No.1840 2020.06.05永らくコラム更新を怠っていました。
●無相庵のはしがき
仕事の忙しさ、家計の立て直しに奔走する日々が続いており、この無相庵コラムを更新するエネルギーが無く、 約一ヶ月、お断りもせず、サボってしまいました。●永らくコラム更新を怠っていました。
手軽に更新が可能なFB(フェイスブック)に、日めくり無相庵カレンダーのご紹介と、 現時点での私の想いを認(したた)めていました。
例えば、5月31日には、『柔軟心』を紹介しました。
無相庵カレンダーのご紹介
今回も、26日目の日めくりに続いて、30日目の日めくりを紹介致します。お言葉は『柔軟心(にゅうなんしん)』というものです。柔らかい軟らかい心というものですが、私なんかは正反対の「自分はなんと融通の効かない、 凝り固まった心なんだろう」と常に反省・慙愧の繰返しです。
『柔軟心』
解説文:おれがおれがと云う心には、この柔軟心はありません。すべてを受け容れ、全てと調和していく心が柔軟心です。
我が家の一階のトイレに、この無相庵カレンターを吊り下げていますので、常々ではありませんが、時として自己を見つめ直さざるを得ない事があります。
ただ、今日の『柔軟心』は、周りと調和、協調して生活をする上で大切な心持ちではありますが、反面、周りに流されて生きる姿勢にもなりかねません。
「俺が、俺が」というのは行き過ぎですが、周りに流されないためにも、しっかりした自分自身を確立させていることもまた、重要なことであると考えることも柔軟(じゅうなん)な考え方であり、 それも含めての『柔軟心(にゅうなんしん)』でありたいと思います。5月29日には、良寛様の『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候』をご紹介しました。
無相庵カレンダーのご紹介
今回は、4日目のカレンダーから一挙に飛んで、26日目を紹介致します。それは、私たちが『コロナ』と言う災難に向き合っている時にぴったりの、良寛さまの教えと思ったからです。26日目
『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候』解説文:仏様の『安らぎ』の世界を、わが住みかとしている人は、苦も楽も、生も死も、悲しみも喜びも、順縁・逆縁どちらとも、合掌礼拝で受け取る人なのです
新型コロナの感染問題は、政府が非常事態宣言を解除した今も、「これで安心!」、と思った人は殆ど居られないでしょう。
ひょっとしたら、「独り身の良寛さんだったからこその境地ではないか」とも思う人も居られるかも知れません。
しかし、先ずは災難を受け取ることから始める必要があり、災難に向き合うことから逃げて、悔やんでばかり居ても、何も始まらないことも現実であり、確かだと思います。良寛様の歌を、「災難を逃れるには、先ずは災難を災難として受け取り、今の自分が出来ることは何にかと考え始めた時、災難から逃れる道を歩み始めた」と受け取るべきではないかと・・・。
●無相庵のあとがき
この無相庵ホームページで、私には写真を掲載する技量を持ち合わせていません。これまで写真を掲載出来ていましたコラムもありましたが、それは長女に依頼していたからです。 長女が昔勤務していた会社に復帰しましたので、忙しかろうと思って、今は控えているので、写真を簡単に掲載できて、 無相庵カレンダーの写真を皆さんに見て頂けるFB(フェイスブック)の更新に走ってしまった次第でござます。なむあみだぶつ
No.1839 2020.05.09お金を手にする事は容易ではありません
●無相庵のはしがき
お金を手にするには、自分から相手に何か価値あるものを提供しその対価としてお金を貰うか、金融機関や個人から借り入れる融資という方法、 或いは日本政府の政策に依って一定の条件を満たせば利息無しで受け取れる給付と云う方法がありますが、何れも簡単にお金を手にすることは出来ません。●お金を手にする事は容易ではない
私は今年の3月以降、新型コロナウイルスが原因で売上高が激減しましたので、融資と給付の二つの方法に活路を求めて来ましたが、その為には、昨年と比較して、 売上高が50%以上激減した事を公に認められるデーターで示して承認を得る必要があります。過去のデーターを調べ尽くして報告資料を作るには、 大変な労力と時間が必要でした。以前にも私は申し上げましたが、私は成人になるまで、お金の苦労をすることがありませんでしので、 お金の得難さを身に沁みて感じることがありませんでした。だから75歳に年老いた今、お金に苦労しているのだと思っていますが、これは必然だとも思っています。 給付が受けられるかどうかは分りませんが、給付を受けられようと、受けられない結果になろうとも、世の中に価値ある製品を提供することでしか、 私の会社は存続出来ないと思っております。
来週から新しい製品開発に着手致します。また、私の特許技術を応用して、世の中の役に立つ、新型コロナウイルスに感染しない工夫を凝らしたマスクの開発も、 協力企業を得て地道に進めて参りたいと思っております。今回のコロナ問題で、恐らく皆さんもマスクを手放せなくなっていると思っています。本当は、マスクをしていることで、 感染しなくなることはなく、マスクをするのは、感染者が他人に感染させないためにすると云うのが一般的な考え方です。しかし、その理屈は兎も角も、 私もスーパーに買物に行った時は、やはりマスクをしないと不安を感じます。従いましてこれからもマスクは必要とされるのではないかと思っております。
●無相庵のあとがき
世の中はお金が一番大切ではありませんが、お金が無いと生きるのに絶対的に大切な食生活が続けられません。コロナで死ななくても、食べられなくて亡くなる人も増えます。 「食べるために生きていない。生きるために食べる」と云うのは正論です。しかし、「何のために生きているのか?」も、忘れず自問自答したいものです・・・。なむあみだぶつ
No.1838 2020.05.02日本には備えが無かった新型コロナウイルス対策
●無相庵のはしがき
連休明けには、非常事態宣言の延長が明らかな状況であり、私たちの生活はこれからも自粛自粛が求められそうです。新型コロナウイルスの発祥元の中国武漢は、既に平時に戻っているとか、ニュージーランドでも新型コロナウイルスを制圧したとか云う ニュースが流されているのに、医療でも先進国だと思っていた私たちは、今の日本の状況に「日本は何故?」と首を傾(かし)げざるを得ません。
●日本には備えが無かった新型コロナウイルス対策
安倍内閣の新型コロナウイルス対応は、行き当たりばったりの場当たり的です。故に施策変更が常態化しており、 且つ迅速性が無いと感じてしまいます。私は安部首相のリーダーシップは安陪一強の平時でのものであり、今回のような想定外の危機に遭遇した時には、 恵まれた環境で育った二世政治家の首相では対応不可能で、故田中角栄首相のような、下克上的指導者が必要ではないかと思います。
しかし、現在の新型コロナウイルス対応が、安倍内閣の能力が無いからだと断定してはならないとも思います。歴代の政権、そして、 我々の国民性に依るものだと認識すべきだと思うのです。
あるテレビ番組で、下記の『日本のリスク不安』というデーターが示されていました。リスク不安とは、 或る差し迫った危険や災害に、「これは大変だ!」と感じる国民は全国民の何%かを統計したものであり、下記がそのデーターです。
日本のリスク不安:
感染:21%
戦争:29%
テロ:31%
地震:59%
このデーターの読み方としては、例えば、今の新型コロナウイルスが問題だと知った時、国民の21%は、 「これは大変な事が起こった!」と不安を感じたけれども、その他79%の国民は殆ど不安を感じなかったと云うことになります。
昔から、『地震、雷、火事、オヤジ』という言葉がありますが、地震国日本の国民はやっぱり地震には怖さが身にしみていると云う訳です。もう一つの見方として、我々の眼に見える地震、テロ、戦争には恐怖と不安を感じるけれども、眼に見えないウイルスには、 恐怖や不安を感じ難いとも言えそうですし、今回のウイルス感染、そして戦争は、日本の国土の何処か一地域ではなく、 日本列島で暮らす国民全員が一緒に経験していることであり、辛さを共有しているからこその、ある種諦め感、負の連帯感に依って慰められているのかも知れません。 また、コロナ不況が大企業も中小企業、そして私の会社のような零細企業まで、企業規模に関係無く平等にダメージを与えております。 こう云う状況だからこそ、平時では零細企業が受けられない無利子無担保融資を受けることが出来ましたし、ローンや借入金返済の猶予措置にも助けられています。 全てが悪い事ばかりではないように思います。
●無相庵のあとがき
悪い事ばかりではないと申しましたが、先が見えない不安は解消するどころか、ますます不安は募ってゆくばかりです。或るテレビ番組で、 二人の倫理学者が、「もう元に戻ることは無いと考えるべきだ。むしろこれまでが異常だったと考えるべきだ」と言ってました。テレワーク、オンライン授業、 オンライン帰省が当たり前の世の中になると云うのです。教育関係で、9月新学期への変更が取り沙汰されていますが、この是非、可能性云々は、別にして、75年前の敗戦後、 道徳も、政治も劇的に変わった事を考えると、コロナが終息しても、元通りの日本の生活にはならないと考えるべきかも知れません。そして、上述の日本のリスク不安の統計を、今年の年末にでも取り直したら、感染不安が80%以上の断トツになるかも知れません。
なむあみだぶつ
No.1837 2020.04.25人間力が試されている新型コロナウイルス感染問題
●無相庵のはしがき
なかなか終息しそうに無い新型コロナウイルス問題、日本中、否世界中の誰しもが辛い思いをしていることは、テレビの報道番組で明らかです。 お金持ちも、貧乏人も困り方は違っても、平等に不安を抱いています。私は75歳の高齢と、何と言っても糖尿病を抱えておりますので、 もし新型コロンウイルスに入り込まれると重篤状態になり死も目の前に差し迫ることになりますので、日常生活の行動は慎重にならざるを得ません。●人間力が試されている新型コロナウイルス感染問題
私は前々回のコラムで、この新型コロナウイルス問題に付いて、「これは第三次世界大戦と言えるのではないかと考えています。」と申しましたが、 ますます、その思いが強くなって行くばかりです。そして、私が生まれた75年前の第二次世界大戦終戦前後、同じような思いを抱いて、田舎に疎開をして、 色々と苦労した母の不安と苦悩、そして、それを遠くの軍隊(国内ではありましたが)で心配したであろう父の不安と心配を想像し、また、それらを乗り越えて、 私たち5人の姉弟を育て上げた両親が焼夷弾が降り落ちる中を彷徨ったことを思えば、今度は私たち夫婦が新型コロナウイルスに負けてはいられない、 今は私の人間力が試されていると思った次第です。
そして、私は今回、新型コロナウイルス感染という不安とも戦っていますが、もう一つは、世の中の全ての中小零細企業・商店の経営者が遭遇している、 経済的困窮と云う不安とも戦っています。思えば私は、脱サラ起業するまで、お金で苦労したことがありませんでした。幸か不幸かと言えば、「幸」だったと言えるのでしょうが、 世の中の現実・真実を知らないままこの世を去る人生は「不幸」だったと考えるべきではないかと思うようになりました。
そして今回認識させられたのは、信用金庫とか銀行というものは、企業や商店を助けようとか支えようという精神文化を殆ど育てていないということです。 昔から、「銀行は雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を貸す」と言われていますが、これは、企業の経営が安定し好調の時はどんどん融資してくれるのに、 経営が苦境になり資金が必要な時には資金を回収しようとするということを言っているのです。
28年前に脱サラ起業した私は、新しい土地で立ち上げた会社だからこそ、借り手を増やすチャンスだとして寄って来た信用金庫と銀行の魂胆を知らずに、 次々と融資の誘いに乗ってしまいました。その魂胆とは、未だ立ち上ったばかりの会社には、保証協会付きと云う、 金融機関に取っては極めて安全な融資制度を利用しようというものでした。その融資は数千万円に上り、設備投資と従業員へのボーナスに使い切り、今その借金が未だ、 会社の経営を圧迫しています。●無相庵のあとがき
今回の新型コロナウイルス問題も、会社と家庭の経済的困窮も、解決の目途は立っていません。しかし、75年の人生で初めて人間力を試されていると考えましたので、 あらゆる知識と人脈を頼りに、世の中の役に立つニーズを見付け、それに我が社の特許技術を役立てて、経済的困窮を解消して、これまで経済的苦労と心配をかけて来た家族親族に報い、 最後は退職を余儀なくさせてしまった従業員にも恩返しし、何も報いてこれなかった株主の皆さんにも恩返ししていくと同時に、 私自身も残りの人生を、一人の技術者としても遣り甲斐を感じられるものに致したいと思っております。未だ未だこれからです!
残念ながら新型コロナウイルスは、私の力では何ともなりません。感染せず、感染させない行動を心懸けるのみです。なむあみだぶつ
No.1836 2020.04.05業風吹いて止まざれども・・・
●無相庵のはしがき
020/02/17 - 2月3日に横浜港に到着したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客・乗員の新型コロナウイルス感染が報じられてから2ヶ月、 今や国内のほぼ全都道府県に感染が広がっています。一方で欧米を含む全大陸にも感染が広がり、全世界で50万人の感染者、そして5万人の死者が出ているという状況ですが、 未だ終息に向けた有効な手だては無いというのが実情です。その結果、商工農業等、全産業の経済活動がストップした為に、働く人々にお金が廻らず、市民生活は困窮に見舞われておりますし、 見通しが立たない故の将来不安にも襲われています。
ご多分に洩れず私の会社も我が家も、大変厳しい生活です。また、3月始めから一昨日まで、公的資金融資を受けるための申請文書作成提出、そして面談と、かなり頑張りましたが、 結果は予断を許さない感触を得ており、不安を抱いているところです。不安を抱いていると云うことは、私が未だ、成りゆき任せに生きられていないことであります。そこで、 何故私は成りゆき任せに生きられないんだろうかと思った時、前々回のコラムで紹介させて頂いた、井上先生のお言葉、「心の本性は変わらぬものと真に徹した時、心の方向は転換しているのである。 大悲によって転ぜしめられるのである。」を思い浮かべ、私は、「そうか、私は、心の本性は変わらぬものと真に徹しきれていないからなんだ」、と思いました。そして、 井上先生のお師匠である白井成允先生の、『召喚の声』という詩を思い浮かべました。●業風吹いて止まざれども・・・
その詩の内容は、下記の通りです。
「招喚の声」
業風(ごうふう)吹いて止まざれども
唯だ聞く弥陀招喚の声
声は西方より来りて
身を繞(めぐ)り髄に徹(とほ)る
慶(よろこ)ばしきかな
身は娑婆にありつつも
既に浄土の光耀(こうよう)を蒙(かうむ)る
あはれあはれ十方の同胞
同じく声を聞いて
皆倶(とも)に一処に会(え)せん
南無阿弥陀佛
私は世間の荒波に翻弄されて、自分の力ではどうすることも出来ないで立ち往生しているだけで、その業風をお浄土の仏様からの召喚の声として受け止められていないんだと大いに反省しました。
●無相庵のあとがき
結局は成り行き任せに生きられないのが私の本性なのだは思いましたが、しかし、井上善右衛門先生仰せの、「心の本性は変わらぬものと真に徹した時、心の方向は転換しているのである。 大悲によって転ぜしめられるのである。」という井上善右衛門先生の言われる『心の本性』とは、親鸞聖人ご自身がご自分のことを名指しして言われたと云う、『罪悪深重煩悩熾盛の凡夫』であり、 私は未だ自分のことを『罪悪深重煩悩熾盛の凡夫』とは認めておらず、仏法を聴けばどんな成りゆきをも受け容れ心穏やかに生きてゆける人間になれると自己評価しているのだと思わざるを得ません。なむあみだぶつ
No.1835 2020.03.28第3次世界大戦
●無相庵のはしがき
今回のコラムは、FB(フェイスブック)に投稿した内容を転載したものに致しました。
コロナウイルスが猛威を奮っています。世界中で猛威を奮っています。感染者は、世界で50万人を超え、死者は2万人を超えたと申します。 2月始めには誰も予想出来なかった状況だと思いますし、いつ終息するか全く予想が出来ない状況であり、もしかしたら自分も罹るかも知れないと、 不安に思う人も増えているのではないかと思います。私の住んでいる神戸市西区で感染者が出たとは聞いていませんが、食料品を買い求めにスーパーやコープに行った時は、 入り口に置いてある消毒液を両手首と両手に丁寧に塗っています。 未だ、マスクもせず、消毒もしない人びとも散見しますので、これでは知らずに感染したり、感染させたりする人が増えて、とんでもないことになります。私は、これは第三次世界大戦と言えるのではないかと考えています。
●第3次世界大戦ではないか
今回の世界大戦の敵は、コロナウイルスです。地球上に生きている人類の人数をはるかに超える何兆というコロナウイルスが敵だと思います。 仮にもし、宇宙に存在する或る星の宇宙人がこの地球の人類を滅ぼす為に大挙して攻め込んで来たとしたら、人類は結束して闘うでしょう。日頃は、米中、 日韓で反目し合っていても、また北朝鮮が怪しからんと騒いでいても、舞い降りて来た宇宙人と結束して闘うに違いありません。
人類はこのコロナウイルスとの闘いを契機に、私たち人類は、国は違っても結束することの重要性に気付かねばなりせん。●無相庵のあとがき
東日本大震災の時に、元東京都知事の石原慎太郎氏が、〝天罰〟発言をして、かなり批判されました。表現は適切ではありませんが、今回のコロナ問題を契機として、 戦争の無い世界、戦争が起こらない世界を実現する為に人類が結束出来れば、人類は、国同士の争い・戦争はしないと云う、過去の歴史に於いては有り得なかった進歩を遂げられるのではないかと思います。 その為にも、私たち日本人も世界中の市民も、一人一人が自覚を持って、コロナウイルスに感染しない、感染させない行動を取るべきだと考えています。 勿論、自分の努力に依って、完璧に感染を防ぐ事は出来ないと思いますので、感染者を責めることは結束とは逆の言動ですので、注意したいものです。なむあみだぶつ
No.1834 2020.03.21思念と予想
●無相庵のはしがき
前回のメールで私は、成りゆきにまかせる為の心得として、「夫れ夫れが出来得る限りの手段を駄目元で実行し尽くし、その上での成りゆきにまかせるしかないと、私は思います。」と、 申し上げましたが、その後も、『成りゆきにまかせる為の心得』は私の頭から離れないテーマとなっています。そして、今回紹介する井上善右衛門先生のご著書『慈光の旅』の中に井上先生ご自身、 なかなか成りゆきに任せられない事を吐露されている、「思念と予想」という箇所があり、非常に興味を抱きつつ読ませて頂き、仏教徒のあるべき姿を示唆されたように思いましたので、 ご紹介させて頂きます。●思念と予想
意識の上だけの思考というものは、言わば表面にいろいろな画をかいて様々な色を塗っているようなものである。心の内味は依然として変わっていない。眠れない時、 色々と自分の心に言い聞かすことがある。とやかく思うことを止めて眠らねばならぬ。明日は明日のことである。眠って明日の活動に備えねばならぬ・・・。しかし依然として眠りは訪れない。 又思う、眠れないのを強いて眠らせようとするのが無理である。眠りは自然と訪れる。眠れても眠れなくてもかまわぬと思え・・・しかし依然として眠れない。右往左往の工夫は畢竟意識表面の画に終わって、 内味は元のモクアミである。
その内味とは何かと言えば、眠れないで焦っている自分とそれを眠らせようとしている心とである。眠れても眠れなくてもかまわぬと言いながら、眠ることを予想し期待しているのである。 意識というものは常にこうした矛盾を犯すものである。如来の大悲は意識や思惟の手の届かぬ底の心への喚びかけである。自分の心はどうにもならぬ。心の本性は変るものではないとよく言われる。しかしそう考えることが意識の画に止まっているのではないか。 心の本性は変わらぬものと真に徹した時、心の方向は転換しているのである。大悲によって転ぜしめられるのである。徹頭徹尾、変わらぬものなら信もまた無意味ではないか。 色とりどりの意識の画餅をえて生の心が大悲に対面する日はきっとある。そこにアミダ佛の本願がまします。
人間の心はいつも未来を描いている。これを予想と言う。この予想というものは、現在の心で未来を眺めているものである。未来そのものを捉えることではなく、 現在の心が描く未来の画なのである。 如何に真剣に未来を凝視(みつめ)てもそれは現在の心を脱却し得るものではない。覚悟というものの錯誤的な性格も亦ここにある。
美濃の伊深(岐阜県美濃加茂市)に雪潭和尚(せったん おしょう;臨済宗の禅僧)という方があった。曾て懸命に見性に励まれたが、一向に心の闇が開けない。そこで意を決し近くの龍福寺という寺の山門に登って一週間で見性出来なかったら、 この桜門から飛び下りて一命を捨てよという覚悟である。ところが一週間は経った画心の眼は開けない。熟慮の結果、更に五日間と決めた。しかしやっぱり駄目である。そこで今度は三日と決めた。 三日過ぎても未だ見性は出来ぬ。そこで愈々決心し、わがいのちもこれまでと、片足をスット欄干にかけ飛ばんとした刹那に忽然として大悟徹底したという。
如何に真剣でも、覚悟は未来の想定という影を脱することが出来ぬ。覚悟と直接の体験とはどこまでも隔たりがある。私は宗教的信ということに就てこの事を思う。 現代人は外からの覗き癖というものを持っている。それは数世紀来、物を向こうに見ることに慣れた結果である。宗教を覗きはするし、外から論じはするが、自ら宗教の中に立つということを忘れている。 眺め覗いて得るものは影である。真実なるものには永遠に触れることが出来ない。
われわれの世界にも、現在の心で画く決心や覚悟の悲劇は多いようである。嫁入ればきっと姑さんに仕えようと決心している娘の心はけなげにも純粋な心である。 息子に嫁を迎えたらきっと可愛がりましょう。決して不和は起こすまいと誓うお姑さんの心も真剣である。この二人の心に偽りはない。他の嫁も姑も皆なそう思うのである。 しかし如何に真剣に思うても悲しいかな、それは現在の心が思う未来の姿である。錯誤はここより始まる。事実の因縁というものはもっと深刻であり厳粛である。 その時に至って自ずからその因縁の中に立ってみると、曾ては思いもかけなかったような憎悪と瞋恚の炎が忽然として湧き起こる。和合を期していた嫁と姑の悲劇はここに現われる。 如何に真剣でも人間の覚悟はこの悲劇を防ぐことが出来ない。事実の因縁はけなげな想定をも微塵に踏みにじる。無残と言えば無残である。しかしこれは安易な予想に生きて、 人間性の底を叩くことを忘れたことに帰因するのでないか。予想の水面を破って恐ろしい因縁の竜巻が突如として天に沖する(天高く舞い上がる)という気がする。
思念と予想の果敢(はか)なさを思うものは大悲が何を憂え、慈光が何を照らしたもうてあるかを思うてもみねばならぬ。仏法を聞かずして私共は生きていることの出来るものではない。
●無相庵のあとがき
「心の本性は変わらぬものと真に徹した時、心の方向は転換しているのである。大悲によって転ぜしめられるのである。」と云うことと、 「思念と予想の果敢(はか)なさを思うものは大悲が何を憂え、慈光が何を照らしたもうてあるかを思うてもみねばならぬ。 仏法を聞かずして私共は生きていることの出来るものではない。」と云う井上先生のお言葉を大事にしたい。
成りゆきになかなか任せられない私だからこそ、任せられない者に注がれる仏様の大悲と慈光を感じ取るようでなければ、仏法を聴いている意味は無いのだと云うのが、 井上先生が私に伝えたい事だと思います。なむあみだぶつ
--->No.1833 2020.03.14続ー成りゆきにまかせる為の心得
●無相庵のはしがき
私の会社にも個人の生活にも、コロナウイルスが容赦なく襲いかかって来ています。恐らく、皆さまも経験したことの無い目に遭われていると思います。正直なところ、 「成りゆきにまかせましょう」とは言えないです。でも、こう云う時こそ、日本政府を含む国会議員と官庁のお役人、そして銀行を含むあらゆる企業と共に、日本国民皆で、 コロナウイルスに勝つという気概を持って、夫れ夫れが出来得る限りの手段を駄目元で実行し尽くし、その上での成りゆきにまかせるしかないと、私は思います。●続ー成りゆきにまかせる為の心得
『塞翁が馬(さいおうがうま)』、『「禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし」』と云う「故事成語 (こじせいご、 昔中国で起こった出来事から生まれた教訓のこと)」を紹介させて頂いてから、五日が経ちましたが、勢いがなかなか治まらないコロナウイルス感染に依り、零細企業とは言え会社経営をしている私は、 特に先行きが気になるところですが、日本社会にある様々な支えを利用し尽くして、私に出来得る事は、場合に依っては遠いところまで足を運び、駄目元で果敢に挑戦しなければならないと云う思いからです。 それは、人を不安に陥れるネガティブなコロナウイルス報道、そして悪の根源であるコロナウイルスに勝ってやるぞと云う思いからでござます。
●無相庵のあとがき
私たち世代は、阪神淡路大震災や東日本大震災、それに伴う原発爆発災難に遭遇し、その上に今回の終息が見通せないコロナウイルス感染問題に不安を抱いておりますが、考えて見ますと、 私たちの親世代は、コロナウイルス等の感染症に悩まされはしなかったでしょうが、関東大震災に加えて、私たちが未だ曾て経験したことのない、 これまた何時終わるかも知れない戦争という年単位の苦しみと、コロナウイルスでの死者数よりも格段に多い、何十万何百万人の犠牲者が出た経験を持っています。もっと遡れば、地球上に生まれた私たちの人類の祖先は、最近の研究によると、13万5000年前と9万年前に東アフリカでひどい干ばつが発生、そして7万年前には極端な気候変動によって人類は、 ついに消滅の危機に瀕するほどの少数にまで激減し、一時は2000人ほどになっていたそうです。米国国勢調査局の調査によると、現在は66億人以上の人類が地球上にいるらしいのですが、 いつどのような理由で再び絶滅の危機に立たされるかは誰にも分らないと云うことです。それが、この娑婆世界だと云うことを忘れてはならないのです。
そういう私たち人間の置かれた境遇をしっかり認識し、地球と地球の歴史を俯瞰して見れば、コロナウイルスは然程の難敵ではないと思い、立ち向かう勇気が湧いて来ました。 そして、昨日の金曜日、私は一時間半かけて神戸市の隣の明石市に在る日本政策金融公庫を訪ね、コロナウイルスの影響で売上げ高が落ち込む中小零細企業を救済する、 日本政府が用意してくれた施策を利用出来るかどうか、相談に行って参りました。
結果は兎も角、今の自分にやれることは何でもやるぞ、と云う思いからです。他にもやれる事は色々あると思っています。なむあみだぶつ
No.1832 2020.03.07成りゆきにまかせる為の心得
●無相庵のはしがき
前回のコラムで、井上善右衛門先生(元神戸商科大学〝現兵庫県立大学〟学長)の思い出話を以て、「成りゆきにまかせる」という事の実際をご紹介しました。
紹介させて頂きましたが、私などの場合、これまで「成りゆきにまかせ切れた」と思えた瞬間は極々少なかったと思います。どうすれば「成りゆきにまかせる」ことが出来るのかと考えた末に、『塞翁が馬(さいおうがうま)』と云う中国の故事を思い出し、「これかな?」と思いましたので、 その故事をご紹介させて頂きます。
●『塞翁が馬』と言う中国の故事とは
国境のとりでの近くに、運命判断など占いの術に長けた老人の一家がありました。ある日飼っていた馬がなぜか突然国境の外、胡人(こじん、 北方の異民族)の住むあたりに逃げていってしまいました。
人々が見舞いにやってくるとこの老人は「今度のことは福を呼び込んでくれるかもしれんよ」と言います。それから何か月かして、この逃げた馬がなんと胡人の飼っている立派な馬を何頭か引き連れて戻ってきました。人々がまたやってきて「良かった良かった」と祝福すると老人は 「これは災いをもたらすかもしれんよ」と言います。
この老人の家では良馬をたくさん飼っていたのですが、ある日老人の息子が馬から落ち足の骨を折ってしまいました。 人々が見舞いにやってくるとこの老人は「今度のことは良いことかもしれんよ」と言います。
それから一年が過ぎ、胡人が大挙して国境を越えて侵入してきたので、体の頑健な男子はみな兵隊にとられてしまいました。
彼らの多くはこの国境のあたりで戦死しましたが、老人の息子は足を悪くしていたため徴兵を免れ、親子ともども命拾いしたということです。この物語が故事成語 (こじせいご、昔中国で起こった出来事から生まれた教訓のこと)の「塞翁が馬」となりました。
●無相庵のあとがき①
中国には、「禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし」と云う故事成語もございます。「禍福は糾える縄の如し」とは、人生をより合わさった縄にたとえて、 幸福と不幸は変転するものだという意味の故事成語です。
不幸を嘆いていると、いつの間にか幸福となり、幸福を喜んでいると、また不幸になる、ちょうどそれは「より合わせた縄のように表裏が交互にやってくる」ということを表しています。●無相庵のあとがき②
私の75年(明日の3月8日が75歳の誕生日です)を振り返りますと、禍も福もありました。しかし、夫れ夫れに出遇った時は、「禍福は糾える縄の如し」と云う言葉も、 『塞翁が馬』という言葉も思い付かず、喜んだり、悲しんだりしていただけだったと思います。しかし、今思いますと、「禍福は糾える縄の如し」ということを実感出来ます。まさに現在は、一生に一度の金欠に苦しんでおりますが、『塞翁が馬』と「禍福は糾える縄の如し」という故事成語に励まされて、 私がこれまで培って来た技術力と人脈(取引先企業も含めて)に支えられて、「成りゆきにまかせて」、出来得る限りの努力をし尽くしているところでございます。
これからも、この娑婆に生きている限りは、禍福を繰り返してゆくものと思っております。なむあみだぶつ
No.1831 2020.02.29「へぇ!成りゆきにまかせましょう」
●無相庵のはしがき
今回は、井上善右衛門先生のご著書『生き甲斐と仏教』から、足利浄円という方との「思い出の記」を引用して、樹木希林さんの「一切なりゆき」と少しニュアンスが 異なる「成りゆきまかせ」を紹介させて頂きます。足利浄円師は、無相庵カレンダーの3日目の詩を詠まれた甲斐 和里子(かい わりこ)師の甥子さんで、真宗では学徳優れた有名なお方です。 また、甲斐 和里子師(1868年(慶応4年)6月15日 - 1962年(昭和37年)11月27日)は、日本の教育者で、京都女子大学の創始者です(旧姓が足利)。●「へぇ!成りゆきにまかせましょう」
季節も日時も忘れてしまったが、足利浄円先生が与えて下さった不滅の教えとその時の感銘とが昨日のことのようにありありと蘇ってくる。
前夜私の宅でお泊りくださって、翌朝三宮駅から急行で広島に発たれるその朝の出来事である。なるべく汽車の待ち合わせが長くならないようにと、 心をくばって時間を計り、先生とともに家を出て阪急電車の六甲駅までご案内したまでは無事であった。先生の傍らにある心のなごみで朝の空気も清々しく感じられた。 阪急六甲から三宮までは10分とかからない。これから行けば予定の急行にはほどよい時刻である。プラットホームに腰掛けて六甲の山をうち眺めながら、 何やら先生と言葉を交わしていた。ところがどうしたわけか、大阪行の電車は通過するのに、三宮行の下りが来ない。遅いですなと私が時計を見たときである。 駅のスピーカーが声を立てて響いた。
注)阪急神戸線の下り路線は、御影駅→六甲→王子公園→春日野道→三宮、三宮でJRに乗り換え
「皆さんにお伝えします。下りの電車は御影駅まで来ていますが、故障で止まっています。恐れ入りますが暫くお待ち下さい。」さあ困ったと思った。 限られた時間しか残ってはいない。しばらくして来ればよいが、それもわからぬ。先生はその急行で発たれないと向こうでの講演に間に合わない。 何の懸念もなく立てた私の計算は狂うてきた。おだやかでない心が一秒一秒嵩じてくる。しかし待つより外にはない。すると、スピーカーが再び叫んだ。
「恐れ入りますが、いましばらくお待ち下さい。故障を点検していますが、いつ発車できるか不明です」アナウンスは驚く気配もないが、私にはショックである。 「不明」なものを「暫く」とは何事かと胸は騒ぐが詮ないことである。またしてもまたしても時計を見る。急行に遅れる責任はヒシヒシと案内役の私にかかって来る。 とうとうじっとしておれなくなって、せき込んで私は先生に言った。
「どうしましょう。急行に遅れます。バスに乗りましょうか。タクシーを拾いましょうか」バスに乗れば大廻り、タクシーに乗っても、 直線に走る電車のようなわけにとてもゆかないから急行に間に会うとは思われぬ。それを知りながら、どうして先生に問いかけたのか私にもわからぬ。 燃えている火がわけもなく揺れ動くようなものであろう。すると先生、私のせき込む言葉に応えて、
「ヘェ!成りゆきにまかせましょう」その一瞬、私の燃え騒いでいる心はザンブと冷水をかぶる思いがした。その感銘を忘れない。 そのときの私の顔が写真にうつっていたら、おそらく見ものであろう。私は答える事を忘れて茫然とした。それからどれほど経過したかを覚えぬが、 長くはたたぬうちに電車が来て、それに乗って三宮駅に着いたときには、ギリギリ一杯、ホームに駆け上がり、先生を列車に乗せて窓から荷物を渡した。 動く列車の窓から先生はいとも静かに「へぇ、有り難うございました。左様なら」
列車が消えてから我れに返った私は、いましがたの出来事をば噛みしめ噛みしめ家路についた。あのときの「成りゆきにまかせましょう」、 といわれた言葉はまことに珍無類である。思い出すと可笑しくさえなる。「このまま待ちましょうか、バスにしましょうか。タクシーに乗りましょうか。」、 とおたずねしたのだから、全くそれの答えとはならぬ。しかも私が冷水に浴する驚きを喫したのは何故か。 慌てふためいて真実を見忘れ仰天している心そのものにピタリと光を当てて、その迷妄を破されたからである。
『智度論』にこんな喩えがある。犬に石を投げると、投げた人には気付かず転ぶ石を懸命に追いかける。 ところが獅子に石を投げるとその石には眼もくれず、投げた人に向かって飛びつくというのである。我々の問答というものは転がる石をどこまても追いかけ廻る。 しかしそこに解決の道はない。気付かなかった根源の問題点にたちかえり、それを照らす真実の光に遇うたとき、我々の心には必ず驚きが起り感動が涌く。 決して意図的に私をたしなめられたのではない。住む心の大地が自然に動いて即妙の言葉となり、それが私の盲点を射たにちがいない。
教えとは言葉でもなければ文字でもない。心の扉が開かれて真実の活動に道が与えられることである。書かれた文字は剥げるが、うまれた生命は成長する。 師とはこの生命を育てられる人である。私は縁起という仏説をただ文字として受けとっていた。そして自分勝手に計画し計算した予定表が、 そのまま実現するかの如く思うて疑わなかったのである。縁起を理解したと思うているが心の底は縁起を離れ、自己の思いに立っているから、来ない電車に腹がたつ。 そして自ら苦しむのである。そのとき車の故障が起こるそのことこそに縁起の事実を見る。縁起を見る人は縁起に生きる。 「成りゆきにまかせましょう」の一語はこの真実を私の胸に投げ込んで下さった。教えずして導き、語らずして告げるとはこの事であろう。不滅の教の前にかしこみたてまつる。
浄円先生からたまわった慈育の一つ一つにはこのような光が宿っている。問いに答えて下さらぬという人があるが、そうではない。 答うべき根源に心光をもって答えられていたのである。先生の偉大さはこのようなところにあったと思う。
●無相庵のあとがき①
このお話の場合は幸いにも急行に間に合って大事に至りませんでした。〝幸いにも〟です。車というものは故障しないという保証はないのですから、 もし足利師が広島での講演会に何としても間に合わせたいなら、井上先生の家にも寄らず、足利師は前の晩には講演会場近くのホテルに宿泊すべきだと云うことになりますが、 この話はそういう理屈をテーマにしてはいないと思います。近い将来を予断するとしたら切りがありません。つまり、成りゆきに丸ごと任せましょうと云う縁起の道理の実際を取り上げておられるのだと思います。 仏教徒なら誰でも『縁起の道理』という言葉を知っていますが、果たして「それを実践出来ていますか?」という井上先生ご自身を含めた仏教徒の私たちへの問い掛けだと思います。
結果に付いても、結果に至る色々な場面での出来事も含めて、「縁に依って起こるのだ」ということを他人事ではなく、自分の身の事実として、 問い直し確認しなければならないと私は思いました。
●無相庵のあとがき②
私は現在、かなり大きなビジネスを目の前にしています。成功させるには、技術的課題も含み幾つかのハードルを乗り越える必要がありますので、成功させる為に、 頭の中では、どうしても〝アレヤコレヤと〟思案してしまいます。「成りゆきに任せるしか無い」と自分に言い聞かせますが、思案を止めることは出来ません。 しかし最後には、これまでの75年の人生も、事ある毎に〝アレヤコレヤ〟と思案しつつも、成りゆきを結果として受け入れて来たのが現実の歴史だと思い、 「どんな成りゆき結果でも受け入れてやるぞ!」と、仏法の教えとは若干異なる強い意気込みで、成り行き任せに挑戦しているところです。結果が望ましいものであろうとも、受け容れ難い結果であろうとも、2、3月位先にはご報告させて頂きます。
なむあみだぶつ
No.1830 2020.02.22続ー試練は佛様からの慈悲のお手紙