No.700  2007.5.14

歎異抄に還って―第十四章―完

● まえがき
この十四章は、念仏によって滅罪しようとするのは自力の念仏であり、それは親鸞聖人の説かれる他力本願に報謝する他力の念仏ではないと断じています。

私自身も念仏を称えることによって、自分の何らかの希望を叶えようとか、罪を償おうと言うような考え方は致しません、と言うよりも、私の理屈的には出来ないことであります。そう言う考え方が出来る方はむしろ純粋なのかも知れないと思っております。

それに私自身今は浄土往生を切実に願う気持ちが湧き上がって参りませんし、これからもその様な心境になることがあるのだろうかと自身の心を分析しております。浄土に往生する事を願う気持ちがありませんと、それは最早浄土真宗を信奉する者では無いとも言われますが、それでも私は親鸞聖人の生涯のあり方や、至られたご心境を、他の祖師方のもの以上に近しく親しく感じておりますので、これからもその道を辿って参りたいと思っております。

●第十四章原文
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろの念仏をまふさずして、命終のときはじめて、善知識のをしへにて、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念まふせば十八十億劫の重罪を滅して、往生すといへり。これは、十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるが、滅罪の利益なり、いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。
この悲願ましまさずばかかるあさましき罪人(つみびと)いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏はみなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。念仏まふさんごとにつみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふことみな生死のきづなにあらざることなければ、いのちのつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて正念に住せずしてをはらんに、念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをばいかがして滅すべきや。つみきえざれば往生はかなふべからざるか。
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のまふされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらふなり。

● 白井成允師の現代訳
念仏するのに一声の念仏によって八十億劫の重い罪を滅ぼすのだ、と信じてせねばならぬという者がある。これは、十悪を犯し五逆を造ってばかりいて、平生念仏を称えたこともない罪人が、命の終ろうとする際に、始めて師匠の教えによって一声念仏すれば八十億劫の生死の罪を滅ぼし、十声念仏すれば八百億劫の重い罪を滅ぼして往生する、と言われている。こう言われたのは、十悪と五逆との罪の軽さと重きとを知らせようとして、軽い罪は一声により、重い罪は十声によりて滅ぼすと言われたのであろうと思われるが、その本は念仏が罪を滅ぼすという功徳を具えておられることを言われたのである。しかしそれによりて直ちに念仏するたびにこれによって重い罪を滅ぼすのだと信じてせねばならないと云うのは、未だわれらの信じているところまで来ていない領解の仕方である。なぜかといえば、阿弥陀仏の大慈大悲の光明のお照らしを蒙るところから、その御本願のままにという一念が起ってくる。その一念の起ると共に、仏の方から金剛石の如く堅くして壊れることなき信心をたまわるのであるから、既に必ず浄土に生まれて仏の覚りをひらくにまちがいのない人々の位におさめて下さり、遥かなる古からの生死の命が終わるのであるから、朝夕におこりきたる諸々の煩悩悪業をそのたびごとに転じて、そのまま無生忍という生死をこゆる道を覚らせてくださるのである。
もしもこの大慈大悲の本願があらせられなかったならば、私共のようなこんなにあさましい罪人がどうして生死の迷いから離れることが出来ようか、と思うて念仏申す。かようにして一生のあいだ称える念仏は、一声一声ことごとく、それによって私共がみずから往生するための功徳を積むというのではなく、ただひとえに、あちらから私共を往生させてくださる如来の大悲の恩に報い、徳に謝することであると思うべきである。念仏もうすたびごとに罪を滅ぼすのだと信ずるのは、そう信ずること自体が既に自分の力で罪を消して往生しようと励むことなのである。もしそうであるならば、われら一生の間にいやしくも心に思うあらゆることが、ことごとくわれらを縛って迷いの境に生まれたり死んだりさせる絆でないものはないのであるから、この世の命尽くる時まで一息も怠ることなく念仏もうして、はじめて往生することが出来るのであろう。しかるにわれらの生涯は、遥かなる昔から世々生々に造り来たった業の報いが必ず現われ来ることに定まっているのであるから、どんな思いの外の事にも遇ったり、また病の悩み苦しみに責めつけられたりして、ために心を落ち着けて仏を念ずることができないまま命が尽きてしまうこともあろうが、そんな場合には念仏もうすことのできようはずがない。その間に造る罪をばどうして滅ぼそうとするのであろうか。罪が消えない限りは往生はできないというのであろうか。
もしわれらが信じているように、如来の大慈大悲の御心からわれらを摂め取りて捨てたまわぬ本願をたよりまいらすならば、どんな思い設けぬことがあって罪業をおかし、念仏もうすことなくして命が終わってしまうとも、その終わった時直ちに如来の本願どおりに浄土に往生させていただくのである。また命の終わろうとするにあたって念仏が称えられるにしても、それは決して死に際に罪を滅ぼそうと励んで称えるのではなくて、もうすぐに仏の覚りを開くようになる時が近付くのにつれて、いよいよ深く仏の誓いがたよられ、仏の御恩がしみじみ頂かれて、ありがたやありがたやとお礼申し上げることに他ならぬのである。

● 高史明師の現代語意訳
念仏の一念はその一声でもって、八十億劫という長きにわたって担わざるを得ない重罪をも、消して下さるということ。それを信じるべきであるということ。この説は、十悪五逆の罪人が、日ごろ念仏を称えずして過ごし、臨終に至ってはじめて、善知識との出会いに恵まれ、その善知識が教えられ、言われる教えにかかわっています。つまり、一声念仏を称えれば八十億劫の罪を消していただけ、十声称えれば、十八十億劫の重罪をも消してくださり、(それ故に)往生かなうものであるという教えであります。(とはいえ)これは十悪五逆の罪の軽重を知らせんがために言われているところの一念、十念であって、いわゆる滅罪の利益というものであります。(滅罪を願うこころ、それがわからぬではありませんが、しかし、それは)いまだ私たちが、いただいている信心の世界に遠くおよぶものではありません。なぜ、そのように言えるかと申しますと、阿弥陀仏の光明にお照らしいただけているが故に、念仏せしめられている私たちにおいて発起する念仏は、念仏の一念であり、この一念はすなわち、金剛の信心でありますれば、すでにして、必ず仏にして下さることが、約束された正定聚のくらいに摂め取られているのであって、命が終われば、さまざまな煩悩や悪い障りを転じて、無生法忍という阿弥陀仏の覚りの智慧が、お授けいただけるのであります。
阿弥陀仏の悲願がましまさずば、私たちのような浅ましい罪人が、どうして生死の迷界から解かれ、脱け出すことができましょう。それを思えば、一生の間、称えるところの念仏は、阿弥陀如来の大きな慈悲の恩に報い、その徳に感謝するためのものであると思ってよいのであります。念仏を称えるたびに、罪を消し去らんと願い、(それでもって、念仏するのであれば)それすでにして、自分で自分の罪を消して、往生しようという自分中心の励みとなりましょう。もしそうであるならば、一生の間、人間の思い考えることのすべては、すべて生死流転の絆につながれていて、そうでないものはないのでありますから、命の尽きるその時まで、念仏を称え続け、怠ることなくして、往生なさるがよいのであります。ただし、業報とは限りないものであって、いつ、いかなる出来事に見舞われるか分かりません。そうであれば、心身の病悩苦痛に責められて、念仏の一念に安住出来ずして、死ぬことがないとは言えないのであります。そのときは、念仏を称え続けることが難しくなります。そうなったら、その間の罪は、どのようにして消せましょう。罪が消えなければ、往生はかなえられないと言うのでありましょうか。
(生きとし生けるもののすべてを、)救い摂(おさ)められ、捨てられることはないと誓われた阿弥陀仏の願の根本に帰入し、たのみたてまつれば、どのような思いがけないことに見舞われ、罪を犯し、念仏を称えることなくして、いのち終わることがあったとしても、すみやかに往生をとげさせていただけるはずであります。念仏が称えられてくるのも、また、いままさに浄土の覚りが開かれんとする期の近付くに従っても、いよいよ阿弥陀仏をたのみとし、報恩感謝の念仏を称えてこそ念仏者であると申せましょう。罪を滅せんと思うのは、自力のこころであって、死期にのぞみ、(来迎を祈り、)正念にあずかろうとしている人の本心でありますれば、他力の信心のない人だというほかないのであります。

● あとがき
恐らく親鸞聖人は、「こうあらねばならない」と言う硬直した考え方を一切排除された方ではないかと私は感じております。極端に申しますと、今もし親鸞聖人が生きて、この歎異抄で唯円坊が語っておられる「報謝の念仏」に関するご見解をお尋ねしたと致しましても、それ以外の念仏は一切認めないと言う様な頑なな立場を語られないのではないか・・・、そんな風に思えてなりません。

その様な念仏に対する個々人の姿勢に関することも含めまして、晩年は『自然法爾(じねんほうに)』と言うご心境を尊ばれたのではないかと勝手な推測をしております。そしてそう云うところに他の祖師方には無い自由と広さを感じている次第であります。


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No.699  2007.5.10

至道無難 唯嫌揀択

『至道無難(しどうぶなんなり) 唯嫌揀択(ただ、けんじゃくをきらう)』は、西暦800年代の中国の禅僧趙州和尚(じょうしゅうおしょう)が遺した禅語で『信心銘』と言う禅語集の中に修められている言葉でありますが、「悟りの世界に至るのはそんなに難しいことではない。ただ、選り好みをしないことだ」と言う意味でしょうか。『揀択(けんじゃく)』は聞きなれない熟語でありますが『揀』も『択』も「選び取る」と言う意味の漢字であります。

『至道無難 唯嫌揀択』とは、一般的にも知られている別の禅語『日々是好日(にちにちこれこうじつ)』と意味するところは同じものと言って差し支えはないと思います。

この禅語と対照的だと思いますのは、親鸞聖人が正信偈で語られている『信楽受持甚以難 難中之難无過斯(信楽を受持すること甚だ以って難し、難中の難、斯れに過ぎはたる無し)』であります。つまり、親鸞聖人は「私のような邪見驕慢の凡夫が真実信心を頂くと言うのは、難中の難であり、これ以上難しいことは無い」とおっしゃっているのであります。

おかしいですね。難行道と云われる聖道門の禅僧が悟りの世界に至るのは簡単だ≠ニ言われているのに対して、易行道と云われている浄土門の祖師は悟りの世界に至るのは甚だ難しい≠ニ云われているわけであります。どう考えればよいでしょうか。

これは自分自身が悟りの世界≠経験しないと分からないとは思いますが、悟りを開く瞬間までの難しさと、悟りを開いた後に感じる易しさを、悟りを開いたお二人の方が別別に語られた言葉と受け取れるのではないかと思います。浄土真宗では悟りを開く≠ニは言わず信心(しんじん)を獲(え)る∴スいは安心(あんじん)を獲る≠ニ申しますが、仏道を求める心には、凡夫と言う自覚と、救われて仏の心になりたいと言う希望があります。これ即ち煩悩を厭い、悟りを好しとする=w揀択する心』であります。

親鸞聖人は、晩年『自然法爾(じねんほうに)』と言うお言葉をよく使われたようでありますが、これは即ち、『あるがままをそのまま受け取る』と言う『揀択しない心』ではないかと思います。難しいことではありますが、難局に遭遇して立ち往生する時や、病に心悩ます時の助け舟として、心に留め置きたいものであります。


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No.698  2007.5.7

歎異抄に還って―第十四章―A

● まえがき
『念仏』と言う熟語から現代人が連想するのは、『お葬式』『法事』『お墓参り』など『死』にまつわる事柄だと思います。もともとは『仏恩報謝の念仏』のはずが、いつの間にか『浄土往生を願う念仏』になり、そして長い年月を経て『死者を弔う念仏』へと一般化してしまったのではないかと思われますが、歎異抄が書かれた1280年頃は、未だ『浄土往生を願い、滅罪を願う念仏』に留まっていたようであります。

そして、そう云う『自力の念仏』の間違いを正そうとする唯円坊のような立場の人々が居たと言うことであります。そう云うところから考えますと現代の浄土真宗の姿は『念仏』と『お葬式』をセットにして教団の財政維持を図ることを第一目的化しているようにしか見えず、もし唯円坊が生きておられたら、その『異なるを歎く言葉』は、この歎異抄はもっともっと激しいものになるに違いありません。

●第十四章原文
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろの念仏をまふさずして、命終のときはじめて、善知識のをしへにて、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念まふせば十八十億劫の重罪を滅して、往生すといへり。これは、十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるが、滅罪の利益なり、いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。
この悲願ましまさずばかかるあさましき罪人(つみびと)いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏はみなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。念仏まふさんごとにつみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふことみな生死のきづなにあらざることなければ、いのちのつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて正念に住せずしてをはらんに、念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをばいかがして滅すべきや。つみきえざれば往生はかなふべからざるか。

● 白井成允師の現代訳
念仏するのに一声の念仏によって八十億劫の重い罪を滅ぼすのだ、と信じてせねばならぬという者がある。これは、十悪を犯し五逆を造ってばかりいて、平生念仏を称えたこともない罪人が、命の終ろうとする際に、始めて師匠の教えによって一声念仏すれば八十億劫の生死の罪を滅ぼし、十声念仏すれば八百億劫の重い罪を滅ぼして往生する、と言われている。こう言われたのは、十悪と五逆との罪の軽さと重きとを知らせようとして、軽い罪は一声により、重い罪は十声によりて滅ぼすと言われたのであろうと思われるが、その本は念仏が罪を滅ぼすという功徳を具えておられることを言われたのである。しかしそれによりて直ちに念仏するたびにこれによって重い罪を滅ぼすのだと信じてせねばならないと云うのは、未だわれらの信じているところまで来ていない領解の仕方である。なぜかといえば、阿弥陀仏の大慈大悲の光明のお照らしを蒙るところから、その御本願のままにという一念が起ってくる。その一念の起ると共に、仏の方から金剛石の如く堅くして壊れることなき信心をたまわるのであるから、既に必ず浄土に生まれて仏の覚りをひらくにまちがいのない人々の位におさめて下さり、遥かなる古からの生死の命が終わるのであるから、朝夕におこりきたる諸々の煩悩悪業をそのたびごとに転じて、そのまま無生忍という生死をこゆる道を覚らせてくださるのである。
もしもこの大慈大悲の本願があらせられなかったならば、私共のようなこんなにあさましい罪人がどうして生死の迷いから離れることが出来ようか、と思うて念仏申す。かようにして一生のあいだ称える念仏は、一声一声ことごとく、それによって私共がみずから往生するための功徳を積むというのではなく、ただひとえに、あちらから私共を往生させてくださる如来の大悲の恩に報い、徳に謝することであると思うべきである。念仏もうすたびごとに罪を滅ぼすのだと信ずるのは、そう信ずること自体が既に自分の力で罪を消して往生しようと励むことなのである。もしそうであるならば、われら一生の間にいやしくも心に思うあらゆることが、ことごとくわれらを縛って迷いの境に生まれたり死んだりさせる絆でないものはないのであるから、この世の命尽くる時まで一息も怠ることなく念仏もうして、はじめて往生することが出来るのであろう。しかるにわれらの生涯は、遥かなる昔から世々生々に造り来たった業の報いが必ず現われ来ることに定まっているのであるから、どんな思いの外の事にも遇ったり、また病の悩み苦しみに責めつけられたりして、ために心を落ち着けて仏を念ずることができないまま命が尽きてしまうこともあろうが、そんな場合には念仏もうすことのできようはずがない。その間に造る罪をばどうして滅ぼそうとするのであろうか。罪が消えない限りは往生はできないというのであろうか。

● 高史明師の現代語意訳
念仏の一念はその一声でもって、八十億劫という長きにわたって担わざるを得ない重罪をも、消して下さるということ。それを信じるべきであるということ。この説は、十悪五逆の罪人が、日ごろ念仏を称えずして過ごし、臨終に至ってはじめて、善知識との出会いに恵まれ、その善知識が教えられ、言われる教えにかかわっています。つまり、一声念仏を称えれば八十億劫の罪を消していただけ、十声称えれば、十八十億劫の重罪をも消してくださり、(それ故に)往生かなうものであるという教えであります。(とはいえ)これは十悪五逆の罪の軽重を知らせんがために言われているところの一念、十念であって、いわゆる滅罪の利益というものであります。(滅罪を願うこころ、それがわからぬではありませんが、しかし、それは)いまだ私たちが、いただいている信心の世界に遠くおよぶものではありません。なぜ、そのように言えるかと申しますと、阿弥陀仏の光明にお照らしいただけているが故に、念仏せしめられている私たちにおいて発起する念仏は、念仏の一念であり、この一念はすなわち、金剛の信心でありますれば、すでにして、必ず仏にして下さることが、約束された正定聚のくらいに摂め取られているのであって、命が終われば、さまざまな煩悩や悪い障りを転じて、無生法忍という阿弥陀仏の覚りの智慧が、お授けいただけるのであります。
阿弥陀仏の悲願がましまさずば、私たちのような浅ましい罪人が、どうして生死の迷界から解かれ、脱け出すことができましょう。それを思えば、一生の間、称えるところの念仏は、阿弥陀如来の大きな慈悲の恩に報い、その徳に感謝するためのものであると思ってよいのであります。念仏を称えるたびに、罪を消し去らんと願い、(それでもって、念仏するのであれば)それすでにして、自分で自分の罪を消して、往生しようという自分中心の励みとなりましょう。もしそうであるならば、一生の間、人間の思い考えることのすべては、すべて生死流転の絆につながれていて、そうでないものはないのでありますから、命の尽きるその時まで、念仏を称え続け、怠ることなくして、往生なさるがよいのであります。ただし、業報とは限りないものであって、いつ、いかなる出来事に見舞われるか分かりません。そうであれば、心身の病悩苦痛に責められて、念仏の一念に安住出来ずして、死ぬことがないとは言えないのであります。そのときは、念仏を称え続けることが難しくなります。そうなったら、その間の罪は、どのようにして消せましょう。罪が消えなければ、往生はかなえられないと言うのでありましょうか。

● あとがき
歎異抄は『他力の念仏』と異なることを歎き正しているのでありますが、特にこの第十四章は『仏恩報謝の念仏』を説いているのだと思います。

私たち親鸞聖人のお教えを信奉する者は、歎異抄を遺された唯円坊の歎きのお気持ちをしっかり受け止めまして、『法然上人や親鸞聖人の念仏』は『死者を弔う念仏』ではなくして、『仏恩報謝の念仏』であることを世の中に伝え、そして後世に伝える義務を負っていることを自覚しなければならないと思います。


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No.697  2007.5.3

幽霊の正体

連休の楽しい時に幽霊の話題は如何と思いましたが、連休を思い切り楽しむ為にもこの幽霊の話は有用かと思いテーマと致しました。

私は毎朝夕、約5キロメートルずつウォーキングします。その時に幽霊に遭遇します。それも殆ど毎日です。 と申しますと怪談みたいですが、怪談ではなく、正真正銘の幽霊なのです。さて、その正体は?

この無相庵ホームページの法話コーナーでも紹介したことがあると思いますが、幽霊の正体は、私自身だと言う事であります。幽霊は髪を束ねて後ろに引っ張られています。そして、両手は反対に前に差し出されて何かを求めています。そして肝心の両足が無く地面に着いていません。これが私たちの本当の姿だと言う訳です。

つまり、私は先々の事を心配したり、或いは上手く事が運ぶように準備に熱心です。しかしその一方、過ぎ去った事にもあれこれと反省したり後悔したりと目まぐるしく頭を回転させます。それなのに、現に向き合っている今この瞬間の自分も自分の周りをも見えていません。前と後ろに気が取られて、肝心の足が地に着いていない幽霊状態が私の現実だと言うことであります。

確かに、私はウォーキングしている間中、歩道の街路樹の日々の変化に目もくれず、あれやこれやと心に浮かんで来ることに気が行っています。ウォーキングの途中、「あっ、また幽霊が出て来たっ」と思うのは毎日のことであります。

本当は、今この瞬間しか真実・事実はありません。明日はあるか無いか分らないのに、当然明日があると思って今日を大切に生きることを忘れがちになります。明日の準備も大切ではありますが、今日も、それと同じように大切に取り扱いたいものであります。


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No.696  2007.4.30

歎異抄に還って―第十四章―@

● まえがき
世の中は、ゴールデンウィークの真っ只中です。我が家のゴールデンウィークは岡山に住む娘一家が一晩泊まりで帰って来まして、昨夜遅く帰って行き早々と終わりました。考えて見ますと、私の会社が開店休業状態になり、妻が食品関係の企業に働きに出だした5年前から我が家はゴールデンウィークは他人事となった感があります。恐らくサービス産業とそれに関わる企業で働く多くの人々とその家族も同じことであろうと、ゴールデンウィークが描き出す世の中の現実を複雑な思いで見てきた5年間を思いつつ、歎異抄の勉強を始めているところです。

さて、この第十四章も、十三章に引き続きまして、自力作善の念仏者の間違いを正している章であります。念仏を称えれば滅罪できると考え、称名念仏を勧める人々が居たからでありましようが、それらの人々も根拠が全く無い訳ではないようであります。浄土門が所依の経典の一つとする『観無量寿経』に、十悪(殺生、盗み、邪婬、妄語、綺語、悪口、両舌、貪欲、瞋恚、邪見)・五逆(殺父、殺母、殺阿羅漢、殺和合僧、出仏身血)を罪を犯した者が臨終に南無阿弥陀仏と称えれば八十億劫も続く重罪から免れ得たと説かれているからであります。

しかし、歎異抄著者は『観無量寿経』の説くところは、一声の念仏で漸く一つの罪が滅し、十声の念仏で漸く十悪・五逆の全ての罪が滅するのであるとして、罪の軽重を示したものでありますし、また念仏にはその様な不可思議な力があると云うことを伝える為に説かれたものであり、その様な滅罪を願ってする自力の念仏を否定していると言うことであります。

現代におきましても念仏を称えることが何よりも大切だとする形にのみ拘る念仏者にしばしば遭遇することがございます。親鸞聖人の教えを聞き違えているものであり、それらの考え方に依って、親鸞聖人の教えが一般の人々に誤解されているのではないかと懸念しているところであります。

●第十四章原文
一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろの念仏をまふさずして、命終のときはじめて、善知識のをしへにて、一念まふせば八十億劫のつみを滅し、十念まふせば十八十億劫の重罪を滅して、往生すといへり。これは、十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるが、滅罪の利益なり、いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆへは、弥陀の光明にてらされまいらするゆへに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。

● 白井成允師の現代訳
念仏するのに一声の念仏によって八十億劫の重い罪を滅ぼすのだ、と信じてせねばならぬという者がある。これは、十悪を犯し五逆を造ってばかりいて、平生念仏を称えたこともない罪人が、命の終ろうとする際に、始めて師匠の教えによって一声念仏すれば八十億劫の生死の罪を滅ぼし、十声念仏すれば八百億劫の重い罪を滅ぼして往生する、と言われている。こう言われたのは、十悪と五逆との罪の軽さと重きとを知らせようとして、軽い罪は一声により、重い罪は十声によりて滅ぼすと言われたのであろうと思われるが、その本は念仏が罪を滅ぼすという功徳を具えておられることを言われたのである。しかしそれによりて直ちに念仏するたびにこれによって重い罪を滅ぼすのだと信じてせねばならないと云うのは、未だわれらの信じているところまで来ていない領解の仕方である。なぜかといえば、阿弥陀仏の大慈大悲の光明のお照らしを蒙るところから、その御本願のままにという一念が起ってくる。その一念の起ると共に、仏の方から金剛石の如く堅くして壊れることなき信心をたまわるのであるから、既に必ず浄土に生まれて仏の覚りをひらくにまちがいのない人々の位におさめて下さり、遥かなる古からの生死の命が終わるのであるから、朝夕におこりきたる諸々の煩悩悪業をそのたびごとに転じて、そのまま無生忍という生死をこゆる道を覚らせてくださるのである。

● 高史明師の現代語意訳
念仏の一念はその一声でもって、八十億劫という長きにわたって担わざるを得ない重罪をも、消して下さるということ。それを信じるべきであるということ。この説は、十悪五逆の罪人が、日ごろ念仏を称えずして過ごし、臨終に至ってはじめて、善知識との出会いに恵まれ、その善知識が教えられ、言われる教えにかかわっています。つまり、一声念仏を称えれば八十億劫の罪を消していただけ、十声称えれば、十八十億劫の重罪をも消してくださり、(それ故に)往生かなうものであるという教えであります。(とはいえ)これは十悪五逆の罪の軽重を知らせんがために言われているところの一念、十念であって、いわゆる滅罪の利益というものであります。(滅罪を願うこころ、それがわからぬではありませんが、しかし、それは)いまだ私たちが、いただいている信心の世界に遠くおよぶものではありません。なぜ、そのように言えるかと申しますと、阿弥陀仏の光明にお照らしいただけているが故に、念仏せしめられている私たちにおいて発起する念仏は、念仏の一念であり、この一念はすなわち、金剛の信心でありますれば、すでにして、必ず仏にして下さることが、約束された正定聚のくらいに摂め取られているのであって、命が終われば、さまざまな煩悩や悪い障りを転じて、無生法忍という阿弥陀仏の覚りの智慧が、お授けいただけるのであります。

● あとがき
自力作善の念仏が否定されていますが、私はそう言う意味から、歎異抄第一章にありますところの「念仏申さんと思い立つ心」が非常に大切だと思います。「思い立つ」と申しますのは、何かを目的とした自力ではなく、何とはなしに、ふと大きな力に促されてということであるからだと思われます。

残念ながら、私は未だ「これぞ念仏申さんと思い立つ心だ」と思えた瞬間に出遇えていません。それは多分、まえがきで紹介させていただいた『観無量寿経』に説かれている「下品下生(げぼんげしょう)」の自覚が無いからでありましょう。「下品下生」とは十悪・五逆の罪を犯した罪人で、最劣悪の者を言うのでありますが、親鸞聖人は法然上人の下で「この下品下生の私を救う為に立てられたのが阿弥陀仏の本願であった」と云う自覚に至られて、固い信心を得られたとお聞きしています。「少しでも自分に何処か見どころがある」と思っている間は、「念仏申さんと思い立つ心」は湧き上がっては来ないのではないかと考察しているところであります。


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No.695  2007.4.26

生死(しょうじ)を超える

私達が仏法を求める動機は、自分の力ではどうにも解消出来ない苦悩と遭遇するところにあると思います。仏教は、苦しみを『四苦八苦(しくはっく)』と言う風に分析します。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を加えての合計八苦です(「愛別離苦は、愛する人と別れる苦しみ」、「怨憎会苦は、怨み憎む人と出会う苦しみ」、「求不得苦は、求めるものが得られない苦しみ」、「五陰盛苦は、存在を構成する物質的・精神的五つの要素に執着する苦しみ」)。

生苦は、この世に生まれ生きて行く事自体が苦しみだと言う事だと思いますが、その生苦の中味が、愛別離苦を始めとする四つの苦しみではないかと考察しておりますが、私が遭遇している真最中である借金苦は、つまるところ求不得苦と五陰盛苦の複合した苦と言うことになりましょうか。会社経営者の苦は大体はこの苦でありますが、一般のサラリーマンなら、嫌な上司の下で働く苦や、気が合わない同僚と席を並べて働く「怨憎会苦」であったり、思うように出世が出来ない「求不得苦」が主たる苦ではないかと思います。

これらの苦も、死ぬよりも辛いと感じることがありますが、実際は、『死より辛く悩ましい苦は無い』と思います。その証拠に、借金苦で苦しみもがいていましても、自分若しくは家族が、例えば癌の疑いがあると聞いただけで、悩みの一番手の座は借金苦から死苦に譲られることになるのではないかと思います。

私達にとりまして、最大で究極の苦は、『死苦』であると申しても過言ではないでしょう。私が仏法を求める目的は、「絶対安心の世界に身心を置いて暮らせるようになる事」だと考えています。
従いまして、生死を超えねばならないと思っております。暁烏敏師の言葉を借りますならば、「生と死の間にあるカーテンを取っ払う」事が出来なければ、仏法を求める意味が無いと言うことになります。こう書きますと、如何にも自力的でありますが、私は、無相庵カレンダーの15日目にございます白井成允先生の下記のお歌のご心境が、禅門であれ浄土門であれ、仏法を求める者の理想ではないかと思っております。

      いつの日に 死なんもよしや 弥陀仏の み光の中の 御命なり
 

このお歌を味わうときに、最も大切な字句は、『御命(おんいのち)』であると井上善右衛門先生に教わりました。つまり、ポイントは「いつ死んでもよい」と言うところにあるのではなくて、この私の命は、私の命ではなく、「仏様の御命」だと言うところにあると云うことでした。それをお聞きして、この歌を詠われた白井成允先生と井上善右衛門先生は師弟のご関係でいらっしゃいましたが、「師弟ならでは」とも、また「素晴らしい先生方にお遇い出来たものだなぁ」と思ったことを、今、思い出しておりますが、生きているうちに私もお仲間に入れたらと云う大それた思いを抱いております。

私の妻は通常、色々なご講師の法話テープを聞きながら眠りに就くのでありますが、最近、渓間秀典師(元阪急ブレーブス球団社長で、上田監督と共に3年連続日本一を達成された本願寺派住職)の『生と死』と言うご法話(昭和60年6月16日収録)を聞き、私に「やっぱり、生と死の問題を解決せなあかんね」とポツンと申しました。それを聞きまして、私も仏法を求める原点に立ち戻らねばと気付かされた次第であります。


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No.694  2007.4.23

歎異抄に還って―第十三章―完

● まえがき
今回で、第十三章は終わりますが、今日勉強する最後に示されていますように、唯円坊は「本願ぼこり」を非難しているのではありません。本願ぼこりを非難する人々を偽善者若しくは、逆にそう言う人達こそ『本願ぼこり』ではないかとすら批判しているようであります。

原文中にあります、『本願にほこるこころのあらんにつけてこそ他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ』と言うのは、唯円坊も少し筆が滑ったのではないかと思います位、『本願ぼこり』を擁護しているように思います。唯円坊は「本願を誇るということは、それだけ他力を頼む信心が定まる可能性が高いのではないか」と言われているのでありますが、「悪人を救うのが本願であるから、幾ら悪いことをしても阿弥陀仏は許して下さる、いや、むしろそう言う悪人をこそ救おうというのが本願なのだ」と言う論法は、ただの開き直りであって、本願を誇っているものでもなく、それを『本願ぼこり』として擁護するのは如何なものかと思います。

斯く言う私自身が『本願ぼこり』を批判する偽善者或いは、善によって救われようとする作善の者なのかも知れません。

●第十三章原文
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからず、ということ。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卵毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし、とさふらひき。
またあるとき、唯円坊はわがいふことをば信ずるか、とおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふ、とまふしさふらひしかば、さらばわがいはんことたがふまじきかとかさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし、とおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらふ、とまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんにすなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人千人をころすこともあるべし、とおほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。
そのかみ邪見におちたるひとありて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからず、とあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり、またく悪は往生のさはりたるべしとにあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなれるべきや。かかる浅ましき身も本願にあひたてまつりてこそげにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業はよもつくられさふらはじものを。
またうみかわにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりていのちをつぐともがらもあきなゐをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。さるべき業縁のもよほせばいかなるふるまひもすべし、とこそ聖人はおほせさふらひしに、当時は、後世者ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをしてなむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめしてうちには虚仮をいだけるものか。
願にほこりてつくらん罪も宿業のもよほすゆへなり。されば、よきこともあしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまひらすればこそ他力にてはさふらへ。唯信抄にも、弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なればすくはれがたしとおもふべき、とさふらふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ。
おほよそ悪業煩悩を断じつくしてのち本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなはち仏なり、仏のためには五劫思惟の願その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも煩悩不浄具足せられてこそさふらふげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにてさふらふべきぞや。かへりてこころをさなきとか。

● 白井成允師の現代訳
弥陀仏の本願が不思議であらせられ、いかにあさましき罪悪の凡夫をも必ず救いたもうのだから安心だといって、己れの造る悪を怖れないでいる人々があるが、こういうのはやはり本願ぼこりというもの、自分が本願をいただいたことを誇りとしているのであって、それでは往生することが出来ないのだ、と云う主張がある。これ罪悪の凡夫を必ず救うという本願を疑うものであり、現生に造る罪悪は、必ず宿業の避くべからざる果報であることをわきまへないものである。善いこころのおこるのも宿善が催すからである、悪いことが心に思われ身に行われるのも悪業がはからうからである。故聖人の仰せには、卵毛羊毛の端にいる塵ほどの微細なことでもすべて造る罪の宿業でないものはないと知らねばならぬ、と申された。
またあるとき、唯円坊は私の言うことをば信ずるかという仰せがあったので、さようでありますと申し上げたところが、では私の言うことに背きはしまいなと重ねて仰せがあったので、謹んでお受け申し上げたところが、まず人を千人殺してみないか、そうすれば必ず往生するに違いないと仰せられたので、仰せではありますが私のような者の力では一人も殺せそうに思えませんと申し上げたところが、それではどうして親鸞のいうことに背くまいなどと言うのかと仰せられ、さらに、これでよく知るがよい、何事でも思うままになることならば、往生のために千人殺せと言われたら、直ぐに殺すことだろう。しかるに一人でも殺し得るような業縁がないから殺さないのだ。自分の心が善いために殺さないのではないのだ。また殺すまいと思っても百人千人を殺してしまうこともあろうと、仰せられたことがあった。これは私どもが自分の心の善いのをば、善い、これで往生ができるぞと思い、悪しきことをすると、悪い、これでは往生の礙(さまた)げになるぞとばかり思うていて、真実にはそれら善き悪しきに係らず、ただ如来の本願の不思議にて往生させてくださるのだと言うことを知らずにいることを仰せくだされたのである。
かつて聖人の世に在した頃、邪見におちた人があって、弥陀の本願は悪を造った者を救おうという願であらせられるから、という口実で、いい気になってわざわざ悪を造って、これを往生の業とするのだなどと言って、いろいろの悪いことをしているという噂がきこえてきたとき、聖人は御手紙に、薬があるからといって毒を好んではならない、と仰せられたが、これはその邪(よこしま)な執着を止めさせようというためであられたのであって、決して悪は往生の障(さわ)りとなるであろうと言うのではない。まったく戒をたもち律をたもちおごそかに道徳を励むことによってのみも本願を信ずることができるのだというならば、私たちのような戒も律もたもち得ない者がどうして生死を離れることができようか。このようなあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、いかにもとうとい御法におあいもうしたことだ、これでこそ必ず往生ができるのだ、と誇ることができるのである。しかしかようにいくら身を誇ったからといっても、己れの身にかねてから具えていないような悪業はとても造ることが出来ないではないか。(それを本願を聞いて誇るところから悪を造るのだなどと強いて云うのは、宿業のことわりに昧(くら)いところから来るのである。)
また、海や河で網を引いたり釣りをしたりして世を渡っている者も、野や山に獣を狩り鳥を捕らえて生計をたてている者も、商売をしたり田畑を耕して日暮しをしている者も皆同じことだ、そうする業縁が催してくればどんな振る舞いでもするだろう、とこそ親鸞聖人は仰せられたのに、この頃では念仏申す人々でありながら、(かかる仰せを忘れてしまって)自分らはいかにも後世の助からんことを願う行者であるかのような殊勝な振りをして、善人ばかりが念仏する資格があるかのように思ったり、或いは道場に張文(はりぶみ)をして、何々の事をした者を道場へ入れてはいけないなどと示したりしているが、これらは専ら賢善精進の相を表面にみせかけながら、内面には虚仮を抱いているものであろうかと思われる。
本願にほりて罪を造るのも宿業がそうさせるからである。だから、善きことも悪しきことも曾(かつ)て為した業の報いとして現れてくることであって、今これをどうすることも出来ないのであるから、その現れてくるがままにまかせておいて、ただひたすらに本願をたよりまいらせるばかりである。かく本願一つをたよりまいらすればこそ他力だというのである。『唯信抄』にも「罪業の深い身であるから救われそうも無いと思っている者があるが、そういう人は、弥陀仏にどれほどの御力がおありのことと知ってそう思っているのであろうか」と言っておられるではないか。本願にほこる心があるにつけてこそ、他力をたよる信心もきっぱりと定まるはずなのである。およそ悪業煩悩を断ち尽くして後に本願を信じるのであるならば、そんな場合にこそいかにも本願にほこるおもいがなくてもよいはずであるが、しかし、若し煩悩を断ちつくしたならばそのまま仏になってしまったのであるし、仏のためには弥陀仏が五劫の久しい間かかって御思惟あそばした本願は何の甲斐もないことになってしまうであろう。本願ぼこりは駄目だと他を誡めなさる人々も、自分ではやはり煩悩不浄をいっぱいに具えておられる様子であるが、それはやはり本願に誇っておられることではないか。いったい如何なる悪を本願ぼこりというのであるか、いかなる悪が本願に誇らないというのであるか。そんな区別をどうしてつけ得よう。本願ぼこりでは駄目だ、往生ができない、などと他を難ずるものは却って幼稚な考えであろうかと思われる。

● 高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏の本願には不思議な力が備わっているからといって、悪を恐れようとしないのは、また、本願に甘えている者の本願ぼこりというものであって、往生できるはずがないというと、このような見解は、本願を疑う者の見解であります。また、人間の善悪というものが、過去に積まれた行為の結果が、現世において現れ出るところの、宿業というものであることを知らないがためのものであります。善きこころのおこるのは、過去に積まれた善行の現われである宿善に、導かれてのことであります。悪事が思われ、実行されてしまうのも、悪業の結果であります。故聖人はいわれていたものであります。「卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です」と。
また、ある時、仰せられたのであります。「唯円坊は私の言うとをば信ずるか」と。それで、「はい、信じます」とお答えいたしましたところ、「ならば、私の言うことに背くことはないのだね」と、重ねてお言葉を続けられ、謹んで領状(承諾)申し上げたところ、「たとえば、人千人殺してくれるか。そうすれば、(あなたの)往生は、しかと定まったものとなると思うのですが・・・」というお言葉でありました。(それを聞いて私は驚き、慌てて、すぐにお答えしたものであります。)「お言葉ではありますが、(たとえ)一人といえども、私のこの身の器量(力量)では、殺せそうにありません」と。(すると、言われたのでありました。)「それでは、どうして、親鸞の言うことに、背かないなどと、言ったのですか」と。(ついで威儀を正され、真面目な口調になって言われたのであります。)「これでもって、理解できましょう。何事も、思い通りになるのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、ただちに殺すことができるはずです。しかしながら、一人といえども、殺すということのできる業縁がなければ、殺害できないのであります。わがこころが善くて、殺さないのではありません。殺すまいと思ったとしても、百人千人を殺すということが、ありうるのであります。」と。(今改めて、このお言葉を思い返すのでありますが、聖人のこの仰せは)私たちが、自分のこころが善ければ、それが(往生のための)善い種となる(と思う一方)、悪いことをしては、それが(往生ということにおいて)悪い種になるのではないかと思ったりしていて、(往生は、まったくもって)阿弥陀仏の願いの不思議な働きによる、お助けであることに気付こうとしないのを、お諭しになろうとしての言葉であったと、気付かされるのであります。
その昔、因果の道理を無視する邪見に落ちた人があって、悪をつくりたる者をお助け下さる願であられるからと言って、わざわざ好んで悪を働き、往生のための種にするんだなどと言い、さまざまな悪を働いているとの噂が聞こえて参りましたとき、親鸞聖人はお手紙でもって「薬があるからといって、毒を好んではなりません」とお諭しになられましたが、これはよこしまな執着をやめさせんがためのものであります。(その意味するところは)決して、悪は往生にとっての障りになると言われている、のではないのであります。「戒律を守ろうと心がけ、修行のための規律に、よくしたがい得ることを通してのみ、本願が信じられるというのであれば、(私たちのように戒律を守りきれない者は)どうして、生死の迷界を超え出ることができましょうか」というのが、お言葉でありました。(私たちのような)歎かわしい身も、本願との出遇いを恵まれていればこそ、こうして現に誇れるのであります。だからといって、身に具わっていない悪業は、決して勝手につくれるものではありません。
また、「海・河に網を引き、釣りをして人生を送る者も、野山に、獣を狩り、鳥を捕って、命をつなぐお仲間も、商いをし、田畠を作って、人生を過ごす人も(決してその職業ゆえに卑しめられてよいはずはなく、宿業の身を生きる人間、という点で言うなら、他の身分の人々と)まったく同じなのであります。しかるべき業縁にうながされるなら、(人間は)どのような振る舞いにもでるものであります」と言われたこの言葉こそが、親鸞聖人のお言葉でありますのに、この頃では、望みを後の世にかけた念仏者のような外見をとりつくろって、心の善良な者だけに、念仏することが許されているかのように言い、あるいは、道場に紙を張り出し、これこれのことをした者は、道場に入るべからずなどと言うことがあるようであります。まったくもって外目には賢く善人で、精進を重ねているかのような振りをしているが、その心の中は、嘘と偽りに満ちていると言ってよいのではないでしょうか。
願に甘え、それを誇りにしてつくる罪も(罪である限り)宿業に、誘い出されてなされたものであります。そうであれば、善きことも、悪しきことも、すべてをその業の報いにさしまかせて、(往生ということでは)ひたすらに本願をたのみとしてこそ、他力であります。『唯信抄』にも、「阿弥陀仏が備えておられる力が、どれほどのものであると知った上で、(自分は)罪深い身であるから、救われ難いと思うのであろうか」と述べておられます。本願に甘える心があればそれだけ、他力をたのみとする他力の信心が定まり、確かなものとなってくるはずであります。だいたい、悪業・煩悩を断ちつくした後に、本願を信じようというのであれば、願に甘え、それを誇る思いもなくてよかろうと思えますが、煩悩を断つならば、それすなわち、仏であります。仏のためには、五劫という無限の彼方より願いを起こされ、考えつづけられ、建てられた願は、その甲斐がないことになりませんか。本願ぼこりだと言って、他の念仏者を戒められている人々も、煩悩不浄を現にその身いっぱいに備えておられましょう。それは、願に甘えておられるからではありませんか。どのような悪を、本願ぼこりと言い、どのような悪が本願に甘えていないと言われるのでありましょうか。(本願ぼこりなどと言う考え方こそ)かえって、こころ幼きものではありますまいか。

● あとがき
今の時代、本願に誇って傍若無人に悪を撒き散らす『本願ぼこり』と云われるような人にめぐり会うことはなかなか無いと思われます。多分、この悪人正機の教えが一般に広まり始めた当時は、逆説的な教えが新鮮に映り、曲解した者が『本願ぼこり』と称される言動を為したのではないかと推察致します。

現代では『本願ぼこり』から『偽悪者』に変質しているのではないでしょうか。親鸞聖人の教えを少々聞きかじっただけで、「私のような凡夫は・・・」とか、「所詮私は凡夫でございまして・・・」と阿弥陀仏に照らされ、一見、謙(へりくだ)っているような言葉使いをする人々を『偽悪者』と言うのでありますが、私達親鸞聖人を信奉する者が陥りやすく、大いに自誡したいところであります。

そして、この第十三章から学びたいことは、善とか悪に付きましては飽くまでも自分の言動についてのみ仏様の眼にどう映るかを顧みることが大切であって、他の人の善悪を云々するべきものではないと言うことであります。そして業縁、宿業、因縁に付きましても、同様、自らの現在と未来に関して深く洞察すべきものであって、他の人に関して持ち出すべき言葉では無いと自らを誡めたいと思う次第であります。


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No.693  2007.4.19

傷ましい事故や事件を仏法はどう捉える?

傷ましい事故や事件は何もここ数年に限って起っている訳ではありません。思いもよらない事故や事件で尊い命が一瞬のうちに失われると云うことは有史以来繰り返されて来たはずでありますが、ただ、情報が素早く全世界に流されるようになった今日ですから、増えたように感じるだけの事なのかも知れません。

一昨日の米国バージニア工科大学構内での銃乱射事件は30余名の若者の命を一瞬のうちに奪ってしまいました。そして昨日は日本の長崎市で長崎市長が選挙期間中に銃撃され、命を失ってしまいました。そして私の身近なところでも、先週の木曜日に、私が教えている塾生のクラス友達(小学5年生の男児)が近所のため池に誤って滑り落ち溺れ死ぬと言う事故がありました。

何れも、『まさか』と言う予期や想像を超えた事件や事故であります。さて、このような事件や事故に関して仏法者はどのようなコメントを発信するのでしょうか。そしてその事件や事故の犠牲者の遺族に対して声をかけると致しましたら、どのような内容になるのでしょうか。報道番組のコメンテーターに仏法関係者が採用されていませんので直接声を聞けないのがまことに残念です。

 そこで、仏法に帰依する者の一人として私ならどのようにコメントするかを考えて見ました。

仏法は『無常』を説きます。つまり、「全ての物事は移り変わって行くものだ、そしてそれは人間の力が及ばない縁に依って移り変わって行くものだ」と言うのが仏法の基本的立場であります。しかし、そうだからと申しまして、まさかの事件・事故を目の当たりに致しまして、「全ての物事は変化して行くものであるから、何が起こっても不思議は無い、まさかと言う今回の事件に関しても、人間が考え及ばなかっただけの事であります、ただ亡くなられた方のご冥福をお祈り致します」と言うコメントを出す仏法関係者が居たと致しましたら、それは血が通った人間の言葉ではありませんし、ましてやそれは仏法では無いと思います。

まさかの事件や事故の報道には驚きを隠せませんし、犠牲者を直接存じ上げなくとも胸が痛みます。それが肉親であったり、知人であったりしますと更に冷静では居られませんし、悲しみの涙は当分枯れることは無いでしょう。日頃聞き知っている『無常』と言う言葉すら思い浮かばないかも知れません。ただただ悲しいだけに違いありません。それを仏法が責めるはずもありません。仏法は、自然に湧き上がる感情を押し殺せとは説かないはずであります。

しかし、仏法は悲しみに打ちひしがれることを勧めているものでもありません。その悲しみの中に、人間の置かれた立場、自分が今在る立場に気付けよと言う無言の法を説いているのだと受け取りたいものだと思います。つまり、あらゆる存在に『まさか』と言うことが起り得るこの世で、今、現に生命を与えられて生かされて生きている自分の不可思議をあらためて思い返し、「一日、一日ずつを大切に生きて行こう、今与えられている命に感謝をすることを忘れず、周りの人々や社会に多少とも恩返ししなければならない」と、気付き直す縁としたいものであります。

そして更にまた、仏法はまさかと言う事件・事故が仕方のないものだと諦めよと説くものでも無いと思います。まさかと言う悲しい出来事を出来るだけ未然に防ぐ手立てを人間の叡智で以って手当てする事を、『因縁果の道理』で説いていると考えたいものであります。まさかの事件や事故を人間の力で100%防ぎ得るものではないことも現実ではありますが、事件・事故を起こす要因を分析して、再発を防止する智慧を人間は与えられています。例えば今回のバージニア工科大学の事件は、背景にアメリカ社会の銃保持に関する考え方や法律の不適切があると思います。「自分の身は自分で守らねばならない、そして守る権利がある」として一般人が銃を護身用に持つことを認めており、約40%の家庭が銃を持っていると言うことでありますから、今回の事件は、決して『まさかの事件』ではないとも言えそうであります。何か主たる原因と様々な条件によって事件や事故は起こると仏法は考えます。決して、諦めることを説くものではなく、同じ『あきらめる』にしましても、物事の真相・真実を明らめることを勧めるのが仏法だと言うことを確認しておきたいと思います。


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No.692  2007.4.16

歎異抄に還って―第十三章―C

● まえがき
今日勉強する箇所は、私達が生活するための糧を得るためにする職業を例に挙げて、業縁というものを説いているように思います。私達の食卓には、牛肉、豚肉、鶏肉、それにお魚も並びます。食卓に並ぶには、牛を殺し、豚を殺し、鶏を殺す役割の人が居なければなりません。自分で牛を殺さないと牛肉を食べられないのなら、私は牛肉を食べるのを諦めようと思います。豚肉も、鶏肉も食べられないでしょう。また、肉牛を飼育したり、食肉用に豚や鶏を飼育する仕事さえもとても出来そうにありません。しかし、その役割を果たしてくれる人々がいらっしゃるから、ビフテキを食べられ、トンカツも鳥丼も食べられます。

恐らくこう言う生きものを殺す仕事は、当時も避けたい職業であったのでしょうか。避けたい職業ではあっても、業と縁によって、人夫々の職業があり人生を渡っているものだと言うことを語っているのだと思います。業と縁に依って選ばしめられる職業であるから、職業に貴賎は無いと言うことでもありましょう。

こうして、全ては業縁によるものであるから、本願に甘えて悪行を為す人を「本願ぼこり」と言って批判する人に対して、それは間違っていると言うことのようであります。

●第十三章原文
弥陀の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなふべからず、ということ。この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも宿善のもよほすゆへなり、悪事のおもはれせらるるも悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、卵毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし、とさふらひき。 またあるとき、唯円坊はわがいふことをば信ずるか、とおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふ、とまふしさふらひしかば、さらばわがいはんことたがふまじきかとかさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし、とおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらふ、とまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんにすなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人千人をころすこともあるべし、とおほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。
そのかみ邪見におちたるひとありて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこへさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからず、とあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり、またく悪は往生のさはりたるべしとにあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなれるべきや。かかる浅ましき身も本願にあひたてまつりてこそげにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業はよもつくられさふらはじものを。
またうみかわにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりていのちをつぐともがらもあきなゐをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。さるべき業縁のもよほせばいかなるふるまひもすべし、とこそ聖人はおほせさふらひしに、当時は、後世者ぶりして、よからんものばかり念仏まふすべきやうに、あるひは道場にはりぶみをしてなむなむのことしたらんものをば道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめしてうちには虚仮をいだけるものか。

● 白井成允師の現代訳
弥陀仏の本願が不思議であらせられ、いかにあさましき罪悪の凡夫をも必ず救いたもうのだから安心だといって、己れの造る悪を怖れないでいる人々があるが、こういうのはやはり本願ぼこりというもの、自分が本願をいただいたことを誇りとしているのであって、それでは往生することが出来ないのだ、と云う主張がある。これ罪悪の凡夫を必ず救うという本願を疑うものであり、現生に造る罪悪は、必ず宿業の避くべからざる果報であることをわきまへないものである。善いこころのおこるのも宿善が催すからである、悪いことが心に思われ身に行われるのも悪業がはからうからである。故聖人の仰せには、卵毛羊毛の端にいる塵ほどの微細なことでもすべて造る罪の宿業でないものはないと知らねばならぬ、と申された。
またあるとき、唯円坊は私の言うことをば信ずるかという仰せがあったので、さようでありますと申し上げたところが、では私の言うことに背きはしまいなと重ねて仰せがあったので、謹んでお受け申し上げたところが、まず人を千人殺してみないか、そうすれば必ず往生するに違いないと仰せられたので、仰せではありますが私のような者の力では一人も殺せそうに思えませんと申し上げたところが、それではどうして親鸞のいうことに背くまいなどと言うのかと仰せられ、さらに、これでよく知るがよい、何事でも思うままになることならば、往生のために千人殺せと言われたら、直ぐに殺すことだろう。しかるに一人でも殺し得るような業縁がないから殺さないのだ。自分の心が善いために殺さないのではないのだ。また殺すまいと思っても百人千人を殺してしまうこともあろうと、仰せられたことがあった。これは私どもが自分の心の善いのをば、善い、これで往生ができるぞと思い、悪しきことをすると、悪い、これでは往生の礙(さまた)げになるぞとばかり思うていて、真実にはそれら善き悪しきに係らず、ただ如来の本願の不思議にて往生させてくださるのだと言うことを知らずにいることを仰せくだされたのである。
かつて聖人の世に在した頃、邪見におちた人があって、弥陀の本願は悪を造った者を救おうという願であらせられるから、という口実で、いい気になってわざわざ悪を造って、これを往生の業とするのだなどと言って、いろいろの悪いことをしているという噂がきこえてきたとき、聖人は御手紙に、薬があるからといって毒を好んではならない、と仰せられたが、これはその邪(よこしま)な執着を止めさせようというためであられたのであって、決して悪は往生の障(さわ)りとなるであろうと言うのではない。まったく戒をたもち律をたもちおごそかに道徳を励むことによってのみも本願を信ずることができるのだというならば、私たちのような戒も律もたもち得ない者がどうして生死を離れることができようか。このようなあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、いかにもとうとい御法におあいもうしたことだ、これでこそ必ず往生ができるのだ、と誇ることができるのである。しかしかようにいくら身を誇ったからといっても、己れの身にかねてから具えていないような悪業はとても造ることが出来ないではないか。(それを本願を聞いて誇るところから悪を造るのだなどと強いて云うのは、宿業のことわりに昧(くら)いところから来るのである。)
また、海や河で網を引いたり釣りをしたりして世を渡っている者も、野や山に獣を狩り鳥を捕らえて生計をたてている者も、商売をしたり田畑を耕して日暮しをしている者も皆同じことだ、そうする業縁が催してくればどんな振る舞いでもするだろう、とこそ親鸞聖人は仰せられたのに、この頃では念仏申す人々でありながら、(かかる仰せを忘れてしまって)自分らはいかにも後世の助からんことを願う行者であるかのような殊勝な振りをして、善人ばかりが念仏する資格があるかのように思ったり、或いは道場に張文(はりぶみ)をして、何々の事をした者を道場へ入れてはいけないなどと示したりしているが、これらは専ら賢善精進の相を表面にみせかけながら、内面には虚仮を抱いているものであろうかと思われる。

● 高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏の本願には不思議な力が備わっているからといって、悪を恐れようとしないのは、また、本願に甘えている者の本願ぼこりというものであって、往生できるはずがないというと、このような見解は、本願を疑う者の見解であります。また、人間の善悪というものが、過去に積まれた行為の結果が、現世において現れ出るところの、宿業というものであることを知らないがためのものであります。善きこころのおこるのは、過去に積まれた善行の現われである宿善に、導かれてのことであります。悪事が思われ、実行されてしまうのも、悪業の結果であります。故聖人はいわれていたものであります。「卵毛羊毛のさきについている小さな塵ほどのものといえども、そのつくられる罪は、宿業によるものであって、そうでない罪はないと知ることが肝要です」と。
また、ある時、仰せられたのであります。「唯円坊は私の言うとをば信ずるか」と。それで、「はい、信じます」とお答えいたしましたところ、「ならば、私の言うことに背くことはないのだね」と、重ねてお言葉を続けられ、謹んで領状(承諾)申し上げたところ、「たとえば、人千人殺してくれるか。そうすれば、(あなたの)往生は、しかと定まったものとなると思うのですが・・・」というお言葉でありました。(それを聞いて私は驚き、慌てて、すぐにお答えしたものであります。)「お言葉ではありますが、(たとえ)一人といえども、私のこの身の器量(力量)では、殺せそうにありません」と。(すると、言われたのでありました。)「それでは、どうして、親鸞の言うことに、背かないなどと、言ったのですか」と。(ついで威儀を正され、真面目な口調になって言われたのであります。)「これでもって、理解できましょう。何事も、思い通りになるのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、ただちに殺すことができるはずです。しかしながら、一人といえども、殺すということのできる業縁がなければ、殺害できないのであります。わがこころが善くて、殺さないのではありません。殺すまいと思ったとしても、百人千人を殺すということが、ありうるのであります。」と。(今改めて、このお言葉を思い返すのでありますが、聖人のこの仰せは)私たちが、自分のこころが善ければ、それが(往生のための)善い種となる(と思う一方)、悪いことをしては、それが(往生ということにおいて)悪い種になるのではないかと思ったりしていて、(往生は、まったくもって)阿弥陀仏の願いの不思議な働きによる、お助けであることに気付こうとしないのを、お諭しになろうとしての言葉であったと、気付かされるのであります。
その昔、因果の道理を無視する邪見に落ちた人があって、悪をつくりたる者をお助け下さる願であられるからと言って、わざわざ好んで悪を働き、往生のための種にするんだなどと言い、さまざまな悪を働いているとの噂が聞こえて参りましたとき、親鸞聖人はお手紙でもって「薬があるからといって、毒を好んではなりません」とお諭しになられましたが、これはよこしまな執着をやめさせんがためのものであります。(その意味するところは)決して、悪は往生にとっての障りになると言われている、のではないのであります。「戒律を守ろうと心がけ、修行のための規律に、よくしたがい得ることを通してのみ、本願が信じられるというのであれば、(私たちのように戒律を守りきれない者は)どうして、生死の迷界を超え出ることができましょうか」というのが、お言葉でありました。(私たちのような)歎かわしい身も、本願との出遇いを恵まれていればこそ、こうして現に誇れるのであります。だからといって、身に具わっていない悪業は、決して勝手につくれるものではありません。
また、「海・河に網を引き、釣りをして人生を送る者も、野山に、獣を狩り、鳥を捕って、命をつなぐお仲間も、商いをし、田畠を作って、人生を過ごす人も(決してその職業ゆえに卑しめられてよいはずはなく、宿業の身を生きる人間、という点で言うなら、他の身分の人々と)まったく同じなのであります。しかるべき業縁にうながされるなら、(人間は)どのような振る舞いにもでるものであります」と言われたこの言葉こそが、親鸞聖人のお言葉でありますのに、この頃では、望みを後の世にかけた念仏者のような外見をとりつくろって、心の善良な者だけに、念仏することが許されているかのように言い、あるいは、道場に紙を張り出し、これこれのことをした者は、道場に入るべからずなどと言うことがあるようであります。まったくもって外目には賢く善人で、精進を重ねているかのような振りをしているが、その心の中は、嘘と偽りに満ちていると言ってよいのではないでしょうか。

● あとがき
浄土真宗の教え(親鸞聖人の教え)を聞きますと、普通は我が煩悩、我が自己愛に深く気付かされるようになるものだと思いますが、それと同時に、ややもすると我が煩悩だけではなく、他人様の煩悩にも厳しい眼を注ぎがちになるのではないでしょうか。そうなってしまいますと、今日の内容にありますように、「道場に紙を張り出し、これこれのことをした者は、道場に入るべからず」と言うように、他の人の善悪を裁くようになってしまいます。これでは前回ご紹介した至言、「他人の悪には検事になり、自分の悪には弁護士になる」の典型になってしまいます。

他の念仏者を「本願ぼこり」だと批判している人は、まさしく「他人の悪に検事となっている」姿ではないでしょうか。現代の私達も、難しいことではありますが、「他人の悪には弁護士となり、自分の悪には検事になる」位の意識を持って日常生活を送っていきたいものあります。


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No.691  2007.4.12

人生の贈り物

数年前のさだまさしさん≠フヒット曲(?)に『人生の贈り物』と言う歌があります。その歌詞の2番は下記のものですが、さだまさしさんの言う『人生の贈り物』は、心の通い合った友≠ニ言うことでしょうか・・・・。

季節の花がこれほど美しいことに
歳を取るまで少しも気づかなかった
私の人生の花が散ってしまう頃
やっと花は私の心に咲いた
    (何も言うこともないままで、並んで座って暮れる夕日を一緒に眺めてくれる友さえあれば、
    これ以上何も願うものはない)
並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友が居れば 他になにも望むものはない
他になにも望むものはない
他になにも望むものはない
    それが人生の秘密
    それが人生の贈り物

共感を覚えるいい歌詞で、私は歌謡曲の中では人生の真髄に最も近い教訓を謳い上げたものではないかと思っております。

一方、仏法が教えてくれる『人生の贈り物』も、信心を共にする友(法友、善友)もその一つではありますが、『日常生活で感じる諸問題』それは発展して『苦悩』になり得ますが、私達が生きて行く上で感じるこの苦悩こそが、やがて最上最高の『人生の贈り物』(信心、悟り)を受け取る前段階の『人生の贈り物』なのだと思います。その『苦悩』を『人生の贈り物』と捉えられなければ、私達は法友・善友と言う『人生の贈り物』も、また、お釈迦様や親鸞聖人が至られた『お悟り』と言う『人生の贈り物』も手にすることなく、この世を去ってしまうことになるのではないかと思います。

私はこの7年間、借金苦に攻め立てられて参りました。現在もなお完全に脱出している状況にはございませんが、その借金苦のお陰で仏法を真剣に求めるようになりました。また、このような境遇になったが故に心通う本当の友人の存在に気付かされ、また親族にも出遇うことが出来ました。『お悟り』には未だ未だ遠いのではありますが、それに向って歩めていることは確かであり、『人生の贈り物』が何かを知ることが出来た現在だけでも、十分に幸せを感じている次第であります。


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