No.675  2007.2.15

人類の終わりを語ってもいい

2月6日(火曜日)に引き続き、今週2月13日(火曜日)の朝日新聞の夕刊第3面の『こころ』と言う特集に「現代仏教の可能性」と言うテーマでの秋田光彦氏【應典院(浄土宗)住職、1955年生まれ】と町田宗鳳氏(広島大学教授、比較宗教学者、1950年生まれ)の対談が、対話形式で連載されていました。

今日の表題『人類の終わりを語ってもいい』は、町田教授の少し物騒にも思える、しかし思い切り斬新な発言を朝日新聞が見出しにしていたのを拝借したのでありますが、私はその町田教授の根底にある仏教の捉え方は私の非常に共感を覚えるものでありましたので、引き続き、前回と同様お二人のお話の中から、特に印象深くまた強く共感した箇所を下記に転載させて頂く次第であります。

町田宗鳳氏:
宗教は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの一神教的な世界観と、神道や世界の民族宗教などの多神教的世界観に分けられます。が、仏教はそのどちらでもない。言うならば「無神教的」世界観です。無神論とは違います。神仏や尊いものを自己の外においてあがめるのではなく、自己の中に神仏が入り込む。その人の日常生活そのままが神仏の姿となる。それが仏教の理想です。これは華厳経に「事々無礙法界(じじむげほっかい)」として記されていることです。神や仏などの絶対的なものが消え、あらゆる事物や現象が礙(さまた)げ合うことなく平等に交流し融合して、調和の中で存在する世界。究極的な真実の世界です。 これを西田幾多郎の言葉で言えば、述語的論理の世界です。キリスト教などの一神教は主体的な自我を前面に打ち出す主語的論理の世界。絶対的な神が存在し、ときに不寛容になる。米国が力ずくで進めるグローバリズムもそう。これに対して述語的論理は絶対的なものが存在せず、多様性に富み、とらわれのない『空(くう)』の世界です。 この様な仏教の世界観が人類の主流になれば、紛争は減り、文明の共存が可能となる。仏教者はその自覚を持ち、世界へ発信する使命がある。

また、人類も個人の寿命も永遠ではない。むしろ人類に終わりがあるのは素晴らしいと思います。限られた時間の中で、いろんな気付きを頂き、本当に生き甲斐を味わって死ぬことに意味がある。一神教の終末論と異なるポジティブな意味合いで、仏教者が人類の終焉(しゅうえん)をもっと語ってもいいと思う。仏教は無神教だから、神にすらこだわりがない。人類は永遠ではない。残された時間が少ないかもしれない。その時間を如何に助け合い愛し合って、美しく生きていくか、それを私たちは声高に語ってもいいのでは。それがすさまじい勢いで進む地球環境の破壊などの問題の解決にもつながるのではないでしょうか。

秋田光彦氏:
日本の仏教界にも、社会にコミットしていく新しい宗教性が徐々に育っています。今後はますます、人口減少などにより、承継者のいない無縁の墓が増え、次第に葬式仏教も衰退していくでしょう。そうなれば寺の役割そのものが問い直される。寺と言う場所を生かしながら、地域のNPOなど市民と連携して、寺の社会的役割を打ち出していく必要があると思います。日本には7万数千の寺と約25万人の僧侶がいます。それぞれの寺と僧侶が公益的役割を果たせば、日本の仏教の可能性は大いにある。そのためにも、なぜ仏教なのかということを多くの人にきちんと伝える新しい言葉を、町田さんたちと作り上げていきたいと思います。

―以上で転載終わりです

『永遠不滅なものは有り得ない。全ては変化し続ける』と言うのがお釈迦様の発見された真理であります。この考え方の最も肝要なところは『全ては消滅するのではなく変化する』と言うことを忘れてはなりませんが、変化はかなり劇的なものとなる場合があります。それを、町田教授は、『人類の終わり』と表現されているのだと思います。しかし、人類は終わるけれどもゼロになる訳ではなく、私たちには想像すら出来ない地球の未来があるのだと思います。

地球の歴史を見ましても、地球に人類が誕生しましたのは、地球が生まれた46億年を一年に換算しますと、現在この瞬間は12月31日午後11時59分数十秒過ぎであると言うことは随分以前のコラムで申し上げました。兎に角、人類は地球の極めて極めて新参者だと言うことであります。でありますから、この地球を我が物顔に勝手気ままに振舞う事が許されるはずがありませんが、しかし、地球の隅々まで増殖(敢えてそう表現します)した人類は、宇宙の掟(真理)により、必ずや、滅びる(表現を変えれば)つまり劇的に変化すると言うことは誰も否定出来ないと思います。

それを町田教授は、個人もそうだけれども、人類も滅びるからこそ素晴らしいと言われているのだと思います。何が素晴らしいかと言いますと、その一瞬の命を大切に精一杯全(まっと)うするところに『真・善・美・聖(しんぜんびせい)』を感じる日本の心があるからだと思います。「散ればこそ、桜はいとどめでたけれ」と言う古来からの日本人の心そのものだと思います。

そう言う無限に広い、無限に大きな立場であられたのがお釈迦様の世界観・宇宙観だったと言うのが、町田教授のおっしゃりたかったことだと思います。そして、私が付け加えさせて頂けると致しましたら、親鸞聖人が晩年に至られたご心境『自然法爾(じねんほうに)』と言うお言葉も、私はお釈迦様と全く同じ世界観・宇宙観に根ざしたものだったのではないかと考えております。

町田教授のお考えと若干の相違点が一つあります。それは、『すさまじい勢いで進む地球環境の破壊などの問題の解決にもつながるのではないでしょうか』とおっしゃっている点であります。現在騒がれている地球温暖化などの地球の危機に付いてでありますが、私は、地球の極々最近の新参者が、少々常軌を逸した行為をして地球を痛めつけたとしても、そう簡単には地球と言う星は変化しないと思います。その反省は尊いとは思いますが、逆にその反省に立って人類がする努力で以って、地球の危機を救えると言う考え方こそ人類の思い上がりではないかと、私は思います。人類のたったここ100年間位の行為が地球に大きな害を与え、それを控えれば地球の危機を救える程、人類の存在が地球にとって大きな影響を与えるものであるとは思えないのです。 勿論、自然と共生・共存しなければならないことは自明の理ではありますが、その前に、人類はもっともっと自然に対して謙虚にならなければならないと思います。

さて、秋田氏のおっしゃるように、お寺は変わらねばならないと思います。変わって頂きたいと思っております。葬式・法事を司るのがお坊さんに期待されている本来の役割ではありません。人の死を縁として、その死を悼む人々に仏法を伝えると言うのが本来担うべき極めて重要な役割ではないかと期待しています。そう言う意味で、秋田氏のようなお坊様のご存在は、仏法興隆こそ日本を救う道であると考えている私には真に頼もしい限りであります。

お二人の今後のご活躍を心からお願いしたいと思います。


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No.674  2007.2.12

歎異抄に還って―第十一章―D

● まえがき
仏教には、「人間に生まれる確率は極めて小さいけれども、有り難い事に私はその人間に生まれさせて頂いた。そしてまた、更に有り難いことには、人間に生まれても仏法に遇うことは更に更に確率は低いけれども、その仏法にも遇うことが出来た」と言う仏法に遇えた有り難さを讃え、感謝する言葉があります。

仏法に興味の無い人に取りましては、独りよがりの言葉としか響かないものでありましょうが、私は、『仏法』と言うからそう思われるのであって、「この世の現象や事物、動植物の存在の訳を解き明かす真理」である『法則』をお釈迦様が明らかにされたから『仏法』と言うだけのことであると知れば、何人(なにびと)でも無関心では居られないと思います。

私自身、この世に生まれて仏法に出遇った、その縁に感謝しておりますし、仏法に出遇っていなければ、現在の苦境に立ち向かえなかったとも考えております。しかし、それでは、この歎異抄第十一章に唯円坊が示されている、誓願不思議を信じ、名号不思議を信じて、心の底から「南無阿弥陀仏」と称えられるかと申しますと、残念ながら、今現在は「そうではありません」と申すしかございません。

親鸞聖人も他力の信心を獲ることは「難中の難」と申されていますから、親鸞聖人の教えに傾倒して居られる方の中に、私と同じ状況の方も居られると思います。では、私のような疑い深く、驕慢で、怠け者はどうなるかと申しますと、阿弥陀仏は、このような者が沢山居ることを先刻ちゃ〜んとご存知で、真実の報土(お浄土)に直ぐには招き入れられないそうですが、大学受験の予備校的位置づけである、化土(仮の浄土)を用意して下さっていると言うことであります。 それが、今日勉強する箇所に示されています。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。

阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。

次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただ単に誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。

(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。

次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
親鸞聖人が提唱された『正定聚の位』と言うのは、『不退転の位』と云われ、信心が固まり、もう後戻りすることがない心境を云うのだと思いますが、化土に往く人は正定聚の位ではないのかどうか、私は不勉強で存じませんが、化土に往き、そして必ず真実の報土『お浄土』へ往く身でありますから、やはり、化土に往く者も、この世では往生が確定した『正定聚の位』に在りと言ってもよいのではないかと思います。この考え方には真宗学の学者さんたちから大クレームが続出すると思いますが、しかし、阿弥陀仏が本当にお救いになりたいと眼を掛けて居られるのは、罪悪深重の凡夫で、しかも、阿弥陀仏の誓願にも疑いを持ち、心の底から「南無阿弥陀仏」と称えられない、辺地・懈慢・疑城・胎宮の化土に往く身の私たち凡夫では無いかと、私は甘い考えをしています。

そう考えた方が、他力本願の教えがすっと心に収まるような気が致しますが・・・さて?


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No.673  2007.2.8

自己発見することが仏教体験

2月6日(火曜日)の朝日新聞の夕刊第3面の『こころ』と言う特集に、「現代仏教の可能性」と言うテーマで秋田光彦氏【應典院(浄土宗)住職、1955年生まれ】と町田宗鳳氏(広島大学教授、比較宗教学者、1950年生まれ)が語り合った記事が対話形式で掲載されていました。お二人ともに私よりも10歳下と5歳下の方々でありますが、私はこのお二人の存在にこそ現代仏教の可能性≠信じることが出来、本コラムで紹介したいと考えた次第であります。
先ずは、お二人のお話の中から、特に印象深くまた強く共感した箇所を下記に転載させて頂きます。

秋田光彦氏:
私が追い求めているのは、関係としての仏教です。それはこれまでの布教や教化とは違うということです。布教とか教化とかには、ある正解に向けて、言葉を動員して人々を教え導くという権威的な趣がある。それでは、人々が共に働く「協働」に結び付かない。私たち僧侶は、あなたの中にある仏性とは何か、自分とは何かを知るにはどんな気付きが必要なのかといった問いを絶えず投げ掛け、後は相手の自発性を待つ。主人公は経典でもなくお坊さんでもなく、その人自身。それぞれの人の心の中に等しく気付きはあるはず。僧侶は教え導くのではなく、相手の思いや願いを受け止め、親しい関係を築いてゆくことこそ大切だと思います。

町田宗鳳氏:
仏教とは要するに自己発見です。経典や修行の中に仏教があるのではない。そんな思い込みはたたき壊した方がいい。ほんとは、坐禅や荒行のような修行はしなくていいんです。修行の場は日常生活のこの今、刻々にある。今どう人と向き合うのか、どう仕事に打ち込むのか、日々の真剣勝負の中に仏教との出合いがあるんです。
―以上で転載終わりです

表現に多少の違いはありますが、お二人ともに「経典の中に仏教があるのではない」と言うことをおっしゃっておられます。私なりに表現させて頂きますならば、「経典は飽くまでも参考書」であります。それをお釈迦様は、2500年前に「自灯明・法灯明」と言う教えとして説かれ、「私を頼りとしたり、私が説いた言葉を頼りにしてはいけないよ。自分自身の心を見詰め、自分を照らす法に気付いて、その法を頼りとしなさい」と言う意味のことをおっしゃったのだと思います。やはり、主人公は自分でなければならないと云うことでありましょう。

今、月曜コラムで、歎異抄を勉強しておりますが、歎異抄は極めて大切な書物ではありますが、歎異抄にのみ、或いは、歎異抄に書かれた一つ一つの言葉に依りすがってのみ、人生を生きてはならないと思います。そして、親鸞聖人信奉者の中には、「歎異抄は親鸞聖人が書かれたものではないので、必ずしも全てが親鸞聖人の教えではない。教行信証こそが親鸞聖人の教えなのだ」とおっしゃる方も多いのでありますが、これは経典を主人公にした考えであり、上述のお二人や私とは立場が異なるものだと思っております。

書物も法話も経典すらも、飽くまでも参考書であります。私のこの無相庵コラムも、常々申し上げておりますが、私自身が日常生活を送りながら仏法に問いかけ・問いかけして生きている様子を実況放送的にお知らせしているものでありまして、飽くまでも水先案内の積りで書かせて頂いております。敢えて申しますならば、この無相庵ホームペジそのものは参考書のまたその参考書と言うべきものだと思っております。

そして、以前のコラムで「無相庵の宗教上の立場について」でも申し述べましたが、経典の中にある言葉を根拠に論争するところには本当の仏教はないと私は思っています。そして、飽くまでも自分の心の中に問いかけながら生きていきたいものだと思っております。そう言う面から、前述のお二人の仏教の捉え方に共感するものであり、お二人にますます頑張って頂きたいと思うばかりであります。


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No.672  2007.2.5

歎異抄に還って―第十一章―C

● まえがき
世間一般に「他力本願ではいけない」と云う風に使われている言葉が浄土門が説く本来のものとは異なると言われています。『他力本願ではいけない』と云うのは、「他の力を当てにせず、自分で努力しないといけない」と云う意味であり、浄土門の説くところとの違いは何かと考察してみますと、『本願』と云う熟語の使い方を全く取り違えているのであって、『他力』はやはり浄土門でも『他の力』ではないかと私は考えております。

『本願』は私たちの願いではなく、私たち衆生を救い取りたいと言う強くそして遍く働いている願いが『本願』であり、仏様側の願いであるところが異なる点でありますが、『他力』は仏様の働きを指すものであり、やはり『自分の力ではない力、すなわち他の力』であろうと私は思います。妙好人(学問的教養は無いものの、宗教的感性に優れ、信心が徹底した浄土真宗の信者のこと)の中でも特に有名な浅原才市翁は、『他力には自力も他力もなし、ただ一面の他力なり』と仰られたそうてありますが(鈴木大拙師のご紹介)、「自力というのも他力が働いた中での自力」と言う捉え方であろうと思います。

このように『他力本願』と言う言葉は、非常に難しい意味を含んでいるものであり、一般の方々にもなかなか理解し難いものであろうと思いますが、私たち親鸞聖人の教えをよく聞いたものでも、上述のように頭では理解し説明出来ましても、結局は分かっていないと言うのが本当のところであります。むしろ、自分は本当のところが分かり得ない凡夫である事に気付かされることこそが、他力本願に身を委ねる信心の行者と言えるのかも知れません。

今日勉強する部分は、他力本願の根本的なところを解かれているところであり、一般の方々にはかなり難解であろうと思います。善行を積んで往生を望むことも、また、罪深い自分だから往生出来ないと思うことも他力に身を委ねたこととはならない、と唯円坊は書き記されています。つまりこれ全て凡夫の計らいであり、阿弥陀仏の誓願の大いなる働きを信じていないし、また南無阿弥陀仏の有り難さをも信じていないことになると言う訳であります。

私も思わず、「では、どうすればいいの?」と聞きたくなってしまいます。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。

阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。

次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただ単に誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。

(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。

次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
まえがきで、『善行を積んで往生を望むことも、また、罪深い自分だから往生出来ないと思うことも他力に身を委ねたこととはならない』と言う唯円坊の言葉に言及致しましたが、この意味は、「自己愛から出発した念仏も善行も、他力に身を委ねた人の行いではないし、罪深い自分だから往生出来ないと思うのは、自分の尺度で往生というものを思量しており、これも他力に身を委ねたことにはなっていない」と言うことではないかと思います。ただしかし、そうなりますと自己愛とか我執を捨てろと言うことになり、その為の努力は自力聖道門の努力となり、他力浄土門の道から外れることになります。

他力の道を歩みますと殆どの場合この堂々巡りに陥り、且つなかなか此処から抜け出せなくて、何か吹っ切れない居心地の悪さの中で悶々としてしまいます。私自身が今もこの状況にありますことは、素直に「南無阿弥陀仏」が口に出ないことで分かります。おそらく親鸞聖人も、葛藤されたところだと思われますが、ここで自分を騙し或いは適当に妥協して「南無阿弥陀仏」と殊勝気に念仏することは私には出来ません。

原文に『このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。』とございますが、私が正に、このひと≠ノ当ります。このひと≠フ辿る道に付いての勉強は次回のものとなります。


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No.671  2007.2.1

地獄で仏に出遇う

世間一般に「地獄で仏」とか、或いは「地獄で仏に会う」と言う言葉が使われます。

辞典では、『苦難や苦しみの時に、予想もしない助けにあった嬉しさを表す言葉。「地獄で仏に会ったよう」の略であり、地獄に堕ちて苦しめられている時に、救って下さる仏様に会い、嬉しいと言うことを由来とする』と説明されていますが、前回の木曜コラムで、私は今現在苦境にある事をお伝えさせて頂きましたが、切羽詰った状況下にあったこの一週間の間に、私自身が正に『地獄で仏に会う』経験をさせて頂きましたので、ここに書き記しておきたいと思いました。

そして、勉強したことは、『地獄だからこそ、仏様に出遇えたのだなぁー』と言うことであります。その意味合いは、「私達は順境の時でありましても、逆境の時にありましても、常に仏様に出遇っているのに、本当に苦しい地獄のような思いをしないと仏様の心に気付かないのだろうな」と言うことであります。

私のこの一週間の苦境は、ここ7年間常に迫られているものでありまして、『住んでいる家を差し押さえられ、結果として立ち退かされ、そのまた結果として自己破産し、会社も破綻する』と言うものであります。ただ、常に迫られてはいますが、目前の現実として迫られたことは、これまでで合計2回、そして今回が3回目であります。

お陰さまで、昨日、これからの半年間は最悪の事態は免れるであろう事が決まりました。夫婦ともに身も心も大変疲れましたが、何とか踏ん張り頑張ることが出来ましたのは、数人の無相庵読者様から頂いた暖かいお励ましがあったからであります。特に、遠いヨーロッパ在住の読者お一人様からのお励ましは、正に地獄で仏様の御心に触れた想いをさせて頂き、これから更に苦難に立ち向かう支えとさせて頂くことになりました。そして、仏様のお許しがあります限り、私と同じ様に苦難に立ち向かわれている世間の方々に仏法の存在を伝えて行く上で、私にしか出来ない役割を果たさせて頂こうと強く心に刻み込むことにもなりました。無相庵読者様と、その背景に居られる仏様に心から手を合わせております。

なお、私は自分が苦難の中にありますことをコラムに書くことは、読者様方にご心配をお掛け致しますし、お気を遣わすことにもなりますので、躊躇(ためら)いが無い訳ではありません。しかし、仏法が死者に手向けるものではなく、生きた人々のためのものである事を伝えたく、そして仏法が世間を生き抜く上でも役に立つ仏法でなければならないと考えていますので、敢えて、ほぼありのままを書かせて頂いております。「昔、こう言う苦難に遇い、苦労をしたが、仏法のお陰でこうして乗り越えることが出来ました」と言うご法話は沢山聞かせて頂いて参りましたが、私は過去形ではなく、そして、ひょっとしたら、行倒(ゆきだおれ)になるかも知れない状況の中で、仏法がどのように心の支えとして作用するのか、仏様がどのように働かれるのかを臨場感を持った形でお知らせしたいと言う想いで居ります。ご理解の程をお願い申し上げます。

追記:
コラムをアップした後に、山田無文老師の歌を思い出しましたので、この際に、書き記しておきたいと思います。その歌は、「大いなる ものに抱かれ ある事を 今朝吹く風の 涼しさに知る」と言う、無相庵カレンダーの28日目のお言葉(お言葉の部屋参照下さい)として掲載させて頂いている歌であります。このお歌は、山田無文老師が禅門に入られて少し経過された時、ご修行の厳しさからか、当時は死に至る病とされていた肺結核を患われ、お医者さんからも見放され、お寺の離れに隔離されて床に伏される毎日を過ごされていた時に詠まれた歌だそうであります。身も心も病みながら床に伏されていたそんなある朝、目覚められてから寝床の上で身を起こされて障子戸を開けられた時、一陣の涼風が当時は未だ青年であった山田無文老師の頬を撫でていったと言うことであります。その瞬間、「丙種不合格で戦争にも行けない役立たずで、世間からも医者からも見放されて孤独だと思っていたけれど、この空気や、お日様、お庭の木々や緑の大いなる自然、あらゆるものに抱かれて私は生かされているんだ」と気付かれ、そのご心境を詠われたものであります。

私も今は、私に近付いて来るのは、金融機関や税務署の集金係りか、多重債務者に引き入れようとするシステム金融業者や高利貸しの街金が99%でありまして、状況を知っている友人達や兄弟姉妹は、近寄っては来ません。そんな中、今回の読者様のお励ましは、山田無文老師が感じられた『一陣の涼風』であり、良いことにせよ、悪いと思われることにせよ、全ては仏様のお働きなんだと受け止めさせて頂くことが出来た次第であります。そう受け止めさせて頂いて、一つ一つ山を乗り越えて参りたいと存じております。


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No.670  2007.1.29

歎異抄に還ってー第十一章ーB

● まえがき
現在の日本には、「私は無神論者です」とか、「私は宗教なんかには頼らない」とか、「私は無信心で・・・」と言われる方が多いように思われます。特に知識階級と言われる高学歴の方々に顕著ではないかと思いますが、その様な方々が仏法に関心を持たれた場合には、殆どが坐禅の禅宗の門を叩かれ、念仏の浄土門を叩かれることは極めて稀であります。それは、日本の浄土門が「浄土往生には学問・知識は必要なし」、「愚者になりて往生す」と云う法然上人・親鸞聖人の教えを出発点としているところにあると云うことと、もう一つは、お念仏は所詮、人が考え出した『お呪(まじな)い』であり、「念仏を称えるだけで救われる」と言うのは非科学的であり、あまりにも幼稚な教えであると受け取られているからではないかと推察しております。

私は『常念仏(じょうねんぶつ)』の母の下で育ったのでありますが、私も、もの心ついてから50歳を過ぎるまでの40年間はお念仏が口をついて出ることはありませんでしたし、むしろ無理して称える念仏に抵抗感を抱いていたくらいであります。そして今も、わざわざ人前で念仏を称えることは控えたく思っているところです。

ただ、今は念仏(この章では名号と云われています)が単なる『お呪い』とは思わないようにはなりました。この章で『・・・やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて・・・』と言う文言がございますが、誰が案じ出だしたかと言いますと、私たちには計り知ることが出来ない大きな力=A即ち、仏法を世に説かれたお釈迦様をこの世に送り出した大きな働き≠ェ、名号(南無阿弥陀仏)をも生み出したと受け取れるようになったからであります。従いまして、禅宗の門を叩かれた方々が勤しまれる『坐禅』もやはり大きな働き≠ノよって与えられたものであると受け取れるのであります。

浄土門では、その大きな働き≠『阿弥陀仏』とお呼びし、『南無阿弥陀仏』とも申すのだと、私は考えております。少々理屈っぽくなってしまいましたが、私が為し得る精一杯の理論的説明をさせて頂きますと、こうなってしまいました。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。

阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。

次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただに誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。

(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。

次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
誓願と名号の関係に付きましては、上記転載させて頂いているお二方のご解釈で尽くされていると存じますが、誓願は私たちに働く力、即ち法そのものであり、名号は、それが相(私たちに見える形)となって現れたものでありますから、どちらか一方だけで事足れりとはなり得ないと云うことだと私は領解しております。

この誓願と名号の関係は、よくたとえ話として出される『万有引力(ばんゆういんりょく)』と林檎が落ちる現象の関係であると思います。万有引力は宇宙全体に働いているのだと思いますが、私達には見えません。しかし、その見えない力は、林檎が熟して木から落ちる現象になって私たちに見える形になって示されている訳でありまして、これと同じく誓願も名号やお釈迦様として顕わされて初めて私たちは誓願を感じ取れるのであります。

前述致しましたように、何もお名号だけには限りません。坐禅という心と体を整える古来から伝わる禅門の修行の方法も、私たちを救いたいという誓願(法)が形となって顕れたもので、念仏と共に、どちらも法が形となって私たちに示されたものであると、受け取りたいものであります。

このように考えますと、私たちが経験するあらゆる現象も、辛い経験も喜ばしい体験も、誓願が顕れたものであると受け取ることが出来ます。そして、それを浄土門では、「南無阿弥陀仏」と受け取って行こうと云うことだと思います。
先週の木曜コラムの内容は皆様にご心配をお掛けする事になってしまいましたが、誓願は様々な形、相になって私たちの目の前に現出されると思い、この度の厳しい苦難も、それは誓願の顕れと受け取り、踏ん張りながら、そして色々なお力もお借りしながら、乗り越えて行かねばならないと思っております。


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No.669  2007.1.25

苦難に処する心構え

私の経済的危機は、この無相庵ホームページを立ち上げた一週間後、コラムを書き始めた2000年7月13日の翌日からスタートしました。それから約7年の歳月になります。このコラムでも何回か窮状をお知らせしたことがありますが、未だに事態には変化なく、まさに綱渡りの経済生活が今も続いております。ここ最近は敢えてそのことに触れずに参りましたが、何か一つの条件が欠落すれば、即破綻と言う状況にあることは変わっていません。

今年は、正月の三ヶ日が明けてから、久し振りに憂慮すべき案件が重なり、いわゆる苦難に遭遇しています。人生には一つだけではなく、人それぞれに一つ以上の苦悩を抱えるのが普通だと思います。そして、朝起きた時、一番重たい苦悩が頭に浮かぶものです。

「成るようにしかならない」と思いつつも、あれやこれやと苦難から逃れる抜け道を求めてしまいます。私の場合の一番の苦悩は、会社と個人の経済問題です。今日は切羽詰まった大事な交渉事がありますが、私は「お金に窮した時にしか学べない世間の仕組みを問題点と共に習熟しておこう」と言う事と、「世の中に退場を迫られたら、いや、退場を迫られるような私の状況である事が明確になったら潔く退場しよう」と言う二つの開き直りの心で交渉に臨みます。

もし、しばらくは退場が免れることが判明致しましたならば、少し詳細に、私が学んだことを公開させて頂こうと考えております。 勿論、無相庵は、退場するまでは続ける積りでおります。


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No.668  2007.1.22

歎異抄に還って―第十一章―A

● まえがき
この章に出て来ている「誓願不思議」と「名号不思議」と言う言葉は、一般の方々にすっと@揄出来るものではないと思います。 先ず、「不思議」と言う言葉は、現代の私たちが「不思議なこともあるものだ」と言う風に使うニュアンスとは若干異なるものである事を知って頂きたいと思います。「不思議」と言うよりも「不可思議(ふかしぎ)」と言う方が本来の「考えが及ばない」と言うニュアンスに近付くと思いますが、「不思議」を分析的に表現するとしましたら「人間の知識・智慧・知性を超えたもの」と言う事になると思います。

そして、「誓願」は「本願」と言い換えてもよく、この世の苦しみから私たち衆生を救い取るまでは仏(阿弥陀仏)にはならないと云う法蔵菩薩の願いであり誓いである≠ニ浄土門では説かれています。ただ、法蔵菩薩と言うのは実在した菩薩ではなく、宇宙の働きを擬人化した表現ではなかろうかと、私は勝手な解釈をしておりますが、この世で苦しむ私たち衆生を何とかして救い取ろうと云う「誓願」があればこそ、2500年前にお釈迦様がお出になられ、親鸞聖人やその他の祖師方もこの世にお出ましになられたのだと説明されますと、私は素直に納得出来ます。従いまして、「誓願不思議」とは、「私たち衆生を救おうとする人智を超えたお働き」と現代訳出来るかと思います。

そして「名号不思議」は、名号は「南無阿弥陀仏」のお念仏ですが、一般の方々の中には、「南無阿弥陀仏も、所詮は人間が考え出したものであるから不思議でも何でも無いだろう」と考える人も居ると思います。私も若い頃にはそう考えた事もございますが、今では、人間が考え出したことには間違いありませんけれども、人間に「南無阿弥陀仏」を考え出さしめる働きがあったからだと考えるようになりました。

従いまして、「誓願」は、この世で苦しみ悩む私たち衆生を助けようとする働きであり、「名号」は、その誓願が具体的な形となって現れたものだと解釈出来るのではないかと思います。こう受け取りますと、「誓願」と「名号」を分けて考えること自体、理屈的にもおかしいのではないかと思いますが、何時の時代でも、先ず誓願を信じることが大前提であり、お念仏を称える称えないは夫々の気持ち次第で良いのではないかと考える人もあり、いやいや、あれやこれやと計らわずただ念仏すればそれで救われるのだと主張する人もあると云うことではないかと思います。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。
誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。
阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただに誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。
(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。 次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
歎異抄第一章に、「弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」とありますように、誓願不思議を信じて且つ念仏を申そうと思い立たねば、本当には救われないと言うことでありますから、どちらか片一方だけでは、信心は不確かだと云うことだと思います。

私自身はどうかと言いますと、正直なところ、未だ自然にお念仏が称えられる身とはなっておりませんので、誓願を信じる気持ちも不確かなのだと思いますが、親鸞聖人の教えのお蔭で、今何とか 人生の諸問題に立ち向かえているのだと思っております。

最近になりまして今流行のmixiに参加し、親鸞聖人ファンの方々とメッセージのやり取りをさせて頂いておりますが、感銘を受けることが多々ございます。ご興味がお有りでしたら、mixiへの招待者とならせて頂きますので、ご遠慮なく、ご連絡下さい。お待ちしております。


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No.667  2007.1.18

人生は無常なり

「人生は無常なり」とお聞きになって、「人生は楽しい」と言うニュアンスで受け取られた方は多分居ないと思います。何故でしょうね。おそらく、平家物語の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」と言う冒頭の句が思い浮かぶからかも知れません。この冒頭の句には「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」と続き、「平家に非ずんば人に非ず」と言う程に奢(おご)り栄えた平家の没落を詠っているわけでありますから、もの悲しさを感じて当たり前であり、その中に含まれている『無常』と言う熟語は、「無情」と同じ読みであるだけに、『無常=淋しく冷たく悲しいこと』と受け取られても致し方ございません。

本当のところ、『無常』は「常では無い」、つまり「変化し続ける」と言う意味であり、『諸行無常(しょぎょうむじょう)』は、「すべての現象も存在も変化し続けるものである」と言う仏教の代表的な教訓(教義)であります(『諸法無我』と『涅槃寂静』と共に、仏法の三法印つまり仏教である印とされる教義です)。

全ては変化致しますからこそ、私たちはこの世に生まれ、そして死んで行きます。実際、私の体も刻々と変化しており、いつの間にか60歳を越えた老人の体になり、試しに手の甲を指で摘まんで放して表皮の戻り具合を確めてみますと、若い頃は瞬時に戻っていたものでしたが、今は、ジワァーとしか戻りません。この地球上に存在するもので変化しないものは何一つありません。変化しないように見えるものがあるとしたら、それはただ変化するスピードが万年単位・億年単位で遅いと言うだけでありましょう。

無常だから私たちは子供から成人になり、無常だから子供の頃は知らなかった相手と結婚をし、無常だから赤ちゃんが生まれます。日本人は何時しか、目出度いことを無常と受け取らず、老いるとか、病気になるとか、死ぬとかと云った不幸と思われる変化を無常と受け取ってしまうように教育されたようであります。従って、『諸行無常』を説く仏教は、どうしてもマイナス思考のイメージが強く、前途のある若者には敬遠されてしまうのではないでしょうか・・・。

しかし考えて見ますと、仏法にはマイナスイメージとして受け取られる『一切皆苦(いっさいかいく)』と言う教訓(教義)もあります(一切皆苦を前出の三法印に加えて仏教の四法印と申します)。「全ては変化するから、煩悩を持つ凡夫には一切が苦と感じられる」と言うことではないかと思いますが、この考え方は、結婚は目出度い、赤ちゃんの誕生も目出度い、しかし、これら目出度いことも、結局は変化して行き、煩悩具足の凡夫にとりましては何れは目出度くなくなり、不幸に転じることさえ少なくないからでありましょう。だからお釈迦様は、苦を認識せよ、そして苦の原因が自分の煩悩にある事に目覚めよ、そしてその煩悩の炎を吹き消せば、安らぎの悟りの世界に身を置くことが出来るのだと説かれたのだと思います。

少し理屈っぽくなりますが、「変化するから苦」ではなく、「私たちに煩悩があるから変化を苦と感じてしまう」と言う事ではないかと私は考察しています。そして、変化するからこそ、この人生は退屈しないのではないか、変化の無い世界(常の世界)をもし極楽浄土と言うならば、極楽浄土はなんと退屈なところではないか、そんなところならば参りたくはない、このまま穢土(えど、汚れた世界)と言われるこの世の方が良いと思ってしまいます。そして、肉体が滅びた後(死んだ後)は新しい体を貰ってまたこの地球上に生まれたいと思ってしまいます。

世親(天神菩薩)の『浄土論』も曇鸞大師の『浄土論註』も読んでおりませんので、浄土門の定義する浄土と私が頭に描く浄土とは異なるものと思いますが、眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんい)と言う感覚と意識を与えて頂いたお陰で、私はこの地球上で様々な変化を感じることが出来るのではないか、ひょっとしたら、今このままが、この地球上が極楽浄土なのかも知れないなどと思ったりしているところです。

私は煩悩を何一つ欠けることなく抱えておりますから、苦難は次から次に襲って参ります。決して「あヽこの世は幸せ、幸せ」と言って暮らして居る訳ではありません。困窮する事の多い老後ではあります。しかし、天与の感覚で感じることが出来るアラユル変化を老後の退屈しのぎ位に考えて、この苦難を乗り越えてやろうではないかと、開き直っているところであります。

自殺したいと思う程の苦難に遭遇していないから開き直れるのかも知れませんが、もし私が、自分が抱えている苦難ばかり(老、病、借金、人間関係)に意識を向けて生活するならば、おそらく死を選んでしまうのではないかと思います。それを補って余りある家族の支えと、仏法との縁、数少ないけれども心を通わせる友人・知人の存在、そして何とか生活をさせて頂けている世の中の仕組み(社会保障制度など)があってこそ、私は今、こうしてコラムを書くことが出来ていると思うのです。どのような人にも、五分五分の苦と楽が与えられているのではないか、それをバランスよく受け取れば、苦もあり楽もある人生であり、苦だけの人生は有り得ないし、楽だけの人生も有り得ないと言うことではないかと考えている次第であります。


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No.666  2007.1.15

歎異抄に還って―第十一章―@

● まえがき
さて、異議に関する(異なるを歎く章の)第一番目の第十一章に入ります。 この章の最初の『一文不通(いちもんふつう)』と言う言葉は第十二章にも出て参りますが、読み書きが出来ないと言うことであります。約800年前の当時は小学校も無く、恐らく一般庶民は読み書きの出来ない人が殆どだったと思われますが、その様な在家(ざいけ、修行僧ではない者)の一般庶民が救われなければならない教えが本来の大乗仏教であるとして、貴族仏教を庶民の仏教に改革したのが鎌倉仏教(曹洞宗、日蓮宗も含めて)であり、その中の一つが法然上人と親鸞聖人の浄土門であると言ってもよいでしょう(特に親鸞聖人は、庶民に特化して教えを広められた最初の方ではないかと思われます)。

有名な宇治の平等院は、親鸞聖人がお生まれになる120年前、栄華を極めた貴族の藤原氏が極楽浄土をこの世に出現させたお寺であり、庶民にとっては羨望の的であったようでありますが、庶民は勿論見せて貰えるはずがありません。戦乱や大きな飢饉が続く中、学問もお金も無く、この世に失望するしか無かった一般庶民にとりましては、極楽浄土は憧れの地では無かったかと思われます。 このような当時の一般庶民を思い描きながら、この章を読み解きたいと思います。

先ずは、いつもと同様、原文とお二方の現代訳全体をお読み頂きたいと存じます。

●第十一章原文
一文不通(いちもんふつう、文字が読めない、学問を修めていない)のともがらの念仏まふすにあふて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏まふすか、また名号不思議を信ずるか、といひおどろかして、ふたつの不思議の子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、かへすがへすもこころをとどめておもひわくべきことなり。誓願の不思議によりて、やすくたもちとなへやすき名号を案じいだしたまひて、この名号をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまひらせて生死をいづべしと信じて、念仏まふさるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは、誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議ひとつにしてさらにことなることなきなり。つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪の二つにつきて往生のたすけさはり二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まふすところの念仏をも自行になすなり。このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地(へんち)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願ゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これはすなはち誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。

● 白井成允師の現代訳
文字をも知らぬ人々が念仏申しているのに会いて、汝は阿弥陀仏の誓願の不思議を信じて念仏申しているのか、南無阿弥陀仏の名号の不思議を信じて念仏しているのか、などと云い驚かせて、これら誓願と名号との二つの不思議の意味を明らかに説かずにいて、念仏申す人々の心を惑わす者がいる。この条よくよく心をとどめて思い明らめねばならぬことである。阿弥陀仏は、十方の衆生をもれなく救おうという誓願の不思議によりて、保ち易く称え易い南無阿弥陀仏の名号を考え出だしたもうて、この名号を称える者を浄土へ迎えとろうと私共にお約束下されたのであるから、このお約束を聞いた上には、まず、弥陀仏の大悲から起こされた不思議な誓願に救われ申して生死の境から離れるのだ、と信じて、私のような者がこうして念仏申すことの出来るのも全く如来の御はからいによるのだ、と思うばかりである。この思いの中には少しも自分のはからいが混じらないから、ただ阿弥陀仏の本願を素直に戴いており、仏の思し召し通りになっておるのであるから、そのまま真実の報土に往き生まれるのである。これは誓願の不思議をそのまま信じ奉るときには、その信心の中に名号の不思議も欠けるところなく具わっているのであり、誓願の不思議といい名号の不思議というも同じひとつことであって、いささかも別のものではないのである。
次に、自分のはからいをまじえて、自分が善を修めれば往生の助けになり、自分が悪しき振る舞いをすれば往生のさわりになると思っている者があるが、これは如来の誓願の不思議に頼ることをしないで、浄土に往生する業を自分の心の中に励み修めるものであり、従っていくら念仏申しても、その念仏をばことごとく自分の修めねばならぬ行を修めることとして申しているのであって、ここに南無阿弥陀仏の名号は、もはや如来から恵み賜った徳であることが全く忘れられてしまっているのである。かくの如く念仏を以て自分の修める善と考える者は、いかほど名号を称えていてもただに誓願の不思議を信じないばかりではなく、また名号の不思議な徳をも信じない者である。かく名号の不思議な徳を信じない身でありながらも、なおかつ申すところの念仏に引かれて辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往き生まれて、如来の果遂の願のおかげで遂に報土に生まれるのであるが、これはまことに名号不思議の力によるのである。而してこの名号の不思議の力によるということがすべてそのまま弥陀仏の誓願不思議によることなのであるから、名号誓願の二つの不思議はこれ別々のことなのではなくして全く同一のことなのである。

● 高史明師の現代語意訳
文字一つ知らないお仲間が、念仏を称えているところに行き合わして、「おまえは、誓願不思議を信じて念仏を称えているのか、それとも名号不思議を信じて、称えているのか」と、言い驚かせして、二つの不思議の詳しいいわれを、はっきりとわかりやすく説き明かさないで、他人を惑わすということ、このようなことは、繰り返し思い返して、心をとどめ、はっきりと考え直させてよいことであります。(煩悩の深い者、貧しくて力のない者を、ことに憐れみ下さっているのが、阿弥陀仏の誓願であります。)この誓願不思議によって、保ち易く、称え易い名号を、お考え下されて、南無阿弥陀仏の六字の名号を称える者を、阿弥陀仏の国に迎え取らんと、約束して下さっていることでありますれば、まず阿弥陀仏の大きな大きな大悲大願の不思議に、お助けいただいて、生死の迷界を出ずべしの信心を賜り、念仏の称えられるのも、阿弥陀如来のお考えによる恵みであると思えば、少しも自らの計らいが入り混じることがありませんので、阿弥陀仏の根本に相かなって、真実の報土に往生できるのであります。誓願の不思議が、ことの中心であると信じ奉れば、名号の不思議もまた、十分に備わり定まってくるのであります。誓願・名号の不思議は(阿弥陀仏の智慧は)一つにして、さらに異なることがないからであります。
次に自らの思いや計算を、ひそかに心に抱いて、善と悪の二つにかかわって思う、善は往生の助けとなり、悪はさわりとなると思う、この二つのあり様であります。このようなあり様の方は、誓願の不思議をたのみとせずして、わがこころを中心に往生のための業に励んでいるのでありますから、その称えるところの念仏もまた、わがこころがけで称える自分の行にしてしまうものであります。このような方は、名号の不思議もまた、信じていないのであります。(だが、このような方もまた、救いの道はもうけられているのであります。阿弥陀仏は、かねてより、真実の信心をうる人は決して多くないことを、見透しておられまして、疑惑に惑う人々のために、第二十願による救いを約束されているのであります。それはたとえ自分中心の念仏者であっても、往生を願う者はすべて、そのあり様に応じて、死後に真実の浄土の周辺にもうけられた辺地という名の仮の浄土、なまけ者や慢心の人がおかれる懈慢界、疑惑の人々がおかれる疑城、そして仏智を疑うが故に光明を見ることのできない暗い世界である胎宮に、しばらくの期間とどめおかれ、疑いが晴れるのを待って、真実の浄土にお迎え下さるという約束であります。しかも、阿弥陀仏は、その願いをめぐって、それが果たし遂げられないなら、御自身もまた、仏とはなるまいと誓われているのであります。それ故、この願いは「果遂(かすい)の願」と言われております。)従って、名号不思議を信じない方であっても、念仏を称えている人は、辺地・懈慢・疑城・胎宮の世界に、一時留め置かれた後、果遂の願の故に、ついには真実の浄土に生まれさせていただけるのであります。これは名号不思議の力の現れであります。それがまた、そのまま誓願不思議の働きでありますれば、誓願不思議と名号不思議は、ただ一つなのであります。

●あとがき
第十一章は、第一章の親鸞聖人の教えを基準として異なっているではないかと言うのが唯円坊の主張でありますので、第一章を復習して頂き、そしてもう一度第十一章を読み返して頂けば、唯円坊の心がよく理解出来ると思います。

現代の一般の方々は、『浄土真宗=南無阿弥陀仏の念仏』と言う位に広く認識されていると思います。そして、恐らくは、南無阿弥陀仏は、キリスト教の神様への祈りと共に有る『アーメン』や、神社で柏手(かしわで)を打つ行為と同じであり、仏壇の前で仏様に何かをお願いしたり懺悔する時の呪文(じゅもん)であったり、葬式や法事或いは墓前で死者の安寧を願う際のお呪(まじな)いであると認識されているのではないでしょうか。

これまで歎異抄をご一緒に勉強して来られた方々は、念仏がその様なものではない事はお分かり頂いているものと存じますが、あらためまして、この章でお互いに確認しておきたいと思います。お互いにと申しますのは、私も未だ念仏が自然に口をついて出るには至っていないからであります。私の母は、日常生活の中で小さな声ではありましたが、度々「ナマンダブ、ナマンダフ」と称えておりました。いわゆる『常念仏(じょうねんぶつ)の仏法者』でありましたが、私は、人前でお念仏を称えるのは何となく気恥ずかしくあります。むしろ、人前でわざわざ大きな声で念仏を称える事を厭いたい立場であります。これを他力本願の教えでは『はからい』と言うのでありましょうが、それが私の正直な信心の姿でありますので、異なるを歎かれているのは私であると云う認識で、学んで参りたいと思っております。


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No.665  2007.1.11

自灯明・法灯明

お釈迦さま、最後の御説法の一つに「自灯明、法灯明」があります。これはパーリ語の経典『大パリニッバーナ経』の中にあり、中村元訳「ブッダ最後の旅」と言う現代訳から引用致しますと、「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」となっております。「島=大海の中でのよりどころ」、頼りとするものと言う事から、「島」を「灯明」に言い換えられて、『自灯明・法灯明』と言う教えとして簡略化されたものと思われます。

この教えは、お弟子さまの一人(アーナンダ)が、「お釈迦様が亡くなられたらわたしたちは何を拠り所として生きていったらいいのでしょうか」と問いかけられたことに対する釈尊のお答えでありますが、最も注目すべきは、お釈迦様が「私の説いた仏法を依り処にせよ」とは言われなかった事だと思います。飽くまでも『法』を頼りとせよと言うことであり、その『法』とは時代が変わっても、場所が変わっても不変であり、普遍である『真理』の事だと受け取るべきでありましょう。そして、「真理は、自分の心を追究することに依って真理を追究せよ、そして、その真理に照らされた自分を頼りとして、決して他人を頼るな、私(釈尊)をも頼りとしてはならない」と言う事ではないかと思います。

この教えは仏教の科学性を象徴しており、他の宗教と明らかに異なるところであり、私は最も大切にしたいと思っておりますし、仏法を依り処としようとしている皆様にも是非忘れないで欲しい教えであります。 自分を離れたところに仏法は無いと言うことであります。常に自分の心を見詰め、自分の心を通して真理を求めて行かねばならないと言うことであります。

現在、月曜コラムで歎異抄を勉強している最中でありますが、歎異抄は親鸞聖人の教えを知る上での大切な書物ではありますが、歎異抄自体を、即ち、歎異抄の一言一言や一字一字を頼りにして、その解釈に汲々とするだけで終わってはならないと言うことであります。月を真理に喩えますと、歎異抄は月を差す指であり、その指先を見るのではなく、大切なのは月そのものを見なければ月の美しさを感じられないと言うことであります。歎異抄を参考書として、我が心の真実と対面しなければならないと思っております。

それが、お釈迦様の『自灯明・法灯明』の教えに副うことであり、親鸞聖人や道元禅師等の祖師方が歩まれた道ではないかと思うのであります。

是非、法話コーナーの井上善右衛門先生のご法話『聞と信ー聞法と二灯二依ーB』をご参照頂きたく存じます。

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No.664  2007.1.8

歎異抄に還って―中序―完

● まえがき
昨年の4月17日に始めた歎異抄の勉強も漸く半分まで進み、今年から丁度区切りよく、歎異抄と言う名前の所以である異なるを嘆く章≠ノ入ります。

人間社会は悲しいことですが争いの社会です。同じく平和を願いながら、平和の定義が異なるためか、平和に至る道筋が異なるためか戦争が絶えることがありません。国内の政治の世界も勿論同じく国民の幸せを実現するために与野党が激しく論争致します。

そして本来は最も平和・平穏・平安を求めるべき宗教の世界にも拘らず、最も激しい宗教・宗派対立があります。それは昨今のイラクにおけるスンニ派とシーア派の対立が爆弾テロによる死傷数が物語っています。しかし、これはイスラム教だからではありません、仏教におきましても沢山の宗派に分かれ、中には激しく他宗派を非難したり排除しようとしたりしているのが現状です。更に嘆かわしく思い、自誡しなければならないと思いますのは、同じ宗派内でさえも、主張が異なり同じ集いに参加しないと言う現状があります。

でありますから、歎異抄に示される問題は、決して親鸞聖人のお教えであるから生じたものではなく、宗教が必然的に持つ古くて新しい問題であると言わねばなりません。 昨年末、無相庵の掲示板に原始仏教こそがお釈迦様が説かれた仏教であるとする人からこのコラムに対する異議と思われる投稿がありました。あまりにも礼節を欠き且つ執拗でありましたので、掲示板を閉じることで対処致しましたが、見方を変えますと、その人は親鸞聖人の教えを守り、後代に正しく伝えようとして歎異抄を書いた唯円房のような立場を取ったと言えるのかも知れません。

しかし、私は唯円房がどうだったかは学者の論争に任せると致しましても、お釈迦様の教えにしましても、親鸞聖人の教えにしましても、それがご本人直接の言葉であろうと無かろうとも、後代の私たちは、そのお言葉を我が身の境遇や問題解決の道筋を通して、自分の心の中に芽生えた真理として掴まえねばならないと思います。原始仏教の経典がこう書いているからとか、お釈迦様の言葉を集めた言葉が『法句経(ダンマパタ)』だから、これが仏教だと言う考え方には与(くみ)しません。

ただ、原始仏教がお釈迦様の教えだと言うのも間違いでは無いと思いますので、それを信じる人々に異を称えるものではありませんが、教えも時代と共に変化するものだと思います。それを進化と捉えるか、変節と捉えるか、逸脱と捉えるかは、他人が表面的に判定するものであり、真実は夫々の個人が自分の経験を経て修行(聞・思・修)した結果によって、個人が判断すればよいと思います。

私は仏教の教えも時代と共に進化すべきものと思っております。お釈迦様も人間でありますから、自分の身の回りにある存在、身の回りで生じる現象を観察して悟られたわけでありますから、時代が大きく変化した今日、教えに多少の変化と言うよりも進化があってよいと、私は思っております。

ただ、唯円房がこの歎異抄の後半で示される異議が、本当に異議かどうかを疑いながら、読み進め、学び進めたいと思います。

●中序原文
そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにてあゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、その人々にともなひて念仏まふさるる老若そのかずしらずおはしますなかに、聖人のおほせにあらざる異議どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらふよし、つたへうけたまはるいはれなき条々の子細のこと。

● 白井成允師の現代訳
そもそも先師親鸞聖人のまだこの世においであそばした昔、同じ志を抱いて関東からはるばると京洛へのぼり、同一の信心を頂いて、この次の生に必ず弥陀の浄土に生まれようと期していた人々は、いっしょに聖人の御思し召しをうけたまわったのであるけれども、その人々に従いて念仏申しておられる人々が、老いた者達の間にも若い者達の間にも、数え切れないほど多くおられるのであるが、その人々の中には、聖人の仰せではない異なった主張などを、近頃しきりに言い合っておられることを伝え聞いていることである。それら道理のない主張などを数々挙げるならば。

● 高史明師の現代語意訳
そもそも、親鸞聖人が御在世のむかし、同じ志をもって、歩みを遠く洛陽(京都)に励まし進めて、信心をひとつにして、こころを当来(未来)の阿弥陀仏の国にかけ、往生を願ったお仲間は、それと同時に、親鸞聖人のお教えをうけたまわったのでありましたが、その人々にともなわれ導かれて、念仏を称えるようになった老人や若者の数、数え切れないほどになるにつれて、中に、聖人のお言葉にはない異議(説)などをも、この頃は、多く議論し合っておられるということを、伝え聞きます。その正当な根拠のない説の数かずの詳細は、次に述べる通りであります。

● あとがき
この中序の後に続きますところの第十一章から第十八章までに示されています異議(親鸞聖人の仰せと異なっている説)を箇条書きにしますと(山崎龍明師による)、下記の通りです。

  • 第十一章 あなたは誓願不思議を信じているのか、名号不思議を信じているのかと言って不安に陥れる誤り
  • 第十二章 学問しない者は往生できないと主張する誤り
  • 第十三章 悪を恐れないのは、往生できないと説く誤り
  • 第十四章 念仏には罪を滅する働きがあることを信じなければならないと説く誤り
  • 第十五章 必ず救われると言う信心を即身成仏と説く誤り
  • 第十六章 回心(えしん)して罪を滅することのない者は救われないと説く誤り
  • 第十七章 方便の浄土に生まれる者は地獄におちると説く誤り
  • 第十八章 布施の多少によって救いに違いがあると説く誤り
山崎師は、これらの異議の根底にある誤りとして、『教えの観念化』と『教えの律法化』と言う二つを挙げられていますが、体験や生活を離れたところで仏教を学ぶ人々や、仏教徒ならばこうあるべきと言う拘りを持つ人々を念頭に示されたもののようであります。

『教えの観念化』とは、山崎龍明師のお言葉を借りますならば、「教えを言葉の上だけで考えて、我が身≠通さない信心理解だと思います。我が身≠通さない教えは、単なる言葉にすぎません。この誤りから生じた教えの取り違えを指します。」 そして、『教えの律法化』とは、「念仏者の生活に道徳性、倫理性を持たせようとする、異議の流れです。念仏だけでは不十分だから念仏者は、何か実践しなくては救われない」と言う考え方であります。

これは正に現代にも言えること事ではないかと思います。歎異抄の言葉もよく知っている、正信偈の言葉もよく知っている、あの難しい教行信証も悉く知っている人が、実は日常の地域社会では問題児だと言う場合もあり得ます。また、「念仏者なのだから愚痴を言うのはおかしい。あの人の念仏は空念仏だ」と、ともすれば批判しがちでありますが、これらを山崎龍明師は『観念化』とか『律法化』と言われるのでしょう。

これらの事に留意しながら、後半の章を勉強して参ることに致します。


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No.663  2007.1.4

初心に還ってみて

「初心に還れ!」と言う言葉があります。私たちは往々にして初心を忘れてしまいがちでありますが、初心に還ることは道を究める上では大切なことであると思います。そして、その初心に還る良い機会として与えられていますのが、この新年正月三が日であると思います。私も若い頃は1月1日の午前零時を過ぎてから、新年の決意を箇条書きにしたりしていたこともありますが、経済的な危機を迎えてからのこの7年位、本当はもっと大切なことが一杯ありながら、何時しか経済危機解消が一番の課題になってしまい、初心に還って新しい年の目標を掲げることを怠って参りました。これは大いに反省しなければならないと思った次第であります。

そこで、先ず仏法を求める動機、目的に付いてあらためて考え直して見たのですが、なかなか答えが出ないのです。自問自答を色々繰り返して見ましたが、やはり答えが出ません。そこで、自分と仏法の関わりがどのようなものであるかを調べて見ることにし、仏法と全く関係無い生活を仮に思い浮かべてみました。そうしますと、そういう生活は最早有り得ないことが分かり「私の今の生活は仏法と関係無しには成り立っていない」と言うことに気付かされました。

つまり、仏法を学んでいる最中でありますので、意識的に仏法に照らして思考する事は勿論ございますが、色々な出来事に遭遇したとき、無意識の中に「仏法的に考えたときにはどう受け取ればよいか」を考えていますし、物事を処理する場合の選択・判断も「仏法から考えてどうすればよいか」を思考しているように思いました。妻との日常会話も無意識のうちに仏法が根底にあるように思いました。現在の経済危機に関しましても、これからのあり方に致しましても、無意識の中にやはり仏法に照らして、つまり仏法に聞きながら過ごしていると言うことであります。

仏法中心に生活していると言う意識は全く持って居なかったのでありますが、よくよく考えて見ますと、いつの間にか、仏法におんぶに抱っこ≠フ生活になっていたと言うことではないかと思います。これは実に理想的な有り難い状況なのかも知れません。しかし、だからと言いまして、幸せ一杯と言う生活ではないというのもまた正直なところであります。

私の妻は眠り薬代わりに法話MDを聞いておりますし、私も眠りに就く時には大体仏教書を読んだりしていますが、仏法者の優等生には程遠く、法話を聞きながら或いは仏教書を読みながら、家計の心配の先取りをしたり、子や孫の行く末を思ったりと、煩悩が頭を占領することが度々であると言うのが正直なところであります。

初心に還って、あらためて我が身を振り返りますと、ざっと以上のような事が分かりましたが、そこで私は今年からはもっと積極的に生活を仏法色に染め上げようと思います。それは特に人間関係においてのことであります。何故かと申しますと、私が学んでいる他力本願の教えを説かれた親鸞聖人の人間関係は恐らく法友が主体であっただろうと思いますので、その有り方に学ぼうと言う訳であります。法友とは、仏法を共通の価値観とする友達と言うことでありますが、私の場合はもう少し拡げまして、仏法的考え方をされる方を友としてお付き合いをして行こうと言うことであります。仏法的と言いますのは、仏教の言葉を良く知っているとか、法話の席によく出席しているとかとは関係なく、常に真理を求めて生きて居られる方と言う意味であります。その様な方々との交流が生活の楽しみになるよう、今年はその準備の年にしたいと思います。

また、元旦のコラムに書きましたが、私は未だ贔屓目に見ましても仏道の半ばの半ば、25点(ゴールを100点としますと)のところ程度に居るのではないかと思われます。未だ未だ仏法を究めて参らねばなりません。自分を照らしてくれる仏法を更に深め、丁度鏡の曇りを磨き取る如くに智慧を磨き上げて行く努力もして参らねばならないと、決意を新たにした次第であります。 以上、初心に還ってみまして、法友との交流を深めることと、仏法を更に究めて参ることを今年の課題としたい次第であります。

追伸です。「元旦のコラムに書きましたが」と書いたのですが、元旦のコラムの更新手違いで、大事な部分が抜けておりました。実は元旦の朝日新聞に、今年から大リーグに移籍する松坂投手(西部ライオンズ→ボストン・レッドソックス)の年頭インタビュー記事が掲載されていたのです。非常に感銘を受け、仏道を究める上で是非参考にしたいと思いましたので、元旦のコラムに追伸として追加させて頂いたのですが、抜け落ちてしまいました。感銘を受けた部分は、記者の「投手として100が完成なら、現在は?」と言う質問に対して松坂投手のコメントは「まだ半分もいっていないんじゃないですか。45ぐらい。まだまだ伸びると思っているし、成長段階。100になったら、楽しみがなくなる。考えて、練習でやってみて、試合で試してと云うのがなくなると寂しい」と言うものでした。仏道における100と思われる『禅宗の悟り』とか『浄土門の信心獲得』よりも、それに向う道そのものが仏道の楽しみと言えるのではないかと思いますし、常に道半ばと思って精進したいものであります。


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t@yqy No.662  2007.1.1

新しい年を迎えて

皆様、明けましておめでとうございます。
景気持続月数としてはいざなぎ景気≠超える景気が持続している中、新しい安倍内閣の下、新年を迎えました。こうして新年を迎えられたことを皆様と共に素直に喜び、今年が善き年になりますことを祈りたいと思います。

昨年は私の母の生誕百年、没後満20年の記念すべき年でありました。母が念仏者であったからこそ、この無相庵ホームページも生まれました。実は無相庵と言う名称も神戸市垂水区の五色山古墳の近くにあった実家(昭和28〜63年)の屋号として母と私で一緒に考えて命名したものであります。念仏者の木村無相さん、白隠禅師坐禅和讃の中の「無相の相を相として・・・」から無相≠サして、浄土真宗とか禅宗とか、更には仏教さえにも拘らない無相≠ニ言う意味合いから命名したと記憶しております。

さて無相庵産みの親でもある母の記念年となるその昨年、私に5人目の孫となる女の子が誕生しました。実は長女が身篭った時、非科学的ではありますが女の子なら母政子の生まれ変わりと密かに思っておりました。母は明治39年に島根県の大社町に生まれ、大正11年に松江市の女学校から東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に進学した(子供の私が言うのも何ですが)才女でありました。当時、島根県から東京へ進学するのは極めて珍しいことだったようで、母の人並み外れた向上心と野心を感じさせるものであり、30年後48歳で仏法を聞く会である「垂水見真会」を立ち上げたのも宜(むべ)なるかな≠ニ思わせますが、その血を受け継いでいる私の孫【恵愛(えあ)】もきっと時代をリードする女性に育ってくれるものと期待しております。

昨年末、再び掲示板を閉じました。掲示板の匿名性故に仏法からかけ離れた、礼節の無い投稿が相次ぎ、無相庵としてはその対応に困ったからであります。この世は娑婆と言われ、勝ち負け、損得、好き嫌いの煩悩渦巻く穢土であります。無相庵ホームページを運営する私も煩悩に翻弄される日々を送っており、礼節に欠ける人格を許すにはやはり限度と言うものがあります。しかし、有り難いことには、その煩悩のお陰で浄土と言われる世界を感じる瞬間があります。白井成允先生が「身は娑婆にありつつも、既に浄土の光濯を蒙る」と詠われていらっしゃいますが、私たち在家の者は24時間浄土に遊ぶことは出来ないのだと思います。いえ、多分お出家さんも肉体がある限り、常にお悟りの心境と言う訳には参らないのではないか、とも思われます。生きている限りは、煩悩は完全には滅することは出来ないでしょうが、せめて、一日の中で1時間位は、浄土の世界に住みたいものと思いますので、今年も聞法を大切にしたいと思っております。

本年の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。


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No.661  2006.12.28

続―無相庵の宗教的立場について

2006年最後のコラムになりました。コラムを書き始めまして(2000年の7月13日が第一回目のコラム)、7回目の年越しになります。何時止めてもおかしくない状況の中で、こうして続けられていることは不思議としか言い様がございません。ここまで来ましたら、もう半ば義務感みたいなものも芽生え、色々と障害は発生致しますが、娘や息子の協力を得て、何とか月曜と木曜の更新を続けることが出来ております。来年も、事情が許す限りは続けて参りたいと考えておりますので、宜しくお願い申し上げます。

ただ、無相庵は浄土真宗教団を含めましてどの仏教団体にも所属しておりません。全く単なる個人であり、屋号として無相庵を名乗っているだけのことであり、個人的に考察し思考したことを出来る限り自分の言葉で自由に語っているに過ぎません。無相庵は親鸞聖人が法然上人に師事されて一人の仏法者として生涯の拠り所とされた他力本願の教えに共感していることは事実でありますが、教団としての浄土真宗にはかなり違和感を持っております。親鸞聖人は、立派なお寺を持つ事を嫌われたようですし、葬式などの法事も一切されませんでした。また、法の相続に関しては世襲などは最も嫌われるところだと思っているからであります。勿論、浄土真宗教団が存続されたことで、歎異抄などの重要な著述が数多く散逸せずに保管されたことに関しましては有り難く存じていますことは言うまでもございません。

前回の木曜コラムで、掲示板への投稿をご紹介し、その投稿を削除した旨を申し上げましたが、その削除した意向を正しく取られていない向きがあり、それは極めて心外でありますので、説明しておきたいと思います。投稿内容は『あなたこれヒンズー教の梵我一如ですよ 原始仏教から勉強し直しなさい、こういうたぐいの事は学会も言っています。自分が確たる信心を持っていないのにビラくばって人に説くのはどうでしょうかねえ・・ 僕なら恥ずかしくてできませんが。』でありました。この文面からは、ヒンズー教及び創価学会の教義・教理を否定されているように感じました。反社会的なカルトなどは別に致しまして、無相庵は仏教以外の宗教を否定する立場にはなく、また、創価学会などの新興宗教団体を否定する立場にもございません。それぞれの教義・教理があってよいと言う立場にありますので、認めがたい投稿だと判断したからであります。

私のコラム一つを取りましても、上述の如く私の意図が正しく伝わらないことがありますし、多分人それぞれ受け取り方が異なるのだと思われます。お釈迦様の説かれた教えも色々な教えに分岐したり、発展したり、変質し、八万四千の法門ありと言われております。お釈迦様が眉をひそめられる教えに変質しているものもあるでしょうが、それはお釈迦様に責任があることでもございませんし、またお釈迦様に確認しようもありません。その事を見越されてのことだと思いますが、自灯明・法灯明と言い伝えられている教え(お釈迦様が亡くなられる直前と言われている)があると聞いております。 「他人を拠り処とせず、自分を拠り処としなさい、法(真理)を依り処としなさい」他人と言う意味は、ご自分(お釈迦様)をも依り処とするなと言うことを仰りたかったのだとお聞きしています。自分を依り処とせよと言う自分とは勿論煩悩まみれの自己では無いとは思いますが、自分自身の心の中で生じることは自分が把握出来る唯一の事実であり真実でありますから、「その自己の心を見詰めて行け、そして、何処でも何時の時代でも変わらぬ真理を求めて行け」と言うことだと無相庵は受け取っています。それは「誰それがこう言ったとか、お釈迦様がこう言われたと言う間接的な言い伝えを依り処にするな」と言うことでもあると思っています。無相庵は、そういう立場でこれからもコラムを発信して参る所存であります。

現在、一週間のアクセス数の平均が約550でございますから、コラムご購読者数を200〜250人ではないかと推測させて頂いております。何年か続けて読んで下さっている方も居られましょうし、興味を失われたり、見解の相違で止められた方もいらっしゃるものと存じます。アクセス数が多いことは勿論喜ばしいことでございます。しかし、私の一番の望みは、私のコラムを縁とされて宗教に目覚められる方がたとえお一人でいらっしゃれば、と言うことであります。

来年も、事情が許す限り続けさせて頂こうと思っておりますので、重ねて宜しくお願い申し上げます。


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