No.650 2006.11.20
歎異抄に還って―第八章―A
●まえがき
お三人の先生の現代訳で、この章の意味は読み取って頂けたものと思います。古語の『・・・ためには』と言う言葉が、現代の使い方と異なりますので、少しあれっ≠ニ思ってしまうものですが、古語の『・・・ためには』は、「・・・にとっては」とか「・・・としては」と言う意味であることを知ると共に、行者即ち、念仏門に救いを求める私達にとっての念仏は自分の意思で行う行とか善ではないと言う意味であり、阿弥陀仏から授かったものであると云うことが解ると思います。しかし、解りますけれども、なかなかその念仏を授かり得ません。その事に付きましては、あとがきに、少し長くなりますが私の考察を述べさせて頂きます。
●第八章原文
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なり、と。云々。● 白井成允師の現代訳
念仏は念仏申す人にとりて非行であり非善である。自分のはからいで修める行ではないから非行という、自分のはからいでつくる善ではないから非善という、ただ仏の力であって自分の力をはなれたものであるから、念仏申す人にとりては非行非善であると云々。● 高史明師の現代語意訳
念仏は(たとえ、それを百万遍称えようとも、称える人のためにしてよい)称える人の行でもなく、善でもありません。(よくよく考えてみられるとよいと思われますが、念仏は、果たして、称える人のわれ≠フ思いや活動として称えられてくるものでありましょうか。そうではありますまい。)念仏は、わたしごころの計らいや思いによって、称えられるものではないから、わたしが、わたしのものとしてよい、わたしの行ではないと言うのであります。わたしが、わたしごころによってつくることのできる善でもないから、わたしの善ではないと言うのであります。ただひたすらに(阿弥陀の絶対的なお働きとしてある)他力であって(私を中心とした)自力を超越している故に、(それを行ずる者のためにしてよい)行者の行でもなく、善でもないのであります。● 山崎龍明師の現代訳
アミダ仏の真実に信順し、よろこびのこころより称える念仏に生きるものにとっては、念仏は私自身が仏に成るための手段ではありません。つまり私自身の行為でもなく、私の善行でもありません。なぜなら、念仏は私自身の行いでもなく、善行でもなく、ひとえにアミダ仏からこの私に届けられ、恵まれたものだからです。このような念仏は不完全な私自身の行為を全く離れているものですから、私の行為でもなく、善行でもありません。ただ、アミダ仏のうながしによる営みなのですから、私にとってはまったく、他力(如来)の行であり、他力の善というべき性質のものなのです。● あとがき
要するに、他力の念仏とは、自分がしようとしてするものではなく、せしめられると申しますか、自然に念仏が称えられてしまっている、と言うものだと思います。 さて、このような念仏が称えられることこそが、多くの親鸞聖人の教えを真摯に聞く人々の願いだと思います。ところが、思いましてもなかなかそのようにはならないと言うのが何とも歯がゆく、居心地の悪いことになっている≠フではないかと思います。それは、私の30歳の頃からの、30年来の切望でありテーマでありました。そして今も続いているのでありますが、最近になりまして、私が何故そのような念仏が口をついて出ないのかと言うことが解りつつあります。それは、私が本当に救いを求めていないということだと思います。この世が本当に苦の世界だと認識すれば、阿弥陀仏がどうであるとかと言う問題ではなく、お浄土と言うものがあるならば、一刻も早く参りたいと思うはずでありますが、この世もそうそう捨てたものではない、結構楽しい時もある、今は苦しいけれども、やがて幸せな時も巡って来るのではないかと思っているのです。そうである限りは、阿弥陀仏の本願を信じたり救いを求めたりはしないのだと思いますが如何でしょうか。
誤解されることを恐れずに申しますならば、この世が地獄であることに気付く瞬間がなければ、極楽を求めるはずが無いと思うのであります。それを仏法は、地獄即極楽と申したり、生死即涅槃と言ったりするのではないでしょうか。地獄がどんなものであるかが解りませんと、極楽がどんなものかは解らないと思います。同じ様に、煩悩がどんなものであるかが認識出来ませんと、菩提(悟り)が解らないと思います。煩悩を無くしてしまいますと、逆に菩提を認識出来ないと言うことではないかと思うのです。でありますから、『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』と言う言葉があるのだと思います。そして、だからこそ、『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』と言うことになるのではないでしょうか。丁度、砂糖の甘味を知らないと、塩の辛さは認識しようが無いと言うことと同じだと思います。
鈴木大拙師が、「地獄即極楽、極楽即地獄」と言われたり、「有限と言うことを知ることは、無限と言う事を知っているからであり、無限を知って始めて有限が本当に解る」とおっしゃっているのも、こう言うことを申されているのではないか思います。即とは=(イコール)≠ナはなく、一如(いちにょ:不離・不二)≠ニ言う意味で使われているのだと思います。般若心経の、「色即是空 空即是色」の即も同じことであります。
他力の念仏は、まさに『即(そく)』を喜び、感謝を表す、しかも、念仏せしめられる「南無阿弥陀仏」だと云うことであり、言い方を換えますと、「私達の念仏は、私達にとりましては非行・非善である」と言うことになるのだと思う次第であります。
No.649 2006.11.16
日本の改革
別のコーナー(ブログ)『世事雑感』に「日本の改革」と言うコラムを掲載しております。「お母さん方を家庭に戻すことが日本の改革に最も大切だ」と言う論旨ですが、その為には「拝金主義、お金第一主義から方向転換すべきだ」と云うことになりましょう。
お金と言いますと、昨日、西武球団の松坂投手を60億円で買い取リたいと、アメリカメジャーリーグ、レッドソックスが松坂投手との直接交渉権を得たと言うニュースが日本中を驚かせました。報道番組を見ていまして、26歳の青年一人の値段が60億円と言う、庶民の想像を絶する金額(この60億円の中から松坂投手に渡されるお金は1円も無く、全て西部球団の収入となる)と、松坂投手の10数億円とも言われる推定年俸への羨ましさ、妬ましさ、恨めしさが入り混じっているように感じました。私も同じ思いでニュースを見聞き致しましたが、お金の額で人間の価値が決まるならば、ノーベル賞受賞者も、株式会社日本の舵取りをする総理大臣も、様々な芸術分野の人間国宝、そして文化勲章受章者達も、松坂投手の足元にも及ばないと言うことになってしまいます。しかし、大方の人は、そのような価値判断をする訳が無く、やはり、「お金で人間の価値が決まる訳でもないと言う証拠なんだな」と、自分に言い聞かせた次第であります。
しかし、身近な現実は、やはりお金で人間を評価され、世間の扱いに差が出ることは残念ながら確かであります。それを一番顕著に感じられるのが金融機関の応対・対応です。普通に暮らしている一般の方々には絶対に分からない非常に厳しく冷たい世間の裏側の現実の素顔だと思います。私の会社が黒字決算を続けていた2002年までの10年間は、金融機関の方から会社に出向いてくれて出入金業務を処理してくれたり、融資も積極的にしてくれました。決してこちら側から支店窓口に出向く必要はありませんでしたし、年末には本社の常務理事が手土産持参で挨拶に来ていました。しかし、中国に仕事を奪われた2002年を境に会社が赤字に転落するや否や、手のひらを返した対応と応対になりました。私は、恥ずかしながら60歳になって始めて金融機関の真実の姿、体質を知る羽目になりました。
金融機関にとっては、景気の悪い会社や個人は顧客ではなく、早く関係を打ち切りたい厄介者になります。従いまして、常に呼び付けられ、担当者の言葉遣いも慇懃無礼な中にも、ぞんざいで見下した言葉がちょくちょく混じり出します。金融機関も商売をしている訳ですから、それは当たり前と言えば当たり前です。取引をして損することが確実な相手とは一刻も早く縁を切りたいのは経営者として、私も全く同じ考えでありますから、理解しています。
理解は出来ますが、私は日本の改革は、拝金主義の象徴的存在である金融機関の社会的地位を本来あるべきところに引き下げる施策が必要だと思っております。それは、実に簡単な施策で可能です。政府が、金融機関を優遇しないことです。金融機関の破綻は日本企業の破綻ひいては日本の破綻になりかねないと言う懸念から、政府は金融機関を異常なまでに優遇していることは金融危機を迎える度に繰り返されているところでありますが、これを止める勇気を持つことです。
そして、その重要な第一歩として、日本独自の商売慣習である『手形決済』を禁止し、全ての商取引を現金決済に限定する事だと考えます。手形決済が認められている限り、企業は必ず銀行に口座を開設しなければなりません。現金決済になりますと、送金手数料の安い郵政公社が利用出来、銀行や信用金庫は必要でなくなり、街金と言われる高利貸しへの貸し出しも出来なくなりますから、日本の国民も商売人も会社も、借金地獄に陥ることがなくなります。 何ら価値を生み出さない銀行や信用金庫が街の一等地に店を構えている限り、日本のお金第一主義は永遠に続き、そしてお母さん方も、子育てよりも目先のお金を追い求めて心も体もすり減らし、家庭は崩壊し続け、従って地域社会も家と言う構造物が形だけ立ち並んでいるだけの冷たい地域社会であり続け、そう遠くない将来、日本と言う国が無くなる日が来てしまうのだと思います。
そうならないために、手形決済の廃止を含めた金融のあり方を専門家・有識者で論議して欲しいものであります。
No.648 2006.11.13
歎異抄に還って―第八章―@
●まえがき
一般の方々から見られた場合の念仏は、キリスト教の「アーメン」や、神社の神殿の前で神様に捧げる「お祈り」と同じものではないかと推察しています。一般の方々でなくとも、浄土真宗の信者と自認される方々にあっても、「アミダ仏に何かをお願いする」念仏であったり、他人様から何か品物を戴いた時に「有難うの気持ちを込めての」念仏であったり、「亡き人を弔う」念仏であったり、法話の席で、「皆が称えられるからご一緒にという」念仏であったり、もっとひどい場合は、「自分の信心深さを周りに誇示するための、見栄の」念仏だったりさえ致します。しかし、第五章に「親鸞は、父母の供養のために一遍も念仏を称えたことは無い」と親鸞聖人のお言葉が紹介されていますように、この歎異抄では、本当の念仏は、「何かを願ったり、目的を持って称える」ものではないと言うことを繰り返し繰り返し、説かれていますが、この第八章が、トドメとも言うべき章ではないかと思われます。
親鸞聖人の念仏に関する考え方をストレートに表現されており、非常に大切な章であると思いますので、今回は白井成允先生、高史明先生の現代訳・現代意訳に加えまして、山崎龍明師の現代訳も、合わせて転載させて頂きました。
●第八章原文
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なり、と。云々。● 白井成允師の現代訳
念仏は念仏申す人にとりて非行であり非善である。自分のはからいで修める行ではないから非行という、自分のはからいでつくる善ではないから非善という、ただ仏の力であって自分の力をはなれたものであるから、念仏申す人にとりては非行非善であると云々。● 高史明師の現代語意訳
念仏は(たとえ、それを百万遍称えようとも、称える人のためにしてよい)称える人の行でもなく、善でもありません。(よくよく考えてみられるよいと思われますが、念仏は、果たして、称える人のわれ≠フ思いや活動として称えられてくるものでありましょうか。そうではありますまい。)念仏は、わたしごころの計らいや思いによって、称えられるものではないから、わたしが、わたしのものとしてよい、わたしの行ではないと言うのであります。わたしが、わたしごころによってつくることのできる善でもないから、わたしの善ではないと言うのであります。ただひたすらに(阿弥陀の絶対的なお働きとしてある)他力であって(私を中心とした)自力を超越している故に、(それを行ずる者のためにしてよい)行者の行でもなく、善でもないのであります。● 山崎龍明師の現代訳
アミダ仏の真実に信順し、よろこびのこころより称える念仏に生きるものにとっては、念仏は私自身が仏に成るための手段ではありません。つまり私自身の行為でもなく、私の善行でもありません。なぜなら、念仏は私自身の行いでもなく、善行でもなく、ひとえにアミダ仏からこの私に届けられ、恵まれたものだからです。このような念仏は不完全な私自身の行為を全く離れているものですから、私の行為でもなく、善行でもありません。ただ、アミダ仏のうながしによる営みなのですから、私にとってはまったく、他力(如来)の行であり、他力の善というべき性質のものなのです。● あとがき
お三人の先生の現代訳で、説明し尽くされておりますので、これ以上に付け加えることはございませんが、では、どうすれば、どうなれば、非行・非善の念仏が称えられるようになるのか、私自身が永年抱えて来た課題に関して、現時点において「理屈から言えば、多分、こう言うことではないか」と気付きつつある事を次回に申し述べさせて頂き、この章を終わろうと思っております。
No.647 2006.11.9
続―仏様から診(み)た発達障害
先週の木曜コラムで、私は『自己中心性発達障害』と言う勝手な命名をしてしまいましたが、翌日、ご自身がADHD(注意欠陥・多動性障害)であると表明されている沖縄在住の精神科医、後藤健治医師のホームページで『自己愛性人格障害』と言う正式名称の発達障害がある事を知りましたので、不明を恥じつつ、ご報告申し上げます。
後藤医師が仏教に関する知識をお持ちかどうか存じ上げませんが、この『自己愛性人格障害』で特徴とされているところは、私達凡夫が誰しも抱えている心の問題(煩悩)と殆ど重なり合うものと思います。
専門的には、心が抱える問題点を先天性なものと後天的なものに区別しているようでありますが、それは飽くまでも、自分は正常であると認識している専門家達に依って考えられた基準に基づく区別でしかないと思います。そして、それは外部から観察し得る言動を根拠とした主観的な判定であり、遺伝子レベルで分子構造的な客観的根拠に基づくものでは無いと思いますので、やはり仏様の眼から診られて凡夫と位置付けられる私は、先天的、後天的に関わらず、発達障害者である事は間違い無いと改めて思った次第であります。
後藤医師は、ご自身が発達障害者である事を明確に認識され、公にもされて、随分生き易くなられたようであります。これは、凡夫が凡夫である事に気付かなくて、何かしら窮屈に人生を生きている状況から、凡夫が凡夫である事に気付かされて(つまりは仏様に出遇って)、丸裸の自分自身に立ち返って生き始めることと似ているように思われます。
ただ、なかなか凡夫にはなり切れません。どこかに「自分の見どころ」を見つけて、なかなか自己愛を捨て去ることは出来ません。それを親鸞聖人は、他力本願の教えは易行ではあるけれど、「難中の難」、つまり自力聖道門で悟りを開くよりも難しいかも知れないとおっしゃっているのだと思います。しかし、難しくはありますが、法話を幾たびと無く聞いているうちに、時節到来すれば(縁が整えば)、凡夫が凡夫になりきれないままに、言い換えますと『自己愛性人格障害』を抱えたままで、自然と自在な人生に転じる時が来るのだと、私は信じています。
自己愛性人格障害につきましてはホームページ、http://www.geocities.jp/yanbaru5555/jikoai.htmをご覧下さい。
No.646 2006.11.6
歎異抄に還って―第七章―B
●まえがき
山崎龍明師が、「人生に勝つということとは、どういうことか」について、次のように語られています。格差社会に翻弄される私達は耳を傾けるべきお話だと思います。『ある宗教指導者は「人生は勝負だ。勝たなくてはならない。人生に勝利する信心を」と言っています。そうでしょうか。人生に勝つとはどういうことでしょうか。そして負けるということは。むしろ宗教とは人生の勝利とか負けがなにかを問う世界だと思います。優勝劣敗をこととするのが宗教の世界ではありません。 信仰によって富を蓄積し、社会的名誉を得て人々の上に君臨しても、それが信仰の勝利者ではありません。このような宗教観からすれば、老いとか、病とか、死、仕事上の失敗、結構生活の破綻等などはすべてマイナス価値となります。人生を勝ちと負けに分け、プラスとマイナスに分けて、プラスのみを追求するその生き方が、いかに危うい生き方であるかを知るような生き方を心がけたいと思います。
今、流行の言葉でいえば「勝ち組」と「負け組」ということになります。経済基盤が確立し、社会的地位もあり、いつもはつらつ生きている人が「勝ち組」とされるのでしようか。逆に、生活が困窮し、仕事もなく生きている人は「負け組」とされるのでしょうか。
信仰を人生の「勝ち組」になるための手段とするならば、それは世間をうまく生きるための処世術に過ぎません。信仰は処世の具ではありません。この世間をうまく生きて、この世の成功者になることではないでしょう。このようなことが全く省みられない時代は、人間の精神そのものが枯渇した時代であるといってよいのではないでしょうか。時代はまさにこのような様相を呈しています。
時代に取り残されないために、時代そのものを問うこともなく、時代に迎合する生き方はあまりに貧困です。いつでも、誰でもどこにあっても容認できる「法」(普遍の真理)に生きようとする仏法者はこのことを肝に銘じておきたいものです。時代に自分を合わせるのではなく、時代そのもののもつ問題性を自覚することのできる眼(まなこ)を養い、時代、社会を常に抑制することの出来る自己の獲得につとめたいと思っております』信仰の世界に生きる者は実にこうでなければならないと思います。しかし、そうは申しましても、良寛さんのような出家者であれば最低の衣食住生活でも「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」と落ち着いて居られますが、在家で家族持ちの身としては、やはり、生存競争社会における「勝ち組」にもなりたいと言うのが正直なところだと思います。経営者として今確実に「負け組」の私は、やはり人生においても、また経済的競争社会においても「勝ち組」になりたいと思っておりますし、その努力をし続けるのが仏法を生きる者のあるべき姿だとも思っております。
無碍の一道とは、自然法爾(じねんほうに)の世界に生かされるということだと思います。それは「あるがままを受け取ると言う世界」だと思いますが、何もしなくて「なされるがままの世界」であってはならないと思います。最晩年、「自然法爾の世界」に生きられた親鸞聖人も、仏法に弓引いた我が息子善鸞を勘当されました。自然法爾の世界が決して「なされるがままの世界」ではないということでありましょうし、無碍の一道も、決して「勝ってよし、負けてよし」と言うのんびりとした緊張感の無いものではない、と親鸞聖人の人としての歩みから私はそう感じ取っております。
●第六章原文
念仏者は無碍(むげ)の一道(いちどう)なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり、と、云々。● 白井成允師の現代訳
念仏者は無碍の一道である。その理由はと云えば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することがない、罪悪も業報を感ずることが出来ず、諸善もおよぶことがないからである、と云々。● 高史明師の現代語意訳
(念仏者は、念仏せしめられる者であります。念仏せしめられる者は、南無阿弥陀仏を行じ、証しているのであります。)この念仏者は、そのまま何ものによっても妨げられることのない、阿弥陀仏の(真理が輝く)無碍の一道であります。そのいわれを申しましょう。(念仏せしめられて念仏する念仏者は、阿弥陀仏の智慧を信心としていただく者であります。自分を中心にして自分が、信じるのではない、自分を根こそぎにくつがえされて、阿弥陀仏の信心をいただく者であります。)この信心の行者には、天の神、地の神々も、敬い従うことでありましょう。悪魔の世界にいる者、仏道以外の道を説く者も、この信心の行者の行く手を遮(さえぎ)り妨げることはできません、罪悪につきまとう悪業には、悪い報いがあるという業報を受け、それに振り回されることもなく、また、どのような善といえども、阿弥陀仏の真実の智慧にまさることはありませんので、阿弥陀仏の慈悲に包まれた念仏者は、阿弥陀仏の無碍の一道なのであります。● あとがき
私の生まれ育った家では、正月はもとより神社参りを一切致しませんでした。神事に関わる行事・慣わしなど(お宮参りや七五三)も致しませんでしたから、私も家庭を持ってからもしておりません。別に信念があってと言う訳ではありませんが、祖父も母も親鸞聖人の信奉者でありましたから、そのような家風になったのだと思います。創価学会と言う宗教団体の人々は神社参りを明確に拒絶致しますが、私は神社にもお参りしたことは何回もありますし、商売繁盛の飾り物を貰った場合には、家の中に飾ったりも致しますが、そう言うことで商売が繁盛するとは全く思っておりませんし、拍手を打っても、そのような願い事を神様にしたことはございません。祝い事の日は世間に倣って大安を選びますものの、大安吉日とか日のよしあしは、本当のところ全く気になりません。
親鸞聖人は、主著「教行信証」で、『涅槃経』と言うお経から引用されまして、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」(仏の教えに依りどころをおくものは、その他のさまざまな天の神、地の神に依りどころをおくべきではありません)と示されているようでありますし、またもっと具体的には「みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事(つか)ふること得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日(きちりょうじつ)を視ることを得ざれ」と示されています。
これ程に徹底した念仏者であればこそ、「念仏者は無碍の一道なり」と断言し得たのだと思います。
No.645 2006.11.2
仏様から診(み)た発達障害
『発達障害』に関しまして、10月28日分のブログ「世事雑感」と、ブログ「共育広場」にて紹介しておりますので、ご覧頂いてから、今日のコラムを読まれることを希望致します。 なお、『発達障害とは?』と言う纏(まと)まった説明が、http://www.as-japan.jp/j/about/syougai.html にございますので、併せてご覧頂ければ『発達障害』に関する理解がより深まるものと思います。
『発達障害』は先天的な障害でありますが、軽度の場合は「後天的な性格」と混同されてしまいまして認識され難いものであり、成人になってから社会への適応が適切に行われず、本人も周りも思わぬ問題に遭遇することがあると言われています。私は、この事を聞きまして、直ぐに、仏様から私達人間(凡夫)を診られた場合の、仏様の大悲の心を思い浮かべました。即ち、仏様から診れば、私達は、確実に発達障害者ではないかと思われるからであります。
どう言う発達障害かと申しますと、「異常なまでの自己中心性が目立つ言動が頻繁に認められる」と言う障害です(これは勿論、私が作り出した『自己中心性発達障害』です)。そして、本人は、その障害を抱えていることに全く気付いていないと言うところが、更に困ったところであります。
通常の『発達障害』は、診断によって明らかになれば、適切な処置を施しながら適切な環境を用意することにより充分に社会で自立して行けるといわれていますが、私が命名した『自己中心性発達障害』も『仏様の眼』と言う診断によって認識されれば、社会で自立と言うよりもむしろ逆に、人生の勝利者になる天与の素質≠ナもあったと言う事になります。しかし残念なことには、私達誰しも発達障害を抱えているにも関わらず、その事に気付いておりません。その事に仏様は特に憐みを持たれまして、「何とか救い取りたい」と慈悲の眼を向けておられると説きますのが、浄土門、即ち親鸞聖人の『他力本願の教え』ではないかと思います。
『発達障害』と聞きますと他人事としてしか聞けない私であります。その事自体が既に『発達障害』そのものの為せる業であると思われますが、更に決定的に救われ難くしているところは、『自己中心性発達障害』を抱えていると見られない為の「取り繕(つくろ)い方」に長(た)けており、なかなか他人には『自己中心性発達障害』が見え難いところであります(親鸞聖人は、このわが身の現実を『虚仮不実(こけふじつ)の身』と慙愧(ざんき)されています)。
親鸞聖人は、そういうご自分を認識されまして、ご自分を『煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)』、すなわち「ありとあらゆる煩悩を持ち合わせている凡夫」と名乗られたのでありますが、親鸞聖人に勝るとも劣らない煩悩具足の私は、これからは一層のこと法話をよく聞き、仏様の眼を養いまして、自分の『自己中心性発達障害』に先ず気付きたい、それがいち早く仏になる近道なのだと、極最近知った『発達障害』と言う言葉から学んだ次第であります。
No.644 2006.10.30
歎異抄に還って―第七章―A
●まえがき
『むげ』を「無碍」と書いたり、「無礙」と書いたり致しますが、碍は礙の俗字であり、「さまたげる」と言う意味の漢字です。従いまして、『無碍』とは、「妨(さまた)げるものが何も無い」と言う意味であります。この言葉から、私は、直ぐに般若心経の中にある、「心無罣礙(しんむけいげ)無罣礙故(むけいげこ)無有恐怖(むうくふ)」と言う一節が思い浮かびました。「罣」も「引っ掛かるとか、さまたげる」と言う意味の漢字でありますので、「心に引っ掛かるものがなく妨げるものも無い。心を妨げるものが無いから、恐れるべきことは何も無い」と言う意味であり、正に『無碍の一道』を般若心経的に表現しているのではないかと思います。また、白隠禅師の『坐禅和讃』の中にも「三昧無礙の空ひろく四智円明の月さえん」とあり、聖道門の悟りの世界の行きつく先も、浄土門の信心の世界も同じ『無碍の一道』であります。
ただ、この妨げるものが無いと言う意味は、苦しい事や悲しい事、怖い事や辛いことが無くなると言うことではありません。山崎龍明師のお言葉を借りれば、「念仏者は無碍の一道なりと言う世界は、罪や苦悩を嫌い、それらを絶対否定(断絶)して幸せになる道をめざすのではありません。罪も悪も、苦悩も不安もそのままうけとめて(不断絶)、ふうけとめることが成仏の障碍にはならないという阿弥陀仏の誓願に信順する世界です。そこに、苦しみは苦しみのままに、悲しみは悲しみのままにわが身を以って受け止めて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった。これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。」と言うことになります。
●第六章原文
念仏者は無碍(むげ)の一道(いちどう)なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり、と、云々。● 白井成允師の現代訳
念仏者は無碍の一道である。その理由はと云えば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することがない、罪悪も業報を感ずることが出来ず、諸善もおよぶことがないからである、と云々。● 高史明師の現代語意訳
(念仏者は、念仏せしめられる者であります。念仏せしめられる者は、南無阿弥陀仏を行じ、証しているのであります。)この念仏者は、そのまま何ものによっても妨げられることのない、阿弥陀仏の(真理が輝く)無碍の一道であります。そのいわれを申しましょう。(念仏せしめられて念仏する念仏者は、阿弥陀仏の智慧を信心としていただく者であります。自分を中心にして自分が、信じるのではない、自分を根こそぎにくつがえされて、阿弥陀仏の信心をいただく者であります。)この信心の行者には、天の神、地の神々も、敬い従うことでありましょう。悪魔の世界にいる者、仏道以外の道を説く者も、この信心の行者の行く手を遮(さえぎ)り妨げることはできません、罪悪につきまとう悪業には、悪い報いがあるという業報を受け、それに振り回されることもなく、また、どのような善といえども、阿弥陀仏の真実の智慧にまさることはありませんので、阿弥陀仏の慈悲に包まれた念仏者は、阿弥陀仏の無碍の一道なのであります。● あとがき
ただ、「念仏者は」と言うところを誤解してはならないと思います。兎に角念仏を称える人は皆、『無碍の一道』を歩むと言うことを言っているのではないと思います。
歎異抄第一条を思い出さねばなりません。この念仏者とは、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏を申さんと思い立つ心が起こって」念仏を称えることになった念仏者であり、信心を獲て正定聚の位の利益(りやく)にあずかるようになった者でなければ、とても『無碍の一道』を歩むことにはならないと思います。無相庵カレンダーの24日のお言葉、『天下無敵』は、『無碍一道』を言い換えているお言葉であります。力が強いから無敵ではなく、剣の腕が立つから無敵ではありません。敵がいないから無敵なのであります。闘わないから無敵なのであります。妨げるものが何も無いから無敵なのであります。敵に囲まれないように致したいものであります。
No.643 2006.10.26
無分別の分別
『無分別の分別』と言う言葉は鈴木大拙(すずきだいせつ)師が生み出されたものであります。昨日の朝日新聞の夕刊に、鈴木大拙師(1870〜1966年)没後40年記念展「大拙 その人と学問」が京都市北区の大谷大学博物館で開かれている(11月28日まで、日・月休館)ことが紹介されていました。
朝日新聞は鈴木大拙師の事を国際的な仏教思想家と紹介されていますが、思想家と言うだけでは言葉足らずであり、仏教信仰者でもありました。禅から仏門(鎌倉の円覚寺で修行)に入られましたが、後に親鸞の教えにも傾倒されましたから、禅者であり且つ他力本願の信心を深められた方でもあり、日本の仏教史の中でも特筆すべきお一人であると思います。そして一方、欧米へ仏教(禅と親鸞の教え)を伝えることに傾注され、世界の哲学・思想史に大きな影響を与えた方でもあります。
この紹介文の中に、『無分別の分別』に関する下記の記述があります。
『東西の文化にまたがり生きた大拙は、西洋合理主義の限界を見極めつつ、東洋的な見方を提起した。しかし一方で、東洋的な感傷性やあいまいさ、非合理性を厳しく批判もし、「無分別の分別」という新しい言葉を生み出した。大拙研究で知られる宗教哲学者の上田閑照・京都大名誉教授は、「東洋では分別知は低く、無分別は高い知恵とされるが、どちらか一方だけではだめ。人間は合理的な分別を持ちながら、無分別でもなければならないというのが大拙の考え。それを"世界人としての日本人"として体現した大拙の姿は、現代を生きる我々にも大きな意義がある」と話している。』私は、鈴木大拙師のご著書を少しばかり読み、ご講話CDを購入しお声もお聞きしていますし、またNHKの録画ビデオも持っていますが、ホンの少しばかり勉強した程度ではあります。しかし、この『無分別の分別』と言うお言葉から思い出しますことは、有限と無限、善と悪、菩提と煩悩、と云う相対する概念に関しまして、有限と言う言葉を使うからには無限と言う事が分かっており、悪と言うからには善とは何かが分かっている、煩悩と言う言葉を発する限りは悟りの世界とはどう云うものかは分かっているはずだと言う論法であります。そして、片方だけが存在することは有り得ないと言うところから、無分別という概念に近い一如(いちにょ)と言う考え方を説かれており、成る程と思ったことを記憶しております。
分別から無分別へ、無分別から無分別と云う分別へと考え進められたところは、般若心経の有名な一節であります、『色即是空 空即是色』を言い換えられたのではないかと考察していますが、今しばらくは勉強を深めたいと思っております。ただ、最近になりまして、私は鈴木大拙師のお言葉を参考にさせて頂きながら『浄土』が少しぼんやりとではありますが見えて来たように感じています。
どう云うことかと申しますと、鈴木大拙師の論法で考えますと、この世が『穢土』(えど、娑婆、苦の土と云う意味で、浄土の反対)である事が認識出来ないと『浄土』と云う概念は想像出来ない、つまり『浄土』は見えないのだと思います。
この世は確かに楽しい事も一杯あり、苦しいばかりの娑婆ではないと言う思いを完全に拭うことは出来ません。だからこそ、皆が皆、この世の幸せを求めて右往左往している訳であります。幸せがあると思うから死にたくありませんし、他人の死を悲しみます。これは万人が認めるところだと思います。 この世に楽しい事があると思っている間は、お浄土ははっきりと思い浮かべる事は出来ません。「お浄土なんてあるはずも無い」と云う一見合理的、科学的、理知的な考え方の様に思われますが、実は、この世の真実、否、自分の心の実態が把握出来ていないから、そう言う考え方になるのではないかと思います。
自分の心の実態と言いますのは、親鸞聖人が仰られている、自己中心の、自己愛ばかりの、煩悩具足の凡夫だと云うことであります。この世は、四苦八苦と云う苦が満ち溢れているから穢土と言うのではなく、人間の心の中に満ち溢れている、自分では如何ともし難い我欲・自我・自己愛が心の中に穢土を現出しているのだと思います。その穢土に居る自己に目覚めた時に、初めて浄土を求め、阿弥陀仏の本願に出遇い、阿弥陀仏の救いを願い始めるのだと思います。
ただ、この段階は、未だ穢土と浄土の二元対立の分別の世界であり、浄土の真実が分かりますと、穢土と浄土が一如であると云う無分別の世界へと導かれると言うのが他力本願の教えだと考えているところであります。これまで述べて参りましたことは全て凡夫の分別から申し上げている事でありますが、浄土を考える上でのご参考になれば幸いであります。
No.642 2006.10.23
歎異抄に還って―第七章―@
●まえがき
無相庵カレンダー、3日に「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」と言う甲斐和里子女史(京都女子大創設者)のお歌があります。このお歌を詠われたお心は、この歎異抄第七章の「無碍の一道」そのものではないかと思っております。念仏者の歩む人生には障害となるものは何も無いと言うことでありますが、それはどう云うことでしょうか。白井成允先生、高史明師、山崎龍明師のご解説を合わせ読みながら、学びたいと思います。今回は、原文と、現代語訳、現代語意訳をご覧頂きたいと思います。
●第六章原文
念仏者は無碍(むげ)の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんちぎ)も敬伏し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆへなり、と、云々。●白井成允師の現代訳
念仏者は無碍の一道である。その理由はと云えば、信心の行者には天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することがない、罪悪も業報を感ずることが出来ず、諸善もおよぶことがないからである、と云々。●高史明師の現代語意訳
(念仏者は、念仏せしめられる者であります。念仏せしめられる者は、南無阿弥陀仏を行じ、証しているのであります。)この念仏者は、そのまま何ものによっても妨げられることのない、阿弥陀仏の(真理が輝く)無碍の一道であります。そのいわれを申しましょう。(念仏せしめられて念仏する念仏者は、阿弥陀仏の智慧を信心としていただく者であります。自分を中心にして自分が、信じるのではない、自分を根こそぎにくつがえされて、阿弥陀仏の信心をいただく者であります。)この信心の行者には、天の神、地の神々も、敬い従うことでありましょう。悪魔の世界にいる者、仏道以外の道を説く者も、この信心の行者の行く手を遮(さえぎ)り妨げることはできません、罪悪につきまとう悪業には、悪い報いがあるという業報を受け、それに振り回されることもなく、また、どのような善といえども、阿弥陀仏の真実の智慧にまさることはありませんので、阿弥陀仏の慈悲に包まれた念仏者は、阿弥陀仏の無碍の一道なのであります。●あとがき
原文に「念仏者は無碍の一道なり。」とございますが、一般的な表現としては、「念仏者が歩む道は、無碍の一道なり。」とか、「念仏は無碍の一道なり。」となるべきものであり、昔から、この念仏者の者≠フ解釈で論議があるようです。者を強調の意味で念仏に付け加えられていると言う意見もありますが、白井先生、高史明師共に、素直に「念仏者」と解釈されています。私は、本願他力にせしめられた念仏は、無碍の一道であると思いますので、念仏でも、念仏者、どちらでも構わないと思います。
No.641 2006.10.19
先師の遺志―専守防衛論
私の仏法の師は、井上善右衛門先生(故、元神戸商科大学学長、倫理学)ですが(私が勝手に思っているだけです)、その井上先生が師と仰がれているのが白井成允先生(故、元広島大学教授、倫理学)であります。井上善右衛門先生と白井成允先生のお歳は、約20歳離れていらっしゃったと存じますが、40歳離れておられた法然上人と親鸞聖人のようなご関係ではなかったかと推察しています。信心、人柄が生き写しであったと思われます。
その白井成允先生が、『人類の平和について』と言うご著書を残されていますが、その中で先生は意外にも、専守防衛論を繰り広げられているのです。私は、今回の北朝鮮の核実験を契機として、日本の防衛の有り方について迷いつつ考察していますが、どちらかと申しますと、抑止力としての核武装論に傾きつつあり、確認の意味もあって白井先生のご著書を再び紐解きました。白井先生ならばどう考えられるのか、或いは井上善右衛門先生ならば、仏法者としてどう考えられるだろうかと問いかけたい思いからであります。
結論から申しますと、白井先生は私の考え方を概ね支持して下さるものと思いました。それは、白井先生は核武装について言及されてはいませんが、日本国を守るためには、独立国としても、武装が必要だと言うお立場であったからであります。
白井先生のご著書の中に、次のような一文があります。
「私は日本国に大いなる使命がある事を信じますので、この国を護らざるを得ないのです。その意味に立って、今日の憲法を改めて独立国としての資格を具える軍備を持つべきものと思っています」 「今日の日本国憲法は、私どもが自ら定めた憲法なのではなく、戦敗国として戦勝国から与えられた憲法です。それにはあらためねばならぬ諸々の条項があります。軍備を放棄するという事もその一つです。私どもは自ら欲して軍備を放棄したのではなく、戦勝国の便利のためにこれを放棄せしめられたのです。だから、この頃はその同じ戦勝国の便利のために再軍備をしようと焦っているのです。」 このご著書の序文が昭和27年8月25日に書かれており、昭和29年6月に警察予備隊が変じて自衛隊が組織される前々年であり、恐らく、再軍備だと言う批判等が噴出していた頃だと思われます。白井先生が言われている日本国の使命とは、大乗仏教が花開いた唯一の国として、争いの絶えない世界を平和なものにする為には、欧米の二元対立思想(善と悪、正と邪、真と偽、等など)ではない、一如・一体(自然と人間は一体である。凡夫が仏になる、天皇と国民は一味であると言う)思想を人類の思想にする事だとされております。その為にも、日本国を護らねばならないと言う強い意志を白井先生は持たれていらっしゃったようであります。
日本が核保有国になるのは、極めて難しい、ほぼ不可能にも思える状況にはあります。核兵器不拡散条約(通称、NPT)加盟国を脱退しなければなりません。それは、今の北朝鮮と同じ立場になり、様々な制裁を受ける事態になります。世界の経済に多大な影響力を持ち、且つ国連でも責任ある立場の日本が果たしてそのような突拍子も無い舵を切れるかどうかは、甚だ疑問ではありますが、しかし、インド、パキスタンは既に核兵器保有国でありながら、一時的には制裁を受けたのも事実ですが、今や堂々と世界の仲間として扱われている現実もあります。
私は、日本国民が再び核被爆国にならない為にも、抑止力としての核を保有することを議論すべき時期に来ていると考えます。広島、長崎の被爆経験者の皆さんは、断固反対の立場である事を知っていますが、それでは、再び日本が被爆国になっても、それは甘んじて受けると言う立場かと言うと、決してそうとも言い切れないとおもうのです。あの昭和20年の被爆は、もし日本が核保有国であれば、有り得なかったと思います。そのような無防備のままに戦争に突っ走った権力者の無知と無責任さが、日本を唯一の被爆国にしてしまったのだと考えます。
勿論、核保有国になるか、或いは、たとえ核爆撃を受ける可能性があったにしても、核被爆国としての責務として、世界に核廃絶を訴え続けるのかは、国民の総意で決めるべきであります。白井先生は、「たとえ他国の侵略を受けても無抵抗主義を貫くと言う国民的総意があれば、それは国民の意思だから、再軍備する必要は無い」とおっしゃっていますが、おなじ考え方で、「たとえ、他国から核爆撃を受ける可能性があるにしても、日本は唯一の被爆国として、永遠に核廃絶を世界に訴え続ける責任がある」と言う高邁な国民的合意が為されれば、私も、それはそれで、大乗仏教の考え方にも副うものだと考えます。
政府は、日本国民を護る責任があります。特に歴史があり素晴らしい伝統のある日本を存続させる責任は大きいものがあります。アメリカの強い要請になびいて安易な再軍備に走ることは勿論避けねばなりません。しかし、日本と日本国民を護る為には、いざと言う時に本当に日米同盟が機能するのかどうか、またその保証は何処に見出されるのかを含めて、政府与党は勿論、野党も含めて真剣な議論をした上で、国民に問いかけ、国民に選択を求める必要があると思います。
中川政調会長が、核保有に関する議論をはじめても良いというコメントに対して、マスコミのみならず、与党内からまでも反発意見が出たことに、私はむしろ政治の不明朗さに危惧を抱き、一人の仏法者として、先師の意見も合わせて、敢えて、私見を申し述べた次第であります。