No.680  2007.3.5

歎異抄に還って―第十二章―B

● まえがき
宗教は争いから最も遠いものでなければならないと思いますが、現実は宗教戦争と云う熟語がありますように、宗教間の争いは勿論、現在のイラクに見られる同じ宗教の中の宗派間の争いは更に激しいものがあります。親鸞聖人の教えを尊ぶ者同士でも、昔から同じようなことが起っており、浄土真宗何々派と云うのは東西両本願寺に止まらず、主たるもので二十余派にもなると云われております。私自身の心の中にも、ややもしますと、他の宗教、他宗派の方の論説よりも、親鸞聖人の教えに関する論説に対して「ああ云う受け取り方は、親鸞聖人の本来のお教えから外れているのに・・・」と云う批判が生じ易いことを感じますから、もともと人間が生み出した宗教と云うものにはそういう人間臭さが付き纏うことは避けられないのかも知れません。

それを認めた上で唯円坊はこの章で、他宗派からの挑発や蔑(さげす)みへの対応の心得と対応の口上を指南されています。内容から窺えますことは、当時、親鸞聖人の教えは新興宗教と云う位置付けであったと云うことであります。

この章の中で特に印象深いのは「御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや」と云う文節であります。こういう言葉がわざわざ語られるということは、他力本願の教えこそが凡夫を救う教えだとして、「聖道門では駄目だ」と憎まれ口をきいていた信者が多かったということでありましょう。800年前のそのような場面がまざまざと想像されて歎異抄をより親しみ易く感じさせます。

●第十二章原文
経釈を読み学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釈のゆくぢもしらざらんひとのとなへやすからんための名号におはします、ゆへに易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらん、といふ証文もさふらふぞかし。当時専修念仏のひとと聖道門のひと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり、といふほどに、法敵もいできたり謗法もおこる。これしかしながらみづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよしうけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法すぐれたりともみづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよし、の証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もありそしる衆生もあるべし、と仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけり、としられさふらふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじ、とときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

● 白井成允師の現代訳
いかに念仏もうしていても、仏の説きたまえる経を誦(よ)んだり、これを解釈しまつれる賢聖の書などを学んだりしていない人々は、果たして往生するかどうかわからない、という説がある。これはもとよりあげつらうにも足らない主張というべきものである。いったい弥陀の本願他力の真実のいわれを明らかにせる諸々の聖教は、弥陀の本願を信じ念仏申せば仏に成る旨を説いておられるので、その説かれるままに念仏申すほかに、いかなる学問が往生のために必要だと云うのであろうか。まことにこの道理に迷っておるような人々はあくまでも学問して如来の本願のおぼしめしを知らねばならない。いたずらに経を誦(よ)み釈を学んでも、それら聖教の本意を心得ないのはたいそう可哀相なことである。文字一つ知らないで、御経や註釈を解くいとぐちもわからないような者が、たやすく称えられるようにと御工夫くだされた名号であらせられるから、この名号を称えて往生するのを易行というのである。これに反して学問を主とするのは聖道門である、この道を難行と名付ける。学問する意味を間違えて、名聞を獲たり利養を貪ったりしようと思っている人は、この次の生に浄土に生まれ得るかどうか怪しいことである、という証文もあることである。この頃専修念仏の人と聖道門のひとが、法門の勝り劣りの議論をたくらんで、我が宗こそ勝れている、他の宗は劣っている、と云いあうので、その間に聖い法に敵対する者もいできたり、法をそしる者もあらわれるのである。これはよく考えてみれば、自分で自分の奉ずる法を破り謗ることではないか。たとい余宗の人々が一緒になって、念仏はつまらぬ人のための教えである、その説くところ浅くして卑しい、と云っても、それに対してすこしも争わないで、私共のような根機の劣った凡夫、文字一つ知らぬ愚者が信じれば助かると承りて信じているのであるから、根機のすぐれた人々のためには卑しくても、私共のためにはこの上ない法であられる、たとい余の教法がすぐれているとしても、私共のためには力が足りないからそれを修めることが出来ない、われもひとも生死の迷いを離れることこそ諸仏の御本意であらせられるのであるから、私共が念仏申すのを御さまたげなさらないで下さい、と穏やかに云って、憎らしそうな気色を示さないならば、だれか敵対する者があろうか。そのうえ、争論の場処にいるといろいろの煩悩がおこる、智者はかかる場処から遠く離れるべきだ、という証文もあることである。故聖人の仰せには、この念仏の法をば信ずる衆生もあり謗る衆生もあるであろう、と釈尊がかねて説いておいてくだされたことであるから、私は既に信じたてまつっているのに、また他に謗る人がおられるので、仏の説きたもうところはいかにもまことであると知られるのである。かく仏の説きたもうところが真実であればこそ、いよいよ私共愚かな者が念仏して往生するに間違いがないと思いなさるがよい。もしひょっとして謗る人がないような場合にこそ、信ずる人はあるのにどうして謗る人がないのであろうか、と思われるであろう。こう言ったからとて、必ず人に謗られるように、というのではない。仏がかねてから、信ずる者も謗る者も両方ともあるはずだと知っておいでになって、たとい他から謗られることがあっても、この法に疑いをおこすことがないようにとお考えくだされて、説いておいてくだされたのであることを申すのである、と仰せられたことであった。 ところがこの頃の人々は、学問して他の謗りを止めさせよう、ひとえに論議問答に力を尽くそうとたくらんでおられるのであろうか。学問すればするほどいよいよ深く如来の御本意を知り、仏の大慈悲心から起こしたもう誓願の一切の衆生を、一人残さず救わねば止まぬとの広く大きなる趣をも知りて、自分などのように卑しい身であって果たして往生出来るであろうか、などと危ぶんでいる人々に対しても、弥陀仏の本願には善きと悪しきとを問わず、浄きと穢れたるとを別たず、すべて等しく憐れみ救いたもう所以を説き明かし領承せしめられるならば、それこそ学者として学問しただけのかいがあると云われよう。たまたま素直な心で本願を承って如来の思し召しのままに念仏申しておられる人に向かいてまでも、学問してこそ往生は出来るのだ、などと言いおどされるのは、これこそ法を礙げんとする魔の仕業であり、仏に怨み刃向わんとする敵の仕業である。かかる振る舞いは、ただ自分が他力の信心をいただいていないばかりでなく、さらに間違って他人までも迷わそうとするものである。これ先師の御心に背くことであるから、慎み懼れてかかる振る舞いに陥らないように気を付けねばならない。これ弥陀仏の本から願わせられる所ではないのであるから、かかる振る舞いを為す人々をばもとから憐れむべきである。

● 高史明師の現代語意訳
お経やその注釈書を読み、学問を積んでいないお仲間は、往生出来るかどうか定まっていない。などという説について、このような説は、言うほどのこともない、つまらぬ説であると言ってよいものであります。他力真実の根本を説き明かしているすべての聖教は、本願を信じ、念仏を称えるならば、成仏できると説いております。念仏のほかに、どんな学問が、往生にとって必要でありましょうか。まさに、この道理に迷うような人は、どのようになりと学問して、本願の味わいを、知るがよいのであります。お経や注釈書を読み、学問したとしても、聖教の本当のおこころが理解出来ないとは、まったくもって、お気の毒としか言い様のないことであります。文字一つ知らず、お経や注釈書の道筋をたどり知ることの出来ない人が、称え易いようにというご配慮によってもうけられているのが、南無阿弥陀仏の名号であります。ですから、念仏を称えることでもって往生させていただける念仏往生の道を行じ易いという意味で、易行と言います。学問を中心に据えているのは、聖道門であって、行じ難いという意味で、難行と呼ばれております。正しい道から外れて、学問して、世間的な名誉や利欲の思いを、自分の住処(すみか)としている人は、今のその一生を終わって、次に来るところの生において、果たして浄土への往生がかなえられるか、どうか、という証拠となる文献もあるではありませんか。(親鸞聖人88歳のときのお手紙に、法然の言葉を示して言うところの、次の言葉があります。「ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまわりき」と。)それがこの頃では、専修念仏の人たちと、聖道門の人たちの論争をくわだてて、わが宗こそ勝れており、相手の人の宗は劣っているなどと言い出すから、念仏往生の法に対する敵も現れ、誹謗も起こってくるのであります。このようなことでは、自ら、わが法を傷つけ、誹謗しているということになりはせぬか。たとい、さまざまな宗派の人々が、いっせいに、念仏は甲斐性のない人のためのものであって、その宗は、浅薄で卑しいものであると言ってきたとしても、それにめげず争わずして、「われらのような生まれつき能のないただの人間、文字一つ知らない者も、ただ信ずれば、お助けいただける法が、念仏であることの次第を、お聞かせいただき、それを信じているのでありますれば、生まれつき勝れた能力を恵まれている上根の人には、まったくもって卑しい教えであると見えましょうとも、われらがためには、最上の法であります。たとえ念仏以外の他の教法が勝れたものであったとしましても、この身にとってみると、わが能力を超えたものでありますので、とても修行できるものではありません。われも、ひともまた、生死の迷いから解かれんことこそが、願いであり、諸仏の御本意もそこにこそあらせられるのでありますれば、念仏を称えるからといって、邪魔だてなさるということは、あってよいことではありません」ということで、憎々し気な顔をせずして言いますれば、どのような人があって、あえて仇をなそうとしましょう。なおまた、「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」という証拠の文献もあることであります。
亡き親鸞聖人は仰せられていました。「念仏の法を信ずる衆生があれば、誹謗する衆生もあるはずでありますと。これが、仏のかねてより説かれておられることであれば、われは、現にいま、この法を信じたてまつるものであります。一方また、他に人あって、この法が謗られていることでもあります。(それはまさに、仏の説かれているとおりでありまして、)このことからも、仏説が真実であることがいっそうよく知られてきましょう。従って(謗る人がいたからといって、恐れることはなく、むしろ)、いよいよもって、往生は、決定されていると思いいただいてよいのであります。間違って、謗る人がいないということにでもなれば、どうして信じる人がいるのに、謗る人がいないのであろうと、思えてもまいりましょう。このように言ったからといって、決してそれは、他人にあえて、謗られようということを意味するものではありません。仏の、かねてより、信と謗がともにあるはずであることをお見透しなられて、人に疑いを抱かせまいと説きおかれたもうた、お言葉を考え、申しているのであります。」これが聖人のお言葉であります。 それが、この頃では、学問積んで、他の人の非難をやめさせ、ひたすら教理にかかわる議論や問答こそが、中心だと言わんばかりに身構えておられるようであります。学問をするのでしたら、いよいよもって阿弥陀如来のご本心を知り、悲願の広大無辺の根本を体得することが、大切であります。従って、他にあって、自分のように卑しく罪業の深い身では、往生させていただけないのではないかと、危ぶみ心配していたなら、阿弥陀仏の願いの根本には、善人悪人、あるいは清浄な人穢れた人、ということでの差別はないという趣旨を、説き、お聞かせになられるようであってこそ、学問をした者の甲斐というものでありましょう。(それがその反対に、)たまたま、阿弥陀仏の根本に相かなって、無心に念仏している人に向かって、学問をしてこそなどと言って、驚き恐れさせるということは、仏法にとっての災いの悪魔であり、仏の怨敵であります。そのような人は、自ら他力の信心が欠けているばかりでなく、道を踏みあやまって、他の人をも迷わそうとしているのであります。つつしんで、畏るべきであります。親鸞聖人の御こころに背くことを、あわせて、哀れむべきと言うほかありません。弥陀の本願にあらざることを。

● あとがき
「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」
と言うアドバイスは的を得たものであります。論争を始めますと、「負けまい」と云う煩悩が燃え盛り、論争の為の論争となってしまい、政治家同士の言い争いと変わらぬものになってしまいます。

以前、掲示板に無相庵へ論争を挑んで来たと思われる投稿が相次いだことがありました。原始仏教を勉強され、原始仏教こそお釈迦様の教えだと主張される立場の方だと思いますが、私は鋭い刃と鎧を文面に感じましたので、論争を回避いたしましたが、回避することで相手の煩悩をますます燃え盛らせてしまうことになり、最終的には掲示板を閉じることになってしまいました。「智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」と云うことは、このようなコラムも発信しなければよいと言うことにもなるのかも知れないとも思いますが、私は智者ではありませんので、余程の事が起こらない限りは、続けて行こうと思っております。


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No.679  2007.3.1

ある切り替え

3月に入りました。1月25日の日を境として、私の経済生活は大きく方向転換し始めました。最も大きな危機に直面していたのですが、それがどうやら底を打った瞬間だったのかも知れません。何をどうしたからそうなったと言う訳ではなく、ただただ劇的に変化したのは事実であります。

今の家に引っ越して来た1999年の年末から今までは、経済的な面では何一つ良いことが起らず、むしろ常に自己破産と隣り合わせの7年間であり続けました。それは私の経営者として判断ミスと生活設計の甘さに原因したものであり、自業自得そのものでありましたが、その自己破産と隣り合わせから救われた現在も、自己破産と隣り合わせだった過去7年間も、どちらも仏様の大慈悲心が働きとなって現れたものである事を実感しています。

私たちは、人間が幸せに感じる事にのみ仏様のお陰だと申しますが、仏様の慈悲心は、人間に取っては辛い事や悲しい事にも働いているのだと思います。私の現在の感謝と感動は過去7年間の苦しみがあった上でのものであり、苦しみにも感謝しなければなりません。「苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救う」と云う言葉を何回かご紹介して参りましたが、私も苦しい最中には中々その様な心境にはなり得ませんでしたが、苦しみから救われた今、漸くあの苦しみが私を育ててくれたのだなと素直に思えます。

経済的ハンディキャップを解消出来た私のこれから為すべきは、私の技術的な能力を精一杯生かして会社を立て直し、大きな救いの手を伸ばして下さった娘の嫁ぎ先への恩返しは勿論のこと、私を育ててくれた仏法への恩返し、そして社会への恩返しをする事だと思っています。

その為にも、私は今日から大きく切り替えたことがございます。もの心ついてからずっと愛読して参りました朝日新聞から地元の神戸新聞に思い切って切り替えました。かなり前から、朝日新聞の社説と天声人語の論説が大きく変わり、「成るほど」と思えなくなっていました。最近はむしろ不愉快になることが多かったのですが、惰性で読み続けていました。しかしこの度の劇的変化を機縁として思い切って断行しました。3日前から読み比べ始めましたが、やはり変える決断をしてよかったと思う記事がありました。

神戸新聞の天声人語版の『正平調』に、指導者の条件の一つに「謙虚と感謝」が挙げられることを松下幸之助さんの言葉から紹介されていましたが、その実例として昨年亡くなられたアパレル大手のワールドの創業者木口衛(まもる)さんの事に触れられていました。そして、最後を「謙虚さだけで競争に勝てない。だが、こうした人がいるところに内外の衆知が集まり、会社を発展させる、と松下さんは説いた。その好例を木口さんが示したように思え、惜別の念があらためて込み上げる」と結んでおられました。

これに引き換え、反体制を強める朝日新聞の社説は、『国歌伴奏判決、強制の追認にならないか』と云う見出しで、入学式の君が代斉唱で、ピアノの伴奏を校長から命じられ「君が代は過去に侵略と結び付いているので弾けない」と断った音楽教師が職務命令違反で戒告処分を受け、処分取り消しを求めて裁判に訴えたそうですが、最高裁が処分は妥当という判断を示したそうであります。これに対して朝日新聞が、見出しの主張をした訳ですが、私は音楽教師にも、朝日新聞にも大切にしなければならない何かをすっかり忘れているように思われ、やはり同調出来ませんでした。

変えて良かったと言う思いと新しい気持ちで3月1日を迎える事が出来ました。
それから、大変嬉しいことが一つあります。前回の木曜ラムでご紹介した東ヨーロッパの方が、日本の本社に出張されることになり、来週の金曜日お会い出来ることになりました。しかも我が家にお泊り頂けることにもなりました。今から少し興奮しているところであります。


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No.678  2007.2.26

歎異抄に還って―第十二章―A

● まえがき
この章のテーマは、信仰にその宗派の教義に関する理論的知識が必要かどうかと言う事だと思います。苦からの脱出を希望しその手立てを信仰に求める多くの現代人が踏み迷うところではないかと思われます。私自身が正にその中の一人であります。 仏教の基本的教義である「一切皆空(いっさいかいくう)」を理論的に「この世の全てのものも現象はこれと言う実体があるのではなく、縁によって変化するものである」と知りましても、自分が死ぬことも空であるから致し方無しと心の解決が付くものではありません。知識を幾ら積み上げましても、信には至らないことは皆さんも経験されているところだと存じます。

それで思い出しますのが、渓間秀典師のご法話です。渓間秀典師は、お寺の長男として生まれましたが少年時代は暴走族のパイオニアとして何回か警察の厄介になったそうですが、後には立派なお坊様になられ、一時期、プロ野球の阪急ブレーブスの球団社長をされ、あの上田監督の日本シリーズ三連覇に貢献された一風変わったお坊様でありましたが、信心を獲るのに七転八倒されたのでしょう。信心を獲るとは、禅宗におけるお悟りを浄土真宗で獲ることを云うと言ってよいと思いますが、その信心を獲る瞬間を、スポーツの陸上競技の一つである棒高跳びでバーを跳び越える瞬間に喩えられました。棒高跳びは、ご存知の様に、バーの高さと殆ど同じ位の長さの棒を使用して、助走力と棒の撓(しな)りの反発力をタイミングよく利用してバーを跳び越えねばなりませんが、バーを飛び越える瞬間には、それまで自分を支え上げていた棒を手から離さなければなりません(でなければバーは自分が落とすことになりますから)。 渓間秀典師は、その棒を信心を獲るまでの学問と見立てられたのだと思います。つまり、「バーの高さに近付くまでには(信心を獲られそうになるまでには)棒(学問)は欠かせない道具であるが、バーを跳び越える時(信心を獲る瞬間)には、棒(学問)を手(意識の中)から離さなければ(忘れ去らなければ)ならない。」と言う事を仰りたかったのだと思います。それ程ご苦労され、バーの直前で立ち往生されていたのだと思います。恐らく、無事バーを越えられたと自覚された瞬間を経験されたからこそのご発言だったと私は推察しております。

従いまして、信心を獲るためには、教義の説明、つまりご法話を聞いたり、仏教書を読んだりする事は必要だと言うことではないでしょうか。いわゆる学問とまで言うほどの勉強は必要ではないと思います。この章の原文に「本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」とありますが、この言葉は、余程勉強した人に対して言うものであって、本願の知識も謂(いわ)れも聞いた事も無い初級の人に言うべきものではない、と、私は思います。

次の文節で出て参りますが、理論武装のための学問は必要ではないということを云わんが為に、唯円坊が極端な表現を取ったのではないかと思います。 当時よりも識字率が高まり、殆どの人が義務教育で読み書きを学ぶ現代と、庶民の殆どが読み書き出来ない時代とでは、仏法を説くあり方は当然変わらなくてはそれこそ時代遅れとなりはしないかと案じています。

●第十二章原文
経釈を読み学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釈のゆくぢもしらざらんひとのとなへやすからんための名号におはします、ゆへに易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらん、といふ証文もさふらふぞかし。
当時専修念仏のひとと聖道門のひと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり、といふほどに、法敵もいできたり謗法もおこる。これしかしながらみづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよしうけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法すぐれたりともみづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよし、の証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もありそしる衆生もあるべし、と仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけり、としられさふらふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじ、とときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

● 白井成允師の現代訳
いかに念仏もうしていても、仏の説きたまえる経を誦(よ)んだり、これを解釈しまつれる賢聖の書などを学んだりしていない人々は、果たして往生するかどうかわからない、という説がある。これはもとよりあげつらうにも足らない主張というべきものである。いったい弥陀の本願他力の真実のいわれを明らかにせる諸々の聖教は、弥陀の本願を信じ念仏申せば仏に成る旨を説いておられるので、その説かれるままに念仏申すほかに、いかなる学問が往生のために必要だと云うのであろうか。まことにこの道理に迷っておるような人々はあくまでも学問して如来の本願のおぼしめしを知らねばならない。いたずらに経を誦(よ)み釈を学んでも、それら聖教の本意を心得ないのはたいそう可哀相なことである。文字一つ知らないで、御経や註釈を解くいとぐちもわからないような者が、たやすく称えられるようにと御工夫くだされた名号であらせられるから、この名号を称えて往生するのを易行というのである。これに反して学問を主とするのは聖道門である、この道を難行と名付ける。学問する意味を間違えて、名聞を獲たり利養を貪ったりしようと思っている人は、この次の生に浄土に生まれ得るかどうか怪しいことである、という証文もあることである。
この頃専修念仏の人と聖道門のひとが、法門の勝り劣りの議論をたくらんで、我が宗こそ勝れている、他の宗は劣っている、と云いあうので、その間に聖い法に敵対する者もいできたり、法をそしる者もあらわれるのである。これはよく考えてみれば、自分で自分の奉ずる法を破り謗ることではないか。たとい余宗の人々が一緒になって、念仏はつまらぬ人のための教えである、その説くところ浅くして卑しい、と云っても、それに対してすこしも争わないで、私共のような根機の劣った凡夫、文字一つ知らぬ愚者が信じれば助かると承りて信じているのであるから、根機のすぐれた人々のためには卑しくても、私共のためにはこの上ない法であられる、たとい余の教法がすぐれているとしても、私共のためには力が足りないからそれを修めることが出来ない、われもひとも生死の迷いを離れることこそ諸仏の御本意であらせられるのであるから、私共が念仏申すのを御さまたげなさらないで下さい、と穏やかに云って、憎らしそうな気色を示さないならば、だれか敵対する者があろうか。そのうえ、争論の場処にいるといろいろの煩悩がおこる、智者はかかる場処から遠く離れるべきだ、という証文もあることである。故聖人の仰せには、この念仏の法をば信ずる衆生もあり謗る衆生もあるであろう、と釈尊がかねて説いておいてくだされたことであるから、私は既に信じたてまつっているのに、また他に謗る人がおられるので、仏の説きたもうところはいかにもまことであると知られるのである。かく仏の説きたもうところが真実であればこそ、いよいよ私共愚かな者が念仏して往生するに間違いがないと思いなさるがよい。もしひょっとして謗る人がないような場合にこそ、信ずる人はあるのにどうして謗る人がないのであろうか、と思われるであろう。こう言ったからとて、必ず人に謗られるように、というのではない。仏がかねてから、信ずる者も謗る者も両方ともあるはずだと知っておいでになって、たとい他から謗られることがあっても、この法に疑いをおこすことがないようにとお考えくだされて、説いておいてくだされたのであることを申すのである、と仰せられたことであった。 ところがこの頃の人々は、学問して他の謗りを止めさせよう、ひとえに論議問答に力を尽くそうとたくらんでおられるのであろうか。学問すればするほどいよいよ深く如来の御本意を知り、仏の大慈悲心から起こしたもう誓願の一切の衆生を、一人残さず救わねば止まぬとの広く大きなる趣をも知りて、自分などのように卑しい身であって果たして往生出来るであろうか、などと危ぶんでいる人々に対しても、弥陀仏の本願には善きと悪しきとを問わず、浄きと穢れたるとを別たず、すべて等しく憐れみ救いたもう所以を説き明かし領承せしめられるならば、それこそ学者として学問しただけのかいがあると云われよう。たまたま素直な心で本願を承って如来の思し召しのままに念仏申しておられる人に向かいてまでも、学問してこそ往生は出来るのだ、などと言いおどされるのは、これこそ法を礙げんとする魔の仕業であり、仏に怨み刃向わんとする敵の仕業である。かかる振る舞いは、ただ自分が他力の信心をいただいていないばかりでなく、さらに間違って他人までも迷わそうとするものである。これ先師の御心に背くことであるから、慎み懼れてかかる振る舞いに陥らないように気を付けねばならない。これ弥陀仏の本から願わせられる所ではないのであるから、かかる振る舞いを為す人々をばもとから憐れむべきである。

● 高史明師の現代語意訳
お経やその注釈書を読み、学問を積んでいないお仲間は、往生出来るかどうか定まっていない。などという説について、このような説は、言うほどのこともない、つまらぬ説であると言ってよいものであります。他力真実の根本を説き明かしているすべての聖教は、本願を信じ、念仏を称えるならば、成仏できると説いております。念仏のほかに、どんな学問が、往生にとって必要でありましょうか。まさに、この道理に迷うような人は、どのようになりと学問して、本願の味わいを、知るがよいのであります。お経や注釈書を読み、学問したとしても、聖教の本当のおこころが理解出来ないとは、まったくもって、お気の毒としか言い様のないことであります。文字一つ知らず、お経や注釈書の道筋をたどり知ることの出来ない人が、称え易いようにというご配慮によってもうけられているのが、南無阿弥陀仏の名号であります。ですから、念仏を称えることでもって往生させていただける念仏往生の道を行じ易いという意味で、易行と言います。学問を中心に据えているのは、聖道門であって、行じ難いという意味で、難行と呼ばれております。正しい道から外れて、学問して、世間的な名誉や利欲の思いを、自分の住処(すみか)としている人は、今のその一生を終わって、次に来るところの生において、果たして浄土への往生がかなえられるか、どうか、という証拠となる文献もあるではありませんか。
(親鸞聖人88歳のときのお手紙に、法然の言葉を示して言うところの、次の言葉があります。「ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまわりき」と。)それがこの頃では、専修念仏の人たちと、聖道門の人たちの論争をくわだてて、わが宗こそ勝れており、相手の人の宗は劣っているなどと言い出すから、念仏往生の法に対する敵も現れ、誹謗も起こってくるのであります。このようなことでは、自ら、わが法を傷つけ、誹謗しているということになりはせぬか。たとい、さまざまな宗派の人々が、いっせいに、念仏は甲斐性のない人のためのものであって、その宗は、浅薄で卑しいものであると言ってきたとしても、それにめげず争わずして、「われらのような生まれつき能のないただの人間、文字一つ知らない者も、ただ信ずれば、お助けいただける法が、念仏であることの次第を、お聞かせいただき、それを信じているのでありますれば、生まれつき勝れた能力を恵まれている上根の人には、まったくもって卑しい教えであると見えましょうとも、われらがためには、最上の法であります。たとえ念仏以外の他の教法が勝れたものであったとしましても、この身にとってみると、わが能力を超えたものでありますので、とても修行できるものではありません。われも、ひともまた、生死の迷いから解かれんことこそが、願いであり、諸仏の御本意もそこにこそあらせられるのでありますれば、念仏を称えるからといって、邪魔だてなさるということは、あってよいことではありません」ということで、憎々し気な顔をせずして言いますれば、どのような人があって、あえて仇をなそうとしましょう。なおまた、「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」という証拠の文献もあることであります。
亡き親鸞聖人は仰せられていました。「念仏の法を信ずる衆生があれば、誹謗する衆生もあるはずでありますと。これが、仏のかねてより説かれておられることであれば、われは、現にいま、この法を信じたてまつるものであります。一方また、他に人あって、この法が謗られていることでもあります。(それはまさに、仏の説かれているとおりでありまして、)このことからも、仏説が真実であることがいっそうよく知られてきましょう。従って(謗る人がいたからといって、恐れることはなく、むしろ)、いよいよもって、往生は、決定されていると思いいただいてよいのであります。間違って、謗る人がいないということにでもなれば、どうして信じる人がいるのに、謗る人がいないのであろうと、思えてもまいりましょう。このように言ったからといって、決してそれは、他人にあえて、謗られようということを意味するものではありません。仏の、かねてより、信と謗がともにあるはずであることをお見透しなられて、人に疑いを抱かせまいと説きおかれたもうた、お言葉を考え、申しているのであります。」これが聖人のお言葉であります。
それが、この頃では、学問積んで、他の人の非難をやめさせ、ひたすら教理にかかわる議論や問答こそが、中心だと言わんばかりに身構えておられるようであります。学問をするのでしたら、いよいよもって阿弥陀如来のご本心を知り、悲願の広大無辺の根本を体得することが、大切であります。従って、他にあって、自分のように卑しく罪業の深い身では、往生させていただけないのではないかと、危ぶみ心配していたなら、阿弥陀仏の願いの根本には、善人悪人、あるいは清浄な人穢れた人、ということでの差別はないという趣旨を、説き、お聞かせになられるようであってこそ、学問をした者の甲斐というものでありましょう。(それがその反対に、)たまたま、阿弥陀仏の根本に相かなって、無心に念仏している人に向かって、学問をしてこそなどと言って、驚き恐れさせるということは、仏法にとっての災いの悪魔であり、仏の怨敵であります。そのような人は、自ら他力の信心が欠けているばかりでなく、道を踏みあやまつて、他の人をも迷わそうとしているのであります。つつしんで、畏るべきであります。親鸞聖人の御こころに背くことを、あわせて、哀れむべきと言うほかありません。弥陀の本願にあらざることを。

● あとがき
学問と言うよりも、教義に関する知識を高める勉強は絶対的に必要でありますが、それが、目的となってしまい、それが信心を獲るための手段であることを忘れてしまってはいけないと考えたいと思います。例えば、人を論破する為の武器としての勉強、知識をひけらかすための勉強、有名になって講演活動や著書を出して、名誉欲や利欲を満足するためだけの勉強になっては、何の為の勉強か、何の為の仏法かと云うことになりがちであります。

他人事ではありません。常に自己をチェックして、自分自身を誡める必要があると思います。親鸞聖人ですら、「私は慈悲の心をこれっぽっちも持ち合わせていないのに、直ぐに名誉やお金を追い求めて人の師となりたがる。」と言う意味の、「少慈少悲もなけれども名利に人師を好むなり」と自己を悲嘆されている詩を残されています。
自誡したいと思います。


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No.677  2007.2.22

忘れることが出来ない日々

今年になりまして、忘れることが出来ない日が又一日増えました。最初の一日は今年1月25日、そして次が昨日の2月21日です。何れも私達夫婦を経済苦から救い出して下さる愛の手が差し伸べられた日であります。どちらも通常は有り得ない方からのお申し出であり、心苦しくはありましたが、有り難くも素早く行動を起こして下さいまして本当に助けて頂きました。どのように感謝の意を表せばよいか、適切な言葉が見付かりません。

ただただ感謝し、自分が出来ることは事業を再興し、お二方(及びそのご家族)から教えて頂いた人生の生き方・有り方を模範として、私もまた他の人に真心で以って接して行かねばならないとあらためて深く心に刻んだ次第であります。

あまり詳細な説明を申し述べるべきではないとは思いますが、私のこの感動と感謝の心を皆様に知って頂きますには、ある程度の説明を要すると考えましたので、下記に申し述べさせて頂きます。

愛の手のお一人は、東ヨーロッパにある日本企業に勤務されている方で、この無相庵ホームページとの縁は昨年末と承っております。私の1月25日の『苦難に処する心構え』と言うコラムを読まれて、即多額のお布施をお申し出下さいました。最初は、お受けすることに戸惑いを覚えましたが、「私にと言うよりも、仏法興隆の為の尊いお布施であり、私がお断りすることは僭越ではないか・・・」と丸一日熟慮させて頂いた経緯がございますが、住居の差し押さえと言う危機に直面していた時でございましたので本当に文字通り危機から助けて頂きました。

そして今回は私の娘の嫁ぎ先からの愛の手でした。3年位前に、私の経済状況をお知りになられて、銀行口座番号を教えて下さいと云われたことがございますが、その時は「どうにもならない時にはお願い致しますので・・・」と丁重にお断りさせて頂いた経緯がございます。今回は、娘婿が1月末の危機と上述のお布施の件を知り、ご両親に私共の危機的状況をお伝えしたようでありまして、具体的な状況を知りたいと云うことでしたので、取りあえず一昨日、娘宛に現状の収支と借入金等の現状を文書にして示しました。娘が、その資料をご両親に転送したところ、色々と確認したいことがあると云うことで、昨日、詳細な救済策をご検討された上で来られた次第であります。

「家族だから、親族だから・・・」と言うことでありますが、家族・親族と云えども経済的苦境にあるところには寄り付かないと言うのが普通だと思います。それにも関わらず、本当に親身になって下さって根本的な救済の道筋を考えて下さり、その第一弾として、早速帰り着かれたその足で、早期退職されて得られた退職金の中から破格の資金提供をして下さいました。私の兄弟も、友人達も昨年定年退職を迎えておりますが、借金地獄に喘ぐ私のような者には近寄らないのが普通であります。恐らく私だって立場を変えれば、私のような者には近寄らないと思います。

私を救ってくれたのは、確かに『お金』であります。しかし、私は綺麗事ではなく、『人間の真心』に出遇わせて頂いたと云う想いの方が強いです。そして、私は仏法を聞いて何とか人生を渡っておりますし、仏法を大切に思いますが、仏法を聞くこと、その事に意味があるのではなく、人間として生まれ、人間だけが示せる真心を行動に表し、真心を尽くして行かねば、「人として生まれた甲斐はないのだな」と改めて思った次第であります。

「これからは息子達も巻き込んで、何とかしましょう。家族なんですから・・・」と言う娘の嫁ぎ先のお父さんのお言葉は、助けられる私ではありますが、私と同じ人間の言葉かと思う位に感動を覚えました。普通は、「息子家族は巻き込んでくれるなよ!」と言うのが世間の常識ではないかと思うからです。そして、その様なご家族のところに嫁いだ縁を、電話の会話の中で娘と共に喜び合った次第であります。

上述のお二方のみならず、暖かいお励ましの言葉やお励ましの品物を下さった方々にも、あらためて御礼を申し上げます。皆様の励ましがなければ今日まで持ち堪えることは出来なかったと思っています。これからもこの無相庵ホームページを続けることが出来そうであります。頑張りたいと思いますので、これからも宜しくお願い申し上げます。


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No.676  2007.2.19

歎異抄に還って―第十二章―@

● まえがき
第十二章は、「学問をしない者は往生出来ない」と主張する誤りを正している章であります。第十一章が第一章と対応していたのと同様、この第十二章は第二章を受けて、異なった見解を歎かれている章であります。

第十二章は第十三章と同様に非常に長い文章でありますので、原文と現代訳、現代意訳を全部お読みになるのも大変だと思いますので、先ずは一通り全文を眺めていただき、次回から3、4回に分けて行う勉強の時に詳しくお読み取り頂ければと思います。

この章の趣旨は信心を獲るのに学問は不要だと言うことであります。確かに他力の教えを研究する真宗学と言う学問を幾ら究めましても、それが他力信心を獲得(ぎゃくとく)することにはなりません。場合によりますと、学問が逆に作用して信心から遠く離れたところにその人を迷い込ましてしまうことすらあると思われます。

しかしだからと申しまして、学問は不要であると結論付けてしまうのは如何かと私は思います。私の場合は、「阿弥陀仏の誓願を信じて、ただ念仏すればいい」と教えられましても、「はい、そうですか、そう致します」とはなり得ません。阿弥陀仏って何ですか?誓願って何?・・・と色々と確めたくなります。それをせずして信じることは出来ません。従いまして、学問と言うほどの事ではありませんが、色々と書物を読んだり、法話も聞き知識を増やし理解を深めて信じようと致します。しかし、なかなか阿弥陀仏の誓願を信じ切ることにはなりません。これは、私だけではなく、古今東西、多くの方が行き着くところではないかと思います。

「仏法は聴聞に極まる」と云う言葉がございますように、法話を聞くことを勧めます。聴聞は耳学問だと言ってもよいと思いますので、一方で学問を否定するのはどういうことかと思いますが、第十二章をざっと読みます限りは、歎異抄も学問を真っ向から否定はしていないと思います。恐らく、知識を深めようとする目的が何かと言うことではないかと思われますが、さて唯円坊はどのような立場なのでしょうか。詳しく勉強したいと思います。

●第十二章原文
経釈を読み学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ念仏をまふさば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことにこのことはりにまよへらんひとは、いかにもいかにも学問して本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども聖教の本意をこころえざる条、もとも不便のことなり。一文不通にして経釈のゆくぢもしらざらんひとのとなへやすからんための名号におはします、ゆへに易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまて学問して名聞利養のおもひに住するひと、順次の往生いかがあらんずらん、といふ証文もさふらふぞかし。当時専修念仏のひとと聖道門のひと、諍論をくはだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり、といふほどに、法敵もいできたり謗法もおこる。これしかしながらみづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよしうけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくともわれらがためには最上の法にてまします、たとひ自余の教法すぐれたりともみづからがためには器量およばざればつとめがたし、われもひとも生死をはなれんことこそ諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよし、の証文さふらふにこそ。故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もありそしる衆生もあるべし、と仏ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、仏説まことなりけり、としられさふらふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふべきなり。あやまてそしるひとのさふらはざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず、仏のかねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじ、とときおかせたまふことをまふすなり、とこそさふらひしか。いまの世には学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答むねとせんとかまへられさふらふにや。学問せばいよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、学生のかひにてもさふらはめ。たまたまなにごころもなく本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといひをどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり、みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

● 白井成允師の現代訳
いかに念仏もうしていても、仏の説きたまえる経を誦(よ)んだり、これを解釈しまつれる賢聖の書などを学んだりしていない人々は、果たして往生するかどうかわからない、という説がある。これはもとよりあげつらうにも足らない主張というべきものである。いったい弥陀の本願他力の真実のいわれを明らかにせる諸々の聖教は、弥陀の本願を信じ念仏申せば仏に成る旨を説いておられるので、その説かれるままに念仏申すほかに、いかなる学問が往生のために必要だと云うのであろうか。まことにこの道理に迷っておるような人々はあくまでも学問して如来の本願のおぼしめしを知らねばならない。いたずらに経を誦(よ)み釈を学んでも、それら聖教の本意を心得ないのはたいそう可哀相なことである。文字一つ知らないで、御経や註釈を解くいとぐちもわからないような者が、たやすく称えられるようにと御工夫くだされた名号であらせられるから、この名号を称えて往生するのを易行というのである。これに反して学問を主とするのは聖道門である、この道を難行と名付ける。学問する意味を間違えて、名聞を獲たり利養を貪ったりしようと思っている人は、この次の生に浄土に生まれ得るかどうか怪しいことである、という証文もあることである。この頃専修念仏の人と聖道門のひとが、法門の勝り劣りの議論をたくらんで、我が宗こそ勝れている、他の宗は劣っている、と云いあうので、その間に聖い法に敵対する者もいできたり、法をそしる者もあらわれるのである。これはよく考えてみれば、自分で自分の奉ずる法を破り謗ることではないか。たとい余宗の人々が一緒になって、念仏はつまらぬ人のための教えである、その説くところ浅くして卑しい、と云っても、それに対してすこしも争わないで、私共のような根機の劣った凡夫、文字一つ知らぬ愚者が信じれば助かると承りて信じているのであるから、根機のすぐれた人々のためには卑しくても、私共のためにはこの上ない法であられる、たとい余の教法がすぐれているとしても、私共のためには力が足りないからそれを修めることが出来ない、われもひとも生死の迷いを離れることこそ諸仏の御本意であらせられるのであるから、私共が念仏申すのを御さまたげなさらないで下さい、と穏やかに云って、憎らしそうな気色を示さないならば、だれか敵対する者があろうか。そのうえ、争論の場処にいるといろいろの煩悩がおこる、智者はかかる場処から遠く離れるべきだ、という証文もあることである。故聖人の仰せには、この念仏の法をば信ずる衆生もあり謗る衆生もあるであろう、と釈尊がかねて説いておいてくだされたことであるから、私は既に信じたてまつっているのに、また他に謗る人がおられるので、仏の説きたもうところはいかにもまことであると知られるのである。かく仏の説きたもうところが真実であればこそ、いよいよ私共愚かな者が念仏して往生するに間違いがないと思いなさるがよい。もしひょっとして謗る人がないような場合にこそ、信ずる人はあるのにどうして謗る人がないのであろうか、と思われるであろう。こう言ったからとて、必ず人に謗られるように、というのではない。仏がかねてから、信ずる者も謗る者も両方ともあるはずだと知っておいでになって、たとい他から謗られることがあっても、この法に疑いをおこすことがないようにとお考えくだされて、説いておいてくだされたのであることを申すのである、と仰せられたことであった。 ところがこの頃の人々は、学問して他の謗りを止めさせよう、ひとえに論議問答に力を尽くそうとたくらんでおられるのであろうか。学問すればするほどいよいよ深く如来の御本意を知り、仏の大慈悲心から起こしたもう誓願の一切の衆生を、一人残さず救わねば止まぬとの広く大きなる趣をも知りて、自分などのように卑しい身であって果たして往生出来るであろうか、などと危ぶんでいる人々に対しても、弥陀仏の本願には善きと悪しきとを問わず、浄きと穢れたるとを別たず、すべて等しく憐れみ救いたもう所以を説き明かし領承せしめられるならば、それこそ学者として学問しただけのかいがあると云われよう。たまたま素直な心で本願を承って如来の思し召しのままに念仏申しておられる人に向かいてまでも、学問してこそ往生は出来るのだ、などと言いおどされるのは、これこそ法を礙げんとする魔の仕業であり、仏に怨み刃向わんとする敵の仕業である。かかる振る舞いは、ただ自分が他力の信心をいただいていないばかりでなく、さらに間違って他人までも迷わそうとするものである。これ先師の御心に背くことであるから、慎み懼れてかかる振る舞いに陥らないように気を付けねばならない。これ弥陀仏の本から願わせられる所ではないのであるから、かかる振る舞いを為す人々をばもとから憐れむべきである。

● 高史明師の現代語意訳
お経やその注釈書を読み、学問を積んでいないお仲間は、往生出来るかどうか定まっていない。などという説について、このような説は、言うほどのこともない、つまらぬ説であると言ってよいものであります。他力真実の根本を説き明かしているすべての聖教は、本願を信じ、念仏を称えるならば、成仏できると説いております。念仏のほかに、どんな学問が、往生にとって必要でありましょうか。まさに、この道理に迷うような人は、どのようになりと学問して、本願の味わいを、知るがよいのであります。お経や注釈書を読み、学問したとしても、聖教の本当のおこころが理解出来ないとは、まったくもって、お気の毒としか言い様のないことであります。文字一つ知らず、お経や注釈書の道筋をたどり知ることの出来ない人が、称え易いようにというご配慮によってもうけられているのが、南無阿弥陀仏の名号であります。ですから、念仏を称えることでもって往生させていただける念仏往生の道を行じ易いという意味で、易行と言います。学問を中心に据えているのは、聖道門であって、行じ難いという意味で、難行と呼ばれております。正しい道から外れて、学問して、世間的な名誉や利欲の思いを、自分の住処(すみか)としている人は、今のその一生を終わって、次に来るところの生において、果たして浄土への往生がかなえられるか、どうか、という証拠となる文献もあるではありませんか。(親鸞聖人88歳のときのお手紙に、法然の言葉を示して言うところの、次の言葉があります。「ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、『往生はいかがあらんずらん』と、たしかにうけたまわりき」と。)それがこの頃では、専修念仏の人たちと、聖道門の人たちの論争をくわだてて、わが宗こそ勝れており、相手の人の宗は劣っているなどと言い出すから、念仏往生の法に対する敵も現れ、誹謗も起こってくるのであります。このようなことでは、自ら、わが法を傷つけ、誹謗しているということになりはせぬか。たとい、さまざまな宗派の人々が、いっせいに、念仏は甲斐性のない人のためのものであって、その宗は、浅薄で卑しいものであると言ってきたとしても、それにめげず争わずして、「われらのような生まれつき能のないただの人間、文字一つ知らない者も、ただ信ずれば、お助けいただける法が、念仏であることの次第を、お聞かせいただき、それを信じているのでありますれば、生まれつき勝れた能力を恵まれている上根の人には、まったくもって卑しい教えであると見えましょうとも、われらがためには、最上の法であります。たとえ念仏以外の他の教法が勝れたものであったとしましても、この身にとってみると、わが能力を超えたものでありますので、とても修行できるものではありません。われも、ひともまた、生死の迷いから解かれんことこそが、願いであり、諸仏の御本意もそこにこそあらせられるのでありますれば、念仏を称えるからといって、邪魔だてなさるということは、あってよいことではありません」ということで、憎々し気な顔をせずして言いますれば、どのような人があって、あえて仇をなそうとしましょう。なおまた、「論争のあるところには、様々な煩悩が起きるものであります。智者は、争いの場を避け、遠く離れているがよい」という証拠の文献もあることであります。
亡き親鸞聖人は仰せられていました。「念仏の法を信ずる衆生があれば、誹謗する衆生もあるはずでありますと。これが、仏のかねてより説かれておられることであれば、われは、現にいま、この法を信じたてまつるものであります。一方また、他に人あって、この法が謗られていることでもあります。(それはまさに、仏の説かれているとおりでありまして、)このことからも、仏説が真実であることがいっそうよく知られてきましょう。従って(謗る人がいたからといって、恐れることはなく、むしろ)、いよいよもって、往生は、決定されていると思いいただいてよいのであります。間違って、謗る人がいないということにでもなれば、どうして信じる人がいるのに、謗る人がいないのであろうと、思えてもまいりましょう。このように言ったからといって、決してそれは、他人にあえて、謗られようということを意味するものではありません。仏の、かねてより、信と謗がともにあるはずであることをお見透しなられて、人に疑いを抱かせまいと説きおかれたもうた、お言葉を考え、申しているのであります。」これが聖人のお言葉であります。
それが、この頃では、学問積んで、他の人の非難をやめさせ、ひたすら教理にかかわる議論や問答こそが、中心だと言わんばかりに身構えておられるようであります。学問をするのでしたら、いよいよもって阿弥陀如来のご本心を知り、悲願の広大無辺の根本を体得することが、大切であります。従って、他にあって、自分のように卑しく罪業の深い身では、往生させていただけないのではないかと、危ぶみ心配していたなら、阿弥陀仏の願いの根本には、善人悪人、あるいは清浄な人穢れた人、ということでの差別はないという趣旨を、説き、お聞かせになられるようであってこそ、学問をした者の甲斐というものでありましょう。(それがその反対に、)たまたま、阿弥陀仏の根本に相かなって、無心に念仏している人に向かって、学問をしてこそなどと言って、驚き恐れさせるということは、仏法にとっての災いの悪魔であり、仏の怨敵であります。そのような人は、自ら他力の信心が欠けているばかりでなく、道を踏みあやまつて、他の人をも迷わそうとしているのであります。つつしんで、畏るべきであります。親鸞聖人の御こころに背くことを、あわせて、哀れむべきと言うほかありません。弥陀の本願にあらざることを。

● あとがき
この章の中に、『学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。』と云う一節がありますが、唯円坊が何れの宗派を念頭に置いてそう言われたのか気になるところです。恐らく禅宗、天台宗、真言宗、法相宗などの何れかを意識して聖道門と言われたのだと思いますが、それらが聖道門としても、何れの宗派にせよ、我が宗は学問を旨としているとは考えていなかったのではないかと私は思いますので、少々不適切な発言ではなかったかと思います。

浄土門側は禅宗に対して自力聖道門と云う言い方をよく致しますが、禅宗の方々は決して自力とは思っておられませんので、これも不適切な表現だと思っております。私はどの宗派であろうとも、仏道の最初は自力に頼り、最後は他力に任せるに至るのだと思っております。私の存じ上げていた禅僧、山田無文老師と柴山全慶老師は共にそのようなご境地であったと思いますし、そもそも難行・易行と云う分け方も、自力・他力と云う分け方も、正しくないと思っております。私のこのような発言をするための研鑽をこそ『学問』と言うのかも知れませんが、唯円坊の言われる『学問』とは何を指しておられるのか、この章で確認したいと思います。


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No.675  2007.2.15

人類の終わりを語ってもいい

2月6日(火曜日)に引き続き、今週2月13日(火曜日)の朝日新聞の夕刊第3面の『こころ』と言う特集に「現代仏教の可能性」と言うテーマでの秋田光彦氏【應典院(浄土宗)住職、1955年生まれ】と町田宗鳳氏(広島大学教授、比較宗教学者、1950年生まれ)の対談が、対話形式で連載されていました。

今日の表題『人類の終わりを語ってもいい』は、町田教授の少し物騒にも思える、しかし思い切り斬新な発言を朝日新聞が見出しにしていたのを拝借したのでありますが、私はその町田教授の根底にある仏教の捉え方は私の非常に共感を覚えるものでありましたので、引き続き、前回と同様お二人のお話の中から、特に印象深くまた強く共感した箇所を下記に転載させて頂く次第であります。

町田宗鳳氏:
宗教は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教的な世界観と、神道や世界の民族宗教などの多神教的世界観に分けられます。が、仏教はそのどちらでもない。言うならば「無神教的」世界観です。無神論とは違います。神仏や尊いものを自己の外においてあがめるのではなく、自己の中に神仏が入り込む。その人の日常生活そのままが神仏の姿となる。それが仏教の理想です。これは華厳経に「事々無礙法界(じじむげほっかい)」として記されていることです。神や仏などの絶対的なものが消え、あらゆる事物や現象が礙(さまた)げ合うことなく平等に交流し融合して、調和の中で存在する世界。究極的な真実の世界です。 これを西田幾多郎の言葉で言えば、述語的論理の世界です。キリスト教などの一神教は主体的な自我を前面に打ち出す主語的論理の世界。絶対的な神が存在し、ときに不寛容になる。米国が力ずくで進めるグローバリズムもそう。これに対して述語的論理は絶対的なものが存在せず、多様性に富み、とらわれのない『空(くう)』の世界です。 この様な仏教の世界観が人類の主流になれば、紛争は減り、文明の共存が可能となる。仏教者はその自覚を持ち、世界へ発信する使命がある。

また、人類も個人の寿命も永遠ではない。むしろ人類に終わりがあるのは素晴らしいと思います。限られた時間の中で、いろんな気付きを頂き、本当に生き甲斐を味わって死ぬことに意味がある。一神教の終末論と異なるポジティブな意味合いで、仏教者が人類の終焉(しゅうえん)をもっと語ってもいいと思う。仏教は無神教だから、神にすらこだわりがない。人類は永遠ではない。残された時間が少ないかもしれない。その時間を如何に助け合い愛し合って、美しく生きていくか、それを私たちは声高に語ってもいいのでは。それがすさまじい勢いで進む地球環境の破壊などの問題の解決にもつながるのではないでしょうか。

秋田光彦氏:
日本の仏教界にも、社会にコミットしていく新しい宗教性が徐々に育っています。今後はますます、人口減少などにより、承継者のいない無縁の墓が増え、次第に葬式仏教も衰退していくでしょう。そうなれば寺の役割そのものが問い直される。寺と言う場所を生かしながら、地域のNPOなど市民と連携して、寺の社会的役割を打ち出していく必要があると思います。日本には7万数千の寺と約25万人の僧侶がいます。それぞれの寺と僧侶が公益的役割を果たせば、日本の仏教の可能性は大いにある。そのためにも、なぜ仏教なのかということを多くの人にきちんと伝える新しい言葉を、町田さんたちと作り上げていきたいと思います。

―以上で転載終わりです

『永遠不滅なものは有り得ない。全ては変化し続ける』と言うのがお釈迦様の発見された真理であります。この考え方の最も肝要なところは『全ては消滅するのではなく変化する』と言うことを忘れてはなりませんが、変化はかなり劇的なものとなる場合があります。それを、町田教授は、『人類の終わり』と表現されているのだと思います。しかし、人類は終わるけれどもゼロになる訳ではなく、私たちには想像すら出来ない地球の未来があるのだと思います。

地球の歴史を見ましても、地球に人類が誕生しましたのは、地球が生まれた46億年を一年に換算しますと、現在この瞬間は12月31日午後11時59分数十秒過ぎであると言うことは随分以前のコラムで申し上げました。兎に角、人類は地球の極めて極めて新参者だと言うことであります。でありますから、この地球を我が物顔に勝手気ままに振舞う事が許されるはずがありませんが、しかし、地球の隅々まで増殖(敢えてそう表現します)した人類は、宇宙の掟(真理)により、必ずや、滅びる(表現を変えれば)つまり劇的に変化すると言うことは誰も否定出来ないと思います。

それを町田教授は、個人もそうだけれども、人類も滅びるからこそ素晴らしいと言われているのだと思います。何が素晴らしいかと言いますと、その一瞬の命を大切に精一杯全(まっと)うするところに『真・善・美・聖(しんぜんびせい)』を感じる日本の心があるからだと思います。「散ればこそ、桜はいとどめでたけれ」と言う古来からの日本人の心そのものだと思います。

そう言う無限に広い、無限に大きな立場であられたのがお釈迦様の世界観・宇宙観だったと言うのが、町田教授のおっしゃりたかったことだと思います。そして、私が付け加えさせて頂けると致しましたら、親鸞聖人が晩年に至られたご心境『自然法爾(じねんほうに)』と言うお言葉も、私はお釈迦様と全く同じ世界観・宇宙観に根ざしたものだったのではないかと考えております。

町田教授のお考えと若干の相違点が一つあります。それは、『すさまじい勢いで進む地球環境の破壊などの問題の解決にもつながるのではないでしょうか』とおっしゃっている点であります。現在騒がれている地球温暖化などの地球の危機に付いてでありますが、私は、地球の極々最近の新参者が、少々常軌を逸した行為をして地球を痛めつけたとしても、そう簡単には地球と言う星は変化しないと思います。その反省は尊いとは思いますが、逆にその反省に立って人類がする努力で以って、地球の危機を救えると言う考え方こそ人類の思い上がりではないかと、私は思います。人類のたったここ100年間位の行為が地球に大きな害を与え、それを控えれば地球の危機を救える程、人類の存在が地球にとって大きな影響を与えるものであるとは思えないのです。 勿論、自然と共生・共存しなければならないことは自明の理ではありますが、その前に、人類はもっともっと自然に対して謙虚にならなければならないと思います。

さて、秋田氏のおっしゃるように、お寺は変わらねばならないと思います。変わって頂きたいと思っております。葬式・法事を司るのがお坊さんに期待されている本来の役割ではありません。人の死を縁として、その死を悼む人々に仏法を伝えると言うのが本来担うべき極めて重要な役割ではないかと期待しています。そう言う意味で、秋田氏のようなお坊様のご存在は、仏法興隆こそ日本を救う道であると考えている私には真に頼もしい限りであります。

お二人の今後のご活躍を心からお願いしたいと思います。


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No.674  2007.2.12

歎異抄に還って―第十一章―D

● まえがき
仏教には、「人間に生まれる確率は極めて小さいけれども、有り難い事に私はその人間に生まれさせて頂いた。そしてまた、更に有り難いことには、人間に生まれても仏法に遇うことは更に更に確率は低いけれども、その仏法にも遇うことが出来た」と言う仏法に遇えた有り難さを讃え、感謝する言葉があります。

仏法に興味の無い人に取りましては、独りよがりの言葉としか響かないものでありましょうが、私は、『仏法』と言うからそう思われるのであって、「この世の現象や事物、動植物の存在の訳を解き明かす真理」である『法則』をお釈迦様が明らかにされたから『仏法』と言うだけのことであると知れば、何人(なにびと)でも無関心では居られないと思います。

私自身、この世に生まれて仏法に出遇った、その縁に感謝しておりますし、仏法に出遇っていなければ、現在の苦境に立ち向かえなかったとも考えております。しかし、それでは、この歎異抄第十一章に唯円坊が示されている、誓願不思議を信じ、名号不思議を信じて、心の底から「南無阿弥陀仏」と称えられるかと申しますと、残念ながら、今現在は「そうではありません」と申すしかございません。

親鸞聖人も他力の信心を獲ることは「難中の難」と申されていますから、親鸞聖人の教えに傾倒して居られる方の中に、私と同じ状況の方も居られると思います。では、私のような疑い深く、驕慢で、怠け者はどうなるかと申しますと、阿弥陀仏は、このような者が沢山居ることを先刻ちゃ〜んとご存知で、真実の報土(お浄土)に直ぐには招き入れられないそうですが、大学受験の予備校的位置づけである、化土(仮の浄土)を用意して下さっていると言うことであります。 それが、今日勉強する箇所に示されています。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。

阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。

次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただ単に誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。

(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。

次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
親鸞聖人が提唱された『正定聚の位』と言うのは、『不退転の位』と云われ、信心が固まり、もう後戻りすることがない心境を云うのだと思いますが、化土に往く人は正定聚の位ではないのかどうか、私は不勉強で存じませんが、化土に往き、そして必ず真実の報土『お浄土』へ往く身でありますから、やはり、化土に往く者も、この世では往生が確定した『正定聚の位』に在りと言ってもよいのではないかと思います。この考え方には真宗学の学者さんたちから大クレームが続出すると思いますが、しかし、阿弥陀仏が本当にお救いになりたいと眼を掛けて居られるのは、罪悪深重の凡夫で、しかも、阿弥陀仏の誓願にも疑いを持ち、心の底から「南無阿弥陀仏」と称えられない、辺地・懈慢・疑城・胎宮の化土に往く身の私たち凡夫では無いかと、私は甘い考えをしています。

そう考えた方が、他力本願の教えがすっと心に収まるような気が致しますが・・・さて?


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No.673  2007.2.8

自己発見することが仏教体験

2月6日(火曜日)の朝日新聞の夕刊第3面の『こころ』と言う特集に、「現代仏教の可能性」と言うテーマで秋田光彦氏【應典院(浄土宗)住職、1955年生まれ】と町田宗鳳氏(広島大学教授、比較宗教学者、1950年生まれ)が語り合った記事が対話形式で掲載されていました。お二人ともに私よりも10歳下と5歳下の方々でありますが、私はこのお二人の存在にこそ現代仏教の可能性≠信じることが出来、本コラムで紹介したいと考えた次第であります。
先ずは、お二人のお話の中から、特に印象深くまた強く共感した箇所を下記に転載させて頂きます。

秋田光彦氏:
私が追い求めているのは、関係としての仏教です。それはこれまでの布教や教化とは違うということです。布教とか教化とかには、ある正解に向けて、言葉を動員して人々を教え導くという権威的な趣がある。それでは、人々が共に働く「協働」に結び付かない。私たち僧侶は、あなたの中にある仏性とは何か、自分とは何かを知るにはどんな気付きが必要なのかといった問いを絶えず投げ掛け、後は相手の自発性を待つ。主人公は経典でもなくお坊さんでもなく、その人自身。それぞれの人の心の中に等しく気付きはあるはず。僧侶は教え導くのではなく、相手の思いや願いを受け止め、親しい関係を築いてゆくことこそ大切だと思います。

町田宗鳳氏:
仏教とは要するに自己発見です。経典や修行の中に仏教があるのではない。そんな思い込みはたたき壊した方がいい。ほんとは、坐禅や荒行のような修行はしなくていいんです。修行の場は日常生活のこの今、刻々にある。今どう人と向き合うのか、どう仕事に打ち込むのか、日々の真剣勝負の中に仏教との出合いがあるんです。
―以上で転載終わりです

表現に多少の違いはありますが、お二人ともに「経典の中に仏教があるのではない」と言うことをおっしゃっておられます。私なりに表現させて頂きますならば、「経典は飽くまでも参考書」であります。それをお釈迦様は、2500年前に「自灯明・法灯明」と言う教えとして説かれ、「私を頼りとしたり、私が説いた言葉を頼りにしてはいけないよ。自分自身の心を見詰め、自分を照らす法に気付いて、その法を頼りとしなさい」と言う意味のことをおっしゃったのだと思います。やはり、主人公は自分でなければならないと云うことでありましょう。

今、月曜コラムで、歎異抄を勉強しておりますが、歎異抄は極めて大切な書物ではありますが、歎異抄にのみ、或いは、歎異抄に書かれた一つ一つの言葉に依りすがってのみ、人生を生きてはならないと思います。そして、親鸞聖人信奉者の中には、「歎異抄は親鸞聖人が書かれたものではないので、必ずしも全てが親鸞聖人の教えではない。教行信証こそが親鸞聖人の教えなのだ」とおっしゃる方も多いのでありますが、これは経典を主人公にした考えであり、上述のお二人や私とは立場が異なるものだと思っております。

書物も法話も経典すらも、飽くまでも参考書であります。私のこの無相庵コラムも、常々申し上げておりますが、私自身が日常生活を送りながら仏法に問いかけ・問いかけして生きている様子を実況放送的にお知らせしているものでありまして、飽くまでも水先案内の積りで書かせて頂いております。敢えて申しますならば、この無相庵ホームペジそのものは参考書のまたその参考書と言うべきものだと思っております。

そして、以前のコラムで「無相庵の宗教上の立場について」でも申し述べましたが、経典の中にある言葉を根拠に論争するところには本当の仏教はないと私は思っています。そして、飽くまでも自分の心の中に問いかけながら生きていきたいものだと思っております。そう言う面から、前述のお二人の仏教の捉え方に共感するものであり、お二人にますます頑張って頂きたいと思うばかりであります。


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No.672  2007.2.5

歎異抄に還って―第十一章―C

● まえがき
世間一般に「他力本願ではいけない」と云う風に使われている言葉が浄土門が説く本来のものとは異なると言われています。『他力本願ではいけない』と云うのは、「他の力を当てにせず、自分で努力しないといけない」と云う意味であり、浄土門の説くところとの違いは何かと考察してみますと、『本願』と云う熟語の使い方を全く取り違えているのであって、『他力』はやはり浄土門でも『他の力』ではないかと私は考えております。

『本願』は私たちの願いではなく、私たち衆生を救い取りたいと言う強くそして遍く働いている願いが『本願』であり、仏様側の願いであるところが異なる点でありますが、『他力』は仏様の働きを指すものであり、やはり『自分の力ではない力、すなわち他の力』であろうと私は思います。妙好人(学問的教養は無いものの、宗教的感性に優れ、信心が徹底した浄土真宗の信者のこと)の中でも特に有名な浅原才市翁は、『他力には自力も他力もなし、ただ一面の他力なり』と仰られたそうてありますが(鈴木大拙師のご紹介)、「自力というのも他力が働いた中での自力」と言う捉え方であろうと思います。

このように『他力本願』と言う言葉は、非常に難しい意味を含んでいるものであり、一般の方々にもなかなか理解し難いものであろうと思いますが、私たち親鸞聖人の教えをよく聞いたものでも、上述のように頭では理解し説明出来ましても、結局は分かっていないと言うのが本当のところであります。むしろ、自分は本当のところが分かり得ない凡夫である事に気付かされることこそが、他力本願に身を委ねる信心の行者と言えるのかも知れません。

今日勉強する部分は、他力本願の根本的なところを解かれているところであり、一般の方々にはかなり難解であろうと思います。善行を積んで往生を望むことも、また、罪深い自分だから往生出来ないと思うことも他力に身を委ねたこととはならない、と唯円坊は書き記されています。つまりこれ全て凡夫の計らいであり、阿弥陀仏の誓願の大いなる働きを信じていないし、また南無阿弥陀仏の有り難さをも信じていないことになると言う訳であります。

私も思わず、「では、どうすればいいの?」と聞きたくなってしまいます。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。

阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。

次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただ単に誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。

(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。

次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
まえがきで、『善行を積んで往生を望むことも、また、罪深い自分だから往生出来ないと思うことも他力に身を委ねたこととはならない』と言う唯円坊の言葉に言及致しましたが、この意味は、「自己愛から出発した念仏も善行も、他力に身を委ねた人の行いではないし、罪深い自分だから往生出来ないと思うのは、自分の尺度で往生というものを思量しており、これも他力に身を委ねたことにはなっていない」と言うことではないかと思います。ただしかし、そうなりますと自己愛とか我執を捨てろと言うことになり、その為の努力は自力聖道門の努力となり、他力浄土門の道から外れることになります。

他力の道を歩みますと殆どの場合この堂々巡りに陥り、且つなかなか此処から抜け出せなくて、何か吹っ切れない居心地の悪さの中で悶々としてしまいます。私自身が今もこの状況にありますことは、素直に「南無阿弥陀仏」が口に出ないことで分かります。おそらく親鸞聖人も、葛藤されたところだと思われますが、ここで自分を騙し或いは適当に妥協して「南無阿弥陀仏」と殊勝気に念仏することは私には出来ません。

原文に『このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。』とございますが、私が正に、このひと≠ノ当ります。このひと≠フ辿る道に付いての勉強は次回のものとなります。


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No.671  2007.2.1

地獄で仏に出遇う

世間一般に「地獄で仏」とか、或いは「地獄で仏に会う」と言う言葉が使われます。

辞典では、『苦難や苦しみの時に、予想もしない助けにあった嬉しさを表す言葉。「地獄で仏に会ったよう」の略であり、地獄に堕ちて苦しめられている時に、救って下さる仏様に会い、嬉しいと言うことを由来とする』と説明されていますが、前回の木曜コラムで、私は今現在苦境にある事をお伝えさせて頂きましたが、切羽詰った状況下にあったこの一週間の間に、私自身が正に『地獄で仏に会う』経験をさせて頂きましたので、ここに書き記しておきたいと思いました。

そして、勉強したことは、『地獄だからこそ、仏様に出遇えたのだなぁー』と言うことであります。その意味合いは、「私達は順境の時でありましても、逆境の時にありましても、常に仏様に出遇っているのに、本当に苦しい地獄のような思いをしないと仏様の心に気付かないのだろうな」と言うことであります。

私のこの一週間の苦境は、ここ7年間常に迫られているものでありまして、『住んでいる家を差し押さえられ、結果として立ち退かされ、そのまた結果として自己破産し、会社も破綻する』と言うものであります。ただ、常に迫られてはいますが、目前の現実として迫られたことは、これまでで合計2回、そして今回が3回目であります。

お陰さまで、昨日、これからの半年間は最悪の事態は免れるであろう事が決まりました。夫婦ともに身も心も大変疲れましたが、何とか踏ん張り頑張ることが出来ましたのは、数人の無相庵読者様から頂いた暖かいお励ましがあったからであります。特に、遠いヨーロッパ在住の読者お一人様からのお励ましは、正に地獄で仏様の御心に触れた想いをさせて頂き、これから更に苦難に立ち向かう支えとさせて頂くことになりました。そして、仏様のお許しがあります限り、私と同じ様に苦難に立ち向かわれている世間の方々に仏法の存在を伝えて行く上で、私にしか出来ない役割を果たさせて頂こうと強く心に刻み込むことにもなりました。無相庵読者様と、その背景に居られる仏様に心から手を合わせております。

なお、私は自分が苦難の中にありますことをコラムに書くことは、読者様方にご心配をお掛け致しますし、お気を遣わすことにもなりますので、躊躇(ためら)いが無い訳ではありません。しかし、仏法が死者に手向けるものではなく、生きた人々のためのものである事を伝えたく、そして仏法が世間を生き抜く上でも役に立つ仏法でなければならないと考えていますので、敢えて、ほぼありのままを書かせて頂いております。「昔、こう言う苦難に遇い、苦労をしたが、仏法のお陰でこうして乗り越えることが出来ました」と言うご法話は沢山聞かせて頂いて参りましたが、私は過去形ではなく、そして、ひょっとしたら、行倒(ゆきだおれ)になるかも知れない状況の中で、仏法がどのように心の支えとして作用するのか、仏様がどのように働かれるのかを臨場感を持った形でお知らせしたいと言う想いで居ります。ご理解の程をお願い申し上げます。

追記:
コラムをアップした後に、山田無文老師の歌を思い出しましたので、この際に、書き記しておきたいと思います。その歌は、「大いなる ものに抱かれ ある事を 今朝吹く風の 涼しさに知る」と言う、無相庵カレンダーの28日目のお言葉(お言葉の部屋参照下さい)として掲載させて頂いている歌であります。このお歌は、山田無文老師が禅門に入られて少し経過された時、ご修行の厳しさからか、当時は死に至る病とされていた肺結核を患われ、お医者さんからも見放され、お寺の離れに隔離されて床に伏される毎日を過ごされていた時に詠まれた歌だそうであります。身も心も病みながら床に伏されていたそんなある朝、目覚められてから寝床の上で身を起こされて障子戸を開けられた時、一陣の涼風が当時は未だ青年であった山田無文老師の頬を撫でていったと言うことであります。その瞬間、「丙種不合格で戦争にも行けない役立たずで、世間からも医者からも見放されて孤独だと思っていたけれど、この空気や、お日様、お庭の木々や緑の大いなる自然、あらゆるものに抱かれて私は生かされているんだ」と気付かれ、そのご心境を詠われたものであります。

私も今は、私に近付いて来るのは、金融機関や税務署の集金係りか、多重債務者に引き入れようとするシステム金融業者や高利貸しの街金が99%でありまして、状況を知っている友人達や兄弟姉妹は、近寄っては来ません。そんな中、今回の読者様のお励ましは、山田無文老師が感じられた『一陣の涼風』であり、良いことにせよ、悪いと思われることにせよ、全ては仏様のお働きなんだと受け止めさせて頂くことが出来た次第であります。そう受け止めさせて頂いて、一つ一つ山を乗り越えて参りたいと存じております。


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