<TOPページへ戻る>


No.600  2006.5.29

歎異抄に還って―第一章―A

●まえがき
一般の方々の浄土真宗に対する認識は、どのようなものでしょうか。恐らく、「念仏を称えれば、死んだらお浄土へ往ける」と言うようなイメージではないかと推察しております。そして、それは、キリスト教の信者さん達が「アーメン」と神様に祈りを捧げて天国へ行きたいと考えているであろう、と言うのと殆ど変わらないと思われます。

そして、仏様に向かって、或いはお仏壇の前で、毎朝夕、一生懸命に念仏を称えなければ、お浄土へは参れないと言うのが、浄土真宗が教えるところだと認識されているのではないかと思いますが、これは、今に始まったことではなく、親鸞聖人が生きておられる頃でさえ、世間の人々からは、同じ様に見なされていたことは、歎異抄の第12章からよく窺がえます。

しかし、これらの認識が、親鸞聖人のご認識、ご心境とは全く異なるものである、と、唯円坊が明確に否定しておられるのが、この第1章の冒頭であります。唯円坊がよくよく考えられた上での冒頭のお言葉ですから、歎異抄の主眼であると言っても間違いないと思います。

すなわち、冒頭のお言葉は、「念仏を称えるから往生出来るのではない、阿弥陀仏の本願を信じ得たとき、そして念仏を称えたいと思った、その瞬間に、既に阿弥陀仏の智慧とお慈悲に抱かれて、決して手離されることがない、この上なく安らかな身の上になるのである」と言う、かなり思い切ったものであります。

●第一章原文
弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぎるほどの悪なきがゆへに、と。云々。

●白井成允師の第一章現代訳
阿弥陀仏の誓願の御不思議にたすけられまいらせて往生をばとげるのだと信じて念仏申そうと思い立つ心が起こる、その時早く、仏のおさめとりて決して捨てたまわぬおん恵みの中に入らせて頂くのである。

阿弥陀仏の本願には老人とか若い者とか善人とか悪人とか云う差別をば設けられず、一切の衆生を洩らさず救いたもうので、ただ信心が肝要だと知らねばならぬ。 その故は、罪深く悪重く煩悩の盛んに燃え立つ迷いの凡夫を助けんがために起こされた願であらせられるからである。 それであるから、阿弥陀仏の本願を信じ、身に頂いた上は、それより他のどんな善ももう要らない、弥陀の本願を妨げるほどの悪など無いのであるから、と云々。

●高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏は、光明であります。光明は、真実の智慧であります。この阿弥陀仏の誓い願われた不思議な力にお助け頂き、阿弥陀仏のみ国に、往って、生かされんと欲(ねが)い、阿弥陀仏の誓願を信じて、念仏申さんと思い立ち、念仏せしめられる時、その一念のその時、既にして、阿弥陀仏は、念仏する者すべてを、摂(おさ)め取って、捨てられることはない、という誓願の利益(りやく)に、包みとって下さっているのであります。

阿弥陀仏の願いの根本は、相手が、老人であるのか、また、若者であるのか、さらには善人であるのか、悪人であるのかで以っては、差別なさらず、万人を平等にお救い下さろうというところにあります。従って、この慈悲を頂く時には、どのような条件も必要ではありません。ただ、深信一つ、なくてはならないのは、それ一つのみであります。何故かといえば、阿弥陀仏の願いの根本とは、自らの智慧に惑い、光の命を見失うという本源的な罪悪に沈み、同じ惑いの智慧によって、全身に身の煩いと心の悩みの炎を燃え盛らせながら、どうする事も出来ない生きとし生きるものすべてを救い取らんとする真実智慧の光であって、人間の無明の知恵でもって理解しようとしても、理解出来るものではないからです、 そうであれば、この根本願との出遇いに至る道を、信心として頂くに当たって、大切なのは、念仏のみであって、無明の知恵によって為される他のどんな善も必要ではありません。阿弥陀仏の真実智慧の光を頂くに当たっては、念仏にまさるどのような善もないからであります。悪をも恐れることはありません。阿弥陀仏の全てを救わんという願いの、根本に輝く真実智慧の光明を曇らせ遮り、妨げることが出来るような悪は、どこにもないからであります。

●白井成允先生の解説より抜粋
本文の冒頭の御語、「弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。この御語の源には往生をばいかにして遂げ得るであろうかという切なる問が深く潜んでいる。そしてこの問は仏法とともに古く、人間とともに新しき永遠の問である。まことに「人身受け難し、今既に受く。仏法聞き難し、今既に聞く。この身今生において度(わた)らしめずば、更にいづれの生においてかこの身を度らしめん」と。この覚悟これすべての人格の奥深き魂の声でなければならない。度(わた)らしめるとは、迷いの此岸から悟りの彼岸に渡らしめるのである。この己れ一人の身を渡らしめることが、即ち一切の衆生を渡らしめる唯一道なのである。

己れ一人の度ると否とが即ち一切衆生の迷悟にかかわる一大事であることを思えば、この身この仏法を聞き得る今生において必ず度らしめねばならぬことが感ぜられるではないか。

そして、「念仏まふさんとおもひたつこころ」は、もとより、わが心を清め行を励まして念仏しその功徳を積みて往生の業を成就せんと思い計らいて念仏する心とは遥かに隔たっている。けだしかくの如きは念仏において自らの功業を見、その果として往生を予期するものであり、ここに念仏は往生の目的を遂げるための必要な手段となり、したがって、如何に努め励んで念仏しても、往生はいつまでも定まらない。

即ち、「本願の嘉号を以て己れの善根となす」不定聚(ふじょうじゅ)≠フ輩たるを免れないのに、真実に本願を頂く者にとって往生は我が計らいに由るにあらず、ただ仏の願力によりて定められるのであるから、その願力を聞く一念の中に、わが行業のおろそかなると否とに係わらず、むしろおろそかなるが知られれば知られるほどいよいよ確かに、往生は正しく定まって、また揺らぐことがないのである。これまさしく弥陀仏の本願より来ることであるから即ち「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と「念仏まふさんとおもひたつこころ」がおこらざるを得ないのである。

そして、阿弥陀仏の本願は、一切の衆生に対して、平等の心を持ちて救わんと誓いたたせたもうた光明の徳であらせられるから、いついかなる衆生といえどもその光明に照らされざる者はいないが、この弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるものと信ぜしめられたる者、即ち念仏まふさんと思い立った者は、わが心も身も世間も天地既に無明の暗闇に閉ざされたる存在ではない。そこに煩悩の雲霧いかに深くとざし、罪業の魔障いかに重くとも、それらに碍(さ)えられるところなく、往生の一道は浩然として明らかに、天地人生は久遠の慧光の中に輝く、を覚える。これを「摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と言わるるのである。

●あとがき
『阿弥陀仏』に関しましては、先週の木曜コラムにて、私なりの理解しているところをご説明させて頂きましたが、一つ書き忘れたことがございます。それは、ここまで表現してよいかどうか分かりませんが、人間の言葉として表現するならば、「阿弥陀仏とは、宇宙の全てを生み出し、動かしている力とか真理を象徴的に呼ぶ擬人化した名称である」と言うことになると、私は考えています。

しかし、弥陀の誓願不思議と言う表現がありますように、地球上に現われ出て、未だ間もない存在でしかない人類が、その智慧・知識を遥かに超えた宇宙の真実を知り得て、表現出来るものではないと考えるのが、親鸞聖人のお考えでありますから、前述の私の阿弥陀仏に関する表現は、表現する事自体愚かな考えだと言わねばなりません。それを前提として、お受け取り頂きたいと存じます。

また、これからも度々出て参ります、「誓願」「本願」に付いてでありますが、この阿弥陀仏の誓願・本願は、即ち私たちの魂の奥底に動く願いでもあると言っても良いと思います。私達は、誰しも幸せを願っています。心の平安を願っています。仏法的に表現致しますと、「迷いの世界から悟りの世界に移り住みたい」と言う願いを誰しも持っていると思います。これは阿弥陀仏の根本的な願い、即ち『本願』であり、そしてそれがそのまま私たちの願いでもあります。

この願いに気付き、果したいと心に強く思い立ったときが、念仏を申さんと思い立ったときであり、その瞬間、既に仏様に抱かれて、決して手離されることがなく仏様に護られると言うことだと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.599  2006.5.25

阿弥陀仏のこと

月曜コラムでは、無相庵としては2回目となる、歎異抄の勉強を始めておりますが、月曜コラムだけでは一般の方々には伝え切れないように思われますので、この木曜コラムで、一般の方々向けとして、時折、補足的に、浄土真宗の基礎知識とでも言う部分を勉強して参りたいと考えています。

今日は、第一章の冒頭の熟語「弥陀(みだ)」、すなわち「阿弥陀仏」(「阿弥陀如来」「阿弥陀様」とも申します)に付きまして、高史明師のご説明を抜粋引用させて頂きつつ、私の理解を申し述べたいと存じます。私の理解は、浄土真宗教団が認めるものではなく、私個人の受け取り方でありますので、あくまでも皆様の理解の参考として、「ああー、こういう考え方もあるのかな?」と言う感覚でお受け取り下さい。

先ずは、下記が高史明師のご説明の抜粋引用文です。
『弥陀とは、言うまでもなく、阿弥陀様であります。梵語の(Amitabha)の漢訳名(漢音訳)であって、その意味するところは、その智慧の光明は、計り知れず、無量のいのち≠備えておられるお方ということであります。とはいえ、いま申したお方≠ニいう表現にとらわれて。そのお方のありのままのお姿が、私どもの目にただちに見えるものだとは、お考えなさいませぬよう願います。光明無量といわれる智慧と、限りない寿(いのち)を備えられた阿弥陀様とは、真実の智慧と寿(いのち)とを、私どもに分かり易いようにと示されている、象徴的なみ名≠ナあります。私どもの目が濁っている限り、そのお姿は、決して見えてこないと言ってよいと思います。濁った目で見ようとするなら、私どもの目は、それこそあっと思う間もなく潰れてしまうに違いありません。それ故の象徴的なみ名≠ナあります。 もっとも、こうした私の言い回しに対しては、まてよ≠ニ首を傾(かし)げられる方がおられるかも知れません。現代人とは、自分の目で見てとったもの、考えたものだけを信じるという傾向があるわけでして、そういう方がおられても当然だと思います。私はしかし、決して突拍子もないことを申し上げているのではありません。それをご理解いただくには、すでに一度触れていることですが、いま一度、私どもの頭で考えるところのものは、どういうものであるか、また、私どもの目で見えるということは、どういうことであるのかを考えておきたいと思います。そのうえで、「弥陀の誓願」とは何か。なぜそれが「請願不思議」といわれているのかを考え、第一章の全体について申し述べてまいりたいと思います。』

以上が、高史明師のご説明の一部でありますが、それでも、私たちには、「阿弥陀仏」とは架空の存在、夢物語、神話のようにしか受け取れません。私も同様でありますが、多くの方も、「阿弥陀仏」と聞けば、奈良の大仏や、色々なお寺に飾られている仏像を思い浮かべられると思います。そして、その仏様が「西方浄土」に居られて、私たちを見守って下さっていると言われましても、俄(にわ)かには信じられません。

信じられないのは、私はむしろ当たり前であると思いますし、それが普通・常識・正常だと思います。もし、信じられる方が居られたと致しましたら、それは、むしろ「異常」或いは、何かあれば直ぐに信じられなくなる=u頼りない信」「不確かな信心」だと言わねばならないと思います。

しかし、「確かな信心」と言われるものもある事もまた事実だと思います。高史明師が確かな信心を持たれていることは勿論でありますが、親鸞聖人始め、多くの先師方、そして私自身が直接接した故井上善右衛門先生、西川玄苔老師も、間違いなく「確固たる信心」を持たれていらっしゃいましたし、持っていらっしゃいます。阿弥陀仏を、というよりも、阿弥陀仏のお働きを事実として感じられていらっしゃいましたし、感じていらっしゃいます。

端的なお話として、親鸞聖人がこの世に現れられたのも、阿弥陀仏のお働きですし、もっと遡(さかのぼ)りまして、2500年前に、この地球上にお釈迦様が現れられたのも、阿弥陀仏のお働きがあるからであります。と言うよりも、そこに阿弥陀仏のお働きを感じざるを得ないと思われるのであります。お働きが感じられれば、「阿弥陀仏」が実在するかしないかどうかとかは問題ではなくなるのではないでしょうか。丁度、私たちが、母親の愛情を一杯に感じたら、母親の存在を直接確認しなくとも、遠くのお母さんに思いを馳せるのと同じではないかと、私は、そう理解しております。

上述では、時代を経た遠い存在の親鸞聖人が阿弥陀仏のお働きの顕れだと申しましたが、確固たる信心を持たれた方には、自己を含めたこの世の全てが、阿弥陀仏のお働きの顕れだと思えるのだと、私は想像しております。私は、ウォーキング中に見る、道端の草花も、街路樹も、風も、雲も、大空も、全ては、阿弥陀仏のお働きだと確かに感じられるのが、仏法で説く『信心』或いは禅門で使う『お悟り』の世界ではなかろうかと、最近、考えるようになりました。考えるようになっただけであります。

私たちが見たり、聞いたりして感じる、この世の出来事や現象には、好ましいものばかりではありません。好ましいものばからでありますと、仏様のお蔭、阿弥陀仏のお働きだと受け取れますが、忌まわしい事件、悲惨な事故、災害、人災は、世界中で毎日起こっています。これらも阿弥陀仏のお働きだとは私にはとても受け取られません。「神も仏もないのか!」と、恨み言を言いたくなることはしょっちゅうであります。

この点に関しましては、親鸞聖人が、「善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり、そのゆへは如来の御こころによしとおぼしめすほどに知り通したらばこそ善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどに知り通したらばこそ悪しきを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろず(万)のこと皆もてそらごと(空事)・たわごと(戯言)、まこと(真)あることなきに・・・・」と仰られたと、歎異抄の『後述』の中で紹介されていますところから、考察致しますと、私たちには善悪の判定を出来る力は無いということでありましょう。 確かに、善いと思ってした事が却って悪いことになったり、災い転じて福と為すと言うように、悪い事だと受け取っていた事が、思わぬ善い方向に転じる機縁となることも経験しております。『禍福はあざなえる縄の如し』とも古くからの格言がございます。

それが、第一章の『誓願不思議』と言う『不思議』と言う言葉ともなって表現されているのだと思います。仏法で使用する『不思議』は『不可思議』とも表現され、いわゆるふしぎ≠ナはなく、「思慮することが不可能」「考えが及ばない」「人智を超えている」と言う意味で使用されている熟語であります。

だからと申しまして、善悪を考えず、この世を暮らせば良いのだと言う事ではないと言うことは、申すまでもないことであります。
私自身が阿弥陀仏の働きそのものであると感じられる、そして生かされている自分を感謝し、利他行に励まざるを得なくなると言うのが、阿弥陀仏を信じ得た、本当の信心を得たという事ではないか、私は、現在、そのように受け取っています。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.598  2006.5.22

歎異抄に還って―第一章―@

●まえがき
さて、いよいよ本文に入ります。 この歎異抄の勉強を進めるに当たりましては、歎異抄に初めて接しられる方、浄土真宗の教えにも初めて接しられる方は勿論、仏教そのものも初めてだと言われる読者の方々にもある程度理解して頂けるように、一緒に勉強をして参りたいと思っておりますが、正直申しまして、それも難しい面がございます。例えば、第一章の最初の熟語<弥陀>一つ取りましても、<弥陀> は、『阿弥陀仏(あみだぶつ)』を略したものでありますが、「阿弥陀仏」が分かれば、親鸞聖人の教えは勿論のこと、仏法が分かった、或いは信心を得た(禅門で言う悟りを開いた)とまで言い得るのではないかと思われるからであります。

それは、<弥陀>に続いて表現されている、<誓願不思議>、<往生>、<念仏>、<摂取不捨>、<利益(りえきではなく、りやくと読みます)>、 <本願>など等、全ての熟語も同様であります。しかし、それでは、とても前には進むことが出来ないのでありまして、ある程度のところで妥協しながら、しかし、私が理解している範囲で出来る限りの説明をして参りたいと考えておりますので、ご了承頂きたいと存じます。そして、仏教を専門的に勉強した経歴の無い私の理解には、私自身が自信を持ち得ておりません。どうか、より詳しくは、権威ある諸先生方の仏教書にて理解を深め、正しい知識を持たれることをお願い致します。

今日の第一章は、原文と、現代語への直訳と意訳に分けて転載させて頂きましたので、先ず第一章の主眼を掴み取って頂きたいと思います。第一章で唯円坊が言いたかった主眼に付きましての、白井成允先生のご見解を抜粋させて頂きますので、ご参考にして頂ければと思います。

●第一章原文
弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぎるほどの悪なきがゆへに、と。云々。

●白井成允師の第一章現代訳
阿弥陀仏の誓願の御不思議にたすけられまいらせて往生をばとげるのだと信じて念仏申そうと思い立つ心が起こる、その時早く、仏のおさめとりて決して捨てたまわぬおん恵みの中に入らせて頂くのである。 阿弥陀仏の本願には老人とか若い者とか善人とか悪人とか云う差別をば設けられず、一切の衆生を洩らさず救いたもうので、ただ信心が肝要だと知らねばならぬ。 その故は、罪深く悪重く煩悩の盛んに燃え立つ迷いの凡夫を助けんがために起こされた願であらせられるからである。 それであるから、阿弥陀仏の本願を信じ、身に頂いた上は、それより他のどんな善ももう要らない、弥陀の本願を妨げるほどの悪など無いのであるから、と云々。

●高史明師の現代語意訳
阿弥陀仏は、光明であります。光明は、真実の智慧であります。この阿弥陀仏の誓い願われた不思議な力にお助け頂き、阿弥陀仏のみ国に、往って、生かされんと欲(ねが)い、阿弥陀仏の誓願を信じて、念仏申さんと思い立ち、念仏せしめられる時、その一念のその時、既にして、阿弥陀仏は、念仏する者すべてを、摂(おさ)め取って、捨てられることはない、という誓願の利益(りやく)に、包みとって下さっているのであります。 阿弥陀仏の願いの根本は、相手が、老人であるのか、また、若者であるのか、さらには善人であるのか、悪人であるのかで以っては、差別なさらず、万人を平等にお救い下さろうというところにあります。従って、この慈悲を頂く時には、どのような条件も必要ではありません。ただ、深信一つ、なくてはならないのは、それ一つのみであります。何故かといえば、阿弥陀仏の願いの根本とは、自らの智慧に惑い、光の命を見失うという本源的な罪悪に沈み、同じ惑いの智慧によって、全身に身の煩いと心の悩みの炎を燃え盛らせながら、どうする事も出来ない生きとし生きるものすべてを救い取らんとする真実智慧の光であって、人間の無明の知恵でもって理解しようとしても、理解出来るものではないからです、 そうであれば、この根本願との出遇いに至る道を、信心として頂くに当たって、大切なのは、念仏のみであって、無明の知恵によって為される他のどんな善も必要ではありません。阿弥陀仏の真実智慧の光を頂くに当たっては、念仏にまさるどのような善もないからであります。悪をも恐れることはありません。阿弥陀仏の全てを救わんという願いの、根本に輝く真実智慧の光明を曇らせ遮り、妨げることが出来るような悪は、どこにもないからであります。

●白井成允先生の解説より抜粋
まず第一章は「弥陀の誓願不思議に助けられまひらせて、往生をばとぐるなり、と信じて、念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」と説く。この文はもといかにして往生をばとげ得べきかを心の奥の問題としている者に対(むか)いての答えである。このことは「往生をば」という「ば」の一語から明らかに知られる。それた単に「往生をとぐる」というのではなくして、「往生をば」どうしてとげるかの問を蔵せる心に対(むか)いての答えなるが故に、この「をば」の一語があるのである。即ち、この章の奥にひそめるものは往生の問題である。

●あとがき
「往生」というのは、「お浄土へ往き生まれること」であり、「成仏」とも同義語だと思いますが、現代人で、「お浄土へ往きたい」と願っている人は極めて少ないと思われます。私もそうですが、「確かにこの世は苦しいことが多いけれど、楽しい事だってある、お浄土が清く、楽なところだと言われても、やっぱり生きて、この世に居たい」と言うのが本音ではないかと思います。

親鸞聖人や唯円坊が生きていた時代は、平安末期から鎌倉時代にかけて、公家社会から武家社会に移行する不安定な時代であり、戦争が絶えることなく、また大飢饉や大火事も頻発し、京都の街は、死骸の山で、死臭が漂っていたという、現代人からは想像も出来ない世の中であり、まさに生き地獄そのものでありました。そう言う時代にありましては、お浄土があると聞けば、早くそちらに生まれ直したいと思う気持ちにもなりかねないような気も致します。

あの宇治の平等院は、末法の世の中に入ったとされる1052年に藤原頼道がこの世に浄土を造り上げたものだと言われており、庶民羨望のお寺と言われていたとの事でございますので、この世は穢土(えど、浄土とは逆の苦しみが満ち溢れた土)だと言う一般認識があった証拠ではないかと思われます。 しかし、現代も本当のところは、苦しい世の中であることには変わりが無いと思われます。煩悩がある限りは、楽しいと思うことも、やがては苦しみに変わるというのが現実の人間社会ではないでしょうか。親鸞聖人も勿論、生活苦も味わわれたと思いますが、それよりも、自分の心の中にある闇、渦巻く煩悩との葛藤に、地獄にある自己を見出されたのだと思われます。そして、「罪悪深重」「煩悩熾盛」の自分の救いを他力本願に見出されたのではないかと思います。

この世が楽しいところと思っていたり、<往生>から眼をそらしている凡夫には、お浄土が恋しいはずがないと思います。お浄土が恋しくなるには、親鸞聖人と同じく、真実の自己の正体を見破る必要があるのではないかと考えます。高史明師はご長男の自殺によって始めて自己の心の中の「罪悪深重」「煩悩熾盛」に出遇われたのだと思われますが、これは決して他人事では無いと思います。私達も今一度自己を見詰めなおしながら、この歎異抄を読み進みたいと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.597  2006.5.18

親鸞聖人の廻心(えしん)

親鸞聖人が浄土門での覚りとも言うべき『廻心(えしん)』の瞬間を自覚されていたのか、或いは自覚されず、何時とは無しに廻心≠ウれたのか、定かではございませんが、奥方の恵信尼(えしんに)が娘に書かれた手紙が現存していますが、その内容から、9歳から29歳まで仏道修行した比叡山を自らの意志で下りて、法然上人を訪ね、100日間にわたって法然上人の法話を聞き抜く間に、「法然上人が選び取られた念仏の道でしか救われない自分である」と徐々に確信されて行ったのではないかと思われます。

9歳で比叡山延暦寺に登られた親鸞聖人が、自らの意志で仏法を求められた上での事とは考え難く、何時、何故(なにゆえ)に自らの意志で仏法を求められるようになられたのか、どのような苦悩と対峙されたのか、非常に興味のあるところであります。 一部の見方と致しましては、性欲の処理に関する苦悩があったのではないかと言うものもあるようですが、それは皆無ではないでしょうが、中心的命題ではなかっただろうと思います。当時の仏教界は、武家の台頭によって既に斜陽化しつつあった公家社会と持ちつ持たれつの関係にあり、寺院は公家の子弟が生きて行く為の受け皿的存在であったようであります。そして、寺院での出世は、公家社会での地位によって決まるというものでありましたため、下級公家出身の親鸞聖人は、地位の高い公家出身の後輩達にどんどん追い抜かれてしまうという状況にあり、嫉妬心、挫折感等が入り混じった煩悩から救われたい一心であったと見る方が、むしろ自然ではないかと思います。

実際、当時の仏教界は朝廷と結び付いて勢力を強めようとする姿勢であり、欲望を追い求める集団と化しており、本当の意味で仏法を究めようと言う雰囲気は寺院からは消え失せていたようであります。従がいまして、本当の仏法求道者は、旧仏教を離れて行くしか方法が無かったようであります。しかし、それが新しい仏教を生み出すエネルギーとなり、鎌倉時代は法然、親鸞、道元、日蓮と言う各宗派の祖師方を生み出したと言えるのでありましょう。

比叡山に自分が求める仏法が無いことに目覚めた29歳の親鸞聖人は、聖徳太子縁(ゆかり)の六角堂(京都の烏丸)に100日間通われ、「わが進むべき道を示し給え」と本尊の如意輪観音(聖徳太子は、この観音の化身と古くから崇められていた)に祈り、聖徳太子の示現(じげん、夢のお告げ)を待ちわびたそうであります。恐らく、その行動に出られる前に、京都の吉水と言うところで法然上人が念仏の教えを説いて、多くの帰依者があったことを知っておられたと思われますが、その六角堂参り95日目に、「救いの道は京都吉水の庵にある法然に縁を求めよ」と言う示現を得られたということであります。これは、親鸞聖人の奥方の恵信尼公が書き残されている手紙に記されていますから、親鸞聖人から直接お聞きになった事実だと考えてよいでしょう。

そして、法然上人のもとを訪ねられたのでありますが、法然上人から一度お話を聞いた位ではそう簡単に「念仏以外に救われる道はない」とは納得出来なかったようであります。やはり、100日もの長い間、雨が降る日もどんな大風が吹こうとも、法然上人の法座に通い詰め、100日かけて漸く、「善人も、悪人も、弥陀の本願を心から信じ切るならば平等に救われる」事を確信出来たそうであります。これも、同じく恵信尼公の手紙に書き残されておりますので、間違いないところでありましょう。

考えて見ますと、親鸞聖人は、簡単に念仏の道に入られたのではないようであります。9歳から29歳までの20年間は経典の勉強を積み、念仏三昧堂の僧として、念仏を称え続けると言う自力の念仏修行も積み、その後に、100日の六角道参り、続いて100日間の吉水通いの後に漸く、他力の念仏に出遇われたのであります。

親鸞聖人の29歳までの数年間は、何としても救われたいと言う強い願望、即ち強い菩提心を感じざるを得ません。未だ廻心の確信が無い私には、親鸞聖人程の救われたいと言う強い願望は無いように思われます。親鸞聖人のその願いの強さは何から生じたものでしょうか・・・。「叩けよ、さらば開かれん」という言葉がありますが、やはり、強く叩かないと開かないと言うことだと思います。強く叩かないと廻心≠ヘ遠いものなのだと言うことだと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.596  2006.5.15

歎異抄に還って―序文―B

●まえがき
序文の後半のキーワードは、「自見の覚悟」と「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所」でありましょう。この言葉に、唯円坊の自信と、この歎異抄を書き記そうとした想いが表れていると思われます。 「自見の覚悟」とは、大きな法の世界に目覚めるのではなく、色々な人の法話や先輩の話の部分部分を聞きかじって、小さな小さな、浅い浅い思慮で以って、「仏法とはこういうもの、阿弥陀仏の本願の教えとはこういうもの」と、得手に聞いて勝手な信心に迷うことを言うのでありましょう。

唯円坊は、「親鸞聖人から直接聞いた教えの中でも、特に忘れられない教えを審らかにしたい」と述べられています。当時、既に親鸞聖人を開祖とする教団的なものが関東と京都で組織されつつあったのではないかと思いますが、その教団の指導者層の中でも様々な教えが説かれていたのだと思います。その指導者達は、必ずしも、親鸞聖人から直接教えを聞いた人たちばかりではなく、言わば親鸞聖人の孫弟子的な人々も多かったのだと思われます。

従って、その教えは、親鸞聖人の説かれていた教えとはかなり趣を異にしていたのでありましょう。唯円坊は、親鸞聖人から直接聞いた私が生きている間に「本当の教え」を説き示すのが、自分に課せられた役割であると何時しか確信されたのだと思われます。

●序文(原文は漢文)
竊(ひそ)かに愚案を廻(めぐ)らして、粗(ほぼ)古今(ここん)を勘(かんが)ふるに、先師(親鸞聖人)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識に依らずは、争(いかでか)易行の一門に入ることを得ん哉(や)。全く自見の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ。仍(よつ)て、故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所(ところ)、聊(いささ)か之れを注(しる)す。偏(ひとへ)に同心行者の不審を散ぜんが為也(ためなり)と云々(うんぬん)。

●序文の現代語意訳
私の愚かな考えではありますが、よくよく思いめぐらしてみますと、先師聖人が生きておられた頃と、最早お隠れになってしまわれた今の事とを比べ併せてみますと、今では、先師が親しく仰せ伝えくださった真実の信心に異なったことが云われ行われていることが、いかにも歎かわしいと思います。これでは、後々に親鸞聖人の御教えを学び伝えていく上に諸々の疑い惑いが起こるであろうと思われます。幸いにして御縁の深い善い師匠にお会いし、ねんごろな指導を頂かなくては、どうして、ただ念仏を称えるだけで救われる他力易行の門に入ることが出来るでしょうか。如来の御力によって生かされゆく念仏の本旨を自分ひとりの勝手な解釈と考えで本願他力の教えをゆがめてはならないと思います。そこで、今は亡き親鸞聖人が説かれた教えの中で今もなお私の耳の底に沁み込み残っている大切なお言葉をいささか書き記しておきたいと思います。これは、ただ同じ心で念仏の道を辿られる方々の疑問をはらしたいために他ならないのであります。

●山崎龍明師の解説より抜粋
「自見の覚悟」の意味は、自分勝手な見解、自己中心的な考え方といってもいいと思います。私たちはどこまでいってもこの「自己中心性」を脱却することが出来ません。親鸞聖人が「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)」と自己を規定していますが、言葉を替えていえばそれは「自我中心の自己」といってもよいと思います。親鸞聖人が生涯かけて問い続けたものはこの人間の「罪」と「悪」というものでした。

「罪」とか「悪」というと、どうしても、殺生とか偸盗といった具体的な行為を考えますが、親鸞聖人は、行為の奥にあるもの、つまり、行為を生み出すもの、行為の根底にある「自我」に深いまなざしを注ぎました。この「自我」そのものである「自己中心性」が、人間のさまざまな行為を形成するものであると認識していました。

歎異抄に示される「自見の覚悟」とは、どこまでも自己の信心が正しく、他の信心は誤っているとして拒絶するこころです。なにも、特別のことではありません。私たちの日常のこころであるといえます。この日常性が仏のまなざしから見ると「迷い」と映るのです。私たちは一向に「迷い」と思っていません。それどころか、それが「正しい」とさえ信じてやまないのです。

唯円の心中には、深く異議を歎き悲しむこころがありました。金子大栄師は「唯円の歎異を貫く心情を思うに、そこに知られることは、何よりも自己疎外を悲しむ心である。学解派も制規派も、現実の自分というものを忘れている。真宗の教法が知識化されることもそれによるのである。それは唯円の心においてとくに歎かわしかったのであった。したがって、義なきを義とす≠驍アとを強調する唯円の歎異の底には、しみじみと自己の姿をみせしめられるものが多い」と記しています。

金子師は、「現実の自分というものを忘れ」て念仏の教法を営むとき、そこから異議が生まれると記しています。教法の観念化といっても良いかも知れません。今、ここにいる、私を通さない教法の領解は、ともすると観念化します。ここでは、抽象的概念が先行し、言葉だけがひとり歩きして、さまざまな波紋を生じます。異議もそのあらわれの一つといってよいでしょう。

●あとがき
「自見の覚悟」という言葉は、私にも重く伝わって参ります。 と申しますのは、私は以前から、本当の親鸞聖人の教えを伝えるべき本願寺教団が、報恩講や、葬式・法事・などの行事や、建物や仏具・仏壇など目に見える物を大切にして、念仏をネタに人集め、お金集めに腐心する姿を批判して参りました。そして、本願寺教団は、表面的な念仏を称えることをのみを指導し、阿弥陀仏の本願についての正しい教えを説いていないとも批判して来ました。教団に所属する指導的立場におられる講師方の中にも、信心よりも先ずは念仏を称えることを第一義として居られるのではないかと思われる方を散見し、「ちょっと違うのではないか」と暗い気持ちになっていた事もございました。

そして又一方、そういう本願寺教団に反発して、「浄土真宗には廻心(えしん、禅門における覚り)が無くてはならぬ、廻心を感じる瞬間がなければ、それは本当の信心を得たことにはならない」として、別の組織を立ち上げ、多くの信者を集めて外見的には本願寺よりも立派な建物を誇っている教団もございますが、これもまた、「自見の覚悟」ではないかと批判して参りました。

しかし、それではそういう私自身はどうなのかと問わねばならないことがありました。そして私自身も、必ずしも、他を批判出来る心境にも立場にも無い事を自認せざるを得ないことに気付かされました。唯円坊が言われている「自見の覚悟」を持っていながら、他を批判することは、最もしてはならないことだと今では思っております。「自見の覚悟」には誰しも陥りやすいと思います。いや、源信僧都のお言葉をお借りするならば、『「自見の覚悟」はもとより凡夫の自体なり』なのかも知れません。そういう自分を常に振り返りつつ、唯円坊の示される『親鸞聖人の御物語』をじっくり読み直したいと思っております。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.595  2006.5.11

高史明師と歎異抄

仏教との出遇い、或いは歎異抄との出遇いと言うものは、多くの場合、ある大切な人の死≠ナあるとか人生がひっくり返るような出来事≠ノ遭遇すると言う縁に依って生じるもののようであります。このコラムで何回か紹介させて頂きましたが、私の母も、長女を小学校入学したての4月(昭和12年4月15日)に突然の病で失った事に大変なショックを受けて仏法に救いを求めました。当時では珍しい働く主婦でしたが、それを機に教職を辞めて、聞法に勤しみ、数年してある安心を得たと思える瞬間があったと聞いております。そして、その恩返しの意味もあったのでしょう、昭和25年に自ら主宰者として聞法の会(月1回開催)を神戸市垂水区で開き(垂水見真会)ました。その垂水見真会は、今も継続しており、約500回を超えています。そして、この私が無相庵ホームページを開設し、コラムを続けている直接的な源を訪ねれば、その長女の死である事は明らかであります。

月曜コラム『歎異抄に還って』にこれからも度々登場して頂くことになる高史明師は12歳のご長男の自死によって、『歎異抄』との出遇いが実現したようであります。その経緯を師は、昭和63年にNHKラジオ番組『こころをよむ』の中で、次のように語っておられます。

高史明師のお話からの抜粋:
この歎異抄をこれから12回にわたって、皆様とご一緒に学ばせていただくことになりました。ありがたいことです。頭が下がります。また、不思議な感じがしてなりません。私は日本で生まれ、日本で育った人間ですが、日本人ではありません。朝鮮人であります。その私が、日本で花開いた、仏教の精華と言ってもよい『歎異抄』をご一緒に学ばせていただけることになっているのであります。これこそが、仏縁というものでしょうか。

そういえば、仏教公伝は、西暦538年であったとされており、それは聖徳太子がお生まれになる36年ほど前のことでありました。今日のこのご縁も、インドに始まった深い深い仏縁のしからしむるものでありましよう。いいえ、釈尊の覚りがすでにして、私どもには計り知ることのできない、宇宙の始源の、その奥の奥から、働きつづけて下さっている阿弥陀仏の法の現われであると、考えることが出来ます。そうだとするなら、今日のご縁は、まさに不可思議な仏縁そのものであると言い切って良いように思えます。その意味で、私は、深く頭が下がるのを覚えるのであります。

だが、それ故にまた、ここで私は改めて、今日のご縁に至るまでの自分を、考えてみずにはおれません。それと申しますのは、たとえ仏教が、そのように開かれているものであるとしても、この私は、長い間、この教えに目を閉じてきた人間であったということであります。仏教とは、自分とは縁の無いものだ、とこう私は思っていたのでした。それがいま、こうしてともに、学ばせていただけることになっているのであります。私をここまで導いてきたものは、何か。私は、それを考えます。いまここにあって、これからもなお、ありつづけるであろう縁は、まさに無数といってよいでありましょう。仏様の働きは、私どもに計り知ることが出来るものではありません。それをそれとして知りつつ、なお私は考えるのであります。そして、私には、思い至ることがあります。

私は朝鮮人でありますが、私の妻は、日本人であります。この私たちの間に、一人子が恵まれていました。私たちにとっては、それこそ何ものにも代えがたい、宝のような子でした。それだけでなく、近代の始まりにおいて生じた、朝鮮と日本の不幸な出来事を考えますとき、私たちにとってその子は、その不幸を乗り越えてゆく両者の架け橋でもありました。私たちが、そのように思うのは、親の身勝手というものでありましょうか。その大切な、大切な子が、死んでしまったのであります。しかも、それが自死でした。そのときまだ、12歳でしかなかった子が、その年齢で自ら生命を断って、世を去ってしまったのであります。それから13年ほどの年月が経過していますが、いまなお私は、そのときのことをよく言い表すことが出来ません。そのとき私は、私がそれまで頼りとしてきた自分≠ニいうものを、根こそぎに打ち砕かれてしまったのだ、と言えます。大切な、大切な子。その子を、私がそのように思っていたことは確かだとしても、私の自分≠ニいうものは、その子の苦悩を、おなじ屋根の下にいながら、まるで感じ取ることが出来なかったのでした。それは、この私こそが、たとえ頭の中で、その子をどんなに大事に思っていたとしても、その大切な子を、死に追いやった張本人であった、ということにも通じる鈍感さであったと言えます。

この鈍感さは、何であるのか。何が、このようにも生命の息吹きを直接感じさせなくしていたのか。私が『歎異抄』の前に跪(ひざまず)くようになったのは、この出来事があってのことでした。仏教に背を向けていた私とは、いのちに背を向けていた人間だったのでした。死んだ子が、この私を、『歎異抄』へと導いてくれたのであります。今日のご縁に不思議を感じる私の胸底には、この子への言い表しようもない思いがあって、それが強く波打っているのであります。

『歎異抄』の「歎異」とは、異なるを歎くという意味であります。子に死なれた後、ただ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の6字を書き続けるほかなかった私。私はしかし、それを通して教えられました。異なるを歎かれていたのは、他ならぬ私自身だったのでした。いのちに背を向けていた私が、仏様に歎かれていたのだと、いまにして思い至ります。『歎異抄』が、それを教えてくれました。これが私にとっての『歎異抄』であります。私はこの思いに立って、また、それを深める場として、これからの12回のご縁を頂いていこうと思います。

―抜粋終わり

ご長男は12歳でしたが、凄い詩心があり、12歳のものとは思えない詩を多く遺されています。それらの殆どは『僕は12歳』と言う本に掲載されていますが、詩にその子の想いが遺されているだけに余計に辛い思いをされたのだと思います。 我が子に自殺された、しかも未だ12歳で。ということになりますと、経験の無い私の想像をはるかに超えた、悶々とした日々を過ごされたものと推察出来ます。そして、自分を責め続ける日々の中で、どういう縁か存じませんが、『歎異抄』との出遇いがあったものと思われます。

私自身の仏教との縁は、乳幼児の頃から母の背中で法話を聞くと言うところから始まっていますが、積極的に求めると言うことも無く50歳を超えてしまいました。このコラムは5年前から始まっていますが、46歳で起業した会社が55歳にして経営破綻し、それまでの全自己を否定された苦悩から救われたくて、人生で始めて自らの意志で仏法を求めました。今なお、その経済危機は続いてはおりますが、こうして仏教コラムを書き続けていられるのは、歎異抄を含む、仏法との出遇いがあったからだと思っております。

私のこの5年間を振り返りながら、そして高史明師の苦悩にも思い致しながら、歎異抄を学びたいと思っております。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.594  2006.5.8

歎異抄に還って―序文―A

●まえがき
親鸞聖人の教えと異なる教えの横行を歎いて書かれた『歎異抄』自体が、実は親鸞聖人の教えとは異なると言う論陣を張る人々もいますし、『歎異抄』が親鸞聖人の教えでなくても、私は歎異抄そのものを大切にしたいと言う人々もいます。人間には功名心があって、有名な『歎異抄』を利用して世に出ようと言う人々も多くいるのでしょう。

歎異抄が親鸞聖人の教えかどうかは、仏法を求める人には全く関係無いことだと言ってよいと思います。親鸞聖人の教えだから、信じるという姿勢は、人を頼りにしたものであり、法を頼りにしたものではなく、真実を求める姿勢からは程遠いものだと思います。

『歎異抄』は、唯円坊が親鸞聖人から直接受け取った仏法の内容でありますが、親鸞聖人が書かれたものではないことも事実であります。唯円坊の素直な気持ちを素直に受け取りながら、読んで行きたいものであります。

●序文(原文は漢文)
竊(ひそ)かに愚案を廻(めぐ)らして、粗(ほぼ)古今(ここん)を勘(かんが)ふるに、先師(親鸞聖人)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識に依らずは、争(いかでか)易行の一門に入ることを得ん哉(や)。
全く自見の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ。仍(よつ)て、故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所(ところ)、聊(いささ)か之れを注(しる)す。偏(ひとへ)に同心行者の不審を散ぜんが為也(ためなり)と云々(うんぬん)。

●序文の現代語意訳
私の愚かな考えではありますが、よくよく思いめぐらしてみますと、先師聖人が生きておられた頃と、最早お隠れになってしまわれた今の事とを比べ併せてみますと、今では、先師が親しく仰せ伝えくださった真実の信心に異なったことが云われ行われていることが、いかにも歎かわしいと思います。これでは、後々に親鸞聖人の御教えを学び伝えていく上に諸々の疑い惑いが起こるであろうと思われます。幸いにして御縁の深い善い師匠にお会いし、ねんごろな指導を頂かなくては、どうして、ただ念仏を称えるだけで救われる他力易行の門に入ることが出来るでしょうか。
如来の御力によって生かされゆく念仏の本旨を自分ひとりの勝手な解釈と考えで本願他力の教えをゆがめてはならないと思います。そこで、今は亡き親鸞聖人が説かれた教えの中で今もなお私の耳の底に沁み込み残っている大切なお言葉をいささか書き記しておきたいと思います。これは、ただ同じ心で念仏の道を辿られる方々の疑問をはらしたいために他ならないのであります。

●山崎龍明師の解説より抜粋
『歎異抄』の序文で唯円はいくつかの、きわめて重要な文言を示しています。私は序文の中で次の四つの言葉がキーワードだと考えます。 @先師の口伝の真信
A自見の覚悟
B耳の底に留むるところ
C不審を散ぜん
「先師の口伝の真信」という語は、文字通り師である親鸞聖人が直接お説きになった真実の信心という意味であることは、いうまでもありません。この信心と異なった教えが最近横行していると唯円はいうのです。ここから『歎異抄』という著述は出発しています。
しかし、この「先師の口伝の真信」の「口伝」という表現に抵抗感を表明する人々もいます。つまり、この「口伝」という表現は、唯円が直接の師である親鸞聖人との密接な関係を示すために用いられたものであると言うのです。本来、口伝とは「口伝法門」という語がある通り、師が信頼出来る弟子に直接、口伝えに法門を伝授することを意味します。が、果たして親鸞聖人は、そのような方法を取ったのかどうか、極めて疑問だというわけです。そこには、唯円の作為があると言うのです。 私はもっと単純に、「先師の口伝」とは、「私が親鸞聖人から直接聞いた教え」と言う程度のものだろうと考えます。 『歎異抄』はいうまでもなく、親鸞聖人の言葉を聞き、その教えに生きた念仏者唯円の編集したものです。唯円がいくら「先師の口伝」に生きた者といったとしても、そこには、当然距離があることは否めません。しかし、その唯円の編述した『歎異抄』に心から傾倒し、人生の指針としてきた人が無数にいることもまた周知のところです。歎異抄第三条の「悪人正機章」に見られる教えは親鸞のものでなく、全く仏教とは言えない教えであることを、仏陀の教えに即して、『歎異抄』を批判した長井真琴氏の論文『歎異抄の厳正批判』に対して正面から反論したのが、歌人であり、良寛の研究者でもあった吉野秀雄(1902〜67)でした。その批判は学術的なものできありませんが、『歎異抄』に深く傾倒しながら、病苦のうちに65年の生涯を生きたひとりの人間のギリギリのうめきにも似たメッセージでした。吉野氏は、「万々一歎異抄が偽作か何かで内容上親鸞とは無関係となった場合には、わたしは親鸞宗はさっさとやめて、歎異抄宗、唯円宗となるだろう。」とまで深く『歎異抄』に傾倒されていたのであります。

●あとがき
お釈迦様が説かれた仏法は、色々な経典にもなり、今では無数と云って良い程の宗派に分かれています。約10年前に起きたサリンなどによる大量殺人事件を起こした団体も自称仏教に属する教団だと聞いております。教えの一部分を捉えれば、どのような教義にもなり得る事は、仏教のみならず、イスラム教にもキリスト教にも見られることであります。

歎異抄は、親鸞聖人が亡くなられて20年位して書かれたものようでありますが、親鸞聖人が京都で晩年を過ごされている時から、既に関東では、異なった教えが説かれていたようであります。そしてそれを治めるために親鸞聖人は長男の善鸞を派遣されるのですが、その善鸞が土地の修験道の行者達と組んで、親鸞聖人と異なった教えを説く団体を組織すると言う事件も起こったりしました。

これらは別に昔だけに限ったことではなく、現代におきましても、本願寺教団の説く教えは親鸞聖人の教えではないとして、別の教団を組織している実態がございます。人に依らず、法に依れと申しますが、唯円坊も、幸いに有縁の知識(師匠)に・・・・」と書かれていますようにやはり善き師に付くことが最も大切であります。その師を選ぶ場合に、その師のまた師がどなたであるかが大切だと思われます。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.593  2006.5.4

宗教教育について

教育基本法改正案の第15条に「宗教教育」と言う項目で次のように規定されています。

(宗教教育)
第15条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されねばならない。
2 国及び地方公共団体はが設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育をしてはならない
太字以外は、現行教育基本法にも全く一字一句違うことなく規定されていますが、「宗教に関する一般的な教養」と言う文言が入れられたのは、犯罪を起こす宗教団体の存在があったり、いかがわしい宗教に惑わされて財産を失う事例が増えていたり、教団側による性的暴力の被害も散見されるところから、正しい宗教とはどう云うものかを学校教育の場でしっかり教え込んでおく必要があると判断したからであると聞いています。

宗教団体をバックに持つ与党のパートナー公明党の主張があった事も無視出来ないとは思いますが、与党の政治家達としては珍しく良い事を考えたものだと私は評価しております。ただ、しかし、具体的にはどのように「宗教に関する一般的な教養」を教え込もうとしているのであろうかと、少々気になっています。

世界の三大宗教(仏教、イスラム教、キリスト教)を個別に平等に紹介すると言う方法もありますが、三大宗教から洩れた宗教団体からのクレームが想定され現実的ではないと思います。洩れなく紹介し尽すことが出来ない訳でありますから、具体的な宗教名を上げる事は許されないことになると思われます。

私の考えるところと致しましては、いわゆる信仰めいた内容を指導内容から外して、宗教の持つ『真理を追究する姿勢・考え方・洞察力』と言った面を指導内容にすべきだと思います。それには、古代日本、そして飛鳥・奈良時代から日本人の生活に溶け込んできている神道と仏教の基本的な考え方を中心とすれば良いと思います、飽くまでも信仰と言う概念を持ち出さずに、であります。

具体的には、次の二つを指導の要点としてはどうかと考えています。

  1. 私達の命は多くの命に支えられている事、また、地球自体が太陽系、銀河系、宇宙と言う繋がりの中で存在しており、宇宙全体にも支えられている命でもある事。だから、命を大切にし、自然を大切にしなければならない事(命の尊さ)。
  2. 真理に対して人間は謙虚であるべき事。人間が分かっていると思っている事は、真理の中の一部分にしか過ぎない事。人間の存在そのものが真理の中のホンの一部分であり、常に自分に対しても、また、人間社会で正義とされ、善と思われている事に対しても、懐疑的精神を失ってはならない事(真理に対する謙虚さ)。
私は塾での指導の中で、特別な形ではなく、日常的な話題の中で少しずつ教えている積りです。信仰と言うものは強要すべきものではありませんが、上述の『命の尊さ』と『真理に対する謙虚さ』は、教育の基本的指導事項だと思っており、今まで義務教育で指導して来なかった事が、昨今の憂うべき社会を作り出した要因の一つではないかと思ってもおります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.592  2006.5.1

歎異抄に還って―序文

●まえがき
さて、いよいよ4年振りの歎異抄の勉強に入ります。 序文は、作者とされる唯円坊(1222〜1289年)が歎異抄を書く目的を自らに言い聞かせながら披露されたものではないかと思います。親鸞聖人が亡くなられたのは、唯円坊が満40歳頃であるとされています。『後述』(後序とか結語とも言うようです)での「露命わづかに枯れ草の身にかかりて候ほどにこそ・・・」と言う表現から類推して、歎異抄を書き記したのは唯円坊60歳を過ぎて親鸞聖人が亡くなられて20年は経過した頃と思われますが、この歎異抄を遺そうとした唯円坊は、自分こそが親鸞聖人の教えを正しく受け継いだ者であると言う自信をお持ちだったと思います。しかし、その自信は何を根拠としているのかは明らかではありませんが、かなり長い年月に亘って、親鸞聖人のお側に居られた事は間違い無いところでありましょう。

唯円坊が何時何処で親鸞聖人から直接指導を受けたのか、非常に興味があるところですし、歎異抄と親鸞聖人ご自身が著述された『教行信証』との整合性を研究する上でも大切な事だと思います。歎異抄の作者に付いては唯円坊であると言うコンセンサスは得られているのでありますが、親鸞聖人と唯円坊が何時何処で起居を共にしたかについては、どうやら明らかには出来ないままであるようです。

唯円坊は関東の生まれ育ちである事は間違い無さそうですが、親鸞聖人が越後から関東に移動され、関東での布教に努めておられた期間は1214年から1235年であり、親鸞聖人が関東に赴かれた時には未だ生まれてもおらず、そして唯円坊が13歳の時には親鸞聖人は京都に戻られておりますから、年齢から考えますと、歎異抄第9条にある親鸞聖人との会話を持たれたのは関東では無いと考えるのが妥当であろうと思われます。

恐らく、唯円坊は何か或る時一大決心をして、親鸞聖人を頼って関東から京都へと上り、そして弟子として住み込み、教えを請うたのではないでしょうか。或いは、第2条に書かれている関東から京都に親鸞聖人を訪ねた面々の中の一人が唯円坊で、そのまま親鸞聖人の下に居残ったのかも知れません。何れにしましても、この歎異抄は、かなり長い期間親鸞聖人と寝食を共にしていないと書けない内容であります。

そう言うところから、唯円坊が親鸞聖人の教えを後の世に伝えるのは自分しかいないと考えたとしても不思議ではないと思います。そして、歎異抄が色々な時代の波に洗われながらも遺失されず、現代まで存在し続けた事から考えまして、唯円坊が歎異抄を執筆した場所は、関東である可能性は低く、やがて本願寺となる親鸞聖人のお墓近くでは無かったかと思います。これらは飽くまでも素人の想像の世界でありますが、歎異抄が何時何処で書かれたものか、また親鸞聖人と作者との位置関係を想定する事は、歎異抄の真髄に迫る上でも大切ではないかと思い、長々と書き記させて頂きました。

今日は、序文の一言一言の意味を読み取ると言いますよりも、全体に流れる著者の意気込みを感じたいと思います。そして次回から、著者の心を深いところで働いている想いを想像いてみたいと思います。

●序文(原文は漢文)
竊(ひそ)かに愚案を廻(めぐ)らして、粗(ほぼ)古今(ここん)を勘(かんが)ふるに、先師(親鸞聖人)の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふに、幸ひに有縁の知識に依らずは、争(いかでか)易行の一門に入ることを得ん哉(や)。全く自見の覚悟を以って、他力の宗旨を乱ること莫(なか)れ。仍(よつ)て、故親鸞聖人の御物語の趣(おもむき)、耳の底に留むる所(ところ)、聊(いささ)か之れを注(しる)す。偏(ひとへ)に同心行者の不審を散ぜんが為也(ためなり)と云々(うんぬん)。

●序文の現代語意訳
私の愚かな考えではありますが、よくよく思いめぐらしてみますと、先師聖人が生きておられた頃と、最早お隠れになってしまわれた今の事とを比べ併せてみますと、今では、先師が親しく仰せ伝えくださった真実の信心に異なったことが云われ行われていることが、いかにも歎かわしいと思います。これでは、後々に親鸞聖人の御教えを学び伝えていく上に諸々の疑い惑いが起こるであろうと思われます。幸いにして御縁の深い善い師匠にお会いし、ねんごろな指導を頂かなくては、どうして、ただ念仏を称えるだけで救われる他力易行の門に入ることが出来るでしょうか。如来の御力によって生かされゆく念仏の本旨を自分ひとりの勝手な解釈と考えで本願他力の教えをゆがめてはならないと思います。そこで、今は亡き親鸞聖人が説かれた教えの中で今もなお私の耳の底に沁み込み残っている大切なお言葉をいささか書き記しておきたいと思います。これは、ただ同じ心で念仏の道を辿られる方々の疑問をはらしたいために他ならないのであります。

●あとがき
白井成允先生は現代語に意訳されておりますが、残念ながら、序文の解説はされていません。高史明師と山崎龍明師は、特に「自見の覚悟」について考察されています。自分勝手な解釈・領解と言う意味でありますが、今も学者の中には、歎異抄は親鸞聖人の教えとは全く異なる点があるとする見解を持つ人もおられます。唯円坊こそが「自見の覚悟」に陥っているではないかと言う厳しい意見であります。

唯円坊が自見の覚悟で歎異抄を書いたかどうかは、今では親鸞聖人も唯円坊にも確認のしようがございませんから、無駄な議論であると私は思います。宗教と言うものは、性格上、色々な異見(いけん)に分かれる運命を持っていると思います。みんなが皆、自見の覚悟状態にあると言っても過言ではないかも知れません。

私は、この歎異抄が親鸞聖人の教えと何処が同じで何処が違うかに付いて知ろうと言うよりも、真理に対してどうなのかと言う視点で考察しなければならないと思っています。真理、具体的には、お釈迦様の説かれた法に照らしてどうなのか?≠ニ言う冷静な立場で、今回、この歎異抄を読み直したいと思っております。そして、常に自分自身が『自見の覚悟』に踏み迷っているはずだと言う気持ちで、最後まで読み進みたいと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.591  2006.4.27

白井成允師著書『歎異抄領解』との縁

月曜コラム『歎異抄に還って』は来週から本文に入るのですが、参考書として用いようとしている『歎異抄領解(たんにしょうりょうげ)』は、法話コーナーでも紹介させて頂いている故白井成允先生のご著書であります。4年前、このコラムで『歎異抄の心』として勉強経過を連載していた時期には未だ絶版状態のままとなっており、私は古書を求めて探したのですが、結局は入手出来ないままでした。しかし「凄い」としか言いようが無い縁によって、『歎異抄の心』が終わる頃、たまたま入手出来たのであります。そして、この『歎異抄領解』の入手が、今回の『歎異抄に還って』への縁となっているとものと思います。

私が『歎異抄領解』の存在を知りましたのは、今は名古屋宋吉寺東堂の西川玄苔老師が、ご法話(昭和55年)の中で紹介下さったからであります。西川玄苔老師は曹洞宗のお坊様でありますが、江戸時代の同じ曹洞宗のお坊様であられる良寛様と同様に念仏を喜ばれる方であります。西川玄苔老師は、京都女子大学創設者であった甲斐和里子女史からの紹介により、白井成允先生にお会いになられて他力本願の教えに接せられました。そして、白井成允先生のご著書『歎異抄領解』を読まれ、目から鱗が落ちるとでも言う様な大きな影響を受けられたと言う事をお聞きしたのでありました。そして、何回も何回も読み直され、そしてまた白井先生とのご交流を重ねられる中に、或る時、廻心(えしん)を経験されて、禅僧であり且つ念仏者となられたのであります。

そう言う経緯から、私は『歎異抄領解』と言う本が読みたくて読みたくてたまらなかった訳であります。

そしてそれは今思いますと運命の2002年3月21日でありますが、名古屋空港から台湾行きの飛行機に乗るために名古屋に参りました。それは、愛知県の企業の社長と台湾に商談に行く必要が出来たからでありました。私は名古屋にはあまり行く機会がありませんので、この機会にと宋吉寺の西川玄苔老師を訪ねました。連絡なくお伺いしたため生憎ご不在でしたので、志を置いて辞したのでありますが、飛行機の時刻にはかなり時間がありましたので、飛行機の中ででも読むような本を物色して時間を過ごそうと名古屋駅の建物内にある高島屋デパートの本屋さんに立ち寄りました。

その本屋さんの棚に何と『歎異抄領解』と言う本があったのです。本当に目を見張る位に驚きました。「ええっ?」と我が目を疑うとはこの事かと・・・。それは何と50年振りに新装初版されたものでありましたが、それも、私が見付けた前日の2002年3月20日付けの新装初版だったのです。今にして思えば、あの台湾出張(結局、目的とした商談はまとまりませんでした)も、たまたま名古屋空港から飛び立つ事になった事も、全ては私を『歎異抄領解』に出遇わせるための仏様のお計らいだったのだと思わずには居られません。

そう思うとき、何の関係もないように思われる仕事上の台湾出張が、『歎異抄領解』との出会いを生み、そして、今回の『歎異抄に還って』と言う連載を生ましめた事になり、縁と言う不可称、不可説、不可思議の世界にあらためて気付かされるのであります。

この新装初版の『歎異抄領解』には、玉城康四郎先生のご解説が巻末に記されているのでありますが、それがまた、その中に、西川玄苔老師と白井成允先生の触れ合いに言及されている箇所があり、また、大きな縁を感じた次第であります。その箇所の転載をさせて頂いて、この『歎異抄領解』との縁に関する話を締め括らせて頂きます。

玉城康四郎先生の解説文からの転載:
『白井先生は、年譜を見ると昭和48年に亡くなっておられる。それから数年たってのことであったと思う。NHK、教育テレビの「宗教の時間」(今では「こころの時代」)に、曹洞宗のある出家者の方が出演されたことがある。何かの話に、自分はどうしても悩みから解放されなかったが、白井先生にお会いすることによって本当に救われた、といわれた。なるほどと思った。それは、曹洞宗から浄土真宗へ転宗したというような型どおりのことではない。道元禅師に学ぶものには当然のことであると思われる。あれほど道元に傾倒した良寛さんに、道元にはなかった念仏の花が開いている。その時々の縁によって現われ方が違ってくるが、親鸞聖人にも道元禅師にも通ずる大きないのち≠フ流れが連綿とつづいていて、今もなお絶えることがない。その流れの中からおこってきた一つの縁結びに、この出家者と白井先生との出会いがあったと思う』

私と西川玄苔老師との縁も、この玉城康四郎が見ておられた番組を私の母と一緒に見ていて、垂水見真会にお招きした事が始まりでありました。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>



[HOME]