<TOPページへ戻る>


No.580  2006.3.20

正信偈の心を読む―第45講【依釈段(源空章)―@】

● まえがき
親鸞聖人は29歳の時にそれまで仏道修行をされていた比叡山を降りられて、69歳の法然上人をお訪ねになられて、自力聖道門から他力浄土門に入られました。この源空と言うのは法然上人のことであり、そしてこの源空章の始めに本師源空と呼ばれています。

勿論、親鸞聖人は源信僧都も善導大師も道綽禅師も曇鸞大師も師と崇められていらっしゃいますが、本当の師は、顔を拝み声を聞いて直接教えを頂いた法然上人であると宣言されているのであります。

浄土真宗は親鸞聖人が開祖であると後の世の人々は言っているのでありますが、親鸞聖人は浄土真宗は法然上人がお開きになられたといわれるでありましょう。

● 依釈段(源空章)原文
本師源空明仏教(ほんしげんくうみょうぶっきょう)
憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんまくぼんぶにん)
真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう)
選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)
還来生死輪転家(げんらいしょうじりんてんげ)
決以疑情為所止(けついぎじょういしょうし)
速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく)
必以信心為能入(ひついしんじんいのうにゅう)

● 依釈段(源空章)和訳
本師源空は仏教に明らかにして
善悪の凡夫人を憐愍し
真宗の教証を片州に興し
選択本願を悪世に弘めたもう
生死輪転の家に還来することは
決するに疑情を以って所止と為す
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは
必ず信心を以って能入と為す

● 大原性実師の現代意訳(全文)
本師である源空法然上人は一大仏教に通達されましたが、善悪の凡夫を憐れまれ、浄土門を独立せしめ、真の教えをこの日本に興し、本願の大道をこの悪世に弘(ひろ)められました。この迷いの世界に幾度も生まれ代わり死に代わりして、これより逃れ出ることの出来ないのは、疑いの心に滞(とどこお)っているからであり、速やかに悟りの世界に入ることの出来るのは、ただ信心一つによるのであると仰せられています。

● 梅原眞隆師の解釈(全文)
本宗の祖師たる源空法然上人は、仏教を詳しく究められた上で、善悪一切の凡夫を憐れんで、凡夫の救われる真宗の教義をこのアジア大陸の片寄った日本の国に興され、念仏一つを選ばれた第十八願の旨趣をこの五濁悪世に弘められた。この教旨の要は信心を勧め疑情を誡めることに尽きている。即ち我らが生死の家に果てしなく迷いを繰り返すのは、紛れもなく、疑情に繋がれているからである。すみやかに寂静のみやこに入るには必ず信心の因があらねばならないと仰せられました。

● 暁烏敏師の解説
法然上人は、今から約800年前にお出ましになった方である。源信僧都から約100年程後れて、山陽道の美作(みまさか)の国南条稲岡というところにお生まれになった。岡山駅から津山線に汽車を乗り換えて行くと誕生寺という駅がある。そこが法然上人のご誕生になったところというので、そういう名がつけられたのです。

そこの駅で降りてゆくと間もなく大きなお寺がある。そのお寺は法然上人のお生まれになった屋敷跡に建ったものと伝えられている。法然上人のお父さんはその辺の豪士で、今で言うと郡長さんのようなものである。漆間時国(うるまときくに)と言ったそうである。お母さんは秦氏の出であった。秦氏というのは、朝鮮あたりから来た人の流れである。この夫婦の間に子供がなかった。一人欲しいというので、程遠からぬ菩提寺の観世音に祈願を籠められた。お母さんが一夜剃刀を飲むという夢をみられた。そして懐胎せられた。お生まれになったのが男の子であった。勢至丸という名をつけた。仏からの授かり子というので、大事に育てられた。

九つになられた時、お父さんの時国は、友達の源内定明という人から何か怨みを受けて闇討ちに遇われた。お父さんは傷付いて倒れられている傍に勢至丸を呼んで、苦しい中から「これでもうお別れだ。普通なら敵を津々浦々までも探し出して仇を討ってくれというのが当たり前であるが、お前が向こうを敵として討つ時は、向こうの人は又お前を敵として討つだろう。そうすれば又お前の子は向こうの人を敵として討たねばならんようになる。そんなにしておれば無量永劫仇討が止まらん。だから、お前はどうか仏道に入って、敵も味方も共に助かる道を開いてくれ」と言って息を引き取られた。法然上人のお父さんは深い仏法信者であったのです。

お父さんの遺言にしたがって、15歳の時に比叡山に登られて得度を受けられたと言うことであります。

● あとがき
法然上人は、一切経を4遍も繰り返して読まれたそうでありますが、なかなか納得を得ることが出来なかったそうであります。5回目の時に、善導大師の『散善義』の「深心」にある次の講釈に目が釘付けになられたそうであります。

一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節の久近を問わず、念々に捨てざればこれを正定(しょうじょう)の業と名づく、彼(か)の佛願に順ずるが故に。
「彼の仏願に順ずるが故に」と言うお言葉に、それまでの迷いの心は吹っ飛んだということであります。

何故念仏を称えるのか、それは仏の願いに順(かな)うが故である。仏の願力に順うからであると言うことがストンと心に納まったのだと思われます。比叡山は天台宗であり、法華経と観無量寿経を中心のお経とし、念仏も称えます。法然上人も教えられるままに念仏を称えておられたのでありましょうが、「何故念仏を称えるのか」という疑問をずっとお持ちだったのだと思います。何故か何故かと疑問を持ち、お経にその答えを求めておられたのだと思いますが、「仏の願いだから」と言う善導大師のお言葉に、「なーんだ、そうだったのだ」と迷いの心が霧散したのでありましよう。その時、法然上人は43歳であります。15歳で比叡山に登られて28年後のことであります。法然上人のような智慧第一と言われた方ですら30年近い月日をかけて初めて仏に出遇われたのでありますから、私達は焦る必要はないのだと思います。しかし、それは勿論、偏に仏道を求め続ける限りはと言うことだと思います。

法然上人がこの言葉に出遇われて、その法然上人に親鸞聖人が出遇われたからこそ私達も今こうして正信偈に出遇えていることを思いますとき、仏の本願力の働きを思わずにはいられません。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.579  2006.3.16

親鸞聖人の信

『唯識の世界』のコーナー第37講で、「仏法のスタートも信であるが、ゴールも信だ」と言う考え方を述べました。スタートの信とゴールの信は、内容と深みが異なります。ゴールの信とはどういうものであるかを知る手掛かりとして、私は『歎異抄』第二章に示されている親鸞聖人の信≠考えたいと思います。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せを蒙(こうむ)りて、信ずるほかに別に仔細はなきなり。」よき人とは法然上人であると解釈されます。それは後に続く文章で「たとい法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからず候。」とあるからです。

要するに、親鸞聖人は法然上人を信じて、ただただ念仏して救われるのだと言うことでありますが、これは表面的に解釈した場合にはそうなります。しかし、特定の個人を崇拝して救われると言うのは、オカルト・新興宗教に見られる極めて危ないものであります。特定の人間を信じた場合は、その人間が人殺しをせよと言えば、信者は殺人を犯してしまいます。

親鸞聖人の場合は、歎異抄第二章の後の文章、「弥陀の本願まことにおわしませば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説(お釈迦様の説教)まことにおわしまさば善導の御釈虚言したもうべからず、善導の御釈まことならば法然のおおせ空言(そらごと)ならんや、法然の仰せまことならば親鸞が申す旨またもてむなしかるべからず候」とありますように、親鸞聖人は、法然上人→善導大師→釈尊→弥陀の本願、と言う道筋で、弥陀の本願と言う大きな真理・真実・法に絶対の信を置かれていたと言うことが重要だと思います。

しかし、弥陀の本願への信が、現実に接しられた法然上人を通してと言う事が無ければ、その信は机上の空論≠ノなりかねません。頭だけの理解、即ち論理的思考によるだけの『信』でありますならば、その論理よりも上位の論理によって簡単に崩れ去る儚い『信』に堕することになると思います。

人の言う事を単に信じている場合は、別の人にそれは違うと言われれば、自分の信は疑心暗鬼・不安に変わります。それが、この歎異抄第二章の冒頭で説明されている関東から京都の親鸞聖人を訪ねて来た人々であります。親鸞聖人の長男の善鸞が関東に行って、親鸞聖人の本当の教えは斯く斯く云々だと邪教を流布したことにこの人々は迷いを起こし、その正邪を親鸞聖人に直接確かめようと京都に来たのでありますが、それを親鸞聖人は信とはこう言うものだと詳しく説き聞かされた後に結論として、「愚身の信心におきてはかくのごとし。この上は、念仏をとりて信じ奉らんともまた捨てんとも、面々の御はからいなり」とビシッとたしなめられ、厳しくも温かいご対応をされたと言う感銘を受ける歎異抄第二章であります。

これは『空(くう)』に関しても同じであります。龍樹菩薩の空がどう言うものであったとか、お釈迦様は『空』と言う言葉は使われていないとか、『空』を論理的に学ぶことも確かに重要でありますが、現実に今生きている自分が、『空』を体感するとか、或いは『空』を行じられている方に直接出遇うことがありませんと、机上の『空』論≠ニなり、自分の人生の寄る辺とはなりません。

仏法を論理的に学ぶ事も大切でありますと共に、仏法の師に直接出遇うと言うことも同じ位に重要であると、歎異抄第二章が教えてくれていると思うのであります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.578  2006.3.13

正信偈の心を読む―第44講【依釈段(源信章)―C】

●まえがき
源信僧都の横川法語の中に「妄念はもとより凡夫の地体なり、妄念の外に別に心は無きなり」 と言う言葉があります。これは「私の心の中は妄念ばっかりである」と言う表白であります。そして、その妄念が無くなってから極楽往生するのであるとは申されてはいません。妄念を抱えたままに、というよりも、妄念によって邪魔されることが無い位に強い阿弥陀仏の慈悲によって救われるのだと言う確信を述べられており、そこに親鸞聖人が深く頷かれたものと思われます。

●依釈段(源信章)原文
源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
偏帰安養勧一切(へんきあんにょうかんいっさい)
専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

●依釈段(源信章)和訳
源信広く一代の教えを開きて
偏(ひとえ)に安養に帰して一切を勧む
専雑(せんぞう)の執心浅深を判じ
報化二土正しく弁立したまふ
極重の悪人は唯仏を称すべし
我も亦(また)彼の摂取の中に在り
煩悩に眼を障へて見ずと雖も
大悲倦(ものう)きこと無くして常に我を照らしたまふ

●大原性実師の現代意訳(全文)
源信僧都は広く仏教の一大法蔵をお開きなられて、専(もっぱ)ら安養浄土に御帰依を遊ばされ、又一切の人々にもお勧め下さいました。そして純粋な信心と、不純な信心との厚薄浅深(こうはくせんじん)を批判されまして、真実の浄土と方便の浄土とのけじめを明らかにされました。極悪非道な私達は、ただ専ら仏の名を称える一つで、仏におさめたすけられるのである、たとえ、煩悩のために眼が曇らされて、仏を見奉ることが出来なくても、み仏は決して倦(あ)き給うことなく、常に我が身をお照らしくだされてあると述懐されました。

●梅原眞隆師の解釈(全文)
源信僧都は詳しく釈尊一代の教法を開示して、自ら脇目も振らずに安養浄土に往生する浄土教に帰依し、またそれを一切の世人に勧められた。その教えは、専ら念仏を修する執心深くして雑多な行を修する執心の浅きことを判別し、さらにその結果においてみると、専修の者は報土に生まれ、雑修の者は化土(けど)に生まれる道理を見分けらて諭されました。そして、極めて罪の重い悪人はただ仏名を称念するより外に救いの道はないことを示し、念仏すれば我ら如きもそのまま救われてかの仏の摂取の光明の中に護られる。我らは煩悩に眼がくらんで仏を拝みまつることは出来ないけれども、大悲の仏は少しも倦みつかれたもうことなく、いつでも我を照らし護りたもうと仰せられた。

●梅原眞隆師の解説
往生要集の念仏思想は複雑であるけれども、その中心としての意味は称名念仏という易行の至極である。「極重悪人唯称佛」という一句は、実に力強い道破であった。この一句こそ法然上人の専修念仏となり、親鸞聖人の正信念仏となって、宗教的真実を全現するものである。而して、この称名念仏の意味はいうまでもなく、他力摂取の救いと領納することである。「われまたかの摂取の中にあれども、煩悩眼(まなこ)さえて見たてまつらずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわれを照らしたもうといえり」と。

称名は救いを求める者の祈りではなくして、救われたる者の生命のよろこびである。念仏は救いのための律法ではなくて、救済を蒙(こうむ)れるものの法悦である。われ仏をおもうゆえに仏われをまもりたもうという相対的な道交でなくて、われ仏を仰ぐことはできなくても仏はわれをまもりたもうという絶対の摂取不捨である。ここまでつきとめなければ凡夫の救いは成立しないのである。ややもすれば、源信和尚を臨終来迎の唱道者のように考えるものの存するうちに、わが親鸞聖人は平生摂取の体現者として讃仰されたことは、まことにおどろくべき洞観である。かくて絶対の救済をおしえたもう聖者の全き俤(おもかげ)を拝むことができたのである。

●あとがき
「南無阿弥陀仏」は、母の愛を信じて母の名を口にする子供の呼び声であると考えてもそう間違いではないと思います。母親の愛と言うものは私達が眼で見ることは出来ない。母の体の何処を探しても見当たるものではありません。阿弥陀仏の本願や慈悲も、私達人間の五感で確認出来るものではありません。五感で確認出来ないものは信じられないというのが、科学を絶対視する現代人のスタンスであろうと思いますが、母の愛が働きとして感じるられるものであると同様に、阿弥陀仏の本願も慈悲も、働きとして感じられるものであります。

そして、その働きを感じますと「南無阿弥陀仏」と声に出して応えるようになるのが、自然であります。「南無阿弥陀仏」と称えて何かをお願いするのではなく、幼い子が家に帰って、別に用事も無いのに「お母さん」と先ずはお母さんの存在を確かめるようなものだと思います。

又、母親の愛というのが出来の悪い子であればあるほど気に掛かるものであると同様に、阿弥陀仏の本願も、煩悩を抱えて苦しむ凡夫を煩悩ごと救いとりたいという強いものであると言うのが、本日の句を詠われた親鸞聖人のお心だと思います。

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
「南無阿弥陀仏」と言う念仏は、決してお葬式の時に死者を弔いあの世にお送りするための呪文ではないと言うことであります。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.577  2006.3.9

仏法を求める心

無相庵ホームページを訪ねて下さる方々は直截的に仏法を求めていらっしゃる方ばかりではないとは存じますが、殆どの方はご自分の人生に何らかの懸念や問題意識或いは不安を抱かれた上でのことではないでしょうか。そう言うお考えから仏法にその解決の可能性を求められたことは、我田引水と受け取られましょうが、実に素晴らしいことだと思います。素晴らしいと云う表現を親鸞聖人に言い換えて頂きますならば、「遠き宿縁を慶ぼうではないか」と言うことになるのだと思います。即ち、私が今仏法に出遇うと言うことは突発的な事ではない、偶然の出来事でもない、私の数限りない祖先達が歩み来たった結果の必然なのだと言う受け取り方でありますが、インドに生まれた仏法を2500年後の日本の私が生きる寄る辺とする事自体、人間の想像力をはるかに超える出来事ではないでしょうか。

さて、私は何故仏法を求めるのでしょうか。初心に帰って我が心と対峙して見たいと思います。私は仏法とは幼馴染でありますが、自分の人生の寄る辺として仏法を考え出しましたのはサラリーマン時代の40歳を過ぎてからではないかと思います。自分の思い通りにならないサラリーマン社会の息苦しさから解放される手段の一つとして、また、サラリーマン社会でトップに立つ人格を完成する手段の一つとして仏法を求めたように振り返っています。

そう言う動機、即ち人生の苦しさから逃れたい、解放されたいと言う切実な想いから仏法を求められる方は多いのではないでしょうか。そしてその動機は私達一般の者としてはそれはそれでよいと私は思います。しかし考えてみますと、大先輩のお釈迦様が出家された動機は何処にあったのでしょうか。お釈迦様の動機に私達が仏法を求める上で見失ってはならない点があると私は思います。書物には、お釈迦様の出家の動機として、老人を見たり、病人を見たり、死人を見たり、また虫が小鳥に啄ばまれるところを見られたりして、人生に疑問を感じられた上での出家と書かれたりしていますが、それはどうも作り話のように感じられます。

お釈迦様は29歳の時に皇太子と言う身分を捨てられたと言うことでありますが、たとえば、現在の日本の皇太子がその地位を捨てて、しかも妻子と別れて出家されたようなものであります。ただ今の皇太子のご身分とは異なり、お釈迦様は王国の皇太子であり、権力も持ち何不自由の無い身分と生活でありましたから出家される動機は私達のような凡夫とはかなり趣を異にしたのだと思われます。

お釈迦様の人生の目的がご自分の五欲の満足にあったならば出家はされなかったはずであります。ご自分の五欲の満足では何処か物足り無さをお感じになられたものと想像致します。その物足りなさと言うのは、人間として生まれた意味とか人間としての生甲斐が見出せず、充実感の無い生活全体に感じられたものではないかと想像致します。

経済的な苦しみも確かに苦しみではありましょう。不治の病も勿論苦しみであります。また、価値観の合わない人、気の合わない人との毎日の生活も苦しみには違いありませんが、ではそれらが解消されたならば晴れ晴れとした、充実感溢れる生活が待っているでしょうか。想像ではありますが、そうではないような気が致します。お釈迦様は、多分、掛け替えの無いご自分の人生を有意義なものにしたかったのだと思います。人間らしく生きるとはどういう事かを求められて、名利、愛欲を捨てられたのだと推察しております。

私達一般庶民は、初めからお釈迦様のような動機で仏法を求めるものではございません。やはり人生苦を手掛かりとして、人生苦から解放されたくて仏法を求めるしかないと思いますが、しかし、仏法を求めて行く途上で、必ず自分の煩悩と対峙しなくてはならない時が参り、自分の真実と向き合い、やがては人間に生まれて来た意味を尋ねなければならない時が来ると思います。そして漸くお釈迦様のご出家のスタート時点に立つものと思います。

仏法を求めることは真実の自己に出遇う事だと言われますが、本当の生甲斐に出遇うことだと言い換えてもよいと思います。仏法を学ぶ上で大切なことは、知識を増やすことではなく、常に初心に帰り、本当の生甲斐を求める仏道を少しずつ歩むことではないかと思います。

お知らせ:掲示板を私のブログ世事雑感に入れ替えました。今後ともに宜しくお願い致します。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.576  2006.3.6

正信偈の心を読む―第43講【依釈段(源信章)―B】

●まえがき
源信僧都は、比叡山延暦寺で天台宗を学ばれた上で、善導大師の称名念仏の道を選ばれました。そういう意味では、法然上人、親鸞聖人の先達とも言うべき方であります。そして、称名念仏だけが浄土往生への正しい行であると宣言されました。それが、『専雑執心判浅深』と言う句の意味するところであります。

そして、今日の句は、称名念仏以外の雑行に励んだとしても、報土(真実の浄土)へは往くことが出来ず、仮の浄土、即ち化土(けど)へ往くことになると源信僧都はお考えになられたようであります。

そして、私達のような罪深い凡夫は、唯お念仏を称えることによってのみ、阿弥陀仏のお救いの光明の中に摂取されるということを説かれているのであります。

●依釈段(源信章)原文
源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
偏帰安養勧一切(へんきあんにょうかんいっさい)
専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)

煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

●依釈段(源信章)和訳
源信広く一代の教えを開きて
偏(ひとえ)に安養に帰して一切を勧む
専雑(せんぞう)の執心浅深を判じ
化二土正しく弁立したまふ
極重の悪人は唯仏を称すべし
我も亦(また)彼の摂取の中に在り

煩悩に眼を障へて見ずと雖も
大悲倦(ものう)きこと無くして常に我を照らしたまふ

●大原性実師の現代意訳(全文)
源信僧都は広く仏教の一大法蔵をお開きなられて、専(もっぱ)ら安養浄土に御帰依を遊ばされ、又一切の人々にもお勧め下さいました。そして純粋な信心と、不純な信心との厚薄浅深(こうはくせんじん)を批判されまして、真実の浄土と方便の浄土とのけじめを明らかにされました。極悪非道な私達は、ただ専ら仏の名を称える一つで、仏におさめたすけられるのである、たとえ、煩悩のために眼が曇らされて、仏を見奉ることが出来なくても、み仏は決して倦(あ)き給うことなく、常に我が身をお照らしくだされてあると述懐されました。

●梅原眞隆師の解釈(全文)
源信僧都は詳しく釈尊一代の教法を開示して、自ら脇目も振らずに安養浄土に往生する浄土教に帰依し、またそれを一切の世人に勧められた。その教えは、専ら念仏を修する執心深くして雑多な行を修する執心の浅きことを判別し、さらにその結果においてみると、専修の者は報土に生まれ、雑修の者は化土(けど)に生まれる道理を見分けらて諭されました。そして、極めて罪の重い悪人はただ仏名を称念するより外に救いの道はないことを示し、念仏すれば我ら如きもそのまま救われてかの仏の摂取の光明の中に護られる。我らは煩悩に眼がくらんで仏を拝みまつることは出来ないけれども、大悲の仏は少しも倦みつかれたもうことなく、いつでも我を照らし護りたもうと仰せられた。

●暁烏敏師の解説
阿弥陀仏の極楽浄土には二通りあります。報土と化土(けど)です。この二通りあると言うのは道綽禅師がおっしゃられたことであります。真実の浄土を報土、方便の浄土は化土です。方便と言いますのは、未だ真実の報土へは往かれないけれども、そこへ往く導きに、仮に設けてある国のことであります。真実は本正覚、化土は仮正覚であります。方便は真実信心ではありません。南無阿弥陀仏を称えてはいても、本当に仏に依りかかる心ではないから、まだ浅いのです。そういう人は、お浄土へ参られるか参られないか、という案じがあります。

雑行雑修の人でもお浄土へ往けます。しかし、そのお浄土は方便化土であります。そこへともかも連れて行って、それから真実の道へ導き入れるのであります。それで親鸞聖人は、その雑行雑修の道は要門、信心に入る要の門とおっしゃいました。要門の浄土に仏を味わわれたのが、報土化土二つの味わいです。報土といいますと、因果応報で、信心の徳でお浄土が開かれます。化土は、信心で開けた浄土ではなく、何か不思議な力で浄土の蓮台に乗ることが出来ると言う信心であります。

●あとがき
一般の方々は勿論ですが、仏法に興味を持たれておられる方々の中にも、「南無阿弥陀仏」と称えることに何の意味があるかと言う疑問をお持ちの方は多いと思います。お葬式の時には亡くなられた方のご冥福を祈ると言う気持ちから抵抗なく「なまんだぶ」とご焼香されるのだとは思いますが、それ以外の場面で「なまんだぶ」とお念仏を称えられる方は極々稀だと推察致します。

私自身も、長年「南無阿弥陀仏」を称えることに抵抗を感じ、わざわざ声に出してまで称えなくてもよいのではないかと言う想いを持っていましたが、最近では何となく、親鸞聖人の称えておられた「南無阿弥陀仏」のお心が分かるような気がして参りました。それは、自分の愚かさ・浅ましさ・背負っているであろう過去の悪業の数々に気付かしめられたならば、真理に対する全面降伏恭順の気持ちと、そういう真理に出遇えた静かな感激を覚え、それが浄土門で説かれている「阿弥陀仏の本願に出遇った」ようにも思え、自然と「南無阿弥陀仏」と感謝する心が湧くような気がするからであります。

自分の智慧才覚に自信を持っていますと、仏法書を読んで何とか賢くなろう、悟ってやろう、座禅して無我を体得しよう、空を観じようと努力をするのでありますが、自分の愚かで罪深い正体がはっきりしますと、もう自分自身を騙し続ける訳には参りません。

「南無阿弥陀仏」は、感謝の心、慙愧の心、お願いする心、気持ちを落ち着かせたい心など等、場面場面で色々な心が籠もるものだと思います。こうでなければならないと言うものでは無いと思いますが、その心の根底には、「阿弥陀仏の本願を信じる心」が宿っているに違いありません。 「念仏一つで人生を渡り切ることが出来る」と浄土門では申しますが、まさに親鸞聖人は、その通りの人生を全うされたのではないかと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.575  2006.3.2

(続)一切皆苦(いっさいかいく)

『一切皆苦』に関しまして、一部に誤った受け取り方があるように思い続編を書き記すことと致しました。『一切皆苦』とは、自分の思い通りになろうとなるまいと、仏の眼からこの人間社会を見ると「全てが苦である」と言うことであります。凡夫の思い通りにならない事は勿論苦ではありますけれども、凡夫の思い通りになったとしてもそれも苦であると言う点が大切なところであります。ここを間違いますと、仏法ではなくなり、現世利益を売り物にする新興宗教と変わらない取り組みになってしまったり、机上の空論になりかねません。

四諦の教えの一番最初に苦諦(集諦、滅諦、道諦と続きます)が配されている事からも理解出来ますが、一切が苦であるところを出発点と致しまして仏道が開かれるわけであります。いやむしろ、『一切皆苦』を感得出来た時点で、既に悟りへの道に一歩足を踏み入れたことになると言っても過言ではないでしょう。斯く云う私はこの世のことを未だ完璧には『一切皆苦』と思えてはいません、借金が無くなれば、そこに幸せが待っているかのように錯覚している自分に気付かされます。まことに我ながら情けなくなることが度々ございますが、極最近では「あらゆる苦は阿弥陀仏の本願の顕れではないか」と思えることもございます。

人間にはそれぞれ背負って来た業(素質、遺伝子)があり、生まれ付き煩悩の少ない人々の中には難行苦行の修行や禅門で悟りを開かれた方も居られますので一概には言えないことは確かでありますが、自力聖道門ではどうしても救われようが無い私のような者もかなり多く居るはずであります。こういう私のような者の為に、親鸞聖人を始めとして浄土門の高僧方のご苦労があったのでしょうし、もっと遡れば、お釈迦様の教えを基として浄土三部経が編集されたものと思っています。

「諸法実相であるから、すべての本質をありのままに観て(観自在)受け入れることで人は救われるのではないか」と言う苦の対処法≠示される方もいらっしゃいますが、そういう「あるがままを受け容れる」という事が素直に出来る方は選ばれた人々だと思います。「あるがままを受け容れる」という一見簡単そうな事が私には出来ませんでしたし、多くの方もここのところで足踏みされているものと推察しております。親鸞聖人も、このテーマを抱えられて90歳まで精進されました。そして、他力本願の易行道を自ら実証され、私達に希望を与えて下ったのだと思います。

『諸法実相』と言う一般的には難解な言葉に関して思うのですが、現代人が仏法を学ぶ上で踏み間違いがちなのは知識の虜となってしまうことです。空、縁起、無我など仏法の基本事項に関する知識を得ることは勿論大切なことでありますが、「宗教の基本は自己を問い直すことにある」と言う先哲のお言葉を忘れてしまって知識を増やすことが目的になってしまいますならば、それは本来の仏法から遠く離れた戯論、或いは机上の空論に堕してしまいます。

親鸞聖人が遺されている御和讃は、全てと申してよいと思いますが、自らの慙愧を表白されたり、自ら心に湧き上がった悦びを詠われたものです。常にご自分の心を問題とされておられます。 たとえば、

弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人は皆
摂取不捨の利益にて
無上覚をば証るなり
と言う有名な御和讃も、他人に向かって「信ずべし」とおっしゃっているのではなく、自らに言い聞かせ、「そうだったなぁー」と慙愧と歓喜の入り混じった心で詠われたものと云われています。これは関東の信徒の動揺を鎮めるために遣わした長男の善鸞に裏切られ、やむなく義絶した後、苦悩の中から漸く弥陀の本願に帰命し直されたお歌ではないかと思われます。

科学知識が格段に進歩した現代にありましては、幅広く深い知識で以って理論的に仏法にアプローチする事は私も極めて大切なことだと思っています。しかし一方で、親鸞聖人がご自分の心を問題にされつつ同行の人達にその想いを披露されて、共に信心を深めて歩んで行こうではないかと言うご姿勢に学ぶ事はお言葉の解釈よりも大切なことだと思います。親鸞聖人のご著書を単に知識として勉強するだけではなく、そう言う親鸞聖人のご信心の態度・姿勢に私は学んで行きたいと思うのです・・・・・・。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.574  2006.2.27

正信偈の心を読む―第42講【依釈段(源信章)―A】

●まえがき
風邪が流行っているようです。私も先週の木曜日から強烈な喉の痛みに見舞われ、声が今も出ません。近所の小学校では学年閉鎖をしているそうですから、その影響を受けたのかも知れません。

検査結果ではインフルエンザではないのですが、妻にも感染して、二人でゴホゴホしています。 無相庵コラムを書き始めて以来はじめてのことですが、更新をしないと落ち着いて寝てもいられませんので、今日のまえがき、あとがきは、省略させて頂きますので、ご了解下さい。

●依釈段(源信章)原文
源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
偏帰安養勧一切(へんきあんにょうかんいっさい)
専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)

報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

●依釈段(源信章)和訳
源信広く一代の教えを開きて
偏(ひとえ)に安養に帰して一切を勧む
専雑(せんぞう)の執心浅深を判じ

報化二土正しく弁立したまふ
極重の悪人は唯仏を称すべし
我も亦(また)彼の摂取の中に在り
煩悩に眼を障へて見ずと雖も
大悲倦(ものう)きこと無くして常に我を照らしたまふ

●大原性実師の現代意訳(全文)
源信僧都は広く仏教の一大法蔵をお開きなられて、専(もっぱ)ら安養浄土に御帰依を遊ばされ、又一切の人々にもお勧め下さいました。そして純粋な信心と、不純な信心との厚薄浅深(こうはくせんじん)を批判されまして、
真実の浄土と方便の浄土とのけじめを明らかにされました。極悪非道な私達は、ただ専ら仏の名を称える一つで、仏におさめたすけられるのである、たとえ、煩悩のために眼が曇らされて、仏を見奉ることが出来なくても、み仏は決して倦(あ)き給うことなく、常に我が身をお照らしくだされてあると述懐されました。

●梅原眞隆師の解釈(全文)
源信僧都は詳しく釈尊一代の教法を開示して、自ら脇目も振らずに安養浄土に往生する浄土教に帰依し、またそれを一切の世人に勧められた。その教えは、専ら念仏を修する執心深くして雑多な行を修する執心の浅きことを判別し、
さらにその結果においてみると、専修の者は報土に生まれ、雑修の者は化土(けど)に生まれる道理を見分けらて諭されました。そして、極めて罪の重い悪人はただ仏名を称念するより外に救いの道はないことを示し、念仏すれば我ら如きもそのまま救われてかの仏の摂取の光明の中に護られる。我らは煩悩に眼がくらんで仏を拝みまつることは出来ないけれども、大悲の仏は少しも倦みつかれたもうことなく、いつでも我を照らし護りたもうと仰せられた。

●暁烏敏師の解説
源信僧都は、一切経を究められるうちに、自分の行くべき道は、安養浄土しかないと定められ、その上に一切の人もこの道を来いとお誘いになられました。善導大師は、仏道修行を正行と雑行に分けられ、また専修と雑修ということをお味わいになられました。それを受け伝えて、源信僧都は、雑修の執心は浅い、専修の執心は深いということを判釈されました。 御和讃には、

こころはひとつにあらねども
雑行雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとへに雑行となづけたり

とあります。この正行には五つあります。読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五つです。浄土の教えを読誦するのを読誦正行、浄土のことを観察するのは観察正行、阿弥陀仏を礼拝するのは礼拝正行、阿弥陀仏の御名を称えるのは称名正行、阿弥陀仏を讃嘆するのは讃嘆供養正行と言います。これに対して、浄土三部経以外のお経を読むのを読誦雑行、浄土でないところを観察するのを観察雑行、阿弥陀仏の外の仏を礼拝するのを礼拝雑行、阿弥陀仏の外の仏の名を称えるのを称名雑行、阿弥陀仏以外の仏を讃嘆するのを讃嘆供養雑行と言います。

ところが、正行中、始めの三つと、後の一つを助業といいます。四番目の称名を正業といいます。信の中心は、阿弥陀仏の名を称えることであります。香華燈明してお経読んだり、浄土を観察したり、仏像の礼拝をしたりする、これは助業なのであります。

阿弥陀仏を信ずる、その信心はどうして現われてくるか。その信心の正しく現われたのが念仏の正業であります。その外のことは助業なのです。信心は一つであります。弥陀を信じているならば、外の仏のことを書いたお経を読んだり、外の仏の名を呼んだり、外の仏を讃嘆供養したりはしない。それは雑行であります。なぜか。中心の信心に合わないからです。薬師如来を信じている者は薬師如来を称えれば正行です。阿弥陀仏を信じているところへ、我がはさまるから正行に雑行が出て来るのであります。

本当にこころが阿弥陀仏に開けて信がはっきりとしていたら、あっちこっち飛び回らないでもいい訳です。こころがはっきりしていないから、あっちこっち心が回って歩く。ふらふらする。その一筋な専修専念ということになりますと、弥陀一仏に帰して、弥陀の名を専ら称える。これが専修専念であります。この心は至心で深い。雑行雑修の心は浅い。

●あとがき
この喉の痛みの苦しみも、馬鹿には出来ません。唾を飲み込むのも躊躇われるほどで、平生何気無くこなしている生理現象に気付けよと言う天からの手紙かも知れません。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.573  2006.2.23

続―かしこき思い

2002年1月のコラム(No.357)で、『かしこき思い』と言う表題で、私が29歳の時の(丁度30年前)、故加藤辨三郎師(かとうべんざぶろう、在家仏教協会会長・協和発酵工業社長)とのやり取りをご紹介させて頂きました。それは、私から『私は、どうも素直に念仏を称えることが出来ません、称えたとしても空念仏のようで、すっきり致しません・・・・どうすればよいでしょうか?』とお尋ねしたところ、そのご返事として『まだお念仏を称えるお気持がわきません由、よく分かります。私がそうであったのですから。ただ申し上げておきたいのは、それはあなたが「かしこき思いを具して」いらっしゃるからでございましょう。やがていつの日にか、その「かしこき思い」に限度のある事にお気づきになりましょう。宿縁の開発(かいほつ)をお待ち申し上げます』と言うお答えでした。

そして、28年後の2002年の年初は、大きな人生の挫折に遭遇して、「自分の能力を過信して、脱サラ起業し、結局は実質破綻状態を迎えてしまい、多くの人々に迷惑を掛けることになり、一瞬「かしこき思い」を具していた自分に出会ったような気持ちになりました。しかし、それでも心の底から念仏を称える事が出来ませんでしたから、「私は未だかしこき思いを拭い去れていない」と思いました。その後も「かしこき思いを払う」と言う宿題を抱えたまま歩いて参った訳であります。

そして還暦を超え61歳を目前にした極最近、ふとした時に「かしこき思いを払おう=A何とかしてかしこき思い≠払おうと考えて来たけれども、そう考える事自体がかしこき思いを具している≠フではないのか、かしこき思いを払えるほど上等な自分ではないではないか」と言う想いが致しました。思い通りにならない人生苦の真っ只中にあり、その苦から救われたいと言う気持ちで仏法を求め、この無相庵コラムを発信し続けて来たのですが、自分の本心を問い直すと、苦から救われたいと言うよりも苦から逃れたい、会社の事業で大儲けして借金苦から逃れたいと言う仏法から遠く離れた自分の心の有り様と、偉そうなことを言ってはいるけれども、五欲の満足が今の自分の人生の目標になっており、仏法コラムを書いている自分が実は一番仏法から遠い道を歩いているではないか、自分こそ唯識が五姓各別説(ごしょうかくべつせつ)で説くところの仏性の無い「無性有情姓(むしょううじょうしょう)」ではないかと思い至りました。と同時に「煩悩具足の凡夫とは思えない自分」、「罪悪深重の凡夫であると自覚出来ない自分」、「地獄は一定住みかぞかしと慙愧出来ない自分」であり、とても親鸞聖人と同じ念仏が称えられるはずがないではないかと自分の驕慢さ、「かしこき思い」を具して仏法を求めてきた自分を振り返るようになりました。

そして漸く、私の亡き母が称えていた念仏の意味と、『垂水見真会』と言う仏法を聞く会を35年間 死ぬ間際まで主宰した気持ち(慙愧と報謝の想い)が分かるような気持ちが致しました。と同時に、親鸞聖人の様なお方はこの世で「正定聚の位」につかれて浄土往生されたと思いますが、私の場合は、これから生まれ変わり死に変わりして、億劫年先にやっと浄土往生が出来るかどうかではないかと思い始めました。仏法に出遇った今生が浄土へのスタートなんだと思いますと、何だか気がすぅっと楽になってような気が致しました。これは決して信心獲得(しんじんぎゃくとく)する事を諦めたわけではないと思います。焦らないで、一歩一歩、自分の背負っている業に応じて進んで行けばよいと言うことだと思います。

そう思い始めているときに、太田久紀師のご著書の中で、「やはり、そうだったんだ!」と思う箇所に出遇いました。唯識では修行の進展を<漸(ぜん)>と表現するそうであります。少しずつ少しずつ漸次(ぜんじ)に修行は進むものだそうであります。そして、こう述べられておられます。 「生か死か、というような緊迫した気持ちの湧き上がって来ぬ平凡きわまりない私は、毎日毎日わかる範囲で仏陀の教えを学びながら、一歩一歩<漸>に進んでいきたいものと思う。それが凡人に与えられた道のように思う。<漸>という字は、それも許して下さっていることであると、私は勝手に頂くことにしている」と。

この言葉には救われる想いが致しました。勿論、何とか事業を成功させて借金苦から逃れたいと言う想いが消えたわけではありませんが、31年前の加藤師との縁を始めとして、思い起こせば数限りない縁が働いて今日の自分があるのだと、そしてこれら全ての縁が阿弥陀仏の本願力の働きなのだと一つの確信のようなものを感じつつある次第であります・・・・・・。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.572  2006.2.20

正信偈の心を読む―第41講【依釈段(源信章)―@】

●まえがき
源信僧都(恵心僧都とも云われています)といえば、横川法語(よかわほうご)が直ぐに思い浮かびます。私の母が私が小学生の頃には既に仏前でよく読み上げておりましたので、今でも私は空で言えるほどであります。中でも、「妄念はもとより凡夫の地體(ぢたい)なり、妄念の外に別に心は無きなり」と言う一節は何故か強烈な印象として残っております。

それは今思いますに、「人間の心には悪い心もあるけれども、善い心もあるではないか、それを凡夫の心は妄念でしかない」と断定しているところに子供心に疑問を持っていたからだと思います。しかし、この源信僧都の悪人としての自覚は善導大師のお心そのものであり、それがそのまま、法然上人そして親鸞聖人へと受け継がれたものと思われます。そして親鸞聖人は「罪悪深重の凡夫」「煩悩具足の凡夫」と言う表現で慙愧の心を吐露された訳でありましょう。

源信章の勉強の一回目は、源信章の全体を把握することと、源信僧都の人となりについて勉強したいと思います。

●依釈段(源信章)原文
源信広開一代教(げんしんこうかいいちだいきょう)
偏帰安養勧一切(へんきあんにょうかんいっさい)
専雑執心判浅深(せんぞうしゅうしんはんせんじん)
報化二土正弁立(ほうけにどしょうべんりゅう)
極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅうちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)

●依釈段(源信章)和訳
源信広く一代の教えを開きて
偏(ひとえ)に安養に帰して一切を勧む
専雑(せんぞう)の執心浅深を判じ
報化二土正しく弁立したまふ
極重の悪人は唯仏を称すべし
我も亦(また)彼の摂取の中に在り
煩悩に眼を障へて見ずと雖も
大悲倦(ものう)きこと無くして常に我を照らしたまふ

●大原性実師の現代意訳(全文)
源信僧都は広く仏教の一大法蔵をお開きなられて、専(もっぱ)ら安養浄土に御帰依を遊ばされ、又一切の人々にもお勧め下さいました。そして純粋な信心と、不純な信心との厚薄浅深(こうはくせんじん)を批判されまして、真実の浄土と方便の浄土とのけじめを明らかにされました。極悪非道な私達は、ただ専ら仏の名を称える一つで、仏におさめたすけられるのである、たとえ、煩悩のために眼が曇らされて、仏を見奉ることが出来なくても、み仏は決して倦(あ)き給うことなく、常に我が身をお照らしくだされてあると述懐されました。

●梅原眞隆師の解釈(全文)
源信僧都は詳しく釈尊一代の教法を開示して、自ら脇目も振らずに安養浄土に往生する浄土教に帰依し、またそれを一切の世人に勧められた。その教えは、専ら念仏を修する執心深くして雑多な行を修する執心の浅きことを判別し、さらにその結果においてみると、専修の者は報土に生まれ、雑修の者は化土(けど)に生まれる道理を見分けらて諭されました。そして、極めて罪の重い悪人はただ仏名を称念するより外に救いの道はないことを示し、念仏すれば我ら如きもそのまま救われてかの仏の摂取の光明の中に護られる。我らは煩悩に眼がくらんで仏を拝みまつることは出来ないけれども、大悲の仏は少しも倦みつかれたもうことなく、いつでも我を照らし護りたもうと仰せられた。

●源信僧都の事について(主として暁烏敏師の紹介文によります)
浄土真宗勧学でいらっしゃる梯實圓師のご紹介によりますと、源信僧都は、今から900年前、親鸞聖人が法然上人を訪ねられる185年前、平安時代の中期、藤原道長を中心として王朝文化の花が開けようとしたころ、当麻の里に生まれた源信僧都(西暦942〜1017年)は、比叡山の横川に籠もって『往生要集』三巻を著し、それまでの浄土教を集大成して、日本浄土教の礎を築くと同時に、王朝文化に精神的な基盤を与えていかれたのでした。

 それから百年余りの歳月が流れて、比叡山の黒谷別所で、源信僧都の教えに導かれつつ、浄土の教えの真髄を追求しておられた法然聖人(西暦1133〜1212年)は、中国浄土教の大成者であった善導大師の『観経疏』によって、称名念仏こそ万人を平等に救っていく大悲本願の結晶であることを確認し『選択本願念仏集』を著し、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とひたすらすすめていかれたのでした。

        ここから、暁烏敏師のご紹介文――
源信僧都は、7歳の時にお父上を亡くなされましたが、亡くなられる時に、「どうかお前は大きくなったら仏道に入って出離生死の一大事を明らかにするように、と、くれぐれも遺言して逝かれました。

そうして、9歳の時に比叡山に登られました。お母さんは、新しい着物をこしらえて着せられた。またお父さんのかたみの錦の袋、それにお父さんが大切にしておられた『阿弥陀経』一巻が納めてありました。それを与えて、「よく勉強して、立派なお坊さんになって下さい。いいかげんのお坊さんになるなら、私はもう逢いません。これが一生の別れです」と言われて、山からお迎えの人と共に家を送り出されました。

或るとき、宮中で仏教の講座が開かれました。その時源信僧都は15歳でありましたが選ばれて天皇の御前でお経の講釈をされました。非常に立派な御講釈が出来ましたので、陛下のご機嫌斜めならず、絹を下さいました。偉いと言いましても、未だ子供です。非常に喜ばれました。そしてお母さんに、喜んで下さいという手紙を添えてその絹を送られました。お母さんは天皇から賜った絹を見、手紙を見られました。親だから喜ばれないはずはありません。けれどもお母さんは、あの子が今からこういう事を喜んで有頂天になっては駄目だ。名聞(みょうもん)坊主になってはいけない。今のうちに誡めておかないといけない、と思われ、長い手紙を僧都の許へ送られました。その手紙は今でも残っております。源信僧都は一生その手紙を出しては見ておられたようであります。

その手紙には、「私がお前を山へやったのは、天子様の御前で講義をして引き出物をいただいて喜ぶような、名聞坊主にしようという積りではなかった。お前はまだ若い。そういうことでどうする。そういうことが嬉しいと、あっちでも講義してくれ、こっちでも講義してくれ、と日本中の者から講釈を頼まれて、それで一生が済んでしまいますよ。それではお父さんの御遺言にも違うわけでしょう。この絹は返します」という事が書いてありました。偉いお母さんであります。この事が源信僧都の心に沁み込んだものと見え、晩年に及んでもご自分の居間に自分で名利(みょうり)と言う二文字を大書されて壁に貼っておられたそうであります。名利とは、名聞利養(みょうもんりよう)のことです。人が不思議がって、どうしたわけかと聞いたら、「わしの心は、ちょっと油断すると直ぐに名聞利養に走る。だからこれをいつもじっと眺めている。眺めていると自分の心のことが分かってくる。だからこれはわしの誡めです」と答えられたそうであります。十五の歳に、お母さんから懇々と戒められたことが、一生頭に入っておられたと言うことであります。

●あとがき
私は、源信僧都の主著であります『往生要集』をはじめとしてその他のご著書も読んだことがありませんので、はっきりと言えないのでありますが、親鸞聖人がどちらかと云えば「信」を強調せられたと思うのですが、源信僧都は、どちらかと云えば「行」すなわち「称名念仏」を強調せられたのではないかと思っております。

親鸞聖人が法然上人の下におられた時に、信と行いずれを重んじるかと言う議論になったそうであります。あるお寺のご説明は次の通りであります。

『親鸞聖人が法然上人の下、吉水の草庵に通っていたある日、法然上人に許しを得て門弟たちを信の座「信不退」と行の座「行不退」の二つの席に分け、どちらの考えでいるか明らかにしました。「信不退」とは、弥陀の本願を信じるだけで生涯信心を失わない不退転が得られると信じることをいい、「行不退」とは本願を信じてなお、不退転を得るためには念仏の行を積まなければならないとする考え方です。  ほとんどの門弟たちは行の座に着座しましたが、高弟の信空、のちの「唯信鈔」を書いた聖覚は信の座に着きました。そしてそこに遅れてきた熊谷蓮生房が事の次第を聞き、慌てて信の座に着きました。続いて親鸞聖人も信の座に着座し、これで一同が着座してざわめきが鎮まると、法然上人もおもむろに「私も信の座に着こう。」と言って「信不退の座」に着きました。このとき行の座を選んだ門弟たちは一応に驚き、自らを恥じまた後悔しました。』

「称名念仏」の伴わない「信」は如何かと思いますし、「信」の伴わない「称名念仏」はまことの「念仏」では無いと思われますので、どちらが重いということではないことは言うまでもないことだと思いますので、「称名念仏」を強調されているように感じる善導大師、源信僧都も、信の座に立たれた法然上人、親鸞聖人とお立場は変わらないと思っておりますが、親鸞聖人が本願力を信じることに教えの力点を置かれていたことは歎異抄の第1条の「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすとしるべし」と言う日ごろの親鸞聖人のお言葉にも顕れていると考えて間違いないのではないかと思っております。

ただ、この正信偈の中で親鸞聖人が釈迦章で「難中之難無過斯」と言っておられますが、「信ずる事は、難しい中でこれより難しいことは無い」のであります。つまり、阿弥陀仏の本願を信ずることは非常に難しいことだとおっしゃっておられるのであります。この場合の「信」とは、人から何か話しを聞いてそれを信じると言うことでは無さそうであります。或いは、私はあの人を信じていると言う「信」でもなさそうであります。自分が何とかして信じようという努力で「信」が獲(え)られると言うものではないと思われます。これは、信心を獲た方でなれければ分からない事だと思いますが、私の現時点での精一杯の理解と想像を逞しくさせて頂きまして、この源信章と次の源空(法然上人のこと)章で「信」あるいは「信心」を考察して親鸞聖人の阿弥陀仏信仰心に出来るだけ迫ってみたいと思います。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]


No.571  2006.2.16

トリノの金メダリストに学ぶ

今、イタリアのトリノで冬季オリンピックが開かれています。日本選手は未だメダルを一つも獲得出来ていませんので失望されている方々も多いのではないでしょうか。メダルが期待されていたモーグルの上村愛子選手、スノーボードハーフパイプの成田兄妹も、更には一番金メダルに近いと言われていた500メートルスピードスケートの加藤選手も6位に終わってしまいました。一発勝負のオリンピックで実力を発揮してメダルを獲得するのは非常に難しいことなのだとあらためて感じている次第です。「勝負は時の運だ」と言う言葉があり確かにそう言う面も否定出来ないですがしかし一方、勝負の結果に関する原因を考察する作業もやはり必要であります。それが選手の本当の意味での実力向上に繋がり次のオリンピックに成果を齎(もたら)し、それがその競技の全体のレベルアップに貢献する訳でありますから是非原因精査をお願いしたいと思っております。

門外漢がその原因に付いて云々する内容の事柄位は、当事者の方々は先刻ご承知だと思いますが、一時期においてスポーツ(ソフトテニス)に真剣に取り組んだ事もある無相庵が考える原因を申し上げるならば、選手並びにコーチ陣、そして競技団体とJOCの幹部の方々が、訓練と指導において、技術と体力の向上に重点を置き過ぎて、精神面の訓練であるとか、目的意識であるとかの心の有り方の重要性に関して少し配慮が欠けたのではないかと考察しております。いわゆるスポーツの3要素である心技体のバランスがメダルを取った国よりも少し崩れてはいなかっただろうかと言う事であります。

オリンピックでメダルを取る事がスポーツをする上での唯一の目標でもありませんし、目的でもないことは勿論であります。むしろ日本はメダル・メダルと拘り過ぎではないかとさえ私は思って参りました。そう言う私の思いをオリンピックの舞台で表現し且つ金メダルを獲得された若者がいます。実にわが意を得たり≠ニ言うよりも、私はこの若者を心から尊敬致しますし、彼の姿勢から学び少しでも彼に近付きたいと思っております。彼とは、加藤選手が敗れた500mスピードスケートの金メダリスト、ジョーイ・チーク選手≠ナす。彼の紹介記事が2月14日の朝日新聞の夕刊に掲載されておりましたので以下に全文を転載させて頂きますが、私はこの記事で彼の事を初めて知り、大きな感銘を受けた次第であります。

見出し:メダルの夢 氷を降りても

内容全文:
「生涯最高の滑りができた」。金メダルにあこがれてスピードスケートを始めた26歳のジョーイ・チーク(米)が、13日の男子500bでついに頂点に立った。そしてレース後の記者会見。王者は各国メディアの前で自ら切り出した。 「米五輪委員会の金メダル報奨金2万5千ドル(約300万円)は、虐殺のために難民となったスーダンの子どもを助けるために非政府組織(NGO)に寄付する」

五輪直前の世界スプリント選手権を制し、500bと1000bの優勝候補として迎えた五輪。選手村のベッドで眠りにつく前、白い天井を見詰めながら問い直した。金メダルにいったいどんな意味があるのか、と。「スケートは楽しいし、愛している。だが正直なところ、少し馬鹿げているように思う。タイツをはいて氷の上を滑り回るために、生涯を費やすなんて。でも、僕はスケートが速いおかげで、寄付を集めたり、世界の問題に注意を呼びかけたりできる。大きなことを成し遂げたら、世の中のためになることをしよう」少年時代、米大統領になることを夢見ていた。1994年のリレハンメル冬季五輪で、スピードスケートの3冠を制したヨハンオラフ・コス(ノルウェー)を見て憧れが大統領からスピードスケートに変わった。14歳のときだった。

そのヒーロー(ヨハンオラフ・コス)は、NGO活動を通じて、災害や戦争で苦しむ子どもたちを助けていた。氷を離れたときの振る舞いも、ジョーイ・チークの幼い心に焼き付けられた。それから12年。チーク選手はヨハンオラフ選手とトリノで初めて対面した。幼い頃の思いがよみがえる。

この五輪で引退する積りだ。「98%決めている。経済学の勉強を再開したい」。再び、政治を目指す気持ちが頭をもたげてきている。

――転載終わり

学ばねばならないと思いますのは彼の人生の目的意識です。その目的意識を私なりに言い換えれば、「人間に生まれて来たからには、世の中の為に自分が得意とする何かで役に立たねばならない」と言うことではないかと思います。彼には、オリンピックでの金メダルよりももっともっと大きな目的・目標があったと言うことだと思います。結果として金メダルも獲得したのですが、それはその報奨金でスーダンの難民の子どもたちを救う寄付金になると言う彼にとっては小さな目標を果たしたに過ぎなかったのでしょう。

何と素晴らしい若者でしょうか。素晴らしい若者と言うよりも何と高等な人格でしょうか。この彼を手本と致しまして、私は今一度、人生の目的・目標を明確に持ち直しまして、何か自分がなし得る業(わざ)と技(わざ)で具体的に世間の役に立たなければならないと思いを新たにさせて頂いている次第であります。

追記:
無相庵ホームページの掲示板に関しまして、想定外の状況になっておりまして、掲示板愛読者の皆様の一部に不快な思いをお与えしている事と申し訳なく思っております。掲示板読者の一部の方々からも遺憾の意を表明されるメールも寄せられており、無相庵自身、心を痛めていることも事実であります。勿論、無相庵と致しましても困惑しておりますが、仏法は大きな大きな門戸を開いているが故に地域・所を変え、そして教えの内容を進化させながら今日に至っております。今暫くは事態を静観させて頂き、場合によりましては、掲示板そのものを閉じたいと考えております。その節には、何卒ご了解頂きますようにお願い申し上げます。


[ご意見・ご感想]

[コラムのお部屋へ]

<TOPページへ戻る>



[HOME]