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●無相庵のはしがき
私は今週の月曜日に76歳の誕生日を迎えました(数え年では喜寿)。日本男子の平均寿命は81歳ですから、私は後5年の命ということになりますから、死は目前とまでは言えなくも、
はっきり〝死〟は見えていると言うべきだと思います。〝死〟は人生の一大事ですが、毎日の生活に於いてそれ程差し迫った課題ではなく、開発の仕事が一番差し迫られた課題になっているように思います。
何故なんでしょうか?そのくせ、基礎疾患を持っているので、新型コロナウイルス対策には勤しんでいるのです。今日の井上先生のお話を読んで我ながら,
「何を考えて生きているのか」と思いました。
そして、やはり、仏教を学び続けて来たのは、人生を苦しまないで生きて行きたいが為ではなく、人生の根本問題・人生の根本課題である「死」と向きあって生きねばならないと思いました。
しかし・・・
●宗教へのあゆみ―(3)死の問題ー①
さて私どもの命がこれでよいのか、私どもの人生に問題はないのかと、こういう点に立ち戻ってみますと、そこには実に無限の問題が隠され、潜んでおります。
私どもはそれを今まで何か臭いものに蓋をするように蓋をして見えないようにしておっただけのことである。一度(ひとたび)その蓋を取ってみると、私どものこの命はきわめて種々様々な問題を抱えておる。
問題を抱えておるということは、解決しなければならぬ課題を背負うて、いま生きておるということです。もしそれを解決しなければ、私は虚しい、儚(はかな)い一生を終わるより他にない。
そういうことに必ずなってくるのではありませんか。したがって根本の問題はいま申しますように、切実な己れの命に対する問題意識を持つということ、
それが宗教に立ち向かう根本的な私どもの立場であろうと思います。
例えば、私どものこの命は常に死というものと繋がっているものです。ところが、この死という問題を私どもはどう考えているのか。なんとしてもそれはいやなことであり、
他人事の場合はさほど思いませんが、自分が病気になりましてそして医者からどうもこれは危険だというような、そういう言葉でも聞きましたら、誰しもドキッとする。
ドキッとするというのはどういうことでしょう。何かそこに解決していないものがあって、しかもそれが現われると総てのものが崩れてしまう。もはや目先が真っ暗だというような、
そういうものが奥に隠れておればこそ、ドキッとするのではありませんか。そういたしますと、この命という問題に立って死という誰しもが関わり、誰一人として避けることの出来ない必然の出来事を、
どう私どもは我が命の中でおさめをつけておるのかとういうことです。
●無相庵のあとがき
仏法は、縁に任せ、成りゆきに任せて生き抜く教えです。『死』も勿論、縁に任せるべき課題だと思いますので、井上先生の『死の問題』の法話を心して読み学びたいと思っています。
初版の無相庵カレンダー(昭和58年頃に製作したものと記憶)の9日目の歌に、『花びらは 散っても花は 散らない 形は滅びても 人は死なない』(金子大栄師)があります。解説文は、
「花びらは散っても、来年は又、新しい花びらを咲かす。花のように、私達人間も、永遠の生命を頂いています。」と38歳の時の私が書いております。多分、その頃の私は、仏法を学べば、
そのような心境になれると思っていたのだと思います。しかし今振り返れば、詠み手の金子大栄師も、ひょっとしたら、また僭越至極とは存じますが、その歌を詠われたご心境そのものではなく、
そういう心境で有りたいと云う願望を謳われたのかも知れないと、今の私は思っております。「縁に任せて生きられない」、樹木希林さんのように「一切成りゆき」に任せでは生きられない私自身としては、
一生、自分自身の煩悩と向き合いながら生きられた親鸞聖人のように生きて行ければと良いのかも知れないと思っています。
なむあみだぶつ
意識
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●無相庵のはしがき
井上先生は、現代人が何故宗教に足を踏み入れないのかという考察をされているのですが、
それは、結局は「今生きている生活に何が役立つかという、こういうことが関心の的になっている」からではないかと、お考えになられたのではないかと思います。それは、振り返れば私自身が、
全くその通りでありましたし、今の私の一番の関心も、事業が成功して経済的苦境から脱出したいと云う一点にあるのではないかと反省するからです。
●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー③
そういう現世主義とでも申しますような思いが心の根になってくると、結局は今生きている生活に何が役立つかという、こういうことが関心の的になってくる。
今の生活に直接役立つもの、こうした関心が言わず語らず現代人の中心となっておると思います。こういうのを実利主義と申してよいかと思いますが、実際、効果があって、
今すぐに身体の上で確かめられるもの、軟らかい蒲団を着て美味しいものを食べて、よい家に住むという、すぐに私どもの身体の上に確かめられるものに対する関心、
それに実利主義という言葉が妥当かどうかはしばらくとしまして、とにかくそういう思いが非常に強いものですから、宗教に関連いたしましても何かどこかで宗教も人生に役に立つ飾りである。
装飾というのはちょっと変であるかも分りませんが、そういうような意味合いで宗教をみておられる節があるのではなかろうか。宗教というものを持っておると人生がより豊に飾られて暮らされる。
そういうような思いで宗教を評価していらっしゃるとするならば、私はやはり人生に府加する飾り物として、即ち手段として宗教を価値づけている。そういう節がでてくるのではなかろうかと思います。
そういうような、現世主義であり、合理主義であり、実利主義であるというような言わず語らずの姿勢が私どもの心に固まってまいりますと、
仏教を聞いてもどこかで心の〝しん〟に触れませんのですね。外観的な理解、そういうものは出来るかもわかりませんけれども、
自らの心の〝しん〟に触れない、そういうところに虚しい擦れ違いいが起こってしまうのではなかろうか。そういうようなことになると、
どうしても宗教に対する自己の直接的な緊迫した関心が薄れざるをえない。現代人が宗教に踏み込まないという原因の一端がこうしたところにあるといたしますならば、
私どもはさてどうすればいいのか。そういう問題点に立返ってこざるを得ない。そうなりますと、私はやはりもっと直接な、生な、己れの命というものの原点に返って、
人生における我が命の上に棄ておくことのできない問題として感じる、そういう切実な自己の問題意識をもってくるということが、
やはり最も根本的な宗教に対する人間の姿勢をととのえてくるのではないかと思います。そういう根本的な関門とでもいう道を飛び越しておりましては、結局いつまで聞いても頭の中の、
先ほども申した影に止まってしまう。そういうことになるのではないかと思います。
●無相庵のあとがき
前回のコラムのあとがきに申し述べた通り、今の自分に役立つのはお金しかないと思っているとしか言えません。仏法を忘れ果てている自分を、
この無相庵コラムの更新作業が仏法の世界に引き戻してくれていると申しました。それは嘘偽りではございませんが、更新作業以外の時は、私の頭の中は、
やはり仕事のことばかり、お金を得る為の開発研究の事ばかりが、頭の中を駆け巡っているのが正直なところです。
なむあみだぶつ
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●無相庵のはしがき
今回のコラム内容、特に「宗教的真理は人格を通して最も明らかに強く人の心をうつものです。如何に知性の枠に拘束されていても、
大きな人格に接することにより、今まで知らなかった真実に触れ新しい門出に立つという転機が訪れるものです。宗教は人格を抜いては語りえないと言っても過言ではありません。」というお言葉から、
井上先生の実体験からのものだと思います。井上先生は、白井成允先生との出遇いに依って、それまでも感銘を受けられていた親鸞聖人の教えを「やはり、
私は親鸞聖人の教えを人生の礎に」と確信されたのだと云う事が分ります。それは、西川玄苔先生もやはり白井成允先生に一目会われた瞬間に、「仏様にお会いした気がした」と、
言われていたところからも分ります。
●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー②
しかし、それにはさらに一つの理由があるように思います。それは宗教的真理を身に体した生きた人格に接する事が、現代人には非常に少なくなっているという点です。
言葉で説明できない偉大な働きを人格は果たすものです。宗教が体験として現存する以上、その宗教的真理は人格を通して最も明らかに強く人の心をうつものです。如何に知性の枠に拘束されていても、
大きな人格に接することにより、今まで知らなかった真実に触れ新しい門出に立つという転機が訪れるものです。宗教は人格を抜いては語りえないと言っても過言ではありません。
現代にこの縁が欠けている事が人をしていよいよ自己の枠を超え難くしている原因ではないかと思います。そういう点になりますと、昔の人の方が真の人格に接触する機会も多く、
同時に知性の枠がそんなに窮屈に人を締め付けていなかったと思うんです。そういう点からむしろかえって宗教的なものに心を傾けるということが自然に出来たのでもあろうと思います。
それに反して現代人は自分では気づかない大きな枠が私どもの心にガッシリとはまっている。
それが科学というものと非常に密接に結びつきまして宗教不在の人間にならしめておるのではないかと思うのです。
それからもう一つ振り返られますことは、現代人には目で見えるもの、あるいは具体的に捉えられるもの、そういうようなものを確かだと思う心の姿勢が出来ておりますので、
この身体的自己が命の全てであるという思いがあまりにも固定しております。
結局、人間は命ある間が全てだという、そういう思いでございます。ですから極めて現世的になりまして、此の身体のある間に楽しんでおかなければなんの生き甲斐があるか、
というような言葉がよく出てくるのであります。現代人は身体というものに命のすべてを閉じ込めていて、そういう無条件な観念が福祉の問題一つにしても非常に強く作用しておることを感じるのです。
結局、生きておる間がすべてだと、こういう観念が感情の底の底まで根を張ってまいりますと、悠久な世界と自己との関係は忘れられてゆく、
これはやはり宗教的な世界に踏み込めない一つの原因になっていると思うのであります。
●無相庵のあとがき
私は今、昨年3月から取組んでいる或る開発テーマがあります、そして、その開発が成功して量産が現実のものになるかどうかの瀬戸際で、一週間後にはその結論が出ます。
もし、量産が始まれば、我が社の再興も夢ではなく現実のものになる可能性が高くなりますので、私の頭の中は、それを願う事ばかりになっております。この状態は、井上先生が仰せの、
「結局、生きておる間がすべてだと、こういう観念が感情の底の底まで根を張ってまいりますと、悠久な世界と自己との関係は忘れられてゆく」そのものなのです。
しかし、この〝無相庵コラムの更新〟と云う作業がある事で、仏法の世界から出っ放し,離れっ放しになる事が無いのは、本当に有難い事だと思っております。
なむあみだぶつ
意識
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●無相庵のはしがき
今回の内容の中に、ロシアの文豪のドストエフスキーという人の言葉として井上先生は、「人間というものはあたかも理性で生きておるように思っている、
少なくとも自分は理性を中心に生きておると。こういうふうに思っておるけれども、人間の理性というのは私どもの心のたかだか二十分の一ぐらいの領域を占めておるものにすぎない。
二十分の十九は理性の手の届かない暗黒の領域を懐いておるのだと、まあこういうようなことを申しておりますのですが、これは人間というものを非常によく見詰めた言葉だと思います。」を、
紹介されています。という事は、井上先生も、心の中に、理性の手の届かない暗黒を抱えておられるとの自覚を持っておられたのだなぁ、と私は安心致しました。
●宗教へのあゆみ―(2)現代の意識ー①
そういうことになってまいりますと、今まで宗教を理解したとか、或いは宗教が必要であるとか、こういうような程度の知識人の評価は、
なお何か影を追っているという感じがせざるを得ないのです。翻って、ではどうして大切なものだと理解しながら、何故自らそれに踏み込まれぬのか、というところに、眼を注いでみなければなりません。
これはやはり、他人事ではなしに、私ども自身の問題として考えるべきでありましょう。「尊い」、「ありがたい」ということを頭の中で知っておりましても、
それが自らその尊さの中に己の命を見いだしておることにはなりません。尊いも有難いも、それは実感であります。
それがただの知識や理解に止まっているなら結局一つの影法師でしかありえないでありましょう。
では今申したようにどうして自らそこに踏み込まないのか。こういう点を反省いたしてみますと、それはあまりにも現代人の上に、特に知識階級、あるいはインテリというような人々におきましては、
知性主義とでもいうものが座を占めておりまして、その理知主義、合理主義をなかなか容易に超えることが出来ない。そういうようなところに大きな踏み切れない原因があるのではないかと思います。
もっと生な、己れ自身に返って、自ら自身に返って、自ら己れを開きゆく道に立ってみるべきではないかと思いますが、どうもそういう問題が取り残されておるような気がします。
ロシアの文豪のドストエフスキーという人の小説の中にある一節ですが、人間というものはあたかも理性で生きておるように思っている、少なくとも自分は理性を中心に生きておると。
こういうふうに思っておるけれども、人間の理性というのは私どもの心のたかだか二十分の一ぐらいの領域を占めておるものにすぎない。二十分の十九は理性の手の届かない暗黒の
領域を懐いておるのだと、まあこういうようなことを申しておりますのですが、これは人間というものを非常によく見詰めた言葉だと思います。
今日、学校教育を受けますと理性というもの、或いは知的思考というようなものが一方的に育てられてゆくことになりますので、
己れの生命の中に何が含まれておるのかというようなことは得てして気づかずに過ぎて行く場合が多いと思います。人間の心と申しますと、なお一面的になりますので、
むしろ私は人間の命といった方がより具体的なものに触れうるように感じますが、そういう命の中に何が含まれておるか、
それは決して合理主義というようなもので処置し尽くせるようなものではないのであります。理性よりもさらにさらに複雑な深い感情というものが私どもの心の底に根深く座を占めております。
そういう私どもであるのにかかわらず、只今申しましたように何か知的思考というようなものが私どもの心を縛っておりまして、容易にそれを踏み越えて奥に行けない。
こういうところに現代の知識人がいつも外から観察するという立場に始終して、実際自己の内にあるところの矛盾を解決しえない所以があると思います。信仰、仏教でいえば信心でございますが、
そういう体験的な問題になるとどうも足踏みしてしまうのです。
●無相庵のあとがき
私も、自分の心の中で考えている事や思い描いた事を皆さまに知られたく無い思いを懐いています。もの心ついて以来の約70年を振り返りますと、様々な人を傷付けた事、不義理をした事、
期待を裏切った事に気付かされます。自分が亡くなって、もし、閻魔大王の前に立つような場面に遭遇するような事があると仮定する時、堂々と立つことが出来ず、黙って、
自ら進んで地獄の門に入ってゆくに違い無いとさえ思います。
なむあみだぶつ
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