No.1750 2018.06.18米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―腹がたち愚痴がこぼれても結構―①
●無相庵のはしがき
あるおばさんが、「長年仏法を聞いてきたお陰で腹が立たんようになりました」と法話会が終った後に、ご講師に喜びを伝えたというお話は、面白いと申しますか、考えさせられるお話です。 私たちは、仏法を聞いて、立派な人間になろうとか、悩みや悲しみ、苦しみから解放されたいと思うものです。誰しも、です。私も、そのおばさんを笑えません。●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―腹がたち愚痴がこぼれても結構―①
これも松本君が言っとった。
同朋会で本山へ参ったというのです。あるおばさんが講師の人に言うには、「自分は長年仏法を聞いてきて、お陰さまで腹が立たんようになりました」、 そのおばさんというのは腹が立ってしようのないおばさんだった。「長年仏法を聞いてきたお陰で腹が立たんようになりました」と言うた。そしたら講師が「そりゃよかったのう」と言うかと思ったら、「うそつくな」と言った。そしたらたちまちおばさんが怒ったというのです。そんなもんです。
腹が立っても結構、腹が立たんようになろうというのが、これは欲生我国でない。腹が立っても安心しておられるのを欲生我国、南無阿弥陀仏の主(ぬし)になったという。 腹が立たんようになったら仏法と縁が切れるんです。だから腹が立つ、愚痴がこぼれる、これによって仏法と縁が継がっとるんです。腹が立ついうことは、南無阿弥陀仏と縁が継がっとるんです。腹が立たん、愚痴もこぼれんようになったら、 生きながらの仏さんで、これはもう仏法の必要がないんです。仏と縁が切れるんです。
親鸞という人は、一生死ぬまで南無阿弥陀仏と縁が切れないんです。その証拠が「愚禿悲歎述懐」という親鸞さまの和讃で、死ぬまで腹立てていたんやろなあと思います。そうでなければ、 本願は自分一人のためにたてられたなんて言われるはずがないと思うのです。
●無相庵のあとがき
私も、ビジネスの世界で付き合う相手企業の色々な言動や無理難題に腹立ちを覚え、ついつい愚痴もこぼれます。が、しかし、それはそれで良いとは米沢英雄先生も仰ってはいません。ただ、 次回のコラムでご紹介しますが、「我われに縁のある人は、一生腹立つのが止まん人、止まんけれども、それでも人間に生まれた喜びを感じている人、そういう人こそ我われにとって非常に慕わしい人である。」 と、米沢英雄先生は申されています。人間に生まれた喜びを感じるには、仏法を聴き続けることだというのが、私が御世話になった先師方のお教えです。人間以外の動植物達は、私たち人間と同じくこの世に命を得て、 自然の恵みを受け、本能のままに命を子孫に継いでいますが、この世に生まれ得た喜びを感じてはいないと思われます。私たち人間は生まれながらに煩悩を埋め込まれているが故に、悲しみ、悩み、 不安を抱えますが、一方で生まれながらに欲生我国を埋め込まれていますから、生まれ得た喜びを感じる瞬間があります。自分が自分に生まれて良かったという喜びを感じる瞬間があるのではないでしょうか。 これを感じられなければ、人間に生まれた甲斐がございません。
仏法に出遇えて、お釈迦様や親鸞聖人の教えに出遇えて、本願の教えに出遇えたことでこそ、人間に生まれて良かったと思えるのではないかと思います。なむあみだぶつ
No.1749 2018.06.11米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―③
●無相庵のはしがき
今日の法話の中で、「南無阿弥陀仏しとるのは身体や」という米沢英雄先生のお言葉があります。「南無阿弥陀仏している」ということは、一般の方々には、何のことか分らないと思います。 それは多分、「大宇宙、大自然の働きをあるがままに受け取っていることを、南無阿弥陀仏している」ということだと、私は思っています。自然法爾に生きていることを南無阿弥陀仏していると、 こういうことではないでしょうか。私は今でも、なかなか頭は、つまり心(気持ち)は、自然法爾に生きられておりません。そして、思うようにはならない事を思い、 不安も感じつつ生きている者です。 でも、尿意をもよおすと、否応なく、トイレに走ります。眠くなれば、うたた寝をしてしまいます。身体は、自然法爾に生きているのです、 そういうことを米沢英雄先生が仰っているのだと思います。●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―③
本当に寝とっても南無阿弥陀仏しとるのは身体や。身体は息しとるんです。寝てしまっても息は休まんぞ。寝てる間に息が休んだら大変や、あくる朝起きられへんで。寝ていても心臓は動いとる。 だから心臓は南無阿弥陀仏しとる。一瞬も休まず南無阿弥陀仏していて下さる。ありがたいな。百まで、死ぬまで心臓が南無阿弥陀仏していてくれるようにといいたいところやな。 まあ、百までぐらいはいいけれど、それ以上は生きとらん方がええやろな、後がつかえているで。
それで欲生我国という心が獲(ぎゃく)である。欲生我国の心が仏法を求めてゆくのです。
で、それが、南無阿弥陀仏に出くわして南無阿弥陀仏に出くわした時に、我われが阿弥陀仏になるのですね。
法蔵菩薩が阿弥陀仏になろうが、なるまいがそんなことどうでもいいのです。どうでもいいということはないけど、だれでもが阿弥陀仏になれるぞという事を示したのが法蔵菩薩です。 我われの手本というか、そういうものをしめしてくださったのが法蔵菩薩ですから大切やけど、法蔵菩薩よりも何よりも自分自身が阿弥陀仏になるということが大切ですね。自分自身が、人間が阿弥陀仏になるなんて不届き至極と思われるかもしれないですけれど、蓮如さんも言うとるわ、南無阿弥陀仏の主(ぬし)となる、 南無阿弥陀仏の主にならずに南無阿弥陀仏しとっても何にもならんのです。というのは、南無阿弥陀仏と、自分とが離れとるんや。
自分が南無阿弥陀仏言うとると、南無阿弥陀仏と自分が離れとるんです。南無阿弥陀仏の主になるというのは、自分自身が南無阿弥陀仏そのものになるということ、 身体は南無阿弥陀仏そのものになっとるんですぞ、心だけがなっとらん。●無相庵のあとがき
私は、この無相庵コラム以外に、FB(フェイスブック)で、河村とし子師の『ほんとうのしあわせ』という法話をご紹介していると、以前に申し上げた事と存じます。河村とし子師は、結婚するまでクリスチャンでいらっしゃいましたが、両親が常念仏者であった河村家に嫁がれて、数年のご聴聞を経て、ある瞬間、生かされて生きている我が身に目覚められ、 余り好きで無かった南無阿弥陀仏が口から無意識のうちに出たという経験談を語られています。それが、南無阿弥陀仏の主(ぬし)になられた瞬間だったと思います。 頭で考えて南無阿弥陀仏を称えられたのではなかったんだと思われます。身体が反応しての南無阿弥陀仏だったということだと思います。
なむあみだぶつ
No.1748 2018.06.05米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―②
●無相庵のはしがき
米沢英雄先生は法話の中で、法話を聴きに来ている皆さんに向かって、「何のために人間に生まれてきたかということを考えたことないでしょう。」と言い放たれています。 法話を聴きに来てくれている人々に向かってこんなことを言う先生は他には居ません。けれども、間違ったことを言っておられないし、皆に刺激を与えておられるのだと思います。
以前に私は、「食べるために生きているか、生きるために食べているか」という問題提起をしたことがあります。そして、殆どの人は食べるために生きているから、毎日アクセク働いてしまい、 人生を見直すことがないけれども、生きる為に食べている人は、いずれ何のために生きているかを考えるようになるのでないかと申しました。今、大谷國彦名義のFB(フェイスブック)で、河村とし子さんの、「ほんとうのしあわせ」という法話の紹介を続けていますが、河村とし子さんは、「唯説弥陀本願海」(お釈迦さまは、 ただただ阿弥陀如来様のご本願を説くために、この世にお出ましになられた)という親鸞聖人のお正信偈(しょうしんげ)の中の言葉を引用されていますが、このお言葉を島地大等師が、 「唯聴弥陀本願海」(私たち煩悩具足の民は、ただただ、阿弥陀如来様のご本願を聴くために生まれてきたのだ)と言い換えられたと、井上善右衛門先生からお聞きしたことが印象深く残っています。
●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―②
それだけが人間かということになると、それだけが人間ではない。阿弥陀仏の浄土に生まれて始めて何のために人間に生まれてきたか、それが明らかになるんです。
何のために人間に生まれてきたかということを考えたことないでしょう。桑名別院の暁天講座に参られるのも、毎年あるから、金だして札を買うたから、しゃあないから、近所の人が誘いにくるのでしかたなく行くと、こういう気持ちか知らんけど、 とにかく皆さんの中に欲生我国という心が動いているということだけは間違いない。生まれたときにそれを得ているのです。それを獲という。
獲得の得というのは、世自在王仏に会って、始めて阿弥陀仏の浄土に、南無阿弥陀仏して生まれることができた、こういうことを確かめたときに得という。果位というのは、南無阿弥陀仏、 阿弥陀仏に自分がなったときを果位というのです。あの法蔵菩薩が阿弥陀仏になろうとなるまいが、自分が阿弥陀仏になることが一番大事やぞ。そして阿弥陀仏になっても、 阿弥陀仏になりきりにおられんのです。だんだん阿弥陀仏と離れてゆくんです。安心して離れてゆきなさい。こういうことを親鸞さまが身をもって証明して下さった。 我われは阿弥陀仏にしがみつきたがるやろ、南無阿弥陀仏にしがみつくやろ、南無阿弥陀仏さえ称えていればいいように思うんです。
こういうことをいうた人がある、「寝てもさめても念仏申さるべし」。何言うとるのや。寝とるときに念仏できるか。まだ夢うつつのときはナンマンダブツ、 ナンマンダブツいいながらそれを子守歌にして寝ることができるかもしらんけども、本当に寝込んでしもうたら、南無阿弥陀仏どころでないがな。
●無相庵のあとがき
ここ数日、この無相庵ホームページの更新をしたり、メールを管理したりするサーバーが機能していなかったので、月曜日に更新処理が出来ませんでした。 原因が分かり、復旧出来、今日更新することが出来ました。最近はアクセスがかなり少なくなっており、それに、私の頭の働きも衰えており、そろそろ無相庵を閉じるべきかとも考えたりしましたが、 お一人でもコラムの更新を待っていて下さる方が居られたら、続けようと、この無相庵を開いた時に考えておりましたので、今日更新することが出来てホッと致しました。因みに、無相庵のアクセス数は、無相庵開設以来、351022にもなっています。2015年12月に、アクセス数カウンターが故障してからは、約3000アクセスしかありません。 今は、一般の方々を対象にしたFB(フェイスブック)に、河村とし子さんの法話を紹介しておりますが、無相庵は、これからも続けて参ります。
なむあみだぶつ
No.1747 2018.05.28米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―①
●無相庵のはしがき
「獲得」は普通「かくとく」と読みますが、浄土真宗では「ぎゃくとく」と読みます。特に「信心」を前に付けて、「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」という四文字熟語として 知られています。そして、信心獲得の説明として、米沢英雄先生は、生まれたときに、浄土へ生まれたいという心を埋め込まれていることを、「獲(ぎゃく)」といい、 阿弥陀仏の浄土に、南無阿弥陀仏して生まれることが出来たことを確信した時を、「得(とく)」というのだと説明されています。信心獲得は、浄土に生まれてから成就する訳ですが、生きているうちに、信心獲得出来る可能性がある人間に生まれたことを喜べた時、「信心の芽が開いた」というそうです。 この無相庵を訪ねて来られた方は、信心の芽が既に開いた方ばかりだということになりましょう。
●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―獲得(ぎゃくとく)―①
欲生我国、我が国に生まれんと思え。そういう心を皆埋め込まれてきている。その欲生我国を、生まれた時に皆の心に埋め込まれているのを、獲(ぎゃく)というのです。
法蔵比丘はどうでもいいのや。自分が一番大事なんやろ。
因位の時に、私の心に我が国に生まれんと思えという心が埋め込まれて、埋め込まれた芽が、その芽が出たんや。
芽が出て、曽我量深先生に会うとか、安田理深先生に会うとか、そういう先輩の方がたに、善知識に育てられ信心の花が開くというか、私に開いたかどうか分らんが、まあ、 私の事はどうでもいいので、皆さん一人ひとりの中に信心の花が開くということが大事なことだろうと思う。
というのは、何故大事かというと、それによって始めて何のために人間に生まれてきたのかということが納得出来るからです。これに会うために、阿弥陀仏の浄土に生まれるために、人間に生まれてきたのです。それまでは、金もうけのために、人間に生まれてきたと思うとるんや。
わしは医者になるために生まれてきたのではない。医者というのは、生活しなけれはならんから。生活するためには泥棒してもできんことないけれども、政府で公認した職業を持っていないと、 ちょっと世間体が悪い。わしも世間体を考える気持ちがあるんやろな。世間で通用するような医者をやっている。しかし、それは看板だけ。医者というのは人の病気を治すことになっているんですけれど、 私は他人の病気を悪くすることはできても、治すことはできんのや。それでも政府公認や。生活のため医者をやっている。慈善事業でやっているんではない。健康保険でもちゃんと金もらう。それで細ぼそながらでも生計をたてているんです。
だから人間として生活してゆくということも大事です。●無相庵のあとがき
私は昨年末から、弊社の特許権を無断で利用して大きな収益を上げている企業との闘いが続いています。特許権侵害と、不正競争防止法違反の可能性が極めて高く、 これから弁理士、弁護士の協力を得て決着をつけようとしています。これも、米沢英雄先生の仰る、「人間として生活してゆくということも大事です。」という考え方で止む無く闘っているところですが、 お金を得るだけが目的ではなく、法律的に認められる企業はどちらなのかを司法の場で、明らかにしたいとも考えております。ただ、法律の専門家の弁護士氏が、100%勝てると言わないまでも、 勝てる可能性もあると言わない場合は断念せねばならないと考えているところです。裁判には多額の資金が必要だからです。なむあみだぶつ
No.1746 2018.05.21米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―④
●無相庵のはしがき
イギリスのヘンリー王子のロイヤルウエディングが現地時間5月19日(土)にウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で行われました。結婚式では 「愛」という言葉が多用されておりました。イギリス王室のキリスト教は、プロテスタントの一教派で、英国聖公会(アングリカン・チャーチ)だそうですが、キリスト教会が国の宗教でもあるため、 英国国教会とも呼ばれているみたいです。米沢英雄先生とか私の仏教とはかなり赴きが違うのだなと思いました。●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―④
ところが、人間というのは自分の知恵才覚に自信を持っている。その自分の知恵才覚に自信を持っているのを、至心発願欲生我国というのですが、これは必ず行き詰まるんや。 行き詰まったときに初めて、あの阿弥陀仏の浄土に気がつく。
生きている間に気がつかんと死ぬときに気がつく、それが臨終往生といわれるのです。今までは自分で思うようになると思ってきたんや。田中角栄、そやろ。自分の思うようになると、金さえあればと思うてやってきたんや。ところが、 死ぬことだけは自分の思うようにならなんだということを、死ぬときに初めて気がつくのです。それを臨終往生というのです。 だから皆、臨終往生だけは間違いないので、安心して金儲けにせっせと働きなさい、臨終往生も結構や。
至心廻向というのは、人間の努力はする。どういう努力をするかというと、お稲荷さんに旗立てるようなことをするのです。しかし、自分のかなわんことをお稲荷さんに助けてくれというのです。それを至心廻向欲生我国。それも人間の宗教心に、人間の心がまじっているためにそういうふうになるということです。 それで必ず行き詰まる。行き詰まったときに初めて阿弥陀仏の浄土に気がつくように人間が仕掛けられておるということ、これは私が仕掛けたのでないんやで、阿弥陀仏が仕掛けたんやで、 文句があったら阿弥陀仏にいうて下さい。
●無相庵のあとがき
「行き詰まり」と「仕掛け」という言葉は、誤解される表現だと思いますが、仏道に入って、道を真剣に求めれば、必ず、迷いが出て、その迷いから抜け出る道が用意されているという意味で、 それを「仕掛け」と米沢英雄先生独特の言い回しだと思います。仕掛け通りに進めば、最後には浄土に生まれるということだと思います。 浄土というのは、「人間に生まれてよかった、自分が自分で良かった」という心境だと考えてよいのではないかと、私は思います。なむあみだぶつ
No.1745 2018.05.14米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―③
●無相庵のはしがき
今、私はFB(フェイスブック)で、河村とし子師(1920年~2013年)の著書「ほんとうのしあわせ」(東本願寺出版部版)の内容を何回か分けて紹介しているところです。 河村とし子師はクリスチャンから浄土真宗に宗旨替えをされた有名な方ですが、元萩女子短期大学の学長でもあり、今の国会の衆議院予算委員長の河村建夫氏のご母堂でもあります。 その河村とし子師が考えておられた〝ほんとうの幸せ〟とは、多分、常念仏者であった嫁ぎ先のご両親との縁で親鸞聖人の教えに出遇われて以降の生活を思われてのことではないかと思います。仏法に出遇ったからと言っても、生活が激変するものではないと思います。次々と人生の難問にも出遇うものと思いますが、今日の米沢英雄先生が仰る〝阿弥陀仏の仕掛け〟のお陰で、 人間に生まれた意味に目覚め、人生の現実をそのままを受け取ってゆける身になれるからではないかと、私も、仏縁に依ってそう考えるようになったように思います。
●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―③
それで廻向というのは、どういうことかというと、人間の能力は人間でできることとできんことに大体わかれる。
普通は「至心廻向欲生我国」、これを信仰だと思っているのが多いんです。というのは人間が自分の力量がだいたいわかって、自分のできることは自分で一生懸命やるが、そのかわり自分のできんことだけは向こうさまにお願いする。 これは稲荷信仰でも何でもみんなこれです。あの受験期に天神さんがはやるのも、至心廻向欲生我国。 なぜかというと、うまく行く場合もあるけど、うまく行けば天神さん儲かるけど、うまく行かん場合もある。それはお前の信仰が間違っていたんや。そういう形で欲生我国、 阿弥陀仏の浄土へ引き入れる仕掛けになっている。
仕掛けというとえらい下品なことばですけれど、あの阿弥陀仏がそういうふうに仕掛けたんです。ということは、人間の根本構造がそうなっているということです。あの欲生心、欲生我国が本願の魂だと曽我量深先生がいわれた。これは私だけでなく、大体人間というのは、 欲生我国を持って生まれてきている。私は、我が国に生まれんと思えという心を、人間に生まれたときに皆埋め込まれてきているんだということを申し上げておりますけれども、これが人間の根本構造です。 根本構造がそうなっているのです。
●無相庵のあとがき
昨年末から、私の会社の特許を無断で利用して大きな収益を上げている企業を、最終的には損害賠償を求めて提訴すべく、多くの時間を割いております。法治国家で、 このような事が許されるようでは、技術立国の我が国で、技術のみを頼りに生きるしかない中小零細企業は立ちゆきません。第三者の協力を得て頑張っているところですが、 縁に依って物事が決まってゆくこの世の中、自分の力の寄与するところは実に微々たるものでもあります。プラス思考でもなく、マイナス思考でもなく、 やれることは全てやって結果を待つという考え方と姿勢でしか、心の安穏は得られないように思います。なむあみだぶつ
No.1744 2018.05.07米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―②
●無相庵のはしがき
イチロー選手が、マリナーズの会長付特別補佐に就任したという発表があり、イチロー選手は記者会見の中での「僕は野球の、 何て言ったらいいですかね、研究者でいたいというか・・・」という言葉が印象に残っていますが、私も差し詰め、「人生の研究者でいたい」というところかも知れないなと思ったことでした。 イチロー選手は、多くの大リーグ記録を打ち立て、既にアメリカ大リーグの野球殿堂入りは確実の成功者ですし、マリナーズと生涯契約したということですから、私とは丸っきり立場が異なりますので、 彼の研究者という意味と、私の研究者の意味合いは全く異なり、私の場合は生きている間に浄土往生が確定する身となれそうに無いので、研究者のままで居るしかないという宣言でありますが、一方で、 私も仏様と生涯契約を結ばせて頂いていると云う自負を持って、最低80歳までは人生の研究者を続けたいと思います。●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―②
だから人間の心ほどいいかげんなものはないのです。
皆さん今聞いている。これを聞いた人は、帰りしなに水たまりをさがして歩くんや。落ちているかも知らんで、さがして歩きなさい。
しかし、もう落ちていないと思っても、また自然と眼が行く、ここで初めて念仏に遇うたと、そのおじいさんは言うとるのです。五百円札を拾うたよりも大きな功徳を得たわけです。 つまり、人間の心はいかにあさましいかと、こういうことに気がついて、初めて南無阿弥陀仏が自分のものになったのです。今まで、じいさんばあさんから口伝えに聞いとった、ただ耳から入っとった南無阿弥陀仏が、本当の自分の声になったということですね。
本当の自分の声にならなければ、何にもならんでないの。
やっぱり人がご馳走を食ってお腹がふくれたいうたって、自分がご馳走を食べなければ、何にもならんでないか。
ちょうどテレビの料理の番組見てるようなもんです。おいしそうやなあと思うだけで、自分で食ってみなければおいしいかどうかわからんでないの、念仏もそのとおりで、いかにも有り難そうに人前で念仏称えておったってあかんのや。自分が食って、念仏というのはたしかにいい味がするということが分らねば何にもならんでしょう。
●無相庵のあとがき
おじいさんが、水たまりに落ちていた五百円札の一件で、「人間の心はいかにあさましいかということに気がついて、初めて南無阿弥陀仏が自分のものになった」ということは、 本当の自分の正体に目覚めて、絶望の「南無阿弥陀仏」が口から出たということではないかと思います。信心獲得した時に心の底から南無阿弥陀仏が称えられるものと考えがちですが、 遺されている和讃から伝わって来る親鸞聖人の本当の姿は、そのような念仏生活を送られたのではなかったのではないかとも思います。絶望と、絶望故に出遇えた『大無量寿経』への感謝が入り混じった 南無阿弥陀仏だと思われます。なむあみだぶつ
No.1743 2018.04.30米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―①
●無相庵のはしがき
昨日の日曜日のNHK番組『こころの時代』で、昨年の5月に放送された「大拙先生とわたし」という、故鈴木大拙先生の晩年15年間お傍に付き添われた、 岡村美穂子さん(72歳;鈴木大拙館の名誉館長)と金光寿郎氏の対談の再放送がありました。かなり以前にも、鈴木大拙館で同じく岡村美穂子さんと金光寿郎氏の対談があったと記憶していますが、 同じように、岡村さんが、鈴木大拙師のお言葉と教えを披露されて、その内容に付いて、話し合われる対談に変りはなかったのですが、昨日の対談の中で紹介された鈴木大拙師のお言葉で、 「人間は意識を持つようになって、他の動物から進化したが、意識を持つようになって、他の動物には無い悩みや迷いが生まれた。これは言わば、人間の業である」というご紹介がありました。動物は、無意識で即行動するが、人間はさっと即行動出来ない。このお話は、今日の米沢英雄先生の法話に通ずるところがあるのではないかと、思いながら聞いていました。
●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―人間の根本構造―①
それで、あの三つ。真ん中が違う。「信楽(しんぎょう)」「発願(ほつがん)」「廻向(えこう)」どうしてかというと、人間の心が混じるんです。
仏は我が国に生まれんとおもえ。阿弥陀仏の浄土へ全部引き入れようと思うんですけれど、人間の心が頑張っとるんや。それを発願というのです。発願というのは、人間が志を立てる。
だから発願というのは仏教の世界の話と一般には考えられておるけれど、私は政治家でも、経済家でも、――経済家というはおかしいけれど、 あの松下幸之助を考えればいい――発願して何とか日本の政治をうまくして、日本中を幸せにしたいというのが目的でしょう。だけど人間が発願したのではあかんのや。それから漏れてくるものがあるのです。幸せになるのは政治家だけです。金が入るものは田中角栄ぐらいや。 我われは田中角栄ほど金が入らんでないの。金の問題をいうときたないというのですけれど、皆金の問題になると眼の色変えるぞ。
あの、眼の色変える話なら。松任(まっとう;石川県松任市)の松本君というのが言ってた。
松任から離れた所から一人のおじいさんが、松任の松本君の寺にやってきたんだが、それが来る途中、郵便局の前に水たまりがあって、そこに五百円札が落ちていたんですと。 ははぁん皆さんも帰りにさがすに間違い無い。みんな帰り道、水たまりをさがして歩くぞ。そしてそれをひろって、やっぱり松任へきた功徳があったというのです。 家に持って帰って洗濯してアイロンかけたらピンピンの五百円札になったんです。ところがその後がおもしろいんや。
またその郵便局の前を通るたびに眼が水たまりに行くというのです。理性では、一度あったことが二度あるとは思わん。思わんけど眼が自然にそこへ行く。体の方が正直なんだと。●無相庵のあとがき
心では、と言いますか、頭では、郵便局の前の水たまりに、いつもいつも五百円札が落ちているはずがない事は分っているけれども、それより前に、眼が水たまりに向いてしまう。 これは、業であり、それに悩む必要はないということでもあると思いますが、日常生活にも思い当たることがあります。なむあみだぶつ
No.1742 2018.04.23米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―虚仮不実の我が身―③
●無相庵のはしがき
今回の法話もなかなか分かり難いです。米沢英雄先生は、仏の心は真実であるけれど、我々には真実は無いと仰っています。じゃ、仏とは何かという問いが、今更ながらではありますが、 私に生まれました。この世は人間には量り知れないところがあります。どうしてこのような事が起こるのかと思うことばかりです。その量り知れない真実の世界、 量り知れない縁に依って変化していく世界のことを仏というのではないかと、私は思いました。
●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―虚仮不実の我が身―③
至心信楽欲生我国
至心発願欲生我国
至心廻向欲生我国
この三願については前に申しましたが、「信楽」「発願」「廻向」、あの「至心」が上に一貫しておって、「欲生我国」が下に一貫しておって、真ん中だけが三つ違っている。
これは十方衆生といって、我われに呼びかけた本願が三つあって、真ん中だけ違うのです。
「至心」いうのは、仏の心です。真実というものです。
人間には真実というものはありません。で、この安田先生の講義では、「至心」というのは形式的に三つ至心をつけたんだと、こういわれるけれど、(後で言い直しておられるけれども)そんなもんでないのです。
親鸞さまが「至心」を解釈して、「真也、実也」とこういう、「真実」そういうものを至心というのです。「至心」というのは仏の心で、我われに真実はありません。人間は一生懸命やると真実になれるように思っとるんですが、それは思っているだけの話であって、一貫して真実に生きうるということは、人間にはないんです。
まあ、情けないかな人間にないのや。真実というのは仏にしかない。だから、真実に照らされて、「虚仮不実のわが身」ということがわかるということが真実に触れ取る証拠である、 こういうことですね。●無相庵のあとがき
私たちは生きているうちに、これぞ真実だと分ることはないのかも知れません。でも、米沢英雄先生が仰るように、 『「虚仮不実のわが身」ということがわかるということが真実に触れ取る証拠である』ということだと理解するしかないようですね。なむあみだぶつ
No.1741 2018.04.16米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―虚仮不実の我が身―②
●無相庵のはしがき
キリスト教では、「自分を愛するが如く、隣人を愛せよ」と説きます。他の宗教も表現は異なっても、同じ事を説きます。そしてそれを聞いて、信徒は努力致します。でも、 自分を愛するが如く、隣人を愛することが出来ず、悶々とするか、愛しているふりをして自分を偽るかのどちらかでは無いかと思います。親鸞聖人は、その「虚仮不実の我が身」に気付かれ、正直に、 ご自分の実態を告白をされ、人間の分際を明らかにされた希有な宗教人であり、思想家でもあります。●米沢英雄先生の『自然法爾』(光雲社出版)―虚仮不実の我が身―②
だから安心して仏と離れて行かれるのです。安心してというのはおかしいけれど、仏と離れている。仏には絶対なれんということが仏になった証拠なんです。
「地獄は一定すみかぞかし」地獄より他に自分の行き場所はないとわかった人が浄土に生まれとる。これは、むずかしい言葉を使うと「絶対矛盾の自己同一」、 これは西田幾太郎という哲学者がいうた言葉ですけれども、仏と全然離れているというのが仏に一番近いということですね。これが非常に大事なことだと思う。
こういうところを見つけたのが親鸞さまであると思うんです。ところがこういうところは普通の人には、いわゆる信仰家にはわからんのです。
だからこういうところをつかまえて、創価学会は悪口を言った。「あの親鸞の後をついて行ってはあかんぞ。あの親鸞は88歳になって、こういうことをいうとるんや、 救われておらんということをいうとるんやないか。その救われておらんものの後について歩いたって、救われんぞ」ということを言うんです。 ところが、実は救われておらんということが、わかったとこが、救われている証拠なんです。
そこのところが非常に親鸞さまの信心のきわどい微妙なところで、そういうことを明らかにされたのが親鸞さまである。親鸞さまの信心というものを図解すると、 こういう形になるのでないかと私は考えます。
この「虚仮不実のわが身」ということがわかったということが、真実に触れるということです。真実に触れなければ、自分の虚仮不実ということがわからんのです。 「虚仮不実のわが身」ということが仏に遇うという証拠、真実に遇っているという証拠です。
だから人間としてはこういうことしかできない。人間に至り得る最高、至極の場所は「虚仮不実のわが身」だということがわかって、真実に触れるだけ。 真実そのものになることはできんのです。そういう人間分際を明らかにされたのが、あの親鸞さまである、と思うのです。
●無相庵のあとがき
自分に嘘をつかないことはなかなか出来るものではありません。でも、それでしか、平穏で安らかな日常生活は実現できないはずです。仏から離れて行くということは、 いよいよ仏眼が開き、自分の虚仮不実性が明らかになるということだと思います。なむあみだぶつ