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No.550  2005.12.5

正信偈の心を読む―第30講【依釈段(曇鸞章)―C】

●まえがき
曇鸞大師のところは、少しゆっくりと勉強したいと考えました。私も、この正信偈を幼い頃から詠み上げて参りましが、意味はさっぱり分からないまま今日に至っておりますので、曇鸞大師がどのような方であったかを知りませんでしたが、親鸞聖人が鸞≠フ一文字を戴かれたお気持ちも分かるようになりましたし、天親菩薩から親≠フ一文字を戴かれたのも、成る程と思うようになりました。

他力と言う言葉は曇鸞大師が始めてお使いになられたそうですし、日本の浄土真宗の他力本願の教えは、曇鸞大師無くしては有り得なかったことは、この曇鸞章で明らかであります。

●依釈段(曇鸞章)原文
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし)
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい)
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
梵焼仙経帰楽那(ぼんしょうせんきょうきらくほう)
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)

往還廻向由他力(おうげんえこうゆたりき)
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)

●依釈段(曇鸞章)和訳
本師曇鸞は梁の天子
常に鸞の処に向ひて菩薩と礼したまえり
三蔵流支浄教を授けしかば
仙経を梵焼して楽那に帰したまひき
天親菩薩の論を註解して
報土の因果は誓願なりと顕はしたまふ

往還の廻向は他力に由る
正定の因は唯信心なり
惑染の凡夫信心発(おこ)れば
生死即ち涅槃と証知す
必ず無量光明土に至れば
諸有(あらゆる)衆生皆普く化す

●大原性実師の現代意訳(全文)
曇鸞大師は梁の天子から鸞菩薩と云って常に礼拝せられ給うた方であります。若き日、菩提流支三蔵から浄土の聖典を授けられたので、不老長寿法の認められてあった仙経を焼き捨てて浄土門に帰依せられました。天親菩薩の浄土論の註釈を遊ばされて、浄土に往生する因も果も、共に如来の本願に基づくことを顕わされました。すなわち浄土に向かって進む往相廻向も浄土より還る還相廻向も、いずれも他力によるのであり、浄土に往生する正しい業因は、この他力におまかせする信心一つである。罪悪にけがれはてた凡夫も信心が発(おこ)れば、生死即ち涅槃という大乗仏教の妙味を体得することを得、やがて浄土に往生せば一切の衆生を済度する力用(はたらき)を恵まれるのであると仰せられました。

●暁烏敏師の解説
仙経を焼き捨てた曇鸞大師は、浄土三部経の生粋を味わわれた天親菩薩の『浄土論』を深く研究された。そして、『浄土論』の講釈を書いてその上に自分の信心を表していかれた。それを『浄土往生論註』とも『浄土論註』という。

そして、その註釈を読まれた親鸞聖人は、
    報土の因果は誓願なりと顕はしたまふ
と味わわれたのであります。すなわち、報土というのは真実報土です。浄土を報土といいます。報は報い、報い現す土。因があって果が現われる。因が報い現れたのが浄土です。
その因とは何か、それは阿弥陀仏の誓願だと言う訳であります。

●あとがき
この世のことを娑婆(しゃば)と云い、穢土(えど)とも云い、苦の土(くのど)≠ニも云います。私達は、この世は苦しいけれど、離れ難く、いつまでも居たいところであります(つまり死にたくありません)。しかし、仏様から観れば、私達の生きている世界は娑婆、穢土、苦の土であります。従って、仏様は何とかして救い取ってやろうと誓いを立てられたのです。救い取る限りは、救い取って行く場所が必要であります。それが浄土でありますが、誓いを立てられた結果としての浄土でありますから、報土(ほうど)とも申すようであります。

この浄土・報土は私達凡夫の相対的思考上で実在するかどうかの議論をすることは全く意味の無いことであります。穢土があるかぎりは必ず浄土もあると言うのが信心の世界の真実であります。 そして更に重要なことは、この穢土は信心の世界が開かれますと浄土の景色に転換するというのが、後に続く曇鸞章に示されるところだと思います。


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No.549  2005.12.1

仏教は性悪説か性善説か

この一週間、テレビのワイドショーはマンションの耐震強度偽造問題、広島市の小学一年女児殺人事件、そして西村真悟衆院議員の非弁逮捕事件を同時進行的に報道し、日本社会の病的暗部を劇場的に表現して見せました。「日本社会は性善説から性悪説へ軸足を移さねばならない」という表現をしていたマスコミがあった程に衝撃的な一週間でありました。

守らなければならない法律を、最も守らねばならない立法府のしかも弁護士資格を有する政治家が数年にわたって法律を破り続けたこと、国民の生命を守り、財産形成に寄与することを事業とする住宅建築業界の経営者達が自己の利益追求のみに走った結果の違法建築行為、そして通学途中の女児を簡単に殺害し遺棄した事件を同時並行的に見せられますと、日本社会が安全性において如何に深刻な状況になっているかを実感せざるを得ない一週間でもありました。

法律を破った者は法律に基づいて処罰されねばならないことは当然でありますし、官から民へ移行した建築確認審査業務が引き起こした違法建築マンションに関しましては、国の一部責任は免れないと思われますので、当該マンション住民を経済面で救済措置を施す上で国が主導的役割を果たすべきであろうと考えます。

さて、このような事件が起こった時、必ず出で参りますのが、性悪説をもとにした対策案です。確かに、「他人を簡単に信じてはいけない」と言う意見を即座に否定することは出来ません。私もこれまでの人生において、人を信じたばっかりに後悔せねばならない事態に至ったという経験を何回かして参りましたので、性善説肯定者でもありません。しかし、どうしても「人を信じてはいけない、まず相手を疑ってかかれ」と言う意見に与(くみ)することは出来ません。

さて、仏教は性善説か性悪説か・・・・どちらでしょうか。結論は、どちらでも無いという立場だと言ってよいと思います。もともと善とか悪とかと相対的に物事を捉える立場をとりませんから当然ではありますが、そういう堅苦しい議論はさておきましても、共にこれ凡夫と言う者が、これは善だとかあれは悪だと断じる立場には無いのではないかと言うのが、仏法の説くところだと思います。

一昨日の衆院国土交通委員会における参考人質疑での参考人の発言と態度に、真に謝罪する気持ちはどうしても伝わって来ませんでしたし、むしろ言い訳と責任のなすりあいに終始していたと言うのは、万人が感じたところでありましょう。そして暴言を吐いていた建築主の言動が際立ってはおりましたものの、6名の参考人の姿勢に大差は無かったと言うべきであろうとも思いますが、マスコミも私達一般人も、果たして彼らを一方的に断罪出来ることかと申しますとそれは如何かと思います。

マスコミならずとも、あの参考人達の無責任さには驚きすら感じますが、事の重大性、損害賠償金額を考えますと、自分がもしあの立場に立ったとした場合、「すべては私の責任であります」と言える人は、一体どの程度いるでしょうか。少なくとも私は言えそうにありません。日常生活における他愛ない失敗においてすら、直ぐに言い訳が先んじてしまう自分を振り返りますとき、彼らを一方的に責めることは到底出来るものではありません。

「すべては私の責任であります」と言える者なら、もともとこんな事はしないと言う意見もあろうかと思いますが、人間というものは、縁が整えば弾みで殺人さえ犯してしまうと言う因縁の世界に生きている存在であると言うのが、仏教の立場、特に親鸞聖人のお立場でもあります。

そして更に、これらの事件を報道するマスコミも、その報道を見聞きする一般大衆は、私も含めまして、極論すれば野次馬≠ノしか過ぎません。事件に遭われている当事者の十分の一の痛みすら感じていないと言うのが正直なところではないでしょうか。本当に痛みを感じていれば、夜も眠れないはずですが、悩ましいのは自分が現在抱え込んでいる苦でしかありません。以前10年間マンション暮らしをした私は今の今までマンションの耐震強度に関心を寄せたことすらありませんし、今住んでいる一戸建ての耐震性に強い関心を持って建築業者と交渉したこともありません。無知無関心ながら他力に守ってここまで生きて来られたのだと思わずにはおられません。こんな無知無関心、そして何か問題が起こると大騒ぎをして他人の否を一斉に責め立てる私達大衆を観察されて仏様は、「煩悩具足の凡夫」「まことあることなし」と慈悲をかけておられると言うのが親鸞聖人のお立場ではないかと思います。

以上の話は、性悪説のように受け取られるかも知れませんが、そういう考え方だけではありません。仏教は、私達は人間に生まれたからこそ、仏法に出遇うことが出来て、他力によって生かされて生きていることに気付き、そして他の人々の為に役立つことに心が向かされて行くとも申します。女児が遺棄された現場に花を手向ける人々の気持ちに嘘偽りはないでしょう。恐い目に遭った女児を想って花を手向けさせてのは、真っ白な善の心だと思います。「衆生本来仏なり」と臨済宗中興の祖である白隠禅師が申されておりますが、人に仏性があるからこそ、仏の光に照られて我が煩悩に気付かしめられるのだと思います。

目を背けたくなるような他者の言動を見るとき、それは自分の心の中を映し出している姿と受け取り、自己を問い直す機縁としようではないかと言うのが仏法の説くところだと思います。


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No.548  2005.11.28

正信偈の心を読む―第二十九講【依釈段(曇鸞章)―B】

●まえがき
科学教育が広まっている今の世でも、病気が治るとか長生きするとか、災難に遭わない、お金が儲かると言うことを謳い文句にしている自称宗教団体が多いです。新興宗教の殆どがそうではないかとさえ思います。 曇鸞大師の頃にも、山奥深くで修行する仙人達がおり、長生きを売り物にしていたようであります。仏法を学んでいた曇鸞大師でさえ、長生きを求めて仙人を訪ね仙経を授かるという迷いをせられたようでありますが、偶然にも仏法を深く学んだインドから帰国したての僧に出会われ、浄土三部経の一つである『観無量寿経』を手渡され、即座に自分の過ちに気付いて浄土の教えを求められたそうです。

この出会いが無ければ、私も親鸞聖人の教えには出会うことは無かったでありましょう。そして、勿論、この無相庵ホームページも開設しえなかったと思うとき、遠き宿縁を感じる次第であります。

●依釈段(曇鸞章)原文
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし)
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい)
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
梵焼仙経帰楽那(ぼんしょうせんきょうきらくほう)

天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)
往還廻向由他力(おうげんえこうゆたりき)
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)

●依釈段(曇鸞章)和訳
本師曇鸞は梁の天子
常に鸞の処に向ひて菩薩と礼したまえり
三蔵流支浄教を授けしかば
仙経を梵焼して楽那に帰したまひき

天親菩薩の論を註解して
報土の因果は誓願なりと顕はしたまふ
往還の廻向は他力に由る
正定の因は唯信心なり
惑染の凡夫信心発(おこ)れば
生死即ち涅槃と証知す
必ず無量光明土に至れば
諸有(あらゆる)衆生皆普く化す

●大原性実師の現代意訳(全文)
曇鸞大師は梁の天子から鸞菩薩と云って常に礼拝せられ給うた方であります。若き日、菩提流支三蔵から浄土の聖典を授けられたので、不老長寿法の認められてあった仙経を焼き捨てて浄土門に帰依せられました。天親菩薩の浄土論の註釈を遊ばされて、浄土に往生する因も果も、共に如来の本願に基づくことを顕わされました。すなわち浄土に向かって進む往相廻向も浄土より還る還相廻向も、いずれも他力によるのであり、浄土に往生する正しい業因は、この他力におまかせする信心一つである。罪悪にけがれはてた凡夫も信心が発(おこ)れば、生死即ち涅槃という大乗仏教の妙味を体得することを得、やがて浄土に往生せば一切の衆生を済度する力用(はたらき)を恵まれるのであると仰せられました。

●暁烏敏師の解説
三蔵流支(さんぞうるし)とは菩提流支(ぼだいるし)のこと、三蔵とは、経・律・論の三蔵に深く通じた人という意味で称号としてつけられるものである。三蔵流支が浄教を授けたというのは、『観無量寿経』を授けられたのです。そうすると、曇鸞大師は『観無量寿経』の表題を見ただけでいたく驚かれ、自分は大変な間違いをしていたと仙人から貰ったお経(仙経)を焼き捨て、浄土教に入られた。

天子さまから菩薩と尊まれた方でも、やはり死ぬということになると迷って仙人のところに走ったのである。本当の長生きは、弥陀の心を貰うということだが、わからなかったのです。仙経を捨てて、浄土教にはいられたというところに本当の仏教があるのです。娑婆を捨てねば浄土へ行けぬ。娑婆と浄土と二手には行けぬ。どっちに向うて行くか。身体を基礎にして考えられた娑婆を大事にするか、その身体の世界から一歩超えた世界を開くか。浄土とはこの世ではない。身体の世界ではない。身体のなくなる向いにある国を浄土という。

信心の世界は、肉体の世界を超えた世界である。娑婆だけでよければ仏法を聞かなくてもよいのである。この身体の向いの国、それを教えるのが浄土の教えである。そこに無量寿がある。仙人の教えでこの肉体の命を延ばす、それもよかろう。精一杯祈ったり、呪ったり、八卦をおいたり、いろんな神頼みをしたところで、誰か百年の命を保つべき、われやさきひとやさきです。

だから無量寿を味おうてこそ、目出度いのである。ただ肉体に執着しては何にもならない。しかしだからといって、この肉体が無ければ、尊いみ教えを聞いて悟りを開くことが出来ない。逢うて喜び、別れて悲しみ、死んでもよいのである。そこに何らこだわりがない。絶対の境地が味わえるようになる。そうなると、捨てた娑婆が捨てなくともよいようになる。本当の意味で息災になる。命も延びてこの世の利益がある。いや、この世の利益が要らぬようになる。肉体のこの世が無量寿の光をもって輝いてくる。それを摂取の光明にあずかったという。正定聚の位になったのである。曇鸞大師が仙経を焼き捨てて浄土にはいられたというところに尊い教えを我々に残して下さったのである。

●あとがき
仏法は、この世の生活がうまく行くために学ぶものではないと思います。私達の欲望の満足をかなえることを目的としているものではないと言ってもよいと思います。しかし、かく言う凡夫私自身も、ついつい豊かな衣食住の満足や、自由に使えるお金を持つことが幸せであるかのように思ってしまいます。出世や社会的地位の向上が幸せであるかのように、日々の暮らしにあくせくしてしまいます。

これさえ手に入れば、この問題さえ無くなれば幸せになると思いながら一生を過ごして来たように思います。それが凡夫だと言って開き直って生きられれば、それはそれで一つの生き方かも知れませんが、そういう開き直りすら出来ずに、不安と不満の日々が永遠に続くと言う、まさしく凡夫の日暮しをしています。

このような生活から本当に救われるには、親鸞聖人の教えを聴き続ける道しかないというのが先師・先輩の示されているところであります。そしてそれを親鸞聖人自らがはっきりと例を挙げて私たちに言残されているのが、今日の曇鸞大師が仙経を焼き捨てられたというお話ではないかと思います。


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No.547  2005.11.24

熟年離婚

今、テレビ朝日の木曜日の午後9時からのドラマ『熟年離婚』が話題となっています。渡哲也さんと松坂慶子さんが熟年夫婦を演じていますが、色々と考えさせられるドラマであり、私の楽しみにしている番組の一つとなっております。

熟年とは何歳から何歳を言うのか、広辞苑では『熟年』は見当らず、『中年』は「青年と老年との中間、40歳前後の働き盛りの頃」とあります。老年についても具体的に何歳からと言うことも広辞苑にはありませんし、熟年もインターネットで調べましてもマチマチですが、総じて大体のところ45歳位から65歳位までを『熟年』と言ってよいと思われます。そして、『熟年夫婦』も、結婚して約20年から約30年経過した夫婦であると言ってよいようです。私たち夫婦は60歳と56歳、結婚して34年、間違いなく『熟年』同士であり、老年夫婦に近い『熟年夫婦』であります。

私たちは熟年夫婦でありますが、今のところ熟年離婚は無さそうであります。いや、むしろ熟年離婚さえ出来ない夫婦だと言ってよいかも知れません。

最近確かに結婚後20年以上経過したご夫婦の離婚が急増している事はデータに現れているそうですし、芸能人夫婦の離婚報道が連続していますので現実だと思いますが、私の知り合いでは離婚予備軍的なご夫婦があったとしても実例はございませんので、まぁ、まだまだレアケースではあると思います。

熟年離婚が増加していると致しましたら、それは、女性の働く場が増え、女性が経済的に自立し易い労働環境になって来たこと、そして、離婚が『バツイチ』とかと云う表現が生まれましたように、特別不幸なイメージではなくなって来たという社会の心理状況も大きな要因と思われます。古来、男のものであった生甲斐、遣り甲斐が、女性も等しく求め得ると言う男女平等社会になったと言うことではないかと思います。これはこれで日本社会の進歩だと言ってよいと思います。

ドラマの中での離婚の理由は、よく有る「夫の浮気」ではなく、妻が一人の人間としての「生甲斐」「遣り甲斐」を求めたい、専業主婦業中は封印して来た「充実した人生」を送りたいという願望から、夫の定年退職を待った上での決断と宣言でした。夫にとってはまさに青天の霹靂でありました。

私と同様、渡哲也ふんする夫は、家庭と子育てを一切妻に任せ委ねて(放棄してと言ってよいかも・・・・)、仕事をしてお金を家庭に入れる事が自分の家庭での役割だと言い聞かせて定年までガムシャラに働き続けたに違いありません。おそらくは奥さんに「いつもご苦労さん!」と感謝と労(ねぎら)いの声をかけた事は一度もなかったでしょう。

土日はゴルフに出掛け、平日も、何時に家に帰るか連絡もしない。仕事のため、家庭を経済的に守るため・・・・・・夫はそう考えていたに違いありません。しかし、コミュニケーションが決定的に不足していた事は間違いありません。松阪慶子ふんする奥さんは、不満を溜め込み、何度かは夫に申し入れても、夫は耳をかさなかったのだと思います。

このような夫婦の有り方は、私たち熟年夫婦にあっては特別なものではないと思われます。しかし、離婚にまで至らないのは、古くから日本の美徳とされていた『辛抱』と『変化を好まない』気質によるものではないでしょうか。

私たち夫婦の場合は、離婚さえ出来ない状況と申しましたが、それは、私に退職金がないこと、専業主婦であった妻が手に職を付けていない故に、たとえ妻が離婚願望を持ったとしても、妻は経済的に自立し難いからであります。ドラマの夫は4000万円程度の退職金の半分を奥さんに渡してあげるというのですから、それに比べて自分は何と情けない夫であるかと、妻に申し訳ない気持ちになっています。

熟年離婚する夫婦に勿論憧れはしませんが、熟年離婚しても妻が経済的不自由なく生きて行ける位の夫でなければならなかったと、我が人生を反省しつつ、挽回を期しているところであります。


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No.546  2005.11.21

ウィッキー

今日の月曜コラムは、いつもの『正信偈の心を読む』を休ませて頂きまして、先週の月曜日にある無相庵の読者様から教わりました「ウィッキー」と言う聞き慣れない言葉と、その読者様の事、そして読者様のホームページをご紹介させて頂きます。

「ウィッキー」は英語のスペルに直しますと、「wicky」となりましょうか。でも、これは英単語ではありません。私達が写真を撮る時に笑顔で写るために「チーズ」って発音しますが、これと同じく笑顔演出用の新語であります。少し前に、掲示板にspoonさんと言う方から「笑えない」と言うテーマで投稿して頂きましたが、そんな笑えない人も「ウィッキー」と発音すれば、周りの人々に笑顔を提供出来て、和顔施(わげんせ)と言う、仏教が勧めるところの『無財の布施(むざいのふせ;お金を持たなくても出来る布施行)』となると言うものであります。

「ウィッキー」を教えて下さいました方のメールネームは、yururi(ユルリ)さんとおっしゃる方ですが、1日5回の「ウィッキー」を提唱されておられます。私達の人生は『一切皆苦(いっさいかいく)』と言われる如く、誰しも背中に『苦しみ、悩み』を背負っております。裕福そうな人も、また常に微笑みを振り撒き幸せそうに見える人も、必ず一つ位は人には言えない大きな『苦しみ、悩み』を心の中に抱えているものであります。それは、微笑みのお顔しか浮かばない、あの美智子妃、雅子妃が心痛から来る病で静養された事が何より物語っているのではないかと思います。

さて、今回この「ウィッキー」を教えて下さった方は、仏教が四苦八苦と並べる人生苦の中でも、私達が最も恐れる『死』と向き合っておられる方であります。私は、いつ会社が倒産するか、そしていつ家を出なければならないか知れない経済的破綻寸前の状況にあり、精神的には辛い日々が続いておりますが、もし今、癌の告知を受けますと、私の経済的苦悩は一瞬にして霧散し、私の心は、癌一色の苦悩と苦痛に占領されることは間違いありません。私達は、常に死と隣り合わせの生を生きていると言う事を頭では分かっていますが、正直なところ、年老いてさえも十年先、二十年先の事としか思えていないというのが現実であります。

yururi(ユルリ)さんの症状は、決して楽観出来るものでは無いと思いますが、そのような状況下、治療を続けられながらも仕事も目一杯こなされながら「ウィッキー」を提唱され、また、ホームページを開かれて、同じ病の方々へ貴重な情報発信をされておられる事には、ほとほと頭が下がりましたし、逆に励まされた想いであります。

この想いを無相庵読者の皆様にもお分け致したく、yururi(ユルリ)さんからのメールと共に紹介させて頂く次第であります。yururi(ユルリ)さんのホームページは、無相庵のリンク集にも掲載させて頂きましたが、是非お訪ねになって下さい。

はじめまして。yururiと申します。
「ゆるりと肺がん記」http://www.yururi.net/というホームページを開いています。
「顔施」という言葉を検索してこのサイトを見つけ、自分の日記(11月14日)で紹介し、[リンク集2]に入れさせていただきました。事後承諾になりますが、よろしくお願いします。  

がんは一般に5年生存率といわれますが、肺がんだけは3年といわれるほど厳しいです。私は再発しながらもなんとか3年経過しましたが、若くして亡くなる方々を見ていると、なんと癌は理不尽な病気だろうかと思います。でも、現実として受け止め、明るく元気がモットーです。その意味で、掲示板の173の「笑えない」のやりとりがとても興味深かったです。

患者のご家族からメールをいただき、「ウィッキー」という言葉を教わりました。患者である奥様に、つらくても無理矢理「ウィッキー」といって形だけでも笑顔を作らせるのだそうです。ご夫妻ともにお若いので、どんなにかつらいだろうと思います。闘病記は、同じ病気の人に役立てばとの思いから始めましたが、そうした厳しくつらい状況の方も見てくださっています。3年間生き延びると、そのこと自体が元気を与えるサイトになってしまったので、なるべく楽しい話題を見つけるようにしています。患者さんに元気を出してもらうため、1日5回「笑う=ウィッキー」を提唱しています。ご自分の「今日のウィッキー」を知らせてくださる方がいるとうれしくなります。
今日は無相庵さんのサイトに出遭ってよかったです。このごろ「言葉の力」を強く感じるようになりました。ありがとうございました。


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No.545  2005.11.17

謙虚と言う賜わりもの

一昨日の11月15日に紀宮様と黒田慶樹氏のご結婚式がありました。神前結婚式後の共同記者会見がテレビ放映されましたが、黒田さんと紀宮様の一挙手一投足を拝見しご発言をお聞きしていて、一般庶民には見ることが出来ない超一流の『教養と上品さと慎み深さ』に感動を覚えました。黒田さんは民間家庭に育った方でありながら何故ここまで対応が出来るのかと特に驚きがありました。

あのような超一流の『教養と上品さと慎み深さ』は、一体どのようにして現出されるのかと思いました時に、私は、先週の土曜日にアップさせて頂きました井上善右衛門先生の法話の中にあります『謙虚』と言う熟語が思い出されました。井上善右衛門先生が紹介されていたのは下記の通りであります。

ゲーテが『ファウスト』の中に、「人間にとって謙虚ということほど神よりの恵まれた賜物はない」ということを言っております。
謙虚さが人間の人間たる価値であると言う事だと思われます。逆に申しますと、「謙虚を失った人間は、人間とは言い難い」と受け取らねばならないと思いますが、謙虚さが、黒田氏と清子さんの超一流の『教養と上品さと慎み深さ』を生み出しているのであろうなと思った次第であります。

更にこの謙虚さは、矛盾的な表現となりますが、自信の裏付けがあってこそのものなんだろうなとも思いました。黒田さんが為された皇室の方と結婚すると言う決断は、好意や恋愛感情だけで為し得たものではないと思われます。それなりの自信がなければ、決断出来ないはずであります。その自信は、共同記者会見でのハッキリとした発言にも顕れているのではないかと考えます。並外れた自信と並外れた謙虚さが顕れた記者会見だったと、改めて思っている次第であります。

さて、謙虚の反対は驕慢(きょうまん)であります。ファウストの言葉を借りるならば、「人間にとって驕慢ほど神に背く罪は無い」と言うことになりましょう。地球を我がもの顔で支配し、環境を破壊し、動植物の生存を脅かし続ける行為は驕慢の為せる業(わざ)であります。

また驕慢というのは、唯識に挙げられている煩悩の一つでありますが、環境を破壊する人間の驕慢はまだしも、仏法を求める上での驕慢に気付かないのが凡夫の凡夫たる所以ではないかと自戒させられます。経典を読み、法話を浴びるほど聴聞して、我が努力で仏法を我がものにして、安らかな境地に達したいと思うその気持ちは尊いものではありますが、本来仏法を我がものに出来ると考えること自体が、自己を見誤っているのではないか・・・。

この消息は、下記する道元禅師の有名なお言葉に明確に示されています。

自己を運びて万法を修証するを迷いと為す、万法進みて自己を修証するは悟りなり
また、井上善右衛門先生は、上記と同じ法話の中で、『謙虚』という言葉と絡められて、次のように語られています。
真の謙虚というのは、自分が自分を知るということではなしに、自分が自分を知り尽くせないということを知らされるという、そういう意味での謙虚が人間に与えられる神の最大の恵みであるとゲーテは申しておるのであると思いますが、私はやはり、自己を真に知らしめられるということは、真実の光(仏様)に出遇うて始めてそこに自己の真実の姿に気付かされてまいるものだと思います。 その時に、握ろう握ろうとしていた己れの執我の手を散じて、自己を遥かに超えた偉大なるものに私の全てを託しきって安らうという世界が私どもの上に恵まれてまいるものだと思います。そうしてその任せきった心の流れが、私どもの生活実践の上に先ほどから申しております報謝の心即ち生き方の本質というところに報謝の深い意味を読みとっていただきたいのです。
仏法の門を叩くと致しましたら、仏道の先輩方のご法話をお聞きし、仏法書に親しむことに努力することももとより大切であります。それなくして仏法がどう言うものか分かりませんし、いわゆる信心も頂けませんが、知識を増やすことが目的になってしまっては、大きく道を踏み外してしまうことになってしまう、それは非常に残念なことであると、井上善右衛門先生が私達に語りかけて下さっているのだと思います。

作った謙虚ではない謙虚は、仏道を歩む上でのキーワードではないかと、黒田さんと紀宮様の結婚式を拝見させていただきながら、自戒させられた次第であります。


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No.544  2005.11.14

正信偈の心を読む―第二十八講【依釈段(曇鸞章)―A】

●まえがき
浄土真宗のご門徒は善導大師の事はご存知でも、曇鸞大師のことに付いて語れる方は極めて少ないと思います。ましてや、一般の方々がお聞きになった事はまず無かろうと思われます。それを見越されて親鸞聖人は、この曇鸞章で、『本師』と呼び、天子(日本の天皇の事)が曇鸞大師に向かって礼拝されていたことを書き添えられているのだと思います。曇鸞大師がお生まれにならなければ、他力浄土門は開かれず、自分(親鸞聖人)もこの教えに遇うことはなかったに違いないというお心だと思います。

大原性実師は、曇鸞大師を位置付けられて次のように語られています。
龍樹菩薩の信方便の易行と、天親菩薩の一心帰命願生西方の信仰を承(う)けて、難行自力、易行他力の分別(ぶんべつ)を明瞭にせられたのが支那の曇鸞大師であります。龍樹、天親二菩薩のおかげによって浄土教は天竺(今のインド)に芽生えました、しかしそれを培い育てる人がなかったら恐らく双葉のうちに枯れ果てたであろう。曇鸞大師はこの芽生えを大切に育て培いうる、純正にして確固たる温床を與(あた)えた人であります。これ支那における純正浄土教の始祖として敬仰(けいごう)せられ給う所以(ゆえん)であります。

●依釈段(曇鸞章)原文
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし)
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい)
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
梵焼仙経帰楽那(ぼんしょうせんきょうきらくほう)
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)
往還廻向由他力(おうげんえこうゆたりき)
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)

●依釈段(曇鸞章)和訳
本師曇鸞は梁の天子
常に鸞の処に向ひて菩薩と礼したまえり
三蔵流支浄教を授けしかば
仙経を梵焼して楽那に帰したまひき
天親菩薩の論を註解して
報土の因果は誓願なりと顕はしたまふ
往還の廻向は他力に由る
正定の因は唯信心なり
惑染の凡夫信心発(おこ)れば
生死即ち涅槃と証知す
必ず無量光明土に至れば
諸有(あらゆる)衆生皆普く化す

●大原性実師の現代意訳(全文)
曇鸞大師は梁の天子から鸞菩薩と云って常に礼拝せられ給うた方であります。若き日、菩提流支三蔵から浄土の聖典を授けられたので、不老長寿法の認められてあった仙経を焼き捨てて浄土門に帰依せられました。天親菩薩の浄土論の註釈を遊ばされて、浄土に往生する因も果も、共に如来の本願に基づくことを顕わされました。すなわち浄土に向かって進む往相廻向も浄土より還る還相廻向も、いずれも他力によるのであり、浄土に往生する正しい業因は、この他力におまかせする信心一つである。罪悪にけがれはてた凡夫も信心が発(おこ)れば、生死即ち涅槃という大乗仏教の妙味を体得することを得、やがて浄土に往生せば一切の衆生を済度する力用(はたらき)を恵まれるのであると仰せられました。

●暁烏敏師の解説
梁(りょう)という国の天子(蕭王、そうおう)が曇鸞大師のおいでになるところへ向うては鸞菩薩と言うて礼拝された。当時の天子様からそれ程に尊まれておいでになった。この菩薩とは、菩提薩垂(ぼだいさった)で、菩提は道、薩垂は求める。求道者のことを菩薩という。この菩薩ということは、当時の支那では一種の位のようになっていた。声聞・縁覚・菩薩の3階級になっていて、声聞は仏の声を聞いて喜ぶ、縁覚は自分一人で考える、声聞縁覚は一人で求める者であり、菩薩は考えて知り、求めてする。小乗の道は声聞・縁覚のゆき方であり、大乗の道は菩薩のゆき方である。インドでは弥勒・馬鳴・龍樹・無著・天親などの方々を菩薩という。

菩提を求める者は、皆菩薩なんだ。その点からいえば、私達も皆菩薩の筈なんです。菩薩とは始めはそういう意味だった。後に特別な人の称号のようになった。支那へ来てあまり菩薩とはいわなかった。智者大師・懐思禅師・曇鸞大師・善導大師と、大師というたり、禅師というたりする。梁の天子は曇鸞大師のおいでになる処を望んで、菩薩と拝されたのは、非常に尊ばれたのだ。そこには、インドの龍樹菩薩や、天親菩薩と肩を並べる程の立派なお方だというお心の現れで、鸞菩薩といわれたのでしょう。

●あとがき
人生を振り返る時、現在の自分があるのは、実に色々な人との出逢い、節目節目での無数の縁の働きを感じざるを得ません。全てが一繋がりになっていて、どの出逢いが欠けても、どの縁が欠けても、現在の自分はあり得ないことである事が実感されます。

私がこの世で親鸞聖人の教えに遇えたと言う事に付きましても、勿論仏教徒の母の子として生まれたことは主たる因でありますが、母が仏法に出逢い、親鸞聖人の教えに帰命するに至るには、実に多くの縁が働いた上でのことであります。更に辿れば、親鸞聖人、そして親鸞聖人が讃嘆されている七高僧、そしてお釈迦様まで辿り付き、最終的には阿弥陀仏の誓願に帰因する訳であります。

これが他力、若しくは本願力によるものだと言うことでありますが、親鸞聖人も、七高僧の教えを学ぶに随って、その意を強くされたのだと思います。


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No.543  2005.11.10

一切皆苦(いっさいかいく)

仏法の四法印として、『諸行無常(しょぎょうむじょう)』『諸法無我(しょほうむが)』『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)』『一切皆苦』があります。法印とは、この4つを教義の中に全て含められていなければ、その宗教を仏法とは認められないと言う、仏法か否かの判定基準とも言うべきものであります。おそらく、お釈迦様の亡き後、お釈迦様の教えとは言い難いにも拘らないのに仏法を標榜する宗教団体が多く生まれ、交通整理をする必要があったからではないかと思われます。

本日のテーマ『一切皆苦』は、その中の一つの判定条件項目であります。「人生は苦なり」とも言われますが、凡夫の私には、人生は苦だけではなく、楽と言いますか、幸福に感じる時もあり、人生の全て一切が苦であるとはどうしても思えません。

人生に苦があるからこそ古来から宗教があり人々の多くは宗教を求めることもまた確かであります。一切が苦ではなく、人生に幸せもあると信じて宗教の門を叩くのだと思います。しかし、仏法は、一切皆苦だと断言致します。それはどうしてでしょうか?

さて仏法は古くから、苦を三つに分類して考えているようです。苦苦、壊苦(えく)、行苦がそれです。『仏教の基礎知識』という著書の中で、水野弘元氏は、以下のように説明されています。

苦苦とは肉体で感じる感覚的の苦であります。打たれたりつねられたり、頭が痛んだり歯が痛んだりする場合の苦であります。これは痛感覚を持っているものならば人間に限らず、他の動物でも感受する客観的な苦であると説明されています。

壊苦とは、事態が破壊し衰亡するような場合に感ぜられる精神的な苦悩であります。無常のために事態が悪化することによって感じる苦も壊苦であります。「無常だから苦である」とされるのもこれを指すものでしょう。しかし事態が好転する場合には「無常だから楽である」という命題も成り立ちます。精神的苦悩としての壊苦はかなり主観的なものでありまして、ある事柄に対して欲望や期待を持っている場合に、その欲望や期待に反する事態が起これば苦を感じるのであります。同じ環境にあっても、人によって欲望や期待が異なりますから、たとえ同一人でも時によって異なることがあります。そのために、同じ環境におかれていても、それを苦と感ずる人があり、苦と感じない人があります。同一人でも時と場合によって感受性や反応が違うのは、欲望や期待の有無強弱のためでありましょう。そこに精神的な壊苦の主観性があると思われます。

行苦は、行すなわち現象世界そのものが苦であるということであります。一切皆苦は一切行苦とも言われますから、一切皆苦とはこの行苦を指したものと見ることが出来ますでしょう。それでは一切の現象界ははたしてすべて苦であろうか。ここに問題があります。 常識的に見れば、現象界に対して、われわれは苦と感ずることもありますが、楽と感じ不苦不楽と感ずることが多い。それらもかかわらず、どうして現象界はすべて苦であるといわれるのでありましょうか。これは仏教だけでなく、インド一般の考え方に由来するものです。ここに行とか現象とかいっていますのは、輪廻界における現象を指したものであり、業報によって輪廻する凡夫によって見られた現象を指したものであります。従いまして行苦とか一切皆苦とかいう命題は、正しくは「輪廻転生する凡夫にとっては、一切の現象はすべて苦である」ということになります。それはインド的な考えによれば絶対に苦しみ悩むことのない状態は、輪廻を脱した涅槃の境地に至らなければ決して得られないのであって、輪廻転生している凡夫の間は、そこに快楽や幸福があるとしても、それは一瞬的のものにすぎず、絶対の寂静の楽は決して得られないから、結局、凡夫にとっての現象世界は苦であるにすぎないとするのであります。ここに「一切皆苦」や行苦の考え方が生じるのであります。

一切皆苦ということを認めるのが仏法の印(しるし)であるということになりますと、仏法は、厭世的な教えだと受け取られてしまうのではないかと危惧致しますが、以前どなたかのご法話でお聞きしたのですが、一切皆苦とは、我々凡夫が呟(つぶや)くことではなくて、仏様がこの世この凡夫の生活を観られた時に発せられるお言葉だと言うことであります。仏様から観たら、幸せの絶頂にあると浮かれている者を幸せとは思えないのでありましょう。

考えてみますと、私達は最大そして絶対の苦であるところの死と隣り合わせの人生を生きております。死が苦である限りは、幸せは苦に至る一瞬の儚(はかな)い夢でありますから、一切皆苦と言う事ではないかと思われます。この世は、全ては変化し(諸行無常)、これはこれだと云える固定的実体の有るものは一切無い(諸法無我)から、この世の全ては苦悩にしか見えない(一切皆苦)、だからこそ涅槃寂静を求めようと言うのが、仏法なのだと思います。

誰しも苦悩を抱えますが、全ての人が宗教の門を叩くわけでは有りません。思うようにならないのが人生だと達観して、敢然と苦に立ち向かう人々も多いのも事実であります。私の周りにも大勢いらっしゃいます。そう云う方々は宗教に走る者に対して、苦悩からの逃避だと言う視線を投げかける場合があります。

しかし、私はこう思っています。それは苦からの逃避ではなく、苦の原因は自らの心の内にあると気付いて、永遠の幸せを願う、まさに挑戦者だと思うのであります。宗教に走らない人々は、苦は外からのみやって来るものであり、自分の心の内に原因を求めない、いわゆる歎異抄の言うところの善人なのだと思います。苦に立ち向かう事自体、それは称賛すべきところもあるとは思いますが、仏法の立場からしますと、それは流転輪廻を繰り返す業でしかないのではないかと思う次第であります。

そして、何よりも大切なことは、この一切皆苦の苦は、煩悩から齎(もたら)されるものであり、他の動物には与えられているものではありません。人間に生まれたからこそ煩悩を持ち、だから苦が与えられています。そして、更に苦だけではなく、私達には『楽』と言う一瞬ではあっても「楽しみ」を与えられますから苦を感じるのであります。苦ばかりですと、それは苦では無くなるからです。

そう言う意味では、苦は仏種(ぶっしゅ、仏になる種)であります。苦があるからこそ、悟りの世界を求めることが出来るのであります。「煩悩即菩提」と言うのは、そう言うことではないかと思います。他の動物には無い煩悩があるからこそ、仏への道が開かれていると言ってよいと思います。

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No.542  2005.11.7

正信偈の心を読む―第二十七講【依釈段(曇鸞章)―@】

●まえがき
さて、これまでの章はインドのお坊様であられた龍樹菩薩、天親菩薩を讃嘆されたものでありましたが、この章からの曇鸞(どんらん)大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導(ぜんどう)大師のお三方は、支那(しな、現在の中国)のお坊様方であります。

曇鸞大師は、親鸞聖人がその『鸞』と言う文字を頂かれたのでありますから、特別の思いがあらせられたのだと思います。それを裏付けますのがこの章の冒頭にある「本師曇鸞」と言う"本師" と言う言葉であります。これは、「本宗の師」と言う事でありまして、他力浄土門の祖師と言う程の意味かと思います。

曇鸞大師(西暦467〜542年)は、天親菩薩が亡くなられて500年後、支那にお生まれになりました。当時の支那は南北朝の時代でしたが、その北朝の後魏に生まれられ、15歳頃に仏教の中心地とされていた五台山で出家され、主に龍樹菩薩の『中論』等を学ばれ、当時の仏教買界の第一人者になられたようであります。

そして後年、『大集経』と言う難解なお経の註釈を思い立たれたものの病に倒れ、これでは自分の仕事が中途半端になってしまうと、長寿を願って陶隠居と言う仙人から仙術(仙人の教え)を受けられたそうですが、たまたま当時、インドから菩提流支三蔵と言うお坊さんが来られていて、「あなたは長い間仏法の話を聞いておりながら、今更のように何を戸惑いして歩いておるのです。これを読んでご覧なさい」と窘(たしな)められ、『仏説観無量寿経』を手渡されたそうであります。

ハッと自己の間違いに気付き、仙経(仙人の教えを書いた書物)を焼いて、『仏説観無量寿経』を熱心に勉強され、阿弥陀仏の本願を信ずる南無阿弥陀仏の行者になられたとの事であります。

個々の句の詳細解釈は次回からの講に譲らせて頂きます。今回は、ざっと全文を流し読んで頂ければと思います。

●依釈段(曇鸞章)原文
本師曇鸞梁天子(ほんしどんらんりょうてんし)
常向鸞処菩薩礼(じょうこうらんしょぼさつらい)
三蔵流支授浄教(さんぞうるしじゅじょうきょう)
梵焼仙経帰楽那(ぼんしょうせんきょうきらくほう)
天親菩薩論註解(てんじんぼさつろんちゅうげ)
報土因果顕誓願(ほうどいんがけんせいがん)
往還廻向由他力(おうげんえこうゆたりき)
正定之因唯信心(しょうじょうしいんゆいしんじん)
惑染凡夫信心発(わくぜんぼんぶしんじんほつ)
証知生死即涅槃(しょうちしょうじそくねはん)
必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)
諸有衆生皆普化(しょうしゅじょうかいふけ)

●依釈段(曇鸞章)和訳
本師曇鸞は梁の天子
常に鸞の処に向ひて菩薩と礼したまえり
三蔵流支浄教を授けしかば
仙経を梵焼して楽那に帰したまひき
天親菩薩の論を註解して
報土の因果は誓願なりと顕はしたまふ
往還の廻向は他力に由る
正定の因は唯信心なり
惑染の凡夫信心発(おこ)れば
生死即ち涅槃と証知す
必ず無量光明土に至れば
諸有(あらゆる)衆生皆普く化す

●大原性実師の現代意訳
曇鸞大師は梁の天子から鸞菩薩と云って常に礼拝せられ給うた方であります。若き日、菩提流支三蔵から浄土の聖典を授けられたので、不老長寿法の認められてあった仙経を焼き捨てて浄土門に帰依せられました。天親菩薩の浄土論の註釈を遊ばされて、浄土に往生する因も果も、共に如来の本願に基づくことを顕わされました。すなわち浄土に向かって進む往相廻向も浄土より還る還相廻向も、いずれも他力によるのであり、浄土に往生する正しい業因は、この他力におまかせする信心一つである。罪悪にけがれはてた凡夫も信心が発(おこ)れば、生死即ち涅槃という大乗仏教の妙味を体得することを得、やがて浄土に往生せば一切の衆生を済度する力用(はたらき)を恵まれるのであると仰せられました。

●あとがき
仏法を難行と易行に分けて考えられたのは龍樹菩薩でありますが、自力・他力と言う見方で分けられたのは、この曇鸞大師だと言われています。また、正定の因は唯信心なりがありますが、歎異抄に示されている「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」と言う親鸞聖人のお言葉と対応するものだと思います。

親鸞聖人が如何に曇鸞大師を慕われていたかが分かるような気が致します。


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No.541  2005.11.2

まず健康!

この無相庵ホームページのコラムを書き出してから、一度も寝込む程の病になったことはありませんでしたから、この5年余り、毎週月曜と木曜のコラムは一度として欠かしたことはございませんでしたが、昨日の夕食が終わってから突然気分が優れなくなり、寝床にもぐり込みました。

そして、一晩中、下痢の為にトイレとの往復を10回以上繰り返し、睡眠も取れませんでした。どうやら、夕食に食べた牡蠣(かき)による食中毒のようです。一緒に食べた妻はそのような症状は無いので、朝食に私だけが食べた少し古いチーズの食中毒かと考えていましたが、お隣の奥さんから、間違い無く牡蠣だと診断されました。ご家族で自分だけが牡蠣による食中毒を経験されたからだと言うことであります。

風邪をひいても食欲が衰えたことの無い私ですが、今回はさすがに、今も何も欲しくありませんし、食材を見る気も致しません。あんなに好きなアルコールにも手が伸びませんから、これは重症であります。

病気になって思い出すのは、亡くなった母の「まず健康!」という言葉です。確か、何かの標語に応募して金賞を頂いたものだそうで、時折、この言葉を聞かされたものでした。しかし実際、健康であれば、経済的記危機も乗越えられる可能性はありますが、病気に倒れますと、幾らお金に囲まれていたとしても、何も楽しむことが出来ない訳でありますから、母の言葉は珠玉のものだとあらためて感じ入りました。

病に負けてコラムを更新しないと言うのも如何かと思いまして、頑張った次第であります。

まず健康!


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