No.210 2002.09.02
白隠禅師座禅和讃に学ぶ―5―
●まえがき:
人間の苦しみは、自己愛から来ています。『自分可愛さ』と言う狭い考えから、苦しみや悩みが生じます。生命への執着、名誉への執着、普通である事への執着から苦悩が生じます。もし苦悩に順番を付けるとしたら、ワースト5は次のようになるでしようか。
何れも、将来に希望が全く見えない状態です。こうなった時は、その苦悩は、片時も頭から離れる事はありません。
1. 自分が死の宣告を受けたり直面した時
2. 配偶者や子供の死を宣告されたり直面した時
3. 生活が破綻しそうな時
4. 失恋・離婚になりそうな時
5. 劣悪な人間関係に巻き込まれた時こう言う、自己の将来に全く希望が持てない時にこそ座禅をして、自己を問い直す必要があるのですが、なかなかそんな気にもなれないと言うのが、凡夫の悲しさです。しかし座禅と言わずとも、静かに目を閉じて、自分の心と向き合うと、本当の自己が見えるのだと思います。死ぬ程の苦悩に遭遇したときが、自己の本性に出遭える一番のチャンスだと思います。逆に、人生の苦しさに出遭っていない時は、本当の自己には出遇えるものではないのだとも思います。
死ぬ程の苦労は誰しもしたくない。しかし、死ぬほどの苦労をしなければ、人生の深さ、人生の真実を味わう事もありません。欲望が満たされ、自己の煩悩が隠れている時には、罪悪深重(罪が深い重い)、煩悩熾盛(煩悩が燃え盛る)、虚仮不実(うそ偽りばかり)の自分に気付く事もありません。自己を問い直す事もありませんから、従って、『衆生本来仏なり』と、自分の心の中にある仏性にも気付かないのだと思います。
●本文:
一座の功を成す人も。積みし無量の罪ほろぶ。悪趣何処に有りぬべき。浄土即ち遠からず。辱くも此の法を一たび耳に觸るとき。讃嘆随喜する人は。福を得ることかぎりなし。●現代意訳:
たった一回の座禅をするだけで、それまで犯してきた数々の罪悪も滅罪され、この世がそのまま浄土の風光と感じられるようになるはずである。この『衆生本来仏なり』と言う真理を聞いて、讃嘆随喜する人は、必ず人間として生まれた幸せを感じる事は間違いないのである。●あとがき:
随喜と言う事に関して、山田無文老師は、次のように説明されています。『讃嘆随喜する人は、福を得る事限りなし』と言う中の随喜と言う言葉は、よくよく味わう必要があります。手放しで喜ぶと言う事です。手放しで喜ぶと言う事は、我執も無い、計らいも無い純粋な心でなければ出来ません。ところが、わたくしどもには、人の幸福を見ると、何かよろこべない妬みの心が沸き、人の不幸を見ると、ひそかに、ほほ笑みを感じるような、さもしい心がありはしませんでしようか。人の悪いことは、口をきわめて批難し、人の善い事は、何とかけなしてみたいような、いやしい心がありはしませんでしょうか。それらは、随喜とは程遠い、恥ずかしい心であります。
こう言う恥ずかしい心が本来の自分の心ではない事が、座禅をすれば、自覚されて行くのだと白隠禅師は説かれているのです。
更に、山田無文老師は、『自ら尊厳なる人格を自覚すること、すべての人をして、尊厳なる人格を自覚させてゆくこと、言葉をかえていえば、すべての人を仏にして行く事が、仏教と言う宗教であります。ことに禅宗は、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)といって、直に人の心を指して、真実の自己を悟らせ、仏にしてゆくという、直截簡明な教えであります。そこで、どうしたら、その人格が自覚出来るか、という方法が考えられなければなりません。その最も良い方法が座禅であり、念佛だと思います』と、座禅と共に、念佛を勧められておられます。
最近の世相は、殺伐としています。極々最近では、一流企業の東京電力が、原子力発電設備の異常記録を改ざんしていたと言う事が明らかになりました。前のコラムで食品業界に限らず、不正が行われているはずだと予言しましたが、残念ながら当ってしまいました。要するに、今の日本は、企業だけではなく、一般の我々も含めて、道義、人情、誠意は時代遅れの価値観として葬り去られ、お金が一番大切な価値になってしまっているのです。
一昨年の雪印乳業、今年の雪印食品も、三菱自動車、ダスキン、日本ハムも、損得だけが経営の価値判断となり、企業の利益を最優先させ、企業として持つべき消費者への誠意、社会への誠意は、何処かへ置き忘れてしまったのだと言うほかはありません。
実際、私が付き合って来た一流企業と言われる会社も、平気で商道徳を無視しますし、取り交わした契約すら平気で破ります。それはすべて自分の会社さえ良ければそれで良い、下請企業の一つや二つは潰れても仕方ない、或いは自分のサラリーマン人生さえ安泰であればと言う大企業に蔓延する誠意喪失・誠意無用の空気が為さしめた行為だと思います。
これは、元を辿れば、57年前の敗戦によって導入された、アメリカの弱肉強食の資本主義、和とか協調を排除する個人主義、人の心を重要視しない合理主義が浸透した結果だと思われます。このアメリカの主義の背景にあるのは、キリスト教、そしてユダヤ教です。私はキリストの教えそのものを批判する気持ちは全くありませんが、アメリカの支配階級のキリスト教には、独善的な匂いを感じています。弱者に配慮する優しさが感じられないのです。
そのあたりの事を含めてだと思いますが、山田無文老師がキリスト教と仏教の比較論を述べられた一節がありますので、下記に掲載したいと思います。
―仏教の任務― 山田無文老師の著書より
このごろ、永平寺で行われた全日本仏教大会で、最近アメリカから帰られた鈴木大拙博士が、欧米における仏教の課題というようなテーマで講演されたことが、新聞に出ていました。直接聞かせてもらったわけでないから、その内容は、はっきり申せませんが、なんでも欧米人を神の恐怖から救うものが仏教だ、というような論旨だったと拝見しました。
ヨーロッパを廻って来た多くの人が、申される事でありますが、『ヨーロッパではとにかく、キリスト教が民衆の生活の中に根をはっておる。日曜日には、皆揃って教会に行って礼拝し、説教を聞く、教会へ行かんものでも、神がないなどといったら、目の色変えて反駁してくる。ブルガリヤや、ユーゴーのような東欧のソ連圏へはいっておる国でさえそうである。そして、戦後の騒乱の中にあっても、よく道義と秩序が保たれておる』と。また、『ヨーロッパでは、学校で修身を教えなくても、教会でりっぱに倫理指導をしてくれるからよいのだ。日本では維新後、仏教や儒教を捨ててしまって、その代わりに修身科をおいたのだが、その修身科さえすてたのだから、道義の行われるはずがない』とも言われます。そして、『日本の仏教者はいったいなにをしておるのか』と、警醒されます。
キリスト教では、神様が世界をつくられ、われわれ人間をつくられ、日々の糧をさずけられ、われわれは、その恩寵によって、生かされておるのであると説かれます。そして、神様から道徳の実践を命令され、常に監視され、死ねば神様の審判をうけて、善行をしたものは神のお側に召され、悪事をはたらいたものは、地獄に堕されると教えられます。幼少から洗礼を受けて、キリスト教徒となったものは、かかる神を信じ、神を恐れ、その命令に絶対服従して、道義を守らねばならんのであります。したがってキリスト教のかたがたは、きわめてまじめで道義的であります。
仏教の方は違います。世界も、我々も、因縁によって生まれたのであって、仏様が生んでくれたわけではありません。われわれの日々の糧は、自然と大衆勤労の恩徳であって、仏様からさずかるのではありせん。われわれの道義は、自らの自覚によって実践されるべきものであって、仏様に命令され監視されて、するわけではありません。我々が地獄へ行くのは、みずからの業によるのであって、仏様に裁かれて、追いやられるのではありません。
閻魔大王と言う仮説的人物もただ、罪の軽重を記録のままに正確に調査判定する役であって、処罰権を持っているわけではありません。
火の車造る大工はなけれとせも、
と古歌にありますとおり、いわゆる自業自得であります。仏教には、命令されたり、監視されたり、審判されたりする仏への恐怖はありません。きわめて自由であります、人間尊重の宗教と申すべきであります。そこで考えますことは、キリスト教徒は、非常に道徳的でりっぱでありますが、それは命令され、監視され、強制されて行うものであって、すなわちそれは、恐怖感による他律的道徳であって、真の道徳とは言えぬのではないかと思います。
おのが造りておのがのりゆく
『神様が存在するとは信じられない、しかし、こうして民衆を教会に通わせておけば、悪い事はしない、犯罪が少なくなる、ことに敗戦日本を救うには、キリスト教に限る』というような功利的な考えで、キリスト教を宣伝しておる人も、中にはあろうかと思います。いずれにしても、『キリスト教国のひとびとは、神に対して、恩籠というよりも、むしろ深い恐怖心を持っておる。そこには、人間の自由はありえない。神は主であり、人間は絶対に服従しなければならない僕である。人間と神との関係は、このような主従関係であって、きわめて封建的である。現代の欧米人をして、かかる神の権力と恐怖から解放して、真実自由をえせしめるものが、仏教でなければならぬ。仏教は今後、欧米に対して、このような重大な任務を持っておる』と、鈴木博士は結論されておったようであります。
なるほど、その点は、仏教は自由であります。乃至10念しただけで、極楽へ往生できるし、一座の座禅をしただけで、無始劫來の罪障は消え失せ、地獄も餓鬼も畜生も、どこかへふっとんでしまって、たちまち浄土が、そこに展開されるというのであります。その浄土は、単なる主観的な浄土ではなくして、完成されたる人格が自覚されることによって、自己と周囲がおのずから浄化され、自然に道義が高揚されて、理想世界が実現することでありましょう。
親鸞聖人に、もし、弥陀の本願が悪人正機であるならば、世の中は悪人ばかり増えて、善いことをするものはなくなるであろうと、たずねる人があったとき、親鸞聖人は、『善をなすのも悪をなすのも、みな因縁にもよおされてするのであって、しようと思って、出来るものではない、それなら、人を千人殺したら極楽へやってやるといわれて、千人の人が殺されるであろうか。因縁がもよおさなければ、千人はおろか、一人の人でも殺せるものではない』と答えておられます。また御和讃に、
罪障、功徳の体となる
と歌っておられるように、ご信心がいただけるならば、しようと思わんでも、努力せんでも、おのずから道徳が行われなければならんと思います。
氷と水の如くにて
氷多きに、水多し
障り多きに、徳多し
悟りが開け、完成された人格が、自覚されるならば、おのずから、そこに智慧と慈悲が、かがやきそめ、菩薩行が実践されてこなくてはなりません、命令されなくても、監視されなくても、また審判の恐怖を感ずることもなく、思いのままにふるまって、それがりっぱに道徳に適うようになるでありましょう。そして、われも完成され、人も完成されて、この地上に遠からず浄土が建設されることでありましょう。そこのところを『浄土即ち遠からず』と歌われたと思います。
No.209 2002.08.29
資本主義も崩壊か?
日本においては、雪印グループ、三菱自動車、日本ハムグループ、ダスキンと相次ぐ大企業の不祥事、アメリカでは、ワールドコムなどに見られる粉飾決算と、世界レベルで企業倫理喪失と言うか、結局は一人一人の人間の倫理観喪失による企業崩壊が始まっているのだと思う。
私自身、社会に出てから、チッソ株式会社、バンドー化学株式会社と、一応は合計22年間一部上場企業に身を置き、納入先、仕入先の一流企業とも付き合いをした経験がある。そして脱サラ後も、セイコーエプソン、シャネル社、クリスチャンディオール社等の世界のブランドメーカーとも接触を持った経験から言うならば、ここ10年位の間に、企業倫理は、人間として守らねばならない、相手を思いやる心、最低限必要な商道徳・ルールも何処かへ飛んで行ったと言う感は否めない。損得・競争が価値基準になってしまったのである。
義理・人情と言う事を今の企業で発言すると、何を時代遅れの事を言っているのかと糾弾され、表舞台から去らねばならない。法律を掻い潜り、或いは法律を破っても、企業に利益をもたらす人が経営トップへと駆け上って来たように見えるし、そう言う狡猾な人材を抱えた企業が日本の一流企業にのし上がって来たのではないか。
人格円満、他人を思いやる人格では、経営トップにはなれないと言うのが、特にバブル崩壊以降の日本企業の実態ではないか。そして、真面目に技術を磨く零細企業よりも、いち早く、中国へと生産拠点を移す、機を見て敏なる企業しか生き残れないのが、今の日本の状態である。
もう直ぐ、あの同時多発テロの日と言われる9月11日がやって来る。1989年、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義が崩壊したと言われたが、資本主義社会の、世界経済の象徴と言われたニューヨークの貿易センタービルの崩壊は、お金がすべての資本主義社会崩壊の始まりを意味するのではないかと私は密かに思っている。
共産主義もうまく機能すれば、平等公平な社会を形成するはずだった。富を偏らせず、平等に分配すると言う考え方は、決して間違っていない。しかし、これは性善説を前提とした理想論だった。皆が等しく一所懸命に働けばと言う事が前提だったが、必ずしも皆が皆一所懸命には働かなかった。いくら頑張っても、頑張らなくても得る富が一緒だったからである。
いや、むしろ共産主義国家にあっては、トップの権力者が一番良い生活をしているのでは無いか。イラク、ロシア、北朝鮮、中国、何れも国家権力者が民衆と同じ生活苦を味わっていれば、脅威そのものであるが、報道を聞く限り、最早共産ではなくなってしまっているのではないかと思う。
一方、資本主義は競争社会である。頑張ったものが、それなりの富を持てる。頑張らなければ、餓死する場合もある。小泉首相は市場の競争に任せて、より良い社会に変えると言うが、競争は、人を励ます面もあるが、狡猾にする面もあるのだ。結局お金がすべての社会になるのである。競争させれば、努力工夫して、技術も向上し、コストダウンも為されると言う性善説に頼った社会であるが、見事に裏切られた事は、冒頭の企業不祥事に如実に現れている。
私は決して食品企業だけの問題では無いと思っている。名のある企業こそ、官僚と組んで、一杯悪い事をして来たに違いないのである。だから、大企業になったと言って良いのではないか。一度、トヨタ、松下、ソニーも調べてみたらどうかと思う。必ず、埃は出るに違いないと思う。それが、人間社会だと思う。
そして、そんな日本を支えて来たのは、善良な中小零細企業だと私は思う。その夢多き中小零細企業の社長の痛みが小泉首相に届かないのが、まことに残念である。今の日本の民衆は、95%は中小零細の経営者とその家族、そして勤務する人達である。一律に助ける訳にはいかない事も良く理解した上で、政府金融機関の決断を促したいと思う。
22世紀になった人類が、20世紀末から21世紀の初頭を振り返る時、共産主義も資本主義も、性善説に頼った机上の空論だったと言う事になろうと思う。今の私にも、どう言う社会にすべきかは答えられない。しかし、パレスチナ問題、テロの恐怖、インド・バキスタンの緊張、日本の沈没と中国の活況現象は、アメリカを中心とする資本主義社会の行き詰まりを示している。
性善説が悪いと言う訳ではない、性悪説で管理しなければならないと言う訳でも無い。私は仏教の考え方の根本である、中道(ちゅうどう)と言う考えに立たねばならないと思う。 競争ばかりを強調するのも、平等ばかりを強調するのも決して良い結果になら無いと、歴史が証明している。規制緩和が日本を救うと言う幻想に惑わされてはいけない。護送船団方式で規制していた頃の日本の方が良かったと言う面もあるはずだ。規制が悪いのではなく、規制を利用して市民へのサービスを疎かにした企業と、その企業に甘い汁を求めた政治家が悪かっただけではないか。
私は、現時点では、この資本主義者社会の犠牲者になろうとしている訳であるが、資本主義社会と言うものは、一皮めくると、企業も人も、損得だけ、人情なんて持つと自分が抹殺される仕組みになっているのである。だから、一人一人の人間を責める訳にはいかないのである。皆、共に、同じ業を背負わされているのである。この業を、人類の智慧で、変えていかなければ、人類そのものが崩壊・絶滅するのではないかと思う。
この前の日曜日、報道2001と言う番組で、竹村健一氏が、『学校教育から宗教を排除したツケが、今日の日本に廻って来ている』と発言していたが同感である。人間の生命、生きとし生きる生命を見つめる教育無くして、共に幸せな日本も世界もやって来ないと思う。
私も、負け犬の遠吠えにならないように、何とかして事業を存続し、やがて復活させたいと言う想いで、あらゆる可能性に賭けて、日々挑戦しているところである。
No.208 2002.08.26
白隠禅師座禅和讃に学ぶ ―4―
●まえがき:
『エニアグラム』と言う人間の性格を9つに分類する考え方があります。これは2000年前のアフガニスタンで生まれて現代まで、キリスト教とも結び付きながら受け継がれて来たものです。学問ではなく臨床的にまとめられたもので、かなり完成度が高いのではないかと思われます。興味ある人は、『エニアグラム』をクリックして覗いて見て欲しいと思いますが、私は、少々切り口を代えて、人生への取組み姿勢と言う観点から、人のタイプを下記3タイプに分類出来るのではないかと思います。
1. 自己実現を目的として、人生を真面目に、真剣に生きようとするタイプ
2. 自分の能力を過小評価し、人生なるようにしかならないと諦めて生きるタイプ
3. 本能のまま、自分の欲望のみの充足を求めて、人生の刹那刹那を生きるタイプ
そして、タイプ1に付いて、やや独断的ではありますが、下記二通りの性格を持つタイプが対極にあると考えています。
他力派的性格:
人に甘える一方、自分も他人を甘えさせる。他人にも自分にも優しい。根拠なく自分を信じる一方、他人をも信じやすく騙され易い。後悔もし取越し苦労もする。小さな目標では頑張れない、大きな目標が見付かった時にのみ、寝食を忘れて頑張れる。他人を傷付けない事に心を砕くが、自分は傷付きやすい。行動に移る前に先ず考え、なかなか行動に移らない。神経が細やかで思いやりがある。感動・感激し易い。人間を超えた力を信じる感覚派。自力派的性格:
他人に甘えないし、他人を甘やかす事もない。他人にも自分にも厳しい。自分に自信を持ちたくて努力精進に励む、だから他人を簡単には信じない。過ぎ去った事をくよくよ後悔しないし、取越し苦労は殆どしない。どんな小さな目標でも頑張れる、強いて言えば、目標がなくても頑張れる。その時その時を淡々と生きる事が出来る。他人を傷付けても、自分が傷付けられる事は殆どない。行動的である。感動・感激する事はあまり無い、あっても決して表現しない。人間の智慧を信じる理性派。勿論、中間派的性格も無数に存在する事は言うまでもない事であります。
タイプ1が仏道を求める時、お釈迦様の説かれた原点を知る意味でも、大乗仏教の二つの流れである、聖道門(禅)と浄土門(念佛)の両方を知るべきだと思っていますが、取っ掛かりにおきましては、他力派的性格の人は親鸞の浄土真宗の教えが、自力派的性格の人は禅宗の教えが、心にぴったり来るのではないかと思います。勿論、至り付くところは、道は違っても同じ悟りの世界、信心の世界だと思いますし、自力派的性格の人が必ずしも、聖道門でのみ、救われるとは限りません。他力派的性格の人も、親鸞聖人の道のみに従って、救われるとは思いません。悟りも縁なのではないかと思います。
世間で成功者と言われる人が人生の成功者であるとは言えませんが、しかし、世間に立ち戻って考えますと、世間において認められ、社会的地位を得る人の性格は、圧倒的に後者の方だろうと思います。前者は、後者に利用され、支配されるケースが殆どであると実体験的に感じます。しかし世間で比類なき実績を残し、後世にまで広く感銘を与える卓越した仕事を残すのは、前者の方でしかないのではないかと思います。
最近のアメリカ大統領では、レーガン・クリントンは前者、ブッシュ親子は後者だと思います。日本の歴史上人物では、聖徳太子・徳川家康は前者、織田信長・豊臣秀吉は後者だと思います。
私は、正真正銘の他力派的性格だと自己分析をしています。私は、今回の苦境に鑑みて、結局は今までのところ、他人・他企業に散々利用されて生きて来たと思っています。そして、ゼロのスタート点に立ち帰って世間を生きたいと思う一方、決してゼロではないと思います。また、思うべきでは無いと思っています。
これまで生きて来た過去において得た、人・物・金・知識・技術・経験のすべてが無に帰する訳では毛頭ありません。実際、特に人に付きましては、物と金を失う時に、本当の人財(私にとっては宝とも言うべき人)に気付かされます。そして、今回の経験は、決して歓迎出来ませんが、必ず将来に生きる経験となるはずであると思います。
この座禅和讃の白隠禅師は、大悟13度、小悟その数知れずとお聞きしますから、間違いなく前者だと思います。何故かと申しますと、自力派的性格ですと、一回の悟りで、我悟れりと留まってしまいますが、他力派的性格の場合は、常に自己に懐疑的で、悟りを求める心は死ぬまで衰える事はないからです。
●本文:
夫れ摩訶衍の禅定は。稱嘆するに餘りあり。布施や持戒の諸波羅蜜。念佛懺悔修行等。その品多き諸善行。皆以の中に皈するなり。●現代意訳:
そもそも最も勝れた禅定は、衆生本来仏である事を体験するのだから、称嘆し尽くせるものでは無い。悟りに至るための、6度と言われる布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の行も、念佛も懺悔も色々な修行も、世の中で善と言われる行為も、この一切の妄念やハカライを捨て切った禅定を離れては成り立たないのである。●あとがき:
禅とは、梵語のディアーナと言うのを禅那と当て字したものを簡略に禅と言ったまでで、禅に意味はないのです。ディアーナは、静かに慮ると言う意味の梵語であり、禅定とは、静かに慮り、心を定めると言う事になりますが、禅宗の六祖大師は『外、相を離るるを名付けて禅と為し、内、乱れざるを名付けて定となす』と禅定を説明されていると聞きます。これを言い換えますと『人間性の真実を掴むを名付けて禅と為し、そこに確乎たる安定感をうるを名付けて定となす』と言う事になります。禅定は、必ずしも座禅に限定しているのではないですが、座禅が最も禅定に適しているからこそ、白隠禅師は、この座禅和讃で、座禅を勧めておられるのです。そして、解釈しようによりましては、座禅が念佛より勝れていると取り違えられかねませんが、昭和を代表する禅僧、山田無文老師は、次のように説明されています。
『唱うれば、仏もわれも、なかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と言う古歌があるように、唱える我もなく、唱えられる仏もない、いっさい分別はからいを捨てた凡聖不二、彼我一如の境地を忘仏と申しましょう。それが、三昧の境地であって、つまり禅定にほかなりません。念佛は禅定であり、禅定の境地においてのみ真実の念佛が行ぜられるのであります。 親鸞聖人が、『ただ六字を唱うる中に、一切の行はおさまり候也』と言っておられるのも、ここでありましょう。念佛が即禅定であるから、六度万行ことごとくその中におさまっているわけであります。
親鸞聖人は、旧仏教団体と幕府の念佛弾圧により、すべてを失って京都から越後に流罪され、 また、妻子以外のすべてを捨てて越後を離れて関東に赴かれました。そして関東から京都へと大いなる放棄の人生と言う旅を経験されたのであります。しかし、旅の先々で念佛と言う種を蒔かれて、結果的には実りある人生を全うされたと思います。
それは、禅定の中の念佛、念佛の中に禅定を求められたからだと思います。
No.207 2002.08.22
零細製造業の痛み
平成4年1月、私は19年間勤務したゴム会社を脱サラして会社を設立した。世界のトップシェアーを誇る大手プリンターメーカーへ納入する部品メーカーの下請けとしてスタートした。
そして、バブル崩壊後の丸10年間を何とか倒産に至らしめずに続けて来たが、遂に今年の1月、中国製品によって、その事業を失い、工場(賃貸)を半分に、一時期40名を数えた従業員を1名にまで減らし、私と息子と合わせて3名で再スタートしたのである。こう言う事態を想定し、8年前からオリジナル製品、オリジナル技術の開発に取り組んで来た訳であるが、最初に開発した、口紅ケースを利用した印鑑(ネームキッス)は、テレビ各局の取材攻勢を受け、総販売本数7万本を販売したが、事業の柱になるかと思ったのも束の間、タマゴッチよりはましではあるが、流行商品の運命を辿り、最盛期は平成8年6月から平成9年の7月までの1年間で終わった。引き続き、口紅ケースを再利用する商品を相次いで上市したが、それらは在庫の山となって残るだけだった。
そして3年前、流行商品ではない、工業分野における基礎技術を偶然と言うべきキッカケから開発した。この技術はアメリカ特許、ヨーロッパ特許も取得したものであるが、基礎技術はなかなかお金に成り難いものである。技術を実用化出来る水準まで仕上げ、用途を開発し、製品にして、漸くお金に換わる訳であるが、残念ながら、それには、考えもしなかった位の開発資金が必要だった。
基本特許と関連特許を申請するだけで、百万円を超す費用が掛かった。そして、技術を完成させるための研究費、用途開発の為の費用を考えると、零細企業にとっての負担は4年間で一千万円を超える金額となった。下請け事業として続けたプリンター部品加工の付加価値分は、人件費と家賃等の固定費を満足する程もなく、とても開発に必要な原資とはならなかった。従って、開発費はすべて銀行融資に頼って来たと言うのが実体である。
しかし、そうでもしなければ、零細企業に明日は無かったのである。今年1月、究極のリストラ(事業再構築)を断行したが、特許技術による製品開発は、マリンスポーツ用の耳栓と、ゴルフシューズのインナーソール(中敷き)を世に送り出したが、消費が低迷するこの状況の中、期待した通りには販売高を伸ばせていない。そして資金は枯渇し始め、遂に会社整理・自己破産さえも頭に浮ぶ事態になってしまった。
私は最後の最後まで生き残る道を模索して頑張る積もりではある。しかし、技術指向の、そして大きな志を持った、多くの零細製造業の社長を代表して、この痛みを訴えて、新しい基礎技術に対する投資環境整備が、これからの日本浮上に絶対必要である事を提言したい。日本の価値ある人・物・金・技術・技能・情報が低賃金の中国を始めとする東南アジアに流れ出ている。それも大企業が無節操に送り出していると言って良いだろう。この流れを止めるのは、政府の施策でしかないのだ。
私は、これまで東証1部上場企業の2社に勤務した経験があるが、技術開発テーマを決める時、大企業は市場調査をして、その技術開発が成功したら、幾らのお金になるかと言う机上の計算をしてから、取り組むのである。10年前のデーターではあるが、開発して直ぐに年商が約1億円にはならないとテーマには採用されなかったと記憶している。市場規模の分らない技術開発には決して取り組まなかった。
日本を代表する技術と製品は、ロマンを求める中小零細企業のオーナー経営者が、市場調査に頼る事なく、心意気で開発して来たと言う歴史がある。これまで世の中になかった基礎技術であればあるほど、世に知られるまでに時間が掛かり、用途に回り逢うまでには、兎に角時間が必要なのである。私の開発した基礎技術と比較するのは畏れ多いが、あのノーベル賞の白川教授の発見した導電性プラスチックス、ポリアセチレンにしても、用途に結び付き、企業化されて、お金に結び付くまでには20年と言う歳月を要したと聞く。発明からノーベル賞まで30年の歳月を要したのだ。
市場規模が特定出来ない基礎技術に対して投資してくれる資金余裕と専門知識と度胸のあるベンチャーキャピタルはないし、M&Aに応じてくれる企業もない。公的な開発助成金は、開発に必要な半額、しかも後払いであり、資金に困っている零細企業の助けにはならないのである。
国民に痛みを求める小泉首相には、是非、これからの日本の技術を底辺から支える零細企業の痛みの呻き声に耳を傾け、然るべき政策を取って欲しい。
小泉首相に思い出して欲しい仁徳天皇の感動的な逸話がある。仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられて「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ「向こう三年、税を免ず」と詔(みことのり)された。それからというものは、天皇は衣を新調されず、宮垣が崩れ、茅葦屋根が破れても修理もされず、星の光が破れた隙間から見えるという有様にも堪え忍ばれたと言う。首相官邸の新築も必要な部分もあるだろうが、日本の零細企業のかまどから煙りが立ち昇り出す施策もお願いしたいものである。
No.206 2002.08.19
白隠禅師座禅和讃に学ぶ ―3―
●まえがき:
今回は『長者の家の子となりて、貧里に迷うに異ならず』に続く『六趣輪廻の因縁は。己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえていつか生死を離るべき』に付いて解説するものですが、『もともと誰の心の中にも仏性があるのに、それに気付かずに、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(ぐち)に振り回された凡夫の生活を続けると言うのは実に憐れである』と白隠禅師は嘆かれ、それは、誰の所為でもない、灯かりに背を向けて、暗闇をさ迷い続ける、自らの業なのだと言われるのです。凡夫とは常に不安に駆られ、常に迷う存在です。その迷いから覚め、確かな道を歩んで行く方法は、ただ座禅をして、自分の仏性に気付いて行く事だと白隠禅師は私達に説いて行かれるのですが、今回は、その前段としてのお言葉です。
しかし、苦しみのどん底にありながら、静かに座禅をすると言う芸当は、今の私には出来ません。『こう言う時こそ、仏壇の前に座り、静かにお念佛を称えるのが本物の仏教徒なのだ』、と言い聞かせて座ってはみますが、心は、お念佛から離れ、経済的な打開策、会社存続のシュミレーション、資産の売却交渉の事、賃貸住宅での生活、息子夫婦と3人の孫の顔、これまでの人生の歩み、そしてこんな事を考えている事自体が夢であって欲しいとか、まさに檻の中の猿が落ち着きなく飛び回るように、妄念の凡夫と化するのが、偽らざるところです。
そして、本当に苦しい時は、マイナス思考とプラス思考、悲観と楽観が波状的に襲って来ます。どうしようも無く心が落ち込む時と、何とかするぞと挑戦意欲がみなぎる時が、交互にやって来ます。常に強気のチャレンジ精神を維持し続ける事は現実ではありません。しかも、幸か不幸か、これは私も妻も同じ心模様です。そして二人を襲う波は、ほぼ同波長です。
私と言う凡夫の実体はこの様なもので、心静かに座禅し、お念佛を称えると言う訳には参りません。しかし、有り難い事に、私達夫婦には、因縁果の真理が身に染み込んでいるのでしょうか、最後は、『転落する時は堂々と転落して行こう、生活の転落はあっても、心の転落だけはすまい』と、因縁によって生じる果報を、そのまま受け容れて生きて行こうと言うところに落ち着きます。『闇路に闇路を踏みそえまい』と……。
●本文:
六趣輪廻の因縁は。己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえていつか生死を離るべき。●現代意訳:
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上、この6つの迷いの世界を浮きつ沈みつ、さながら車の廻るように転びゆき、果てしない所謂六道輪廻を繰り返しつつ、なかなか迷いの世界から出られないのは、誰の所為でもない。すべて自分がつくった貪欲・瞋恚・愚痴の業が然らしめているのである。俺が俺がと言う妄執から出ているのである。この事に早く気が付いて欲しいものだ。●あとがき:
今回の言葉に出て来る『闇路』とは、灯かりの無い道、即ち、仏様の心に気が付いていない真っ暗な、迷いの境涯を指差した言葉です。迷いの世界を生死の世界とも言います。生と死を区別する、即ち、永遠の生命が得られない迷いの世界を生死の世界と表現します。ですから『何時か生死を離るべき』と、『闇路に闇路を踏み迷って、何時になったら、迷いの世界から脱出するのか』と嘆かれているのです。すべての宗派共通の礼拝文である三帰依文と言うお経に『人身受け難し今すでに受く、仏法聞き難し今すでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、更に何れの生にむかってか、この身を度せん』と言う言葉がありますが、『何時か生死を離るべき』とは、この事を言い換えたものだと思います。『度(ど)』と言うのは、彼岸へ『渡る』と言う事で、『衆生本来仏なり』と自覚する事です。
心の中の仏様を忘れてしまうと、糸の切れた凧の様に何処へ飛んで行くか知れません。私達は、苦しさのあまり仏様を忘れる事があります。楽しい事に有頂天になって仏様から遠く離れた生活に溺れる事もあります。それを『闇路に闇路を踏みそえる』と言うのだ思います。
魂が生まれ変わり死に変わって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を流転輪廻するのではなく、この世に生きながら、これらの境涯を経巡る事は、人生ギリギリの状況に立つ時に初めて実感させられます。
このコラムで、何度か譬え話として出して来ましたが、平生は満々たる水を貯えて美しく見える池も、いざ水が引き、池の底が現れた時、得体の知れないガラクタが姿を現しますように、人の心も、苦しみのどん底に突き落とされた時、初めて自らの本性と対峙します。
自殺者の気持ちも少し理解出来る弱く情けない自分、銀行強盗の気持ちも少し分るお金が欲しくて仕方の無い自分、名誉を失いたくない自分、神も仏もあるものかと思ったりする罪深い自分、戻らぬ過去を後悔する自分、もう一度あの幸せな時に戻れればと愚痴の心が沸き上がる自分と対面します。これまで、こう言う心境だけにはなりたくないと否定して来た人物が私の心の中に一杯いる事に気付かされます。
しかし、それと同時に、この苦しみもがく時に、初めて本当の仏様と出遭えるのではないかと思った瞬間があります。真っ暗闇の中だからこそ感じられる光りではなかったかと思いました。
私がもし仏教徒でなければ、恐らくは今、後悔と恨み、自暴自棄の地獄の底に落ちているだろうと思います。勿論、常に『天命に安んじて、人事を尽くす』と言う安らかな心境では無いのですが、この先、どんな事が待っていようとも、堂々と生きて行こうと言う心境に立ち返らせて貰える事は有り難いと思います。
後悔と恨みの生活を『闇路に闇路を踏みそえる』人生と言えるのではないかとも思った事です。
No.205 2002.08.15
世間の真実に触れる
『若い時の苦労は買ってでもせよ』と昔から言われている。この苦労は、何の苦労だろうか?多分、経済的苦労だろうと思う。苦悩は、死に直面した時、衣食住の不安が生じた時、即ち経済的な行き詰まりの時、そして人間関係のどうしょうも無い不信の渦に巻き込まれた時に最高潮に達するものだと思うが、人生において、経済的な行き詰まり以外は、必ず襲って来るものである。だから、買ってでもと言うと、やはり、経済の行き詰まりだろう。
私は、このコラムで会社の苦境を包み隠さず報告しているが、これは経済的なピンチである。しかも零細企業故に、会社と個人のピンチは同時にやって来るものである。勿論、今が最悪の経済状態ではない。今のままでは、3ヶ月後には、最悪の状態になるだろうと言うものだ。 最悪の経済状態を経験した事が無いので、それを語る資格は無いが、それに至る過程がひょっとすると最も辛い時であり、そして、最も世間の厳しさを味わう時では無いかと、今、噛み締めているところである。
何を噛み締めているかと言うと、これから経済的苦境を迎えそうな企業とか人間に対しての世間の対応振りについてである。普通の生活では見えていなかった、世間の本当の顔に出会うのだ。勿論すべての人、すべての企業の、と言う訳ではないが、鬼のような厳しさとも出遭うものなのである。
金融機関もある程度までは、見守ってくれるが、実損が出る事が予想されれば、容赦無い手段を講じるものだ。人間の中にも、溺れかけて船縁(ふなべり)に掛けた手を蹴飛ばすような事を平気でする人間も現れて来る。信じられないが、実際に存在するのである。
世間における人間関係も、企業同士の付き合いも、とどのつまり、その土台は損得勘定だと思わざるを得ないところまで追い込まれるものである。資産を失うとか経済的に苦境になる事も勿論辛い事ではあるが、淡い期待が世間の厳しさによって次々と潰れて行く事によって、人間同士の信頼関係の不確かさと虚しさを思い知らされる事の方が辛いのではないかと思ったりしている。
これは、他人に失望して言っている訳ではない。それが、実は、私自身の心の真実でもあると気付かされたからである。私は、他人に対する優しさ、思いやり、ボランティァ精神を持ち合わせている積もりであったが、この度よくよく自分の心を問い直して見た時、私も自分を犠牲にしてまで、他人を助けられそうにないのである。今の私と同一の苦境にある友人が居る事を知ったとしても、自分の財産を投げ出して、その友人を助ける事は出来ないと思う。
こう思う事は、悲しい事で、やるせない気持ちにもなるが、これは事実であり、真実だと思う。ノーベル平和賞のマザーテレサの様に社会の底辺に分け入って、自己を犠牲にしてまで救済活動に徹する人もいる。しかし、マザーテレサにも限界があり、すべての人を根本的に精神的に幸せにする事は出来ないのである。人間の限界である。其処のところを、歎異抄第4条は、親鸞聖人のお考えを次のように紹介している。
慈悲に聖道、浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念佛して、いそぎ佛になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく、衆生を利益するをいふべきなり。
今生にいかに、いとをし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念佛まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべき、と。云々。凄く鋭い洞察力と言うか、真実を知った言葉だと思う。助けると言うのは、何も経済的な事だけではない事は勿論であるが、それも含めて、人間が人間を助ける事は出来ないと言われたのではなかろうか?そして念佛のみぞ真(まこと)だと宣言されたのだと思う。念佛そのものも尊いとは思うが、それ以上に念佛が人から人へと受け継がれて来た歴史、念佛を称えようとする人の心が真実だと言われたのだと思う。私は今、久し振りに歎異抄第4条を読み直した時、以前解説した時とは、若干異なる理解になっている事を発見しているのである。
また一方、矛盾するようであるが、だからこそ人間関係だけは大切にしたいと思う気持ちも、ますます強くなっている。こう言う私の状況を、静かに祈りながら見守ってくれている友人もいる。直接励ましの言葉をくれる友人もいる。メールを下さるコラムの読者さんもいる。そして、打開の道を真剣に考え、あらゆる人脈を頼って、弟に代わってSOSを発信してくれる兄がいる。そして、いざと言う時は何とかすると言う娘夫婦がいる。明るく耐え凌いでくれている息子夫婦がいる。これも世間の片方の真実である。
あれやこれやと世間の真実に触れた時、私は、生まれて初めて、庶民にとっては生き地獄の様な鎌倉時代を、念佛と共に生き抜いていった親鸞聖人の心に少し触れた想いがしている。 それは決して、苦しみからの救済を願った自力の念佛だけではなかっただろう。人生の真実、世間の真実を噛み締めた、納得の念佛ではなかったかと思う。
No.204 2002.08.12
白隠禅師座禅和讃に学ぶ ―2―
●まえがき:
『衆生本来仏なり』とは、『凡夫が仏』と言うのですから、随分大胆な宣言であると思います。しかし、凡夫とはこう言う汚い心を持つつまらないもの、仏とはこう言う清浄無垢で、慈悲と智慧が溢れているものと言う分別がある限りは、なかなか『衆生本来仏なり』とは思えないのだと思います。禅では、自他一如とか浄穢不二(じょうえふに)とも申します。これは、自分と他人は同じものであるとか、清浄なものと穢れた(けがれた)ものは二つの異なったものではないと言っているのではないと思います。自分と他人の区別が無いようになれと言われても、誰にも不可能な事です。人間にとって、清浄なものと不浄なものは歴然と存在します。私は、それぞれ対立して存在しているのではなくて、それぞれが主体であり、事実そのものだと言う事だと思います。
禅の悟りの心を表わす言葉に『柳は緑、花は紅』というものがあります。何の計らいも無い、清浄無垢な心で見ると、『柳は緑、花は紅』です。しかし私達の心は、その時、その時によって色々な想いに囚われており、柳を見ても柳そのものを見ていない、薔薇の花を見ても、薔薇の花そのものの美しさを見ていない。『この柳を家の庭に欲しいな』とか、『この薔薇の花は、買えば幾らかな?しかし枯れたらそれまでだな』とか、心は、柳そのもの、薔薇そのものを見ていないのが普通です。
事実そのものを、そのままに見る事が出来れば、或いは受け取れたら、苦はそのまま苦であり、悩みとはならない。病も病であり、災難は災難であり、悩みとはならない。色々と計らいがあるから、楽しい時でさえ、その楽しさをも満喫出来ないのだと思います。
その時々を、そのまま受け取って行くと言う教えが、禅であり、お釈迦様がおっしゃりたかった事ではなかったかと思います。
●本文:
衆生近きを知らずして遠く求むるはかなさよ。譬えば水の中に居て。渇を叫ぶが如くなり。 長者の家の子となりて。貧里に迷うに異ならず。●現代訳:
仏は衆生のすぐ側と言うよりも、衆生が仏であるのに、仏が何処か遠くにあるように思って探し求めるとは何と愚かな事か。それは譬えて言うならば、自分が水の中にいるのに関わらず、『喉が渇いたぞ』と言う様なものである。また、折角お金持ちの家に生まれながら、家を飛び出して、貧しい生活を良しとして続けるようなものである。●註釈:
『衆生本来仏なり……衆生の外に仏無し』に続く、今回の座禅和讃の言葉です。キリスト教では、神様が居て、迷える私達が別にあります。決して迷える私達が神だとは説いていません。仏教は、私達迷える凡夫が仏になると言う教えです。いえ、私達凡夫は、元々仏だと言う訳です。お釈迦様が、暁の明星を見て、お悟りになられた時、『一切衆生皆悉く如来の智慧徳相を具有す』と宣言されました。凡夫は仏だと宣言されたのです。
であるのに、何故、私達は気が付かないのかと、白隠禅師が、嘆きとお諭しの言葉として、それは、水の中にいて喉が乾いたと言うような愚かな事だぞと言われ、また、長者の家の子となりて……と続いているのです。この話は、法華経の信解品から出ている言葉だそうです。『長者窮子の譬え』として有名なものです。この話については、別の機会に譲ります。そして、遠くに求めたが、結局は自分の直ぐ側にあったと言う象徴的な詩があります。
尽日春を尋ねて春を見ず
一日中、春を尋ねてみたが、何処にも春を見出す事が出来なかった。向こうの山、こちらの谷、あちらの丘と随分歩いたが、徒(やたら)に鞋(わらじ)をすりへらしたばかりだった。しかし、家に帰って、ふと門前を見ると、梅の花が一二輪、いともふくよかに、良い香を放って咲いている。なんだ、春はここにあったではないか。何も遠いところを骨折って探し回らなくても、極めて手近い所に、春はあったのだと言う詩です。
芒会い鞋踏み遍うす隴頭の雲
帰来却って梅花の下を過ぐれば
春は枝頭に在って已に十分これは、中国、宋の時代の詩だそうですが、春を道と捉えても良いし、真理と置き換えても良いと思います。また、仏と考えれば、白隠禅師の言葉『衆生本来仏なり』になります。
どうしても、私達は、仏様と言うと、西方の遠い所におられるように思ったり、宇宙の遠く離れたところにおられるように思って、合掌したりします。また、悟りを開こう、悟りを開こうと修行致します。座禅をします。念佛を称えます。しかし、その座禅しているそこに仏さんがいる、念佛そのものに仏が宿っているではないか。称えている人、座禅しているその人が仏そのものではないか、と白隠禅師はおっしゃりたいのだと思います。
No.203 2002.08.08
大いなる放棄
今から2500年前、お釈迦様は、釈迦族の王様の皇太子として何不自由無い暮らしをしておられました。しかし、民の苦を身近に感じられ、宮殿を捨て、妻子を捨てて、真理を求めて山奥に向われました。老・病・死と言う、人間誰にでも襲ってくる苦からの解脱を求められての事だと聞いております。
世間を捨て、仏道を求める事を出家と言いますが、このお釈迦様の大いなる放棄、凡夫にはなかなか為し難い事であります。
私は今、これまでの人生で最大の捨てる決断、大いなる放棄を迫られています。お釈迦様とは全く次元が異なり、自分から進んで下す決断ではありません。経営の存続が難しく、致し方なく、妻以外のすべてを捨てて人生の再出発をしなければならない可能性が極めて高いのです。勿論、決断しようがしまいが、来るべき時が来れば、それに従うしかないことも分っています。
しかし、何事にせよ、捨てる事は実に辛い事です。執着断ち切り難しと言う事を味わっています。このコラムで何回か、苦難に処する姿勢を書いて参りましたが、いざ、自分が自分のものすべてを捨てると言う状況になりますと、なかかな心が、感情が納得しないものです。いわゆる我執、自己愛の蟻地獄に落ちたようなものです。
心の何処かで裸一貫になる覚悟はしているのだと思うのですが、それでも何とかならないかと、心の葛藤、悪あがきは、自分で止める事が出来ません。
しかし、『人生で最も捨てたくないのは命なんだなぁ』とも思いました。今、自分の資産と社長の身分と生活を捨てる胸苦しさに悩んでいますが、もし仮に、今、お医者さんから、余命3ヶ月と告知されれば、その瞬間から、この世を捨てて死ぬ事が私の最大の苦しみに代わる事は間違い無いと思いました。
その時、私は生かされ生きている事実を忘れて、死を前にすれば何の手助けにもならない世間の名誉、財産を失う事に心を悩ませている自分の本性に出会いました。私が、お釈迦様のお悟りの心境には程遠くある事は、前から気が付いていた積もりですが、お釈迦様が大いなる放棄をされた時の心境からさえも程遠い自分を知り、自分はどこまで落ちて行くのかと思わざるを得ませんでした。
しかし、私には、このコラムを読んで、温かいお励ましメールをくれた友人と、色々な面で支えてくれる子供達がいる事を知らされました。そして、私と寸分違わぬ想いで苦しみ・支え励ましてくれる妻がいます。世間と言うのは、いざと言う時には、離れて行く人もいるけれども、いざと言う時に励ましてくれる人もいます。世間の事実と真正面に向き合い、私は、負け惜しみではなく、如来(にょらい)の真実義(しんじつぎ)に触れている想いがしています。
昔、私の尊敬する名古屋の西川玄苔老師が、凄い交通事故に遇われて、足を複雑骨折する怪我をされた事がありました。足の根本をゴムバンドでキリキリと締め上げ、血流を止めての手術だったそうです。普通は、30分しか辛抱出来ないらしいですが、手術が長引き、1時間近くになったそうです。その時の痛さについて、『痛いぃー』と言う事しか無かったそうです。『この痛さは事実そのものであり、この事実が真実なのだ』と覚られたそうです。そのお話しを思い出しています。禅の表現をしますと『痛三昧(つうざんまい)』と言う事でしょう。
勿論、縁の働きによって、人生はどう好転するか、暗転するか、これは誰にも分りません。だから、今自分が出来る事をやるしかない、そして後は因縁果の道理のままに任せて、世間の出来事を事実として受け取っていくしかないのだと、心を落ち着かせているところです。
私は、自分の直面している苦難の事実を素直に語って、苦難に直面している方への何らかのメッセージになりはしないかと、キーを叩いています。振り返った時に表現する辛さと、辛い三昧にある時に表現する辛さのニュアンスは違うと思い、辛い今だからこそ書けるメッセージを残したい、そう言う想いでキーを叩いています。
人生の楽しい時は、楽しい時を満喫すべきだと思います。私にも、そんな時も多くありました。今は、辛く苦しい、胸苦しい時です。この辛い時も、同様に満喫しなければならないと言い聞かせています。一方を満喫して、片方は満喫せず逃避するのでは、人生を半分しか生きなかった事になるのではないかと思います。
私達が生き抜く世間と言う人生には、私の小賢しい智慧、想像力、予知能力を遥かに超えた智慧と慈悲が働いているように思います。それが、神であり、仏様の働きだと思います。『小賢しさを放棄して、阿弥陀仏にお任せして、お念佛を称えながら生きて行きなさい』と言うのが親鸞聖人のお教えです。そして、『色んな計らいを捨てて、ただ座禅をして(只管打坐)自分の中の仏性に気付きなさい』と言うのが、白隠禅師座禅和讃に示される禅の心だと思います。
蓮如上人が『仏法を主として、世間を客人とせよ』と言われています。『世間をうまく渡るために仏法があるのではない』と言う意味だと思いますが、私は、仏法と世間は主客の関係にないのではないかと思います。世間そのものが仏法だと思いますし、仏法が世間だと思います。そんな事も感じます。
このコラムが掲載される頃、私は、東京行きの新幹線の中だと思います。開発に関する重要な打ち合わせです。人生は縁に依って変わって行くと申しますが、自ら行動を起さねば何も変わらないと思います。動く動かないのも縁だと言ってしまうと、運命論者になってしまいます。
運命は、私が切り開くもの、しかし、私一人だけで、運命が決るものでも無い。様々な縁の働きに依って運命が決って行くのだと思います。その縁を呼び込むためには、自らが、行動を起さねば、何も起らないし何も変わらないと思います。
『果報は寝て待て』と言う言葉もありますが、因と縁が無ければ、果も報も生じません。 人生における因は自分の意志です。意思を持って行動した後は、自分の小賢しさを捨て、縁に任せて、寝て待てと言う事だと思います。
大いなる放棄、これは真実信心の仏道の扉を開く痛みなのかも知れません。
No.202 2002.08.05
福岡の義父が…
白隠禅師座禅和讃に学ぶは、事情あってお休みを頂きます。
8月2日午前0時03分に、眠りに就きかけた枕元で、電話が鳴りました。深夜の電話は不吉な予感が致します。やはり福岡の義兄から義父の訃報を知らせるものでした。
昨年の7月31日に義母が亡くなり、今年の8月3日(土曜日)は一周忌が行われる予定でした。ただ、私達夫婦も息子も、会社の状態が状態であり、福岡行きは無念の想いを持って断念していました。そこに義父の訃報でした。結局は、私達夫婦も息子も、2日の午前中一杯はどうしても外せない仕事があった関係で、午後1時過ぎに車で出発、途中岡山に住む娘夫婦を拾って福岡に向いました。午後9時には、福岡の西区のお通夜とお葬式が行われる葬儀場に到着したと言う次第でした。
8月3日の義母の一周忌は、なんと義父のお葬式の日となってしまいました。 何が起るか分らないと言いますが、まさにその通りの事が起りました。私達は福岡に行かない積もりでしたが、どうしても行かなければならない縁の働きと言う事でしょう。義父に呼び寄せられた想いが致しました。私達には分らない説明のつかない縁の働きですが、兄弟や甥っ子達の親戚には、私達が義母の一周忌に参加出来ない事で、かなりの心配を掛けていたようです。その説明はきっちりとして参りました。或いは、その説明が必要だったのかも知れません。
8月4日午後8時に漸く自宅に帰って参りました。
お経の解説と言う作業は、心を集中させる事が何よりも肝心です。そして文献やインターネットで事実や情報を確かめたりする時間も必要でして、毎回正味10時間は掛かっています。という訳で、白隠禅師の座禅和讃に学ぶは、1週間後にさせて頂きます。
No.201 2002.08.01
脱サラ物語
今、自分史とも言うべき『脱サラ物語』の製作に取り掛かっている。それどころではない状況ではあるが、この状況だからこそ書き表わせる臨場感を大切にしたい。そう思って、技術開発・用途開発と併行して取り組む事にしたのだ。
すでにA−4で21枚目まで進んでいたのであるが、経営危機が間近に迫った今、振り返って書く脱サラ物語の内容の殆どが苦闘の連続物語となっていた。苦闘物語は『こんな事をしてはいけない』『こんな考え方をしては失敗する』と言う、べからず集にはなる。
べからず集は、『こうすれば、こんな考え方をすれば良いのだな』と言う経営指南書になる面もあるが、人それぞれが遭遇する経営苦難は、その内容も大きさも状況も異なるわけであるから、万人の参考にはなり得ないなと、書きながら自分自身、どうも違うな、本当に伝えたいメッセージは、これではないと思っていた。
そんな想いを抱いているところに、脱サラ物語の原稿を見て、岡山に住む娘婿から次の様なメールが届いた。
『大変かとは思いますが、しっかりしたお気持ちが伝わってきていますし、我々夫婦もバックアップを惜しまない気持ちでいますので、絵に描いたような"悲惨"な事態には成り得ないと妙に安心しています。思いっきりヤリタイ放題やってください!
この間、何とは無しにCSを見ていたのですが、ある番組でアメリカの有名な詩人が"青春"というものを定義するにあたって、「青春とは肉体的な一時期を言うのではなく、精神の有り様を言うのだ(中略)」と言っていました。既にご存知だったかもしれませんが。前進や努力、研鑚、挑戦といった姿勢を目の当たりにした時、確かに当事者の年齢に関り無く、すがすがしい感覚を覚えます。自分もそうでありたいと思うと同時に、常日頃の國彦さんを見ていて、今もまた感じている事でもあります。
大変な時期にあまりに楽観的で不謹慎な男と思われてもしかたがありませんが、現実味のある切羽詰った話は今の私にはする能力がありませんので、ご容赦ください…。 頑張ってください!』有り難い励ましのメールだった。こんなメールをくれる婿さんと縁があったと言うだけで、人生は成功したと言っても良いのではないかとさえ思えた。そして、このメールが、脱サラ物語を書き進める上での壁にぶち当たっていた私の目を覚まさせてくれた。
『そうか、私は自分の歩いて来た人生を、ずっと苦労の連続と捉えて来たが、苦労とは、視点を変えて見ると、挑戦だったんだ』と目からウロコが落ちる想いがした。
同じ日、ある本で、ベンチャー企業の生存確率が、起業6年で37%、10年となると8%と言う事を知った。そうすると我が社は現在10年半生存して来たから、100社の中の8社に入っているのだ。良く頑張って来たではないか。苦難・危機に遭遇するたびに、良く難題に挑戦し、乗り越えて来たではないかと。そして、まさに現在も、挑戦中ではないかと……。
娘婿のメッセージと、このベンチャー企業の生存確率データーから、私は、脱サラ物語を、失敗の記録、苦労の記録ではなく、挑戦の記録と言う視点から、書直そうと思った。そして、人生の成功は挑戦し続ける事である事を最大のメッセージにしようと思った。
失敗は成功の素(もと)と言う。私も数ヶ月後には、倒産・自己破産に至るかも知れない。しかし、それで人生が終わるものではない。必ず復活する時が来ると確信して生きていかねばならないのだ。成功するのだと言う強い意志を持ち続ける限りは、必ず成功するのだ。挑戦し続ける事、その事自体が成功の人生と言っても良いのだ。そう、自分の精神すらをもエンカレッジする(勇気付ける)事が出来たのだった。
世の中には、『私は、こうして成功した』『私は、こうしたからお金持ちになった』『私はこんな人心掌握術で日本一監督になった』と言う成功物語が氾濫している。人生の観客席で暮らす人々には成功疑似体験としてのささやかな楽しみとなるかもしれないが、成功への指南書には決してならないはずだ。何故だろうか。
私は、成功と言うものがあるとしたら、人生が終わるまで分らないと思う。死ぬ直前の状態で評価が決ると言うのではない。その人の人生全体を眺め渡した時、初めて最終評価が決るものだと思う。一時的に成功したと思える事もあるだろう。が、失敗は成功の素と言うものの、成功もまた失敗の素(もと)でもあるのだ。一時的な成功で浮かれていてはならないのだ。
その一時的な成功も、その人だけの能力と努力だけで為されるのではないのだ。運と言う表現で表わす場合もあるが、言い換えると、遠い過去を含めた様々な人との出会いと協力、世間で起る現象、出来事、色々な縁が働いての成功なのである。だから一時的な人の成功物語を読んでも、縁までを真似が出来る訳が無いから、参考にならないのだ。
今、我が社そして私個人においても、非常に危機的な状態であるが故に、過去を振り返る時、良い想い出がなかなか浮かんで来ない。しかし、楽しい事や、良い目にも、サラリーマンでは味わえないリッチな生活を楽しんだ事も、数え出したら結構出て来るのだ。脱サラ物語では、ありきたりの暗い失敗話と教訓に終わらせず、やはり成功を求めて挑戦したくなるような楽しい一こまも語りたいと思っている。
我が社を救うはずの、多孔性体製造技術の用途開発、更なる技術開発に最後の望みを託して、頭をフル回転させているが、資金力のない私の会社だけで進められるものではない。プラスチック原料メーカー、成形メーカー、或いは、この技術に期待して色々な業界のユーザーにコンタクトを取ってくれている商社さん等の協力無くして再浮上は有り得ない。この局面でしか経験出来ない様々な事に遭遇しながら、この局面でしか書けない『脱サラ物語』を併行して完成したいと考えている。
最後に、娘婿が教えてくれた『青春』と言う、有名な詩を付け加えておきたい。私と同様、 今、厳しい試練に遭遇している人には、恵みの慈雨となるだろう。
もともとが英文の詩であり、翻訳する人によって、少しニュアンスが異なる。二種類の翻訳詩を並べ、作者の心を汲み取る助けとしたい。
作者:サムエル・ウルマン(アメリカ、1840〜1924年)
翻訳詩1:青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方をいう。薔薇の面差し、
翻訳詩2:
紅の唇、しなやかな肢体ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、
燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦(きょうだ、臆病・意志薄弱)を退ける勇気、安易を振
り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老はしない。理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増やすが、情熱を失えば心はしぼむ。苦悩・
恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥(あくた、屑)になる。
六十歳であろうと、十六歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、
おさな児のような未知への深求心、人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓(えきてい、郵便)が心にある。人から神
から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、
二十歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にしていまだ巳む事なし。
青春とは人生の或る時期を言うのではなく心の様相を言うのだ。
逞しき意志、優れた創造力、燃ゆる情熱、怯だを却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増やすが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の
如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や
思想に対する欣仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ
探究心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く、失望と共に朽ちる。
を受ける限り人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雲
が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れ
ばこの時こそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。