●無相庵のはしがき
私は正直なところ、新型コロナウイルスに感染することを恐れておりますし、また、以前、頭痛を感じた際、罹り付け医の即断で、一駅離れた大きな病院に救急車で行き、
心房細動という脳梗塞を起こしかねない病である事が分かり、即入院し、危ういところ助かった事がありましたので、最近でも少し頭痛を感じるとドキッと致します。つまり、「死にたくない」のです。、
●宗教へのあゆみ―(3)死の問題ー②
これは昔の話ですが、堺に吉兵衛さんという非常に仏法を真剣に求めた方がいました。その方の逸話ですが、常に口にしていた言葉は「私は死んでゆけませぬ」ということであったといいます。
これは非常におもしろい言葉、意味深い言葉だと思います。死ぬるも,死ねないも、死ぬ時が来たら死ぬより外ないんですけれども、しかし、「私は死んでゆけませぬ」というのは、
どうもそれが胸に閊(つか)えて、それが超えられないということでしょう。しかし本当にその死の処置がついて初めて私どもは立派に生きることが出来るのではないか。
その処置がつかない私どもの生き方というのは、それが出て来たら何もかも崩れてしまうという生でしかないのです。結局、それはなんと申しましょうか、実に危なっかしい生き方ではないかと思います。
生に関わる死の問題の処置がつく、その時初めて私達は堂々と生きて行くことが出来る人間になりうるのではないか。そういう点から思いますと、吉兵衛さんという人が、
「私は死んでゆけませぬ」ということをいつも口にしながら良き師を訪ねて仏法を聞きに聞いたという心根に、私どもは胸打たれる思いがするのでございます。
ところがこの世の中には「いや、そんな事を思い出したらかえって苦しうてならん。そんなことは忘れる事にして楽しく生きた方が得ではないか」、
こういうようなことをよくいわれる言葉にでくわすのですが、そのお気持ちは解らんではございませんが、これはやはり一種の逃避ですね。逃避し尽くせるならば逃避してもよろしいでしょうけれども、
逃げ切れないことを逃げようとする、そういう態度はやはり一つの〝ごまかし〟ではございませんか。その姿勢こそ私は一種の阿片だと思います。
「宗教は阿片である」と西洋の唯物思想家が申しましたが、逆に人間の避けて通る事のできない問題を逃避して、そうしてなにか人生をただ目先、楽なようにという生き方、
そういう生き方こそが阿片と言うべき心情だと思います。それは結局、自身を憐れな、悲惨な状態に追い込んでいくことではありませんか。
生と死を超える命を己れの命の根本に打ち立てるべきではありませんか。
もし、現在私の判断で自分の死に対する心の底からの解決が出来ているなればそれでよろしいでしょうが、それが出来ていない、やはりドキッとするより外仕方のないのが現状であるのだとするならば、
その死の問題を立派に超えることの出来るような世界をみつけてこそ、我が命を本当に大切にするといい得るのではないでしょうか。
それを逃避し、回避して、目先の安易さに生きているのは結局、ごまかしであり、阿片を吸うておるようなものではないか。そういうことを一つ私どもが確かめてみる、
それが本当の意味での「自己点検」です。自己の点検を怠って、不完全な欠陥車のままで走っていると、いつどこでどんな゛しこが起こるかわからない。危険千万です。
我々人間というものは十分に自己点検をしておきませんと、どんなどんな躓きをお越し、どんな憐れな最後を迎えないとも限らない。若い人は死はずうっと遠い先のことだと思うのです。
人間の自然感情としてはそうでしょうが、実は遠いことではない。すべての人が現在、只今、その問題に関わっているんです。その証拠に人間は年の順には死にません。
誰の命も保証されてはいないということは確と自覚すべきことです。しかもそれに対して真実の落ち着き場所を持たず、ただ肉体としての自分がすべてであるという思いに住しておりますと、
実に最後は心細いものではないかと思います。
●無相庵のあとがき
私は「誰の命も保証されてはいないということは確と自覚している。」と頭では分っていると思いますが、やはり、これからもずっと、ドキッとするに違いありません。
では、ドキッとしない為には、どうすればよいのでしょうか。それは、どうやら、次の章の『菩提心』に示されているようです。私は未だその内容を詳細に読み取ってはいませんが、
読むだけで、これまた「あっ、そうか!」と分るものではないんだと思います。何かの体験があってこそ、ハッと分る『菩提心』ではないてしょうか。楽しみにしてよませて頂こうと思っています。
なむあみだぶつ
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