亦復如是やくぶにょぜ 舎利子しゃりし
是諸法空相ぜしょほうくうそう 不生不滅ふしょうふめつ 不垢不浄ふくふじょう 不増不滅ふぞうふげん 是故空中無色ぜこくうちゅうむしき 無受想行識むじゅそうぎょうしき
無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい 無色聲香味触法むしきしょうこうみそくほう 無眼界乃至無意識界むげんかいないしむいしきかい 無無明むむみょう 亦無無明盡やくむむみょうじん
乃至無老死ないしむろうし 亦無老死盡やくむろうしじん 無苦集滅道むくじゅうめつどう 無智亦無得むちやくむとく 以無所得故いむしょとくこ 菩提薩埵ぼだいさった 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ
心無罣礙しんむけげ 無罣礙故むけげこ 無有恐怖むうくふ 遠離一切顚倒夢想おんりいっさいてんどうむそう 空竟涅槃くきょうねはん 三世諸佛さんぜしょぶつ 依般若波羅蜜多故えはんにゃはらみたこ 得阿耨多羅三藐三菩提とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 故知般若波羅蜜多こちはんにゃはらみた 是大神呪ぜだいじんじゅ 是大明呪ぜだいみょうじゅ 是無上呪ぜむじょうじゅ 是無等等呪ぜむとうとうじゅ 能除一切苦のうじょいっさいく 眞実不虚しんじつふこ 故説般若波羅蜜多呪こせつはんにゃはらみたじゅ 即説呪曰そくせつじゅわっ 羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい 菩提薩婆訶ぼじそわか 般若心経はんにゃしんぎょう
 
     

● 玄奘三蔵の漢訳の訓読文
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆(みな)空なりと照見して、一切の苦厄を度(ど)したまう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受・想・行・識も亦復(またまた)是(かく)の如し。舎利子よ、是の諸法は空相なり。不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・聲・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、亦(また)無明の盡(つ)くることも無く、乃至、老死も無く、亦(また)老死の盡くることも無し。苦・集・滅・道も無し。智も無く、亦得も無し。無所得を以っての故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙(けいげ)無し。罣礙無きが故に、恐怖有ること無し。一切の顚倒夢想を遠離して、空竟涅槃す。三世の諸佛も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。能(よ)く一切の苦を除く。眞実にして虚(むなし)からず。故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く、羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経。

●国語経典編集委員会の新訳(昭和20年作)より
聖なる観自在菩薩、いと深き般若波羅蜜多を修めたまいしとき、五蘊(物と心の集まり)は全て皆さながらに空なりと照見したまえり。 舎利弗よ、此の世に於いては、色(形あるもの)はみな空にして、空は色をかたどれり。色をおきて他に空ということなく、空の他に色はあるべからず。受も想も行も識もまた斯くの如し。
舎利弗よ、此の世に於いては、諸法(全てのもの)は空の相(すがた)なり。起ることもなく、失(う)せることもなく、汚れることもなく、清まることもなく、減ることもなく、増すこともなし。
舎利弗よ、この故に、空の中には色(形あるもの)なく、受も想も行も識もあるにあらず。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もあることなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明も無ければ無明の尽きるところもなく、乃至、老いも死もなく、老いと死の尽きるところもなし。苦も集も滅も道もなく智慧も所得(成し遂げ)もあることなし。 およそ、所得(成し遂げ)ということなきを以っての故に、菩薩は、般若波羅蜜多を依り処として、心に罣礙(けいげ:こだわり)なし。心に罣礙なき故に、恐怖ある事なく、顚倒(てんどう:迷い)を遠く離れて、涅槃を究め尽せり。三世に住みたまえる一切の諸仏も又、般若波羅蜜多を依り処として無上正等覚を得たまえり。
この故にまさに知るべし。般若波羅蜜多はまことに妙なる真言なり。まこと明らかな真言、無上の真言、類い稀れなる真言なり。それは一切の苦をよく取り除くものにして、偽りなき故に真実なり。然(しか)れば、般若波羅蜜多に於いて真言は次の如く説かれたり。
          歩みて、歩みて、彼岸にぞ至る。
          菩提ついに彼岸に至ることを得たり。

●あとがき
次回から、一般の方々に馴染みの無い、経典言葉を出来るだけ分かり易く解説しつつ、私自身もその表面的な意味のもう一つ奥に感じられるお釈迦様の教えを読み取って参りたいと思っています。


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No.741  2007.10.4

『空(くう)』に関する一考察

月曜コラムで、6年振りに再び『般若心経』の勉強を開始致しますが、『般若心経』と言えば『空(くう)を説き聞かせる教え』であると一般に言われております。そこで、勉強に入る前に、私が捉えている『空』に関する現時点での受け止め方を申し述べまして、初めて勉強される一般の方々が『空』を理解される上での一助ともなればと思います。そして一方で、今回の勉強を通しまして、私自身のイメージする『空』がどのように変わって行ったのかを振り返る場合の出発点を書き止めておきたいと思う次第であります。

『空(くう)』と言う漢字は、「空っぽ(からっぽ)」と訓読み使用されますが、『般若心経』の『空』は、「何も無い空っぽ」を意味するものではないことは確かだと思います。では、『色即是空(しきそくぜくう)』、つまり「形や姿あるものは、本来、空である」と言う『空』は、どう意訳すればよいでしょうか。青山俊董尼は、『空』は「天地一杯のお働き」即ち『縁起(えんぎ)』だと言われており、瀬戸内寂聴尼は、「人の心があると思うから存在するのであって、人の心が無いと思えば存在しないものである」と『空』を説明されています。

私は化学技術者の端くれでありますから、宇宙に存在する物質は、原子或いはもっと微小な電子や陽子、中性子と言うような極微粒子が様々な条件に依って集まり、それを人間の眼が太陽光等の光の働きで捉えた映像であると考えております。人間の体は、主として、炭素、酸素、水素、窒素の4つの原子の集まりでありますが、原子は毎日、常に入れ替わっております。呼吸していると言うことは、酸素を吸って二酸化炭素(炭素と酸素の集まり)を排出していると言うことでありますから、呼吸することに依って私の体を構成していた炭素原子を排出していると言うことになります。そして、食事の時にお米や野菜や肉を食べることで、炭素、酸素、水素、窒素を補給し、また、排泄によって、総入れ替えをしているわけでもあります。従いまして、「この体は私の体だ」と思っていますが、その体は常に変化しており、これが私の体だとは固定的に捉えることは出来ないのであります。

少し例を変えまして「空(そら)に架かる虹」を考えて見ましょう。虹は、偶々雨上がりの直後等に太陽光線が空中に存在する水滴をプリズムとして7色に分けられて、それが私達人間の眼に7色に分かれた弧として映るものであり、それで私達は『虹が在る』と確信するのでありますが、その虹を掴まえようとして虹に幾ら近寄りましても、絶対に『虹』を掴まえられません。無数の条件が整って初めて『虹』として私達の眼が認識出来るだけのことであります。『空(くう)』を科学的に表現すれば、『虹』のようなものだと言って良いかも知れないと私は思っています。

『虹』は、かなり短時間の中に消え去りますので、『空(くう)』をイメージし易いのだと思いますが、人間の体も、私達の時間感覚を変えて見ますと、つまり、ビデオの早送り映像を見るように、地球上の1年を1秒として早送りして映し出して見ますと、私達の命は精々1分少々しか存在しないものであり、『虹』のような瞬間的な命であります。

私達が存在していると考えている形や姿あるもの、また現象も(これらを『色(しき)』と言います)、たまたま様々な条件(仏法では縁と言います)が重なり合って存在し、偶々人間に備わっている5つの感覚と意識がその存在を認識するから、『在る』と思うだけのことだと言うのが、今、私が捉えているところの『空』のイメージであります。さて、これがどのように変わって行くか楽しみにして勉強して参りたいと思います。


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