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No.480  2005.04.04

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第296条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―捨つるも取るも御恩なり

●まえがき
個を尊重し、自立或いは自律を求めるアメリカの資本民主主義の考え方で育てられた戦後育ちの私達には、親鸞聖人の他力本願の教えはなかなか馴染み難いものであると言えるのではないでしょうか。今日の聞書の表題にある『御恩(ごおん)』と言うのは、「他力のお陰さま、本願のお陰様」と言うことであります。すべては他力によるお陰様であると言うのは、現代人にはむしろ異様な考え方だと受け取られるのではないかと思います。私も戦後教育を受けて育ちましたから、なかなかすんなりとは受け容れられないというのが正直なところです。

しかし、親鸞聖人が20年間の修行と膨大な経典を読破された結果辿り付かれた『他力本願』の教えは、仏道を求める者にとっても、最終的な拠り所となるものである事は間違い無いと、私は考えております。

●聞書本文
万事について善き事を思い付くるは御恩なり、悪しき事だに思ひ捨てたるは御恩なり、捨つるも取る何れも何れも御恩なり。

●現代意訳
世間の事でも仏法上の事においても、もし仏様の心に適うことが我が心に生じたとしたら、それは仏様からのお恵みであって、決して我が心が善くて生じたものではない。また、もし浅ましい心がフト消えることがあった時も、やはり仏様のお恵みである。何れにしても、我が心が善くて起ることではなく、すべてはお恵みである。

●井上善右衛門先生の讃解
人間には二つの心が併存して葛藤しています。これをゲーテが『ファウスト』の中で巧みに次のように語っています。

おれの胸には、ああ二つの魂が住んでいて、それが互いに離れたがっている。一方のやつは逞しい愛欲に燃え、絡み付く官能をもって現世に執着する。他のものは無理にも塵の世を離れて、崇高な先人の霊界へ昇ってゆく。
これは確かに人間の心の現実を凝視した言葉であります。官能の現世に執着する心から自己中心の悪心も生じましょうし、塵の世を離れようとする心から善心も生じるでありましょう。人間は不思議な存在です。

しかしこの様な併存して相反する心に立って、一方の善を行じようとすると、どうしても他の一方を無理にも押えつけ斥けて強行しなければなりません。カントと言う学者はこのような状態を良心(実践理性)のゾッレンと言いました。ゾッレンというのは、捨てておけば反対に向うであろう傾向性を押えて「・・・・・すべし」と心に命令し、為すべきを為すという意味です。これには極めて厳粛な努力の連続が必要です。ところが、その同じカントがまた次のような告白をしていることは既に述べたところですが、再記してみますと、

人間の心胸の底は知りがたいもので、理性の命令に従おうと自ら感じて為した場合でも、その底に悪徳に仕えるような自愛の衝動がわれ知らず一緒に動いていなかったか否か、誰もこれを十分に知ることは出来ないのである。
こういう意味のことを語っているのです。これはカントという人の真面目な自己凝視の避けられない告白であったと思います。親鸞聖人が「雑毒(ぞうどく)の善」と自らの行為を反省された趣きと自ら軌を一にすることが思い合わされるのであります。

さらに仏陀の教えに耳傾けますと、われわれ人間の意識の層下には、幻の己れに執着する迷妄が根深く宿り潜んでいることを知らしめられます。われわれは容易にこの事実に気付くことなく生きているのですが、返りみると俺が俺がという思いを底に持たぬ人がありましょうか。平素は嘘を厭い真を願うているようですが、自分の事になると逆転します。お世辞の嘘と知っても褒められるとうれしく、本当だと判っていても自分の失を指摘されると不快になる。そこに真偽(しんぎ)とは別な我執の自愛が潜んでいる事を知るのです。
自分に我執があれば相手にも当然ありましょう。執われた我と我が鉢合わせして闘争を出現することは悲しい人間の姿といわねばなりません。

その執我の己れをどこどこまでも捨てたまわぬ大悲の真実に遇うて、ああ申し訳無い事であると感じると共に仏心を仰ぎ参らすとき、今までと違った大きな御催しにあずかって、危うく溝に落ちるところからフト立ち直らせていただきます。そしてまた皆が幸せであるようにという自然の思いが湧くのも不思議であります。そこには最早「我がよき者にはやなりて・・・・」と言うような思いが侵入する余地がありません。ただ如来の徳を仰ぐばかりですから「御恩なり」という言葉が自然に流れ出ているのであります。

御恩とは如来の御恵みということです。穢悪汚染の身に差し向けて下さった如来の御催しを実感する言葉です。「捨つるも取るも」というのは悪しきを思い捨て、善きを思い付くる意であることは、明らかです。ここには思い付き思い捨てるに何の力みもありません。自然法爾の出来事です。

●あとがき
親鸞聖人は、ご自分を『罪悪深重の凡夫』『煩悩具足の凡夫』(煩悩すべて、一つも欠けること無く兼ね備えている凡夫)と慙愧されています。また『地獄一定の凡夫』(地獄行きが間違い無い凡夫)であるとまで言われています。言われていますが、安心(あんじん)を獲られ、救われておられる事は間違いありません。

この私自身は『罪悪深重の凡夫かも知れないが、まだどこか見所がある』と思っているのだと思います。そして、この世が穢土(えど、浄土の反対)とは思えていない、この人生は確かに苦しい事は多いけれど、楽しいこともある、これからもっと楽しいことにも出遭えるかも知れないとまで思っていると言うのが正直なところです。

この人生は苦しいことが殆どであるのに、この世に未練たらたらで、死にたくないというのが本音の私が浄土を恋しがるはずは無いなと自己分析をしているのですが、しかし、何時かは、親鸞聖人と同じように、『罪悪深重の凡夫、煩悩具足の凡夫、地獄一定の凡夫』であると自覚出来るのかも知れないと、他力の御催しに希望を抱きながら、これからも仏法を学んで参りたいと思っております。


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No.479  2005.03.31

続―時代の変わり目

ニッポン放送の買収劇は、私達には想定外の展開になって来ています。ソフトバンク系の投資会社が登場したり、ライブドアがニッポン放送の子会社化を見送ったりと、門外漢には全く行く先が不明になりました。しかし、この一連の騒動をテレビで見ている限り、次から次へと出て来る登場人物に、"さわやかさ"を感じたことが一度も無く、常に後味の悪さだけが残るのはどうしてでしょうか。

これは多分、結局のところ、マネーゲームだからではないかと分析しています。人間の心を置き去りにした世の中の殺伐さに恐怖する心が私の中にあるからではないかと自己分析しているところであります。

人生や社会を生き抜く上で、お金は必要であります。公私共に経済的に困窮している私は、この数年、お金の大切さを嫌と言うほど知らしめられています。この2年半、働く妻に代わって私は主夫業をして参りましたが、1円でも安い品物を求めて、4つのスーパーを使い分けています。妻が主婦業している時は(即ち私の会社が健在な時)、コープとか、百貨店の食品売り場に決まっておりましたが、今コープで買い求めるのは、コープでしか扱っていない食材だけです。現在コープの卵の価格は、スーパーでは150円という特別価格の日がありますが、コープは常に200円以上。この2年間は、コープで卵を買った記憶はありません。

また、会社の借金、自宅の住宅ローンの返済条件を金融機関と交渉する中で感じてきた、私のようなマネーゲームの敗者に対する金融機関の厳しい対応が身に沁みている私には、お金はどうでも良いと言う考えは一切持てません。むしろ、毎日、私の頭の中は家計と会社の資金繰りが90%占領していると言っても過言ではありません。

しかし、私が、今もこうして生きておられるのは、お金は極めて大切であるけれど、人生はお金だけではない、むしろ人との心の付き合いの方が大切だと心に決めているからだと思います。

戦後60年経過し、私達日本はアメリカ的な考え方に洗脳し尽くされたのではないか、そしてそれによって、日本は確実に時代の変わり目を迎えていると、前回のコラムで申し述べました。これからますますアメリカは日本に同盟国としての役割を果たすよう要求して来るでしょうし、ますますアメリカ化して、殺伐とした日本社会になってゆくでしょう。

しかし、私は、いずれはゆり戻しが来て、良い時代への"時代の変わり目"が来なければおかしいと考えております。もともと日本は農耕民族で、狩猟民族のアメリカと同化出来るはずがありません。たった60年間で日本人のDNAに埋め込まれている農耕民族の資質が変えられるはずもなく、必ず逆の力が働いて、次の時代の変わり目が来る事は、きっとそう遠くないのではないかと考察しているからであります。

私が56歳から挑戦している危機は、今春がそのピーク(どん底と言うべきか)を迎えています。この4、5月の危機を乗り越えれば、何とか立ち直れるのではないかと考えておりますが、こればかりは予想が立ちません。しかし、どうなろうとも、お金よりも人との関係を大切に生きていくことは、間違いありません。


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No.478  2005.03.28

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第291条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―信を獲たらば心やわらぐなり

●まえがき
この蓮如上人御一代記聞書讃解も、今回を含めまして、残り3週になりました(4月11日が最終回になりそうです)。一昨年のお釈迦様の成道会(じょうどうえ、悟りを開かれた記念日)である12月8日に始めましたが、予定通り完了することは、本当に喜ばしいかぎりであります。

この度の勉強によりまして、親鸞聖人の教えを一般民衆に浸透させ、今日の浄土真宗教団に仕立て上げられ、そしてこうして私達が親しく親鸞聖人の教えに接することが出来るのも、蓮如上人のお陰であることがよく分かりました。

さて、今日の聞書は、本当の信心を獲たならば、心が和らぎ、それにつれて他の人に対する言動も穏やかになり、諍(いさか)い等もなくなるはずだと言う内容であります。私には少々耳が痛い内容であります。と言いますのは、そう言う判定基準から致しますと、やはり、私は未だ信心は獲られていない事がはっきりするからであります。

自分の心を見詰め振返りますと、煩悩が絶える瞬間がなく、私にはなかなか"心が和らぐ"時は参りそうにはありません。親鸞聖人も煩悩は消えないと言われておりますから、親鸞聖人も心が和らぐことは無かったのでしょうか?

私達はどう心の解決をつければよいのでしょうか。

●聞書本文
信を獲たらば同行に荒く物も申すまじきなり、心やわらぐべきなり、触光柔軟(しょっこうにゅうなん)の願あり、また信なければ我になりて詞も荒く、諍も必ず出来(いでく)るものなり、浅まし浅まし、よくよく心得べし。

●現代意訳
仏法の信心を獲たならば荒い言葉を発することはなくなるものである。心が和らぐのは、大無量寿経の第33目の『触光柔軟(しょっこうにゅうなん)の願』として示されている通りである。もし信心を獲られていないならば心の奥底にある我執によって言葉も荒くなり、周りとの諍(いさか)いが生じて来るのは必然の出来事であるが、これは人間に生まれて仏法に遇いながらまことに残念なことである。常に我が心を振り返りたいものである。

●井上善右衛門先生の讃解
人間の本能的な自然感情の奥には「我」という意識が宿っています。そしてその自我の意識を当然の事として肯定しているのが人間でありますが、さてその「我」とはそも何であるかという事は、尋ねられてもおらず確かめられてもいないのです。ただ漠然と、俺が俺がと思うているのですが、その「我」と意識されているものが、実は極めて閉鎖的な自我の幻であって、真実の自己ではないことを仏陀の教えは私どもに告げ知らせて下さっています。

その幻の我に執われている深層意識の我執が人間の本能には先天的に宿っています。人間意識の根源的な迷いがこの我執にあることは既に繰り返し述べたところです。そしてその幻の我に好ましきものに貪りを生じ、反するものに瞋恚を生じるのです。

われわれが荒荒しい言葉を発するとき省みるがよろしい、そこには必ず自我に好ましからぬ事態が生じているものです。この自己中心的な自我は心の深層に宿って様々にわれわれを操っています。仔細に自己を振返ってみると、その自分自分と思っているものが勝手な幻である事が知らされます。そうした空しい我執に駆り立てられて一生を過ごす事は情け無い事といわねばなりません。

仏教は真実の教えです。迷いを破るものは真実です。念仏の信とは仏の大いなる真実を頂戴することです。仏心が大慈悲となって、この迷妄の我執に浸透して下さるのです。

この人生に争いを好み、いさかいを欲する人がありましょうか。やわらぎを求め、平和を願うのは万人の切実に希求するところです。しかもこの世に常にその願いを裏切る風波が絶えません。家庭においても、社会においても、世界においても、根本の原因に変わり無いと思います。

意識の底深く潜む我執を処理することなしに、真に明るいやわらぎは訪れません。外面の組織制度を改変してみても、別のところから我執の禍いが吹き出ます。歴史が繰り返すといわれるのも、ここに根本の原因があるといってよいでしょう。その根本原因を照破するのは、ただ信光によるより外はありません。そのこころをいま「また信なければ我になりて詞も荒く諍いも必ず出来るものなり」と言われております。さすればこの信の道は、人類の歴史の命運を荷負うものであります。決して個人の問題のみにかかわるものでありません。「往生は一人一人のしのぎなり」といわれたその自己の根本問題が、同時に人類の一人としての使命を果たす所以となるのであります。

人間に生まれながらこの大事に思い至らず、自損損他の苦悩の中に自から転々するということは、かえすがえすも遺憾の極まりであります。しかもそれとは気付かず、さ迷い続けている事を誡めて「浅まし浅まし、よくよく心得べし」と悲懐を述べておられるのです。

●あとがき
『唯識の世界』のコーナーで、次回は煩悩の種類に付いて勉強致しますが、全ての煩悩は、我執から生じているものであります。この我執が無くならない限りは、煩悩は消えませんでしょうし、恐らくは、本当に"心が和らぐ"こともないでしょう。

この聞書の内容も、そう言う人間の根本的な心の有様を知らしめられた蓮如上人が、ご自分も含めて、いよいよ聞法に励み、誡め誡めて生きていかねばならないと、自誡せられたお言葉でないかと思われます。

恐らく"心が和らいだ"と思える瞬間は私達には来ないでしょう。だからこそ、ずっと仏法との縁が切れないものと思います。もし、心が和らぎ、煩悩も吹き消されたと思う事があれば、それはむしろ親鸞聖人が歩まれた道ではない道に踏み迷ったのではないでしょうか。

勿論、私達は"心が和らいだ"と他の人に感じて頂ける人格を目指さねばなりません。その目標を持たずして仏法の道を歩んでいるとは申せないことも確かでありましょう。どうせ煩悩は消えるものではないから、心の思うまま生きればよいのだと言う道もまた、親鸞聖人の歩まれた道とは全く異なる道であることは言うまでもないことであります。


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No.477  2005.03.24

時代の変わり目

現在のNHKの大河ドラマは『義経』である。ここ数年、私は大河ドラマを見て来なかったが、今回は、親鸞が生き抜いた時代を実感するために、久し振りに熱心に見ているところである。義経が生きたのは1159年〜1189年、親鸞は1173年〜1262年であるから、二人は16年間共に同じ時代の空気を、しかも数年は京都と言う同じ地域で吸っていた訳である。親鸞が生まれた頃、義経は鞍馬山を後にして奥州平泉に向った。そして親鸞が9歳で比叡山のお寺に登った1182年、それは平清盛が熱病で亡くなった翌年であった、そしてそれは25歳の義経が奥州平泉で、京都の源義仲(木曾義仲)討伐命令が兄頼朝から下されるのを待っていた頃である。

義経も親鸞も、公家社会から武家社会へと時代が転換する"時代の変わり目"を生き抜いたと言ってよいだろう。当時の社会的地位を決めていた家柄は殆ど役に立たなくなり、圧倒的な武力を持つ者が天下を支配する時代になりつつあった"時代の変わり目"であった。
実はこの政治における"時代の変わり目"の鎌倉時代に、実は仏教も大きく変革したのである。変革の主役は、親鸞であり、道元であり、そして日蓮である。貴族の為、国家の為の仏教が庶民のための宗教に衣替えしていったのは、政治の世界の変革と無関係ではなかったであろう。

変革はいつの時代にも、またどの分野でも抵抗と迫害を受けるものである。浄土真宗や日蓮宗は新興宗教として旧勢力から蔑(さげす)まれ、時には旧仏教勢力の突き上げによって時の権力者から弾圧を受けた。しかし、新興勢力の勢いを止めることは出来なかった。それは、時代が確実に変わっていたからであろう。以降、仏教は庶民の為の宗教として750年後の今日に至っているが、今では当時の輝き、新鮮さは失われ、殆どの庶民にとっては、仏教は精神の支えとしての宗教と言う地位から、葬儀・法事を司(つかさど)るだけの存在に成り下がってしまったと言っても過言ではないだろう。

"時代の変わり目"と言えば、戦後60年間続いてきた日本の資本主義社会も、ライブドアの堀江社長の出現が象徴的だと思うが、"時代の変わり目"を迎えていると見るべきではないかと思う。ニッポン放送の経営権争奪戦では、現時点では一応堀江社長の勝利に終わった。資本主義社会のルール上では、堀江社長が正しいと言う司法判断が下された訳である。私は堀江社長の人生観を直接聞いていないので、彼の発言からの飽くまでも想像であるが、彼は多分、人の心を大切にしなければならないと言う意識を持ち合わせていないのだろうと思う。少なくともビジネスの上では、人の心と心の繋がりなんて無意味だと考えているのではないだろうか。それは、日本が歩んできた日本式資本主義からアメリカ式資本主義への変革がここ10年位の間に急速に具体化したと考えれば納得がゆく。

そして、それは4年前の小泉首相誕生もその象徴であったように思う。小泉氏は、親分子分と言う精神的結び付き(心の底に打算はあったにしても)存在であった派閥政治を否定して(自民党をぶっ潰すと・・・)、国民の人気を背景に首相ポストを獲得した初めての首相である。小泉氏が登場したのは、日本国民が、心と心との結び付きを重視するウェットな集団意識から、損得、有利不利によって結び付くドライな集団意識へと変わっていたからだと、今にして思う次第である。

考えて見れば、近所付き合いも、昔に比べればかなり淡白になっている。私が新興住宅地に住んでいるから余計にその傾向は強いとは思うが、お隣り同士ではたまに接触があるが、2件以上離れた家庭とは全く接触が無いと言う状況である。古い街はともかくも、日本の都市部では殆どが私の街と五十歩百歩の近所付き合い状況ではないかと思う。日本全体が、心と心の結び付きと言うウェットなものを疎んじるようになったと言っても良いのではないかと思う。永く大和魂の象徴として日本国民が語り継いできた、主君の仇討ちに団結した赤穂浪士の忠臣蔵物語なぞは、若者からは「仇討ち後に集団自殺することなんて信じられない!」と一笑に伏されるに違いない。

しかし、どうやら日本企業には未だそのウェットさが残っている事が、ライブドアの堀江社長を拒絶するフジサンケイグループの経営者の発言から窺える。恐らくは、フジサンケイグループだけではないだろう。殆どの大企業の経営者達も五十歩百歩だと思う。しかし、堀江社長を生み出したのは、その大企業経営者を含めた我々の世代なのだと気付かねばならない。敗戦によって強制的にアメリカ式を理想とさせられたことを言い訳にしてもよいが、何時の間にか、本当にアメリカ式を理想と思うようになってしまったのではないか。企業は給与体系に成果主義を導入し、グループを評価するよりも個人・個人を分断して評価するようになった。アメリカ式の年俸制に移行する企業も増えている。小中学校教育の世界も、詰めこみ教育からアメリカ式ゆとり教育になった(今問い直されようとしているが)。

今はもう、ウェットからドライな時代に変わってしまったのである。いや我々が長い時間をかけて変えてしまったのである。自分達が生み出した堀江青年の考え方や手法を否定するのは、この世の真理、『原因があって、そして色々な条件によって或る結果が生まれると言う道理』にも反するではないかと思うのである。

資本主義社会は、元来、経済力がある者が主導する社会であろう。そして株主の為の株式会社であろう。資本を提供する者が経営専門家の経営者に利益を稼がせ、その分け前を受け取るシステムである。利益を出せない経営者は、株主から交代を命ぜられると言うのが本来のアメリカ式株式会社であり、資本主義社会であると言ってよいだろう。勿論、利益を出すには従業員をやる気にさせ、良い製品やサービスを提供して顧客にも喜んで貰う必要があるが、それは飽くまでも株主に還元する利益を上げる為であると言うのが堀江氏の言い分ではないか、そしてそれが資本主義社会の株式会社のあるべき姿だと言ってよいのだと思う。日本はバブル崩壊によって世界ではじめてのデフレ社会となり、利益が上げ辛くなって漸く経営者中心の株式会社から本来の株式会社化が始まったと見るべきであろう。

良いか悪いかは別にして、現時点ではお金(資本)を持つ者が主役と言う時代に変わったのである。少なくとも我々日本は、既にそう言う時代の変わり目にあると考えるべきではないだろうか。そういう意味では、危機に遭遇した日産がカルロス・ゴーン氏を、今回ソニーがハワード・ストリンガー氏と言う外国人をトップに指名したのは、既に時代の変わり目を認識し、容認した人事と言えるのではないだろうか。フジサンケイグループは時代の変わり目を認識して、大人の対応をしないと、たとえライブドアが断念することになったとしても、別の強力な外資に乗っ取られるのではないか・・・・・。

私はこう言う"時代の変わり目"を決して好ましい"時代の変わり目"とは思っていない。お金が社会を支配し、しかもお金が人生の最も重要な価値だと言う弱肉強食の競争社会に国民諸共突き進むことは、人類に破滅を齎(もたら)しそうな気がしてならない。最早、急ブレーキをかけても間に合わないが、せめて50年後位には、お金で競争し合う社会から、それぞれの立場を尊重し合う、古くは聖徳太子が理想とされた『和を尊しとする社会』への"時代の変わり目"を迎えられるように、今から私達自身が"心の変革"に乗り出さねばならないのではないかと思うのである。

"心の変革"とは、"価値観の転換"と言うことであるが、この転換は、仏教の、「個性を尊重しつつ一如平等である、全ての存在は一体である」と云う考え方に学ぶしかないと思っている。欧米の思想の根幹にある、正義と悪を識別・峻別(しゅんべつ)する二元対立思想で世界が統治される限りは、人類に平和は齎(もたら)せられないだろうと思う。これは、鈴木大拙師、山田無文老師、白井成允師、井上善右衛門先生が挙(こぞ)って提唱され続けておられた事である。私はこれら師の遺志を受け継いで、何らかの具体的な役割を果そうと思っている次第である。


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No.476  2005.03.21

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第256条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―今が一大事なり

●まえがき
蓮如上人は、『後生(ごしょう)の一大事』とおっしゃっています。この世に人間としての生を受け得たことも、そして仏法に遇った事も、極めて有り難い(起り得ない)出来事であると言う事を『一大事』であると言われています。『後生』と言うのは、現世に続く次の世と言うことでありますが、私達の肉体はこの世で果てますが、私を生かしめる命は過去から現在、そして未来へとわたって永遠であります。この永遠の命の中で、今こうして人間と言う生命を得て、しかも遇い難い仏法に遇ったことは、本当は一大事なのだと言うのが、蓮如上人が目覚められたことであります。

私達は、お金を盗られたり、災難に出遭うことを一大事と思ってしまいますが、本当は、人間に生まれた事が一大事であり、そして、人間として生まれて来た意味を知らないまま、生まれ甲斐の無い人生に終わってしまう事こそが一大事であると説かれておられるのです。

●聞書本文
夢に云く、大永六、正月五日夜夢に前々住上人仰せられ候。「一大事にて候、今の時分がよき時にて候、ここをとりはずしては一大事」と仰せられ候。「畏(かしこま)りたり」と御受け御申し候へば「ただその畏りたると云ふにてはなく候まじく候、ただ一大事にて候ふ」由仰せられ候ひしと云々。次夜の夢に云く、蓮誓仰せ候。「吉崎前々住上人に、当流の肝要のことを習ひ申し候。「一流の依用なき聖教やなんどを広く見て御流を曲様(ひがさま)にとりなし候ふこと候、幸に肝要を抜き候ふ聖教候、是れが一流の秘極なり」と、吉崎にて前々住上人に習ひ申し候ふ」と、蓮誓仰せられ候ひしと云々。私に云ふ、夢等を記すること、前々住上人世を去りたまへば、今は其一言をも大切に存じ候へば、かように夢に入りて仰せ候ふことの金言なることまことの仰とも存ずるままこれをしるすものなり、誠にこれは夢想とも申すべきことどもにて候。総体夢は妄想なり、さりながら権者の上には端夢とてある事なり、猶以てかやうの金言の言葉は記すべしと云々。

●現代意訳
これも兼縁様の夢に出て来たことであるが、大永6年の正月の5日の夢の中で蓮如上人が仰せになられた。「この世に生を受けたことは大変なことである。そして、この親鸞聖人のお教えに遇った、今のこの時こそ二度と無い絶好の時である。この時を取り逃がしては真に勿体無く、それこそ一大事である」と。「慎んで承りました」とお答えしたところ、「そのように、ただ聞いたと言うところに止まってはそれこそ一大事であるぞ」とおっしゃったと言うことである。
また、次の夜の夢で云われたこととして、兄の蓮誓坊が次のように言われました。「 わたしは吉崎で蓮如上人より浄土真宗のかなめを習い受けた。浄土真宗で用いない書物などをひろく読んで、 親鸞聖人のみ教えを間違って受けとめることがあるが、幸いに、ここにみ教えのか要(かなめ)を抜き出したお聖教がある。これが浄土真宗の大切な書であると、吉崎で蓮如上人から習い受けたのである 」 と仰せになったのである。
私がこうして夢の数々を書き記したのは、蓮如上人がこの世を去られたからには、その遺された一言一言が大切であるけれども、こうして夢の中で仰せになる事も、ご存命中におっしゃったことと同様に尊いことであり、また真実のお言葉だと思うので、こうして書き記したのである。 ここに記したことは本当に夢のお告げともいうべきものであるが、夢というものは大体において妄想であると言われるのであるが、仏や菩薩の化身であるお方は、夢に姿をあらわして教え導くということがある。だからなおさらのこと、このような夢の中での尊いお言葉を聞き記しておくのである

●井上善右衛門先生の讃解
第252条より第256条まで5条にわたって兼縁公の夢想が記されています。兼縁は蓮如上人のお子様ですが、多くのお子達の末近く誕生されました。その夢の記は蓮如上人御往生後5年目から始まり順次28年目に及んでいます。本条がその28年目の夢記でありまして、如何に父上蓮如上人を追慕尊崇されつづけられていたかが偲ばれます。

この夢想には上人のお言葉として"一大事"と言う事が三度び繰り返されています。われわれは目先の生活に心奪われて人間として生まれた最大の大事を忘れていることが実に多いのです。しかもその心奪われている目先の事柄は畢竟空しいものでしかありません。御文章に「ただいたずらに明し、いたずらに暮らして年月を送るばかりなり、是れまことに悲しむべし」と申され「然るにその中には然りとも或いは花鳥風月の遊びにも交わりつらん、また歓楽苦痛の悲喜にも遇いはんべりつらんなれども,今にそれとも思い出すこととては一つもなし、ただ徒に明し徒に暮らして老いの白髪となり果てぬる身の有様こそ悲しけれ・・・」と仰せられているお言葉は年を取るとともにひしひしとこの身に沁む人生の姿であります。

大事とは何としても捨て置かれぬ大切な事の意であります。この空しい人生の空虚の底を破って、この身を摂め取って下さる真実の光がましますにもかかわらず、よしなきあだ事に心奪われて酔生夢死する身をみるにみかねて呼びかけて下さる言葉こそ「一大事にて候」という一句であります。法然上人の『和語灯録』にも「此のことに過ぎたる一大事何事か候ふべき」との仰せがあります。大事の上に一の字が附されている事は、最大一との意であります。「此事に過ぎたる事なし」との意を強く示されるためであります。

浄土に往生するということは、人生の根本問題を解決して、人間と生まれた意味をこの度び全うすることです。それを後生の一大事とも言われてきました。しかしそれは決して現在の人生と関係のない後生ではありません。否むしろ後生とは、人生の背後にある真実永遠の生命を指す言葉と拝することが出来ます。現世の人生はしばらくです。真実の生命は現生に尽きるものではありませんから、現生が終わっても永遠の真実は絶えることがありません。その故にまさしくまた後生であります。

●あとがき
『一大事』とは、『何が一番大事か』と言い換えてもよいでしょう。
お金を稼ぐ事が一番大切か?出世する事が一番大切か?仏教は、そんなことが一番大事な事ではないと説きます。お金を稼ぐ事や出世を否定している訳ではありません。それも人生を生きて行く上では決して疎かにしてはなりませんが、それよりも仏法を聞いて、人間としての命を全うすることだと説きます。人間としての命を全うするとはどういうことなのか、難しい表現ではありますが、浄土に生まれる身となることだと親鸞聖人も、蓮如上人もおっしゃるでありましょう。
浄土、極楽と言うと一般の方々は抵抗を覚えられると思いますが、この世を生きる者に、浄土が無ければ、救われないのではないでしょうか・・・・・。そう確信するのが浄土の真宗だと思います。


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No.475  2005.03.17

砂上楼閣(さじょうろうかく)

砂の上に建った建物はまことに不安定です、何時崩れ落ちるか分かりません。私達の人生は、その砂の上の楼閣そのものと言ってよいでしょう。命自体が保証されていないのですから、砂上楼閣の人生であることは間違い無いのでありますが、悲しいかな、私達は砂上の楼閣であると自覚出来ていないだけに、突然の不幸に見舞われて、人生を棒に振ってしまいかねません。

最近では、西武グループの総帥として、世界一の富豪とランク付けされたこともある堤義明氏は今、寒々とした留置所で、その砂上楼閣の70年の一生を振り返っているのではないでしょうか。また、強制ワイセツ行為を働き、一夜にして国会議員の職を辞さざるを得なかった中西衆議院議員、そしてやはりワイセツ行為でマスコミの表舞台から消え去った経済評論家としても有名であった早稲田大学の植草教授は、私達に砂上楼閣の人生を審(つまび)らかに見せてくれました。

また、10年位前になるでしょうか、兄弟横綱を抱えて栄華を極めていた二子山部屋の花田一家の正月の宴席をテレビで紹介していましたが、こんな幸せで晴れがましい家族があるのかと羨ましく眺めていた方々も多かったと思います。しかし今は、家族関係も壊れ惨憺たる状況である事は周知の通りであります。栄枯盛衰は昔から世の慣わしではありますが、悲しくも正しい現実であります。

他人事ではありません。私も5年前に、取引先からの一本の電話によって、瞬時に経営危機に直面させられました。そして、今も立ち直れるかどうかの瀬戸際に立っています。一本の電話の内容とは、私の経営する会社の売上の70%を占める事業が、人件費の安い中国企業に移されると言う通告でありました。当時の状況からは考えれば、充分に有り得る事態でありましたが、「今日(きょう)の状態がいつまでも続くだろう」と誤認をしていた当時の私には"寝耳に水"でありました。

しかし恐らく、どんなに栄華を誇っていようとも、誰の身にも、どの企業の上にも、どの国家の上にも必ず転落の時が訪れることでしょう。それは、多分、無知(因縁果の道理、宇宙の真理を知らない事)と貪欲(とんよく、欲望をむさぼる心)と言う煩悩の砂の上に栄華・栄光を築いてしまうからだと思います。この砂上楼閣の人生から、磐石の人生に変えるには、小欲知足を説くお釈迦様の教えに耳を傾けて、一如平等の世界に目覚めることでしか、実現し得ないと思います。

今話題のライブドアとフジサンケイグループの戦いも、欲と欲のぶつかり合いであって、仏様の世界から見れば、砂上楼閣をどちらが先に建てるかという、もの悲しくも哀れな寸劇にしか見えないのではないでしょうか・・・・・。テレビが見せてくれる人生劇場は真に面白くはありますが、自分自身がその主役にならないよう、人生の真の勝利者を目指して、お釈迦様や親鸞聖人が歩まれた道を辿らねばならないと思います。


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No.474  2005.03.14

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第251条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―とほとがる人ぞとほとし

●まえがき
仏法や阿弥陀仏や仏様を殊更有難いと人前で表現する人があります。また、お念仏を殊更に人前で有難さを強調する人もございます。人それぞれの気質により、表現のあり方は異なっては来ましょうが、今日の聞書は、「殊勝ぶる人は尊くもなし」と、大仰に有難さを広言するのは如何なものかと嗜(たしな)まれているのだと思います。

しんみりと、仏法に出遇えた悦びを語り合うような、有り難がたがり方をする人が本当の信心を得た人だと言うことではないかと思います。私は、普通の生活では仏法臭さを出さないようにしています。一般の方々との話で、宗教の話をすることも有りませんし、ましてや仏法を話題にすることはむしろ避けています。その善し悪しに付きましては議論があるところかも知れませんが、私自身、宗教臭さが感じられる人には何か抵抗を感じるからであります。

宗教は、その人の人生を支える根底のものであり、殊更に人に知らすべきものでもないと、私は考えております。信仰は自由であるだけに、信仰をひけらかすことは避けるべきことではないか・・・・私はそのように考えておりますから、今日の聞書には共感を覚えます。

●聞書本文
法敬申され候、「たふとむ人よりたふとがる人ぞたふとかりける」と。前々住上人仰せられ候。「面白き事をいふよ、たふとむ体、殊勝ぶりする人はたふとくもなし、ただ有難やとたふとがる人こそたふとけれ、面白きことをいふよ、もとものことを申され候ふ」との仰事に候ふと。

●現代意訳
法敬坊がこう申されたことがありました。「尊む人より、尊がる人こそが尊いのだ」と。この法敬坊の言葉を聞いて蓮如上人は、「法敬坊は、面白い表現をしたものだ。尊む人や、殊勝ぶる人は尊い人ではない。ただ素直に尊とがる人こそが尊いと言うのは、その通りだと思う。法敬坊は、うまく表現したものだが、また尤もなことを言ったと思う」とおっしゃったと言うことです。

●井上善右衛門先生の讃解
ここに「尊がる人」とは本願に帰して自然のよろこびに身を任す人であります。即ちその人は、他力真実に生きる人でありますから、自分から為すという意識はないでありましょう。努めて「尊む」のではなく「尊がる」という表現が如何にもふさわしく感じられます。

本願に帰するということは、己れを忘れることであります。「至心信楽己れを忘れて速やかに無行不成の願海に帰す」(報恩講式)とありますが、本願の広大さ、その尊さに思わず己れを忘れるのです。『歎異抄』に「ただほれぼれと弥陀のご恩の深重なること常におもい出しまいらすべし」とあるのも、同様の心でありましょう。そうして行住坐臥(ぎょうじゅうざが、寝ても覚めても、いつも)、本願の中に生かされる人となる。そういえば、いや、そうはなりたい、あれがあるか、これがこうかと心が駆け巡ると云われる人もありましょう。如何にもその通りですが、その散乱の心の下から本願の悲心が偲ばれ、瞋恚は瞋恚、愚痴は愚痴のそのままに本願に帰して己れを忘れることもまた事実です。

「そのまま」ということは、決して現状肯定ではありません。己れを忘れることです。己れに滞っていた心から解放されることです。本願に生き本願に催されると、意識的な「尊む」心が消えて、ただ有難いと「尊がる」身に転ぜしめられます。それは本願真実にまるめられる心でありますから、そこに自ずと、真実者たる如来の光が豊かに宿りきたるのです。

●あとがき
本願と言う言葉は、一般には、他力本願と言う言葉として広く知られておりますが、「他の力に本当にお願いする」と言う程度にしか理解されていません。

本願とは、私に対して「人間としての命を全うしてくれよ」と言う、私をこの世に生まれしめた天地・宇宙に働いている力(如来と言い、仏とも言う)の根本的な願いのことであります。この本願を感じ取り、その本願を信じ、本願に添って生きるのが、他力本願に身を委ねる人の生き方であります。

それを一般民衆に説かれたのが親鸞聖人であり、それを組織的に民衆に広められたのが蓮如上人であります。


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No.473  2005.03.10

還暦を迎えて

今週の火曜日の3月8日に、遂に60歳代に突入、つまり還暦を迎えました。迎えることが出来ましたというべきかも知れません。私の妻の友人が昨年の3月5日に癌によって享年54歳で亡くなりましたが、その方が生前に、「誰もが、おばあちゃんになれるわけではないのね」と言われたのが印象的でありましたが、誰もが還暦を迎えられる訳ではないことを思いますと、やはり色々な人々、色々な出遭いに感謝しなければならないと思うことであります。

昔と違いまして、還暦を迎えた当人も、未だ老人の意識がございませんで、まだまだこれからと言う気持が勝っているように思います。最近では殆どの方が還暦から未だ20数年の人生が待っていますから、世間一般でも、あまり大袈裟な祝い儀式は行なわれていないのではないでしょうか。

そんな中、私は幸せにも、テニス仲間の7人の方々が、私達夫婦を還暦パーティーに招いて下さいまして、お祝いをして頂きました。私にはテニスウェァー、妻にまでTシャツをプレゼントして頂きました。そして手作りの特大デコレーションケーキには、苺を並べて書かれた"60"と言う文字を6本のローソクが取り囲むと言う演出に、本当に感激致しました。

離れて暮らす子供達家族からも、それぞれに心のこもった祝いをしてくれましたし、思いもかけない方からもお祝いメールを頂きましたので、一生忘れられない還暦となりました。


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No.472  2005.03.07

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第247条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―物は思いたるより大いに違う

●まえがき
想像、推測、予測、私達人間が生きている限り、常に頭をフル回転させているのが、この思考力であると言っても良いのではないでしょうか。人間だけではなく、他の動物達も、本能的に身を護る為に、推測・予測して行動しているように見えますから、これは人間のみならず、地球で生きる全ての動物に与えられた能力と言いますか、本能なのでしょう。

しかし、人間は色々な知識・智慧を持っておりますが、人生で経験する様々な出来事は、残念ながら、推測・予測の範囲を大きく裏切ることが殆どであります。また、経験していない事柄について想像致しますけれども、事実は全く異なっていたと言うことも、良くあることではないでしょうか。

例えば、日本のバブル崩壊を予測した人は極めて少なかったと思います。むしろバブルに踊らされて酷い目にあった人も沢山いますでしょう。私もその内の一人であります。1980年代の後半には、21世紀は日本の時代だと予測されていました。ソ連の経済が伸びると共に日経平均株価も10万円に達すると言う経済雑誌が氾濫しておりましたが、見事に外れて、一時は、1万円を大きく割り込みました。

雪印グループ、三菱自動車、西武グループは、売上高、企業規模のみならず、企業理念も一流企業であると推測・想像していましたが、実体は単に金儲けの為には人の命の大切さをさえ配慮しない企業でありました。

このところ話題のライブドアの堀江社長も、今回の企業買収が法廷闘争にまで発展するとは予測していなかったでしょうし、ニッポン放送の社員達が全員一致で、ライブドアの経営参加を拒否する声明を出すとまでは予測していなかったはずであります。

身近な話と致しましては、思い描いていた就職が、期待を大きく裏切るもので離職する若者が多いことや、薔薇色の夢を抱いて結婚したにも関わらず、相手も家庭生活と言うものも、推測・予測の範囲を大きく外れて離婚に至るケースも増えておりますが、上述のことも含めまして、私達の推測・予測・想像はなかなか当たらないと言うことではないかと思います。

私達人間が想像・推測・予測することが如何に当たらないかは、昔も同じだったのでしょう、本日の聞書の表題である『物は思いたるより大いに違う』が物語っています。今日の聞書は、人生の問題に関してではなく、宗教上の信についてのことでありますが、人生の問題も、仏教の信仰上の思い違いも共に、出所(でどころ)は一緒であって、凡夫の浅知恵、無明煩悩が元凶であると言うことだと思います。

●聞書本文
南殿山水の御縁の牀(ゆか)の上にて、蓮如上人仰せられ候。「物は思ひたるより大いに違ふといふは、極楽にまいりての事なるべし。ここにてありがたやたふとやと思ふは物の数にてもなきなり。彼の土へ生じての歓喜は言の葉もあるべからず」と仰せられしと。

●現代意訳
山科の南殿の建屋の縁側で、山水をご覧になられながら、蓮如上人がおっしゃいました。「物事というものは思っていたものとは大いに異なると言われるが、それは極楽に参ったときのことがそうなのだ。この娑婆で、極楽を有難いと尊いと思うのであるが、われわれが思う程度のことはしれたことだ。実際に極楽に生まれたときの喜びは、言葉で言い表すことは出来ないものなのだ」とおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解
この条を拝読すると仏教の奥深さが改めて偲ばれます。仏教は宇宙的真理にもとづくものであり、その究極の真理を真如といわれていることはどなたも承知のところです。しかしその真如を人間の観念に掏替(すりか)えるところに思考の錯誤があります。真如は例えば『大乗起信論』では「言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離る」と示されています。つまり言葉も心も及ばれぬ真理自体の世界であります。これを妄想分別の相として現じているのが人間の現実相です。

その現実相は、真如に背を向けた分別沙汰の世界であり、それに執着しているのがわれわれですから、そこに果てしない矛盾が生起して苦悩せざるを得ません。「生は苦なり」といわれる所以がここにあります。その因はまさしく無明にもとづく妄業と煩悩の集合によるのですから、ここに苦諦(果)・集諦(因)の因果が連綿として継続するのです。この迷の因果を真如は内に包んで一時も離れることなく、やるせない慈悲となって顕現し、これを摂取して真実の世界に導きたまうのです。その真如の摂取活動のところに阿弥陀仏の本願がましますのです。ここにわれわれにとっての覚の因果たる滅諦(果)・道諦(因)が仏の方より成就されている所以があります。

心も言葉も及ばれぬ世界から、名を示し姿を顕わして迷えるわれわれに働き及んで下さるとは、何と言うおうけなき事でありましょう。大悲の国たる浄土の真実相を三種二十九種の荘厳としてわれわれに頷けるように展開して下さって、その浄土に迎えたまうのです。

●あとがき
私達の想像・推測・予測は事実と大きく異なることが多いのですが、それでも我々が経験する人生の事柄は、概ね、過去の経験や歴史に学べば、多少正確な予測が成り立つ場合があります。経済活動などで成功する人々は、その智慧を磨いているのでしょう。しかし、私達の"命の行く末"と言うことになりますと、これは推測・予測出来ましても、誰も真実を検証することは出来ません。

しかし、先師のお話を聞く限り、仏法は、"命の行く末"を確信させてくれる教えのようであります。それは、決してマインドコントロールと言うようなものではなく、因縁果の道理に目覚めることにより、"命の行く末"に関する絶対的な信に至るのだと思われます。また、これを仏法の、そして且つ浄土門の信心と言うのだと私は思っております。

そうでなければ、蓮如上人が、浄土が私達の想像を絶する歓喜を与えてくれるところとは申されませんでしたでしよう。もし蓮如上人のおっしゃることが信じられないならば、それは私が抱いている分別・妄念・煩悩に問題があると言うことではないかと思っている次第であります。


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No.471  2005.03.03

堀江青年の挑戦

現在ヨットで二度目の無寄港世界1周に挑戦している堀江謙一さんは、1962年、24歳の時に、太平洋単独無寄港横断「太平洋ひとりぼっち」で日本中に感動を与えました。"堀江青年の快挙"として『堀江青年』は冒険者・挑戦者としての地位を獲得されました。そして、今、偶然同じ名前の『堀江青年』が日本の経済界・実業界に挑戦しています。昨年のプロ野球の近鉄球団買収への名乗り、仙台を本拠とする新規球団の設立申請劇で一躍話題の人となった『堀江青年』が、今度は、フジサンケイグループを相手に、自分が描いたビジネスモデル実現の為に戦っています。

私は、私の息子と同年齢の『堀江青年』を支持し応援する立場ですが、それはチャレンジ精神を大切にしたいという事に加えて、新しきを排除しようとする日本社会の悪い面があからさまに出て来ている事を非常に危惧するからであります。

日本は島国でありますし、その上祖先達は農耕民族として生計を立てた長い歴史がありますから、日本国民は、仲間の結束が強いと言う特質をDNAに埋め込んで来た国民であります。結束が強いと言う事自体は、悪でも善でもありませんが、過剰に働きますと、侵略戦争を起こして勢力拡大を図ることになったり、逆に極端な自己防衛に走って、新しきを正当な理由も無く排除すると言う愚行に至ることがあります。これは、国家間だけではなく、日常生活における近隣付き合いに顕れたり、職場での縄張り意識にも顕れたりしています。

私は今回のフジサンケイグループの対応は正に、新しきを正当な理由も無く排除し、フジサンケイグループを守るというよりも、経営者個人の保身に走っているように感じます。そして、それはフジサンケイグループの総帥(そうすい)である日枝会長個人が問題だということではなく、日本の企業体質がそう言うものを持ちながら今日を築いて来たという事自体が問題だと思うのです。物やサービスを提供する主体として株式会社を認める資本主義社会にあっては、株式会社の取締役を決めるのは経営者ではなく、株主が取締役や経営者をも決めると言う基本原則を"堀江青年"が頼りとしている事は明らかであります。彼は古きものと戦っているのではなく、資本主義社会で許されるルールの中で、自己実現と世の中の人々が欲する事業を提供したいだけだと言うに違いありません。

私も日本人の血を受け継いでいますし、一応は株式会社を経営している身でありますから、今回のフジサンケイグループの対応は判らなくもありません。そして、経済界がフジサンケイグループサイドに立ったコメントを発していることも理解は致しますが、日本の舵取りをするべき政治家が、しかも首相まで勤めた人物が、"堀江青年"をバッシングするコメントを述べている事に対しては、日本の将来を案じて、非常に暗い想いを懐きました。

日本は島国ですが、昔、異国の文化である仏教を素直に受け入れました。異国文化を受け入れたのは、当時の日本のトップであった"聖徳太子"であります。それも、他国の圧力に屈してと言う強制的にではなく、自ら積極的に勉強され、且つ『十七条憲法』と言う国の法律にまで、『篤く三宝を敬い』とまで謳われた聖徳太子の、善き新しきは積極的に受け入れると言うチャレンジ精神を、私達も政治家トップにも忘れて貰っては困ると思います。

アメリカの資本主義を半ば強制的にではありますが、受け入れた戦前戦中派の年寄り軍団が、その資本主義社会で育てられた"堀江青年"のチャレンジ精神を挫(くじ)こうとするのは、あまりに因縁果の道理から外れており、また自己責任に関する意識が希薄であり、また本当に日本国を良くしようとする意志が感じられません。大和魂があるならば、間接的対話ではなく、堂々とテレビで直接対話すべきではないかと思う次第であります。

ただ、一つ気掛かりなのは、堀江青年が違法ではないとは言われている『市場内時間外取引』と言う手法を使ってまで企業買収を試みた彼の人生哲学がどのようなものであるかによって、今後の彼の人生が決まるだろうと思っています。明確な社会貢献意識を持っていなかったとしたならば、西武の堤義明氏と同様、何れは惨めな人生を迎えるのではないかと・・・・。

今週末には、東京地裁の判定が出るものと聞いておりますが、最高裁までの長期の法廷闘争となりましょうが、司法が日本の国の将来を考えて、どのような最終判決を下すものか、固唾を飲んで見守りたいと思います。


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