No.1620 2016.12.19『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(13)「鎌倉、鎌倉」
●無相庵のはしがき
今回先ずは、以下の米澤秀雄先生の詳細解説をお読み下さり、唐突な「鎌倉、鎌倉」と云う表題の意味を分かって頂きたいと思います。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(13)「鎌倉、鎌倉」
私は幸いにして、『歎異抄』を読んでも、いろんな疑問を持って、その疑問を何とかして明らかにしたいと思って,今日まで来ましたので、 それで私はこう云う疑問を持っているという事を申し上げただけで、後は皆さんが私の疑問を持ったことが本当か嘘か、そういうことを確かめて頂くと、皆さんのものになるのでないかと思う。 『歎異抄』は尊い書物やと、そんなこと言っとったって何にもならんちゅんや。『歎異抄』しっかり食って、自分のものにしなければ、エッセンスだけでも自分のものにしなければ、いらんところは捨てて、 要(かなめ)のところだけ自分のものにすると云うことが、聞法と云うものでないかと、私は思うですね。
それから今日は、現益(げんやく;現世利益のこと)と云うことを浄土真宗ではあまり考えてこなかった、無視してきたと云うことを言いましたが、 これはここで報恩講の時に言うたかと思うですけれども、おもしろい例がある。鎌倉で催される或る聞法会に参加しとった人に、56歳と言うたかな、銀行につとめとる人があって、その人が非常に教育熱心と云うのか、また大変気の短い人で、木刀を用意していて、 男の子が二人あるらしんやけど、子どもが言うこと聞かんと、木刀を身構えるちゅうや。そう言うとったね。
その人が奥さんに、鎌倉までの切符を買いにやらせたら、奥さんが間違えて北鎌倉の切符を買うてきた、そこで奥さんをどなりつけて、切符を買い換えにやらせたと、 こう云うことを言うてましたんで、そのご主人つかまえて、「あんたはそう云う、切符を買い間違えるような間違いをしたことなかったか」と聞いたら、「長い間にはあったかもしれません」と言うたんで、 「奥さんの間違いにはどなって、自分の間違いは伏せておくと云うのは、それはずるいではないか」と、こう言うた。で、家へ帰って奥さんにそのことを言え、と、こう言うた。
そしたら、また別の日にあった鎌倉の聞法会から帰ってから奥さんにこう言うたらしいんや。「鎌倉へ行って、こう云うことがあった」と。「鎌倉」と言ったら奥さんが、 また切符のことで怒られるのかと思うて、「もうその話は勘弁して下さい」と言うたところが、ズーッと言うてって、私からやられた事まで言うたんでしょう。そしたら、 奥さんの表情が和らいできたちゅうことを言うとった。
そうしたら、中学へ行ってる下の息子が、ある日母親が自分に無断でその部屋の掃除をしたと云うので、非常に怒って,お母さんに食ってかかったので、 父親がまた木刀を持って構えた時、奥さんが「鎌倉、鎌倉」と言うたちゅうんや。それでいっぺんに腹立っとったのが抜けてしもうたんや、と。
私は実はその人に、「腹立ったら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と十ぺん位となえたらどうや」って言うたんや。そう云うことは、 南無阿弥陀仏を十ぺんとなえると功徳があるちゅうよりも、腹立つ心ひとつ始末出来ん、お粗末な自分やと云うことを分かると云うことが、一番大事なことなんや。自分の気持ちさえ自分でどうにも出来ん者が、人の気持ち変えようたって、そりゃ出来ん相談ちゅうのはこう云うことやね。それでその人は分かって、「今まで自分は弱い人間のくせに、 虚勢を張っていた」と、こう云う告白をした手紙をよこしましたけれど、みんな人間は弱いもんや、弱いもんやけど、自分の弱みを隠すために、みんな虚勢を張っとるんやね。
易行と言われるけれども、なかなか容易でないんや。何が容易でないかと言うと、自分が虚勢張っていると云うことを認めるのが容易でないんや。認めたくないんや。 そう云うところで、今お話した銀行につとめている人の話なんか、非常におもしろいと思う。救いと云うものはこう云うもんですな。自分の正体が分かるちゅうことや。 如何に虚勢を張っとったかと云うことが分かると、非常に気楽になるんや。もう虚勢張らずに済むんや。そう云うのを無為自然に帰ったと、こう言うんだろうと思うんです。
みんな無為自然から生まれてきて、無為自然の中に今も居るのや。それを忘れて、自分の思いを先に立てて生活しているから、気にいらんことばかり起こるんでないかと、 こう思うんですね。●無相庵のあとがき
今日の法話は、〝気短か〟、〝せっかち〟の私にはチクリとくる内容でした。私にとりまして今回の例え話の主人公である銀行員のご主人の事を他人事とは思えませんでした。 そして、これからも、妻であったり、子どもに、何か腹立つ事がある時は、「鎌倉、鎌倉」と、心の中で自分に言い聞かせることに致しました。
また、ビジネスの取引先(弊社にお金を支払うお客さん)との交渉事におきまして、横柄な言動に心穏やかならざる場合もありますが、そこは、「鎌倉、鎌倉」と我慢に我慢を重ねて、 結果は他力に委ね、「以和為貴(和を以て貴しと為す,或いは和らぎをもって貴しと為す)」を第一として取引先との交渉に臨まねば、結局はお互いが傷付き、何も生産的な事にはならないと思ったことです。嘘も方便と云う言葉もございますが、嘘をつき、虚勢を張って生きるのは、実に〝しんどい〟と云うことには、無相庵読者の皆様にも頷いて頂けるのでは無いでしょうか。 現実はなかなか本当の事を言うだけの人間関係に出遇える事は難しく現実的ではないと仰る方も居られると思いますが、最初から最後まで、嘘無し、虚勢無しの生活を試みるならば、それも有りかな、 と思ったりします・・・。昨夜の或る番組で、フィギアスケートの世界の第一人者である羽生結弦選手の独占インタビューを視聴していた時、彼は、演技する前の心境として「やはり、自信が持てないときもあるし、 マイナスイメージを思い浮かべることもあります」と、正直な気持ちを述べていました。第一人者だからこその正直さかも知れません。中途半端なフィギア選手なら虚勢を張って、 「平常心で立ち向かっています」と言うかも知れません。自分を曝け出せると云うことは、なかなか出来るものでは有りません。羽生結弦選手は、22歳にして、仏法を聞かなくとも、 仏法的には救われた人と言ってもよいのかも知れません。厳しい練習と云う修行場において、自分と向き合ってきたからでしょう。 今日の法話は、「自分は大した者ではないと自分の正体が自覚されたなら、虚勢を張らないで生活を送れるようになり、 無理をせず、有る意味で気楽な日常生活が展開する」と云う真宗の現世利益を例え話で説かれたものだと思います。
なむあみだぶつ
No.1619 2016.12.15『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(12)恵みの中の空しさ
●無相庵のはしがき
今日の表題は『恵みの中の空しさ』です。これは、例えば男性にとってのことで申しますと、「いくら経済的に恵まれ、好きな女性と幸せな結婚生活を送っていても、空しさが無いかと云うと、 必ずしもそうでもない」ってことを表しています。何かが欠けていると云うことではないかと思います。今日の法話では、有名大学を出た銀行員の息子さんが、好きな女性と結婚している或る坊守(お寺の奥方) さんが、息子からの〝空しい〟と云う訴えに、母親としてどうすることも出来ない空しさを吐露されたことを例え話にされています。無相庵読者様も、多分空しさを感じたことが無いと言われる方はいらっしゃらないと思います。人間として生まれた方ならば・・・です。 多分、他の動物、例えば近所で見かける犬、猫達は暇そうな様子を見せることは有りましても、空しさを感じることは無いと思われます。仏教的に申しますと、犬や猫達は自然(じねん)に生きている、 業道自然に生きていると言ってもいいでしょう。あるがままに生きていると云うことです。
しかし人間はそうは参りません。あるがままを受け入れて生きるわけには参りません。結果としては受け入れて生きるしか無いのですが、仕方無く生きるしか無いが故に、 『空しさ』を感じるのだと思います。気の置けない友人達と馬鹿騒ぎして一時的に楽しい事があって、気が紛れることはあると思いますが、さて、独りになって夜眠りに就く時に 〝空しさ〟に襲われた事を経験されたことが皆さんにもお有りだと思います。この空しさから解放されるには何が必要なのでしょうか・・・。
●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(12)恵みの中の空しさ
仏の位なんか与えられなくてもいいけれども、無為自然の世界に生かされて生きておる、これが分かった時に、業道自然を引き受けて生き抜いていくことができると、 こう云うことだと思うですね。時々紹介している、二人の身障児を抱えた母親が、こないだ、電話で言うとったんやけど、上の姉娘、言うたってもう六年生やけど、姉の顔を下の男の子が足で蹴っとるんやと。 それでも平気な顔しているというんや、上の娘がね。で、我々なら「なんで蹴るんや」てなもんで、殴って返すけれど、そういう心もないんんやな。下の子が足で蹴れば蹴られるままにしとるんや。
そういうことを母親が言うとったちゅうことを家内に言うたら、「ああ、その女の子は神さまや」と、こう言うた。神さまとか仏さまちゅうのは、腹立てんのや。 腹立てん神さま仏さまの中におればこそ、我々は生きとられるのやね。いちいち腹立てる仏さんおったら、我々はどれくらいひどい目に会わされるか分からん。
あの仏ちゅうのは、「知らぬが仏」って言われるけど、我々が仏の悪態ついても、腹も立てんし、「お前はわしの悪口言うたで、息を止めてやる」とか、そんなこと言わんでしょう。 どんなに仏法を粗末にしたって、生かされていくのや。そういうところに、先程も言った無辺際、広大無辺というものがあるんやね。そう云うのを如来大悲の恩徳と親鸞は言われたけれども、これはもう実に間違いの無い事実であると、 こう私は思いますね。
だから『歎異抄』にある「念仏は無義をもて義とす」と言う、これは〝自然(じねん)〟と云うことを言うとるんや。無為自然のことを言うた。無為自然、業道自然、願力自然と、 みんな自然で、無理がないと云うこと。「・・・と仰せそうらいき」。これは親鸞も法然に聞いたままを、唯円に言うたんでしょうけれども、しかし唯円が聞いた時よりも、親鸞は晩年になるほど、 非常に思想が深まっていると云うことが大事なことではないかと思う。そう云うところがね、唯円が見落としている点があるんじゃないかと、私は思うんですね。
私は『歎異抄』について、楯突(たてつ)いたと言うんか、『歎異抄』は非常に皆さんから、聖教として尊ばれているものであるのに、私は楯突いたわけで、私の言うことが、 〝異議〟になるかも知らんと思いますけれども、私は承服出来んことは承服出来んのや。それでまあ『歎異抄』に対する不満を、ずっと何ヶ月か、去年の五月からか、月に一回ずつ述べてきたわけです。 で、これで第十章が終わりました。これから異議に移る訳ですけれども、もういいかげんに私は、これで終わらせて貰おうかと思うんや。それで異議のところを、さっと重要なところだけとりあげて、私の考えを申し上げて、 それで終わらせて頂こうと思っております。後は皆さんで、私の言うたことが本当か嘘か、『歎異抄』に直(じか)に当って、確かめて下さると云うことが、大事なことでないかと思うものです。 自分のものにならなければ何にもならないですね。他人が食べて腹がふくれたと言ったって、自分が食べなければ何にもならんでしょう。そう言うのがあるんや。
これは、金沢の近くのお寺の坊守さんが電話かけてきて、自分の息子が大学出て、なんか東京の近くで銀行に就職してるんやて。それでその息子が、自分の好きな女の人と結婚して、 二人で、所帯持ってるわけや。だから、何もいうことがないはずや。銀行につとめておれば,生活の心配はないし、好きな人を嫁さんにもろたんやし、何もいうことがないはずやけど、 その息子が「空しい」と言うてるんやて。そう云うところに問題がある。これが人間の本当の問題です。環境的に恵まれ、経済的に恵またら文句ないかと言うたら、そうでないと云うところに、 人間の本質があると云うことですね。だから仏法と云うものは、絶対に、社会革命が出来て理想的な世界が出来たところで、仏法と云うものは無くなるものでないと思う。 その息子がいい証拠やと思う。非常に恵まれた生活をしてるんやけど、「空しい」と、こういうもんや。
で、家へ帰ってきて、母親も仏法分かっているし、父親も分かっている。いろいろと聞くけれども、自分のものにならんのやね。それで息子が手紙よこしたので、 息子に返事を書いてやったけれども、私の字が読めんちゅうんや。私は乱暴な字で書くで読めんと言うとったが、家へ帰って父親や母親から聞いても、お父さんお母さんが御馳走食べても、 自分の腹へ入らなければ、腹ふくれんのと一緒で、やっぱり自分で確かめてみると云うことが、一番大事なことやと思うですね。受け売りをしておったって、何にもならんと云うことや。 だから自分で食って、自分でこういう味がしたと云うことが言えんと、何にもならんと私は思うですね。だから受け売りはダメやということを言うんですけれども。
●無相庵のあとがき
2500年前に、将来は王様の地位を約束され、衣食住に関して、最高の生活をされていたお釈迦様は出家されました。それは、〝空しさ〟を感じられたからでは無かったかと思います。 そして、「この世界の出来事は全て縁に依るのだ」と悟られました。それを大乗仏教では、「他力に依る、自然に依る」と云うことになり、法然上人と親鸞聖人は、『自然法爾(じねんほうに)』と云う言葉で、 表されたのだと私は思います。さて、『自然法爾』と云うことは、無為自然、業道自然、願力自然を一つの4文字熟語で表したものと考えてよいと、私は思っていますが、 『自然法爾』と『空しさ』とはどう云う関連があるのでしょうか。
本来、仏教は「自分とは何か?」を問うことを求める教えと言ってもいいと思います。それを端的に言われているのが、道元禅師の「仏道をならふというふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」と云うお言葉です。「本当の自分に出遇うと云うことは、 自然に生かされている自分に目覚めると云うことである」と云うことだと思うのです。そして、法話の初めの部分で、米澤秀雄先生が、『神さまとか仏さまちゅうのは、腹立てんのや。 腹立てん神さま仏さまの中におればこそ、我々は生きとられるのやね。いちいち腹立てる仏さんおったら、我々はどれくらいひどい目に会わされるか分からん。あの仏ちゅうのは、「知らぬが仏」って言われるけど、我々が仏の悪態ついても、腹も立てんし、「お前はわしの悪口言うたで、息を止めてやる」とか、そんなこと言わんでしょう。 どんなに仏法を粗末にしたって、生かされていくのや。』と、空しさを感じると云うのは、神様仏様に守られている自分に気付いていないからだと云うことを仰っておられます。以前のコラムで、竹部勝之進さんの、「タスカッテミレバ タスカルコトモイラナカッタ」と云う詩をご紹介しましたが、既に守られているのに、自分勝手な欲望に邪魔されて、 〝空しい〟と思ってしまうだけのことだと云うことだと思います。
さて、『自然法爾』に目覚めれば、業道自然を受け止められるようになって、おそれるものは何も無い人生になるかと云うと、そうは参りません。相変わらず、 先々のことに〝はからい〟、心配もし、不安にもなります。しかし、これも、宿業を背負ってこの世に生まれ出た私たちにとっては、自然の事、業道自然のことと考えるようになってから、私は、少し、 楽になりました。一の矢を受けても二の矢は受けないと云うことでしょうか。自然法爾の事、無為自然、業道自然、願力自然のことを、もうしばらく考察したいと思います。
なむあみだぶつ
No.1618 2016.12.12『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(11)後編―食事時の合掌
●無相庵のはしがき
今日の法話内容に米澤秀雄先生は、「親の心は、自分が親にならないと分からないと同様、仏の心は、自分が仏にならないと分からない」と云うようなことを仰っておられます。 それで、何が何を意味するのか、現時点では、私には分かっておりません。「米澤秀雄先生のご心境にならないと、私は分からない」のだと思いますので、私は未だ未だ、親鸞仏法の奥底にある教えが 分かっていないのだと思います。ただ、私は凡夫の心と一緒に阿弥陀仏の本願を抱えて、この世に生まれたと思いますので、いずれは、南無阿弥陀仏が分かり、仏の心も分かるのだろうなとは思っています。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(11)後編―食事時の合掌
で、この浄土と云うものはどう云う世界かと言うと、我々によって拝まれる世界を浄土と言うと、こう云うことです。我々にとって拝まれる世界ちゅうのはどう言うのか。 これはここで言ったかどうか知らんけれども拝まれると云うことで・・・。 我々は食事の前と後に合掌する、と。「いただきます」「ごちそうさまでした」と。あれは食事のエチケットだと、皆、かん違いしてるけれど、そうでないと云うことを。これは、おそらく言い出したのは、 私だけやと思うな。(笑)今までそんなこと言うた者ないと思う。
それは私、仁愛女子短大へ行って話しさせられた時に、はっきりしたんや。それは仁愛の女子学生に「あんた、自分の生命ひとにやれるか」と。もちろん「やれん」ちゅうたわね。 で、「私も自分の生命、ひとにやれん。自分の生命を人にやれん者が、自分よりも弱い者の生命を奪って、食うてるでないか」と、こういうことです。米のいのち、大根のいのち、白菜にいのち、魚のいのち、 豚のいのち、そういうものをいただかんと、こちらのいのちが保たんから、そのいのちをいただくので、自分にいのちをくれて、自分のいのちとひとつになってくれるもののために、合掌するのである。 こういうことを私は言うた。おそらく今までこういうことを言うた者ないと思うのや。
しかしこのことは私、真実やと思う。小学校で蛋白質が何グラム、脂肪が何グラム、含水炭素何グラム、そしてカロリーにして何千か、これだけ食べんと人間の栄養は保てんと、 こういうことは学校で教えるけれども、合掌の意味までは教えておらんと思う。私はこれが合掌の本当の意味やと思うですね。 でこれは、私も本に書いておったところが、金沢のある奥さんが手紙よこして、今まで食前食後の合掌の意味が分からなかった。それが分かりたいと思ったが、 初めて分かったというふうに手紙をくれましたから、これやっぱり間違いないやろと思う。その奥さんがほめてくれた、分かってくれたということが、非常に嬉しいと思うんや。十七願を諸仏称名の願と、 こう言われるやね。この、誰かが南無阿弥陀仏を分かった時に、こっちも仏になる。仏と仏と相念じると言うて、仏の心は仏でないと分からんのや。
よく言うでしょう。「子を持って知る親の恩」と言うて。親の恩は自分が子ども持たんと分からんのや。いうことを聞かん子ども持って、初めて自分もいうことを聞かなんだが、 よく親がめんどうみてくれたなって「子を持って知る親の恩」と、こういわれるように、仏の心は自分が仏にならんと分からんのや。 だから十七願で諸仏称名の願といわれるのは、南無阿弥陀仏が分かった時に、こっちが仏になっとるから、そっちも諸仏になるんや。だから諸仏称名の願と、こういわれるんやね。 仏の心は仏にならんと分からんということをああ言うておるんだと私は思いますね。仏になったって、我々は凡夫から離れられんのやけど、凡夫にして仏の位を与えられるちゅうんか、 そういうのが浄土真宗というもんだろうと思う。
●無相庵のあとがき
最末尾にある、『仏になったって、我々は凡夫から離れられんのやけど、凡夫にして仏の位を与えられるちゅうんか、そういうのが浄土真宗というもんだろうと思う。』と云うのは、 私と同じくこの娑婆世界に非僧非俗と云う立場で生き切られた親鸞聖人が私に遺されたメッセージそのものだと思います。しかし、「煩悩のままに生きていいと」云うことではないと思います。
仏様が私たち凡夫に求められているのは、安らかに生きて欲しいと云う心だと思いますが、この娑婆世界ではかなり難しいことも仏様は先刻承知済みで、それが大悲の心だと思います。 その大悲の心を有り難く受け止められた時、凡夫にして仏の位を与えられると云うのが親鸞仏法の教えでは無いのかな、と私は思っているところであります。なむあみだぶつ
追記
昨日の『こころの時代』は、キリスト教関係で、「何をおそれるかー本来の私を生きる」と云う表題で、安積力也と云う長年、中高教育に携わられた方のお話です。 とても感銘的感動的なお話でした。多分、今週の土曜日に再放送があるものと思います。是非、視聴為さって下さい。
No.1617 2016.12.08『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(10)前編―食事時の合掌
●無相庵のはしがき
今回のコラムで、自然と云うことを無相庵読者の皆様方と共に復習しようと思っていました。 でも、今回と次回の『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説(10)と(11)に、米澤秀雄先生が、懇切丁寧に語られていますので、その必要は無いと思いました。
今回の表題は、「食事時の合掌」ですが、米澤秀雄先生が、後編の末尾に、その「食事時の合掌の意味と目的」に関する結論として、 「米のいのち、大根のいのち、白菜にいのち、魚のいのち、豚のいのち、そういうものをいただかんと、こちらのいのちが保たんから、そのいのちをいただくので、自分にいのちをくれて、 自分のいのちとひとつになってくれるもののために、合掌するのである」と仰っています。つまり、 自分一人で生きている積もりの私たちへの警告ですが、業道自然に悩みながら生きざるを得ない私たちへのアドバイスでもあると思います。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(10)前編―食事時の合掌
それで願力自然か。単なる願、本願と云うのは、先程申したように阿弥陀仏が本願を立てたと云うことになってるが、我々の本当の願いや、と。その本当の願いでありながら、 我々には分からんのや。我々に分かるのは、娑婆の願いなら分かるんやけどね。いい子どもが生まれるようにとか、頭のいい子が生まれ、学校の成績がいいように、いいお嫁さんが貰えるように、 いいところへ嫁に行ける、そう云う娑婆の願いなら分かるけれど、本当の願いと云うのは、皆、知らんのや。皆、知らん証拠に、人をつかまえて聞いてみたら分かるんや。 「あなた、浄土に生まれたいか」と聞いてみれば、分かるんや。浄土に生まれたいと思うものなんか、道歩いている人で一人もないぞ。それより、今からスーパーへ行くんで、 安くていいものがあるちゅうことが、私の願いやちゅうに間違いないわ。浄土に生まれたいと思う者なんかありゃせんのや。
で、浄土と云うのはどう云うのかと言うと、無為自然。無為自然を浄土と云う言葉で、真宗は表現しているのでね。無為自然と云うものが分かって、 初めて業道自然の世界を受けていくことが出来るので、その業道自然の世界に皆、悩んでおるので、その悩みが解消するのには、無為自然の世界が分かる以外にないと云うことなんやね。 そう云うことが人間にとって、一番大事なことなんや。一番大事なことなんやけど、我々の直接的な願いに訴えてないもんやから、遠いことのように思うんやね。 十万億土の先にあるように思うとるんや。
実は無為自然の世界の中に、浄土の中に我々は生きとる。浄土ちゅうのは死後の浄土、ことに本派(本願寺派、西本願寺系のことだと思われます)では死後の浄土と云うことになっとるんや。この死後の浄土も、 妥協するわけやないけど、まんざら間違いではないんや。
というのは、我々は浄土の中におるんやけど、浄土の中におることが分からん。浄土ちゅうのは、法身仏を真宗では浄土と云う言葉で呼んどるんやけど、私は浄土の中におるんや。 今も現におるんやけど、我々には自分の思いちゅうんかな、自分の思いを先に立てて生きとるので、それで穢土を作っている。厭離穢土、欣求浄土と言うて、穢土と浄土と二つあるようやだけど、 あるのは浄土だけや、と。穢土と云うのは自分勝手に作っている世界やと、私は言うとるんや。穢土と云うのは自分で作っとるんや。自分の思いを先に立てて、自分の思いでこの世を見ておるのを、 穢土と言うんやね。穢土と云う、けがれた土と云うのは、自分の思いで汚しているんや。せっかく浄土に生きていながら、そのせっかくの浄土を、自分の思いで汚しておると、こういうふうに私は思うんですね。こう云うことの非常に分かり易い例は、これは「こころの詩」に、昔書いたんやけど、小学生の詩で、朝、運動場で遊んでいる時には、「狭い,狭い」と言うて遊んでいる、と。 つまり、鬼ごっこでもすると、直ぐにつかまって鬼にさせられるので、運動場が狭いんや。ところが運動場の石を拾えって先生に命令されると、石を拾う時には、運動場が広くて広くてかなわんのや。 だから運動場は伸びたり縮んだりするわけはないんや。自分の思いで、働かされると運動場は広過ぎるし、遊んでいる時には運動場は狭過ぎると云うもんでね、運動場そのものは変わらんのや。
これが浄土です。変わらんのが浄土です。そこに自分の思いで、それを狭くしたり、広くしたりしておると、こう云うことですね。こう云うことで言うと、 浄土と穢土の関係が一番分かり易いんではないかと、こう私は思うんですね。穢土を作ってるんや、自分で。自分で作っていると云うことが分からんのやね。
それを分からせる為に、仏法があると云うことです。●無相庵のあとがき
末尾の『それを分からせる為に、仏法があると云うことです』の、それが何であるか、読み返して頂きたい思います。なむあみだぶつ
No.1616 2016.12.05『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(9)続―願成就の力
●無相庵のはしがき
今回の米澤秀雄先生のお話は難しいです。『大無量寿経』の上巻と下巻の違いを仰っておられるのですが、『大無量寿経』の上巻に付きまして、色々な先生方の法話で、 四十八の本願のことをお聞きしていましたので、何となくわかるのですが、下巻がどう云うものかを知りませんし、私は法然上人と親鸞聖人の信心はとどのつまりは同じだと思っていますので、 米澤秀雄先生が仰っている、法然上人と親鸞聖人のご信心に違いがあると云うご見解を素直に頷くことが出来ませんでした。
しかし冒頭の、「仏法聞いて、何か特別な世界へ行かれるとか、夢見ている。その夢が破れるちゅうところに、真実の、親鸞が追求した浄土真宗と云うものがあるんだろうと、 私は思うんです。」と云う米澤秀雄先生のお言葉は、間違った仏道に迷い込み易い私たちに取りましては、忘れてはならないお言葉だと思いました。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(9)続―願成就の力
で、皆夢見とるんでないかと思うんや。仏法聞いて、何か特別な世界へ行かれるとか、夢見ている。その夢が破れるちゅうところに、真実の、 親鸞が追求した浄土真宗と云うものがあるんだろうと、私は思うんです。
それで願力自然のことを、さっき言うとったんやけど、願だけではあかんと、力が無いと。それを成就する力が無いとあかんと云うことやね。ところが法然と云う人は、 因願――これは『大無量寿経』の上巻に48願が述べてある。それが因願と言われるんや。それが『大無量寿経』下巻の一番初めに、その本願が成就するちゅうことになっとる。この法然と云う人は、 この上巻にとりついておったので、本願成就のことをあまり問題にしなかった。親鸞と云う人はこの本願成就から出発しているところに、法然と親鸞の大きな違いがあるわけで、 ただ本願だけあったんではあかんのや。
それが成就、私に成就しなければ、何にもならん。そう云うことで、親鸞は本願成就から出発しておると、こう云うことが非常に大事なんですね。そこで、願はただ本願があるだけでなしに、因願ではただ本願があるだけやけど、本願が成就して初めて、単に願があるだけでなくて、願に成就が付いておる。 こう云うことが非常に力があって、それが成就しておると云うことが大事なんや。と云うことは、ただ本願が成就しておったって、お経の中で成就しておったって、何にもならんのや。 私に於いてそれが成就しなければ、何にもならんと云うことです。私に於いて成就すると云うことが、一番大事なことであろうと私は思うですね。
それでこれは私が昔、恵徳寺で毎月話させられたことがあって、この頃は毎年秋の報恩講に話しさせられておりますけれども、話させられるために、私は考えたね。 ですから私は考えさせられて、本願を明らかにすることが出来たのは、恵徳寺で話しをさせられたお陰であると思います。
もう一つ、先程申したか、中日新聞に「こころの詩」と云うの、これで16年目ですけれど、毎週書かされておる。あれは、太田元徳と云う「ともしび欄」を主宰している人が、 「抹香臭くないものを書いてくれ」と言うたんで、なるべく仏教用語を使わんようにして、現代我々が使っている言葉で仏法を明らかにしようと、こう云う積もりで書いてきたので、 「こころの詩」によって現代の普通の言葉で語る練習をさせられたと思うですね。ですから私の話なんかは仏教でないと言われる人もあるかも知らん。仏教用語を使わんから。 仏教用語と云うのは皆に分かり難いと思うので、皆に分かる言葉で話せないかんと、私は考えておるんや。
例えば私は医者をやっとりますが、昔は――今は英語を使うけれども、――ドイツ後で習ったので、ドイツ語でしゃべることになっておりました。 例えば患者さんの枕許で「熱がある」と云うのを、「フィーバー」とか、こう言うんや、ドイツ語でな。患者さんは偉い人やと思うんやな。自分の知らん言葉でしゃべるで。 そんなもの「熱」ちゅうのと「フィーバー」と言うのは、同じこっちゃがな。だから自分を偉く見せようと思うてやっとったんかいなと、私は思うのや。
お寺さんも自分を偉く見せようと思うて、あの難しい仏教用語を使っとったんやないかと思うんや。
で、去年かな。岐阜羽島の別院へ引っ張られた時に、夏の朝、暁天講座ですね。夏の事やから、皆ホンコン・シャツや簡単服でやって来るんや。 それで集まる人が簡単服やホンコン・シャツで来るんなら、仏法もやぞ、ホンコン・シャツや簡易服で出ていかないかん、ちゅうんや。向こうが簡単服やホンコン・シャツ着てるのに、 難しい仏教用語で語るのは、それは衣冠束帯や裃(かみしも)で出て行くようなもんや。時代錯誤もはなはだしい。現代なら現代の言葉で語れるはずやと思う。現代に仏法が生きているんならやぞ、 生きているんなら、現代の言葉で語られるはずやと、私は思うね。●無相庵のあとがき
本願だけではなく、本願力が無いとダメだと云うのが゛米澤秀雄先生のご主張ですが、願力自然の考えから致しますと、本願力は、他力にお任せですから、本願力云々は、 人間の〝はからい〟事ではないかと、理屈的には思います。
しかし、米澤秀雄先生の仰る、「ただ本願が成就しておったって、お経の中で成就しておったって、何にもならんのや。私に於いてそれが成就しなければ、何にもならんと云うことです。 私に於いて成就すると云うことが、一番大事なことであろうと私は思うですね」は、聞法を教養の一つとして聞きがちな私たちは、肝に命じておく必要があると思った次第です。なむあみだぶつ
No.1615 2016.12.01『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(8)前編ー願成就の力
●無相庵のはしがき
私たちは日常会話で曾(かつ)て、私たちの周りで起きたことに付いて「そりゃー自然(しぜん)なことや」と、感想を述べ合ったことがあると思います。 〝自然の成り行き〟と云う言葉も聞いたことがあることに気付きます。これが、これまで米澤秀雄先生が仰ってきた、無為自然、願力自然、業道自然の自然(じねん)ではないかと思います。 私たち人間の〝はからい〟を超えた現象や存在の事を、『自然(じねん)』と受け止めようと云う、仏法の教えだと受け取っても間違いではないでしょう。全ては自然、全ては他力、全ては縁に依って起こる。これを見付けられたのが釈尊で、それを身を以て確信されたのが親鸞聖人であり、 それを現代人に説き知らしめねばならないと苦労されたのが、米澤秀雄先生だと私は思います。そして、今の私が救われない仏法なんて間違いであり、救われない念仏も意味が無いとまで仰っています。
また、前回のコラムで、「それを背負えば背負えるんやけど、自分の能力を見くびっておるのや。業道自然を見くびっておる。見くびっておるところに、 人間の邪見驕慢ちゅうのがあるんでしょうね。」の〝自分の能力を見くびっておる〟と言われたことの意味を考え直しました。
それは、私たちも他の動植物達も、無為自然に生かされて生きているのでありますが、他の動植物達には、その自然に生かされていると云う自覚が無いと思いますが、 それに反して私たち人間には、それを自覚出来る能力を与えられていると云う事実に、(それこそ)目覚めなければならないと思いました。そのことを、 米澤秀雄先生が仰ったのではないかと思った次第です。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(8)前編ー願成就の力
そう云うところに無為自然が働いていると云うこと。無為自然の〝はたらき〟の中に、我々は生かされて生きていると云うことは、間違いないんや。間違いないんやけど、 そう云うことを考えたりしないんやね。自分の力で生きてきたように思うのや。
私、医者やっとるけど、医者と云うのは自分一人おったって出来んのやね。そりゃ看護婦さんもなけんならんやろって、そんなものうちには看護婦もおらんけど、自分一人でやっとるけど、 患者さんがおらんとあかんのやねえ。だから、自分一人では生活出来んのやて。みんな自分一人でやってきたように思うとるんやけど、それが邪見驕慢。
で、私は、医者と云うのは非常に高尚な職業のように言われておるので、どっかで言ったことがある。医者ほど下品な商売は無いんやて。人が苦しむのを待っとるんやで、 こんなひどい職業は無いんやね。そう云うことを言うたことがあるけれども。
広大無辺の慈悲の中に生かされている。その慈悲、無為自然を慈悲と云う言葉で表しているわけですけれども、その如来大悲の恩徳と親鸞は言うとるが、如来大悲の恩徳が無為自然。で、真宗で救いと言うけど、救われると云うと、何か特別な世界へ行くように思うとる。そう云うところに間違いがあると思うですね。 そう云うふうに今まで門徒の人を騙してきたお寺さんもおるのや。極楽と云うところへ行って、百味の飲食を戴くのや、と。何を言うとるんやね。そんなもの、死んでから極楽と云うところへ行って、 百味の飲食を戴くより、今くれ、と。今くれと言いたいね。そんなもの、死んでから蓮の〝うてな〟【極楽に往生した者の座る蓮 (はす) の花の形をした台。蓮台 (れんだい) 】になんて、そんなもの頼りない。そう云うのを不渡手形ちゅうんや。その不渡手形を発行しては、 お寺さんがまあいい顔しとったちゅんかな。それが従来の仏法と云うもんやと思うんや。
現にあるおじいさんが、私の往診に行ったときのことやで。「この世ではお医者さんが頼り」――あんまり頼りにならん医者と云うことが分からんのやな、 「この世ではお医者さんが頼り。死んだら阿弥陀さんが頼りや」と。死んでから阿弥陀さんが頼りやて、こう言うんや。そう云う説教を今まで聞いてきたんやね。そう云うところに、 お寺さんが犯している罪ちゅうものは、非常に大きなものがあるんじゃないかと思う。この世を照らしてくれる光でないと、何にもならんじゃないかと、私は思う。
だからさっき、現益と言うたけれども、我々は毎日の生活の中で行き詰まっとるんやから、その行き詰まりをどうかしてくれる、そう云うものでないと、念仏なんか要らん。 そう云う念仏でなければならんと、こう私は思うとるんや。えらい私の話は殺伐で、まことに申し訳ないけれど、たまにはこう云う殺伐な話でもいいんじゃないかな。今まで頭なでるような話ばっかりで、 そう云うことでは我々が助かると云うことはない。助かるてのは、別の世界へ行くのでない。
タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
と、竹部勝之進と云う人が言うとるんやけど、助かってみれば、助かることも要らなかった。何か助かると云うことが、自分の欲望が満足されることのように思うとるんやね。 自分の欲望の満足を要求するのが、現世利益と云うて、これが一般に信仰だと、間違えられておるんですね。
助かってみれば、助かることも要らなかったちゅうのは、本当の自分、本来の世界に会うだけの話や。つまり無為自然の世界に、法身仏の世界に、 生かされて生きる自分自身に遇うだけの話やから、助かってみれば、助かることも要らなかったと言うはずやね。「何じゃ。こんなことか」ちゅうようなものや。●無相庵のあとがき
『タスカッテミレバ』の作者の竹部勝之進さんは、沢山の素晴らしい詩を遺されています。 この無相庵コラムNO.1439『救われると云うこと』で、『タスカッテミレバ』も含めて紹介させて頂いておりますが、 『タスカッテミレバ』に続いて紹介している『拈華微笑(ねんげみしょう)』の詩と同じ意味だと私は考えます。また、私は、青山俊董尼の法話コーナーでご紹介した、ローマ法王の側近としてバチカンにおられた尻枝正行神父の言葉が思い浮かびました。それは、尻枝正行神父と、 作家の曽野綾子さんの往復書簡『別れの日まで』(新潮文庫)の中で尻枝神父は、失明の危険も強い両眼手術にのぞむ曽野さんに、次のように書き送っておられる。
『病いや苦しみをそのまま神の贈り物として積極的に肯定し、引き受けることが出来るのは、奇蹟でなくて何でしょう。 この心の転換は、物質的病の治癒よりも遥かに重大なことです。 (中略)「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです』
この『「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです』が、正に、『タスカッテミレバ タスカルコトモイラナカッタ』と表裏一体の言葉だと思った次第です。なむあみだぶつ
No.1614 2016.11.28『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(7)続―坪野哲人のこと
●無相庵のはしがき
私たち普通の人間は、仏法に救いを求める者も含めて、誰しも死んでから浄土へ生まれられるかどうかを悩む人は少ないのではないでしょうか。死んだ後のことに付いては お釈迦様がある問いに対して、回答・言及を避けたことを意味する『無記(むき)』とされていたそうですし、また、 親鸞聖人も生きている間に浄土往生を確定しなければ意味が無いと云う不体失往生の立場を取られていたと思いますので、少なくとも私は、死んでからの事に付いては、一度も悩んだことはございません。やはり私は、生きていく為にはどうしてもお金が必要ですから、仕事が上手くいくのかどうかが気にかかりますし、子や孫や親族の幸不幸が気にかかります。仕事が不調な時は悩みますし、 自分や親族に事件・事故、災難が降りかかって来た時には、気持ちが滅入りますし、悩みます。悩んでも仕方が無いとは言うものの、平然と受け止め背負うことは出来ませんでした。
しかし、全ては、業道自然な事だと仏法は説きます。人間の〝はからい〟を越えた縁に依って生じていることだから、受け止めるしか無い、背負うしかないと・・・。 それで、米澤秀雄先生は、この法話の中で、「それを背負えば背負えるんやけど、自分の能力を見くびっておるのや。業道自然を見くびっておる。見くびっておるところに、 人間の邪見驕慢ちゅうのがあるんでしょうね。」と仰っています。この中の〝自分の能力を見くびっておるのや〟とはどう云うことなのか、私は少し引っかかりました。 災難を背負える人間に皆生まれていることも自然(じねん)だと云うお考えかも知れませんが、無相庵読者の皆様、如何お考えになりますでしょうか。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(7)続―坪野哲人のこと
これはずっと以前に言うたことがあると思うんやけど、これは、ここのご住職(三上正広氏)のおじいさん(藤原鉄乗師)のことになるんや。出雲路暁寂と云う人の雑誌に書いていたので、 私、読んだんやけど、おじいさんの在の近くに、一人のおばあさんがおったんかな。そのおばあさんがご主人に早く死に別れて、一人の男の子を、田畠で働きながら育て上げた、と云う人や。 そして嫁もらって、孫まで出来たちゅうんか。それでまあ、やれやれちゅうなもんや。これで自分も長い間働いてきたから、これからゆっくり聞法させて貰おうと思っていたところへ、 その息子が中気【ちゅうき;半身の不随、腕又は足の麻痺する病気のこと。中風(ちゅうぶ、ちゅうふう)とも云う】になったちゅうんかな。それから嫁が癌になったちゅうんか。そうすると、 自分がゆっくり聞法するどころか、今度は孫の面倒も自分が見ていかんならんようになった。
こんな割の合わん話はないがね。若い時から苦労して、子どもを育ててきて、今度は子どもに依りかかって聞法しようと思ったところが、子どもが倒れてしもうた。 こんな割の合わん話はないと云うので、それでここのご住職のおじいさんところへ、それを訴えに行ったんや。
そしたら、1時間あまり述べ立てたんやと、これまで苦労した話を。そして、大抵はそう云う口説き話(愚痴をこぼす)をすると、「大へんやったのう」てな、 ねぎらいの言葉が返ってくるもんや。それをやっぱり期待しておったんやね。そしたらご住職のおじいさんは、ひどい人やな。「それはお前が娑婆へ出てきたからや」と。 「わしは、葬式ができたで行くぞ」と言って行ってしもうたちゅうんや。「それはお前が娑婆へ出てきたから」――確かにそうやな。娑婆ちゅうのは、自分の思うようにならん世界を娑婆と言うんやね。自分の思うようにならん世界へ生まれて来て、 自分の思うようにしたいと言うのが、間違いや。そう云うことが分からんのや。それで「お前が娑婆へ出てきたからや」、こう言われたちゅうんや。
それでそのおばあさん、怒ってしもうたんやな。せっかく何か慰めと云うよりも、自分の生き方を教えて頂けるかと思ったら、「それはお前が娑婆へ出てきたからや。 わしは、葬式ができたで行くぞ」ちゅうて行ってしもたちゅうの。それで一週間ばかり、毎日腹立って腹立って、そのことばかり考えておったんやと。ところが、一週間目にはじめて分かったんや。 娑婆へ出てきたからや、と。娑婆ちゅうのは、自分の思うようにならん世界。思うようにならん世界へ生まれてきて、何も能の無い者が、自分の思うようにしようと云うところが、 間違いのもとやったと云うことが、初めて分かったんやね。
それでここのおじいさんところへ、お礼に行ったちゅうんや。
そこで初めて、業道自然を引き受ける身になることが出来たと云うことですね。業道自然を口説いとったんや。口説いたって何にもならんのや。口説いておっても辛いだけでね。 それを背負えば背負えるんやけど、自分の能力を見くびっておるのや。業道自然を見くびっておる。見くびっておるところに、人間の邪見驕慢ちゅうのがあるんでしょうね。その邪見驕慢に気がついたと、 こう云うことですわ。それで、無辺際の――無辺際と云うのは、浄土真宗の言葉に直すと、如来の広大無辺な慈悲ちゅうんかな、広大無辺な慈悲の中に生かされて生きとるんや。ところが我々、 生かされて生きていると云うことが、人間の自尊心を非常に傷つけるんですかね。この、生かされて生きていると云う言葉が嫌いな人がいるんや。私はよくこう云う言葉を使うんやけど、 これは事実やから生かされて生きていると云うことは。
これはこの前の時に、胎児でお母さんのお腹の中にいる時に、心臓の壁に孔が開いている話をした。これはお母さんのお腹の中には羊水と云うて、水の中に胎児が浮かんでいるので、 肺が働くことが出来ない。また必要ない。お母さんの血を貰ってだんだん大きくなっていくんやから。で、生まれた瞬間に、息を吐き出すんかな。息を吸うて吐き出した瞬間に、肺がパッと開いて、 心臓の孔がピシャンと閉まるんや、と。これ実に不思議と言わざるを得ない。早くもなく、遅くもなく、ちゃんと息した瞬間に、卵円孔と云う孔が塞がる。みんな、塞がった人ばっかりおるんや。
うまく塞がらなんだら、心臓手術の対象になるんやけど、そんなこと誰も知らんのや。誰も知らんし、広大無辺の仏の慈悲と云うのは、 それを恩に着せないと云うところにあるんじゃないかと、私は思う。「お前の心臓ちゃんと動けるようにしてやったぞ。卵円孔を塞いでやったぞ」と云うのは、どこにもおりゃせん。これは無為自然なんや。 無為自然なために、自分で生きてきたように、みんな思うておるんやね。そう云うところに人間の持っている根本的な邪見驕慢があるんでしょうね。●無相庵のあとがき
また、卵円孔の話が出てまいりました。私は米澤秀雄先生から卵円孔のお話をお聞きするまで、全く知りませんでしたが、如何にも不思議です。誰の仕業か、やはり、 無為自然だと能く理解出来ます。人間の〝はからい〟が届かないこの世、この娑婆世界であることが、卵円孔を思いますと、〝人間の持っている根本的な邪見驕慢〟に立ち返ることが出来るように思いました。なむあみだぶつ
No.1613 2016.11.24『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(6)坪野哲人のこと
●無相庵のはしがき
今回はコラム1611の詳細解説―(5)続―業道自然の冒頭で、坪野哲人のことを話し出されて、途中で横道に逸(そ)れたと云うことですので、 私が勝手にお話をつなぎ合わせております。坪野哲人と云う、若かりし頃にマルクス主義者ではあったけれども、やはり、親鸞仏法の信心を得られた母親から影響を受けたのでしょう、年老いてから詠んだ歌が、
無辺際を思いやるだにみちてくる
つつしみこころ適うわが春
だと云うことで、米澤先生は、「そのつつしみ心こそ、宗教心じゃないか」と仰っておられます。更に続けて、「宗教心が湧いてきたと云うことが、救われている証拠なんです。我々は、 仏法を聞いてあらためて救われるのでなくて、本来救われておるのや。我々が生きておるということは、救われておるということなんや」と言われています。有り難い教えだと思いました。
●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(6)坪野哲人のこと
私が、中日新聞に毎週「こころの詩」というのを書かされておるんですけれども、四月に載るヤツを今書いとるんやが、その中に坪野哲人と云うのか、 そう云う歌人の歌をとりあげたのです。これは歌を読んでおるんやけど、本当は歌人が本職でなくて、若い時にマルクス主義に、まあ俗な言葉で言うと、かぶれたと云うか、マルクスに傾倒して、 労働運動をやって、警察に拘留されたこともある。戦前の話ですか、こういう人や。
その人が、実はお母さんがやっぱり浄土真宗の門徒やけれども、単なる門徒やない。この人は非常に悩むことがあって、海に飛び込んで死のうとした。 その時にはじめて弥陀の誓願が分かったのやな。飛び込んで死のうとした時に。だからこの人は信心に目覚めたと、こう云うことが言える。その信心を得るのに、生命がけであったと云うことが言えるので、 それで単なる門徒でないと言えるんですね。
その息子に生まれたんや、けれどもマルクス主義者になって、労働運動をやったわけやね。マルクスというのは、私はあまり勉強したことがないので分からんけれど、 これは経済と云うものが人間生活の基本であると云うことを、根本的に考えて、それで分配ちゅうんか、収入があったらその分配をどう云うふうに公平にするか、そう云うことで、 ぼう大な『資本論』と云う本を書いたらしいんやけど、このマルクスと云うのは、そう云う点では非常な近代の思想を支配した、大きな存在であると云うことが言える。ここまでが『業道自然』の詳細解説の中で、坪野哲人のことを紹介され始められた内容です。そして、以下のお話になります。
私は話をしますと、途中で横道へ行って、もとの道を忘れてしまう。坪野哲人のことを言うてて、横道へ行ってしもうて分からんようになってしもうた。坪野哲人、 これはマルクス主義で労働運動をやったんですけれども、それの歌を取り上げて中日新聞に書いたんですわ。それは、
母の子のおのれ異形とさげすみて
老いさらばえき救いはあらず
と、こう云うような歌なんです。異形(いぎょう;普通とは違う怪しい形・姿をしていること)の者と云うのは、私はその時原稿に書いていて「鬼子」と、こう書いたんやね。 篤信家を母親として生まれながら、自分はマルクス主義にかぶれて労働運動なんかやって、投獄されたりしたので、自分は鬼子やと、母親に似ない子やと。で、母は救いを得ていたけれども、 自分には救いがないままに、年老いてしもうた、と。こういう歌なんです。
ところがその次にとりあげた歌が、無辺際を思いやるだにみちてくる
つつしみこころ適うわが春
この無辺際(むへんざい)と云うのは、宇宙の広大無辺なのを無辺際と、こう言う。広大無辺と、こう云うことを思うただけでも、自分につつしみ心がおこってくる、と。そう云うことがね、 坪野哲人の歌の中にある。
ところがこの無辺際と云うのは、物理的に考えても宇宙は広大無辺際で、その広大無辺際の宇宙の中にある太陽とか、月とか、星とか、そう云うものの〝はたらき〟によって、 我々は生かされて生きておるのですから、そう云う事を思うと、つつしみ心が、坪野哲人には湧いてくると言うんやね。そう云うところに、宗教があるんですわ。私はその中に書いたんやけど、坪野哲人は、 社会を変革しようとして――社会を変革しようというのがマルクスの考えですから――ところが社会変革も出来なくて、年をとってしまったと、こう言うてるんやけど、そして自分には救いはないと、 こう言うてるけれども、この無辺際の宇宙の中で自分が生かされて生きていると云う事を思うと、つつしみ心が湧いてくると言う。そのつつしみ心こそ、宗教心じゃないかと、こう私は思うんですね。
だから宗教心が湧いてきたと云うことが、救われている証拠なんです。我々は、仏法を聞いてあらためて救われるのでなくて、本来救われておるのや。我々が生きておるということは、 救われておるということなんや。
例えば、鼻が開きっぱなしであると云うことが、救われている証拠である。息がずっと出来るようになっていると云うことは、救われている証拠なんや。 それ以上に自分の欲望の満足を求めるところに、間違いがあるんやね。それを間違いと知らんのや。●無相庵のあとがき
私は、前回のコラムの〝無相庵あとがき〟で紹介した、『親鸞における三願転入の論理』を勉強中ですが、 その文中に、やはり『願力自然』と云う言葉がありました。そして、親鸞聖人の『浄土和讃』の中に次の一首【( )内は意訳です】が紹介されています。定散自力の称名は(自力で申す念仏も)
果遂のちかひに帰してこそ(果遂の願によりてこそ)
をしえざれども自然に(自然まことの浄土へと)
真如の門に転入する(転じ入るこそめでたけれ)
つまり、例え私たちの上の空で称える空念仏でも、仏様の願力に依って、いずれは心のこもった念仏が称えられるようになるのだから、心配は要らないと云うことだと思います。 また、それが他力本願の念仏なのだと云う教えだと思います。だから、法然上人は、一日に3万回の念仏を称えられていたのかも知れませんね。
なむあみだぶつ
No.1612 2016.11.21『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(5)願力自然
●無相庵のはしがき
今日の内容は親鸞仏法に救いを求める者にとっては、実に的確で傾聴すべきものだと思いますが、親鸞仏法に依って救われ、日常生活に於いて体現された方は、 極めて少ないと言われています。でも、市井の中にあって体現された方がいらっしゃいます。妙好人と言われる方々です。石見の浅原才市翁(1850年~1932年)、 因幡の源左老(1850年~1932年)、女妙好人としては、田原(三河)のおそのさん(1777年~1853年)が有名です。
この妙好人と言われる方々は、他人との比較で無く、ご自分をどうしようもない「罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫」と思われた方達です。その方々と私の違いは、 「自分は、近所で厄介者と言われているあの男より未だ真っ当な人間だ」と、私は人と比べて自分を評価しているのです。自分がどれだけ人々に支えられていることも知らずに、 また人様にどれだけ迷惑をかけているにも拘わらず、そしてその迷惑を陰で許されていることにも気付かずに、です。私自身が妙好人になれたと思える時は、私自身が願力自然が頷けた時ではないかと思います。妙好人と云われている方々は、願力自然と云うことをご存知では無かったかも知れませんが、 文字通り、自然に他力本願の念仏を何時しか称えられるようになられたのだと思います。現代教育をうけた私は、妙好人の方々よりも知識が多く、理屈を覚え、文字も知り、 仏教の言葉も多く学びましたが、それだけに、なかなか素直に念仏に出遇えたことを心から喜べません。
現代人は、もしかしたら、私と同じ状況にあるのかも知れませんので、私が妙好人に生まれ変われる道を、皆様と共に見付けたいと思って、 この無相庵コラムを更新し続けて参りましたが、その〝妙好人に生まれ変われる道〟が見付かる手掛かりが、今日の米澤先生の詳細解説にあるように思われます。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(5)願力自然
弥陀の誓願と云うのが、願力自然に当たるのやけど、これは『浄土真宗とは何か』の中に、報身仏と云うのか、この報身仏と云うのは、業道自然と無為自然の世界との仲立ちになって 、業道自然に悩む我々を、無為自然の世界へ送り届ける働きをするのが、弥陀の誓願であると、こう言うとるんやね。こう云うことを言った人は、今まであまりないんや。そう云うことを昔から言うてれば、 みんな浄土真宗が分からんと言うはずがないんや。
今日も東京から来たパンフレットを見ると、どうも浄土真宗が分からん。ずっと仏法聞いてきたけど、 分からんまんまに「南無阿弥陀仏」して死んで行きますという言う人のことが載っておったけれども、分からんようにして来た云うところに、まあ浄土真宗を説いて来た人の大きな間違いがあるんじゃないかと、 私は思うんですね。
弥陀の誓願というのは、無為自然の世界――無為自然が分かれば業道自然を受け取っていけるのやと、こういうことを見付けたところに、親鸞があると私は思うですね。
それで、どうしたら無為自然の世界へ帰れるか。無為自然と業道自然と云うのは、まあ無関係でないわけやね。我々も無為自然から生まれて来てるんやから、ちょうど、 春になると草が出て来るように、年頃になると色気が出て来るちゅうんか、それで結婚して子どもが生まれる。子どもも小さいときには無邪気やけど、だんだん年頃になってくると、 親の言うことを聞かんようになる。これもやっぱり業道自然なんでしょうね。あの、業道自然ということが受け取れると、 子どもたちのそう云う反抗するのも受け取って行かれるようになるんじゃないかと思いますけれども。まあ、無為自然と業道自然を結びつける〝はたらき〟をするのが、願力自然――報身仏である。これも自然なんや。無理にこしらえたものでないんですわ。無理にこしらえたものでなく、 そう云うものを見付けたんや。それを見付けたところに『大無量寿経』があって、その『大無量寿経』こそ、真実の教であると、親鸞が断言することが出来たのは、親鸞自身も業道自然の世界に悩んで、 どうしたらそこから出られるか、そう云うことを探し求めた悪戦苦闘の果てに、弥陀の誓願に触れることが出来たと、こう云うことであろうと思いますね。
そして弥陀の誓願というのは『大無量寿経』には説かれてあるけれども、これはそう云う〝はたらき〟があると云うことを見付けたと言うだけであって、 無理にこしらえたものでないと云うところに、自然といわれる所以があるのですな。自然である証拠に、皆頷くことが出来るんや。そう云うことが大したことだと思うんですね。無理にこしらえたものなら、そんなことあるかと反発ができるんやけど、無理がないんや。 ちょうど無為自然が無理がないように、無理がないところに、この願力自然と言われる所以があると思うですね。願力が表われるのを、なるほど自然であると云うことは、なかなか分かり難いことやけれど、 自然なことやね。
で、もう弥陀の誓願を皆、分からずに、ただ弥陀の誓願と言って押し付けて来た。そう云うところに、非常に間違いがあると思いますね。
で、無為自然と願力自然というのは、一番分かり難いものですけれども、この願というのは本願や。本願とは、阿弥陀さんが立てたちゅうことになっとるんや。しかし私は、 我々の本当の願いを本願というんや。我々の本当の願いは、業道自然の世界に悩んで、何とか業道自然から逃れたいと思うのが、我々の本当の願いでないかと思う。と言うのは、本当の願いでありながら、 我々には分からん。どうしたら逃れられるか分からん。それを見透かしたのを、弥陀の本願というのや。ただ見透かしただけでなくて、それが脱却できる確実な道を見付けたと云うところに、 弥陀の本願があるということですね。それが、願に力が付いている。願力自然と力がついている。願はだれでも立てるのや。誰でも立てるけれども、それを成就すると云うことが、非常に難しい。成就する力が、 我々の力でなしに、願自身に願を成就する力が付いとらんと、何にもならんと云うことですね。そうすると、力のない願やったら法螺や、てなもんや。阿弥陀仏は法螺吹いてるだけや、てなことになるんや。 だから願を成就する力が、南無阿弥陀仏という短い言葉の中にこもっとると云うことが、非常に大事なことでしょうね。これ、こんな素晴らしいものは無いんです。
これは釈尊が発明したものでない。釈尊が見付けたんや。法蔵菩薩もそれを見付けたや。法蔵菩薩が発明したわけでない。見付けたんや。法蔵菩薩が見付けたんやし、 釈尊も見付けたんや、皆がそれを見付けて、言い伝えて来たんや。「こうすれば、業道自然を受け取って行かれるぞ」と云うことを、ずっと代々伝えて来たのが、本願の念仏の歴史であると、 こう云うことが言えるんじゃないかと、こう思うんですね。
●無相庵のあとがき
『願力自然』と云う考え方は、私たちが救われて妙好人になれるのも、自分の努力だけではなく、縁に依る、つまりは他力に依ると云う教えだと思いますが、 私は今回の米澤先生の詳細解説を読みまして、昔から色々なご講師方の法話の中でよくお聞きしてきた、親鸞聖人のお覚りへの道筋を表していると言われる『三願転入(さんがんてんにゅう)』が、 『願力自然』と関係がありそうだと考え、インターネット検索で「三願転入、願力自然」と入力し、一つの論文に行き着きました。それが、垂水見真会にも2度ご出講頂いたことがある、 故信楽峻麿師(しがらき たかまろ、1926年9月15日 - 2014年9月26日:元龍谷大学学長)が説かれている『親鸞における三願転入の論理』と云う論文です。 非常に難しく、未だ読み始めたところでございます。私は未だ『三願転入』の正しい理解が出来ていませんが、『大無量寿経』に示されている四十八願に関係するもので、 親鸞仏法の要とも言われているものですので、この際『三願転入』の理屈を正しく理解をしたいと思います。少し時間がかかるかと思いますので、何時とは申せませんが、 理解した内容をいずれご報告させて頂こうと思っております。なむあみだぶつ
No.1611 2016.11.17『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(5)続―業道自然
●無相庵のはしがき
〝業道自然(ごうどうじねん)〟と云う言葉は、世間一般の方々に取りましては勿論でございますが、無相庵読者の皆様に於かれましても、何となく、スッと心に響かない言葉ではないかと想像しております。 私も今回、この米澤秀雄先生の十章の詳細解説に触れるまでは正直なところ、難解な言葉だと感じていました。しかし、〝業道〟と云う熟語の〝業〟は、 仏教用語の〝宿業〟の〝業〟だと思いますので、私が数十億年前の祖先から受け継いで来た遺伝子に組み込まれている情報(能力、素質)も含めて、過去一切の地球の歴史を包含する、 私の〝はからい〟が通用しない〝他力〟と現在私を取り囲む世界の、これまた、私の〝はからい〟が通用しない〝他力〟によって、現実化している私の状況を〝業道自然〟と言うのだと理解しています。
相も変わらず、難解な言葉遣いになってしまっている事をお許し頂きたいのですが、〝業道自然〟の〝自然(じねん)〟も〝大自然(だいしぜん)〟の〝自然〟ではなく、 〝自然(しぜん)の理(ことわり)〟の〝自然(しぜん)〟で、それを仏法では、〝自然(じねん)〟と読み換えさせているのだと考えます。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(5)続―業道自然
私が、中日新聞に毎週「こころの詩」というのを書かされておるんですけれども、四月に載るヤツを今書いとるんやが、その中に坪野哲人と云うのか、 そう云う歌人の歌をとりあげたのです。これは歌を読んでおるんやけど、本当は歌人が本職でなくて、若い時にマルクス主義に、まあ俗な言葉で言うと、かぶれたと云うか、マルクスに傾倒して、 労働運動をやって、警察に拘留されたこともある。戦前の話ですか、こういう人や。
その人が、実はお母さんがやっぱり浄土真宗の門徒やけれども、単なる門徒やない。この人は非常に悩むことがあって、海に飛び込んで死のうとした。 その時にはじめて弥陀の誓願が分かったのやな。飛び込んで死のうとした時に。だからこの人は信心に目覚めたと、こう云うことが言える。その信心を得るのに、生命がけであったと云うことが言えるので、 それで単なる門徒でないとい言えるんですね。
その息子に生まれたんや、けれどもマルクス主義者になって、労働運動をやったわけやね。マルクスというのは、私はあまり勉強したことがないので分からんけれど、 これは経済と云うものが人間生活の基本であると云うことを、根本的に考えて、それで分配ちゅうんか、収入があったらその分配をどう云うふうに公平にするか、そう云うことで、 ぼう大な『資本論』と云う本を書いたらしいんやけど、このマルクスと云うのは、そう云う点では非常な近代の思想を支配した、大きな存在であると云うことが言える。もう一人、近代の思想を支配した人がおる。それはフロイトで、フロイトという人は精神分析学者で、ドイツ人と云うよりもユダヤ人。あのマルクスもユダヤ人ですけれども、 このフロイトと云う人とマルクスと云う人が、近代思想を支配した二つの大きな柱であると云うことが言えるんやね。
そのマルクスは、経済というものが人間を支配する根本的なものやと、こう言うたそうです。フロイトは、セックスというものが人間の生活、人間の思想を支配する根本やと、 こう云うことを考えて――このフロイトと云う人は本当を言うと医者で、精神分析というのは、精神病を治療するために考え出したものですけれども、そのフロイトの思想の根本になるものは、 今言うたセックスが人間を支配すると、こう言うんやね。そうして、これは非常にぼう大な思想体系を作ったわけです。マルクスもぼう大な思想体系を作ったけれども、日本人は昔からこう云うことを言うとるんや。西洋から来るとみんな大したことのように思うけれど、 日本人は「とかく浮き世は色と金」と、ちゃんと言うとるんや。色と金で支配されていると云うことを日本人はちゃん知っとるんや。ところが、それやったら宗教は要らんことになってしまうんや。 色と金は、業道自然の世界やて。それだから、業道自然の世界に、人間が満足出来んと云うところに、ここから脱出したいと云うところに、まあ、宗教と云うものがあるわけや。
一時的なごまかしでなしに、その業道自然をどう云うふうに脱却できるか。これは脱却したい、逃れようたって、逃れること出来んのや。自然ですから逃れること出来んのです。 だから、業道自然をどうしたら受け取っていかれるかという問題に答えたのが、浄土真宗というものであろうと思う。これを脱却しようとするところに、小乗仏教があると言えるんやね。 小乗仏教と云うのは、これを脱却するのや。だから出世間と言うでしょう。
自力聖道門で、世間を捨てて、そして自分一人悟りを開こうとして努力するのや。難行苦行するのです。そして難行苦行の果てに悟りを開くと、こう言う。 そう云う特殊な生活をするのを、まあ小乗仏教と言うですね。それで到達した人を阿羅漢と言うんかな。ところが、我々は業道自然の世界から、どうしたって、足を洗うことが出来ん。その足を洗うことが出来ん者が、業道自然の世界をどうしたら素直に受け取っていけるか、 そう云うことを考えたところに、浄土真宗があるということが言えるですね。
まあ親鸞がそう云う業道自然の世界の中に、足を洗うことが出来ない業道自然の世界の中におりながら、どうしてそれを素直に受け取って行けるか、そう云う受け取り方を、 弥陀の誓願で明らかにしてくれたと、こういうことですね。●無相庵のあとがき
私たちが住んでいるこの世は、娑婆と云う業道自然の世界です。私たちの〝はからい〟が届かない世界です。でも、私たちは、 朝から晩まで〝はからい〟し通しの生活を送っています。「望み通りになってくれたら嬉しいが・・・」とか、「悪いことになったらどうしょうか・・・」と、〝はからい〟ます。 多分親鸞様も亡くなられるまで、思い通りにならない娑婆世界でご苦労されたのだと思います。そのご心境をご長男善鸞を勘当された翌年、 85歳の時に詠われた次の和讃に遺されているのだと思います。弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
「信ずべし」は、人々に「信じなさい」と説き聞かされているのではなく、ご自分に言い聞かせておられる〝べし〟の用法と思われます。
痛ましいご晩年だとは思いますが、他力本願の念仏に依って、無上覚(この上ない覚り)を得られたのだと推察致します。その経緯・所以を示しているのが、 次回の『願力自然』ではないかと、私は考えております。なむあみだぶつ