No.240  2002.12.16

法句経(ほっくぎょう)に聞く―12―

●今日の法句経:『水鳥は池をすて去る』

●まえがき:
法句経は、私達に理想の精神世界を示していると思います。凡人にはなかなか実行し難い事ではあります。お釈迦様は、動植物の有り様を観察されて、其処に聖者のあるべき姿をお示しになっているのだと思われますと共に、私達凡人に対しまして、苦から解放され、本当の幸せを掴むには、こう言う心にならねばならないと説かれ、間接的に、苦悩の根源を示唆されているのだと思います。

法句経に説かれているのは理想であって、私達の現実を救うものにはならないと言う意見もあるかと思いますが、詠に託されたお釈迦様の深い心を汲み取りたいと思います。

●法句経91:水鳥は池をすて去る

心さときひとらは
家におぼるるなく
立ち去りゆく。
水鳥の池をすてさるごと、
この家をすて
かの家をすつ。

●友松円諦師の註釈:
反省深い人は勤しみ励んで、決して自らの住宅について心を煩わすことが無い。丁度、あの水鳥が池を捨て去るように、彼らは、おのおの自らの家を捨て去る。

●私の意訳:
真理に目覚めた人は、自分が住む家から立ち去るべき時が来れば、執着することなく立ち去る。それは丁度、水鳥達が魚を求めて淡々と、池から池へと渡り飛ぶ如く、昨日の家を捨て、今日の家を捨てて旅するのである。

●あとがき:
苦の根源は、執着心にあります。お釈迦様が家に対する執着心を例に挙げられているのは、さすがと思いますと共に、2500年前から、人間と言うものは変わらないのだと思いました。

私も、社会に出ましてから、熊本県水俣市(1年半)、東京都世田谷区(1年)、神戸市垂水区五色山(実家、半年)、大阪府池田市石橋(新婚、1年半)、神戸市垂水区狩口台(長男誕生、半年)、神戸市垂水区五色山(実家、1年半)、大阪府泉南市(長女誕生、1年)、西宮市門徒厄神(2年半)、神戸市須磨区(11年)、神戸市西区竹の台(11年)、神戸市西区井吹台西町(現在、3年)と、11ヶ所に移り住みました。

やはり、住めば都と言いますように、今思えば不便なところでも、その時は、大層気に入って、ずっと其処に住んでも良いと言う気持ちを抱いたものでした。

私以上に妻は住んだ町に愛着を持っていたように思います。常に立ち去り難しと言う気持ちを抱いていました。そして、移り住めば、移り住んだ家に愛着が移っていると言う感じがします。これが普通の感情だと思いますし、太古から殆どすべての人間が抱いて来た感情ではないかと思います。

私は、お釈迦様がこの愛着する心を全面否定はされていないと思います。この詠の表現に『おぼるるなく』とあります。お釈迦様は、多分、『愛着は自然の感情であるけれど、それに溺れると、それは執着になる。執着は苦の源である』と言う事をおっしゃりたいのだと思います。言い換えますと、愛着は誰にもあるけれども、愛着している自分を客観的に見詰められれば、執着には至らないのだと思います。

例えば、親は子供には愛着があります。生まれてから、色々な場面があり、苦労して育て上げた子供です。何回か病院に駈け込み、心配で心配で、徹夜で看病もしました。お金も相当掛けました。だから愛着はあります。

しかし、だから自分の思い通りにしたいと言う事になりますと、これは子供への執着になります。そして、お互いを不幸に致します。愛する息子にお嫁さんが来ても、未だ自分が思う通りにしたいと言う想いがありますと、それは、息子を不幸にし、延いては自分を不幸に致します。リレーと同様、綺麗にバトン(息子)を次の走者(お嫁さん)に渡さなければ、バトン(息子)は新しいスタートが出来ません。

私達はなかなか水鳥のように淡々と池を捨て去ることは出来ませんが、せめて愛着が執着にならないように、状況変化によって離れるべき時、離すべき時が来れば、縁に従うと言う気持ちを持てれば苦しみも多少は軽減されるのではないかと思います。


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No.239  2002.12.12

キリスト教と仏教(親鸞聖人の教え)の違い

私は、キリスト教も仏教と同様、人々を精神的に救済する宗教だと思っています。キリスト教の宗派と自認する中にも、仏教の宗派と自認する教団の中にも、邪教と言うべきものがありますが、それらを除外した上で、どちらが優劣とは言えないと思っています。

人、夫々に生まれ育った環境と持って生まれた機(き、性格・人格・性分の事)に応じて、宗教との相性があると思われます。仏教では救われなかったけれども、キリスト教で救われたと言う方もおられるでしょうし、その逆の方もおられます。どちらが正しいと言う訳ではないと、私は思っています。私は、小学校の頃、キリスト教の日曜学校に通いましたし、テレビでキリスト教の番組を見たりする位ですが、私自身はキリスト教では救われない、やはりお釈迦様、親鸞聖人の教えでなければ救われないと思っています。

キリスト教と親鸞聖人の浄土真宗は似通っていると言われる方がいますが、それは多分、懺悔(ざんげ)の部分だけを取り出しての事だと思います。

しかし、私の知る限りでは、キリスト教と浄土真宗の教えは大きく異なります。キリスト教を深く研究していませんので、断言してはいけないと思いますが、むしろ全く異なる宗教だと言っても過言ではないと思います。

キリスト教の神も、仏教の仏も、大宇宙を動かし、私達の地球上で起る様々な自然現象、或いは生物の誕生、死滅、進化などに寄与する働きとか真理や法則を擬人化して表現したものだと思いますが、キリスト教では、神は拝むもので、信者が神になる事は有り得ませんが、仏教は、成仏(じょうぶつ)と言う如く、信者を仏にする(悟りを開く、宇宙の真理を体得する、宇宙と私が一体と言う心境になる)事を目的としています。

また、キリスト教は、人間としては生来(しょうらい)綺麗な心根の持ち主の人が救われる教えでは無いかと思われる一方、親鸞聖人のお教えは、キリスト教では安心(あんじん)が得られなかった人々、表現が極端になりますが、キリスト教では救われない人々こそが救われる(仏にする)教えだと思います。

キリスト教の懺悔は、神様の前で、これまで犯した罪を包み隠すことなく告白すれば、その敬虔さに対して、許しが得られると言うものではないでしょうか。罪と言いましても、犯罪だけではなく、行為を伴なわなくても人を傷付ける心を抱いた事も罪だと思います。それらすべてを告白すれば、神様からお許しが得られ、罪が消えると言うものだと理解しています。

そして、行いを清く、言葉も美しく、心の中で思う事も清らかにして、隣人を愛し、ボランティアを積極的に行うと言う指導は、素晴らしいと思います。そして、その教えに従える人々もまた、素晴らしいと思います。

しかし、人間には、素質があり、そう簡単に懺悔出来ない人もいると思います、美しい心で隣の人に接することが出来ない人もいると思います。斯く(かく)言う私がそうです。また私は心の底から懺悔出来ないと思います。形だけ(行為と言葉)では出来ますが、心の中では懺悔の量と同じ量の言い訳を準備しています。すべて私が悪いのではないと……。

神様の前で、過去に犯した罪な行為や発言や考えを懺悔は出来ると思いますが、私の心の中にある傲慢(ごうまん)、怠惰(たいだ)、我執(がしゅう)、名誉心、怒り、妬み心(ねたみごころ)は、神様の前でいくら懺悔しても、消える事が無いと思います。従って、私はキリスト教失格者だと思います。親鸞聖人は、この失格者を悪人と呼び、地獄行きが確定していると、ご自分を慙愧(ざんき、恥ずかしいと言う想い)されました。しかし、こう言う悪人こそ、阿弥陀仏が救おうとされる正客(しょうきゃく、お目当て)だと言われました。

キリスト教で救われるのは、善人の方々です。神様の前で懺悔出来ない私は、やはり親鸞聖人の教えによってしか救われない、お釈迦様の教えによってしか救われない人間だと思います。

親鸞聖人は、人間が表面的に示す行為、言葉、考え方の一つ一つを正しくして行くには限界があると悟られ、行為、言葉、考え方の根っ子にある、『心根(こころね)』を問題とされ、自己の心根の根源を追求されたものと思います。

しかし、隣人を愛せよと指導されても、自分を傷付けるような隣人まで愛する事が出来ない私の様な人格は、自己の心の中を追求すればする程、自己の心根のお粗末さがはっきりするしかないと思います。これでは地獄に行くしかないと言うところまで落ち込むに違いありません。

そう言う私は、時間はかかりますが、お釈迦様の教えでしか、親鸞聖人の教えでしか、救われないと思います。

京都で布教していた親鸞聖人は、84歳で、関東に派遣した自分の長男である善鸞(ぜんらん)を勘当(かんどう、親子の縁を切る事)致しました。関東の信者達の間で発生した教義の乱れを直すために派遣した善鸞が関東の祈祷教団と組んで、更に混乱・動揺を与えたからです。推測しますに、親鸞の長男と言う知名度を祈祷教団側が利用して信者を増やし、善鸞には経済的優遇、地位的優遇をして、取り込んだものと思います。

『自分の息子すら正しく導くことが出来ないのに、何が念佛か……』と言う批判も受けたでしょうし、親鸞のもとを去って行った信者もいたでしょう。親鸞聖人は、相当な悲しい想い、口惜しい想い、恥ずかしい想いをしたと想像出来ます。世間にあわせる顔も無かったと思います。しかし、結局は、だからこそ親鸞は阿弥陀仏の本願に救われるのだと言う確信を得られ、85歳で次の詩を詠まれたのだと思います。

弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり

『信ずべし』と言うのは、他人に言っているのではなく、自らに言い聞かせ、確認・確信した言葉だと思います。

親鸞聖人は、自分は地獄行きしか無い大悪人だと自覚されましたが、それと同時に、その自覚に至ったのは、まさに阿弥陀仏の働き(本願力)によるものだと確信されたのだと思います。悪人の自覚が即ちそのまま救いとなると言う転換は、浄土真宗では色々と理論がありますが、言葉では説明し尽くされない、体験の世界だと思います。

最後に『救われる』と言う事についての私見を申し上げておきます。飽くまでも私の現時点での理解です。

救われると言う事は、何時死んでも良いと言う気持ちになる事ではないと思います。ある意味では、生も死も区別が無くなると言いますか、生も死も問題にならなくなり、生かされて生きている今を悦び、少しでも世間の役に立ちたい、少しでも恩返ししたいと、一所懸命に生きる毎日を過ごすようになる事だと思います。

親鸞聖人は、その報恩感謝と悦びの気持ちを『南無阿弥陀仏』と申されたのだと思います。 そして、更に、『南無阿弥陀仏』と称えられる自分が今ここにあるのは、お釈迦様はじめ、中国の浄土系の高僧方、そして直接の師匠である法然上人に出遇えたお陰であり、また、恐らくは、ご自分が比叡山で出遭った人々、更には自分に迫害を与えた人々も含めて、すべては自分が念佛に出遇うための働きであったと、『弥陀の五劫(ごこう)思惟(しゆい)の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり』(すべての事は、この親鸞が救われるための大宇宙の働きかけだったんだなぁー)と身も心も震えるような感動に浸られたのだと思います。

私にも、親鸞聖人と同じ感動に浸る日が来る事を念じています。


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No.238  2002.12.09

法句経(ほっくぎょう)に聞く ―11―

●今日の法句経:『我に子等あり、我に財あり』

●まえがき:
私が生まれた昭和20年は敗戦の年でありますが、日本はそれから驚異的な復興を果たして、平成3年までの半世紀近く、経済は右肩上りの成長を続けました。物価も上がり続けた代わりに、所得も上がり、資産価値も上昇し続けました。

この法句経コラムの参考書としている『法句経講義』と言う本は、昭和9年に出版された本ですが、巻末に表示されている価格は1円50銭です。今新しく出版されている本の価格が1500円ですから、70年で1000倍の物価上昇と言う事になります。

そう言う右肩上がりの時代に生まれ育った私には、いつしか資産(不動産)が身を守ってくれる確かなものと言う潜在意識があると思います。この潜在意識は、今の政治家達も同様に持ち合わせているはずだと思います。従って、やがては右肩上がりの時代に戻ると言う根拠の無い期待があるため、具体的な施策が講じられない故になかなかこのデフレスパイラルからの脱出が果たせないのだと思います。

3年前、不動産屋が5000万円ならば即買手が付くと言っていた私の持家は、今3500万円程度に下がっています。1年で500万円ずつ資産価値が下がっています。また息子が7年前に2300万円で購入したマンションは、800万円台に下がっています。財産形成にと思って買った家は、売るに売れず、増え続ける負債になっている訳です。

皆が頼りにしていた土地が寄辺(よるべ、頼りとするもの)では無くなってしまい、お金を天下の廻りものにする役割を持つべき銀行には不良債権と言う負の財産が増え続け、今日の日本の病となった訳です。寄辺を失いますと、人間は不安になります。動揺致します。精神がまともではなくなります。そして行動もおかしくなります。

今回の法句経は、そう言う私達日本人に、間違った寄辺(よるべ)を持つと不安な人生を送る事になるのだよと説いています。もともと寄辺としてはいけないのが財産ではないかと、既に2500年も前にお釈迦様が説かれている訳です。

また、最近ではさすがに子供を老後の当てにする人は少なくなっているとは思いますが、いずれは子供が面倒を見てくれるだろうと、子供を寄辺として子供に教育を付け、習い事をさせ、愛情とお金を注いで来た人もいる事でしょう。そして、子供は成人になり、社会人となり、やがて夫々に配偶者を得て、親から離れていきます。『子供なんて当てにはならないものだった』と嘆かねばなりません。

もともと子供は天からの授かりもので、決して私物ではないのに、私(し)しようとして、苦悩のもととなってしまいます。子供は勿論、自分さえも自分のものではないと言う考え方は、一般的には理解し難いと思いますが、この世に生命を受けたのも、自分の意志ではありませんし、死も自分が決められるものではありません(自殺も周りの状況によって死を選ばされているのだと考えます)。自分の考えと思っている見解も思想も、実は他から学んだ事であり、自分のものではありません。借ものと言って良いでしょう。色々な知識も技能も技術も、すべては縁によって他から得たものであります。

であるのに、私達は、これも自分のもの、これは自分が築き上げたものと勘違いして、失ってしまう事態に遭遇すると苦悩致します。それは愚かな事だとお釈迦様は説かれています。

●法句経62:我に子等あり、我に財あり

「われに子等あり
われに財あり」と
おろかなる者は
こころなやむ
されど、われはすでに、
われのものに非ず。
何ぞ子等あらん
何ぞ財あらん

●友松円諦師の註釈:
「わたしには子供がある。私には財産がある」
愚かなものはこう言って自らを苦しめている。しかし、そう言う自分が、
まこと自分のものではない。
どうして、子供達があろう。どうして財産があろう。

●私の意訳:
真理に目覚めない愚かなる者は、『私には子供と言う寄辺(よるべ)がある、私には財産と言う寄辺(よるべ)がある』と言いながら、結局それらが寄辺にはならない事態に遭遇し、苦悩の人生を送る事になる。しかし、よくよく考えて見れば、自分自身さえも自分の思うようにはならないではないか!明日自分の肉体が消えるかも知れない、そして自分の心だって、思うようにならないではないか!なのに、どうして子供や財産が何時までもあるといえるのだろうか。どうして自分の寄辺となると思えるのだろう。

●あとがき:
お釈迦様はこの法句経で、子供、財産を譬えとしてあげておられるだけで、世の中のすべてのものは当てにはならないものだとおっしゃりたいのだと思います。自分さえ当てにならないと。

この考え方は、仏教の無常感(観)と縁起思想と言われるもとになっていると思いますが、しかし、仏教の考え方と言う事ではなく、これは真理そのものだと思います。永遠に存在するものは無い、すべては変化して行くものだ、そして物事は、縁によってたまたま現出していると言う見解が真理である事を否定する人はいないと思います。

この無常とか縁起と言う考え方を示すだけで終わると仏法ではなくなります。単なる厭世(えんせい)思想になり、『すべては移り変わって行くのだから、いくら頑張っても仕方がない、自分の力が及ばない縁によって決るもので、努力のし甲斐が無い、世の中はつまらないものだ』と、怠惰な人生を送ったり、或いは逆に、それなら生きているうちに好きな事をして楽しく生きようと享楽的な人生を送ることになるのだと思います。

思いますと言うよりも、私自身がそう言う人生に傾きがちです。

この法句経の結論は、前々回のコラムで紹介した法句経『己(おのれ)を措(お)きて誰に寄るべぞ』に示されていると思います。

お釈迦様は、世の中のものはすべて移り変わり、永遠なるものは何もないけれど、能く整えた自分、言い換えれば真理に目覚めた自己、即ち真理だけは永遠に変わることがないから、その真理を拠り所にして生きて行きなさいと遺言されました。

では、その真理とは一体何ですか?一言で教えて下さいと、私もこれまで、性急に答えを求めて来ました。しかし最近、それは頭の中で求める真理であり仏法ではないと思うようになって来ました。

この法句経の数かず詠のすべてが真理であります。この法句経のサンスクリットの題名『ダンマパダ』は、まさに『真理の言葉』と言う意味ですから、法句経すべてが真理を語っている訳です。

しかし、いくら言葉を聞きましても、いくら本を読みましても、『そうか、なるほど、これが真理、これが真実だったのか』と膝を叩いて納得するには至らないと思います。やはり自らが生きる人生において遭遇する苦難と言う体験を通して、自らが感得したものが真理だと思います。勿論、その為には仏法を聞き、真理の言葉を知らなければ、感得出来るはずがありません。

この事を喩えで説明される場合、砂糖の甘さをいくら説明を受けても本当のところは、自分で舐めて見なければ、砂糖の本当の甘さは分らないと言います。また、水泳に喩えて、いくら泳ぎ方の説明を聞いても、実際に自分が水の中で浮くことを覚え、泳いでみないと泳げないとも言ったりします。

最近、真理とはそう言うものなのだろうと思うようになりました。


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No.237  2002.12.05

無眼人(むげんにん)なり、無耳人(むににん)なり

民主党の鳩山代表が辞任を表明しました。自由党小沢党首との唐突な会談、新党構想、新聞の報道ではありませんが、独り芝居と言う感じは否めません。ある評論家は、鳩山さんの事を『政治家になってはいけない人が政治家になり、代表になってはいけない人が代表になった』と言っていました。

私は、鳩山さんの人となりを知りませんが、発言を聞いている限りは、国民の声が聞こえていないし、私達の生活の苦しさの現状が見えていないように、感じていました。しかし、これは、何も鳩山さんに限らず、民主党のリーダークラスの殆どに言える事であるように思いますし、代表が代わっても、民主党が変身する事を期待出来ないだろうと残念に思います。

国民の声が聞こえていないのは、小泉首相にも当て嵌まると思います。デフレが進行し、不良債権額が増えているのも、1年半も経過すれば、国のリーダーである小泉首相の責任だと考えざるを得ません。

前にもコラムで紹介致しましたが、小泉首相に思い出して欲しい仁徳天皇の感動的な逸話があります。仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)されました。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍ばれたと言いいます。

仁徳天皇は、民の声を聞く耳を持たれ、民の生活を見る眼を持たれていたのだと思います。

世間の声に耳を傾ける、世間の真実を見極めると言う事が国家のリーダー、政治家の責務ではありますが、どうも今の政治家は永田町の中だけの声を聞いたり、見たりして政治が行われているように思います。無眼人・無耳人の集まりになっているのではないかと危惧しています。

私の母は、16年前、満80歳で亡くなりましたが、晩年に『無眼人なり、無耳人なり……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……』と独り言を言っているのを能く(よく)耳に致しました。 無眼人、無耳人と言う言葉は、親鸞聖人が詠まれた浄土和讃の中の一首にある言葉であります。  

(現代語訳)

母が、この和讃を知っていた事は間違いがありませんが、母が独り言を言っていた、その心は、親鸞聖人の言われた仏法上の意味(上記の現代語訳参照)に加えて、世間の生活における真実を見る目を持たない自分、真実を聞き分ける耳を持たない自分への自戒と、そう言う自分を照らし出して頂き、気付かせて貰った仏法との出遭いへの感謝のお念佛だったと、今の私には思われます。

私は政治家を批判は致しましたが、今の私にも、氷山の一角しか見えません、更にその氷山の一角でさえ正しく見えていません、真実を見通す眼を持ち合わせていないと思っています。他人様からの愛情溢れる忠告も、馬耳東風(ばじとうふう)、馬の耳に念佛と言う具合に、聞き流しているように思います。
この事は若い時からそうだったに違いありません。『無眼人、無耳人』と聞いても、説明を受けても分らなかったと思います。根拠も無く、何故か自分の頭、眼、耳に自信満々だったからです。

もし私が真っ白な心で事実を見詰めて来たならば、見誤りは無かったはずですが、先入観を持って見る故に、人・物・情報のすべてに関しまして、何回も見誤りをして来ましたし、今も多くの見誤りをしているに違いありません。

書物を読んでも、仏法の話を聞いても、何処までその真意を聞き届けて来たものか、実に心細い限りです。その証拠に、同じ書物を何度読みましても、初めて読むような感じが致します。法話に致しましても、何回聞いても、こんな話されていたのかと言う事が度々です。

年老いたからかも知れませんが、最近は、母の無眼人なり、無耳人なりと言う言葉を思い出す事、度々であります。

しかし、こうして自分の眼と耳のお粗末さに気付き始めた事は、多少とも母や親鸞聖人が気付かれて嘆かれた不真実の自己に、多少とも気付かされ始めたのかも知れません。

ただ、親鸞聖人は、本当にご自分の事を、無眼人・無耳人と自覚されたのですが、今の私は未だ未だ、自分の知識・知力に多少とも自信を持っています。自分を捨て切れないでいますから、親鸞聖人のご信心や母の信心からは、近いようで、かなりかなり遠い自分の信心だと思います。

現在の日本のリーダーも、無眼人・無耳人である事を自覚して、積極的に国民の中に分け入って、声を聞き、生活の実態を知った上で、政策を決定して欲しいものです。


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No.236  2002.12.02

法句経(ほっくぎょう)に聞く ―10―

●今日の法句経:『太陽は昼に輝き月は夜に照る』

●まえがき:
今年も、いよいよ師走(しわす)に入りました。何となく慌ただしい気分になるものですが、クリスマス、正月を迎える子供の時の楽しい想い出が私達の頭に刻み込まれている所為でしょうか、大人になっても、慌ただしい心の中にも、多少はウキウキとした気分もあるように思います。

しかし、今年の私の場合は、昨年と今年の師走の状況が公私共に一変しており、とてもウキウキした気持ちが入り込む隙間がありません。

10年前に創業した工場(700u)を引き払い、50uの間借り工場に移り、社員7名、パート17名を全員解雇し、息子と二人だけの会社になりました。売上高も十分の一以下に激減し、従って私の給与も十分の一となり、妻も結婚以来初めてのパート勤務に出ています。この1年の間に、妻の父親も亡くなり、愛犬(リトル、シェパード14歳)も亡くなりました。家屋も売却中であります。

人生で、こんな大きな変化した1年は無かったのでは無いかと思いますが、恐らくは、皆さんの身の上にも、良きにつけ悪しきにつけ、それぞれに大きな変化があったのではないでしょうか。私の場合はたまたま極めて悪い状況への変化であるために、大きく感じるだけではないかと思っています。

悪い状況変化の中で、補って余りある良い事もありました。人間関係です。知人・友人の本当の人間性に触れた事です。多くの人々の優しさに出遭った事です。これらの方々との交友関係は、世の中の状況が変わっても決して失う事の無い、これが本当の不動産だと思いました。

人に対して愛情を注ぐ、人が苦境にある時には何とか励ましたいと言う心持ちは、仏様の心持ちです。そう言う心は文明の発達と共に喪失されて来ているように思います。自分は自分の事だけをやれば良い、他人のことや、社会とか、ましてや国の事は、その道の人に任せれば良い、私は私の領分で他人に迷惑をかけずに生きていけば良いと言う風潮が大勢を占めているように思います。

私は、この度、知人・友人の優しい心に接しまして、この現代社会が失っているものを、教えられた想いが致しました。

今日の法句経は、少し難解ではないかと思いますが、私が知人・友人から教えられた現代社会が失っている、自分以外のものに対する関心、全体に対する関心の大切さを説かれたものであると味わう事が出来ました。

●法句経387:太陽は昼に輝き月は夜に照る

太陽は昼に輝き
月は夜に照る
武人(もののふ)は武具
いかめしくかがやき
祭の司(おさ)は
心静かに光る、
されど、さとれる者は
ひねもす、よもすがら
威光もて
すべてに輝きわたる

●友松円諦師の註釈:
太陽は昼に輝き、月は夜に照る。甲冑いかめしき武士はかがやき、心静められたる娑羅門は光る。されど、仏陀は、昼となく、夜となく、たえまもなく威光をもてかがやく。

●私の意訳:
太陽は昼に輝き、一方、月は夜照らし、それぞれの役割分担があります。武士は鎧甲(よろいかぶと)を身につけて勇猛らしく振る舞い、修行僧は、心静かな風情(ふぜい)をたたえて民衆に語りかけ、太陽と月の如く、それぞれの役割に応じて、務めを果たします。しかし、悟れるもの(仏陀)は、昼夜に関係なく、また、役割云々ではなく、絶え間なく、あらゆる人々の灯火となり、照らし続けます。

●あとがき:
世の中は、色々な仕事、役割の人々の存在によって成立しています。これはお釈迦様の生きておられた、約2500年前もそうだったのでしょう。他国との闘いに備える軍人もいれば、祭りを司るお坊さんもおり、農作物を作る農民もいた事でしょう。国を治める役人も……。

それぞれが役割を果たす事で世間が成立し、私達も自ら畑を耕さずとも、ご飯を戴けます。朝早く漁に出掛けなくとも、魚が食卓に並びます。自らの手で牛や豚を殺さなくとも、牛肉・豚肉を口にする事が出来ます。蛇口をひねれば水が、スイッチを入れれば電灯が点きます、 テレビが見れます。新聞も届きます。病気になれば、専門のお医者さんがおられます。子供の教育も、保育園から大学まで、専門の教育者が揃っています。

そうして、分業化、専門化する事によって、科学も文化も進歩し、私達は文明進化の恩恵を享受している事は間違いありません。分業化・専門化と言う言葉で思い浮かぶ事でありますが、医療の分業化・専門化です。最近のお医者様は、病んだ患部を診て、患者を診ていないと言われます。そう言う反省から医療現場の意識改革に取り組んでおられる尊い先生方もおられますが、医療にかぎりませず、私達人間は、まさに『木を見て森を見ず』と言う近視眼的な事に陥り勝ちであります。

お釈迦様は、分業化によって、個人も熟練もし、技術・技能も向上して、結構な事ではあるけれど、それだけで良しとは言えないのではないかと、考えられたのだと思います。ご自分も托鉢して、昼からは人々に仏法を説き歩くと言う生活をされ、果たしてこれだけで良いだろうかと、自省され、お弟子さん達に、この詠を披露されたのではないかと想像致します。

悟れるものは、自分だけが悟り、清貧な生活をし、世の中の平穏・平和を祈念すれば済むと言うものではなく、世の中一切の衆生の苦悩に耳を傾け、目で見て、少しでも、その苦悩を和らげる事に自分の肉体を賭(と)して必死になるものでなければならないと、諭されたのだと思います。

近年、核家族化した上に、携帯電話の普及で、家族の絆(きずな)さえも、断ち切られると言う傾向にあるように見受けます。個人と国家の関係ともなりますと、もっと冷たい関係になってしまっています。これは、戦後アメリカの個人主義が入ってきたためと考えられている向きもありますが、どうもそれは違うようです。

友松円諦師は、『法句経講義』の中で『全体と個』と言う観点から捉えられておられます。その解説は、昭和9年に著わされたものですが、もうその頃には、文明の進歩と弊害、人間の堕落振りを嘆かれております。その内容は、現代に通じるものがあり、結局は、何時の世も、昔と比べれば、人間性が喪失されているのかと思う次第です。その文章の一部抜粋して下記したいと思います。

少々長いものですので、お時間のある時にお読み頂きたいと思います。

●友松円諦師の解説文より抜粋:『全体と個』について

十人十色と言う事を世間で言いますが、本当にお互い人間は癖(くせ)と言いますか、流儀と申しますか、色々とその遣り口(やりくち)が人によって違うものです。中には非常にずぼらな、たっぷり(ゆったりと言う意味?)として、物に屈託しないような人もあるかと思えば、これまた万事にキチンとした、ちょっと少しネクタイが曲がっていても、自分のばかりでなく、他人のネクタイの曲がりをさえすぐに気にするような、神経質の人もありましょう。太陽は昼、月は夜と、キチンとしたことの好きな人は、あの有名なカントがそうだったように、家に帰るにしても、午後4時なら4時と、その通り毎日1分も違わないことに努めもするし、そんなことを重大な事件のように考える人がある。こんな人になるとどうも何事も他人に仕事を任せられない。手紙の上書きまでも、自分で書かねば安心出来ない。自分の事はちゃんと自分で始末をつける。他人に自分のことを手出しさせないのです。私の友人にもそんな部類の人がいますが、非常にこまめな、細心の注意を払っている人です。

従ってそういう人は、決して他人の縄張りの中に、手や口を出さない。自分の領分は自分の仕事だけを後生大事に守っている。昼は昼、夜は夜と言う局部的な関心の強い人です。そうした人から、私どもはこんな事を聞きます。『自分の頭の蝿さえ追えないのに、人の仕事に余計なお節介をして貰いますまい』こうした人々は、自分の方から人にも手を出しませぬが、自分の仕事にもあまり干渉されたがらない。

こうした自分は自分、他人は他人と、それぞれの天地、太陽は昼に輝き、月は夜に照る。武士ならば国防と言う問題、教育家や宗教家ならば自分自身の修養をするとか、文教の道に携わるとか、それぞれ与えられたる自分の役目、縄張りについては、もうしっかりと細心にやる。その代わり、人さんに小指一本もさされまいと言う気持ちでしっかりやる。

そう言う人と言うものは自分の仕事については申し分ありませんが、やはり人間は、いいところが、そのまま、いつでも悪いところになるものでして、こう言う部類の人々と言うものは、どうも、他人の仕事については非常に冷淡です。ちょうど何らかの具合で川向こうの町に停電がある。二階から、ずっと見渡す。隣の町は真っ暗、幸いに自分の町は明るい。そんな時に感ずる軽い同情と言いますか、淡い快感と言いますか、自分は自分、他人は他人と言う冷淡な心持ちです。

向う岸の火事、そんな時に平然として火事の美しさを誉める。此岸と向う岸と言うような冷淡な気質の人です。何もそうした、『自分は自分』と言うような、際立った性格の人に限らず、誰しも、自分の国とか、自分の県とか、自分の町とか、乃至自分の家とか、そう言う事に関心も強く、『自分の国の大火』とでも言えば、ありとあらゆる新聞を買い集めたい。よその市町村と言う事になると、それほどには考えない。

それは、咎(とが)めることの出来ない、普通万人の人情でありますが、万事に、『自分は自分』と言う性質を持った人はここで論理を立てるのです。
『先ずは自分が大事だ。自分と言うものを掘り下げずして、どうしてひとさまのことが、つべこべ言えるか、自分の家が充分整っていないで、どうして他人の家などをとやかく言えるか、自分の子供が立派に教育出来たら、それから先生になるがいい。自分の子供が不良少年なのに、どうして、ひとの子の先生となり得るか。自分の身を修めてしまったら、家を、家を治めてしまったら、それから世間、社会の方に手を出すがいい。自分が出来ないで、人様のことに口を出すなんと言う事は間違っている。自分の信じたことを人に言うがいい、自分に信仰がなかったり、あったにしても、その信仰がぐらついていて、どうして他人に信仰を語り得るか。自ら信じて、初めて然る後、おもむろに人を信仰に入れるがいい。自分が泳げてから、人にも泳がしめ、飛び込んで他人を救うがいい、自分が泳げないのに人を救うなんと言うことは出来ることじゃない』とか言うのです。

実に論理は整っています。なるほどそれに違いないのでありますが、こうした一つの態度、『自分は自分』と言う遣り口(やりくち)、先ずは自分を掘り下げて自分のことだけを懸命にやる、その代わり人のことをやらない、人のことは見向きもしない。馬車馬が目を覆って目隠しして歩いているような気持ち、三尺ばかり向こうだけしか見ていない、非常に関心の狭い生活の人があります。

現代の社会経済組織、とりわけ、分化、分業の組織は愈愈(いよいよ)こうした人物を作り出し、こうした人物の方が、使う者にとっては便利な存在とさえなって来ているのです。

ここが、私共現代人の悩みとなるところです。これは、会社員とか役人と言うものに限らず、すべてに亘った悩みです。『悩み』として一般に理解されていないほど、『深い悩み』です。 悩の深いうづきです。多くの科学者や、さては神学者に至るまで、この分業化、専門化のために、狭い関心を持つ馬車馬のような生活に陥り、且つは、そのことをいいことだとさえ考えている向きがあるのです。

一歩退いて、自分を掘り下げ、自分を省みると言うこの態度は確かに大切です。非常に反省的ないい態度です。自分に当て嵌めて考えてみますと、このような立派な法句経と言う一聖典を自分如きものが、果たして講義する資格があるか、講義するだけに、よく反省し、よく修養がゆき届いているか。その用意なくしてお話しすると言うことは自分に恥ずべきことではあるまいか。しかしこう突き詰めてものを考えたら、地上、誰人がこの法句の一経を講じ得るでしょうか。それはとにかく、そうした静かなる反省と言うことは如何なる場合に置いても、万人にとって大事です。またこうした自分の仕事、領分、縄張りの中だけに専心傾倒すると言う態度は効果的な、実際的なものだ。
それは太陽が昼輝き、月が夜に照るように、専門は専門です。皆手分けなんです。餅は餅屋です。どうしたって役人は急に餅屋になれないし、餅屋は教師にはなれない。なってなれなくとも、効果的ではありません。餅は餅屋でこそ、そこに甘味もあり、上手さもある。工夫もあり、研究もあり、技術の熟練もあり、発達もある。

もとより、こう言う態度にはよいこともありますが、しかしこう言う態度の人は、とかく利他的の気持が少ないことを覆い隠すために、『自分を先ず』と言う論理を使う場合があるものですが、若し万一、そうした人々が日本に沢山殖(ふ)えた時にそれは日本の不幸です。『自分以外』とか、『全体』とか言うことを忘れたら、どの民族でも亡びます。そうした利己心の上に出来ている社会は必ず堕落し、没落します。

『されど悟れる者はひねもす、よもすがら威光もてすべてに輝きわたる』前に述べましたような、局部、部分に生きている人々が、或いは昼に、或いは夜に、或いは、文教、政治、等の夫々の縄張りにおいて時を得顔に輝いています間に、悟れるものは全体の上に、一切の関心を持つのであります。

悟れる者とは言うまでもなく、『仏陀』のことです。ほとけの状態のことです。こうした仏陀の真理は、昼となく夜となく、輝き渡っているのです。全体の意味が本当に分ってきたのです。お釈迦様は確かに全体が分った人であります。日本でも、最澄、空海、法然、日蓮、親鸞、そうした人々は夫々味は違い、程度は同じでなくても、人生の意味が本当に分った方々です。『悟れる者』だと思います。

そうした人々は、『自分は自分』と言うような冷たい心持ちではいられなかったのです。昼も夜もない。悟った人にとっては太陽は昼だけ、月は夜だけと言うような、そんな冷たい気持ちではおれない。昼でも、夜でも、『自分以外』のことが心配になってくるのです。人知れず一切の上に心を痛めている、そう言ったものが悟れる者なのであります。悟れる者は、自分ばかりのことでなくて、一切の何事の上にも、不幸なる存在を目にして、耳にして、じっとしていおれない気持ちであります。他人の不幸を見逃し出来ぬ心持ちです。『これは自分の領土だ、他の領土には決して手を出さない』こう言う気持ちは悟れる者の気持ちではありません。これは冷たい利己的な人の考え方です。悟れる者、仏にとっては、自分の領土であるとか、自分の仲間であるとか、そうした自他の分別がしていられず、良いことにはどんな関係の人でも喜んで一緒にやろうと言う心持ちです。即ち己(おのれ)と言うものの上に、『全体』を見出した気持ち、人生の全体の中に己(おのれ)と言う存在を没入した気持ち、これこそが、悟れる者の態度でしょう。

昭和9年に書かれたものですが、そのまま現在に通じる文章ではないでしょうか?


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No.235  2002.11.28

インターネットのお陰です

最近、ホームページで見たと言って、我が社が開発した技術についての問い合わせが多くなりました。世間で言うところの一流企業の技術者から直接コンタクトがあります。Google等の検索サイトで、我が社のホームページを知り、アクセスされる訳です。

現在、その中の4社と開発に向けて折衝が始まっていますが、中には、大きな商いに発展しそうなものもあります。

昔ならば、弊社の様な零細企業は、とてもコンタクト出来そうに無い大企業の開発部隊の技術者と直接交渉出来るのですから、変われば変わったものです。

昔ならば、大企業は、仕入先の商社に対して、必要な情報の提供を求めたり、調査を依頼し、その商社経由での交渉になっていましたから、開発スピードも遅く、商社の実力によっては、我が社のような零細企業が保有している技術は発掘されない場合が多かった訳です。

そう言う意味では、中小零細企業に取りましては、真に有り難い時代になりました。これからますます仕事の進め方が変わって行くのだと思います。

また、この無相庵ホームページも、ヨーロッパとアメリカに読者(勿論、日本の方)があります。世界との繋がりを実感していますと共に、これから、どんな方々と出遭えるかが楽しみでもあります。

インターネットが我が社の将来を希望あるむものにしてくれるかもしれませんし、私の人生そのものを大きく変えてくれるかも知れません。既にこのコラムを続けさせて頂いているお陰で、新しい交友も出来、確実に人生は変わりつつあります。

インターネットに感謝したいと思います。


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No.234  2002.11.25

法句経(ほっくぎょう)に聞く―9―

●今日の法句経:『自己を措きて誰に寄るべぞ(おのれをおきてだれによるべぞ)』

●まえがき:
私達は常に寄辺【よるべ(生きて行く上で頼りとするもの)】を持っています。もし、寄辺(よるべ)が無い場合は非常に不安に駆(か)られます。ですから、常に確かな寄辺を求めます。

寄辺は、生き甲斐と一致する場合もありますが、生き甲斐と完全に一致するものではありません。いざと言う時に助けになるもの、いざと言う時に頼りたい人物・事物と言う風に考えます。

幼少の頃は、母親が絶対的な寄辺です。幼稚園から小学校1年生位までは、友達よりも母親です。私の娘が幼稚園児の頃、友達と遊んでいても、母親が買い物に出掛ける姿を見れば、遊びを止めて母親のところに走って来て買い物に付いて来たものだと聞いております。

それでも、小学1年生になりますと、『いってらっしゃーい』と、友達との遊びが優先されるようになり、買い物に付いて来る事もなくなり、私の妻は子供からの開放感を感じる一方、一抹の淋しさを感じたと述懐しています。

更に成長して小学校の高学年、中学校となりますと、私達の幼い頃は先生が寄辺になりましたが……今はどうなのでしょうか。友達か、それとも携帯電話が寄辺なのかも知れません。

そして、やがて寄辺は、恋人、配偶者、子供へと変化していくものでしょう。人によっては自分の技能や技術を生きる寄辺と答えるでしょう。或いは、財産とか地位・名誉にしか寄辺を感じられない人もいるでしょう。また、すべてに失望して信仰(神仏信仰)に寄辺を求める人もいるでしよう。

親、先生(お師匠さん)、夫、妻、子、財産、地位、名誉、親族、健康、信仰と、人は寄辺を作り、求めて人生を渡りますが、残念ながら、すべては永遠の寄辺にはなり得ません。何れも必ず失う時が来ます。

お釈迦様は、それを見越して、今日の法句経『自己を措きて誰に寄るべぞ(おのれをおきてだれによるべぞ)』を遺されたのだと思います。

この法句経は、小林寺拳法で、練習の前に唱和されているものでもありますので、元見習い少林寺拳士の私としては、印象深いものでありますと共に、この詠は、お釈迦様のご遺言とされている有名な『汝自らを灯火とし、法を灯火とせよ』(自灯明、法灯明)の源になるものだと思います。

仏教に関わっていない一般の方は、キリスト教が神を寄辺(頼り)にしているのと同様に、仏教は、仏様を寄辺として仏様に手を合わせて拝み、仏様を頼りにしていると考えておられると思いますが、この法句経でお釈迦様は、私達が自分自身以外の対象(実在、架空、擬人化に関わらず)に寄辺を求める事を否定されている事がお分り頂けると思います。

前述の『汝自らを灯火とし、法を灯火とせよ』(自灯明、法灯明)は、仏教徒ならば知らない人はいません。このお釈迦様の『自分以外の他を頼りとせずに、自分を頼りとしなさい』と言う教えは、仏教以外の宗教では有り得ない事でありますし、ここに仏教が他の宗教と次元を異にして、事実、真実、真理を大切にする教えであると納得出来る所以であります。

しかし、真に残念でならないのですが、お釈迦様の教えを源と主張する現存する宗教団体が、自分を灯火【ともしび、(寄るべ、頼りと言う意味)】にする事を説かずに、寄付の大小であるとか、お念佛を称えれば救われるとか、お題目(南無妙法蓮華経)を朝夕称えるとか、信者を増やせとか、お釈迦様の教えから程遠い行を信者に求めている現状は、真に残念なものがあります。これが仏教衰退の一因ではないかと私は考えています。

親鸞聖人を開祖と位置づけている現在の浄土真宗の教団(東西の本願寺)も自灯明・法灯明から程遠い説き方をしていると考えています。今の日本国で、お釈迦様のお教えに忠実な教団は見当たらないのではないかとさえ思います。いや、お釈迦のお教えだからと言う事ではなく、真実の教えである『汝自らを灯火とし、法を灯火とせよ』(自灯明、法灯明)に忠実な教団は、一体何処に行ってしまったのかと、心を痛めている次第です。

自分を頼りにせよと言いますと、『私は、自分の思うままに生きている、自分を信じて生きている』と言う人がいると思いますが、ただ、自分と言いましても、『能く整えた自己』と言う事であり、世間の誘惑にフラフラする自己でない事は確かであります。能く整えた自己とは何かを一口で説明する事は、難しいですが、あとがきで、若干言及したいと思います。

● 法句経160:自己を措きて誰に寄るべぞ(おれをおきてだれによるべぞ)

おのれこそ
おのれのよるべ
おのれを措きて(おきて)、
誰によるべぞ、
よくととのへし
おのれにこそ
まことえがたき
よるべをぞ獲ん(えん)。

●友松円諦師の註釈:
まことに自己こそ自己の救護者である。一体、誰が自己の外に救護者となりうるものがあろうか。よく制せられたる自己こそ、吾らは他には得がたき救護者を見出すことが出来る。

●私の意訳:
自分自身を頼りにせずして、一体誰を頼りにすると言うのであろうか。世間の悩み、苦を機縁として自己を問い直し、真理に目覚めてこそ、初めて自分の思うまま、自由自在に生きて行けるのです。

●あとがき:
親鸞聖人は、何を寄辺として生きられ、死んでいかれたでしょうか?私はすべての著述を読んで研究した訳ではありませんが、親鸞聖人のお考えを伝えた歎異鈔を読む限りは、『能く整えられたご自身』を寄辺とされたのでは無かったかと、改めて思う次第です。決して、阿弥陀様、仏様、お釈迦様、善導大師、法然聖人と言う固有名詞化される仏身であるとか、特定のお経を寄辺とされたのではないと思います。

『如来の前では師匠も弟子も無いから、親鸞は弟子一人も持たない』『念佛は無碍の一道【むげのいちどう(障害は何も無い道)】』『法然上人の信心と私の信心は、共に如来から賜った信心であるから全く同じものだ』『阿弥陀仏の誓願は、親鸞一人の為だった』何れも、自己を掘り下げて、体得された真理からのお言葉であり、揺るぎ無い自信・信心が感じられます。

如来とは、真如(しんにょ、真実の世界、宇宙の真理)から出て来た働きと言う事で、架空の擬人化された神のようなものではありません。

親鸞聖人は、自分そのものは『罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫、地獄行きが確定している凡夫、愛欲の広海に沈ずみ、名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷う凡夫』と自戒され、自信を持っておられませんが、自分が掴んだ真実・真理に関して、絶対的な自信を持っておられる事が強く感じられます。その上での、お念佛であり、お釈迦様、善導大師、聖徳太子、法然聖人と出遭えた感謝の『南無阿弥陀仏』であったと思います。

『能く整えた自己』と言う、能く整えると言う事はどう言う事かと質問されますと、答えに窮します。私自身が未だ整えられていないからですが、想像致しますに、決して山奥で苦行をしたり、座禅をしたりして身を清め、正しい生活態度、正しい見解、正しい言葉を使う人格を指差しているとは思えません。

教科書的に表現すれば、『真理を体得した自己』と言う事になりますでしょうか。少し長い表現になりますが『自分がこの世に生を受けた意味が分り、もう何時死んでも良いと言う心境になった自己』と表現出来るかもしれません。

神仏と言う擬人化された対象に頼っていましたら、不幸な目に遭えば、『神も仏もないのか!』と恨み言が出て、本当の寄辺ではなくなります。自分が体験し体得した真実・真理を『これが真理なんだ』と思えた自己こそが、本当の寄辺であると言う事です。

自己を寄辺とすると言う事は、他を軽んじると言うことではなく、自分の生命は、多くの人や大自然によって生かされていると言う真理に目覚めた自己こそ、本当に頼りになるのだよと言う、お釈迦様の教えであります。

最後に、誤解があってはいけませんので、申し添えたいと思います。
親鸞聖人は、他力即ち阿弥陀仏の誓願(本願)を寄辺とされているように誤解されますが、親鸞聖人は、他力を頼りなさい、他力を寄辺としようとおっしゃってはいないと思います。

歎異鈔第一条の冒頭に『弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなり、と信じて、念佛申さんと思い立つ心の起る時、即ち摂取不捨の利益に預けしめ賜うなり』とありますように、信じる事が大切です。これは他力を信じるのではなく、他力を信じて念佛を申さんと思い立った自分がいなければ、成立致しません。あくまでも、自分の意思が無くして信心はないと断言されているように思います。

単純に、『神を信じる者こそ救われる』と言うキリスト教とは少し趣きが異なります。


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No.233  2002.11.21

氷山の一角

『氷山の一角』は以前のコラムの中でも触れた言葉ですが、私には非常に印象深い言葉なのです。11年前に株式会社プリンス技研を設立した時のメンバー(私を含めて3名)の中の一人が、たった2ヶ月で突然退職すると言い出し、大変ショックを受けましたが、私が右腕と信頼していたもう一人の男に対する、私の評価が間違っていると言う間接的アドバイスとして遺してくれた言葉が『氷山の一角』だったからです。しかも、その彼が言い遺した『氷山の一角』と言う意味に気が付いたのは、3年経過して、私が漸く右腕と信頼していた男の本当の能力を知った時でした。

そして、ごく最近の事ですが、初対面で好印象を持ち、その後の付き合いを通して、人間としても信頼していた人物が、私の思っていた人間性とはかけ離れた人格であった事に遭遇し、改めて『氷山の一角』と言う言葉を噛み締めなければならなくなり、テーマとして選びました。

『氷山の一角』とは、海上に見える氷山は、氷山全体の七分の一で、全容の殆どが隠れているところから、私達の生活面で眼にする、或いは耳にする物事や現象は、真実の七分の一程度であり、実際はもっともっと大きい物事や現象が隠れているのだと言う事の比喩として用いられます。

『氷山の一角』は、あまり良い意味で使われませんが、私は、真理の言葉だと思いますので、悪い意味だけではなく、良い意味も含めて、人生を渡る上で、決して忘れてはならない言葉だと思って来ました。

私達は、どうしても、表面に見えた事だけを捉えて、物事を判断してしまいがちです。それは、対人関係に付いても、企業を評価する時にも、自然現象に付いても、研究に付きましても、事件や、人生の諸問題に付きましても、表面に現れた事にのみ拘って、真実を見誤る事があるのではないかと思います。

最も身近で分かり易いのは、恋愛・結婚だと思います。恋愛期間中は、大変楽しく、心ときめく時期ですが、それは、お互いに良い面(氷山の一角)を見せ合うからでしかありません。しかし、残念ながら、それは両者間に第三者が入り込まない時であり、二人で解決しなければならない問題が発生していない時に限定されると思います。恋愛は、氷山の一角しか見えていない時と言えます。

恋愛の当初は、相手の氷山の一角を見て、海中に沈んでいる氷山の大きな部分を、妄想で美化して想像・推定し、そして断定してしまいます。ここに、美しき誤解が生じるのだと思います。

氷山の一角をお互いに見て、美化して結婚に至る訳ですが、大体は、第三者である親族が介在する行事や、何かと接触が頻発する頃になりますと、海中に沈んで見えなかった氷山が見えて来るものです。『私が一番大事でなかったの?』と言う不信が生まれて来るのも、その頃です。

そして、成田離婚は極端に致しましても、お互いに充分な意思疎通をする事もなく、離婚に至る場合が多いと思います。これは、氷山の一角から全体を妄想してしまった不幸な結果だと思います。

私も、初対面のファーストインプレッション(第一印象)で、人を選別してしまう傾向にあります。無意識にではありますが、好ましい人と苦手な人、どちらでも無い人に瞬時に選別しているように思います。そして、好ましい人を何の疑いも無く信用してしまう傾向にあります。大体は、当って来たとは思いますが、『ええっ、こんな人だったのか!』と思う程に実に手痛い目に遭った事も冒頭の件以外にもありました。勿論、反対の意味で、『こんなに尊い人だったのか』と言う友人にも出遭っております。

従いまして、氷山の一角は悪い意味で使われる事が多いのですが、物事を表面に表れた現象だけで判断せず、もっと隠された真実の部分があるのだと言う忠告の言葉として受け取りたいと思う訳です。

個人の対人関係だけではなく、例えば今の小泉政権に付きましても、国民は、ハンセン氏病や、北朝鮮拉致問題として表面に現れた、小泉さんのパフォーマンスだけを評価して高支持率を与えているのではないかと思います。

小泉政権の政策が、心豊かな日本を目指しているかどうかと言う視点から冷静に評価しなければならないと思います。『官から民へ、民間が出来る事は民間に任せる』と言う事は、中央集権から規制緩和する現代的公正さがあるような気持ちにさせられますが、ある意味では、市場原理に任せる弱肉強食の国にしようとしているのではないかとも考えても良いと思います。
また小泉さんが進めようとする構造改革のテンポは、デフレを加速し、弱者の中小零細企業を倒産に追い込み、合併して巨大化した銀行や財閥企業を救済する施策ではないかと、疑う冷静さも必要ではないかと思います。

企業に対する評価に付きましても、『氷山の一角』と言う見方が必要です。私も、多くの企業と付き合って来ましたが、はじめの印象と随分変化した企業があります。対人関係も、人生を狂わせる事態を招く場合もあり、心しなければなりませんが、付き合う相手企業をファーストインプレッションだけで見誤りますと、場合によりましては、自分の会社の命取りになる事もあります。経営者の私自身、大いに反省すべき点であります。

また決して忘れてはならないのは、対人関係における『氷山の一角』は、相手から見た自分に対しても同様だと言う事です。親しくなりますと、おうおうにして、『自分の事はすべて分ってくれているはず』と言う思い込み(錯覚)をしてしまいます。お互いが『氷山の一角』しか見合っていないと考えて、やはり言葉を尽くしてコミュニケーシヨンを図る事が、対人関係で躓かない(つまずかない)智慧だと思います。

『分ってくれていると思ってたのに……』と言う愚痴は、コミュニケーション不足の言い訳でしかないと胆に銘じたいものです。

さて、世間から離れまして、仏法の受け取り方におきましても、氷山の一角が当て嵌まるのでは無いかと考えて見ました。仏法を聞いたり、読んだりして知った事は、実は氷山の一角であり、もっともっと真理は深く、更に仏様の慈悲は、私達の感知出来ない位に大きいものだと考えるべきではないかと、このコラムを書きながら、思い直した事であります。お釈迦様や、親鸞聖人が遺して下さった言葉は、表面に顕れた一部分であって、もっともっと深い真理をお説きになりたかったのだと言う想いで、経典を読んで行かねばならないと、反省させられました。

最後に、『氷山の一角』の教訓は、『物事を疑ってかかれ』と言う事ではありません。氷山の一角も、氷山そのものであります。物事が現れた一部も、真実の一部である事は間違いありません。ですから、『氷山の一角』は、『真実が現れた一部分』と考え、決して憶測や必要以上に美化して考えずに、事実をのみ積み重ねて、真実を把握して行く姿勢が大事なのだと思います。


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No.232  2002.11.18

法句経(ほっくぎょう)に聞く―8―

●まえがき:
今回の法句経は、『眠りえぬものに夜はながし』と言う詩です。

受け身で暮らす生活は、間延びしたもので、退屈で、緊張感もなく、悦びもないものです。今日の法句経は、木曜コラムで3回にわたった『人生の最優先事項』で述べさせて頂いた事に繋がるものだと思います。

詠の中にある『正法(しょうぼう)』とは、人としての生きる意味、即ち仏法と言う事と考えましょう。そして、その後の『生死(しょうじ)の輪廻(りんね)』と言う一節は大変難しいものです。

お釈迦様が、輪廻思想を持っておられたかどうか、私は学者ではありませんから、分りませんが、輪廻とは、人間は生まれ変わり、死に変わりし、畜生から人間となったり、人間から畜生にもなると言うものです。六道輪廻(ろくどうりんね)と言いますと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの世界を生まれ変わり死に変わると言う事です。

この六つの世界を輪廻する事を生死の世界にいると言い、迷いの世界にいるとも言います。この迷いの世界から脱出する事を『世間を出る』『出世間(しゆっせけん)』と言い、覚りの世界に生まれる、即ち往生するとも言います。立身出世の出世は仏教を語源としています。

この法句経では、仏法に出遇わない限り、迷いの世界から出る事なく、生死を繰り返す、即ち、人生の本当の歓び(悟り)を感じる事はないとおっしゃっているのだと思います。

●法句経60:眠りえぬものに夜はながし

眠りえぬものに
夜はながく
つかれたるものに
五里の路はながし。
正法を知ることのなき
おろかなるものに
生死の輪廻はながし

●友松円諦師の註釈:
めざめている者には夜は長い。疲れ歩む者には数里の路は長い。真理の法を知らないところの愚かなるものにとっては、この生死止むことのない輪廻の生はまことにながい。

●私の意訳:
気に掛かる事があったりして眠れない夜は、寝よう、眠らねばと思う程、長く感じるものです。また、嫌々歩く道のりは、とても長く感じるものです。人生を道と考える時、目的の無い人には、とても退屈な道のりになります。仏法出遇わず、真理を知らないままに人生を終わる者は、折角、人としての生命を受けながら、実に勿体無い事です。

●あとがき1:
私は、『人生の最優先事項』のコラムでも、なかなか核心に触れる結論を示めせてはいないと思います。それは、人生の値打ち付けは、口で説明出来るものではないからだと言う面もあると思います。

砂糖の甘さを言葉で説明する事は出来ないと同様、体験の世界だからです。『ここだな』と自分で納得する心境だからです。仏教は、哲学ではありませんから、『こう考える』世界ではなく、『そうだ』と膝を叩く心境だと思います。

人生の正しい生き方、人生の正しい意味付けが『正法(しょうぼう)』であり、仏法だと思います。正法に納得すれば、『何とかして世間のお役に立ちたい』と言う心になり、じっとしていられない、緊張感に溢れた人生になるだろうと言うのが、今日の法句経でお釈迦様がおっしゃりたかった事だと思います。

そう言う観点から致しますと、私は、まだまだ至らない我が身を振り返らざるを得ません。せめて、妻子、孫達、友人のお役に立たねばならないのに、反対に、皆に迷惑と心配をかけた上に、友人の皆さんには逆にお世話になっている事を感謝しつつ、やがて、恩返しの一つも出来るように、事業の存続と再起に頑張らねばと切実に思っている次第です。


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No.231  2002.11.14

続々―人生の最優先事項

『あなたは、何を第一目的に、何を目標に生きていますか?』この質問に即座に答えられる人は、稀であります。むしろ即座に答えられる人は異常だと言っても良いのかも知れません。

『よりよく生きたい』と言う気持ちは誰しも持っているのだと思いますが、では、どう言う事をすれば、よりよく生きている事になるかについては、おぼろげながら持っているものの、具体的な解答を持ち合わせていないと言う事ではないでしょうか。

そして、目の前にある世間の忙しさや、世間の誘惑に心を奪われて、瞬間・瞬間の出来事に一喜一憂しながら、食っては寝ての繰り返しが私の人生の実態であるようです。

最優先に取り組まねばならない事を忘れて、目の前に現出する些事(さじ、取るに足らないこと)に飛び付いてしまうのは、個人にだけ言える事ではなく、企業にも国にも世界にも言える事だと思います。今の世界の最優先課題がイラクの核査察やフセイン政権打倒ではなく、世界各国で見られる貧富の差の是正であるし、地球環境の改善である事は、議論を待たないところでありますが、人間は何故か、最優先課題から眼をそらしがちです。『悪貨は良貨を駆逐する』と言う格言がありますが、こう言う事を言うのだと思います。

その理由の一つは、最優先課題の解決はかなり難しく、エネルギーが要ると言うところにあるのではないでしょうか。

『人生、如何に生きるべきか』と言うテーマの答えはなかなか出ないので、それを考えるのは又の機会として、取り敢えずは、答えの出易い、そして答えを急がねばならない明日の仕事の段取りに思案を巡らせると言う事になるのだと思います。

そう言う人間のお粗末さに関する譬え話で、猿芝居のお猿さんの話を聞いた事があります。人間は猿芝居のお猿さんと変わらないと言うもので、下記が要旨です。
ある猿芝居で、お猿さんが陣羽織を来て、熊谷直実(鎌倉時代の武将)の役を演じていた時、観客が誤って、ミカンを転げ落としたらしいのです。その瞬間に、熊谷直実を演じていたお猿さんが、芝居している事を忘れて、ミカンに飛び付いていったと言うお話しです。

私は、このお猿さんを笑えないと思います。神妙な葬儀の席でさえ、喪服の美人に出遭えば、やはり、心は動きます。それが私凡夫の実態です。汚職で議員辞職した政治家を、私は人間として否定しきれません。私は、自分は絶対に誘惑に負けないとは言い切れないのです。咄嗟の時に、どんな心が動くか予測が付かないと言うお粗末さを持ち合わせている事は間違い無いからです。

だからこそ、私の場合は、努力してでも、仏法の話を聞いたり、読んだりして、自分のお粗末さを教えて貰わねばならない訳ですが、これも自分の努力でなく、このコラムと同様に、そうさせる大きな力が働いているように思われます。

人生の最優先事項は、個人個人異なるものではなく、私は、人間として生まれた意味を知る事だと思います。それは、もともと自分の心の中にある清浄な心(神様、仏様の心と言えば良いでしようか)に出遭う事だと思います。

清浄な心(仏教では、仏心、ぶっしんと言います)に出遭うと言う事は、清浄な心になると言う事ではありません。肉体を持っている限り、清浄な心になる事はないと思います。これは親鸞聖人がおっしゃっている事です。 清浄な心を知る事で、いよいよ自分の不浄な心の動きがはっきりと分り、ブレーキが掛かるのではないかと思います。

昔から、神はかがみ(鏡)がかみの語源とも言われますが、鏡が曇っていますと、物体はボケて映ってしまいます。鏡を磨いて、磨き切りますと、はっきりと映ります。鏡と同様、私達の仏心も、磨けば磨くほどに、自分の煩悩がはっきりと映し出されます。

仏法を聞くと言う事は、そう言う事ではないかと思います。


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