No.740 2007.10.01
般若心経に学ぶー(続)心経の予備知識
般若心経は西暦2、3世紀にインドで製作された経典でありますが、それを3世紀後半に中国の鳩摩羅什(くもらじゅう、350年-409年)によりまして、『魔訶般若波羅蜜大明呪経』と言う経典に漢訳され、それより更に250年後に、玄奘三蔵(?600年-?664年)によって『般若波羅蜜多心経』と云う経典に漢訳され、それが今日私達一般の日本人が接する『般若心経』であります。
従いまして、『般若心経』にはサンスクリット語の原典『般若心経』が存在するのでありますが、一般の私達はサンスクリット語の原典を読むのはなかなか出来ないことでありますので、玄奘三蔵の漢訳『般若心経』を頼りに大乗仏教の説く仏法の教えの要(かなめ)を学ばなければなりません。
そこで、これから般若心経の『空』を学ぶにあたり、心しておきたいことは、私達がもしサンスクリット経典を読むことが出来るにしましても、そのサンスクリット経典の言葉は、お釈迦様直々のお言葉でもないと言うことであります。 従いまして、昔から「指差す先の月を見ず、指先を見るに終わる」とか、「木を見て、森を見ず」と言う喩えがございますが、経典の一字一句に囚われてしまって、お釈迦様が説かれたかった真意を掴み損なうことが無いように努力したいと思います。
前回2001年の『般若心経の解説』は、角川文庫から出版されている『般若心経講義』(高神覚昇著、昭和27年初版)を主たる参考書とさせて頂きましたが、今回は、大法輪閣出版の『般若心経講話』(友松圓諦著、昭和31年3月)を参考書とさせて頂きます。友松圓諦師は、サンスクリット原典も、鳩摩羅什(くもらじゅう)漢訳も、大般若経とも読み合わせて研究されており、玄奘三蔵の『般若心経』にある「度一切苦厄」と言う漢訳に対応する言葉は原典には無いものであるとか、逆に原典の観自在菩薩の前には聖と言う冠言葉がある等、丹念に読まれております。そう言う研究態度を参考とさせて頂きながら、『般若心経』からお釈迦様の教えを学びたいと思います。
また、柳澤桂子氏や瀬戸内寂聴氏の般若心経現代意訳文も併せて使わせて頂いて一般の方々が少しでも分かり易いものにしたいと考えております。
No.739 2007.9.27
ほんまもの
私は若い頃にはテレビのドラマや報道で親子の情に関わる場面やお話に出くわしましても、あまり涙が込み上げて来るようなことは無かったように思いますが、歳をとった所為でしょうか、最近は、親が子を想う感情が表れていたり、子が親を慕う純粋な気持が見られる場面に遭遇致しますと、涙を禁じえなくなっております。
これは、私には既に孫が5人居り、自分が子供を持つだけの親だった時には感じ得なかった親心が分かるようになったことから来ているのかも知れませんが、もう一つ見方を変えてみますと、親が子を想う心は、それを単なる動物的本能だと切り捨ててしまうことが出来ない、この世でなかなか見出すことが出来ない真実或いは真理、言葉を変えますと『ほんまもの』だからではないかと考えたりしています。
論語に、「朝(あした)に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言う言葉がありますが、この言葉の中にある『道』とは、真理と言うことだと思いますが、平易な言葉としては「ほんまもの」だと言ってもよいのではないかと思います。
聖徳太子のお言葉として「世間虚仮、唯仏是真」があり、また、親鸞聖人のお言葉に「念仏のみぞ真(まこと)にておわします」があります。いずれも仏様だけが真実だと受け取られたお言葉でありますが、勿論、この意味するところは架空の仏様が真実だと言うことではなく、『仏様の働き』、すなわち、『私達衆生が「ほんまもの」に出遇い、「ほんまもの」を大切にして欲しいと言う仏様の願い(浄土門では本願と申します)』だけが真実だと言うことだと思います。
前回まで3回に亘ってご紹介させて頂いた恩師は、私にとって、私がこの世で出遇えた『ほんまもの』であります。そして、その恩師方に出遇う縁をもたらしてくれた私の母の、仏法を大切にし仏法を生き甲斐にした人生も『ほんまもの』だったと今にして述懐しているところでありますが、私は、仏法に関係無い人々には『ほんまもの』との出遇いは無いとは思っておりません。
芸道でも、スポーツでも、或いは普通の日常生活におきましても、『ほんまもの』との出遇いはあると思っております。冒頭に述べさせて頂いた『親子の情』の中にも、『ほんまものの親子の情』があり、それもその一つの『ほんまもの』でありますし、大リーグで活躍中のイチロー選手が到達しつつある『ほんまものの打撃技術』もその一つとして考えられると思っております。私の家の床の間に、両手両足を失い日本のヘレンケラーとも称された中村久子女史が筆を口に咥(くわ)えて書かれた掛け軸が掛かっておりますが、この書もそのお詩(うた)も、見るからに『ほんまもの』そのものであります。
『ほんまもの』に出遇う、この瞬間が人生の本当の慶びの瞬間ではないかと思う次第であります。
No.738 2007.9.24
般若心経に学ぶー心経の予備知識
『色即是空 空即是色』と言う言葉は一般にも有名であり、また『般若心経』は写経のベストセラーでもありますが、その内容、その説くところを詳しく知っている人は意外と少ないのではないかと思います。しかし最近、生物化学者の柳澤桂子さんが著書『生きて死ぬ知恵 心訳―般若心経』の中で分かり易く現代語に訳されていたり、瀬戸内寂聴さんが『絵解き般若心経』で現代訳されており、仏教徒ではない人々に対しても仏教の世界観・人生観を知らしめる働きが見られるようになりました。
お釈迦様が亡くなられて2500年、地球上から戦争は無くならず、むしろ現状は核爆弾中心の軍事力増強を目指す国々が増えて核の脅威が増している状況にあります。そして、戦争やテロによって尊い命が無雑作に奪われ、毎日何十万人もの幼い命が貧困や病で失われています。また、人類が効率的生活を求めるあまりに地球温暖化が進み、様々な弊害が私達の生活を脅かしつつあります。
日本の現状を見ました場合にも、経済さえ回復発展すれば幸せが戻るかのような風潮にあります。確かに都市と地方の間、大企業と中小零細企業の間、正社員と非正規雇用者間には著しい経済格差が生じており、経済苦から自殺する人数も増えている事も事実でありますが、私は表面的には自殺の原因が経済的困窮にあるように見えるものの、真の原因は地域共同体、隣近所、親族も含めた人間関係の破壊にあるのではないかと思っております。この人間関係が破壊された世の中が生き生きと蘇えるには、私は『般若心経の心』、『お釈迦様の心』に還らねばならないと考えています。
般若心経は仏教の殆どの宗派で読まれていますが、浄土真宗と日蓮宗では般若心経を読みません。親鸞聖人が般若心経をどのように扱われていたかを私は存じませんが、法然上人も親鸞聖人も大切にされた『自然法爾(じねんほうに)』(法然と言う法名はこの中の二文字を取られたそうです)というお言葉は、言い換えますと『あるがまま』と言うことであり、それは般若心経の中の『色即是空 空即是色』と言うことではないかと思っております。
さて、般若心経を学び直すにあたりまして、般若心経の成立背景に付きまして、下記に青山俊董尼のご著書から引用させて頂きました。
仏教の経典は「八万四千の法門」とか「一切経」などと呼ばれて膨大なものが伝えられている。その中でも特に長編なのは大般若経六百巻。一朝一夕ではとても読めないというので、アコーディオンを開いたり閉じたりするような形で、折り本を右へ左へと勢いよくバラバラするのを転読といい、大般若祈祷のときの読み方がそれである。直接にはこの大般若部門の、広くは大乗仏教の精髄を、わずか262文字に凝縮したお経が『般若心経』だといえよう。
西暦2000年もすでに越えた。あらためていうまでもないが、西暦というのはイエス・キリスト生誕の年を元年としての数え方である。お釈迦様はキリストより約500年前に生誕された。そのお釈迦様の滅後600年頃、紀元2、3世紀、インドで活躍した方に龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)とお呼びする高僧がおられた。八宗の祖とあおがれ、般若の空(くう)の思想を確立したといわれるお方で、代表的な研究書に『大智度論(だいちどろん)』がある。
「塵も積もれば山になる」という「いろは歌留多」の言葉は、多くの人が知っているであろう。けれど、この言葉の出典が、はるかに歴史をさかのぼること1800年、インドの高僧、龍樹菩薩が、般若の空の思想を表した『大智度論』だということを知る人は、少ないのではなかろうか。専門家でも難解な『大智度論』の、その中の名言の片々が、こういう形で日本人の心を養ってきたのかと、思いを新たにしたことである。
この龍樹菩薩が活躍した西暦2、3世紀に、『般若心経』も成立したと伝えられている。龍樹菩薩より100年ほどあとに出た鳩摩羅什(くもらじゅう)によって訳出された『魔訶般若波羅蜜大明呪経』が、現存する最古の『般若心経』で、それより更に250年後に、玄奘三蔵によって訳された『般若波羅蜜多心経』が、今日読まれている『般若心経』である。
玄奘三蔵は28歳のとき、真実の仏法を求めてただ一人母国である中国を密出国し、17年と言う歳月を費やしての旅を続けた。ある時は、熱砂タクラマカン砂漠を、あるときは吐く息も凍る天山山脈の冬の山越えを、孤独と危険に堪えながら、ただひたすらに西に向っての一歩を進めてゆくとき、玄奘三蔵は常に『般若心経』を唱え続けていたという。このとき玄奘三蔵の唱えていた『般若心経』は、鳩摩羅什(くもらじゅう)訳のものであったろう。
ちなみに、孫悟空などが登場して子供達にも人気がある『西遊記』は、玄奘三蔵が帰国後、勅命によって書いた旅行記『大唐西遊記』を種本にして書かれたものである。
No.737 2007.9.20
恩師のご紹介―西川玄苔老師
さて、私の恩師と言うよりも私の母が親戚の様に親しく且つ敬愛申し上げていた方で、現在も名古屋の曹洞宗宋吉寺の東堂としてご存命でいらっしゃる、西川玄苔老師をご紹介させて頂きます。
西川玄苔老師とのご縁は、昭和54年の確か暮れに放映されたNHK教育番組の『こころの時代』であります。私も私の母も毎日曜日にあるこの番組のファンであり、当時は欠かさず見ておりました。その目的は勿論仏教のお話を聞くことにありましたが、もう一つ、垂水見真会と言う仏教講話を聞く会に新しいご講師をお招きしたいと言う密かな願望を抱いてもいたからでもありました。当時、母は神戸市の垂水区、私は須磨区と別々に住んでいましたが、西川玄苔老師が出演された『こころの時代』が終了した直後、どちらから電話したかは覚えておりませんが、「この先生をお呼びしよう」と瞬間的に意見が一致した事をはっきり覚えております。 このようにして『こころの時代』を通してお呼びしたご講師方は、加藤辨三郎師、青山俊董尼、河村とし子師、竹下哲師他、多数いらっしゃいますが、西川玄苔老師の時も、いつもの如く母が早速NHKに電話をして強引に連絡先を聞き出し、早速交渉し、翌昭和55年4月26日に初めてご出講頂いた経緯がございます。西川玄苔老師にはそれ以来約20年間で合計22回ご出講頂いております。 母が亡くなりましてもお付き合いが続いており、私も宋吉寺にお邪魔したこともございますし、無相庵カレンダーの第2号は、宋吉寺さんと共同編集させて頂きました位に他のご講師よりも親しくお付き合いさせて頂いております。 その様なご縁に至った背景は、『法脈』の繋がりにあるのではないかと思っております。血の繋がりを『血脈』と申しますのに対しまして、仏法上同じ遺伝子を受け継いでいる関係を『法脈』と申すことがございますが、畏れ多いことではありますが西川玄苔老師と私の母及び私とは法脈で深く結ばれているように思います。何故かと申しますと、西川玄苔老師は曹洞宗のお坊さんであり、老師の宗派内のお師匠さんは曹洞宗の高僧であられた沢木興道老師であると存知ますが、最後の最後悟りを開かれるご縁は親鸞聖人の教えにあり、その信心獲得(しんじんぎゃくとく)に深く関わられたのが、私の母と私が敬愛する井上善右衛門先生が恩師とされる白井成允先生でいらっしゃったからであります。 西川玄苔老師の詠まれたお歌を無相庵カレンダーの第16日のお言葉としてご紹介させて頂いておりますが(奈がながの(長々の)、月日をかけて、御佛(みほとけ)は、そのみこころ(御心)をとどけたまえり)、その歌心は、老師が永い仏法生活の末に心の落ち着きどころを得られた感謝にあるのではないかと推察しております。老師は禅門でご修行され、坐禅で無我の境地を体験されるまでになられても、妻子を持つ在家生活を営まれて居られましたので、なかなか宗教と生活が一つにならないと言う問題を抱えておられたようであります。色々と苦悩された挙句に親鸞聖人の教えにも触れられ、仏縁と言うものでしょうか、苦悩の日々に老師が貪るように読まれた『歎異抄領解』と言う本の著者、白井成允先生にお出遇いになられて漸く一つの安心の境地に至られたそうであります。随分後のことになりますが、垂水見真会で同席された井上善右衛門先生にもお会いになられました際、井上善右衛門先生の事を白井成允先生が居られるような感じがすると感動されていたことを思い出します。 私も母も、垂水見真会には浄土真宗だけではなく、禅宗のご講師にも等しくご出講頂きました。それはどちらが優れていると言うものではない、どちらも仏道であり仏法だと考えていたからでありますが、その道をご自身が体現された西川玄苔老師とお出遇いして、更にその意を強くしたことでありました。そういう意味から、私は西川玄苔老師を慕わしく親しい恩師であると思っております。私の母も、きっとそうであったのではないかと思っております。
No.736 2007.9.17
歎異抄から般若心経へ
1年5ヶ月に亘って勉強した歎異抄の次に勉強するのは『般若心経』にしたいと常々考えておりました。『般若心経』は無相庵ホームページを開設した年の2000年12月21日から翌2001年の3月26日までの3ヶ月間「般若心経の解説」として勉強したものでありますが、あれから7年、私の経営していた会社の状況は当時20数名居た従業員を全て解雇して私一人だけとなっており、工場もたたんで、自宅を事務所としている状況であります。従って私生活も一変しており、今日に至るまでには普通の人々が経験する事の無い様々な経験をし、厳しい立場にも立ちましたし、色々なお経も勉強して参りましたので、般若心経の読み方もかなり変化しているものと思われます。
般若心経は、一般の方々が写経されるお経でもあり、また殆どの宗派で読まれているお経であり、最も一般的で有名なお経であると言ってよいでしょう。しかし、親鸞聖人を開祖とされている浄土真宗では、仏前で読むお経としては認めておられないようであります。親鸞聖人ご自身が、般若心経をどのようにお考えになられていたかは定かではございませんが、全ての経・論・釈を読み尽くされて選び取られたのが浄土三部経であり、そして「念仏のみが真実である」とされた親鸞聖人ですから、般若心経を含めて浄土三部経以外の経典を云々される訳がないと言うのが本当のところであり、特別に般若心経を積極的に排斥されたのではないと思います。
私の母は親鸞聖人の教えを信奉していた念仏者でありましたが、親鸞聖人だけと言うよりも、お釈迦様の仏法を有り難がっていましたので、朝の勤行(仏前でお経を読み上げる事)には、正信偈と般若心経、道元禅師の修証義、白隠禅師の坐禅和讃、蓮如上人の御文章など等、宗派に拘るところがありませんでした。私はその母の影響を受けて育ちましたので、私にとりましては、般若心経は歎異抄とともにとても親しみを持っているお経であります。
最近、柳澤桂子さんと言う生命科学者が般若心経を科学的解釈された本(『生きて死ぬ知恵 心訳―般若心経』)を出されて話題になりました。原因不明のご病気と闘いながら般若心経を学ばれ、柳沢さん流に読み解かれたのでありますが、私は、般若心経を親鸞聖人が到達された『自然法爾(じねんほうに)』の世界から読み直してみたいと考えております。
No.735 2007.9.13
恩師の思い出―井上善右衛門先生
故井上善右衛門先生が垂水見真会にご出講されたのは、私が未だ大学3年生の頃の昭和41年9月25日です。その頃の私はテニス部に所属してテニス三昧の日々を送っていましたので、その法話会に出席したかどうか、今では記憶しておりませんが、それ以後井上善右衛門先生は、平成2年12月8日までの62回も垂水見真会にご出講頂いており、垂水見真会と共にその主宰者であった私の母とは最も縁の深いご講師でありました。
前回ご紹介した山田無文老師が垂水見真会にご出講されたのが、昭和28年11月28日〜昭和49年11月27日の19回でありますから、両師が重なってご出講頂いていた約8年間は、山田無文老師からは禅のお話を、井上善右衛門先生からは親鸞聖人のお教えをお聞きすると言う、仏教徒としては得難いご縁を頂いていたことになります。
私は井上善右衛門先生と対座させて頂いて親しくご指導頂いたことはございませんが、無相庵カレンダーの解説文を添削指導頂いたことが、直接ご指導頂いた唯一の機会でありました。もう20年も前のことでありますが、無相庵カレンダーの10日のお言葉の『自然法爾(じねんほうに)』の解説文が当時の私にはどうしても書けず、先生にお願いしてお書き頂き、そしてその非の打ち所の無い解説に感銘を受けたことを覚えております。その解説文は、「人間の計い心で生きるのではなく、大きな真実のまにまに生きるところ自在な人生が恵まれます。それが如来の真実に身を委ねる人の姿です。」と言うものですが、これに付け足すべき言葉も、削る言葉も無い程に完成された洗練さにあらためて感動を覚えます。
井上善右衛門先生は、倫理学がご専門の文学博士でもあり、神戸商科大学(現兵庫県立大学)の学長を務められる一方、親鸞聖人の教えを身を以って世に説かれた、いわゆる学徳ともに秀でておられ方であり、恩師とお呼びするのは畏れ多いことですが、私に取りましては忘れられない恩師の中の恩師であります。
上述に、「親鸞聖人の教えを身を以って世に説かれた」と申しましたが、感動的なお話の一つを以下にご紹介させて頂きます。 井上善右衛門先生はそのご存命中には垂水見真会に年に平均3、4回ご出講して頂いておりました。勿論ご講演料を差し上げていたのですが、毎年の年末にはそのご講演料の大半を垂水見真会に寄付されていたと母から聞いておりました。垂水見真会を主宰し続けていた母へのお励ましのお心でありましょうが、山田無文老師と同じく仏法興隆の為に尽くされるご姿勢を私たちは忘れてはならないと思っております。
No.734 2007.9.10
歎異抄に還って―後述―完
● まえがき
唯円坊が、親鸞聖人の教えを正しく後世に伝えたい思いで『歎異抄』を遺されたのでありますが、畏れ多いことではありますが、私が歎異抄を勉強すると同時に、これから親鸞聖人の教えを学ぼうとする人々のためにも役立ちたいと言う気持ちから、お二人の現代訳を書き写させて頂いた次第であります。 親鸞聖人の他力本願の教えは、この『歎異抄』が存在していることが何よりの証拠でありますように、親鸞聖人がご存命の頃から既に間違った受け取り方をされ易い教えであります。『歎異抄』が書かれてから約720年経った現在では、むしろ、正しく受け取っている師を見付けるのに苦労する状況にあるようにも感じられます。 ●後述原文
昨年の5月1日にスタートしたこの『歎異抄に還って』も漸くゴールの日を迎えました。私自身が未だ信心を得られていない身でありますので、解説は、人生で様々な苦難に遭遇された上で間違いなく信心獲得(しんじんぎゃくとく)されたお二人の先輩の現代訳をお借り致しました。
右条々はみなもて信心のことなるよりおこりさふらふか。故聖人の御ものがたりに、法然上人の御とき、御弟子そのかずおほかりけるなかに、おなじ御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞御同朋の御なかにして御相論のことさふらひけり。そのゆへは、善信(親鸞聖人)が信心も聖人(法然上人)の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、勢観房念仏房なんどまふす御同朋達もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人(法然上人)の御信心に善信房の信心ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人(法然上人)の御智慧才覚ひろくおはしますに一ならんとまふさばこそひがごとならめ、往生の信心においてはまたくことなることなし、ただひとつなり、と御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげれば、法然聖人のおほせには、源空(法然)が信心も如来よりたまわりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればひとつなり、別の信心にておはしまさんひとは源空がまひらんずる浄土へはよもまひらせたまひさふらはじ、とおほせさふらひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらふらんとおぼへさふらふ。いづれもいづれもくりごとにてさふらへども、かきつけさふらふなり。
露命わづかに枯草の身にかかりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふ人々、御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをもまふしきかせまいらせさふらへども、閉眼ののちはさこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめ、となげき存じさふらひて、かくのごとくの義どもおほせられあひさふらふ人々にもいひまよはされなんどせらるることのさふんときは、故聖人の御こころにあひかなひて御もちゐさふらふ御聖教どもをよくよく御らんさふらふべし。おほよそ聖教には真実権仮ともにあひまじはりさふらふなり。権を捨てて実をとり、仮をそしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふまじくさふらふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまひらせさふらふて、目やすにしてこの書にそえまひらせてさふらふなり。
聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねにしづみつねに流転して出離の縁あることなき身としれ、といふ金言にすこしもたがはせおはしまさず。
されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどもしらず、如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり、そのゆへは如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそよきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそあしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごと・たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします、とこそおほせはさふらひしか。
まことに、われもひともそらごとをのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらふなり。そのゆへは、念仏まふすについて信心のおもむきをもたがひに問答しひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ相論をたたんために、またくおほせにてなきことをもおほせとのみまふすことあさましくなげき存じさふらふなり。このむねをよくよくおもひときこころえらるるべきことにさふらふ。これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈のゆくぢもしらず法文の浅深をこころえわけたることもさふらはねばさだめておかしきことにてこそさふらはめども、古親鸞のおほせごとさふらひしおもむき百分が一かたはしばかりをおもひいでまひらせてかきつけさふらふなり。かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直に報土にむまれずして辺地にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんためになくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて歎異抄といふべし。外見あるべからず。 ●白井成允師の現代訳
右に述べた異議の数々は、みなこれを唱える人々の抱いている信心が先師聖人(親鸞聖人)のご信心に異なっているところから起ってきたことかと思われる。それについて思い起こすことであるが、先師聖人の御物語にのようなことがあった。法然上人の御在世の頃、あまたの御弟子たちが居られたのに、同じい御信心の人も少ししか居られなかったので、先師聖人は御同朋たちの中で信心について論じ合われたことがあった。それは、聖人が「善信(親鸞聖人)の信心も聖人(法然上人)の御信心も同一である」と仰せられたとろが、勢観房・念仏房などという御同朋たちがひどく云い争われて、「善信房の信心がどうして聖人(法然)の御信心に同一なはずがあろう」と申されるので、「聖人の御智慧や学問の広くあらせられるのに、善信の智慧・学問が同一だなどと云うのであれば、それはもとより誤りであろうが、浄土に往生させていただく信心においては少しも異なることがない。全く同一である」と返答せられたけれども、それでもなお肯われないで「どうしてそんなことがあろう」と非難せられたので、結局これは法然聖人の御前で双方の是か非かを定めていただくがよいということになって、このことを詳しく申し上げたところが、法然聖人の仰せには「源空の信心も如来から頂いた信心である。善信房の信心も如来から頂かれた信心である、だから全く同一である、もし別の信心であられる人は源空の参る浄土へはよもや参られはしないであろう」と仰せられたとのことである。それであるから、このごろ念仏申しておられる人々の中にも、親鸞聖人の御信心と同一でないこともあるだろうと思われる。そのために、上に聖人の御信心と相異なる諸々の主張などを述べてきた、いずれもいずれも老いの繰り言ではあるけれど、書きつけたのである。
露のようなはかない生命が、わずかに枯草のような老いの身にかかりながらえている間にこそ、同じく浄土への辿りを志しておられる方々から懐いておいでになる御疑いをも聞かせていただき、故聖人のおおせられたことの御思し召しをもお伝え申し上げることが出来るのであるが、私がいったん眼を閉ざした後には、さだめしいろいろの異議がはびこって、先師の御信心の道もさぞかし離れてしまうことであろうかと歎かわしく思われてならないことである。
もし今後かような様々なことを申し合われる人々に言い迷わされたりされることがあるような時には、故聖人の御心にかないて御用いあそばされた御聖教どもをよくよく御覧なさるがよろしい。およそ、聖教の中には真実の部分と権仮(ごんけ)の部分とが共に入り混じっていることである。その権仮の分にとらわれずにこれを捨ておきて、真実の分を用いこれに依るのこそ聖人の御本意であらせられる。だから、念には念を入れて御聖教の真意を見誤ることのないように心掛けていただきたい。それで、今証拠となる大切な御文を少し抜き出して、真実権仮を判つ目安(標準)としてこの書に添えまいらせるのである。
聖人がいつも仰せられたお言葉に、阿弥陀仏が五劫もかかって思い謀(はか)りたもうた誓願をよくよく考えてみると、全くこの親鸞ひとりのためであらせられた、だから量り知られぬ罪業を具えている身であったのに、この私を救おうと思い立ってくだされた本願のかたじけなさよ、と御心中をお述べくだされたが、その御言葉を今またよく考えてみると、これは善導大師が『自分は現に罪悪にまみれ生死に迷いつつある凡夫であって、遠い昔からいつもいつも煩悩の大河に沈み、迷いの海に流れただようているばかりであって、どうしてもここを出て離れ得る縁を見出すことの出来ない身である、と知れよ』と云われた、あの永遠の御語にすしも異なっておられない。
それであるから、先師聖人の御述懐は、かたじけなくも聖人御自身の上にひきかけて、実は私共が自分の罪悪の深いことも知らず、それを救おうと誓いたたせられた如来の御恩の高きことをも知らないで迷っていることを気付かせてくださるためであらせられたのだ。かえりみれば、私共は本当に如来の御恩ということをば口にも出さないで、お互いに善い悪いということばかり話し合っている。ところが聖人の仰せには、私は善悪の二つともすべて知らないのだ、そのわけは、如来の御心に善いとおぼしめすほどに徹底して知ったのならば善きを知ったのであろうし、如来の悪しとおぼしめすほどに徹底して知ったのならば悪しきを知ったのでもあろうが、私自身は煩悩という煩悩を残らず具えている凡夫であり、私の住む世界はいつも変わりづめに変わって、火に焼かれている住宅のようなあさましい境界(きょうがい)であるから、ここに起りきたるすべてのことはのこらず皆うそいつわりであって、一つとして真実のあることがないのに、その中でただ一つ念仏ばかりが真実であらせられる、とこそ仰せられたのである。
まことに私共はお互いにただそらごとばかり言い交わしているのであるが、その中でとりわけ一つ痛ましいことがあるのである。それは、念仏申すについて、自分自分の信心の有様などをお互いに問答しあったり、ひとに言い聞かせたりするときに、相手に口をきかせないで議論を打ち切ってしまうために、全く聖人の仰せにないことを仰せだと一途に言い張ることで、いかにもおさましく、なさけなく思われることである。このことは十分に分かって気を付けて頂きたいことである。
以上述べてきたことは決して私一個人の勝手な言い分ではないけれども、もとより経釈の筋道をも知らないし、法文の深い意味を分かってもいない身であるから、定めておかしいことであろうけれども、しかし故聖人の仰せられた御趣旨の百分の一、ほんの片端ばかりでも思い出して書き付けたのである。幸いに不思議の御縁に恵まれて念仏申していながら、直ちに真実報土に生まれないで、辺地化土に仮の宿をとらなければならないということ、いかにも悲しいことである。同じく先師聖人の御教えを伝えられて、念仏に心を寄せている人々のなかに信心の異なることのないようにと思うので、涙ながらに筆を染めて書き記すのである。名付けて『歎異抄』と言おうと思う。みだりに誰にでも見せるべきではない。 ●高史明師の現代語意訳
右に述べた異説の数かずは、みなもって信心の異なることから、起きたものでもありましょう。故聖人(亡き親鸞聖人)が、お話して下さったことがあります。法然聖人の御ときにも、その数多いお弟子の中には、信心を等しく頂いていない方も居られたことから、親鸞聖人と、そのお仲間との間において、信心をめぐって、相論じ合うということがあったそうであります。ことのおこりは、親鸞聖人が「善信(親鸞聖人が法然の門に入って4年目の呼び名)の信心も、聖人(法然)の信心も、ただ一つなり」と表明されましたことにありました。つまり、その表明に対し、勢観房・念仏房(いずれも法然の高弟)などの方々から、もってのほかだというわけで「聖人の御信心と、善信房の信心がどうして一つであるはずがあろう」と言われるのであります。そで親鸞聖人はお答えになったのであります。「法然聖人の智慧や才能は、広く深いものであります。従って、その点で同じであると言ったのであれば、たしかに間違いであると言えますが、私が言っているのは、そのことではありません。往生の信心、ということを申し上げているのであります。この信心ということでは、全く異なることはないのであって、ただ一つなのであります」と。しかし、なお「どうして、そのようなことがあろうか」という疑問や論難が出されることになり、つまるところ、法然聖人の御まえにて、自他のいずれが正しく、また間違いであるかを、決めることにしましょう、と言うことになって、法然聖人の前に出て、ことの子細を申し上げましたところ、法然聖人は仰せられたのであります。「源空(法然)の信心も、如来よりたまわったところの信心であり、善信房の信心も、如来よりたまわった信心であります。そうであれば、この信心は、ただ一つのものであります。別の信心をもって信心としておられる方は、源空が参ろうとしている浄土へは、よも来られることはありますまい」と。そうでありますれば、その当時の一向専修の人々の中にも、親鸞聖人の御信心と一つでない信心を、信心としていた人があったものと覚えられます。いずれもいずれも、老いのくり言としか言いようがありませんが、ここに書き置くものであります。
露の命、わずかに、枯草の身にかかるばかりにとなりました。(老い先、短い)身なればこそ、相伴い、助け合ってまいりました方々の、疑問に思われることなども承り、親鸞聖人が仰せのお言葉の味わいをも、お聞かせ申し上げてまいりましたが、この眼閉ざされしのちには、さぞかし乱れ、しまりのないことにもなってゆくであろうと思えば、歎かわしく思われてなりません。どうぞ、先にあげた異議や、それを述べ合っておられる人々に、言い惑わされるようなことがありました節には、故聖人の御こころにあい適い、聖人がお取り上げになっておられた御聖教などを、よくよく御覧になられますよう。おおよそ、聖教には、真実そのものと、方便として仮に言われた権と仮が、ともにあい混じり合っているものであります。実に対しての仮である権を捨てて、実をとり、仮をさし置いて、真を用いてこそ、聖人のご本心にあい適うのであります。よくよく注意なされて、聖教の読み違いをなさいませように。大切な証文などを、少々抜き出させていただきましたので、参考までにと思い、この書に添えさせて頂きました。
聖人の常づねのお言葉に、「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに、親鸞一人が、ためなりけり。されば、そくばくの(数多くの)業を、もちける身にて、ありけるを、たすけんと、おぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ」と、深いご心中の頷きを述べられたお言葉があります。このお言葉を、いままた考えてみるのでありますが、これは、善導大師が云われておりますとろの、「自身は、これ現に罪悪生死の凡夫、曠劫より(はるかなる昔から)このかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁、あることなき、身と知れ」という珠玉のお言葉と、少しも異なるところはありません。
そうでありますれば、聖人の常づねのお言葉は、もったいなくも、ご自身の身にことよせて、私たちが、この身の罪悪が、どれほど深いものであるかを省みようともせず、また如来の御恩の高きことも知らずして、迷い続けているのをおさえ、思い知らせんがためのものであったと、気付かされることであります。まことに、如来の御恩ということに、しみじみ思いを寄せてみようともせずして、われもひとも、あれはよし、これはあし、ということのみを言い合っているのであります。
聖人は、仰せになっておられました。「善悪のふたつ、総じてもって、この私の知るところではないのであります。なぜかといえば、覚りを開き、真実の世界へ、かくの如く行ける人≠ナあり、その世界からかくの如く来れる人≠ナある如来の法に照らされ、如来によって、よしと、お認めいただけるほどまでに、知り透したればこそ、善とは何かを、知ったと言えるのであり、また、如来が悪しとお考えになられるほどに、知り透したればこそ、悪しということを知ったと言えるのでありましょうが、(無明の闇に閉ざされている私たちは、そのようにまで知り透すことはできないのであります)私たちは、この全身に、身の煩いと心の悩みを漲(みなぎ)らせている凡夫であります。その私たちによってなり、その私たちの生きる世界は、火炎の燃え盛る家屋にも等しく、すべてが絶え間なく生滅し、転変しつづけている無常の世界であって、万(よろず)のこと、みなもって、空言(そらごと)、戯言(たわごと)であります。真(まこと)がありません。ただ、念仏のみが、真実であります」と。これがお言葉でありました。
本当に、われもひとも、空言のみを言い合っているのでありますが、その中でも、とりわけ一つ、心に痛みを覚えずにはおられないことがあります。その一つとは、念仏を称えるということ、また、信心の味わいということをめぐって、たがいに問答をもし、ひとにも言い聞かせようとするとき、相手の口を塞いでものを言わせず、ただ論争に戦い勝つことだけを目的として、まったく親鸞聖人のお言葉ではないものを、仰せだなどと言い張っていることであります。情けなく、歎かわしく思われることであります。このことは、よくよく思いをとどめて、(たがいに注意するよう心がけて)よいことであります。
以上、これまでに述べてまいりましたことは、決して私の勝手な思いつきの言葉ではありませんが、お経やその注釈書の筋道をも知らず、法を説かれた文の深い味わいを理解し、体得しているというわけでもない私のすると、さぞかし怪しげなところもあろうかと思われましたが、亡き親鸞聖人の仰せられたお言葉の趣旨、その百分の一つ、片端ばかりではありますが、思い出させていただき、ここに書き付けたことであります。
なんと悲しいことでありましょう。幸いにして、念仏させていただける身となりながら、まっすぐ阿弥陀仏の真実の浄土に生まれずしてその片ほとりにある、辺地を、しばらくの宿とせざるを得なくなるとは。念仏を、同じ部屋で一緒に称えさせていただいてきたお仲間の中で、信心が異なることのないようにと、泣く泣く筆を染めて、これを記すものであります。名付けても『歎異抄』と呼ぶことに致します。縁のない人には、これを見せてはなりません。 ● あとがき
最初からお付き合い下さった読者さんも居られるかも知れません。永らくのお付き合い、真に有難うございました。 中には、『歎異抄』自体が親鸞聖人の教えを正しく伝えていないとまで言う人々も居るようでありますが、歎異抄が親鸞聖人の教え全体を伝える役割を担って書かれたものではないと思われます。どうか、白井成允先生、高史明師の現代訳を参考にされまして、そしてまた親鸞聖人ご自身が遺された『教行信証』なども併せ読まれまして、他力本願の教えを夫々の方がどう深めて行くかと言うことが大切だと考えております。
No.733 2007.9.6
恩師の思い出―山田無文老師
山田無文老師は、天竜寺で修行された後、神戸の臨済宗専門道場祥福寺の師家及び花園大学学長を兼務され、そして最終的には妙心寺官長をされた禅僧ですが、その法話の上手さを手本として学んだ落語家が居たと言う程に、聴衆を魅了するものでした。
私は山田無文老師を恩師と思っておりますが、老師の方では勿論そんな意識は全く持って居られたはずはありません。私が山田無文老師と接触させて頂いた期間は、昭和20年代後半から、昭和42年頃までの約15年間です。つまり、私の小学校の高学年から大学卒業までの約15年間です。
山田無文老師のお話の中には、何回も親鸞聖人のお言葉が出て参りました。今勉強中の歎異抄の中の親鸞聖人のお言葉を多く引用されていました。私の母が主宰していた垂水見真会が浄土真宗系の法話会と言う事(親鸞聖人は明治天皇から見真大師と言う称号を与えられていたので)を考慮されたと言うことで親鸞聖人のお言葉を多用されたのかも知れませんが、老師は禅門修行に入る前には浄土真宗の法話をよく聞かれたそうでありますから、禅門一筋の禅僧とはやはり何処か異なっていたように思います。
無相庵カレンダーに掲載している老師の歌、『大いなる、ものに懐かれ、あることを、今朝吹く風の、涼しさに知る』は、老師が禅門の修行途中に肺結核を患われ、寺の離れに隔離されていた時のある朝に詠われたものであります。その朝、障子戸を開けると、朝の冷気を含んだ涼しい風が顔を撫でたのでしょう、そして、寺の庭には、松の緑も見えたのでしょう、医者にも見放された自分ではあるが、自然が私を護ってくれているではないか、と、ふと他力を感じられた時の歌だと思われます。
私が禅宗の悟りも浄土真宗の信心も全く変わらない一つのものだと思っていますのは、山田無文老師にお出遇いさせて頂いたからだと思っております。
もう一つ山田無文老師のことで忘れられないのは、仏法興隆に対する心配りと言いますか、何が大事かと言う事を身を以って示されていたことであります。当時の垂水見真会は、法話を開く場所を彼方此方の会場を借りていましたので、いずれは自前の法話会場を建設したいと言うことで、『1円貯金』と言う会員内での運動を始めていました。専用の木製貯金箱を作って買い物のつり銭の1円を貯めて頂いて、ある程度貯まったときに、会場建設資金としてご寄付頂くと言うものでした。この運動に山田無文老師も自発的に参加されて、講演に来られる度に、数百円程度の1円貯金を持って来て下さって居ました。金額の大小が問題ではありません。その1円にこもっていた心は真に尊いものだったと振り返っています。ご講師の中で参加してくださっていたのは老師だけでした。老師は全国各地にご講演されていたり、花園大学の学長としてもお忙しい中、ちっぽけな法話会のために、1円貯金を続けて下さったことは、身を以って示された教えだったと今も忘れることはありません。 その御遺志を無駄にしてはならないと思っております。
No.732 2007.9.3
歎異抄に還って―後述―C
● まえがき
今日勉強する後述の部分では、『善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり』と『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごと・たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします』が、印象的な言葉でありまして、私の場合、中学生の頃から諳(そら)んじていた部分であります。そして、なかなか真に意味するところが分からない言葉でもありました。実は今も本当のところまでは分かっていません。『善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり』は、私たちが善いと思うことも、悪いと思う事も、煩悩に占領された心から判定しているものであって、自分にとって善いことは善い、自分の都合に合わないことは悪いと言っているのではないかと私は受け取っています。私たちが議論し判定する善悪は、立場立場に依って変わってしまう善であり悪だと言うことではないかと思います。例えば、30万人近い犠牲者を出したアメリカの原子爆弾について、全世界の人全てが悪だとは断じていないわけですし、テロリストを撲滅する戦争を善としている人も居れば、悪だと断じる人も居ます。ましてやテロを神の思し召しによる善だと主張する人々も少なからず居るというのが現実である限り、『善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり』としか言えないのではないでしょうか。
『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごと・たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします』も、『善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり』だから、「従って、善と言えるのはだだ念仏だけだ」と結論付けているのではないかと思います。 しかしそうは思いますが、どうして念仏が唯一の善であり真なのかに付きましては、なかなか心の底から理解し納得するには至りません。これが私の現状でもありますが、多くの一般の方、ましてや、キリスト教など他宗の方々にしてみれば「念仏だけが真(まこと)であり、唯一の善?」と首を傾げられ、反感すら持たれるものと思います。
●後述原文
右条々はみなもて信心のことなるよりおこりさふらふか。故聖人の御ものがたりに、法然上人の御とき、御弟子そのかずおほかりけるなかに、おなじ御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞御同朋の御なかにして御相論のことさふらひけり。そのゆへは、善信(親鸞聖人)が信心も聖人(法然上人)の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、勢観房念仏房なんどまふす御同朋達もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人(法然上人)の御信心に善信房の信心ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人(法然上人)の御智慧才覚ひろくおはしますに一ならんとまふさばこそひがごとならめ、往生の信心においてはまたくことなることなし、ただひとつなり、と御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげれば、法然聖人のおほせには、源空(法然)が信心も如来よりたまわりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればひとつなり、別の信心にておはしまさんひとは源空がまひらんずる浄土へはよもまひらせたまひさふらはじ、とおほせさふらひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらふらんとおぼへさふらふ。いづれもいづれもくりごとにてさふらへども、かきつけさふらふなり。
露命わづかに枯草の身にかかりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふ人々、御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしおもむきをもまふしきかせまいらせさふらへども、閉眼ののちはさこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめ、となげき存じさふらひて、かくのごとくの義どもおほせられあひさふらふ人々にもいひまよはされなんどせらるることのさふんときは、故聖人の御こころにあひかなひて御もちゐさふらふ御聖教どもをよくよく御らんさふらふべし。おほよそ聖教には真実権仮ともにあひまじはりさふらふなり。権を捨てて実をとり、仮をそしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふまじくさふらふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまひらせさふらふて、目やすにしてこの書にそえまひらせてさふらふなり。 聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねにしづみつねに流転して出離の縁あることなき身としれ、といふ金言にすこしもたがはせおはしまさず。
されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどもしらず、如来の御恩といふことをばさたなくして、われもひとも、よしあしといふことをのみまふしあへり。聖人のおほせには、善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり、そのゆへは如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそよきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそあしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもてそらごと・たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします、とこそおほせはさふらひしか。
―続く●白井成允師の現代訳
右に述べた異議の数々は、みなこれを唱える人々の抱いている信心が先師聖人(親鸞聖人)のご信心に異なっているところから起ってきたことかと思われる。それについて思い起こすことであるが、先師聖人の御物語にのようなことがあった。法然上人の御在世の頃、あまたの御弟子たちが居られたのに、同じい御信心の人も少ししか居られなかったので、先師聖人は御同朋たちの中で信心について論じ合われたことがあった。それは、聖人が「善信(親鸞聖人)の信心も聖人(法然上人)の御信心も同一である」と仰せられたとろが、勢観房・念仏房などという御同朋たちがひどく云い争われて、「善信房の信心がどうして聖人(法然)の御信心に同一なはずがあろう」と申されるので、「聖人の御智慧や学問の広くあらせられるのに、善信の智慧・学問が同一だなどと云うのであれば、それはもとより誤りであろうが、浄土に往生させていただく信心においては少しも異なることがない。全く同一である」と返答せられたけれども、それでもなお肯われないで「どうしてそんなことがあろう」と非難せられたので、結局これは法然聖人の御前で双方の是か非かを定めていただくがよいということになって、このことを詳しく申し上げたところが、法然聖人の仰せには「源空の信心も如来から頂いた信心である。善信房の信心も如来から頂かれた信心である、だから全く同一である、もし別の信心であられる人は源空の参る浄土へはよもや参られはしないであろう」と仰せられたとのことである。それであるから、このごろ念仏申しておられる人々の中にも、親鸞聖人の御信心と同一でないこともあるだろうと思われる。そのために、上に聖人の御信心と相異なる諸々の主張などを述べてきた、いずれもいずれも老いの繰り言ではあるけれど、書きつけたのである。
露のようなはかない生命が、わずかに枯草のような老いの身にかかりながらえている間にこそ、同じく浄土への辿りを志しておられる方々から懐いておいでになる御疑いをも聞かせていただき、故聖人のおおせられたことの御思し召しをもお伝え申し上げることが出来るのであるが、私がいったん眼を閉ざした後には、さだめしいろいろの異議がはびこって、先師の御信心の道もさぞかし離れてしまうことであろうかと歎かわしく思われてならないことである。
もし今後かような様々なことを申し合われる人々に言い迷わされたりされることがあるような時には、故聖人の御心にかないて御用いあそばされた御聖教どもをよくよく御覧なさるがよろしい。およそ、聖教の中には真実の部分と権仮(ごんけ)の部分とが共に入り混じっていることである。その権仮の分にとらわれずにこれを捨ておきて、真実の分を用いこれに依るのこそ聖人の御本意であらせられる。だから、念には念を入れて御聖教の真意を見誤ることのないように心掛けていただきたい。それで、今証拠となる大切な御文を少し抜き出して、真実権仮を判つ目安(標準)としてこの書に添えまいらせるのである。
聖人がいつも仰せられたお言葉に、阿弥陀仏が五劫もかかって思い謀(はか)りたもうた誓願をよくよく考えてみると、全くこの親鸞ひとりのためであらせられた、だから量り知られぬ罪業を具えている身であったのに、この私を救おうと思い立ってくだされた本願のかたじけなさよ、と御心中をお述べくだされたが、その御言葉を今またよく考えてみると、これは善導大師が『自分は現に罪悪にまみれ生死に迷いつつある凡夫であって、遠い昔からいつもいつも煩悩の大河に沈み、迷いの海に流れただようているばかりであって、どうしてもここを出て離れ得る縁を見出すことの出来ない身である、と知れよ』と云われた、あの永遠の御語にすしも異なっておられない。
それであるから、先師聖人の御述懐は、かたじけなくも聖人御自身の上にひきかけて、実は私共が自分の罪悪の深いことも知らず、それを救おうと誓いたたせられた如来の御恩の高きことをも知らないで迷っていることを気付かせてくださるためであらせられたのだ。かえりみれば、私共は本当に如来の御恩ということをば口にも出さないで、お互いに善い悪いということばかり話し合っている。ところが聖人の仰せには、私は善悪の二つともすべて知らないのだ、そのわけは、如来の御心に善いとおぼしめすほどに徹底して知ったのならば善きを知ったのであろうし、如来の悪しとおぼしめすほどに徹底して知ったのならば悪しきを知ったのでもあろうが、私自身は煩悩という煩悩を残らず具えている凡夫であり、私の住む世界はいつも変わりづめに変わって、火に焼かれている住宅のようなあさましい境界(きょうがい)であるから、ここに起りきたるすべてのことはのこらず皆うそいつわりであって、一つとして真実のあることがないのに、その中でただ一つ念仏ばかりが真実であらせられる、とこそ仰せられたのである。●高史明師の現代語意訳
右に述べた異説の数かずは、みなもって信心の異なることから、起きたものでもありましょう。故聖人(亡き親鸞聖人)が、お話して下さったことがあります。法然聖人の御ときにも、その数多いお弟子の中には、信心を等しく頂いていない方も居られたことから、親鸞聖人と、そのお仲間との間において、信心をめぐって、相論じ合うということがあったそうであります。ことのおこりは、親鸞聖人が「善信(親鸞聖人が法然の門に入って4年目の呼び名)の信心も、聖人(法然)の信心も、ただ一つなり」と表明されましたことにありました。つまり、その表明に対し、勢観房・念仏房(いずれも法然の高弟)などの方々から、もってのほかだというわけで「聖人の御信心と、善信房の信心がどうして一つであるはずがあろう」と言われるのであります。そで親鸞聖人はお答えになったのであります。「法然聖人の智慧や才能は、広く深いものであります。従って、その点で同じであると言ったのであれば、たしかに間違いであると言えますが、私が言っているのは、そのことではありません。往生の信心、ということを申し上げているのであります。この信心ということでは、全く異なることはないのであって、ただ一つなのであります」と。しかし、なお「どうして、そのようなことがあろうか」という疑問や論難が出されることになり、つまるところ、法然聖人の御まえにて、自他のいずれが正しく、また間違いであるかを、決めることにしましょう、と言うことになって、法然聖人の前に出て、ことの子細を申し上げましたところ、法然聖人は仰せられたのであります。「源空(法然)の信心も、如来よりたまわったところの信心であり、善信房の信心も、如来よりたまわった信心であります。そうであれば、この信心は、ただ一つのものであります。別の信心をもって信心としておられる方は、源空が参ろうとしている浄土へは、よも来られることはありますまい」と。そうでありますれば、その当時の一向専修の人々の中にも、親鸞聖人の御信心と一つでない信心を、信心としていた人があったものと覚えられます。いずれもいずれも、老いのくり言としか言いようがありませんが、ここに書き置くものであります。
露の命、わずかに、枯草の身にかかるばかりにとなりました。(老い先、短い)身なればこそ、相伴い、助け合ってまいりました方々の、疑問に思われることなども承り、親鸞聖人が仰せのお言葉の味わいをも、お聞かせ申し上げてまいりましたが、この眼閉ざされしのちには、さぞかし乱れ、しまりのないことにもなってゆくであろうと思えば、歎かわしく思われてなりません。どうぞ、先にあげた異議や、それを述べ合っておられる人々に、言い惑わされるようなことがありました節には、故聖人の御こころにあい適い、聖人がお取り上げになっておられた御聖教などを、よくよく御覧になられますよう。おおよそ、聖教には、真実そのものと、方便として仮に言われた権と仮が、ともにあい混じり合っているものであります。実に対しての仮である権を捨てて、実をとり、仮をさし置いて、真を用いてこそ、聖人のご本心にあい適うのであります。よくよく注意なされて、聖教の読み違いをなさいませように。大切な証文などを、少々抜き出させていただきましたので、参考までにと思い、この書に添えさせて頂きました。
聖人の常づねのお言葉に、「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとえに、親鸞一人が、ためなりけり。されば、そくばくの(数多くの)業を、もちける身にて、ありけるを、たすけんと、おぼしめしたちける、本願のかたじけなさよ」と、深いご心中の頷きを述べられたお言葉があります。このお言葉を、いままた考えてみるのでありますが、これは、善導大師が云われておりますとろの、「自身は、これ現に罪悪生死の凡夫、曠劫より(はるかなる昔から)このかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁、あることなき、身と知れ」という珠玉のお言葉と、少しも異なるところはありません。
そうでありますれば、聖人の常づねのお言葉は、もったいなくも、ご自身の身にことよせて、私たちが、この身の罪悪が、どれほど深いものであるかを省みようともせず、また如来の御恩の高きことも知らずして、迷い続けているのをおさえ、思い知らせんがためのものであったと、気付かされることであります。まことに、如来の御恩ということに、しみじみ思いを寄せてみようともせずして、われもひとも、あれはよし、これはあし、ということのみを言い合っているのであります。
聖人は、仰せになっておられました。「善悪のふたつ、総じてもって、この私の知るところではないのであります。なぜかといえば、覚りを開き、真実の世界へ、かくの如く行ける人≠ナあり、その世界からかくの如く来れる人≠ナある如来の法に照らされ、如来によって、よしと、お認めいただけるほどまでに、知り透したればこそ、善とは何かを、知ったと言えるのであり、また、如来が悪しとお考えになられるほどに、知り透したればこそ、悪しということを知ったと言えるのでありましょうが、(無明の闇に閉ざされている私たちは、そのようにまで知り透すことはできないのであります)私たちは、この全身に、身の煩いと心の悩みを漲(みなぎ)らせている凡夫であります。その私たちによってなり、その私たちの生きる世界は、火炎の燃え盛る家屋にも等しく、すべてが絶え間なく生滅し、転変しつづけている無常の世界であって、万(よろず)のこと、みなもって、空言(そらごと)、戯言(たわごと)であります。真(まこと)がありません。ただ、念仏のみが、真実であります」と。これがお言葉でありました。● あとがき
「念仏のみぞ真である」と心から思えたとき、親鸞聖人の他力本願の信心を獲たと言うことになると思います。「念仏は人間が考え出したことであるし、『南無阿弥陀仏』は全世界に通じる言葉ではないのに、何故、念仏だけが真(まこと)だと言えるのだろうか、それは客観的に考えておかしい」と言う理屈が頭を過(よ)ぎっている限りは、信心には程遠いのだと思います。私もその程遠いところに居る者でありますが、最近、「『南無阿弥陀仏』も確かに人間の考え出した言葉ではあるけれど、その人間を創り出したのも阿弥陀如来と言う宇宙の働きであり、お釈迦様も、善導大師も法然上人も親鸞聖人も、その阿弥陀如来の御働きによってこの世に現れられた方々なのだ」と考えられるようになりました。
科学が宇宙の真実を追究する手段であると洗脳され続けた私の頭には、なかなか他力本願の教えも、念仏の真も届き難く思っておりますが、年老いて色々な失敗経験を積み、老いの現実に身を置くようになりますと、科学万能ではない世界が少しずつ開けて来ているようにも思っているところです。
No.731 2007.8.30
人間親鸞
親鸞の他力本願の教えは、「念仏一つで救われて浄土往生出来る」と言うものである。そして、その「南無阿弥陀仏」と称える念仏は報恩感謝の念仏であって、何かを願って称えるものではないと言うことである。そして更に、歎異抄第一章に、『阿弥陀仏の人智を超えたお働きによって助けられて、阿弥陀仏のみ国に、往って、生かされんと願い、阿弥陀仏の誓願を信じて、念仏を称えようと思い立ったそのとき、すでに阿弥陀仏に救われて、捨てられることがない』と示されているように、「念仏を称えたら救われるとか、念仏を称えなかったら救われない」と言うわけではない。しかし、そうかと言って、「念仏は称えなくともよい」と言うことでは毛頭ない。
親鸞聖人の信心が、阿弥陀如来から『賜った信心』と云われるように、自分の努力で勝ち獲た信心ではないように、念仏もまた『賜った念仏』であり、「念仏せしめられる」と言う他力の念仏である。そして、同じく歎異抄第一章に「ただ、信心を要とすと知るべし」と示されている通り、信心が要(かなめ)なのである。そして、信心が他力本願に適うものであるなら、「念仏もまた、自然と口に出るものであろう」と言うことである。
このように、親鸞の念仏は何かを目的としたものではなく、感謝・報謝の念仏と言い切ってもよいと思われるのである。そして、浄土門では、煩悩具足の人間が浄土に救われる行として、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五種類の行があるが、その中で、第四番目の称名(念仏)を正定業とし、他の四種の行は正定業を助ける助業としている。そして、親鸞は、「助業を好む者、これすなわち自力を励む人」と言って、称名念仏だけでよいと説いているのである。
しかし、私が今日の表題を『人間親鸞』としたのは、上述のように助業を誡めた親鸞が、実は、42歳と59歳の2回にわたって、浄土門のお経を千回読誦という助業の助けを借りる行動を取ったと聞いたからである。しかも、それは関東の人々が飢えと病で苦しんでいるのを見かねて阿弥陀仏に救いを求めてのものだったからである。勿論、親鸞は直ぐにそれが他力本願の教えから外れていることに気付き、いずれも2、3日で読誦を中止しているのであるが、信者達が次々と飢餓と病気で亡くなっている状況を目の前にして、何も出来ない自分の無力さを、何かで償おうとしたのではないかと思い、親鸞の人間性を語るものではないかと思うからである。
この親鸞の迷いの行動は、親鸞の奥方恵信尼が娘に宛てた手紙に記されていることから明らかになったのであるが、恵信尼もこの夫親鸞の行動を詰(なじ)るのではなく、それが夫の人間味溢れた行動として仏道を歩む娘(覚信尼)に教えておきたかったのではないかと思う。
親鸞はこの外にも、長男善鸞に裏切られて勘当すると言う不幸にも遭遇しているのであるが、通常教祖とか開祖と言われる人は、何の問題も抱えなかった人物として祭り上げられ、神格化されるものであるが、親鸞に限ってはそのようなことがない。そのことが却って魅力的な人間親鸞として後世の人々に敬愛され慕われているのではないかと私は思っている次第である。