No.1879 2021.04.15宗教へのあゆみ―(4)菩提心ー④
●無相庵のはしがき
先月の8日に76歳になった私は基礎疾患を抱えてもおり、コロナ禍の中、新型コロナウイルスを恐れていますので、「死」を現実のものと感じ始めております。 しかし、「死を戦(おのの)く」程の切実な感覚は抱いていません。そして、「76歳の男子の平均余命は11.7歳」と云うインターネット検索で知ると、「未だ未だや」と暢気に思う位ですので、 今回の法話で井上先生が仰る、「やはり無常という事を覆い隠して、世間生活の中に没入している。意識の本質は〝無常〟でなく〝常〟の感情に乗って生きている」典型と云う事になりそうですが、 残り少ないだけに、今の自分に出来るだけ万全の対策をして、コロナに負けずに、世間法の中で、ビジネスに生きる技術者の私が出来るだけの努力(協力企業の力も借りて)をして、 これまで得られなかった大きな収益を獲得して、先ずは私より5歳若い妻が、私亡き後、路頭に迷う事が無いようにし、そして、世間にも認められる経営者になりたいと思う様になりました。●宗教へのあゆみ―(4)菩提心ー④
時は私どもを運んで何処へ行く。結局それは「死」という、人間が生まれた時に背負うておるそういう終着点に向かって一時も止まることなく、真っ直ぐにゆく、それが甚だ速くです。 新幹線も速いには速いですが、はなはだよく止ります。本当によく時間が止まっておりますが、私どもの命を運ぶ時という車は故障することがございません。一時も止まる時がない、 そうして一体何処へ行きつつあるのか。こういうことがきっと気になるようになる、こういう言葉であろうと思います。
無常という問題に心が向いておりませんと、そういう時光の「甚だ速きを恐怖す」るという関心が起こってまいりません。人が亡くなりましてもこれは人の事であって、 自分のことと容易に思われない。そういう人間は一つの不思議な性分をもっておると申してもよろしいでしょう。本当に無常ということが私どもの身に沁みてくると、「吾我の心生ぜず、 名利の念起こらず」、もはやそういうものに関わっておる暇がない、きっとそうなる、そういうことをいうておいでになるのであります。菩提心は確かに仏道に入る門戸でありながら、 なかなかそれが頭の影に終わって私の命の究極的関心となってこない。そのなってこない根本を振り返ってみると、やはり無常という事を覆い隠して、世間生活の中に没入している。 意識の本質は無常でなく「常」の感情に乗って生きているからです。そこに根本的な問題が潜んでおると思うのであります。
そういう点から申しますと、人間は死を厭い、避けますけれども、実は私どもにとりまして一番尊いもの、一番私どもの眼を本当に開かせてくれるものは「死」ではないかと思います。 それをおいてこの長い惰性の中で無感覚になってしまった牢固たる私どもの心を揺さぶってくれるものは外にないといってよいでしょう。実は私の家内の兄が三日前に亡くなりまして、その臨終に立ち会い、 やっと昨日お葬式を終え、今日の求道会にお参りすることが出来たのですが、私は学生の頃に両親に別れました。それから以後、臨終に立ち会うことが少なかったのですが、 しかし臨終がいかに人間に死というものを見詰めさせてくれるかを感じたのです。
●無相庵のあとがき
『無相庵のはしがき』で、私は「世間にも認められる経営者になりたいと思う様になりました。」と申しましたが、それは、極最近のアスリート、 水泳の池江璃花⼦さんとゴルフの松山英樹選手の偉業達成です。日本は勿論、多くの世界の人々に感動を与えましたが、私も大いに感動し、刺激を受けました。 「私に出来る事って何かな?」と思い始めたところです。
なむあみだぶつ