●無相庵のはしがき
  私は今も、厳しい競争世界に身を置いており、色々な体験をしております。楽しい事は滅多になく、腹立たしい事、悔しい事が殆どですが、この体験こそが、 私に様々な自覚を呼び覚ましてくれているのではないかとも思っています。今回の井上先生のお話の中に、「宗教的真理というものは体験としてのみ現存する」というドイツの哲学者のお言葉や、 井上先生の「宗教は、何も堂塔があることが宗教ではない、宗教的行事が宗教でも無い。宗教はただ生命的体験としてのみ現存する。」という先生ご自身のお言葉があります。
  成る程、そうだなぁーと思う事でございます。

  ところで、世俗な話題ですが、東京オリ・パラの競技委員会の森喜郎会長の女性蔑視発言がマスコミの餌食となり、世界中の騒ぎになっています。森氏は、現役総理大臣の時に、 宇和島の水産高校の練習船『えひめ丸』が、ハワイ沖で米原子力潜水艦に衝突されて沈没した際、ゴルフプレー中に報告を受けながら、そのままプレーを続けたことで、非難を受けたことがあります。 どうも、マスコミに狙われやすい雰囲気を持っておられるのかも知れません。もし森氏が気の弱い性格なら今頃辞任されているかも知れない状況ですが、 気が強い人格が更に立場を悪くしているように思われます。辞任されても続投されても、関係者には勿論、オリ・パラに出場する全てのアスリート達にも沈鬱な気持ちを抱かせてしまったのは間違いないので、 森氏が上手く辞任されることを望みます。

  森氏は、私より8歳上の83歳。私は女性蔑視する発言はしていないと思いますが、それも私が思っているだけのことかも知れません。何せ小学中学の時に受けた教育は、 どちらかと申しますと、男尊女卑的な傾向があり、「男の子だからしっかりしなさい!」とか、「男の子は勉強して偉くならないと」と、母親から言われていたように思います。
  それは戦後間もない昭和30年頃ですが、森氏は戦前の教育を受けられていたと思いますので、その、「男の子は女の子とは違う」と云う度合いは、 私たちの世代よりも大きいものがあったと思います。でも、だから女性蔑視発言が許されるというのではありません。
  私がそうであったように、戦後、アメリカ文化の影響があり、『男女平等』とか『レディーファースト』という言葉を聞くようになり、その影響を受け、むしろ女性は大事に、 いたわらねばならないと云う心を持ち始めたように思います。しかし、私より8年前の教育に洗脳されていた森さんの世代では、なかなか馴染めなかったのだと思います。多分、 森さんと同じ世代の男性は、無意識のうちに、女性蔑視の発言をしてしまっているのではないかと思ったりもします。でも、やはり日本を代表するような立場になった男性は、 世の中は全く変わった事を胸に刻み、自分の立場を弁え、自ら変わる努力をして貰いたいと思います。

  森氏は、そういう経緯を言い訳がましく無く語り、「私もこれから変わる努力を致し、性別も人種も差別のないオリンピック精神を今一度再認識して、 東京オリンピックの成功に邁進致しますので、見守って頂きたく、お願い致します。」という声明を正式な記者会見で表明されたなら、日本だけで無く、世界中の人々も気持ち良く、 東京オリ・パラの開催を楽しみにするものと思います。

  是非、そうあって欲しいと思います。何も言わずに続投しても退任しても、決して世界中が気持ち良くオリンピックを迎えることにはなりません。

●宗教へのあゆみ―(1)宗教の道ー③

  今日では自覚という言葉は一般語として用いられています。或いは哲学用語として大切な言葉になっているのでございますが、本来、「自覚」というのは仏教の言葉です。 どういう意味かといいますと、字の通り自ら目覚めるということばです。新しい眞実に魂の目が開かれる、そういうことが本来自覚という言葉なのですが、それが今申しますような、 今日では一般語として簡単に用いられたり、哲学用語として難解な意味に用いられたりしています。

  ところが本来、自覚とは自分自身の内側の出来事でありまして、私どもがよく体験という言葉を使いますが、体験というのは冷暖自知です。冷たいものに触れて冷たいと知り、 熱いものに触って熱いと自らその事に実感を持つ。冷暖自知とは私どもの感覚的な事柄でございますが、それをもっと深い内なる心というものの上に置き替えて考えてみてくださいますと、 それは眺めるところから出てくる知識とは、よほど違った生命的領域の事象を示しておることがお解りでありましょう。

  そのような体験にはいま申しますような意味合いにおいて自覚というものがある。しかもそれは自覚である以上主体的である。 その人自身の生きた精神活動の中において初めて成り立つということです。そうなりますと、宗教的真理というのは眺めてわかる、或いは知識として理解してわかるものではない。 「宗教的真理というものは体験としてのみ現存する」これは西洋の宗教哲学者であるシュライエルマッヒェルという人が申しました言葉ですが、 私は宗教という世界に関しては確かにその言葉は間違いではないと思います。

  宗教は、何も堂塔があることが宗教ではない、宗教的行事が宗教でも無い。宗教はただ生命的体験としてのみ現存する。
  体験の中に生きた宗教的真理というものが生き生きとそこに生きて顕現するということでございます。

●無相庵のあとがき

  私、この井上先生の『眞実の泉』というご著書の内容をこうしてご紹介している時、私の母親が最も親しく、 そして深く教えを聞いていた井上先生のご法話を、私が紹介している事をきっと喜んでいるだろうと思い、 また、こうして井上先生の法話を今では世界のどなたもされる事が無いであろう中の私の行為を、喜んでおられるのでは無いかとも思い、そんな嬉しさを胸に抱きながら書かせて頂いております。

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No.1869  2021.02.04宗教へのあゆみ―(1)宗教の道ー②

●無相庵のはしがき
  私は親鸞聖人の教えを人生の道標(みちしるべ)として生きて参りましたし、今もそしてこれからも、その道標無くしてはとても生きてゆけないとも思っております。
  しかし、それは何故かと考えました時、未だ明確に、「それは、こうだからです」とは答えられません。
  それは何故かと考えました時、今回の井上先生が仰せの人生のプールサイダーだったからでは無いかと考えました。それに付いても何故かと考えますと、 私の人生は本当の意味での苦難と悲しみに満ちたものであったはずなのに、あまり苦しさを自覚し得ないまま、今まで生きて来ました。 私に周りの人々のお陰で生きているという自覚が芽生えなかったからではないかと反省している次第です。

  つまり、今日の井上先生が仰せの通り、私が人生のプールサイダーだったからだと考えるようになったからです。それも何故かと考えますと、例えで申しますと、浮き輪を着けたまま、 プールに飛び込んだプールサイダーのようなもので、結局、自分独りでは泳げず、浮き輪(周りの助け)が無ければ、溺れていたに違い無いと思っているからです。

●宗教へのあゆみ―(1)宗教の道ー②

  プールサイダーという言葉がある。プールというのはあの泳ぐ水泳のプールでございます。サイドというのはその脇です。そのプールの脇に腰掛けておってそして泳いでおる人をいろいろと批判する。 「あの泳ぎ方はどうも技術が不充分である」とか、自分は泳がずにプールの外に腰掛けて泳いでいる人を批評批判するけれども、自分は泳ぐことが出来ない。

  確かに現代の知識人はプールサイダーである。批評はするけれども自らは泳ぐことは出来ない。 こういうような事柄がただいま申し上げてまいりましたようなことと関係しておる出来事ではなかろうか。といたしますと、私どもはやはり自らが泳ぐ人にならねばならん。 自らがその水にはいらねばならんということになってまいりましょう。いつまでも外から眺めて評論しておりましても、結局、 その人がいよいよ水に浸かれば手も足も出ないというのでは無意味ではありませんか。今日、世の中では盛んに議論が交わされます。議論が交わされるのですが、何かそこに議論倒れ、理屈倒れ、 そういうことになって、本当のあるべき人間の道が具体的に開かれて来ない。これはやはり現代人の評論家的性格がそのように時代を停滞させる原因の一つになっているのではないか、 そういう気持ちがいたすのでございます。

  さて、宗教の世界が私どもにとって大切である事を肯定される方々、このような方々は宗教の値打ちを評価しておられるのであります。ところが一体、 宗教的眞実というものは眺めてわかるものなのかということです。おそらくそういう方々が宗教が必要だというようにおっしゃる場合は、 現代人はどうもいろいろな問題を起こし混乱して本当の歩みができない。ところが宗教的に生きた方は、他の人の出来ないようなことを立派に乗り越えてゆかれる。やはりそこにはなにか違った力がある。
  そういうような点で宗教が大切であり、必要なんであると、こういうようなところから宗教を肯定し、評価しておられるのであろうと思いますが、 しかし宗教的真理というものは眺めていては本当のことは判らないものです。やはり自らがその中に入ることによって、そこに初めて宗教的真理というものがその人の上に現われ出る。 外から眺めて知るのではなしに、その中に自ら入ることによって気づかされていくことを主体的自覚と申します。私どもの外側の事柄は、見て、知ってそれを操作することが出来る。
  例えば機械の構造というものが解りますと、その機械をどう扱うかという操作ができるわけですが、私どもの内側にあらわれる眞実といものは、 自覚ということよりほかにそこに通ずる道がないと申してよろしいでしょう。

●無相庵のあとがき

  前回のコラムで、私は兄の考え方に何か足りないものを感じていると申しました。何れ、兄と直接話し合いますが、兄の様に全てを受け容れて生きてゆく事は、 私たち仏教徒の理想とするところでもあります。信仰を持たずに生きておられる方は、多分、日本では、国民の半数以上ではないかと思います。この無相庵ホームページに来られた方は、 極めて極々少数派のお方だと思います。それを喜びとし、且つ、井上先生のプールサイダーと云う見方を心にとめて、私自身の課題として参ります。

なむあみだぶつ

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No.1868  2021.01.28宗教へのあゆみ―(1)宗教の道ー①

●無相庵のはしがき
  この無相庵に来られる方々も、また私自身も、仏教に何かを求めているのだと思いますが、しかし私は、「あなたは、仏教、或いは信仰に何を期待し何を求めているのですか?」と問われた時、 さっと答えられないと思います。私の場合は母親が念仏者でしたので、仏教を求める動機というものが無く、もの心がついた時、気が付いた時には仏教の中に居た、そういうお答えになると思います。そして、 何も疑問を抱かずに、学生時代を過ごし、社会人にもなり、結果として、今、そのまま後期高齢者(今年の3月に76歳になります)となりました。そして今回、井上先生の『宗教の道』を読ませ頂き、 私自身が今持っている信仰への期待は果たして何なのかを改めて考えることになりました。

●宗教へのあゆみ―(1)宗教の道ー①

  宗教が現代の私どもにとって大切であり、人間にとって重要な意義をもつことに関しては、特定な思想をもつ人は別として一般の知識人、または教養のある方々はほとんどそれを肯定され、 同意を表わされるにもかかわらず、その方々自身が宗教的な世界に親しく自ら進みゆかれるかというとそうではないのであります。
  これは一体どういうことでありましょうか。仏教の貴さは承知しているけれども、その教えに自らは入り込んでゆかない。そこには何かが欠けていると言わざるを得ません。 私ども自らが仏道に入り込んでゆかざるを得ない、そういう必然の道筋というべきものを明らかにしなければならないのではないかと思うのであります。

  インテリと申しますか、知識階級、そういう人ほど宗教の大切さは理解する。ところがそういう人ほど、自らの信仰いうものを持ち合わせないという統計的結果も出ている。 確かにそういうことがあるようでございます。そう致しますと、何かそこには問題が残されているといわねばなりません。大切なことであると解れば、進んで自らその事に立ち向かうはずですがそれがない。 その原因の一つとして、ただしく自らが眞実の宗教にたどり進む主体的な筋道、その意味での方法論的門戸が開かれていない点があると思われるのであります。。
  しかし方法と申しましても、決してテクニークではありません。言葉を改めますと宗教的な真理に自ら入り込む確かな自己自身の要求、そういう問題についての自心門戸が十分に開かれていない。 だから立派な品物を窓越しに見るという状態に終わって、それと私とが実際どう関係するのか、私は今後、人間としてその世界とどう係わるべきか、また、関わらねばならないか。 そういうことについての飽くまで内的主体的なプロセス、そういう点が確かに今日明らかにされてないままに放置されていると思われるのであります。

  入り口が欠けておるし全体が閉ざされる。先ず内に入る道が開かれていなければなりません。ご承知のように、書物には多く日本語で序論というて全体の概要を述べるところがありますが、 ドイツ語ではその序論にあたる語句がEinnleitugという言葉で表わされます。Einとは「中へ」という意、leitenというのは「導く」という意味ですから、つまり「本論に導き入れる」ということになります。それを日本語では「序論」というように訳しますけれども、実は適当な訳語ではありません。しかし本当には、本論に先立って、そこに明らかにしようとする世界にまで導き込む筋道を明らかにすると云う事が大切であろうと思います。

  そういう点から申しますと、仏教の本論はあるのだけれども、その仏教に対する導きの道が十分に開かれていないところに問題があるといわねばならぬ。で、現代人は知識という点においては、 昔と違いまして学校教育を受けて大いに進んでいる.理解力も確かに深まっておるんでございましょう。ところがその知識や理解力が人をいわゆる評論家に仕立ててしまう。 外から眺めて批評するという姿勢に私どもを位置づけてしまうことが極めて多いのであります。そういう無意識の姿勢を現代人はもっていると思います。

●無相庵のあとがき

  私は5人兄姉の末っ子ですが、私以外の兄姉は、仏教を信仰対象としてはいなかったと思われます。特に二つ年上の兄はむしろ全く関心を持た無いまま今日に至っているように思います。
  確かめた事はございませんが、「悩みが無いのではないけれども、悩んでも仕方無い、出遇った事を受け容れて生きていくしかない」と云う心境に違いないと思います。 勉強は私より数倍能く出来ましたが、勉強は、好きというのではなく、「勉強せなしゃーないからやっとるだけや」(神戸弁)と言ってたように思います。もし、兄に「死ぬんは怖ないのん?」と聞いたら、 「いずれは皆必ず死ぬんやし、何時死ぬか分らんので、それを心配してもしゃーない」と答えるに違いありません。

  現時点では、私は兄の考え方をそれなりに大したものだとは考えていますが、僭越ながら、何かが足りないのではないかと云う気持ちを今も拭い去ることが出来ないでいます。それが何なのか。 何故なのかをこれまでも考えて来たように思いますが、未だ結論を出すには到っておりません。それをこれからも仏教徒としての課題として、様々な体験をしながら、考えて参りたいと思っています。 それがまた、仏教徒として生き抜いた母への恩返しであり、この『宗教へのあゆみ』を遺された井上先生への恩返しにもなるのではないかと考えている次第であります。

なむあみだぶつ

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No.1867  2021.01.21まことの宗教―(3)仏陀の教えー③

●無相庵のはしがき
  今回で、第一章『まことの宗教』は終り、第二章『宗教へのあゆみ』に移ります。今回の井上先生のお話の中に、「宇宙的真実」、「真実なるもの」、そして、 「真実をよそにして生き甲斐というものをどこに探してみましても、それはみつけられるべきものではないのであります」というお言葉があります。 それが何を指すものかをお考えになられながらお読み頂ければ有り難いと思います。 また、後半に、日本の政治家に対するご批判を述べられておられます。井上先生は、このように他を批判されることは珍しいのですが、それは、私たちが体験した事の無い、 先生の戦争体験から発せられたものではないかと私は思っております。先生は終戦後、シベリアに抑留され。日本に帰り着かれたのは、昭和24年だとお聞きしています。想像を絶するご体験だったようです。 先生は詳しいお話をされませんでしたが、一つ印象に残っていますのが、「お風呂で使う石鹸箱が無くならずにずっと私と一緒だったのは不思議な事です」というお言葉です。

●まことの宗教―(3)仏陀の教えー③

  そのような宇宙的真実と、この私との間柄を正しく「命」の中に気づかせていただくということが、宗教的開眼だと思いますが、このとき私どもは真の命の よりどころに落ち着かせていただくことが出来る。
  人間というものが真の落ち着きを得るがためには、決して人間の主観で考え出したような思想というものでは究極的には落ち着き得るものではないと思います。 本当の落ち着きというのは、真実なるものに私どもの命の眼が開かれ、真の落ち着きどころに気づかせられた時に与えられるものだと思います。その時、人間の誰しもが、 願い求めております生き甲斐のあり方というものを私どもは気づかされるでありましょう。真実をよそにして生き甲斐というものをどこに探してみましても、それはみつけられるべきものではないのであります。 その時限りの喜びは、人間の享楽の中にもありますが、それはやがて果敢なく消え失せていく悲哀の終末が待ち受けているだけのものであります。

  私どもの中にそれ自らが増大していくと申しますか、増上していくと申しますか、これは真実なるものを除いて、真の喜びの増上はこの世界に求めることは出来ない。 人間の身体的な感覚に依存するような楽しみは、みな靴底のようにすり切れていくものばかりであります。

  そういうすり切れて行くような人間の感覚的な楽しみというものに不当な期待を寄せている。これが現代人のなにか足掻きになっている。欲望を満足したら楽しかろう、 そこに生き甲斐があろうと追いかけるのですが、すればするほど、すり切れていく。それは本来、期待すべきはずでないものに不当な期待を寄せている、 そういうところから現われてくる悲哀というものであろうと思います。私どもが人間として、真の生き甲斐というものを気づかせられるがためには、 宇宙の真実がこの私の中に来たり宿れる永遠なるものに目覚めるより外にはありません。その内なる真実が私どもに、早くまことの世界との間柄に「めざめよ、めざめよ」といって心の扉を叩いておられる。 それを逆に私どもはあるべからざる個人的な自我の妄想にわざわいされて、その尊い輝く仏心を覆い隠してしまっている。覆い隠しておるから、その結果、先ほどから申してきました自己矛盾が起こる。 自己矛盾というのは、自分で自分の足を踏みつけるようなものでございますから、そこに当然、苦悩というものが反復される。その矛盾と苦悩とが私どもにいよいよ迷いの業をつのらせてまいるのであります。

  そういう私どもの一方の姿・在り方に対して、目覚めるべき命に、一日も早く目覚めさせる働きが絶え間なく私どもの内に起こっている。
  人間の生きる真の喜びの源が私たちを待ち受けておられる。しかも、その真実は個人の問題解決のみではなくして、同時に世界人類を導く光りともなり、 歴史の方向を照らす光源ともなるものです。人間の歴史というのは紆余曲折を重ねてまいりましたが、このままでは何処へさまよって行くやらわからないと思います。今日の政治というものは、 いつも対症療法的に、今、痛いところが出来たから、それをどう治療すべきか、そういうような政策に政治が明け暮れているようですが、政治というものは歴史の行先、しかもそれはただの行先ではない、 正しい歴史の方向というもの、そういうものを自覚して政治家というものの信念と行動に成り立つものといわねばなりません。日本の政治家に哲学がないということは、 つまり歴史の行く末というものを見届ける、そういう前提を持たずして、ただ対症療法的な政策を弄しておるというところにあろうかと存じます。

  そういうような点を一ついろいろとご参考にお思い合わせ下さって、私どもが真実の宗教を聞くということはどういう意味を持つのか、真実の宗教とは何なのか。 それは人間が本当の人間となって人類の根本問題を果たす道なのだというところに、私どもは立ち返ってみなければならぬと切に感じる次第であります。

●無相庵のあとがきー①

  井上先生が「宇宙的真実」とか「真実なるもの」と仰せになっている『真実』というのは、「何時の時代にも、何処の国、何処の地域でも、だれも反対出来ない事実」なのではないかと思います。 そして、唯一真実と言えるのは、お釈迦様が気づかれ、説かれた教えである『物事は縁に依って生じる』つまり『縁起の道理』だと、井上先生は、考えておられたのではないかと思います。また、私たちに、 「めざめよ。めざめよ」と常に働きかけて下さる仏心も、真実だと云う事だと思われます。

●無相庵のあとがきー②

  井上先生が後半で、「今日の政治というものは、いつも対症療法的に、今、痛いところが出来たから、それをどう治療すべきか、そういうような政策に政治が明け暮れているようですが、 政治というものは歴史の行先、しかもそれはただの行先ではない、正しい歴史の方向というもの、そういうものを自覚して政治家というものの信念と行動に成り立つものといわねばなりません。 日本の政治家に哲学がないということは、つまり歴史の行く末というものを見届ける、そういう前提を持たずして、ただ対症療法的な政策を弄しておるというところにあろうかと存じます。」と、 語っておられますが、これは、日本を敗戦に導いた当時の内閣を頭に描かれて仰せになられたと思いますが、何も語らない仏教界の中で、井上先生は勇気を持って、語られたのではないかと思います。 井上先生のお師匠の白井成允先生も、『人類の平和について』と云うご著書の中で、世界の中で唯一と言ってもよい仏教国の日本を私たちは護って行かねばならないと、宣言されています。

なむあみだぶつ

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No.1866  2021.01.14まことの宗教―(3)仏陀の教えー②

●無相庵のはしがき
  新型コロナウイルス感染問題に見舞われてから、約一年になろうとしていますが、終息に向かう兆しは見えないまま、国民の私たちの不安は増すばかりです。
  我国はオリンピック・パラリンピックの開催予定日も迫っており、政府も難問を抱えて何か右往左往の状態にあると思わざるを得ない状況ですし、私たち国民も、 これまで経験したことの無い不安な日々を送っております。こんな中で、仏教界も含めて宗教関係者、宗教団体から一般国民に対して適切なアドバイスは勿論のこと、 新型コロナ感染問題に関するコメントすら見聞したことがありません。
  恐らく、過去に起きた幾度かの戦争の時にも同様ではなかったかと思います。
  しかし、仏教の考え方からすれば、「禍福何れにも縁に従って受け止めてゆくしか無い」と云う事でしか無いと思います。宗教・信仰は、自分が幸せになるために求めるものではないでしょう。 私たちは信仰を持っていましても、震災にも火災にも遇いますし、戦争に依って数年の不自由な生活を強いられます。私たちの両親も、祖父母も。そのまた祖先も、今私たちが直面していると同じか、 それ以上の苦難に出遇っていた筈です。そう考えて、やはり、「禍福何れにも縁に従って生きて行こう」と腹を括るしかないと思います

  さて井上善右衛門先生は、私たちが今こうして仏法を聞いたり読んだり出来ているのは、勿論、お釈迦様が2500年前にお生まれになったからであり、しかもお生まれになられたのが、 日本から遠く離れた外国ではなくて、南アジアと言われるアジアの一国です。もし、お釈迦様が遠く離れたヨーロッパとか、南北アメリカ大陸とかアフリカ大陸にお生まれになっていたら、 私達は仏法に縁は無かったろうと思います。お生まれになったのがインドだったからこそ、お釈迦様は『縁起の道理』の仏法に考え至られたと考えるべきかも知れませんが、地理的に考えましても、 縁は深かったと、井上先生はお考えになられたのでしょう。

●まことの宗教―(3)仏陀の教えー②

  ところが、その来り宿って下さっている真実との尊い間柄の目覚めというものを、先ほど申し上げましたような人間の煩悩というもの、 それは迷いの我執を源として起こってまいります人間の妄情でありますが、この我欲と煩悩が長い長い間、生命の流転の中で、真実を十重二十重に包み囲んでまいったのであります。
  そういう状態の中で人間というものはいろいろな自己矛盾にもあい、精神的葛藤をも経験し、思考の遍歴を経て、様々な思想や信仰の形態を歴史的に生み出してきたのでありますが、 その中から真に正しい究極的真実、即ち仏心を仏陀が明らかにされたということは、宇宙的真実とこの私どもとの間柄を生命の上に正しく、はっきりと気づかせる道をうち立てて下さったのであると、 このように申してよかろうと思います。

  そこに仏教という教えが誕生したのでございますが、これがさらに、西暦前後の頃から大乗仏教という磨きのかかったものに成長してまいりまして、 その磨きのかかった大乗仏教の成果というものが、ちょうどよい時機に勝れた人々によってインドから中国に伝えられ、それがさらに中国から朝鮮を経て日本にもたらされ、またちょうど折も折、 聖徳太子という方が日本に出られまして、大乗仏教の精髄をまさしく日本に根をおろさせて下さった。こういう歴史的経過を経て今日、 私どもが真実の仏教を聞かせていただくことの出来る身の上になっている次第でございます。
  この事は考えてみますと、決して当たり前のことではなくして、実に遇い難いものに遇い得た恵みと申さねばなりません。

  大乗仏教の精髄を今日聞き得るのは日本だけでございましょう。他の国には大乗仏教が定着しなかった。私どもが日本に生まれ大乗仏教の精髄を聞かせていただくということは、 これは非常に遇い難いものに私は遇い得ているのだという感銘をもたねばならぬという思いが致します。

●無相庵のあとがき

  今私たちが仏教の中でも特に親鸞聖人の御教えを仏法として親しめているのも「非常に遇い難いものに私たちは遇い得ているのだという感銘を持たねばならぬ」と、 私は思いました。

  親鸞聖人も、京都でも関東でも飢饉に見舞われ、街中に放置された人々の死体を目にされたと聞いております。何時の時代にも、どんな人でも、苦難を避けることは無いと云うのが、 私たちが生きている娑婆だと云うことだと改めて思う次第です。

なむあみだぶつ

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No.1865  2021.01.07まことの宗教―(3)仏陀の教えー①

●無相庵のはしがき
  新年、明けまして、おめでとうございます。

  正月三ヶ日から4日過ぎての新年のご挨拶となりましたが、本年もどうか、宜しくお願い申し上げます。

  さて、『通俗信仰』から『まことの宗教』に脱皮するのは、「宇宙的なるものによってあらしめられている存在」である私達人間にとっては必然であると、 井上善右衛門先生は仰っているのではないでしょうか。そして、釈尊が2500年前のインドに生まれられ、それまでの通俗信仰的なるものから脱皮して、 『縁起の道理』という科学的な正覚に至られたことから、色々な経緯があって、日本に住む私達が大乗仏教の親鸞聖人の教えに遇い得たのは、決して当たり前の事では無いと、 考えておられたように思います。

●まことの宗教―(3)仏陀の教えー①

  釈尊が2500年前にインドに誕生されまして、そして、その釈尊が蝶に脱皮されたと言いますと変ではございますけれども、これ以前のインドにおける思想信仰、 これはバラモン思想と申されておりますが、さらに民間の土俗信仰も混ざっていたと思います。またお釈迦様のお生まれになりました当時は、六種外道と申しまして、 いろいろな思想が盛んに蜂起した時代でありましたが、その中から立派に脱皮を遂げられたのが仏陀の正覚であったのであります。
  その仏陀の正覚というのは一言で申しますと、究極の真理と一体化された「仏心」を明らかにされたという、そういうことでございましょう。

  「如来蔵」という言葉がございますが、私どもの心の中に究極的な宇宙の真実が入り込み、宿っていて下さる。仏と人間が無関係のものなら入り込み宿るというわけにはまいりませんでしょう。 けれども、もともと私どもは最初に申し上げましたように宇宙的なるものによってあらしめられている存在なのです。そしてその命というのが身と心という具体的な形をもって働くにいたった。 そういう身だけではなく、心の中に宇宙的な真実というものが来たり宿っているということは、これまた、頷けることでございませんか。

  ところが、その来たり宿って下さっている真実との尊い間柄の目覚めというものを、先ほどもうしあげましたような人間の煩悩というもの、 それは迷いの我執を源として起こってまいります人間の妄情でありますが、この我執と煩悩が長い長い間、生命の流転の中で、真実を十重二十重(とえはたえ)に包み囲んでまいったのであります。 そういう状態の中で人間というものはいろいろな自己矛盾にもあい、精神的葛藤をも経験し、思考の遍歴を経て、様々な思想や信仰の形態を生み出してきたのでありますが、 その中から正しい究極的真実、即ち仏心を仏陀が明らかにされたといことは、宇宙的真実とこの私どもとの間柄を生命の上に正しく、はっきりと気づかせる道をうち立てて下さったのであると、 このように申してもよかろうかと思います。

  そこに仏教という教えが誕生したのでございますが、これがさらに、西暦前後の頃から大乗仏教という磨きのかかったものに成長してまいりまして、 その磨きのかかった大乗仏教の成果というものが、ちょうど良い時機に優れた人々によってインドから中国に伝えられ、それがさらに中国から朝鮮を経て日本にもたらされ、 またちょうど折も折、聖徳太子という方が日本に出られまして、大乗仏教の精髄をまさしく日本に根をおろさせて下さった。こういう歴史的経過を経て今日、 私どもが真実の仏教をきかせていただくことの出来る身の上になっている次第でございます。この事を考えますと、決して当たり前のことではなくして、 実に遇い得がたいものに遇い得た恵みと申さねばなりません。

●無相庵のあとがき

  井上善右衛門先生は、通常信仰のお話の後半から、『脱皮(だっぴ)』という言葉を使われています。私は、この『脱皮(だっぴ)』という言葉とその考え方は、仏教徒にとって、 非常に大切な考えだと思っています。仏法の話を聞けば少しずつ、仏法の知識が増え、それと共に人格も少しずつ高まってゆくと考えがちですが、そうではなくて、何かの出来事や、 どなたかの何かの法話を聴いた瞬間に、はっと気付く事、思い当たる事があると思うのです。井上善右衛門先生は、それを『脱皮』と捉えていらっしゃるのではないかと思いますし、皆さまも、 そういうご体験をお持ちではないかと思います。連続的に坂道を上がるのではなく、一段一段、高低差のある階段を上がって行くと云う事を『不連続な連続』と云う表現で語っておられると思うのです。 これは、臨終の時迄、『不連続な連続』が続くのではないかと受け取っております。

  そして考えて見ますと、私が親鸞聖人の教えを人生を生きる上での道標とさせて頂くようになりましたのは、念仏の行者だった祖父の孫、母の子に生まれたからですけれども、それと共に、 井上善右衛門先生との縁が無ければ、どうなっていたか分りません。そして、井上善右衛門先生がそのお師匠の白井成允先生との縁が無ければ・・・と遡ってゆきますと、親鸞聖人、法然上人、 そして、中国の善導大師・・・そして、お釈迦様まで行着きます。そうしますと、どなたが欠けましても、今の私にはなっていません。井上善右衛門先生の仰せの通り、 「決して当たり前のことではなくして、実に遇い得がたいものに遇い得た恵みと申さねばなりません。」と云うことになりましょう。

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No.1863  2020.12.31まことの宗教―(2)通俗信仰―⑤

●無相庵のはしがき
  今年も大晦日になりました。例年なら、明日からの新しい年を迎えるにあたって少しは高揚感を覚えるのですが、やはりコロナの終息が見えない所為でしょうか、重苦しい気分が勝っています。

  今年も、細々ながら無相庵コラムを続けさせて頂きました。何とか来年もという気持ちであります。今年最後のコラムは、井上先生の『通俗信仰』の⑤で、締めくくらせて頂きますが、 今回の内容は、仏道を歩むにおいて、とても大事な内容だと、私は感じ入りました。

●まことの宗教―(2)通俗信仰―⑤

   そう致しますと、一体私どもの人間の持つ自然の情感、即ち人間と宇宙との関係が私の心の中に何らかの働きを及ぼしてきている自然の情感を、 いかに正しく健やかに成長させていくべきか。
  そこに人間が本当の人間としての心を育ててゆく道があると思われるのであります。単なる通俗信仰という点に止まっていてよいのではない、 それはいろいろ大切な要因を含んでおりますけれども、しかしそれに私どもはそのま身を任しておいてよいのではない。

  人間の心というのは脱皮することが出来る、そういう性質をもっているのであります。脱皮というのはどうすることかと申しますと、 毛虫が蛹(さなぎ)になり蛹が蝶になるというふうに、脱皮していくことです。ところが、もとの毛虫から脱皮して生まれてまいりました蝶と毛虫とは全く似つかないものです。 別ものといってよいような、そういう異質なものを持っております。けれども毛虫がなければ蝶も生まれてこないのです。その意味からいいますとどこかで繋がっておる。

  哲学者がよく難しい言葉で非連続の連続ということを言いますが、やはり心の脱皮現象というのも非連続の連続と思います。通俗信仰的なものは誰しもの自然の情感でございます。 そういうものが正しい教えによって脱皮していく、そしてだんだん感情としても純化されてゆくと同時に、精神の自覚として高められていく、自覚というのは目覚めであります。 こういう道程を宗教は辿るものだと思います。また事実、歴史をかえりみてみますと、そのように動いてきておるのを見るのであります。

●無相庵のあとがき

  子どもが単に体が成長して大人の体になるのは、脱皮とは言わないのでしょう。学校生活や社会での生活に於いて、苦しみや悩み、嬉しいことや感激的な出来事に出遇うことによって、 非連続的な精神面での成長を遂げるのではないかと思います。それを人間としての脱皮と言うのでは無いでしょうか。本を読んだり、法話を聴く事によっても、大きな刺激を受けることもありますが、 やはり実体験によって受ける事が、人を脱皮的に成長させるのではないかと思いました。私は脱皮もせずに年老いましたが、これから死ぬ迄、未だ未だ脱皮の瞬間を体験するに違いありません。 年明けてからも、覚悟を持って、過ごして参りたいと思っております。

なむあみだぶつ

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No.1862  2020.12.24まことの宗教―(2)通俗信仰―④

●無相庵のはしがき
  通俗信仰の章は次回で終り、次は『仏陀の教え』という章に移りますが、井上先生が『通俗信仰』という「親鸞聖人の教え」とは真反対の信仰をテーマとして述べられた意味は、 どうやら、通俗信仰の考察を通して、真実の信仰である『仏陀の教え』、ひいては『親鸞聖人の教え』を私たちに語っておきたいと云うお気持ちがあったのでは無いかと気付きました。

●まことの宗教―(2)通俗信仰―④

  自己以上のものを知る敬いの心、人間の有限を知る謙虚な思い、或いは慈愛と感謝、こういうような人間の感情というものは決して理屈から出てくるものではありません。 理屈以上の大きな真実に私どもが触れ、つながっておるというところから現われて来る。それが人間の自然な情感でございまして、そういうものをもう一度、私どもは本源に立返って見つめてみる必要がある。 そして人間の本当の在り方、人間の本当の生き方を第一歩から踏みなおす必要があると思うのです。
  ところが、ただ今申しましたような何気ない通俗信仰というものは、いま申し上げたようないろいろ大切な要素を気づかずして含んでおるのでございますが、 しかし同時にその状態は極めて主情的でございます。主情的と申しますのは、その心の質が情的気分的なものに中心を置いておりますものでありまして、その意味において何か脆(もろ)さがある。 私どもの感情というものは尊い要素を感じ取るのではございますが、ただ情感というものだけになりますと、浮動的で確固とした核心がない。そこに自ずと多くの不安定な隙間を持つことになります。

  ところが一方、人間というものはご承知のように、誰しもが、自己を中心とし、その自己をすべてのものに優先させようとする、そういう利己心、 あるいは有限なこの身体的自己に執着する我執の心、そういうものを人間は離れ得ないものであります。それは人間が限られた〝からだ〟という枠の中に入られて生を享けた業にもとづくものですが、 その人間のもつ性格がただ今申しました主情的な情感の隙間から入り込んでまいりまして、そして我識らず、利己的な欲望を満たすために祈願するというような感情が現われてくることが、 通俗信仰には非常に多いのであります。そういういわばエゴに基づいた利己的感情が神秘感に乗じていつの間にやらつのってまいりして、それが客観の道理に反し、社会の秩序や良俗を乱し、 人間関係を破る盲目行為にまで突進してまいりますとそれは極めて危険です。かくて自他を害する幻想性の中に陥ったものを迷信と名づけるのであります。かくて主情的な通俗信仰には同時に、 迷信的要因の喰い込む隙間と可能性を持っておるいうことは、十分に注意しておかねばならぬ点であろうと思います。

●無相庵のあとがき

  通俗信仰は、或る意味無邪気な祈りのように思われる向きもあると思いますが、その祈りは、私たちが最も愛している自己の欲望を叶えたい思いから来ていると考えるべきではないかと云うのが、 井上先生の心の中に持っておられた願いだったように私は考えました。そして、井上先生がこの世に生まれられ、仏陀の教えに会われた事を縁として、 親鸞聖人の教えに辿り着かれた意味をどのようにお考えであったかを、改めて識りたいとも思った次第です。

なむあみだぶつ

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No.1861  2020.12.10まことの宗教―(2)通俗信仰―③

●無相庵のはしがき
  私は今年の5月以降、大事な製品開発の研究試作を繰返し行っています。私の会社の再興延いては個人の経済生活の苦境からの脱出に繋がるものですので、必死です。 必死故に、自分はお釈迦様の『縁起の道理』の教えを長年聞いていますのに、「縁に任せ切れていない」自己の現実に気付かされており、決して穏やかな老後ではありません。 井上先生のお話にありますように、動物には無い生命感情があり、「果敢なさという感じや、敬いという感情、悔しいという」動物には無い苦しさを味わっているのだと思います。

●まことの宗教―(2)通俗信仰―③

  そうしますと、合理主義というものからは出て来ることの出来ないようなものを、現在の知識人は低級と軽蔑しておりますけれども、 先ほどのお婆さんがお地蔵さんに手を合わせているその素朴な心の中に、合理主義に求められない大切な要素の含まれていることを見いだすのであります。
  現代人は知識に心奪われてしまいまして、そういう人間の基本的な生命感情という言葉を用いましたが、生命感情とは人間に固有な生命の底に動く感情でありまして、 身体的な感覚器官(五官)によって引き起こされる感情とは区別さるべきものです。
  後者を感覚感情と申しておきましょう。それは感覚的快苦として動くものであって、程度の違いこそあれ動物にも共通するものです。生命感情はそれと異なり、人間の命に固有な感情であります。 果敢なさという感じや、敬いという感情は動物にはありえないでしょう。先に情感といったのは生命感情の極めておぼろげな気分的状態とご了解いただきたいと思います。

  その生命感情の淵源は究極には宇宙と人間との真実の関わりに由来すると言わざるをえないのです。そういう人間に基本的に大切な生命感情を現代人は置き忘れている。 それは結局、小さな自己に執じて宇宙との間に垣根を作っているからであります。

●無相庵のあとがき

  今の私の状態は、決して「お金さえあれば穏やかになれる」というものではないでしょう。井上先生が仰せの、「小さな自己に執じて宇宙との間に垣根を作っている」状態だと思います。 この生命感情は、今生で解消されそうにありませんが、今生で幸いにも仏法に出遇えたのですから、来世に向けて、今は葛藤を続けるしか無いと思って毎夜眠りに就いているところです。。

なむあみだぶつ

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No.1861  2020.12.10まことの宗教―(2)通俗信仰―②

●無相庵のはしがき
  今回の井上善右衛門先生のお話は、現代社会で正当な考え方とされている『合理主義』は決して良い面ばかりであると云うお立場では無いように思われます。 井上先生は大学で教鞭を取っておられましたし、神戸商科大学(現兵庫県立大学)の学長を務められたご経験があります。昔、全学連とか学生が権利を主張していた頃だったと思いますので、 学生とのやり取りの中で、権利と義務に付いてその体験を通して、色々な思いを持たれたものと思われます。

●まことの宗教―(2)通俗信仰―②

   合理主義は今日私どもの生活を支配しておるものの考えでありますが、合理主義から出発しますと、いわゆる計量、ものを計算して計るという、 そういうことが重視されてまいります。すべてのものを計量し分析し、そしてそれを私どもの都合のよいように組み合わせ操作していくということが私どもの力の働かし方になって まいります。ですから今日では電子計算機というものが現代文明の先頭を切って動いておる所以であります。そうしてすべて計量的に物を考えます結果、一方にどれだけの権利があり、 一方にどれだけの分量の義務があるかというような考えが合理的思考から、人間関係の上にも現われてまいります。

  で、そうなりますと例えば今日の学生は、学校というところは、学生は学ぶ権利があり、教師は教える義務だけで成り立っているところでしょうか。そうではなしに、 教師の教える使命感、学生の学ぶ喜び、そういうものを通して教師と学生との間に結ばれてくる親愛の情こそが、まことの教育と学校生活の核心となるべきものであると思います。 ところが、そういう根本の心情が今日の学校にはございませんのです。授業料を出しているから学校へ来るのは当然の権利、 それに対して適当な教え方をしないそういう教師は責められるべきだという意識が先立っています。これはやはり合理主義から出てくる当然の意識だと感じます。

  知っているある独りの医師がこんなことを私に言ったことがあります。患者が病院に担ぎ込まれて来た。なかなかの重態であったが、 それをなんとかと思って夜も病院に泊まり込んで手当した。その結果だだん回復してきたやれやれと医者も思うように危機を脱した。ところがその患者が退院します時に、 会計のカウンターでお金を支払うて、「領収書、領収書」と請求して、それでこと終れりとさっさと帰っていく。その時ほど医者として寂しい気のすることはないと、 このように私に漏らしておりましたが、如何にもそうだろうと思います。
  何かが欠けておる。何かあるべき人間のあり方が失われている。治療費を払うたんだからあたりまえで、領収書を受け取ってさっさと帰ればよいというわけなんでしょうけれど、 それで一体どうでしょうか。病気をみ護るものと、手当を受けるものとの間柄が全うされているでありましょうか。

  或いはまた、合理主義の中からよろずのものを慈しむというような感情を引き出すことが出来ましょうか。野辺に咲く一輪の花、そのような花に何か命の通いを感じまして、 そしてその花に愛情を覚える。そういうことが合理主義の中から出てまいりましょうか。野に咲いている花は植物で、そんなものを踏みにじろうが、 人間に何の関係もないというようなことになってまいりますのが合理主義の立場というものでないかと思います。

  しかし一輪の花にも植物にも何か命の通いを感じてひそかに慈しみの心を持つということ、これはやはり人間が本当の人間になる一つの大切な心情ではないかと思います。 

●無相庵のあとがき

  私は、合理主義というものは、言い方を変えれば「自分にとって合理的な立場」と考えた方が現実に合っているのではないかと思うのですが如何でしょうか。 「自分の理屈にっている」のを合理主義と云うものではないかと・・・。「自分ファーストの人」は「私は合理主義を大事にしている」と言い張るのではないかと・・。 日本も世界も、合理主義と合理主義の争いではないかとさえ思います、私も「自分は合理主義を貫いている」と思っておりますので、ビジネスの場では苦労や争いが絶えないのだと思います。

なむあみだぶつ

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