No.1890 2021.07.01仏道―(1)体験と真実―③
●無相庵のはしがき
今回の『(1)体験と真実―③』の内容は、親鸞聖人の教えに傾倒している私達に取りましては、とても大事な内容だと、私は思います。と申します意味は、 世に言うところの倫理研究会であるとか、古くからある仏教の宗派ではなく、明治時代以降に、教祖を名乗る一個人が主宰する所謂新興宗教団体のように、熱心な勧誘活動に依って仲間を増やしている、 市井の団体は仲間同士の絆を守る事を大事にしており、個人個人の宗教心の芽生えを求めて集まっている私たちの求めているものとは。全く異なります。実際、私は、「あの親鸞聖人の教えだから、 信じて傾倒しているのでは無い。」ですし、「井上善右衛門先生、白井成允先生が大事にしている親鸞聖人の教えだから、信じて傾倒しているのではない。」です。また私は、 「私の祖父、母親が信じ切っていた教えだから、私も信じているのではない。」と、はっきり申し上げられます。そして、日常生活の体験を通じて、仏教を開かれた釈尊や、インド、中国に生まれられた、祖師方、 日本に生まれられて仏教を日本に定着させられた聖徳太子以下、多くの祖師方の悟り、信心に共感を覚える瞬間的体験を願いながら精進してゆく私たちでありたいと思っています。●仏道―(1)体験と真実―③
その後いろいろな祖師方が、それぞれの道を通って、証即ち悟りの世界を私どもに明かして下さっておりますのも同様の意味内容でありますし、或いは浄土門におる信心というのも、 仏の私どもに働きかけてこられる大慈悲心の中に、目を開かしめられることでありまして、これはやはり体験と申すべきものであります。我々のこの人間の世間でいう信というのは、 なにかこれは間接的なのでございまして、あの人の言うことたから間違いなかろうと信ずるというように、その人中において間接的に何事かを信じると、 こういう形のものが私どもの世間における信というものだと思いますが、宗教的信、宗教的な信体験というものは決してそのような間接的なものではない。どこまでも直接的な体験なのであります。
仏様の大いなる慈悲の中に、この身が摂めとられていることに気づく体験、そういうところに浄土門の信心も、また開かれてくるものであります。このように顧みてまいりますと、 仏教にはいろいろな立場というものがございましょうけれども、それらを一貫して申すならば、その仏道の赴くところは一つである。宇宙的な真実と私の命とが、親しく交わり触れる体験の中に、 私どもが新しい人間として蘇る道が与えられるのであると申さねばならないと存じます。
なぜそうなるのか、なぜそうなっていかざるをえないのかということは、長い人間存在の歴史を省みなければなりません。歴史と申しますと、わずか二千年とか三千年とかを歴史と申しますが、 もっと悠久な人間存在の生命の歴史を振り返ってみなければならないと思います。つまり人間がいつのまにか、身体的欲望の奴隷となって生きる生き方を身につけてしまったということです。 それはこの体としての自己に閉じ込められ、それをすべてだとするところからきております。これは人間の先天的な一つの錯覚だと思いますが、人間の本能的な意識が根となりまして、 誰しも身体的な欲望を追求し、その身体に執着する。しかもその身体的自己というのは、やがて消え失せていくものでしかない。そうすると、一体なんのためにその欲望を追い求めているのであるか、 実にそこに空しいものが残ってまいるほかないわけです。それが「実法を厭うて妄法を求める」という人間の姿です。真実なるものに背を向け、何かしらん空しいものを追いかけずにはおられないという、 人間の実態なのであります。
●無相庵のあとがき
しかしながら、井上先生が仰いますように、私たちは、自分はやがてこの世からきえて無くなるのに、必ずこの世にいつまでも存在し得ない財産や名誉、そして愛する親族に執着する自己。 これが、「実法を厭うて妄法を求める」という自己の姿である事。この事に、気付かれた、釈尊や親鸞聖人の存在に出遇えた事は、唯一の幸運であり、奇蹟に近いと思っており、途中で諦める事なく、 体験を大切に精進して参りたいと思います。 。
なむあみだぶつ
No.1889 2021.06.24仏道―(1)体験と真実―②
●無相庵のはしがき
さて、私は小学校、中学校、高校、大学で、色々な科目を学びました。文字を覚え、書くことを習得した事は間違い無く今も役に立っております。しかし、大学受験で勉強した、
いわゆる英・数・国・理・社の5科目の詳細の殆どは思い出せませんし、大学で学んだ化学の専門知識は、C(炭素)H(水素)O(酸素)N(窒素)は基礎知識として頭に刻まれていますが、
社会に出てからは、大学で学んだ化学知識は殆ど役に立った記憶は無く、今の私が仕事をする上で役に立っている知識の多くは、企業に就職して、
研究開発の仕事を体験する中で勉強して得たもののように思います。
●仏道―(1)体験と真実―②
宗教の道というのは、観察して知る知識、そういう筋道のものではなしに、ただいま申しますように、
一つの豊かな内容をもっておるその真実をこの身の上に味わい受け取る道こそが仏道というものでなければなりません。したがって、学問的知識というものが決して無駄だとは申しませんけれども、
その方面にばかり関わりあっておりますと、遂に大切な生きた仏教的真理を逸する結果になるのではないか。仏道というものは、宇宙的な真実に、
この私どもが通わしめられるところの体験で無ければなりません。したがって釈尊の正覚・お悟りにもとづく教えというのは、決して釈尊が知的に世の中はこんなものだとか、真理はこうだとか、
というようなことを私どもに説明されたのではない。お釈迦様ご自身の人間としての根本問題の解決という、そういう菩提心の位置に立たれまして、そしてついに、
宇宙的な真実との命の交わりと申ましょうか、釈尊ご自身の命が真理によって開かれた、その開かれた真実の明るさと欣(よろこ)びと力とを私どもにお伝えくださったのが、
仏教だと申さねばならぬのであります。
●無相庵のあとがき
体験と言えば、仏教を拓かれたお釈迦様は、29歳の時に出家という体験に依って、『縁起の道理』をお悟りになられました。しかし出家と申しましても、
所謂(いわゆる)難行苦行をされたのではなく、悟りに到る体験方法の一つとして瞑想法を開発されたとお聞きしています。瞑想法は、後には坐禅という形に発展して参りますが、
その瞑想に最も大切なのが、瞑想の対象(テーマ)を具体的に定めて集中することだと云う事ですが、私たちが陥り易いのは、煩悩を働かしてしまう事です。お金儲けの為とか、
対人関係をあれこれと考え廻らすのではなく、現実の事実を見据える事だと云うことのようです。
私は、このような瞑想をした経験が無く、これまでの全ては、欲に駆(か)られて煩悩一杯の策略とも言うべき瞑想(めいそう)ではなく、迷想(めいそう)に終始していた事に気付かされました。
なむあみだぶつ
No.1888 2021.06.17仏道―(1)体験と真実―①
●無相庵のはしがき
●仏道―(1)体験と真実―①
仏教を学んで知るとか、或いはながめて研究するとか、こういうような道を私どもが、いくら積み重ねてみましても、仏教の真理にまみえることは恐らく不可能と申してよろしいでありましょう。
今日、仏教の研究が、非常に盛んであることは事実なんですが、しかし、その仏教の研究が、知的対象として研究されておりますかぎり、
仏教的真理に私どもが到達する道を歩んでいるのかどうかは極めて疑問であると言わなければなりません。
今ここに一つの蜜柑があるといたしますと、それを私どもが手に取ってその色・形・艶・重さ・大きさ等いろいろこの蜜柑のもっておる諸性質を眺め観察して知ることが出来ます。
これも確かに、それに対する私どもの認識の一つではございますけれども、しかしそれが蜜柑の内容とこの私どもが関わるすべての方法とは申されません。では他にどのような仕方があるか、
それは私が親しくその蜜柑を私の口にいたしまして、それを味わって見るということです。そういたしますと、眺めていてはわからなかったような、或いは言葉では尽くせないような、
秋の味覚を私どもは味わい知ることができますし、同時にその蜜柑の持っておる栄養を、この私の身に受け取ることが出来るのでありましょう。
●無相庵のあとがき
よく、『人生とは何か』と云う議論を聞くことがあります。しかし、人生とは何かと云う議論よりも、人生を体験してゆくことが大事だと云うのが井上先生の仰りたいことだと思います。
私も76年の人生を振り返りました時、『体験は事実であり真実である』と云う想いを実感致します。その体験と云うのが、井上先生が仰る〝蜜柑の美味しさを味わう〟と云うことだと思います。
そして、その体験が連鎖したのが人生なのだと思います。従いまして私は、これからも、一つ一つの体験を大事にしてゆかねばならないと思った次第であります。
なむあみだぶつ
No.1887 2021.06.10宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー⑤
●無相庵のはしがき
話は全く違いますが、ワクチン接種の事です。昨日、私の協力会社の社長(70歳)が、ワクチン接種後に、副反応か何かだと思いますが、動けなくなってベッドに横たわっているところと、
切羽詰まった様子がうかがえる電話がありました。重要な局面を迎えている仕事がありますので、取り敢えず、ご自分の状況を知らせる為のものであることを察しました。
昨日の午後5時半の非通知発信元の電話で、それ以来、今のところ連絡はございません。連絡がありませんので、重症化していないか心配です。
私も、6月19日に2回目の接種を受けることになっています。私は1回目の接種後は少し接種した左腕に痛みが発生しましたが、2日後には、元通りになりました。さて、2回目も大丈夫かと、
少し心配になりました。
●宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー⑤
ところが先ほど申しますように、自分の周囲にコンクリートとの壁を作っておるような状態、或いは暗幕を垂れて見えないように、自分を自分で閉じ込めておるような状態で仏法を聞きましても、
そこには、虚しい影法師のようなものより外にはこの身に受け取られては参りません。自分を仕切っております迷妄の壁が破られますような、
そういう道が開かれてくるということが只今申します無常と虚仮を感ずるということであり、そこに菩提への心が開かれ、その道を通して今まで閉ざしていた暗幕が開かれて、
真実の世界が私どもの前に照り映えて来て下さるようになる。その時初めて私どもは本当の意味で生きることができる身となるのだと思います。そうして私どもは仏法という真実の輝かしい世界の有り難さ、
尊さを心から仰ぐことのできる身の上にならしめられるのでありましょう。それが仏道をゆくということであり、仏法を聞くということである。
だから菩提心を無視して決して仏法というものが私どもの頭の理解で受け取れるものではありません。
しかしまたこの菩提心は決して人間の力や意志で開かれるものではないのであります。もともと私どもの命に宿されている真実がそれ自らを開顕する働きとして菩提心を開き、
その道に私どもが乗ぜしめられるのであります。そういう菩提心の道というものを私どもが気づかされまして、そうして仏の心が、何を私どもに与えようとしておられるのか、
何をこの私の心に開いて下さろうとしておられるのか。そこに心が開かれて初めて真実の光りを聞く身の上にならしめられるのだと思います。
●無相庵のあとがき
これまでのコラムのテーマでありました、『宗教へのあゆみ―(5)』はこの自己とは何か-⑤の終了と共に終り、次回からは『仏道』と云う章に移り、その「(1)体験と真実」から始めます。
引き続き、宜しく、お願い致します。
なむあみだぶつ
No.1886 2021.06.03宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー④
●無相庵のはしがき
●宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー④
そうして我々人間の心というものは「実法を厭うて妄法を求めておる」と、こういう言葉が結論的にあらわれているのでありますが、確かに私どもは真実なるものを求めているかというと、
そうではない。空しい自己の意識に執われて、いたずらに有りもしない我々所の妄法を求めておる。それが人間というものの偽わることのできない実態ではないか。
だとすればそういうところにどうして輝く人生が顕現する余地があろうかということです。堂々と、明るく、恐れるもの無く生きる生き方ができるわけがない。結局それは真実の己れというものを覆い隠して、
虚妄なる世間法の中に私どもの生活の中心を置いておる。そういうところに基づく結果であるということが、無常を感ずる心が開かれてくると必ずや気付かれてくる事であり、
その時はじめて仏陀の教えがこの私どもの胸に受け入れられる時なのであります。
●無相庵のあとがき
私どもは誰しも、堂々と、明るく、恐れるもの無く生きる生き方をしたいと願っていると思いますが、なかなかそうは参りません。それは結局、真実の自己を覆い隠そうとしているからだと、
井上善右衛門先生は仰います。しかし、米沢英雄先生が仰った、「世間の生活が成り立つかどうかは、仏法の応用問題が解けるかどうかだ。」と云う言葉も忘れてはならないと思いますし、
全ては「縁に依って生じる」と云う釈尊が悟られた『縁起の道理』は、宇宙も地球の世界、娑婆世界で生じる一切の根本原理である事を忘れてはならないと、改めて感じているところです。
なむあみだぶつ
No.1885 2021.05.27宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー③
●無相庵のはしがき
●宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー③
そうして今、道元禅師の言葉に従って振り返ってみると、自分の「内外所有」が問題になってきます。仏教では「我々所」という言葉がいつも使われますが、
「我」というのは何か知らんが俺が俺がと思うている、それでございます。それから我というものがあれば、必ず我の所有というものがそれにつき纏うて伴うてくる。それが「我所」といわれるものです。
とにかく自分というものがあれば自分の持物、財産も名誉も、家も、地位も、すべてのものが我が所有ですから、その将が奪われると人間にとってはすぐに怒りの種になるわけです。
人間の能力を自分の大切な所有と思う場合もございますけれども、それもいつまでも自分のものではない。人間はやがて老化と共に耄碌してゆく。
一体、「我」と「我所有」と思っているその本となっているいるものは何かと、こういう意味合いでございましょう。それを「我がが身体内外所有、何を以て本と為すや」と言うておられる。
何を根拠に我が所有と思うておるのか、それを「静坐観察せよ」と教示しておられるのです。これが本当に間違いのない、確かな、自分であるといえるものを一つ静かに観察してみるがよい。
決してそんなものは見つからんぞと、こういうことを指示しておられる。
●無相庵のあとがき
静坐観察は生来セッカチの私には、たとえ5分間と言えども、それを毎日と云うことになりますと、至難の業です。それを遣り熟す(やりこなす)のが修行だとも思うのですが・・・。
やはり、坐禅を主たる修行とする禅宗は私向きではなく、そういう意味でも、坐禅は為されなかったと思われる親鸞聖人の浄土真宗を選んだのかも知れません。
ところで皆さんは、照明デザイナーの『石井幹子』
さんをご存知でしょうか(石井幹子さんの作品を見られたい方は、『石井幹子』をクリック為さって下さい)。
何万個、何十万個の電球で飾り付けた東京タワーやレインボービレッジ、更にはパリのエッフェル塔をも飾り付けられた、世界的に有名な方です。そのお父上は、
ベルリンオリンピックにも出場した有名なレジェンドですが、二葉百合子さんの岸壁の母で有名になった、第二次世界大戦後シベリアに抑留され亡くなられた多くの犠牲者の中のお一人だそうです。
そのシベリア抑留で何時も思い出すのは、この「宗教のあゆみ」を『真実の泉』と云う著書に遺された私の師匠井上善右衛門先生もそのお一人で、
先生は終戦後の昭和24年にやっと帰還され、そのご体験を法話の中でお聞きした事がございます。先生は実に穏やかなご人格でしたが、その人格形成には、4年のシベリア抑留生活があるに違い無いと、
常々思っておりました。
昨年から続くコロナ禍は、シベリア抑留程では無いとは思いますが、戦後生まれの私が初めて体験する、平穏な生活が見通せない不安な日常生活ではないかと思っております。
なむあみだぶつ
No.1884 2021.05.20宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー②
●無相庵のはしがき
●宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー②
道元禅師が同じく『学道用心集』の中に、もし自分というものを思うに至るならば、「静坐観察せよ」、
静かに坐ってそうしてよく自分というものが何処にあるのかを見極めてみよと言うておられる。「今我が身体、内外所有、何を以て本と為すや」と、こういう言葉が出てまいります。
私どもの身体が自分であるかと思いますと、この身体はやがて朽ち果てていくより外ないものでございますし、健康で生きております時でさえ何時どうなるかわからない。
医者からこういう話を聞きました。
●無相庵のあとがき
私は、日々の忙しさに追われまして、なかなか、自己を〝静坐観察〟出来ていません。たとえ静かに坐っても直ぐに、頭の中では結論が得られて居ない開発研究の課題が浮かんでしまいそうです。
「ただ坐る」事は出来そうにありませんが、それでも1日に5分でも坐ってみようかと思いますが・・・。
なむあみだぶつ
No.1883 2021.05.13「死にともない!」
●無相庵のはしがき
●死にともない
江戸時代の終わり頃、九州は博多の聖福寺に、「仙厓さん」と呼ばれ、多くの人々に慕われた禅僧がおられました。
晩年のこと、88歳の仙厓さんは、いよいよ臨終というまさにその時、「死にともない」とつぶやきました。それを枕元で聞いたお弟子さん達はビックリ仰天です。
この逸話、みなさんはどう思われましたか。「仙厓さんって、本当に親しみやすいお方だね」。「私たちと同じで、やっぱり死ぬのは嫌なんだよ」と、つい笑いがこぼれてしまいます。
けれど、この「死にともない」の一言には、何かもっと深い真実が込められているのではないでしょうか。
私たちは誰だって「死にたくない」と思っています。でも「人生」とは「生」と「死」がセットになっているものです。この世界に生まれて来たからには、
いつかはこの世を去って行く日が来ることを、私たちは知っているはずです。
私たちはそんな「人生」という「旅」をちゃんと楽しんでいるのでしょうか。人生の旅行者の多くは、せっかくの旅を楽しもうとしないで、不平や不満ばかりをこぼしているように思えます。
それでも、「旅」の終わりの地である「死」という「人生」の目的地に、いつかは一人残らず辿り着くのです。
●無相庵のあとがき
私は、私の人生は、一度きりだと思って大切に生きようとは思っていますが、「私だけの特別な旅なんだ」とは、思えてはいないようです。「一度きりの旅」というだけではなくて。
自分のこの旅は、〝特別の旅〟なんだと言い聞かせる事こそが大切なんだと教えられました。
なむあみだぶつ
No.1882 2021.05.06宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー①
●無相庵のはしがき
●宗教へのあゆみ―(5)自己とは何かー①
この無常の実態を私どもがこの身の上に感じ取ってまいります時に、一体己れというのは何か。本当の自己とは何か。こういうことが次にきっと問題になってまいります。
私どもは誰しも俺が俺がということが生活の柱となり、私どものただ一つの住家になっておるものでございますが、いま死というものを介して、
今まで無条件に肯定していた自分とは一体何なのかと振り返るに至りますと、その時私どもは、菩提心に第二の歩を進めることになります。
一歩深くその菩提心の問題に心を深めざるをえぬ身の上にならしめられると思います。
人間というものは決して肉体と物質で生きておるのが私どものすべてではございません。人間というのは何か各自が拠り所をもって、そしてその拠り所によって様々な出来事を判断しておる。
判断致しますその主体となるもの、そういうものがあればこそ人間は責任というものを感じるわけでございます。動物というのは本能と衝動という生理的機能と欲求の中で生命が営まわれておるのですが、
人間の身体というものは確かに本能のからくりと云う、そういう一面がございますが、それと同時に人間が動物と違っておる点は何かと、人間というものは働く自己の拠り所というものを各自がもっておる、
言わば判断主体と申しますか、そういうものを私ども人間は持っておるのです。それがなければ自己が無いのと同然といわねばなりません。
ところがその自己の主体となるものが振り返ってみますと確かなものであろうか。何かそこに極めて心許ない、頼りないものを私は背負っておるのではないか。
何が本当の自分の拠り所かということを嘗て今まで確かめずに、何か雲のようなものの上に乗って、そして俺が俺がと言いながら生きて来たのでありませんか。
●無相庵のあとがき
今日の井上先生が仰せの、「何が本当の自分の拠り所かということを嘗て今まで確かめずに、何か雲のようなものの上に乗って、そして俺が俺がと言いながら生きて来た」のは、
私の事だったと思うようにもなりました。しかし、こう考えてしまうのは、セッカチ故の事ではないのかもと・・・。
なむあみだぶつ
No.1881 2021.04.29宗教へのあゆみ―(4)菩提心ー⑥
●無相庵のはしがき
●宗教へのあゆみ―(4)菩提心ー⑤
生死という問題を余所にして、いろいろ理屈に明け暮れて、真理がどうであるの、或いは哲学がどうであるのと彷徨(さまよ)うておりましたら、これは止めどもないことであります。
私どもが執着に執着を重ねてしがみついておりますものが本当に私どもを生かすものであるならばよろしいが、我に非らざるものを我と思い、我が物に非ざる物を我が物と思い、
幻の中に己れの住まいを握りしめて一生を過ごしている。この事を思うと何としても私どもは、永遠に輝く真実を一日も早く気付く身にならねばならぬという願いに到達せざるをえないと思います。
これがやはり人間のたどり着くことにおいてまことの人間となる道が始まる。それを究極的関心と申して差し支えないと思うのであります。
●無相庵のあとがき
「急(せ)いては事をし損じる」と云うことわざがあります(〝急がば回れ〟とも申します)。ものごとを為すには、急いだら失敗すると云う事ですから、私がこれまで失敗の連続だったのは、
ことわざを無視して来たからだと思います。ですから、これから先ずは、そのセッカチを何としてでも変える修行に取組もうと思っていますが、これも、セッカチに直すのではなく、粘り強く、
ゆっくり直す努力をしなければならないと言い聞かせております。
なむあみだぶつ
今週の土曜日(6月26日)で、2回目のワクチン接種日から1週間になりますので、中和抗体ができることで感染や重症化を抑える強い免疫になると言われています。従いまして、
これで新型コロナ感染率は0.05%になるようですので(飽くまでも、3密対策をした上でのこと)、私のワクチン接種は1件落着となります。ただ、同居の妻の2回目接種が今週の金曜日ですので、
正しくは、来週の金曜日(7月2日)が、我が家の1件落着の日でございます。しかし、他の人との飲食を伴う交際が再開出来るのは、未だ未だ先の事になろうかと思います。
体験して得た知識ですから、忘れ去ってしまうことは無く、現在も全てが役に立っている有用なものになっております。
日常生活の忙しさにまみれていますと仏道を歩んでいると言う感覚を感じないものですが、日常生活そのものが仏道なのだと考えねばならないと思います。
今回の井上先生の、「仏教を蜜柑に喩えられたお話は、まことに頷くしかない」と思うからです。人生は、苦もあれば楽もあります。苦は自分の力だけで乗り越えられる訳でも無く、
大きな〝み恵み〟を社会から頂いているからこそのこの命であることに気付かされます。
そう云う意味を込められて井上先生は、『体験と真実』と云う表題を取り入れられたのだと思います。
自己とは何かと問われたなら、私は、「自己というものは存在しない。この宇宙を含めて地球上の全てのものの存在があってこその自己であると考えるから。そしてこれは、
仏法の教えに学んだことです」と。
昨年(2020年)年初以降のことですが、私が発明し私の会社が特許権を持っている技術で、数千万円の収益が期待出来る2件の開発案件に出遇いました。
その開発は、いずれも今は量産に取り掛かる一歩手前と云うところです。
その2件の量産が現実のものになるまでには、乗り越えなければならない様々な壁があります。そしてその壁を乗り越えるには、技術力が一番肝要ですが、
私がこれまで学んで来た仏法の教えを世間法の中で、生かしてこそ為し得る事だろうと自分に言い聞かせているところでございます。
今日は、私たち夫婦の50回目の結婚記念日です。いわゆる金婚式といわれるものは50年目のものなのですが、やっぱり50年経った50回目の記念日の方が何故か、
しっくり祝えるように思います。「半世紀もよく続いたものだなぁー」と言い合った、お互いの感慨です。
私たちが結婚した頃は、離婚は少なかったので、離婚は目立っていましたが、最近は周りでも離婚話は当たり前のように話題になっているような気がします。そんな中ですが、
私たちは何とか命永らえて、60回目の結婚記念日を迎えられるように、祝いのケーキでも食べようと思い、雨の中ケーキを買いに行きます。
道元禅師は、鎌倉時代の1200年に京都でお生まれになり、1253年に54歳でその生涯をとじられました。親鸞聖人が、1173年に京都でお生まれになり、
1262年に京都でお亡くなりになりましたので、直接対面は無かったのでしょうが、お互いの存在は聞き及んでいたかも知れません。道元禅師は1223年~1227年に当時の中国の南宋に留学され、
土産話として、『眼横鼻直』と云う四字熟語があります。直訳としては「眼は横向きにならんでおり、鼻は縦についている」ですが、意味としては、
「あたりまえのことをありのままに受け入れるようではないか」と云う禅の教えです。私たちは、ついつい邪推したり、誇張したりして、なかなか、現実・真実を受け止められていないと云う教えだと思います。
癌の早期発見ということは十人が十人できるのではない。本当の意味で早期発見出来るのは〝まんのよかった人〟だといいます。ちょうど〝まんよく〟そういう時に当って早期発見が出来、
適当な時に処置するという幸運な人も出て来るけれども、すべての人すべてそういうふうにうまくけっしていくものではない。
人間の身体というものは実に身体全体が何時どうなるのか分らぬという中で住んでいるものです。そうして僅かにその生命を維持しておる。
私どもは健康だけれどもあの人は病気になったというように単純に決められるものでものでない。本来固定した安泰なものはないのです。とにかく人間の身体というものは確かにいつどうなるか判らない。
縁起の上に成り立っておる生命でございますから、決して確乎不抜というような、そういうものはどこにもないのです。
私は未だ死ぬことに対する覚悟が出来ていません。老齢で基礎疾患を持つ私は死に直結する新型コロナに感染することを極端恐れています。多分私以外のどなたでも死にたくはないと思います。
しかし中には、「生命あるものは何れ死ぬのだから、覚悟は出来ている」と云う人も希(まれ)にいらっしゃるようですが、本音はどうなのでしょうか・・・。
以下は、臨済禅黄檗禅公式ネットからの転載です(静岡県 ・潮音寺住職 渡邊宗禅師の法話から)。
「え、いったい何を仰るのですか!」「どうか有り難い末期の一句をお願いします」と、皆が詰め寄りました。すると仙厓さん、渾身の精気をふりしぼって、
「ほんまに、ほんまに、死にともない!」と言って息を引き取られたのでした。
「人生」はまるで「旅」のようなものと良く言われます。私は旅が大好きです。みなさんもきっと旅行はお好きだと思います。旅をしていると、色々な出来事が次々と起こりますよね。
決して楽しいことばかりではなく、思ってもみないアクシデントに見舞われることもあります。出会いがあり、別れがあり……。嬉しいことがあって、悲しいことがあって……。でもそんな旅のすべてが、
何かとてもワクワクする胸おどる楽しい時だと感じるのはどうしてなのでしょう。
もし、この「人生」を「旅」として見ることができたなら、辛く苦しい出来事や嫌なことに対する見方も今までとは少し違ってくるかもしれません。 すべては過ぎ去って行く旅の途中の出来事。
思いがけない喜びや悲しみでさえも、ふいに訪れそして過ぎ去って行くことでしょう。
私たちは大切な真実に気付かなくてはなりません。「これは、たった一度きりの限りある人生という私だけの特別な旅なんだ」と。
私は前回の『無相庵のあとがき』で、「これから先ずは、そのセッカチを何としてでも変える修行に取組もうと思っていますが、これも、セッカチに直すのではなく、粘り強く、
ゆっくり直す努力をしなければならないと言い聞かせております。」、と申しましたが、その第一歩として、先ず行動を起こす前に、「これからやろうとしている事は、今日やらねばならない事か?」、
「明日にでもやれば良い事ではないか、否、一週間先でも良いのではないか、来月でも良いのではないか?」と考えるようにしました。
そうする事により確実に行動パターンは変わりました。セッカチでは無くなりました。しかし、色々と考える事が多くなったと申しますか、いろいろと迷うようにもなりましたが、一方で、
これまでの生き方が変り、「これからは、失敗がなくなるかも知れない」とも思うようになっています。
でも、セッカチは全て悪い結果を招いている訳ではなく、セッカチ故に常に仕事の事を考えていますので、ふと有用な発明や工夫を思いつくこともあります。
これからも、今直ぐにでもやりたい事を先延ばしする優柔不断さを身につけつつ、製品開発、技術開発開発の仕事をし続けてゆきたいと思っています。
私は生来セッカチな性格の上に、76歳となった現在、基礎疾患を持っている身の上ですので、「コロナに罹ったら終い」と亡くなる前にしておかねばならない事に囲まれて、
かなり焦っており、落ち着かない日々を過ごしているなと自己分析しています。恐らく、今日の井上先生の仰る「執着に執着を重ねてしがみついている」からだと思います。
その所為で、忘れ物をよくします。外に出掛けた時、大切な持ち物(財布や、その他落してはならない物)を何処かに置忘れる事が半端では無いのです。昔から、
乗った乗り物(新幹線、電車、タクシー、バス)に忘れ物をした回数は、10回は超えると思います。ところが悉く戻って来ています(だから治らないのかも)。
一番の語り草は、アメリカ出張の時、シカゴでタクシーに乗って財布を忘れたのに、たまたま私の次のお客さんが日本の商社の方で、日本に持って帰って来て下さった、
と云う事がありました。何とか是正したいのですが、私の長女は、「それは絶対無理よ!」と言います。これに対して私は否定出来無いでいます。