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No.470  2005.02.28

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第246条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―四海みな兄弟なり

●まえがき
広辞苑によりますと、"四海(しかい)"と言うのは"四方の海(よものうみ)"という意味で、天下とか世界と解釈致しますが、仏教では、世界の中心と考えられてた須弥山(しゅみせん、架空の山)を取り巻く四方の海と考えていたようであります。そして本日の表題であります『四海みな兄弟なり』は論語(顔淵)に「四海之内皆兄弟」とあり、この意味は、「天下の人は、すべて我と同一人類で、親疎のへだてがないことが兄弟のようである」の意で、四海兄弟(しかいけいてい)とか、四海同胞(しかいどうほう)という四字熟語になっているようであります。

今日の聞書は、信心・信仰を同じくする者同士には師匠と弟子と言う関係はなく、兄弟だと言うことを強調されたもので、親鸞聖人が「親鸞は弟子を一人も持たない、信心を同じくする者は全て仲間である」と言われたことと同じ立場を蓮如上人も取っておられたという事が窺えるものであります。

そして、親鸞上人が"七高僧"と仰がれた中のお一人で、名前を一字頂かれた程に影響を受けられた曇鸞大師(中国の僧、西暦467年〜542年)と言う方がおられますが、その曇鸞大師が孔子(紀元前551年〜479年)の論語から引用され「同一に念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるに四海の内皆兄弟なり」と、『往生論註』と言う著書の中で語られておられるのですが、その事を頭において語られた蓮如上人のお言葉を取り上げたものが本日の聞書のようであります。

お釈迦様(紀元前463年〜383年)よりも前に生まれた孔子が既に、仏教の一如平等(いちにょびょうどう)と言う考え方を持たれていた事を知り、改めて孔子の偉大さを認識致しましたが、インドから中国へと伝わった仏教が、その中国の哲学者である孔子や孟子(紀元前372年〜289年)等の影響を大きく受けた後に私達の日本に伝わって来たことも、間違いの無いことなのだと、本日の聞書から思う次第であります。

●聞書本文
蓮如上人順誓に対して仰せられ候「法敬と我とは兄弟よ」と仰せられ候。法敬申され候「是れは冥加もなき御事」と申され候。蓮如上人仰せ候。「信を獲つれば先に生るる者は兄、後に生るる者は弟よ」と仰せられ候。仏恩を一同にうれば信心一致の上は四海みな兄弟といへり。

●現代意訳
蓮如上人が法敬坊順誓にむかっておっしゃいました。「法敬と私とは兄弟なんだよ」と。それに対して法敬は「これは、あまりに勿体無いお言葉でございます」と申し上げましたところ、蓮如上人は、「信心の世界というものは、先に生まれた者が兄で、後に生まれた者が弟なんだよ」とおっしゃいました。仏様の智慧と慈悲に気付かされて念仏を申す身になれば、四海みな(この世の存在全ては)兄弟だといわれている通りであります。

●井上善右衛門先生の讃解
人間に執我が無意識に潜んでいるかぎり、差別観念を離れることは出来ません。個人はもとより国家にあっても、その国家を形成する人々の共業によって、国家の集団エゴというものが生まれます。国益という美辞のもとに、国家と国家が相争います。そしてその果ては戦争という惨事を引き起こします。これは近代国家に限った事ではありません。有史以来の覇権の争奪は全くここに由来しているものです。まことに悲しむべき人類の業であります。

戦後国連が創設されて以後36年間、世界の何処かで次ぎ次ぎと戦争が連続しているではありませんか。現に今日もそうでありまして、たとえ今戦っていない国々の底にも戦争の因が秘め宿されていることは事実です。国連の活動を評価したいのですが、何と言っても対象療法の域を脱しません。世界の人類は今こそ心して真剣に戦争の因の抜本的除去に思いをいたすべきです。人間そのものが闘争の原因主体である限り、人間の闘争本能が消えやらぬ限り、戦争の脅威は人類の業として背負い続けなければならぬでありましょう。

宗教が深く個人主体の問題に関わるかぎり、こうした観点から平和に対する重大な関係をもっています。社会の諸問題に対する批判活動や反対運動はそれぞれの意味をもつことですが、問題の根源が、単に外的な欠陥から生じているのではなく人間存在そのものの本質に根ざしているかぎり、個人主体そのものの根源に平和の光の到来を求めることは、最も緊急な人類の使命でなければならぬと思います。なぜ世界の諸宗教はこの点に力を結集しないのでしょうか。

●あとがき
白井成允先生も、そして井上善右衛門先生も共に、世界平和には仏教の"一如平等(いちにょびょうどう)"と言う哲学が必要だと説かれております。そして、世界の現実が一如平等とは対極にある二元対立思考によって支配されてしまっている事に歯痒い(はがゆい)想いを懐かれておられたことが、著書の随処に顕れています。特に白井先生は、「一如平等を説く仏教が伝来され、興隆した日本には世界平和を成し遂げるべき使命がある」とまで言われております。

白井先生のご発言は、昭和30年代のものでありますが、今、アメリカが支配しているかのように見える世界を想う時、このアメリカの哲学思想の根本にある二元対立思考、即ち、善と悪、正と邪、美と醜と分別する考え方は決して世界を平和へとは導かないことを暗示されているものだと、私は感じています。上述の井上善右衛門先生のご発言のお心も多分、白井先生と寸分違わぬものだと存じております。

井上先生の解説文の中に、次のような一如平等を表わす逸話が紹介されています。

最近、ある陶芸家について次のような話を聞きました。ある日その人は狂気のように帰って来て「今日はすばらしい日だ。素晴らしい事が起った」と躍り上がらんばかりです。そうして家族の人達にこう語ったそうです。「自分は今まで二つの世界を持っていた。善悪、美醜、正邪という二つを。けれども今日は世界が変わってしまうものを見た。栗の木葉が虫に喰れて哀れな姿、人が虫で自分が木葉のように思うていた。ところが今日は全く違って見えた。葉っぱは虫を養うている。虫は葉っぱに養われている。今日は、その事を判らせてもろうた・・・・そして驚いている自分に驚いている。この景色を入れる眼とは何と大きな眼だろう。この世は自分を探しにきた処、この世は自分を見出しに来た処、何と言う大きな調和の世界であろう・・・・」と。
善悪・美醜・正邪は、人間が分別で決め付けたものであり、真理の世界から見ますとそれは相対的に立場からの判定であります。善意が悪を導くこともあり、美しいと思っていた女性が醜く変貌する瞬間もあります。正邪の基準が異なるからテロや戦争が起こり続けます。聖徳太子の「共に是凡夫のみ」と言う一如平等の"和の心"が世界を支配するようになれば、正邪の対立はなくなりましょう。

しかし、例えば今の日本でも、一如平等(いちにょびょうどう)を訴えましても、アメリカの資本主義、競争原理主義が浸透し切った日本の政治の世界、教育の世界、市民生活の現場の現状を想う時、どうしても、犬の遠吠えとしか受け取られないのではないかと思います。その歯痒さを両先生は噛み締められながら、またご自分の力不足を嘆かれながら、しかし、誰かに受け継いで貰わねばならないと言う使命感から、法話の端々に、その想いを込められていたのではないかと、感じております。

私も力不足でありますが、両先生のご遺志のホンの一部でも、後の人々に托せるように努力するのが、せめてもの恩返しにならないかと思っている次第であります。


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No.469  2005.02.24

自然の摂理

今週のNHK番組で、自然の摂理を強烈に感じさせられました。今、自分がこうして息をしている事自体が、不可思議な自然の摂理なのでありますが、それを私達は当たり前の事としてしか受け取られないのは何故でしょうか。この世の現象、存在は全て驚くべき事、人智の及ばない事ばかりでありますが当たり前としか思えない。そして一方、人が死ぬのは当たり前なのに、それが当たり前とは思えない、自分が死ぬ事がなかなか信じられない、明日も明後日も必ず生きていると思っています。この、当たり前ではない事を当たり前と思ってしまい、当たり前のことを当たり前とは思えない、これを凡夫と言うのではないでしょうか。

自然の摂理を感じさせられました番組の一つは、月曜日の『地球・ふしぎ大自然』テーマは【「巨大オウギワシ」密林の王者がナマケモノを襲う!樹上40メートル・謎の子育て】であり、二つ目は、水曜日の『生活ほっとモーニング』、テーマは「耳の構造と忍び寄る耳の老化と対策」です。

一つ目のオウギワシは、体調1メートル以上、翼を広げるとゆうに2メートルを超す世界最大級のワシ。ヒグマほどもある巨大な爪で自分の体重ほどもある猿やナマケモノを軽々と捕らえます。 オウギワシが暮らしているのは中南米のジャングルの奥深くです。しかも地上40メートルにもなる木の上の世界です。

何に感動したかと言いますと、子供を育てる役割分担が実に見事だというところです。父親ワシは、大きな猿やナマケモノを捕らえて、巣に運び込みます。それを母ワシは、細かく切り刻んで、子供ワシの口まで持っていきます。誰かがその役割分担を指示した訳でもないでしょう、父ワシと母ワシが相談して決めたものでもないでしょう。本能だと言えばそれまでですが、この見事な本能を造り出し、古(いにしえ)からずっと続けられているのはどうしてでしょうか。そして、このオウギワシは、3年に1回しか子供を産まないそうです。ジャングルで子供が自律して自分で狩が出来るようになるには3年掛かるからだそうですが、これも本能でしょうか・・・子育ての役割分担と、子育てに必要な時間が定められ護られているところに自然の不思議を感じたのは私だけではなかったでしょう。

2つ目の耳の構造は、これまた人智を超えた力の為せる業だとしか言い様がありません。写真の鼓膜から耳小骨を経て蝸牛(かぎゅう)の中のリンパ液へと振動が伝達され、それが能で認識されるまでのメカニズムは、「一体どうして、この様な精巧な器官が出来あがったのか」と思わずにはおれませんでした。聴覚だけではなく、物の存在を認識する視覚も、味覚も、嗅覚も、触覚も、全ては私達人間が創り出したものではなく、人智をはるかに超えた力(この力を親鸞聖人は他力とおっしゃったものと思います)、によって与えられたものであります。

人間は、色々なものを発見し、発明致しました。しかし、ものを考え出す頭脳は人間が作り出したものではありません。能のメカニズムも実に精巧なものであり、これも人智をはるかにはるかに超えるものであります。こう考えますと、人間が宗教を求めるのも、自然の摂理そのものでありましよう。即ち親鸞聖人がおっしゃられた他力によるものだと思います。他力本願と言うのは、言い方を換えますと、自然の摂理と言ってもよいでしょう。

この宇宙は、自然の摂理によって、全ての物が変化し、時が流れているだけだという見方が出来ます、それを『色即是空』と仏教は観じ、そしてこの自然の摂理によって生かされている自分に気付かされた時、『空即是色』と、全てが有り難く感じられるのだと思います。2つの番組を見ながら、こんなことを思わずにいられませんでした。


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No.468  2005.02.21

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第242条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―思案の頂上ということ

●まえがき
今日の聞書は浄土真宗の法話になじまれていない一般の方々には特に難しいといいますか、違和感を持たれることと思います。弥陀如来、五劫思惟、本願、機法一体と言う言葉は説明することも難しいのですが、理解して頂くことは極めて至難であると思います。これが分かると言うことは、浄土真宗の信心を得られたことになると思われます。私は頭ではある程度理解している積りですので、それなりの解釈を記載致しますが、後はこれをお読みになる方々の信心次第でありまして、私の力の到底及ぶところではございません。

私達は、科学の進歩に従いまして相当の科学知識を得ており、また、人生を50年以上も経験致しますと、全て分かっているように思う面があります。宇宙はこんなもの、この世はこんなものと全てを理解しているかのように錯覚してしまうところがあるのではないかと思います。

しかし、人間は地球を含め、太陽系を含め、ある程度宇宙全体のことを知っているように思っていますが、結局のところ何も分かっていないのではないかと思います。いや、分かっている部分は極めて少なく、本当に知らねばならない自分の命とは何か、この世に生まれて来た意味は何か、命の不可思議については実は何も分かっていないのではないでしょうか。

この命に関する疑問から自分を探求され、私はこう思うと私達後代の民衆の為に道を示されたのが、お釈迦様を始めとする多くの祖師方であります。科学をいくら積み重ねましても、命の不思議を解明することは出来ないと思います。ましてや、人生の生甲斐を科学が教えくれる訳ではないと、私は思っております。

科学が人類に取りまして全く意味の無いものとは申しませんが、科学は人類を幸せにするものではないことだけは間違い無いことではないでしょうか。ひょっと致しますと、科学が人類を滅亡させることすらあり得るのではないかと、核の問題、そして京都議定書から最大の二酸化炭素排出国であり、世界のリーダーであるアメリカが抜けた事などから、思わざるを得ません。

人間の思考・智慧は大したものではないと言う、根本的に人間を見詰め直す眼を持たなければ、やがて人類の危機がやって来るのではないか・・・・。今日の聞書は、今日の人類の危機を想定はされてはいないと思いますが、人類の驕りを見据えたものであると考えたいと思います。

●聞書本文
思案の頂上と申すべきは弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし。此の御思案の道理に同心せば仏になるべし、同心とて別になし、機法一体の道理なりと。

●現代意訳
最上の思案・思考と言うものは、私達人間が為し得るものではない、阿弥陀如来の「五劫思惟の本願」がその最上・無二のものである。この「五劫思惟の本願」の道理に信心が戴かれた者だけが、浄土往生出来る身となるのである。信心と言っても、それは「機法一体の道理」に信を得さしめられる事である。機法一体の道理とは、煩悩即菩提と言われるように、凡夫を離れて仏は無いと言うことであり、私達は常に仏様に見守られて、抱かれていると言うことである。

(注釈) 「五劫思惟の本願」とは、この世において苦悩する私達凡夫を救わずには居ても立っても居られないという仏様(現代的な表現を敢えてするならば、大宇宙が誕生して以来から私達に働きかけている力)の根本的願いと言ってはどうかと思います。

●井上善右衛門先生の讃解
人間の思考を一般に思案といいます。そしてその思案によって何事も解決してゆこうとするのですが、この人生というものが人間の思案で解決し尽くせるでありましょうか。先ず私どもは人生の問題と人生そのものの問題とを区別してみる必要があります。

前者の人生の問題は、人生の上に起り来る諸問題の処理でありまして、これにはある程度、人間の思案が役立つのです。例えば経済の事柄や、生活設計、政治や社会に関する諸問題です。しかし人生の問題でも、人間関係となると熟慮思案でそう簡単に処理尽せるものではありません。人間関係には人間の人格性の問題が結びつくからです。

さて第二の人生そのものの問題というのは、人間の生が背負うている生自体であって、人生の上に去来する問題とは質を異にするものです。例えばわれわれは何のために生きているのか、その事が明らかにならねば、本当の生甲斐というものは見出すべくもありません。またわれわれの生は死から切り離されたものではなく、生の随処は死につながっています。本当に死が受け取られる身になったとき、そのとき真実の生が始まるということは疑い得ない事柄です。

さらに外ばかり眺めていた眼がふと自分の内側に転じたとき、そこに何と暗澹とした醜さをわが胸の中に感じることでしょう。一度び自己の胸の内を覗いた者には最早それをそのまま放置して知らぬ顔をしておれるものではありません。その自己の胸の中を一体何と処置すればよいのか。こうした問題を抱えているのが私どもの生そのものであります。この生そのものの問題を、人間の思案で解決出来るといえましょうか。それを中途半端にして生きるということは、土台のない家に住んでいるようなものです。それが自己を大切にする生き方と言えましょうか。

人間の思考や論理は究極の問題に手のとどくものではありません。人生そのものの問題を照らして真の解決を与えるものは究極の真実そのものの外にはないのです。人間の思考は如何に微細にこれを運んでも「有無」の分別を超えることは出来ません。それは人間の思考そのものが有無の分別の上に成り立っているからです。この分別を超えねば仏の真実に出遭うことはできません。『正信偈』に龍樹菩薩を讃じて「悉く能く有無の見を摧破して、大乗無上の法を宣説したまう」とあるのは、その意を誦されたものです。

●あとがき
井上先生が、「人間の思考や論理は究極の問題に手のとどくものではありません。人生そのものの問題を照らして真の解決を与えるものは究極の真実そのものの外にはないのです。人間の思考は如何に微細にこれを運んでも「有無」の分別を超えることは出来ません」とおっしゃっていますが、究極の真実というのは、私達が頭で考えても辿りつくことは出来ないものだと思います。それは恐らくある時、ふと宗教体験ともいうべき回心(えしん)の瞬間があるのだと思われます。

この宗教体験というものは、言葉では言い表せないものなのだと思います。分別を抱えている限りは、この宗教体験は我が身に訪れるものではないのでしょう。ただ、この宗教体験と言うものは、別に神秘的なものでも、奇蹟的なものでもなく、「あっ、そうだったのか」と言う心の底から納得させられる瞬間なのだと、私は想像しておりますが・・・・・。


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No.467  2005.02.17

運命・宿命・天命

次から次へと悲しく、痛ましい事件や事故、災害が報道されます。昨年のスマトラ沖の地震・津波で一瞬に亡くなられた20万人にも及ぶ方々は何故あんな目に遇わなければならなかったのか、単なる偶然・・・運が悪かったとしか云い様がないのでしょうか。また、つい先日のバレンタインデーに発生した寝屋川市の市立中央小学校での17歳の同校卒業生による殺傷事件に付きましても、殺害された鴨崎教諭は、たまたま、少年の応対をする巡り合わせであっただけで、少年とは特に面識は無かったと報道されています。何故?・・・何故?・・・と言うしか関係者も言葉は無いと言うところであります。

上述の事件や災害に留まらず、私達個人の身の上にも、新聞報道に至る事故や事件とまではゆかなくとも、人生を揺るがす決定的な局面に遭遇致します。最愛の人の死、不治の病、離婚、倒産・自己破産等など・・・。

こう言う事に付きまして、仏教はどう言う答えを用意しているでしょうか、お釈迦様はどのようなコメントを述べられるでしょうか、親鸞聖人はどのように私達に人生を語られるでしょうか。このような事に目を瞑(つむ)る仏法であってはならないと思います。

今日のコラムは、最近の事件・事故・災害を頭におきつつ、それらと運命とか宿命とか天命との関係を考察し、仏法の説くところを考察して見たいと思います。

さて、私達の日常会話で"運命"という言葉は良く使いますし、聞く事もあります。「人の運命なんてわからないものだ」「自分の運命を信じてやりなさい!」と。また単に"運"という言葉で「今回は運が悪かったんだ」「運は天に任せて・・・」という話も聞くことがありますし、使うこともあります。しかし、宿命という言葉は、世間一般ではあまり使われていないのですが、仏教と特に浄土真宗系の人々の間では良く使用されます。「これも宿命ですね・・・」「前世からの宿命だと思っております」と幸せな時にはあまり使われないようです。
また、天命となりますと、「人事を尽して、天命を待つ」と云う言葉でしか聞いた事がありません。

広辞苑で調べますと、下記のような解説があり、どうやら、ほぼ同じ意味のように捉えているようであります。
運命とは「人間の意思にかかわりなく、身の上にめぐり来る善悪・吉凶。人生諸般の出来事が必然の超人間的偉力によって支配されているという信仰または思想に基づく」
宿命とは「前世から定まっている運命。宿命観とは、世界及び人生の一切の事象はあらかじめ宿命によって決定され、これを変えることはできないとする信念」
天命とは「天からあたえられた人の宿命」

仏教で"三世の因果"と言うことを申します。道元禅師がはっきりと申されています。過去・現在・未来へと因果は巡ると申します。しかし一方、お釈迦様は、はっきりと霊魂と言う実体の存在を否定されています。しかし、大乗仏教では、死ねば全て無くなると言う立場でも無いようです。まことにはっきりしないところですが、これは致し方ございません。誰も経験したり実証出来ないからです。従いまして、"無記(むき)"という言葉で、"何とも言えない"と言う事として表現されています。

仏教では、物事は縁に依って起ると言います。従って、スマトラ沖の地震・津波も、発生する何等かの原因と条件の変化がある事は間違いありませんが、原因が特定出来ませんし、何故今発生したのかと言う原因は恐らく今後も分からないでしょう。ですから、もしお釈迦様が現在も生きておられて、この災害に関する感想を求められても、亡くなられた人々の宿命とは言われないと思います。ただ、ただ悲しまれ、私達の無常の命と言うことを説かれるのではないでしょうか。

仏教が宿命と言うその立場は、決して他の人の事に関する事ではなく、飽くまでも自分自身の身の上に生じた事に対して、自分自身の過去世に因と縁を感得すると言う積極的な姿勢の顕れではないかと思います。他人様に発生した災害等に、どのような見解を持つかどうかは、学問の世界の話であり、信仰上では、全く意味の無い事だと思われます。私自身がどう受け取り、今後どう対処してゆくかが最も重要なのだと思います。

私は、天命に関する広辞苑の解説は解説として尊重致しますが、私は、天から授かった命(いのち)と読みたいと思います。青山俊董尼のお言葉をお借りすれば、"天地一杯の命"でしょう。運命・宿命は、自分の意志が無視された命の有様と考えられます。このような命では、人間に生まれた意味は見出せません。命を与えられた意識も無く本能の催すままに行動する他の動植物と変らない命だということになります。

仏教は、因縁果(いんねんか)と言う縁起の道理を一番大切な教えと致します。私達が遭遇するあらゆる事柄は、因があって、それに縁が働いて、ある結果が生じるというものであります。運命とか宿命は、人の意志とは関係無く発生することを意味するものです。運のみに左右される命から、因縁果の天の真理に目覚めて生きる命へ、即ち、運命が天命へと命の転換を説くのが仏法であると言ってもよいと思います。

私達が遭遇する事柄を前以て知ることは出来ません。因と縁と結果を前以て予見することは出来ません。ただ無数の縁(条件)の中には、私の意志も含まれます。私の意志通り、希望通りに結果は現れませんが、私の意志も含まれると言う事が非常に大切だと思います。そこに人間という命を頂いた意味があると思います。単に運に任せる、他力に依存すると言うのが仏法の説くところではなく、私の意志を大切にして生きよというのが、仏法であります。お釈迦様が「自らを拠り所として、他を拠り所にしてはいけない。法を拠り所とせよ」と言われた意味は、そういう風にも考えられるのではないかと思います。


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No.466  2005.02.14

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第237条

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―南無阿弥陀仏の主になるなり

●まえがき
親鸞聖人が、信心を得るのは「難中の難」だと言われましたが、その難しさとは、南無阿弥陀仏の念仏にあると私は思います。私自身、未だ「南無阿弥陀仏」を頭で捉えようとしていますから、どうしても、深々と、心の底から南無阿弥陀仏を称えるには至っておりません。真似事の念仏は称えることは致しますが、まだまだ私の心の中に、凡夫の"計らい"があり、南無阿弥陀仏が、しっくりと来ないのです。人間がこしらえた"まじない言葉"で、これを有り難く思うという心境になれない訳であります。これは、「我れ賢し」と言う驕慢さから来る思い違いである事は、頭で分かっているのですが、如何ともし難いと言うのが実情であります。

従いまして、今日の聞書を正しく、現代意訳をすることが出来ません。英文を翻訳するが如くに、一応は現代語に直しますが、到底作者の心を汲み取った文言ではないことをお断りしておかねばなりません。

井上善右衛門先生の讃解文を全文転載致しましたので、そこから、読者の方々なりに作者の心を汲み取って頂きたいと思います。

●聞書本文
弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるといふは信心をうる事なりと云々。また当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なりと云々。

●現代意訳
阿弥陀仏に心身を託すと、南無阿弥陀仏の主になる。南無阿弥陀仏の主になると言うことは、信心を得ると言うことだと言われています。そしてまた、浄土真宗の一番大切な宝物は南無阿弥陀仏であり、この念仏を称えること自体が信心であるとも言われています。

●井上善右衛門先生の讃解
世間で自律・他律ということが言われます。自律とは自分の純粋意思で自己の行為を決定すること、他律とは自己の意思以外の他の力に支配されて自己が動かされること、大まかにこうした意味に用いられます。そうすると、時として起る誤解は、他力というのは自分の力ではないところの仏という他者の力に自分を託し、唯他力に従属する身となるのであるから、それは他律の状態ではないかと考えられることです。

西洋の宗教のように、人間を超越した実在の唯一神が、世界を創造し、人間をも造り、歴史を支配し審判を行なう、という人と神との関係にあっては、神の意志こそ絶対最高であり、神と人間とは創造者と被造物として二つにはっきり分けられますから、神の意志に従う信仰はむしろ人間の意思主体を無視するものであるという考えに立ち、19世紀の思想家ニーチェはキリスト教道徳を奴隷道徳と酷評しました。そうした思想の是非は別として、とにかく、二元的な宗教形態からは隷属の信仰という性格が出て来ざるをえない要因があります。

ところがこの点、仏教には大きな趣きの違いがあります。仏とは究極の宇宙的真実に目覚め、その真実に一体化した活動態が仏であります。親鸞聖人は『教行信証』の証巻に「然れば弥陀如来は如(にょ)より来生して、報・応・化種々の身を示現(じげん)したまう」と申されています。如とは一如のことであり、一如とは真如(しんにょ)のことです。真如とは一切をつつみ貫く究極の「真実そのもの」であります。

今日では真理という言葉が一般的によく用いられますが、真理とは真の理の意ですから、言葉としてはどうも冷たい言葉です。真実そのもの、真実自体を指す真如というのは深い奥行きをもつ言葉と感じます。この真如があらゆる活動を我々に応じて現じる。それが即ち法蔵菩薩であり、阿弥陀仏であり、本願であり、そこに成就された真実そのものの徳が南無阿弥陀仏であります。

阿弥陀仏が如より来生されると聞きますと、真如が先ずあって後から如来が出現されたかのように解されますが、それは時間という人間に先天的な思考の枠から生じる思いであります。真如はそのような時間空間の形式に制約されたものではありません。したがって、真如と阿弥陀仏とには時間的前後を差し挟むべきではありません。

真如は究極の宇宙的真実ですから、私どもはもともとその真如の中におさめられているのです。真実の中にありながら、それに気付かず、執我の殻に己れを鎖(とざ)して迷いに迷い続けてきたのです。真如は向こうにあるのではなく、私を包み尽くしているのです。もと一体の中にありながら、我執の性がそれをへだててきました。その我執の性が如来の御催しによって破られることが南無(帰命)であり、その端的に如来の真実功徳がそのまま此の身のものとなって下さることが阿弥陀仏ですから、「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり」と申されました。おうけなきことであります。

我性の我れに替わって阿弥陀仏がこの身の主体となって下さる。池山栄吉先生の言葉を借りれば「我ならぬ清らの我れの我れにありて・・・」ということであります。我性の己れ、有漏の穢身はそのままここにありながら、最早それは我が命の主体ではなく、南無阿弥陀仏という真実功徳の体が勿体無くも、我が命の主体となって下さっている。その妙なる趣きを「南無阿弥陀仏の主になるなり」と申して下さったのです。主とは南無阿弥陀仏と一体の身ということです。まことに仏法は奇しき生命の真実を知らせて下さいます。そこには向うの阿弥陀仏に追従してお念仏申す様相は消えています。

曇鸞大師が「動静己れに非らず、出没必ず由る」と申されたのも、今までの己れが消えて南無阿弥陀仏が私の主体となって働いて下さる様子を語られたものです。それが念仏における仏と私との関係であります。そうなると『臨済録』に「随処に主となれば、立処皆真なり」とあるのも、念仏において実現される真実相に外なりますまい。

しかし、このように述べますと、南無阿弥陀仏と私が一体となり、仏の中の私になってしまったかのような思いになるならば、それは観念沙汰の大きな誤りであります。真の宗教体験は合理的思考のような一本筋のものではありません。

地獄ゆきの私がしみじみと味わわれ、南無阿弥陀仏がその私をどこまでも摂取して下さっている大慈悲の中に、我を忘れてほれぼれと本願を仰ぎまいらする外はないのです。そこに奇しくも南無阿弥陀仏の主とならしめられる自己が法爾として顕現します。二つにして一つということは、論理的にいえば一筋道ではありませんから矛盾でありましょう。しかもその矛盾の中に大きな統一の光が成就されている事を仰いで念仏の徳に驚嘆するのです。

そうした消息を前の句を打ち返して「南無阿弥陀仏の主になるというは信心をうる事なり」と示され、信心の外に「南無阿弥陀仏の主になる」という事はない、南無阿弥陀仏の主になるとは信海の風光であると申されているのであります。こうした心をよくよく味わいますと、念仏が他律信仰でないことはもとより、世に言う自律ということでもまたない事が知られます。自己の意思によって成り立つ信海ではなく、人間の意志力を超えて遥に大きな本願力の然らしめるところです。自己自身の生命的転換でありますから、強いて言うならば、自他を超えた絶対自律ともいうべきでありましょうか。

この様な驚くべく素晴らしい出来事を再び讃えて「当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏、是れ一念の信心なり」と申されているのであります。「真如一実の功徳の宝海、無上宝珠の名号」といわれ「満足大悲円融無碍の信心海」とたたえられている信心の深い真実を頂戴しましょう。

●あとがき
南無阿弥陀仏の名号は、人間が考え出した称え言ではありますが、人間をこの世に送り出した宇宙の働き、即ち仏様が私達人間にお与えになった名号であると言うのが、今の私の精一杯の理解であります。お釈迦様が2500年前にインドに出現されたのも、人智を超えた大宇宙の働きであります。

南無阿弥陀仏と名号も、お釈迦様や親鸞聖人のお出ましも、人間が何故と計らうべき問題では無く、ただ有り難いと感謝を申し上げねばなりませんが、心の底から有り難いと思えないのは、親鸞聖人のおっしゃるには、凡夫の浅智慧、煩悩の所為だと言う事であろうと思われます。

親鸞聖人が生まれられた頃(西暦1173年)は、今NHKで大河ドラマ『義経』を放映しておりますが、丁度、義経が鞍馬山で修練している頃であります。その当時でも、南無阿弥陀仏を他力の念仏として称えられる心境になるのは"難中の難"であった訳です。ましてや科学教育を詰め込まれた現代人が南無阿弥陀仏と聞いた時、原始的で、理性的でないと敬遠する風潮にあることは致し方無いと思います。

私もその中の一人ではありますが、今では、本願力の強さにより、私の努力でではなく、いずれ私も白井成允先生や井上善右衛門先生と同じ信心を頂き、南無阿弥陀仏を称える時が来るだろうと思えるようにはなっております。これも、この5年間の私に働き続けている他力の本願力の故ではなかろうかと思っている次第であります。


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No.465  2005.02.10

自力から他力へ

仏教には自力聖道門と他力浄土門とか、小乗仏教と大乗仏教とか、仏法を求めるにおいて、二つの道があるように言われる事があります。しかし、前者の区別は浄土門の人々が主張する区別であって、禅門の方々が「我が禅宗は自力聖道門である」と主張する光景に出くわしたことはございません。後者に付きましても、東南アジアの仏教国であるタイ、ミャンマー等の仏教が小乗仏教と言われますが、それらの仏教徒が「私達は小乗仏教徒である」とは決して言わないでしょう。

仏教はお釈迦様の教えであり、教えは一つであります。お釈迦様は対機説法と言いまして、相手に応じた説き方を工夫されたところから、「私はこう教えられた」、「いや私はこうお聞きした」と、お釈迦様が亡くなられてから、分かれていったと言うのが大方の見方であります。私は、仏教に二つの道があるとは思っておりません。

私は幸いなことに、親鸞聖人の教えと、禅宗の教えをどちらに偏るでもなく接しさせて頂きながら少年・青年時代を過ごさせて頂きましたので、特にどちらの教えが正しいとか、相性が良いとかと言う気持は持っておりません。いずれもゆきつくところのお悟り・安心(あんじん)の心模様は一つだと確信しております。

日本の禅宗には主たる宗派としては曹洞宗と臨済宗がございますが、曹洞宗(道元禅師が開祖)は特に他力の趣きが強いのですが、臨済宗の場合も、鈴木大拙師に致しましても山田無文老師(当時、妙心寺官長)、柴山全慶老師(当時、南禅寺官長)に致しましても、共に浄土真宗で妙好人として有名な"浅原才市翁"の他力の境地は声を揃えられて禅の悟りの境地そのものだと言われていました。

私は、キリスト教の事は分かりませんが、宗教と言うものは、自力から他力へと心の転換があった時に、禅宗で言うところの悟りが開かれ、浄土門で言う回心(えしん)の瞬間が訪れるものだと思って います。法然上人も親鸞聖人も、20年にも亘る比叡山での難行苦行と勉学に励まれる自力の限りを尽した後に、自力無効の人間存在に目覚められて、大宇宙の大いなる働き(他力)を感得され、他力信仰の道をこの日本で開かれました。そもそもお釈迦様も、6年間の難行苦行の後に、難行苦行を棄てられ、即ち自力を棄てられて、沈思黙考の坐禅によって、因縁をお悟りになられて、仏陀(覚者)になられたとお聞きしています。因縁を悟ると言うのは自力無効の自覚だと思いますので、これは他力の働きによるのだと思われます。

浄土門は、他力浄土門でありますから、お寺の法話では最初から他力の有り難さを説かれるようでありますが、他力他力と申しましても、自力の限界を知らない他力はあり得ないと思いますので、少し、説き方に一工夫が必要かも知れません。他力を信仰する、即ち、阿弥陀仏を拝むところから始まりますと、阿弥陀仏の方から拝まれている私だったのだと言う本来の他力信仰にはなかなか至り得ないだろうと思います。これは私自身が通って参りました遠い道になるものと思い、我が来し方を思い、後の人々に、同じ遠回りをして貰いたくないという想いから、申し上げる次第であります。

自力に頼って、もがき苦しむのも他力の御働きが至り来たっていることであり、本来、仏法を求める上では自力と言うものはあり得ないのだと思います。従いまして、殊更に他力、他力と主張するのは如何がなものかと思います。

妙好人 浅原才市さんは、こう申されています。「他力には 自力もなし 他力もなし ただ一面の他力なり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と・・・・・。


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No.464  2005.02.07

●お詫び
プロバイダーを変更するに際しまして、一時無相庵にアクセスが出来なかったものと思われます。事前にお知らせ致しませず、ご心配をお掛けしたものと存じます。プロバイダー変更に予想以上の時間を要してしまいました。大変申し訳ございませんでした。

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第236条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―仏法者には法の威力にて成る

●まえがき
仏法は知識ではなく、法が身に具わらなければならないという事は、このコラムでも何回となくお伝えして参りました。今日の聞書の言わんとするところも、その事に尽きるものと思われます。しかし、仏法が何を語っているのかと言う知識を教えて貰わなければ、仏法が身に付くも付かないもそれ以前の事になるではないかと言う素朴な疑問が私には湧いて参ります。

科学的知識を詰めこまれて育った私は、仏法の教えを沢山聞けば、そのうちに仏法が分ると思って参りました。しかし極最近になりまして漸く、幾ら知識を積み上げましても仏法が身に付くどころか、却って法から離れてしまう事にもなりかねないと言うことが何となく分って来たような気がしております。

それは、多分出発点に問題があるのではないか・・・・。何故仏法を求めたのか、何故仏法を求めているのかと言う初心に戻らねばならないように思う次第であります。即ち、常々井上善右衛門先生が紹介されていた清沢満之師の言葉である「宗教は、自己を問い直すところから始まる」と言うところに帰するのではないかと考えている次第であります。

●聞書本文
前々住上人仰せられ候。仏法者には法の威力にて成るなり。威力でなくば成るべからず、と仰せられ候。されば仏法をば学匠物知りは言いたてず、ただ一文不知の身も信ある人は仏智を加えらるる故に、仏力にて候間人が信をとるなり。この故に聖教よみとて、併(しか)も我はと思はん人の仏法を言いたてたる事なし、と仰せられ候ふ事に候、ただ何知らねども信心定得の人は仏より言わせらるる間人が信をとる、との仰に候。

●現代意訳
蓮如上人がおっしゃいました。「仏法において、真実信心の人になるのは仏法にその力があるからである。仏法そのものに力が無ければ私達が信心を得られるはずがない」と。だから仏法は学者など単に知識を幾ら多く持っていても仏法を伝えることにはならない、それに反してたとえ無学文盲の人でも熱心に聞法に励み信心を得たいと励む人には仏様の智慧が与えられるから、その仏様の力によって真実信心を得られるのである。だからいくら経典を勉強している人でも、自分こそはと言う自力に囚われている人は仏法を正しく伝えられないとまでおっしゃられていたと言うことです。それとは逆に、経典の詳しい内容を知らなくても、真実信心を得た人には仏様のお力が備わっているから、そう言う人から真実信心が伝わるのだともおっしゃいましたと言うことです。

●井上善右衛門先生の讃解
仏智の真実に浴する人は、仏力の中にある人です。だからその仏力が接する人を信の世界に誘導する。これは理屈ではなく確たる事実であります。
「此の故に聖教よみとて、併も我はと思はん人の仏法を言いたてる事なし」と、自我への固執が破られて、法の真実に照らされるところに仏法が開かれる。しかるに聖教の理解力を頼りとし、われこそはと力むということは、仏法に名を借りて我執をつのるわざに外なりません。それはまさに法の真実に逆行する所業です。どうしてそこに仏法を語り明かすことが出来ましょう。かかる誡めが繰り返して述べられていることは、われわれの反省すべき深い傾向性がそこにあるからでしょう。

聞法とは法を耳で聞いて理解することではなく、法をこの身に頂戴することです。ところがそれがなかなか頂戴できない。「難中至難」という言葉もありますが、それは法がこの私にとって難しい困難なものであるがためではなく、十重二十重に自分の執我の砦で固めてきた久遠劫来の迷いの壁の厚さによるものです。身の迷いの遠く深い事を思えば、至難の至難たる所以も頷かれ、いよいよ聞法の一道に邁進せずにはおられません。

最初に述べた釈尊のお言葉にも窺えるように、法と人とは二つにして一つであります。法は人において顕現し、人は法によって真に生かされる。その人法不二の真実に接して「身をもって法を聞く」より道は残されていません。決して理知の物知りに法を求め頼るのでなく、信心定得の人に親近するそのことが、仏の力に催される所以となるのです。そして私どもも聖人が汲まれたその同じ泉の水をまた親しく汲ませていただく身となるのであります。

●あとがき
妙好人と言われる浄土真宗でいわゆる安心(あんじん)をいただかれた方々のお言葉には、自分だけが問題の中心になっている事が分かります。それでいて、すべてを仏様にお任せされている様子が感じとれます。自分を掘り下げるにおきましては、科学的知識は全く必要ではない事が明らかであります。

自分を知る上では、科学的知識は全く必要がありません、その代わりに、自分をそのまま映す鏡が必要であり、その鏡は聞法であり、善知識ではなかろうかと思う次第であります。


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No.463  2005.02.03

人生の贈り物

表題の『人生の贈り物』は、当ホームページのリンク先である紫雲寺さんの法話集、第29話(お蔭さま―人生の秘密)の中で、歌手"さだまさし"さんの歌として紹介されている題名であります。歌の内容に仏教を感じましたので早速CDを購入しましたが、深く共感出来る箇所が多くありました。"さだまさし"さんは以前から人生を深く洞察した歌を作詞作曲されていますが、この歌は人生の無常とその無常の中に見付けた悦びを歌い上げたもので、仏法の真髄に迫るものだと思いまして、一般の皆様にご紹介したいと思った次第です。

中でも「並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる友が居れば 他に望むものはない」と言う箇所は、素直な人生の喜びを語った言葉でありますが、般若心経の『空即是色(くうそくぜしき)』の心を平易に歌われているように思いました。

CDには、さだまさしさんのソロバージョンと、韓国の歌手(楊姫銀、ヤン・ヒウン)とのデュエットも吹きこまれていますが、ヤン・ヒウンさんの説得力ある歌声と歌唱力には感動致しました。素晴らしい歌ですので、是非お聞き頂きたいと思います(ご要望がありましたら貸し出し申し上げます)。

人生の贈り物〜他に望むものはない〜

季節の花がこれほど美しいことに
歳を取るまで少しも気づかなかった
美しく老いてゆくことがどれ程に
難しいかということさえ気づかなかった
  もしももう一度だけ若さを くれると言われても
  おそらく 私はそっと断るだろう
  若き日のときめきや迷いをもう一度
  繰り返すなんてそれはもう望むものではない
    それが人生の秘密
    それが人生の贈り物

季節の花や人の生命の短さに
歳を取るまで少しも気づかなかった
人は憎み諍いそして傷つけて
いつか許し愛し合う日が来るのだろう
  そして言葉も要らない友に なってゆくのだろう
  迷った分だけ 深く慈しみ
  並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
  友が居れば 他に望むものはない
    それが人生の秘密
    それが人生の贈り物

季節の花がこれほど美しいことに
歳を取るまで少しも気づかなかった
私の人生の花が 散ってしまう頃
やっと花は私の心に咲いた
  並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
  友が居れば 他に望むものはない
  並んで座って沈む夕日を一緒に眺めてくれる
  友が居れば 他になにも望むものはない
  他になにも望むものはない
  他になにも望むものはない
    それが人生の秘密
    それが人生の贈り物
紫雲寺さんの法話も読み合わせて頂きたく思います。


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No.462  2005.01.31

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第230条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―珍物も食せざれば詮なし

●まえがき
今日の聞書は、浄土真宗における信仰の姿勢はどうあるべきかについて蓮如上人が語られたものでありますが、他の宗派、他の宗教の信仰にも云えるものだと思います。そしてとても大切な内容でありますが、また一方信仰の難しさを感じるところでもあります。井上善右衛門先生が言葉を尽して領解を述べられておられますので、井上善右衛門先生の讃解には抜粋ではなく全文を引用させて頂きました。

青山俊董尼が何かの著書で安心(あんしん)と安心(あんじん)の違いを語っておられました。「凡夫、私の思い通りになる事を安心(あんしん)と言い、どうなっても安心(あんしん)が安心(あんじん)である」と。凡夫の安心(あんしん)は、我欲を満たした安堵感であり、いつまでも続く安心(あんしん)足り得ません。安心(あんじん)とは、浄土真宗で安心決定(あんじんけつじょう)と言う言い方が為されておりますが、禅宗の"悟りの境地"に当たるものであります。

極めて厳しい表現を致しますと、安心(あんじん)に至らなければ、信仰していることにはならないと言うことだと思います。私は仏法の勉強をしてこのコラム欄でその内容をお示ししていますが、いくら私の知識が増えても、私自身が安心(あんじん)を得ていなければ、それは信仰では無く、学問の世界にいると言うことであります。信仰の段階には色々とあると言う見方も出来ますが、仏教が知的対象である間は、信仰ではないことは確かだと思います。

そして、今日の聞書の厳しいところは、信仰を同じくする者同士が集まって座談することは良いことではあるが、本当に安心(あんじん)を得る人が輩出しないと無意味なことであるとまで言われているところです。

●聞書本文
重宝の珍物を調え経営をしてもてなせども、食せざればその詮なし。同行寄合い讃嘆すれども、信をとる人なければ珍物を食せざると同じ事なりと。 

●現代意訳
重宝なる珍味を調理してお客さんをもてなしても、お客さんが食べてくれないと何にもならない。同じことが仏法についても言えるのである。同じく仏法を聞く者同士が寄り集って仏法の有り難さを話し合ったところで、真実の信心を得る人がなければ、その寄合いは、重宝なる珍味を食べないのと同じ事になってしまうのだと、蓮如上人は誡められました。

●井上善右衛門先生の讃解
この一節の言葉はまことに味わい深いものがあります。今ここで「重宝の珍物」とは珍しく得難いご馳走のこと、「経営」というのは広く物事を営む意ですが、ここでは食物を調理することに用いられています。81歳で逝かれた薩摩島津家の裔子(えいし)忠彦氏(聖徳太子会会長)は戦後不遇の生活の後、晩年料理の道にうち込まれ「島津風懐石くずし」の著を残されましたが、その常々の言葉は、「心のこもる料理こそ相手にささげうるもの」であると言われていました。

阿弥陀仏がこの私に、その全ての徳をささげ尽くしてご用意下さった南無阿弥陀仏を、ただ見ているだけで頂戴しないなら、親の心は一体どうなりましょうか。如何に立派に成就された法徳の前にあっても、これをこの身に頂戴しなければ全く勿体無い事であります。それを譬えて「食せざればその詮なし」と言われています。

ここで食するとは、供せられた食物を私の力で食するという意ではありません。妙好人、才市老人は「念仏は親の生肝、親の生肝食べさせて才市を生かす。親の生肝ナムアミダブツ」と歎じています。多田鼎(かなえ)先生から学生の頃承ったお話ですが、日露戦争の時、二〇三高地の激戦で、両手両足を失い、眼もみえず耳も聞こえなくなった兵士が、金沢の陸軍病院に還送されてきました。ただ一つ残った口で「おっかあに会いたい、会いたい」と言い続ける。野良から馳せつけてしばしベッドの前に立ちすくんだ母親が、やにわに胸を開いてそのしなびた乳首を兵士の口にねじ込みました。その途端に「おっかあ」と叫んで兵士はその母の胸に顔をうずめたといいます。多田先生はこの話をされて、まことに無眼人無耳人(むげんにんむににん)であるこの私に、親のせっぱ詰まった心がナムアミダブツと化してこの私に迫って下さっている。それを日光に照らされているものが、フトその光に気付くのが信心であるかのように簡単に思っていた私は、勿体無い誤りをおかしておりましたと涙して語られた事があります。

「同行寄合いて談合すれども・・・」蓮如上人は談合することを常に勤められています。人間はそれぞれ自分勝手な聞き方をするものですから、互いに自分の領解(りょうげ)を語り合うことは大事なことです。しかしその談合がどうかすると、自分の理解や説明の談義に終わる事を深く注意して下さったのが今の言葉です。

もっとも現代の教育は、人間となる教育というよりも知識の教育となっているものですから、現代人は知性の理解を飛び越えて真実を素直に受け取ることが出来ない生い立ちになっています。それで一応の知的理解も現代人には無意味ではありませんが、決してそこに止まっているべきではありません。知的理解は頭に受け取った概念という一種の輪郭の影であることを確かと心得べきです。

たとえばここに一つの果物があるとします。その果物を眺めて、その色や形や大きさや種類を観察することも確かにそれを知る事の一つでありますが、どれほどそうした知識を得てみても、それは外から眺めたかぎりでの姿にとどまるのであり、それでその果物を真に知り得たのではありません。では外にどのような知り方があるか、それは親しくその果物を口にしてその味を知り、その栄養を身に得ることでありましょう。それを味わうことを知らずにただ向うに眺めて云々しているのが現代人の常の姿勢であります。

聞法と談合は決してそのような状態に止まるべきではないことを誡めて「同行寄合い讃嘆すれども、信をとる人なければ珍物を食せざると同じ事なり」と申されたのであります。

砂糖は甘い塩は辛いと文字では書けますが、その甘いとはどういう味なのか説明して見よ、と云われても誰にも出来ますまい。科学は砂糖の分子式を教えてくれますが、それで甘さが分かるわけではありません。自ら砂糖をなめて甘いとはこういう味だと知るよりすべはないのです。

宗教の真実性もこれと同様であって、説明してみても何にもなりません。「宗教は体験としてのみ現存する」という言葉はまことにその通りです。その体験の真実こそが信心であり、安心(あんじん)であります。信心と安心とは同義語として用いられていますが、そこには微妙な味わいの別があります。信心とは秋の月が泥水にその澄める影を宿すように、如来の真実心がこの愚凡の心に来り徹り映えて下さることです。

安心とはそのときの命の帰するところ、依るところを知らしめられ、まことの落ち着き処に住せしめられる心情であります。「諸の菩薩は功徳の法に安住したまえり」という言葉がよく仏典の中に出てきますが、かたじけなくも私どももまた、この安住処なる畢竟依(ひっきょうえ)を得しめられ、知らしめられる身なのであります。

●あとがき
悟りとか、回心(えしん)とか安心(あんじん)とか、信心とはどういうものであるかと説明することは言葉上では可能ではありましても、言葉になったその瞬間には、どこか違うものになるのではないでしょうか。体験するしかないと言うことでありますが、これもまた難しいところで、悟りを体験しよう、真実の安心(あんじん)を得ようと幾ら努力しても、努力する限りは、それを体験することは出来ないとも云われます。

上述の井上善右衛門先生がお示しになっている多田鼎先生のご述懐話は、信心を得るのはまさに他力に依ると言うことを申されたものだと思いますが、煩悩に迷う凡夫の生活から脱出したいと言う意志(菩提心)さえ持つならば、後は因縁により、時節到来に任せて、ひたすら仏法を求め続けることではないかと思われます。

禅門では悟後の修行と言う言葉もございます。また、修証一如(しゅうしょういちにょ)と云い、修行することが悟りだと云う道元禅師のお言葉もあります。浄土真宗においては、安心(あんじん)を得るための聞法ではありましょうが、あまりに安心とか信心に拘るのもどうかと言うことではないかと思います。そういう思いを込めながらの、蓮如上人の誡めのお言葉が「信をとる人なければ珍物を食せざると同じことなり」ではないかと受け取りたいものです。


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No.461  2005.01.27

生と死を見つめて

最近、NHKの朝8:35からの『生活ほっとモーニング』という番組が癌患者をサポートし、勇気付ける内容のテーマに取り組んでいます。私は、昨年、相次いで親しい二人の友人を癌で失いました(昨年3月5日に妻の親友が54歳で、11月18日には会社専属の女性ドライバーであり、テニス友達が68歳で)。

妻の親友が医者から知らされていた余命が後3ヶ月位の時、一昨年9月30日に放映された『生活ほっとモーニング』を放送の前日に下記のメールで知らせました。

明日、NHKの8:30からの番組(生活ホットモーニング)で、『がんとともに生きる』と言うテーマで放送されます。もし、その気になれば見て下さい。

それに対しまして、彼女から下記のメールがございました。

明日のNHKの番組、必ず見ます!何らかの情報を得られる可能性がありますから。昨日は恭子ちゃんから暖かい言葉を、今日はご主人から情報をいただき、本当に有り難く感謝しています。他のことに関しては後日改めてメールします。もうすぐ主人が帰宅するので。それではまた!

註)恭子とは、私の妻の名前です。

彼女は、番組で紹介している患者さん同士が触れ合う会などには参加することもなく、癌と死を見つめながら独りで闘い、亡くなってしまいました。彼女が生前に語った『誰でもがおばぁちゃんになれるわけではないのね』と云う言葉と『私が死んだら空にいるから、空に向ってしゃべってね』という言葉が私達夫婦には印象深く胸に残っております。

亡くなる1ヶ月半前に、お見舞いに行きましたが、会う気力が無いと言うことで、会われずじまいでしたが、衰弱した姿を私達の心の映像に残したくなかったのかも知れません。翌日、次のメールが届きました。

わざわざ仕事まで休んで、会いに来てくれたのに、なんと不義理な礼儀しらずの、情のない友達でしょう。大馬鹿者の友達が居たと笑ってやってください。帰阪してから、体調も痛みも酷くなり、睡眠もあまりとれません。夕べも3時間寝ていません。弁解してるわけではありません。水俣に帰るどころか、いつどうなるか今のところ全くわかりません。先日のメールはさよならを言っておかないとと思ってだしました。悲しいし寂しいけど現実です。ごめんね。診察に行く時は、幸ちゃんに着替えを手伝ってもらっています。

そして、彼女からの最後のメールは、亡くなられる1ヶ月前でした。

お久しぶり!明日か明後日、退院の予定です。なかなか痛みの緩和が出来なくて、薬の量も増えました(>_<) 恭子ちゃん、ありがとう!でもまず自分のことを考えてね。それがイチバンだよ。このところ寒さが戻ってきたから気をつけてね!

彼女とは、1,年近くメールのやり取りで何とか心の支えになろうと致しましたが、結局は何の力にもなれなかったことに私達夫婦は無力さを感じずにはいられませんでしたが、癌患者の殆どが彼女と同じように孤独の闘いをしておられるのだろうと思い、自分に出来ることはないかと、昨日のNHK『生活ほっとモーニング』番組を見ながら、その思いを強く致しました。

しかしながら、考えて見ますと私も既に癌に冒されているかも知れません、そして癌に冒されていなくとも、死を宣告されている身は癌患者の方々と何も変るところがありません。ただ、癌の告知を受けていないだけで、当分は死なないと勝手に思い込んでいるだけであります。

癌患者の方から見れば、決定的に幸せに見えるであろう私達ですが、本当に幸せな身分でしょうか。私はむしろ、死を目の前にして、死を常に見つめながら、貴重な一日一日の生を自覚しながら生きている方々の方が本当は、真実に生きていると言えるのではないかと思います。緊張感の無い生を何日、何年生きても、それは真実に生きているとは言えないと思うのです。

私は今、癌患者の方々のように死と向き合ってはいませんが(本当は死と隣り合わせですが・・・)、死に直結しかねない生活破綻を目の前にしながら緊張した日々を送っております。映画化されて有名になった沈みつつあるタイタニック号に乗っている気分の様であります。55歳までの人生では経験したことのなかった緊張感と言いますか、恐怖感とも言える気持を抱きながらの毎日が続いておりますが、不思議なことに、一方では「本当に生きているのだ」と感じる時があります。

この人生を生きている限り、何も悩みの無い人はいないでありましょうが、生命存続の危機に直結する苦難に遭遇して始めて、人間は生と死を真剣に考えるようになるのだと思います。決定的な苦難は誰しも望みませんが、残念ながら、そう言う決定的苦難に遇わなければ、私達はこの世に生を受けた意味に目覚め得ないのだと思います。

NHK番組で癌患者さん同士の深い心の交流が紹介されていましたが、その心と心が全面的に触れ合う交流は、人としての生を受けた本当の意味に出遭っておられるようにお見受けしました。私にも定期的に慰問に来て下さる方々がいらっしゃいますが、この苦難の中で出遇う温かい人の心こそが、この世に生を受けた意味を感じさせてくれるように思います。

昨年11月18日に亡くなられた方は、近所に住む裕福な奥様でありましたが、学校解放のテニスサークルで知り合い、車好きの方でありまして、私の明石の工場から大阪の客先へ納品する定期便の運転手を引き受けてくれ、約10年助けて頂きました。そして、料理も得意にされており、おせち料理を5年位お願いしたこともございました。毎年の年末近くには立派な菊の鉢を届けて下さり、バレンタインデーには、いつも手作りのチョコレート菓子を届けて頂きましたが、今年はもう・・・・・・。

彼女は2年前には癌告知を受けておられたようですが、私達には一切語られることなく旅立たれました。とても元気な方であり、病気とは無縁のような活動家でしたので、しばらくお会いしなくとも元気でまた走り回られていると思って、結局は5月頃に一度来られたのが最後となり、3ヶ月の入院後に亡くなられたのですが、私達は入院されている事すら知らないまま、突然の悲報に接したと言う経緯がございます。お見舞いにすら行けなかったことが悔まれますが、元気なお姿しか目に浮かばない彼女らしい選択をされたのかも知れません。


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