No.220  2002.10.07

法句経(ほっくぎょう)に聞く―2―

●まえがき:
  お釈迦様は、よく自然を観察されて、その自然の営みの中に真理を感じられ、沢山の詩を遺され、詠い継がれて法句経となっています。今日の詩も、蜂が花から花へと飛び交う様を見られ、蜂の行動の単純さに引き換え、人間が如何に本来の目的を外れ迷い流離う(さすらう)存在かと言う事に思い当たられて詠まれたものだと思います。

  蜂は、密を吸い取るためだけに花にとまり、密を吸えば、花びらを損なう事なく、淡々と次の花へと飛び移って行きます。それに引き換えて私達人間は、密だけではもの足らず、花びらまでも欲張って損なってしまうのではないでしょうか。春のお花見、本来は満開の桜の花の美しさを愛(め)でに参るものですが、桜を見るだけでは済まないで、お酒を飲み、仲間と喋り合って、場合によってはカラオケまでして、桜の美しさを見ないままに花見が終わると言うのが私達の姿ではないでしょうか?本来の目的をすっかり忘れ果て、とんでもない道草を食い、その道草が何時しか目的に変わってしまうと言う人間の迷いの様を、お釈迦様は蜂と花の関係に目を凝らし、深く感じ取られ、私達にお示しになったのだと思います。

  私達が幼いときに持った目標は何だったのでしょうか。大学まで進学した人は何を目標に大学で勉強したのでしょうか。企業に入った時に抱いていた夢や目標は持ち続けているでしょうか。起業家は、その当初抱いた夢を持ち続けているでしょうか。人間は、動物と違って、たまたま頭脳が働く故に、当初の目標・目的をすっかり忘れて、眼の前に現出する出来事に心が奪われ、それに一生を賭けてしまう事がありはしないでしょうか。それでは残念ではないかと言う、お釈迦様のやるせない想いが、今回の詩として遺されているのだと思います。

  今回の詩は、私の心にも鋭く響きました。世間の名誉、財産を失う事に心が大きく揺れ動き、びくびくしました。人生の目的は、豪邸に住み、ブランドものの服を身に纏い、美味しい食事をして、笑って暮らす事ではないはずです。しかし、生存競争の中に身を置き続ける事によって、何時しかそれが身に染み付いた価値観になってしまっていた様に思います。
  勿論、世間の名誉・財産は全く無価値だと言う事ではありませんし、それを励みとして、能力を開発し努力する事も大切ではありますが、それが唯一の目標では、本能の満足に生きる他動物と何ら変わる事がないと言う事も確かなのです。

  今日の法句経は、人生本来の目的は何か?これを考えて見よと言うお釈迦様のメッセージだと思います。

●法句経49:本味をたづさえて去る

花びらや色や香を
そこなはず
ただ密味のみをたづさえて
かの蜂のとび去るごと、
人の住む村々に
かく牟尼尊は歩めかし。

●友松円諦師の註釈:
ちょうど、あの蜂が、花の色や匂いをそこなうことなしに、ただ その密味をとらえ去るように、かくの如く智ある人は村落を遊行するがよい。

●私の意訳:
蜂は、花から花へと渡り飛ぶけれども、決して花びらの色や香を損なう事はしない、ただ淡々と密だけを吸い取って飛び去って行く。村々を乞食する聖者も、蜂と同様にただ乞食に徹したいものである。

●あとがき:
  最近不祥事の多い大企業も、出発時点での起業精神は『世の中の役に立ちたい、お金を稼いだら、社会に還元したい』と言う高邁なものだったでしょう。しかし、何時しか本来の目的・目標を忘れ去り、外国産の肉を国産と偽ってでも収益を上げたい利益を得たいと、お金を稼ぐ事だけが唯一の目的となってしまいがちです。

  本来の目的と言う事で観点を変えて、私達の人生、生き方について考えます時にも思い当たります。『人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生に向って度せずんばさらに何れの生に向ってかこの身を度せん』と言うお釈迦様のお言葉があります。華厳経(けごんきょう)と言うお経の中で語られているようですが、『折角人間として生まれたからには、他の動物と同じ様な生き方・死に方をしては勿体無い。仏法を聞いて、生きている今のうちに真理に目覚めてくれよ』と言う意味ですが、今日の法句経も、本当は、何の為に生まれて来たのか、間違ってはならないと言う事を説かれていると思います。

  私の小学校・中学校の時には、世の中の役に立つために勉強しなさいと教育されました。家庭にあっても、社会で有用な人物になりなさいと言われながら育ちました。しかし、その教師も両親も私達自身も何時しか、世間の名誉や財産を得る事が人生の目的であるかの様に思い違いをして、折角生まれ難い人として得た人生を棒に振ってしまいます。それでは猿山のボスと変わりません。動物と異なる人生とは、どう言うものでしょうか。

  『一隅を照らす是国宝也』と言う伝教大師(最澄)の有名な言葉があります。これは、世界平和に貢献すると言う大きな事はしなくとも、仏法を聞き、真理(因縁果の道理)に目覚め、世間における役割を果たしつつ、街の一隅(いちぐう)で良い、自分の周りの人々(家族、友達、同僚)と仲良く、感謝しつつ感謝されながら、気持ち良く暮らす人は国の宝と言っても良いと言う事だと思います。もっと分かり易く言いますと『その人がいるだけで周りは常に明るいと言う人柄は国宝である』と言う事だと思います。

  天台宗では、以下の三つの心を『一隅を照らす運動』の精神とされているようです。これも、仏法を聞く事から離れた強制的な活動になってしまっては、本来の目的から外れてしまい、本味を忘れた蜂になってしまいますが、日常生活の中の言動に自然とこう言う精神が窺えると言う事が大切だと思います。

感謝…ありがとうという気持ちを素直にあらわす人になろう
 ・今の自分がいることをご先祖に感謝しよう
 ・仲良く生きていけることを家族に感謝しよう
 ・社会の一員として生きられることを友達、社会に感謝しよう
慈悲…すべての人々、すべての自然にやさしく接する人になろう
 ・生き物すべてに、やさしく接しよう
 ・困っている人に進んで手をかそう
 ・お年寄りをいたわろう
奉仕…人のために、進んで何かができる人になろう
 ・家のお手伝いをしよう
 ・みんなの住む町をきれいにしよう
 ・少しでも社会のために働こう

  一方、親鸞聖人は、もっと心の奥深いところに想い至られ、如来(仏様)の本願に遇うために生まれて来たのだとおっしゃいました。我執と言う殻に閉じ込められている私達に、大いなる世界、自由な世界に目覚めて欲しいと言う仏様のやるせない願い(本願)に気付いて、他力の信心生活を送らせて頂く事だとおっしゃっています。
  それは、言い換えますと、感謝・慈悲・奉仕をする自分の心の中は一体どう言うものかと言う深い洞察・分析をするところ、はじめて本当の自分に出会い、同時に仏様に出遭えるのだと言う、究極の信仰心に目覚められたのが親鸞聖人だと思います。それは、そのままお釈迦様が法句経で説かれている心だと思います。


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No.219  2002.10.03

厳しい現実

今日のコラムは、あまり公にはすべきではない内容だと思いますが、貴重な記録の積もりで現実を書き記しておきたいと思います。皆様の参考にはならないと思いますが、ご容赦下さい。

私の妻は今日(10月2日)からパート勤務に出ました。12:00〜21:00の勤務です。50歳を過ぎれば、なかなか募集そのものもありません。そんに中、よく勤務先があったものだと感謝しています。

結婚して31年、妻は初めての勤めです。この31年間、私が帰宅した時に妻が迎えてくれなかったのは精々5日位だと思います。妻は専業主婦でしかもあまり独りで外出しないタイプだったからです。

今日は、私も9時間みっちりと引越し作業をして、午後18時半には帰宅し朝のうちに妻が準備してくれた夕食を独りでしました。このパターンは若い夫婦では今時当たり前のものだと思いますから世間的には大した事ではありません。しかし私の場合はサラリーマンならもうそろそろ定年と言うところですから、妻にこんな目に逢わせるのはやはり痛恨の極みなのです。

妻に仕事があった事を感謝しているのは勿論ですが、私が本当に感謝している相手は、当然の事ながら、結婚後初めて働いてくれる私の妻です。こんな状況下、普通の女房ならば愚痴のオンパレードだと思いますが、妻は『私の運命でもある』と運命共同体だと言ってくれます。こんな妻、そうはいないと思います……。

そして私達両親に仕送りをするために、専業主婦の身であるにも関わらず、先週からアルバイトに出てくれた、既に嫁いでいる娘(28歳、岡山在住)がいます。そしてそれを容認してくれる娘婿がいます。有り難いと言うより、申し訳無いと思います。 更に、精神的にも肉体的にも私を支えカバーしてくれている、私の会社・プリンス技研で働く長男の存在は実に大きいものがあります。

この家族がいなければ、私は、今の状況を生き抜く事は出来ないと思う位です。思えば14年前、管理職の辛さに耐え切れず、サラリーマン生活から逃げ出した私です。今振り返れば、妻子の幸せよりも、自分の辛さからの脱出を優先した訳ですから、実に自己中心の男だったと懺悔しています。こんな亭主、こんな父親に関わらず、妻子は、私を支えてくれています。

また、友人、そして未だお会いした事も無いコラムの読者様から、過分の御志を頂いたり、住居のご提供のお申し出を頂いたり、思ってもいない、人間の優しさにもお出遭いさせて頂きました。
また、30年来の知人が仕事紹介の労を取ってくれています。厳しい状況の中、人情の厳しく冷たい面も存分に味わいましたが、一方、涙無くして受け取れない優しさも目一杯頂きました。これが現実でしかも世間の真実なのだと思います。

今の私には世間におけるプライドも何も無くなりましたが、妻子の為に、何時かは平穏な普通の生活を取り戻さねば男としてこの世に生まれて来た値打ちが無いぞと言うプライドと、これまでお育て頂いた仏教関係の善知識(先生)の方々に、この世間の辛さの中にこそ仏法の真髄を領解致しましたとご報告しなければ申し訳が立たないと言う気持ちを持っています。

思い起こしますに、私は小学校5年生の時に父親を亡くしましたが、母の庇護の下、何不自由なく大学まで卒業させて貰いました。その上に、大学時代はテニスに明け暮れ1年留年までしました。今思えば、母には大変な精神的、金銭的苦労を掛けたのだと思います。
しかし国立大学のテニスクラブとしては大変優秀な戦績を修めたと言う事で当時の学長賞を頂き、母も息子の手柄と悦んでくれました。今にして思えば、長男に比べて出来の悪い次男坊の唯一の長所を取上げてくれた母の大いなる愛情だったのだなぁと思います。

社会人になってからも、サラリーマンとして、それなりに苦労・苦悩はありましたが、国立大学卒の人間だったからだと思いますが、所謂下積みの苦労はありませんでした。ましてやテニス界では一応トッププレーヤーとしての戦績があり、私生活においても下積みの経験がありませんでした。

この度の会社のピンチは、私のエリート意識は勿論、一人の男としての価値、人間としての価値すらも、奪い去って行きました。人材募集も真剣に目を通しますが、57歳にもなりますと、雇ってくれる企業は先ずはありません。学歴も、技術も通用しない世界がここにあります。多分、就職は中国・韓国に求めなければならないと思います。勿論今なら、私が役に立つならば世界の何処にでも行くと言う心境になりましたし、どんな肉体労働でもすると言う気持ちにもなりました。これは私に取りましては極めて大きな意識転換です。

今回、引っ越しの前準備、引越し、引越しの後片づけと、10日近く肉体労働をしています。3階建ての約250uに一杯詰まった資材・備品は、約40名の従業員が居た時のものもそのまま残っていますから、整理するのは実に気の遠くなる作業です。ほぼ息子と二人で、しかも、息子は新しい間借り工場で生産を立ち上げないといけませんから、私が主役です。

全部の資材・備品を目にしたり、その処理を考えると気が遠くなります。今はこの一つの荷物、今日はこれだけの面積を片付けようと区切りを付けないと、とても精神が持ちません。
肉体労働だけなら未だしもですが、資金も不足しているからです。この状況で学んだ事は、苦境・逆境にあっては、1日1日を生きて行く事です。何日も先の事は考えない事です。実際、刻々と情勢・状況は変わって行きますから、考えても無駄な場合が多い事も、経験しました。

このコラムを読んで下さっている方の中にも、毎日が苦しいと言う方もおられると思いますが、そんな方は、今日の1日だけしか考えないと言う訓練をする事をお勧めいたします。私達夫婦は、今そうして毎日を生きています。幸いにもそんな状況に無い方は、無事平穏な日々を是非とも感謝しつつ過ごして頂きたいと思います。

皆様、有難うございます。皆様のお陰で、へこたれずに頑張ります、決して挫けません。


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No.218  2002.09.30

法句経(ほっくぎょう)に聞く―1―

  白隠禅師座禅和讃解説が完了しまして、月曜コラムは会社の状況が一段落するまで休憩させて頂こうかと思いましたが、それでは、『仏法を主(あるじ)として、世間を客人とする』と言いながら、言う事とする事が違うではないかと思い直し、続けられる条件が整っている限りは続ける事とさせて頂きました。そして、この状況だからこそ、仏典の中で最もお釈迦様のお言葉を忠実に反映していると言われる法句経に、私の揺れ動く心の奥底に潜む病因を聞いてみようと思いました。

  法句経と言うのは、原本では『ダルマパダ』と言います。ダルマは『真理』のこと、パダは『道跡』とか『足跡』のことですから、法句経は、『真理の足跡』つまり、真理の数々を集めたものと言う事になります。

●まえがき:
  法句経は、423詩もあるそうですが、私は、そのすべてを読む時間的余裕もありませんので、友松円諦(1895―1973)と言う仏教学者が昭和の初期にラジオで放送講義され『法句経講義』と言う一冊の本として出版されており、そこに選び出されている15詩について勉強して行きたいと思います。

  友松円諦師は、宗教家、仏教学者であり、ドイツ・フランスにも留学されましたが、浄土の存在を否定したために宗門から排斥されたそうです。ですから、元は浄土真宗か浄土宗の僧侶だと思います。満州事変後、ラジオ放送に進出、雑誌「真理」によって協調主義的な真理運動をすすめられまして、戦後は神田寺と言う無宗派のお寺を経営され、全日本仏教会事務総長となられた方だそうです。ご経歴をお聞きした限りでは、親鸞聖人が求められたお釈迦様の仏法とは何かを探求され、そこに救いを求められたのだと思います。それは親鸞聖人を無視する姿勢ではなく、むしろ、親鸞聖人が本当に求められた真理を知りたいが故の大菩提心だったのだと思います。

  私は友松師の註釈を参考にしつつ、私自身がこれまでお聴きして来た多くの先師からのお言葉を思い出しながら、勉強していきたいと思いますが、法句経も、般若心経も、法華経も、阿弥陀経も、その他多くの経典は、何れもお釈迦様が説かれたものとされ現在に至っておりますが、お釈迦様が生存されている頃は、文字が生まれておらず、すべて人から人へと口伝されるしかなかったのであります。

  この和訳された法句経も、お釈迦様が亡くなられてから口伝され続けた後、約500年経って漸く文字(パーリ語)により記録され、それがまた数百年後に中国で漢訳され、そして、日本に伝わって翻訳されたものです。従いまして、経典の一字一句に拘り過ぎますと、お釈迦様の真意から外れた解釈をしてしまう事にもなります。

  お釈迦様のおっしゃりたかったポイントは何かと言う観点から、一字一句ではなく、行間も含めて、詩の全体を読み通したいと思います。

●今回の詩:うらみは熄む(やむ)

うらみはうらみによってはたされず、
忍びを行じてのみ、
うらみを解くことを得る、
これ不変の真理なり。

●友松円諦師の註釈:
まことに、他人をうらむ心を以てしては、どうしても、そのうらみを解くことは出来ない。ただ、うらみなき心によってのみ、うらみを解くことが出来る。このことは永恒に易(かわ)ることのない真理である。

●私の意訳:
他人への怨みは、怨みを晴らす事によって、その怨みが消える事は無い。怨みに耐えて、飲み込んで、怨みを抱く自己を問いただす事によってのみ、怨みから解放される。この事は、永遠に変わらない真理である。

●あとがき:
  お釈迦様の時代から、人は怨みと言う問題、怨みから来る苦悩とか心の不自由さを現代の私達と同様に抱いていたのだと思います。怨みとは『あの人の所為で私はこんな目に遇っている。あの人のお陰で私はこんなに不幸だ。あの人の顔を見たくない。あの人さえいなければ……』と言う、自分独りで作り上げ、自分自身を苦しめる心持ちです。

  サラリーマンの場合は、怨みの相手が会社の上司や同僚と言う事が多いでしょう。私生活にあっては、同居の嫁や姑、或いは配偶者と言う場合もあります。極端には親子と言う場合さえあります。そして社会生活ではルールを守らない隣人かも知れません。或いは所属するその他、怨みの相手は、どんな立場にあっても、どんな場所に住んでも、どんな境遇にあっても、誰の周りにも必ず登場して来るものだと思います。

  そして怨みと言うものは、言わば丁度人間の心臓に突き刺さった刺(とげ)のようなものです。それだけに痛みが非常に内面的で、外にあまり出なく、従って人にはさほどには感ぜられなくとも自分には非常に疼き痛むものです。気になり出すと、ノイローゼにさえなります。自殺とか殺人と言う悲惨な結論で人生を棒にふるケースだって有ります。

  お釈迦様は、それを良くご存じで、怨みと言う誰にも身近な例題を取上げられて、怨みは仏法への大切な入り口なんだよとお諭しになったのがこの詩として遺っているのだと思います。

  そして、怨み心から離れなければ、怨みから来る苦悩から解き放たれる事はないと言われています。しかし、相手を怨んではいけないと思っても、そう簡単には怨みは消えるものではありません。しかも、怨みが心に少しでも残っている間は、怨みの苦から解放される事は無い事も事実であります。怨みの相手の不幸を願う心がある限りは、怨みによって自らが苦しみ悩まされます。

  お釈迦様は、むしろ、怨んでいた相手の不幸を心配する位でないと、怨みから解放された事にはならないと言われます。それが『うらみ無き心によりてのみ、うらみを解くことが出来る』と言う事ですが、こう言う心境になるのは、なかなか難しい事です。

  お釈迦様が私達に伝えたかった事は、怨みを消しなさいと言う事ではなく、むしろ、怨みを一つの機縁として、自分自身の心と向き合い、怨み心は自分のどういう心から発生しているのか、自分を見詰め直し、真理に目覚めて欲しいと言う事だと思います。そうすれば、自然と怨み心から解放される事になっていくと言う事だと思います。

  世間で起る事、特に人にとって好ましくない事が生じた時、その原因(因)と条件(縁)を冷静に振り返りますと、一人の言動によってのみ生じたのではない事が明らかになるはずです。もっと言えば、自業自得とまでは言いたくはありませんが、自分にも何がしかの原因があった事、また私達には想像すら出来ない縁(条件)が働いた事に気が付くのではないでしょうか。

  私は今、公私ともに、大変な苦境にあります。我が社の仕事を中国に持って行った一流プリンターメーカーや、間に入っていた中堅企業を怨めしく思った事が全くないとは言えません。しかし、世界の流れ、時代の流れを振り返るとき、それを見通す事が出来ず、準備出来なかった経営者としての自分を深く反省する一方、怨みを抱いた自分の心の奥底にある自己中心の心や、因縁果の真理に目覚めていない自分のどうしようもない浅はかさを思い知らされました。

  お釈迦様は、怨みと言う例をあげられて、『自分の心を見詰め直し、因縁果の真理に目覚めよ』とおっしゃりたかったのではないでしようか。怨みを抱けば、怨みとして帰って来ます。相手を変えるには、自分の心こそが翻らないと、人間関係は永遠に変わる事がないと言う事だと思います。

  道元禅師が、『仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり』とおっしゃっておられますが、自分の心が翻るのは、自己を問い直す事によって、自我・我執に気付かされ、真理に照らし出されて、自己中心から真理中心になって初めて可能となるのだと思います。


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No.217  2002.09.26

世間と仏法

  世間は、互いに壊し合うものである。その壊し合う姿を如実に見せてくれるのが政治の世界である。今週初めに民主党代表を決める選挙があった。殆どの国民は興味を持たなかったのではないかと思う。民主党は勘違いしているように思う。野党ならば共産党の如く、一糸乱れぬ党を演出すべきだと思う。幅広い考え方があると言うのは、与党だからこそ認められる事であって、少数の野党に許される事ではないのでは無いか。私は、先日の代表選挙を見ながらそう思った。

  自民党出身の鳩山氏だからこそ、そう言う考え方をしているのかも知れないが、自民党出身が故の大きい考え違いだと思う。こう言う自民党的考え方をしている限りは、民主党は絶対に政権を取れないと思う。デフレ経済に喘ぐ零細企業経営者としては、非常に残念である。

  小泉首相の支持率は、訪朝により上昇した。拉致被害者家族には申し訳ないが、今の日本の最優先課題は、デフレ解消、景気回復である。民主党が、小泉首相の施策の反対をぶち上げて、景気浮揚策に聖域無しとでも言えば、民主党の支持率も上がるはずである。今の小泉首相の下では、デフレが進行しても、景気回復は期待出来そうにないからである。何故、民主党が、そう言う思いきった提言が出来ないのか不思議である。

  民主党の幹事長人事で、既に党内ががたついている。分裂の気配もある。鳩山氏は代表選挙には勝利したが、同時に苦難が始まったのである。

  さて、世間を生きる限りは誰しも例外なく苦難に遭遇する。先日終わった大相撲では、序盤で連敗すれば引退と言う窮地にあった横綱貴乃花は、苦難を乗り越えて、千秋楽に優勝をかけるまでの復活ぶりをみせたが、明らかに今場所は苦難であった。

  また、昨年は辛うじて3位、今年は最下位が決定した横浜ベイスターズの森監督も苦難のどん底だと思う。西武監督の時は、8度のリーグ優勝、6度の日本チャンピオンと言う栄光のある監督である、しかも、川上巨人では、9連覇の捕手を務めた彼である。きっと、今、自分の本当の実力を噛み締めているに違いないと思う。何れの栄光も自分だけの力ではないからである。選手の陣容に恵まれ、スタッフに恵まれ、本社の後押しもあっての栄光であった事を森監督は噛み締めているに違いないと思う。もう世間から振り向かれもしていない野村監督も同様である。

  北朝鮮の拉致被害者とその家族も苦難の二十数年であった。世間にあっては、誰でも例外なく苦難に遭遇する。ずっと世間運が続く人も、最後は死と言う免れない苦難が待っているのである。

  昨年、大阪府立教育大学付属池田小学校で、幼い命が凶器と狂気で奪われた。お子さんのご両親の心は、今も痛んでいる事と思う。人生が分らなくなった苦しみだろうと思う。

  私は今、経営破綻、個人の生活破綻を目前とした状況にあり、苦難の最中にあるが、苦難と言うのは、『平穏な生活を瞬間的に打ち破られた時に発生する』ものであるが、『平穏な生活が失われそうな状況になった時でも既に苦難である』と思うようになった。突然の災難に襲われるのが苦難であるが、苦難が来る前に既に苦難に襲われる事もあるのだと思った。

  苦難とか災難に遭遇した時、多くの人は、日常生活は苦悩一色になる。マイナス思考になり、食欲も無くなり、ひどい場合は死を考える事にもなる。この世間の苦難と仏法の関わりについて、蓮如上人は『仏法を主として、世間を客人とせよ』と説かれたが、『世間の苦難を乗り越える為に仏法があるのではない、仏法を聞くために世間と言う苦しい土俵に立たされているのだ』と言う事だと思う。

  確かに、世間を中心と考えれば苦難は辛いし、苦難に遇えば、もうすべてが終わりと感じるものである。しかし、『私は仏法を聞く為に、この世に生まれて来たのだ』と思えれば、世間の苦難は、仏法と言う蓮の花の種と思える様になるのだと思う。『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』とは、この事だと思う。

  私は未だそう言う境地には至っていないが、最近、そう言う事ではないかと思う時がちょくちょくある。

  誰しも世間で窮地に陥りたくはない。出来れば普通の、希望を言えば裕福に暮らしたいものである。わざわざ苦しい生活はしたくない。では、裕福でさえあれば良いかと言うと、そうではないのだと思う。

  このコラムでも何回も紹介した豊臣秀吉の辞世の詠『露とおき、露と消えぬる人の世や、浪花の事は、夢のまた夢』日本の歴史上でも最も栄華を極めた人物が、世間の儚さを嘆きながらこの世を去った訳である。

  それとは対照的に、『何時の日に、死なんもよしや、弥陀仏の、み光りの中の、御命なり』と詠われた白井成允師(広島大学名誉教授)こそ、世間の儚さを超え、仏法を主として、意義ある人生を送られたのではないかと思う。

  『私は世間で成功し、裕福な生活をするために生まれて来たのではない、仏法を聞きに、この世に生まれて来たのだ』と、胸を張って仏前に座れるようになりたいものである。


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No.216  2002.09.23

白隠禅師座禅和讃に学ぶ―8―

●まえがき:
  この座禅和讃も何とか最終項に辿り着きました。心ざわめく私の今の状況で、この和讃を勉強させて貰うと言うのは意味深いものがあったのではないかと思っています。

  私達は、世間を生きる事に必死になります。世間の名聞・利養・勝他に溺れそうになります。世間で受ける苦難に打ちひしがれそうになります。世間で認められる地位にしか価値を見出せなくなり、もがき苦しみます。それが凡夫の実体です。

  しかし座禅をすると、そう言う世間を冷静に見詰められるようになるのだと思います。座禅でなくとも、仏前でお経をあげる、お念佛を称えると言う事でも良いのだと思いますが、座禅の姿勢、呼吸法は、古来の祖師方から受け継がれて来たものであり、私達の知識を超えた意味と効果があるのだと思います。だからこそ、白隠禅師が、この座禅和讃を遺されたのだと思います。

  この項で出て来る『四智圓明』の四智について、若干の説明をしておきたいと思います。四智とは、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智と言う難しい四つの智慧です。

頭で分っても、それが行として現われなければ、四智圓明(智慧の完成)とはなら無い訳であります。

私も、55歳までは仏教の本も読ませて頂き、法話も沢山聞かせて頂いたのですが、修行がなければ、頭だけの、観念の仏法でしかありませんでした。そしてこの2年間の経営危機、個人生活の危機、生命の危機に直面して初めて、体と心で、仏法を聞いた想いが致しました。

●本文:
三昧無礙の空ひろく。四智圓明の月さえん。以の時何をか求むべき。寂滅現前する故に。當處即ち蓮華國。以の身即ち佛なり。

●現代意訳:
座禅に励む事によって、自他一如、天地と自分が一体と言う境地になると、なにも心に引っ掛かるものはなくなり、澄み渡った大空のように清清しい心境になる、そして、そこに仏の叡智が月光の如く光り輝き、何が欲しいとか何が嫌だと言う一切の煩悩は消え去り、満足とか不満とかを超えた安らかな心境になるのである。
こうなると、辛い苦しいはずの娑婆が、そのまま有り難いお浄土となる。煩悩をそのままに、身は娑婆にありつつも、既に浄土の風光を感じられるのである。そして『衆生本来仏なり』と感得出来るのである。

●あとがき:
  今日までこのコラムを続けられた事は、不思議としか言い様がありません。途中、この白隠禅師の座禅和讃の解説を最後までは続けられないのではないかとも思った事がありました。

  何か大きな力が働いているとしか思えません。特に今週は、銀行との最終的な折衝があり、銀行の意向により会社の存続の道が途絶えて、即ち自己破産が現実になるか、銀行の支援があって会社の命が続くかが明確になる正念場です。

  一方、多くの企業との提携交渉も同時に進めており、また大きな製品開発の話もあり、生死ギリギリの状況にあります。明日の事は、本当に予測通りには参りません。この3連休は、工場の引越し準備で忙しく、今週一杯、その状況が続きます。10年間に溜まった諸々の品物は、捨て難いですが、工場面積が、ほぼ六分の一になるのですから、多くの廃棄物が出ます。世間においては、縮小する事はやはり辛い事であります。

私がもし仏法に無縁の人間ならば、この状況にあっては、自ら死を選んでいたかもしれません。しかし、世間の敗者必ずしも、人生の敗者ではない。むしろ人生の勝者になり得る可能性があると思う時、大きな力を与えられます。

仏法を聞いて行く事が人生の目的になりますと、世間の勝敗は、全く問題にならなくなると思える瞬間がありました。


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No.215  2002.09.19

9.17

小泉首相が北朝鮮訪問した結果は、日本以外の国にとっては、北東アジアの緊張緩和に大きな一歩を踏み出したとして、歓迎されている。

しかし、日本国民の多くは、北朝鮮が拉致の事実を初めて認めた事を歓迎しつつも、予想外とも言うべき8名の死を知らされた事によって、プラス・マイナス、ゼロと言う感覚を抱いているのではないか。

14名の中の8名と言う確率と、殆どの方が生きていれば40歳前後と言う年齢から考えて、自然死とは受け取れない故、釈然としないのは、当たり前である。

こう言う事をする国との国交正常化を進める事が本当に日本の為になるのか、世界の為になるのか、疑問に思う人も多いだろう。私もそう考えた。拉致被害者家族の方々の会見を拝見すれば、そう思うのは自然な感情だと思う。

日本政府としても、北朝鮮としても、本人と家族の方々への謝罪と償いを誠心誠意尽くすべきだと思う。これを前提として、私は、やはり予定通り、国交正常化交渉を進めるべきだと思う。北朝鮮だけではなく、日本も、そしてその他の国も、過去には多くの過ちを犯して来たのである。北朝鮮だけを責め立てる訳にはいかないと言う冷静さも必要である。

イラクも国連の査察を無条件で受け容れる事を表明した直後でもある。この際、一挙に世界の平和と安定を望みたいものである。その大きな役割を日本が担えるチャンスである。拉致されて亡くなられた方々の死を無駄にしないためにも、9.11とは逆に、9.17を世界平和への第一歩としたいものである。

一方、私の9.17は、工場の移転を取引先に宣言した日である。10年間操業を続けた工場だった。家賃は約90万円、総額約1億1千万円の家賃を支払って来た。これからは、協力工場の一角を間借りして、操業を続ける予定である。銀行との交渉がうまくいっての話であるが、私の9.17を復活再生の出発点としたいと言う想いである。


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No.214  2002.09.16

白隠禅師座禅和讃に学ぶ―7―

●まえがき:
  この世の中、自分の思い通りにはならない事は、過去を振り返れば容易に分かる事ですが、いざ窮地に陥ると、何とか自力脱出出来ないものかと、のた打ち回る自分がいます。順境の時は、因縁果の道理に頷く事が出来ますし、『何事も縁に任せて……』と思えます。しかし、逆境にある時、窮地にある時、なかなか縁に任せ切る事が出来ません。

  そして、本当は良い結果を切望しているはずなのに、逆に悪い結果ばかりを予測し、マイナス思考を繰り返します。マイナス思考の正体は、縁の働きを忘れ、自己愛から発した自己防衛本能だと思います。

  縁と言う働きは、人間の力の及ばない、無数の因と縁と果が複雑に絡み合った大自然・大宇宙の働きです。この縁に任せる心が固まれば、怖いものは無いと思います。般若心経の中に出て来る『無有恐怖(むうくふ)』とは、この事だと思います。何事も縁に随う心を持てば恐れるものは何もない言うのが、今回の本文『因果一如の門ひらけ………歌うも舞うも法の声』でありますが………。

●本文:
因果一如の門ひらけ。無二無三の道直し。無相の相を相として。往くも皈るも餘所ならず。無念の念を念として。歌うも舞うも法の聲。

●現代意訳:
原因の中に結果があり、結果の中にすべての原因が救い取られている、この微妙な因果一如と言う道理に目覚めなければならない。この道理こそお釈迦様がお説きになられたかった真実の仏法、大乗仏教なのである。色即是空・空即是色を体得すれば、全世界が我がものとなります。そして、まっさらな鏡のような純粋無垢の心に目覚めたなら、日常生活の立ち居振舞いすべてが仏法そのものになるのです。

●あとがき:
  無念無相になれ、己に執着する心を捨てよ、縁に任せよと言うのが、この項の要約です。世間では、無念無想と言いますが、禅では無念無相です。無相庵の無相は、ここから取ったものです。無念無相とは、自我の主張、自我の迷想がない事です。

  私はこの数ヶ月、いやこの2年間、経営危機、個人生活の危機を脱出しようともがき苦しんで来ました。そしていよいよ危機が破綻と言う現実となる直前です。まことに往生際が悪く、窮地を何とか脱出しようと努力する訳ですが、窮地に有って、縁を忘れたら、八方塞になります。縁を忘れた時は、鬱状態が続き、下手したら自殺に追い込まれます。

  しかし、現在の窮地は過去無数の因と縁のであり、また将来のであり、また、同時にであると分れば、窮地は窮地として受け容れ、縁に任せる事が出来るのだと思います。

  今、平成の名横綱と言われる貴乃花が窮地にあります。窮地にあるが故に、相撲ファンでなくても、貴乃花の一挙手一投足を固唾を飲んで見守ります。我が人生に置き換えて、窮地からの脱出を願っています。本当は貴乃花も今日からでも『引退します』と言って辞めれば、楽なはずです。しかし、7場所休場の横綱の責任感からか、色々な精神的葛藤を味わいながら、頑張っているのだと思います。たとえ今場所で引退となったとしても、この窮地から逃げずに闘っている事自体が大したものだと思いますし、これは彼が人生の横綱になるための道なのだと思います。

  私も、今は八方塞の暗い気持ちになったり、なるようにしかならないと思えたり、心は揺れ動きます。その私の迷いの心とは関係なく、縁は休む事なく働き続けて、事態が進行して行きます。私は、精神的葛藤をしつつ、しかし縁を忘れず、この窮地を這ってでも渡り歩かねばならないと言い聞かせているところです。30歳の貴乃花に負ける訳にはいきません。

  毎夕、夫婦二人で仏前に座り、お経をあげていますが、私はこれまで南無阿弥陀仏を心の底から称えられた事がありませんでした。しかし、この度の窮地に立たされて、初めて心からの南無阿弥陀仏が何回か称えられました。これは仏様へのお願い、お救いを求める不純なお念佛です。報恩感謝、他力のお念佛とは異なるものですが、これまで自分の力だけを信じ、神仏にも他人にも頭を下げた事がなかった私に、仏様の力が働いて、真実の仏法のスタートラインに立たされた南無阿弥陀仏なのだと思います。


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No.213  2002.09.12

明日有りと…

『明日ありと、想うこころの、仇桜、夜半に嵐の、吹かぬものかは』これは、親鸞聖人が、9歳の時、得度される前夜に詠まれた歌と聞いています。9歳でこんな歌が出て来るとは信じ難いですが『明日桜を見ようとしても、夜に嵐が来て、桜は散ってしまうかも知れない、桜の運命と同様、明日の事は私達人間には分らないのですから、今、得度させて下さい』と言う松若丸(親鸞の幼名)の心情を表わしたものであると言われています。

自分の人生を振り返った時、まさに、その通りだと思わざるを得ません。明日の事は分らないし、本当は、1秒後の事も分らないと言うべきでしょう。昨年の9月11日、ニューヨークの貿易センタービルに出勤した人々は、1秒前まで、テロに襲われる事を予知出来なかったはずです。

私達神戸市民も予期せぬ震災に遭遇しました。それから、人生が一変した方々も多いのです。

私達は、テロとか災難だけではなく、そう言う運命を変える出来事に沢山遇っているはずです。『あの時、あの人に会っていなければ……』『あの時、あの場所に居なければ……』これは、決して不幸に導かれるキッカケだけではなく、幸福が訪れるキッカケであったかもしれません。

予期せぬ一瞬の出来事で、人生が大きく変わった事は、どなたにも例外なくあるはずだと思います。『運命のあの時』は、誰にも必ずあると思います。

だから、冒頭の『明日ありと、想うこころの、仇桜、夜半に嵐の、吹かぬものかは』と言う詠が生まれた訳ですが、凡夫の私は、夜に嵐が吹く事は想定しないし、自分で作り上げた明日を信じて、予定を立てます。だから、順境にある時は、運の良さが何時までも続くと信じて調子に乗り、逆境にある時はマイナス思考になり、どんどん落ち込んでいきます。

この2ヶ月、私の場合、すべて悪い結果が続いているので、どうしてもプラス思考にはなれません。プラス思考しようと思って、努力はしますが、長続きは致しません。とてもマイナス思考から脱出出来ません。逆境でプラス思考出来る人はいるのだろうかとさえ思います。

しかし、仏教的には、順境と逆境を分別する事自体が、凡夫の迷いであると申します。もともと順境も逆境も無いと言う訳です。自分と他人の区別が無い事を自他一如と言います。これは、自分も他人も同じだと言う事ではなく、自分も他人も、同じく尊い存在だと言う事だと思います。凡夫としては、順境は好ましいが逆境は嬉しく無いと言うものですが、本当はどちらが良いとも言えないと言うのが仏教の立場だと思います。

明日は何が起るか分りません。順境時も、逆境時も、今を大切に生きる事に心を砕きたいものです。今日は、今(午前5時)から宇都宮、大宮へ出張します。


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No.212  2002.09.09

白隠禅師座禅和讃に学ぶ―6―

  今から約2500年前、お釈迦様は、王子と言う世間の地位も妻子をも捨てて、悟りを求めて山奥に分け入り、難行苦行をされました。それは、ご自身が生老病死の四苦(しく)からの解脱を求められたと言うだけではなく、同じ四苦に悩む民衆を救うために、王家に生まれた人間としての一大決心だったと思います。

  そして、6年間の難行苦行が苦からの解脱に至るものではないと自覚され、菩提樹の下での瞑想に入られ、ある朝、暁の明星をご覧になられて、忽然と悟りを開かれたと聞いています。そして、自分の心境を多くの人に伝える50年に及ぶ教化活動に入られました。

  お城を出られたご決心は、自分だけが救われれば良いと言う狭い心ではなく、縁のある人々すべてが苦悩から解脱出来る事を目的とした出家だったのです。

  白隠禅師も、お釈迦様と同じ心から、この座禅和讃を遺されたのだと、改めて思った次第です。

●まえがき:
  今回の和讃の中に出て来る回向(えこう)と言う事に付きまして、説明をしておきたいと思います。
  回向と言う単語は、お聞きになった事があると思いますが、仏前でお経をあげることを、ご回向と申します。お坊さんが仏前でお経をよんで、参拝者に聞かす、これは功徳と申します。そして、そのお経をあげるお坊さんが清らかな心になり、三昧に入る、それも功徳です。その功徳を、全部仏様にお供えすることを回向と申します。

  そして、自ら回向するとは、まず自分が菩提心(ぼだいしん)を発し、お説教を聞き、仏典を読み、念佛をとなえ、座禅をして内省をふかめてゆくことが、自ら回向すると言う事です。自分の心の中の仏様に、自分が回向するのてす。その回向の功徳によって、真実の自分が分るのです。その真実の自分が分る事を、浄土門では、ご安心を頂くと言い、禅では、悟りを開くと言います。

  菩提心と言う事も、一般の方々には難解な単語だと思いますので、本文の解釈に入る前に説明させて頂きます。

菩提心と言う事に付いて山田無文老師は、こう説明されています。

『教行信証には、「真実信心は即ちこれ金剛心なり。金剛心は即ち願作仏心(がんさぶっしん)なり。願作仏心は即ちこれ度衆生心(どしゅじょうしん)なり。度衆生心は即ちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生じせしむる心なり。この心即ち是れ大菩提心なり」と言うお言葉があります。念佛の信者でも、極楽へ往生して、自分だけは早く幸福になろうと言うような、利己的な考えでは、けっして真実の信心は頂けないのであります。真実の信心とは、どういうことがあってもくじけない、金剛の心であります。金剛の心とは、何でも仏になりたいという願作仏心である。願作仏心とは、一切衆生を救わずんばおかん、という度衆生心である。
度衆生心とは、社会のみなを安楽浄土に往生させたいという願心を発することで、つまり大菩提心だといわれるのであります。大菩提心はすなわち仏心でありますから、信心はそのまま仏心ということでありましょう。そこで念佛信者も、はじめから、「このままでよいのだ、煩悩のままでよいのだ、ありがたいことだ」などと、気楽に凡夫をきめこんでおっては、とうてい往生など出来ぬでありましょう。どうしても仏にならずんばおかぬと、勇猛な願心をおこして、一切衆生を救おうと言う熱烈な努力をしてみて、その結果どうにもならなくって、ついに行き詰まり、自分の力では仏にはなれぬ、弥陀の本願にたすけられまいらせて、往生するのだと安心して、そこではじめて、このままでよい、煩悩のままでよかったと、徹底できるのです。それで、どうしてもいちおうは仏になりたい、完全な人格者になりたいと言う願心を発さないかぎり、仏道は成就しないのであります。そこを「大菩提心を発す」ともうすのであります。』

自分だけが悟りを開いて苦しみから解脱したいと言うのは、小乗仏教の菩提心だと思います。皆と共に幸せになろうと言う広く強い心を持って、仏道に励む事、座禅に励む事、念佛を称え、法話を聞く事が大乗仏教の菩提心であり、この心を持った人を菩薩と言います。

●本文:
況や自ら廻向して。直に自性を證すれば。自性即ち無性にて。己に戯論を離れたり。

●現代意訳:
まして、自らが座禅をして、真実の自己が発見出来たら、一切が空だと分り、最早言うべき言葉も語るべき文句もなく、論ぜんとする妄想もなくなるのである。

●あとがき:
  苦しみは、自分可愛さから生じます。他人への想いが途絶えている心から生じます。この自分可愛さを、手放せば、苦悩も飛んで行ってしまいます。解脱とは、自己愛からの脱出であります。そのためには、静かに座禅をして、自己愛の正体、根源を突き止めなければなりません。

  蓮如上人が『仏法を主(あるじ)として、世間を客人(きゃくじん)とせよ』と言われていますが、これは世間をうまく渡る事を人生の目的や仏法を聞く目的とせずに、大菩提心を起して、仏法を中心とした生き方をしなさいと言う事だと思います。

  それは頭では理解出来ますが、私のような凡夫は、仏法も大事だと思うけれども、世間が好きで好きで堪りません。世間で勝ち組になりたいのが凡夫の私と言うものです。
  しかし、思う様には勝ち組になれませんし、ずっと勝ち組側に居る事も難しいのが世間でもあります。そして、誰も生・老・病・死の四苦を免れる事は出来ません。苦悩は誰の身にも襲って来ます。だからこそ、勝ち組、負け組を問わず、いや勝ち負けを人生の価値基準とせずに、仏法を修する事を人生の目的としようではないかと言う事だと思います。

  世間の思惑(おもわく)は、所詮は凡夫の思惑、迷いの思惑です。『凡夫を離れ、日本を離れ、世界を離れ、天地一杯、宇宙一杯の心境から、自己を問い直し、真実の道を歩み直しなさい』白隠禅師が私に語りかけられておられるのは、この事だと思いますし、蓮如上人のお言葉も全く同じ事だと思います。

  禅では悟りを開くと言いますが、これは死の恐怖から解放され、いつ死んでも平気だとか、どんな苦難に遇っても、心の動揺は一切無いとか、不動の心になる訳では無いと思います。
禅では、『柳は緑、花は紅』と申しますが、これは事実が真実そのものだと何の計らいなく思える事でしょうし、災難は災難として、事実そのものだと受入れて行く真っ白な心が悟りの心だと思います。

親鸞聖人がおっしゃっている自然法爾(じねんほうに)と言われている事は、即ち、禅の『事実そのものが真実』と言う計らいが消えた心だと思います。

禅の悟りの心も親鸞聖人の信心の世界も、何も変わらないと思います。

さて今週は、私には世間での課題が沢山ありますが、課題を世間法に従って処理しつつ、その心は、仏法を主(あるじ)として生きたいものだと思います。


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No.211  2002.09.05

思い直して……

木曜コラムは、しばらく休もうかと思い、本日のコラムは、その旨をお伝えする内容で出来上がっていました。
会社の危機=人生の危機と言う状況の中では、暗いコラムになり、皆さんに不快な想いをお与えするだけだと考えたからです。また、コラムの筆も進み難くなって来たからでもあります。

しかし、経営危機が始まってから、2年間にわたってコラムを続けて来た原点は、苦しみを乗り越えて行く一人の男の赤裸々な表白をお届けし、同じく逆境にある人々への励ましになればと考えたところにある事に思い至り、やはり、力を振り絞ってコラムを続けようと思いました。

木曜コラムは、水曜日の夜には完成するのですが、このコラムは、今朝取り掛かったもので、本当の木曜コラムです。

何故思い直したかと言いますと、昨日、私が所属するテニス倶楽部の社長の訃報に接したからだと思います。社長の死も、死因も発表されていません。真相は分りませんが、発表されないだけに、経営の苦労が原因ではなかったのかと私は思います。

今の私には、その社長の心情はよく理解出来ます。八方塞になれば誰しも、死を意識しない事はありません。

仏教は、世間での成功や経済生活に寄与するものではありませんが、世間の荒波を越えて行く精神的な支えにはならなくてはいけないと思います。苦しみを解脱する事は出来なくても、苦しみに負けて人生を放棄せず生き抜いて行く支えにはならないといけないと思います。

少なくとも、私は、これまで多くの善知識にお会いし、ご指導を頂きました。仏教が、苦しみから人を救うものである事を実地体験して、人間救済の仏教を明らかにする事が私に与えられた使命でもあると考え直しまして、このコラムを続けようと思いました。

読んで楽しいコラムではありませんが、ご辛抱頂きたいと思います。


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