No.1610 2016.11.14『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(4)業道自然
●無相庵のはしがき
久しぶりに、『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説に戻ります。前回は、10月20日のコラム1605ですので、読み直し頂ければ繋がりがお分かりになると思います。 この十章は、現代訳としては、『親鸞聖人は「念仏と云うものは、何もはからわず、何にもとらわれないで称えることが最も大切なのです。私たちが言葉で称えることも、説明する事も出来るものではなく、 また私たちの考えが及ばない世界のものであるからです。」』と云う内容でありまして、浄土真宗は、とどのつまり、救われるのは念仏、救われたら念仏という教えであると云うことだと思われます。
しかし、何故念仏なのかを納得出来ずに私は今日に至りましたが、しかし、この十章の、米澤秀雄先生の『無為自然』、『業道自然』、 『願力自然』の詳細なご説明を自分の現実・事実に当てはめました時、「ああ、そうだったか」と思われる瞬間がございました。『無為自然』、『業道自然』、『願力自然』の、 どの自然(じねん)も大切なのですが、親鸞聖人も、西川玄苔先生も、井上善右衛門先生も、そして米澤秀雄先生も、『願力自然』に依って救われた事を実感されたのではないかと思いました。 末尾の『追記』に、マルクス主義者で歌人でもあった坪野哲人氏のことを述べた米澤秀雄先生の詳細解説から引用していますが、皆様に於かれましても、 浄土真宗の救いとはどう云うことなのかを考え直されるご参考になるものと思います。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(4)業道自然
ところが業道自然というのは、これは我々の世界の話やな。業道自然というのは、私は男と産まれておるけれど、私は別に男と産まれたいと思うて男に生まれたわけでないのや。 男に生まれると、どうしても男として生きていかねばならん。それが業道自然というものですね。これは、女はいいな、と思うんや。なぜ女はいいなと思うかちゅうと、 女は女であるということだけで食っていけるんやね。まあ年とったらあかんけど。若い娘さんは、女であるちゅうだけで食っていけるんや、収入があるんです。
大阪に初めてできたそうや、ノーパン喫茶というのが。で、名古屋にもそれができたんで、今度私を連れていくとかいう人があったんやけど、 ノーパン喫茶ちゅうのはシュミーズ一枚で、スカスカで、まああの、パンティをはいておらんのやそうや。で、そこのコーヒーが千円するちゅうんや。私は自腹を切ってまでそこへ行こうと思わんけれども、 コーヒー代は誰か出してくれるだろうと思うんや。
ところがその筋の手入れがあって、もうダメになったらしいんやけど、もう私の夢は実現せんことになりましたけれども、とにかく女であるちゅうだけで、 一日そこで働くと六千円入るとか一万円とか当たるというんや。男がそれだけ稼ぐんやったら、大変や。私は医者やっとるけど、一日六千円入るかどうか、これ疑問やな。そんなもんです。だから女であるちゅうだけで、女に生まれたちゅうだけで、食っていける。こりゃ業道自然やで、いくら私が歯を食いしばったって、そういう点では若い女の人にかなわんのや。 業道自然です。それで、歳とっていくということも、業道自然でね。若い時には若さだけで食っていけるけれども、年とっていくとそれがダメになる。だから年とるということは業道自然やな。 例えば、人間は一人でおると楽なようやけれども、一人では暮らされんのやね。おもしろいもので、これ業道自然でしょう。やっぱり、あの、三国節にあるでしょう。
ひとり生まれてひとりで死ぬに
なぜにひとりで生きられぬちゅうのや。生まれてきたときは一人やし、死んでいくときは一人やけど、一人では暮らされんのやね。やっぱり相棒がなければ暮らされん。 例えば結婚して子どもができる。子どものためにちゅうので、働くにも張りがあると、こういうものです。業道自然と云うのは、昔の人はうまくいうたな。「一人の口すぎはできんけれど、 二人の口すぎはできる」と昔からいうとるんやね。これは業道自然のこというとるのやね。業道自然というのは、これは我々の実際の生活そのものを、業道自然という言葉でいい表しておるわけなんですわ。 ところがこれは事実なんですけれども、業道自然をそのまま、我々が受け取ることができるかどうか、というところに問題があるんで、受け取ることができんのや。「何でこんなことになったやら」というて、 口説かねばならんというところに、業道自然の、自然のままに生きられん我々があるわけですね。
●無相庵のあとがき
救われると云っても、救われたら、無碍の一道を歩めるようになるとか、死が怖くなくなるのではなく、業道自然の世界で、はからい無くして生きられず、はからい通りにならずに、 悩ましく生きる私たちをどうしても救い取らずにはいられない仏様の本願力に気付かしめられるのではないか、そして、『追記』に述べられてある、『つつしみ心』が芽生え、 煩悩は無くならないままではあっても、真実に生きようとする生活が始まるのではないかと私は思いました。なむあみだぶつ
『追記』
坪野哲人は、社会を変革しようとして――社会を変革しようというのがマルクスの考えですから――ところが社会変革もできなくて、年をとってしまったと、こういうてるんやけど、 そして自分には救いはないと、こういうてるけれども、この無辺際の宇宙の中で自分が生かされて生きているという事を思うと、つつしみ心が湧いてくるという。
そのつつしみ心こそ、宗教心じゃないかと、こう私は思うんですね。だから宗教心が湧いてきたということが、救われている証拠なんです。我々は、仏法を聞いてあらためて救われるのでなくて、本来救われておるのや。我々が生きておるということは、 救われておるということなんや。例えば、鼻が開きっぱなしであるということが、救われている証拠である。息がずっとできるようになっているということは、救われている証拠なんや。 それ以上に自分の欲望の満足を求めるところに、間違いがあるんやね。それを間違いと知らんのや。
No.1609 2016.11.10人間だから死と向き合える
先週の金曜日のNHKのEテレの番組【団塊スタイル】で、『誰にでも訪れる〝死〟どう考える?』と云うテーマで、ここ十数年間死亡原因トップ(約30%)を占める『癌(がん)』と『死』を、 『がん哲学外来』に集う、かなり重いガン患者の人々に焦点を当てて、「死をどう考えるか?」の答えを求めようとする企画でした。
結論としては、生きている今の瞬間を精一杯生きること、「ガンと共にあの世に旅立つ」と云う『天寿ガン』と云う言葉もありました(再放送⇒11日、午前11時~11時45分)。
ガン患者になった人にも、そうでは無い人にも、いつ、〝死〟が訪れるか分かりません。そう云う意味では、「死をどう考えるか?」は、人間皆にとりまして共通の問いであります。 また、同じ〝いのち〟の仲間達である他の動植物と人間との違いは、「死を意識出来るかどうか?」であるとも云えます。私は、この番組を見ながら、またその後も考え続けました。
「私たちは、自分の意思でこの世に生まれたのではない。人間を超えた〝はたらき〟によって、つまり親鸞仏法で云うところの他力に依って生まれ、 また他力に依って生かされ生きているのであるから、この世から消える死の縁(死因もいつ死ぬかも)もまた他力に依ると考えるのが至極自然であると思いました。 また、この世で起こる現象、存在は全て他力に依るのだ」と、この世の『理(り、ことわり)』を知れば良いと云うのが、番組にゲスト出演していた美輪明宏さんが「『理知』が大事なのです、 冷静さ知識と智慧が大事なのです」と云う言葉に共感した次第であります。表題を『人間だから死と向き合える』と致しましたが、死と向き合えるのは、死を厭(いと)う心が芽生えるからです。他人の〝いのち〟も自分の〝いのち〟も大切に思えない人間が、 我が子を殺したり、親を殺したりするわけです。そういう人間は〝死と向き合えないまま〟、つまりは人になれないまま犬猫のように死んでいくのだと思います。学校教育で、 「命の尊さ」を教えているようですが、「命の尊さ」を教える先生こそ、本当に「自分の命の尊さ」を理解して欲しいと思います。
ごく最近、東大卒の女性社員が自殺して過労死認定された株式会社電通に厚生労働省は、労働基準法違反の疑いで電通の捜索に入り、 強制捜査に乗り出しましたと云うニュースがありましたが、70時間/月を越える残業時間は、普通の一部上場企業では常態化していると思います。一日の残業時間が4時間が20日間続けば、 80時間/月となります。私のサラリーマン時代の残業時間は、100時間/月を越えていました。周りの同僚も殆どのひとがそうでした。
会社の経営陣は、そんな残業を文句も言わずに頑張った人たちです。電通の捜索に入った厚生労働省の役人の殆ども深夜に帰宅する長時間労働者です。 「命の尊さ」を教える学校教育、家庭教育を疎かにし、お金第一で突き進んできた日本の在り方に問題があるのではないかと思います。この頃は、大抵の人が亡くなるのは病院でです。死に目の現実に立ち会うことは無くなっていますので、子ども達も〝死〟の現実を認識出来る機会が殆ど無くなりました。 私も、本当に「命の尊さ」を教えるにはどうしたら良いかは良い案が思い付きませんが、少なくとも大人達が先ずは、「命の尊さ」を子ども達に教えられるように、 私自身としては、仏法を広める役割を果たしたいと思っています。
なむあみだぶつ
No.1608 2016.10.07無相庵コラム更新再開に付いて
約10日間、先週の月木2回の更新をしないままでしたが、今日から更新を再開させて頂きます。
更新する私にとりましては、更新コラムのテーマと内容に考えを巡らせないで過したこの約2週間(10月25日~11月7日)ですが、 その間は逆に仏法がどれ程私の日常生活になくてはならないものだったかを知らしめられるものとなりました。
また、この2週間に取り組んできた開発テーマは、人々が損傷した体の部位を再生させる医療に必要な製品ですが、 実際皆さんの役に立つようになるのは早くて10年先、私の生きている間には無理かも知れません。私が亡くなってからでも、評価を得られるとしたら、 嬉しいことですので、仏法を拠り所として、これから焦らず、しかし日々努力して参ります。今週の木曜コラムから、通常の無相庵コラムに戻らせて頂きます。これからも、どうか宜しくお願い申し上げます。
なむあみだぶつ
No.1607 2016.10.27 前以てお断り致します
私(我が社、株式会社プリンス技研)の仕事は、スポンジとか、フィルター等、いわゆる多孔体製品を開発し製造販売したり、 その製造技術(特許)を必要とする企業に技術を売るビジネスです。でも、売れる製品・用途にはなかなか出会えず、永らく経営は厳しい状況にあります。 その様な貧乏会社ではありますが志は高く持っておりまして、出来れば、人の為、世の為に役立つ製品や技術に出会いたいと思いながら、会社は設立して25歳を越え、 私も昨年、70歳を越えてしまいました。
そんな中で、先月、人の役に立つことは間違い無い用途に遭遇しました。世界中で必要とされる部品で、会社も私も、生き返ること間違い無いのですが、 ただ、これまで全く知識の無い医療分野で使われ部品でありまして、完成までには高い壁を幾つか乗り越えたり、ぶち壊したりしなければなりません。ただ、その前に開発の可能性を見極め、特許化出来るかどうかの調査・検討が必要でありまして、少なくとも11月末までにその結論を出す必要があり、 しばらく、その業務に多くの時間を割きたいと思います。
と云うことでございまして、当分は、定期的にコラムを更新出来ないと思われます。悪しからず、前以てお断りさせて頂く次第です。
私に残された寿命はそんなに長く有りません。健康寿命と云う観点から致しますと残された年月は10年未満。研究開発が出来る技術者寿命は、更に短いと思っています。 これが人生最後の仕事です。未知の医学知識の習得と、従来の科学手法に拘らない発明をして、皆様に良い報告が出来るよう当面の課題解決に邁進致します。
なむあみだぶつ
No.1606 2016.10.24親鸞聖人が行き着いた覚り
●無相庵のはしがき
浄土真宗の法話を聴いている人たちから、「親鸞聖人の教えは、自分が極重悪人だと云う自覚が出来なければならないように思えます。でも、私は自分が全くの善人だとは思いませんが、 周りの人たちと比べて、自分が極端に悪人だとも思えません。そんなに自分を責めなければならないと云うことになると、自虐的な、暗い人生になってしまうのではないかと、 どうしても共感出来ません。」と云う戸惑いの声を耳にすることがございます。
それは、浄土真宗の教えの説き方が、頭の中だけの〝極重悪人〟の自覚を求めるからではないかと、私は考えたり致します。 その説き方の例として、或るご住職の『悪人とは誰でしょうか』と云うブログの中の一節を下記にご紹介致します。●悪人とは誰でしょうか
悪人とは誰でしょうか。
凶悪犯罪を犯した人物の顔や、世間に迷惑をかけても平気な人など、そういう人たちの顔をすぐに思いうかべるかもしれません。しかし、親鸞聖人のおっしゃった悪人というのは、 そのような世間一般に使われる悪人とは異なります。悪人とは誰か他の人のことを言うのではなく、この私自身のことなのです。
私たちは、他人のいやな面や、悪いところにはすぐに目がいくのに、肝心の自分自身のことは、なかなかきちんと見つめることができません。 親鸞聖人は自分自身の人間性を深く見つめられ、煩悩具足の凡夫であるとの自覚に立たれました。様々な善なる行為をする善人。親鸞聖人は、善を行っていても、この煩悩の心で行う限りそれは純粋な善ではなく、 煩悩をかかえた自分は本当の善を行えない悪人であると考えられたのです。悪人とは、誰かの善悪を言うのではなく、あくまでも自覚の問題であると言えます。
そのような自分はとても仏道を完成させて仏になることはできないとの絶望のなかで、親鸞聖人が出遇われたのが、善人も悪人も等しく救う阿弥陀如来の本願だったのです。 十方の衆生、すべての生きとし生けるものをすくうという本願に出遇って、初めて自分の歩むべき仏道を見いだされたわけです。私こそが救われない悪人ではないのか、 そのような深い自覚をもつ身には、すべてをすくうという本願の仏道こそが私に開かれたただ一つの仏道なのです。かつて、キリスト教の神父への道をやめ、浄土真宗の教えに帰依をされて僧侶になられたスイス人がいました。スイスに信楽寺というお寺を建てて浄土真宗の教えをひろめられたジャン・ エラクル氏は、正信偈を読む時、「極重悪人唯称仏」という言葉を読むたびに涙を流されたそうです。極重悪人である私が救われる道、阿弥陀如来の本願が私に届いていると思うたびに、 感激の涙が自然にでてきたそうです。「南無阿弥陀仏」というお念仏が思わず口に出るのは、本願の有り難さが心に沁みるからこそです。私こそが極重悪人だとの自覚をもったからこそ、 その極重悪人を救うために起こされた本願は、この私を救うためであったとの感激に心が震え、思わずお念仏が出るのです。
●無相庵のあとがき
私は、このような説教から、親鸞仏法は、〝極重悪人〟だとの自覚を求める教えだと思われているのではないかと思いますが、親鸞聖人は、その自覚に安住せず、 善人になろうとして努力されたのではないかと私は考えます。そして、親鸞聖人は、 仏教には古くから伝わる『十善戒』と云う守るべき戒律があることをご存知で、 その『十善戒』を守ろうと日々努力されたのだと思います。しかし、親鸞聖人は山奥で修行する僧侶の道を選ばれずに、私たちと同じ市井の人間として生きる道を敢えて選ばれた方です。 それは、勿論、在家の私どもが救われる仏法でなければならないと云うお考えを持たれたからであります。しかし、やはり、『十善戒』の一つの戒律さえ守れない自分であると云う、 本当の意味での〝極重悪人〟だとの自覚に至られたのだと思います。この『十善戒』を守ろうとする日常生活上の努力無しでは、本当の慎みの心が芽生えず、聖徳太子の言われた、 「お互いに凡夫同士だなあ」と云う『和の心』も生まれないのだと、私は思いますが、如何でしょうか。なむあみだぶつ
No.1605 2016.10.120『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(3)続―無為自然
●無相庵のはしがき
『歎異抄第十章』の原文は、『「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。』であります。現代文にしますと、『親鸞聖人は「念仏と云うものは、 何もハカラワズ、何にもとらわれないで称えることが最も大切なのです。私たちが言葉で称えることも、説明する事も出来るものではなく、また私たちの考えが及ばない世界のものであるからです。 」とおっしゃいました。』と云うことでしたが、私たちは、目が覚めてから寝るまで、常にハカライながらの日常生活を送っていると言ってもいいかも知れません。そんな私たちの生活は、 決して〝はからい〟通りにはならないが故に、悩み多い人生となります。その人生に、光を与えねばならない親鸞仏法が生きていない現状に米澤秀雄先生は、今日の詳細解説の中で、「我々は毎日、どういうことで悩むかというと、毎日の問題で悩むのや。 死んで極楽へ行けるかどうか、そんなことに悩んでおりゃせんのや。例えば今、入学試験の時期ですけれども、子どもが大学を受かるかどうか、そういうことが心配なんや。そういうことの方が、 切実な問題なんですよ。そういうことに答えずに、死んでから極楽の話していたところに、浄土真宗の衰微した所以がある。しかも浄土真宗は頭(ず)だけ、頭が高いんや。他の新興宗教を軽蔑してるんや。 他の新興宗教は、現益をとりあげるところに、皆が魅力を感じて行くのですね。家庭の問題とか職場の問題とか、そう云うことを問題にしてくれるので、皆、新興宗教に走るのや。」
また、「昔の寺は、内陣が暗くて、そこにロウソク立てとったんや、徳川時代などは、だから内陣が非常に暗い。そう云うところで、神秘的に見せかけて、門徒を威圧していたところが、 浄土真宗の寺のあり方でなかったかと、私は思う。今日(こんにち)は非常に明るくなっている。ところが教えだけは明るくなっておらん。種明かしをしておらんと、こう思うんや。種明かしされると、 何でもないものや。不思議でも何でもない。」とも、浄土真宗のお寺さんの在り方に苦言を呈されています。
●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(3)続―無為自然
ところが、今までの浄土真宗の悪口を私は言うんですけれど、当益ばかり言うて、死んでから極楽へ行く話ばっかりして、今現在の問題をおろそかにしてきたというところに、 浄土真宗の非常な衰微があるし、なぜ皆が浄土真宗の門徒でありながら、新興宗教に走るかというと、現益のことをおろそかにしていたというところに、理由があると思う。
我々は毎日、どういうことで悩むかというと、毎日の問題で悩むのや。死んで極楽へ行けるかどうか、そんなことに悩んでおりゃせんのや。例えば今、入学試験の時期ですけれども、 子どもが大学を受かるかどうか、そういうことが心配なんや。そういうことの方が、切実な問題なんですよ。そういうことに答えずに、死んでから極楽の話していたところに、浄土真宗の衰微した所以がある。 しかも浄土真宗は頭(ず)だけ、頭が高いんや。他の新興宗教を軽蔑してるんや。他の新興宗教は、現益をとりあげるところに、皆が魅力を感じて行くのですね。家庭の問題とか職場の問題とか、 そう云うことを問題にしてくれるので、皆、新興宗教に走るのや。
で、無義をもて義とすと云うことも、確かに法然が言うたんでしょう。法然が言うたんでしょうけれども、どの程度に深く法然が理解しておったかということは、問題やと思う。 と言うのは、『自然法爾章』。親鸞が晩年に書いた、短いけれども非常に素晴らしい文章に、『自然法爾章』と云うのがありますが、無義ということ、「義なきを義とす」と云うことは、 この自然のことやろうと、私は思う。
例えば、これはもう事実をもって証明するよりほかない。この、春になってきて気温が上がってくると、雪が消えます。これは、無義をもって義とす、や。それは解釈では、 気温が上がったから雪が消えるのであろうと云うのは、解釈であって、事実はあくまでも「自然(じねん)」というものやと思うですね。雪が消えかかるともう、下から草の芽を出しておる。 こう云うのは自然なんや。ああいうのは、人間のはからいでどうこうなるものでない。自然や。無義をもて義とすと云うことは、自然と云うことであろうと、こう私は思いますね。自然と云うことになると、自然に三つある。これは皆さんご承知であろうと思う。無為自然、願力自然(がんりきじねん)、業道自然(ごうどうじねん)と、こう三つあるんですね。 その願力自然を立てるところに、まあ親鸞の浄土真宗の眼目があるわけですけれども。その大本は無為自然。この無義をもて義とすと云うことは、この無為自然のことを言うてるんだろうと思う。 無為自然と云うのは、例えば春になって草が芽を出す。こう云うことなんか、人間のはからいを超えたことで、まあこれは自然というほかない。誰がそうするのか分からんけれども、 とにかくそうなっていくのを無為自然と、こういうのですな。
私は、『浄土真宗とは何か』と云う本を出しましたが、この無為自然のことは、その本の中に書いてある言葉を使うと、「法身仏(ほっしんぶつ)」と云うことで、法身仏が仏の大本で、 法身仏のことを浄土真宗であまり言わなかったために、浄土真宗が分かり難くなっていったと、私はこう思う。
それで『浄土真宗とは何か』と云うのは、浄土真宗の種明かしやと、私は言うとる。種を明かすと何でも無いんや。何でもない。それを今まで種明かしをせなんだんやね。 神秘的に見せてきたところに、今までのごまかしがあるんではないかと思う。例えば、このお寺も近代的な建築になりまして、内陣が非常に明るい。おまけに電気つけたら、スカスカに見える。ところが昔の寺は、内陣が暗くて、そこにロウソク立てとったんや、 徳川時代などは、だから内陣が非常に暗い。そう云うところで、神秘的に見せかけて、門徒を威圧していたところが、浄土真宗の寺のあり方でなかったかと、私は思う。 今日(こんにち)は非常に明るくなっている。ところが教えだけは明るくなっておらん。種明かしをしておらんと、こう思うんや。種明かしされると、何でもないものや。不思議でも何でもない。 だから、不思議でも何でもないと言うたら、語弊があるので、ここには「不可称不可説不可思議のゆえに」と、こう書いてある。これは当たり前のことが実に不思議やと云うことですね。スプーンが曲がるとか、 そんな話でないんやちゅうことを、私はよく言うんですけども、当たり前のことが、実は不思議や。
まあ愛知県の一人の奥さんが「鼻の穴が開きっぱなしであるということがありがたい」と、こう言うた。これは実に素晴らしいことを発見したものやと思うね。これ、当たり前のことなんや。 ところが、夜になると我々、寝ると目がふさがりますが、目がふさがった時、いっしょに鼻の穴もふさがってくれると困るのやな。寝てる間に息が出来んで、寝ていても息が出来るように、 鼻の穴が開きっぱなしであるちゅうことを発見したことは、大したことやと思う。これは、誰がそうしたか分からん。不可称不可説不可思議のゆえに、や。これは人間を超えた〝はたらき〟、 法身仏、無為自然がそうさせておるということですね。だから無為自然を讃嘆するということが、これが仏法というものの本来の道筋であると、こう思うですね。
●無相庵のあとがき
結論として、米澤秀雄先生は、「だから無為自然を讃嘆するということが、これが仏法というものの本来の道筋である」と述べられています。これは、私たちの周り、 それを広く捉えるならば、日本、否世界、もっと大きく宇宙で起きている現象は、人間のハカライを超えた〝はたらき〟に依って生じているもので、私たちが避けられない、現実であり、事実であり、 否定出来ない真実だと受け止めて、その真実を私ども一人一人が、自身の経験と習得した知識で以って、真理として讃嘆出来るようになる為に仏法を聞かねばならないと云うことだと思います。真理と言えば、昨日、菜根譚(さいこんたん)の岩波文庫本(多川師が座右の書)が届きました。その菜根譚の前集の(1)に『人生に処して、真理をすみかとして守り抜く者は、往々、 一時的に不遇で寂しい境遇に陥ることがある。(これに反し)、権勢におもねりへつらう者は、一時的に栄達するが、結局は、永遠に寂しくいたましい。達人は常に世俗を越えて真実なるものを見つめ、 死後の生命に思いを致す。そこで人間としては、むしろ一時的に不遇で寂しい境遇に陥っても真理を守り抜くべきであって、永遠に寂しくいたましい権勢におもねる態度を取るべきでない。』 とあります。この菜根譚の真理を守り抜くことを勧める言葉に出会い、最初に購入した本で、菜根譚が普通の倫理本レベルと感じて落胆したのですが、 この岩波文庫本(多川師が座右の書)を読んで、親鸞仏法から観た菜根譚の値打ちを知りたいと思いました。
なむあみだぶつ
No.1604 2016.10.17『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(2)無為自然(むいじねん)
●無相庵のはしがき
この十章の米澤秀雄先生の詳細解説は、(1)無為自然、(2)業道自然、(3)願力自然、(4)坪内哲久のこと、(5)願成就の力、(5)食事時の合掌、(6)恵みの中の空しさ、 (7)「鎌倉、鎌倉」、と七節に分けて解説されていますが、かなり長文となる(1)、(2)、(4)は、私は2回に分けさせて頂こうと考えております。
今日の(2)無為自然は、(3)続ー無為自然に続きますが、『自然(じねん)』と云う言葉は、ある意味で、親鸞聖人が最終的に至られた覚りのお言葉だと申してもよいと思われます。 親鸞聖人が、86歳の時に、書かれた『自然法爾章』と云う文章の『自然法爾(じねんほうに)』こそが、親鸞聖人のお覚りを余すこと無く表した言葉だと考えます。人間のはからいの及ばない大自然、 大宇宙の〝はたらき〟に、ただただお任せするのが、私たち人間が出来る唯一の〝はからい〟すなわち『義』であると云うことではないかと、私は受けとっています。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(2)無為自然
今日は『歎異抄』の第十章です。これも私、昔引っかかったんですね。と云うのは、一番始めに申した増谷さんが『歎異抄』と云う本を出した時に、「無義をもて義とす」と云うことも、 法然が言うとると。だから法然上人と同じことを言いながら浄土真宗と云うものを立てたのは何か、と。まあ不とどきであると云う意味で、増谷さんが書いておりましたね。ですから悪人正機と云うことも、 無義をもて義とすと云うことも、まあ『歎異抄』の中にある言葉が皆、法然上人の言われたことやと。
ところがこれも申しましたが、親鸞と云う人は、浄土真宗の開山は法然上人であるというふうに、ちゃんと言うておられる。だから、ただ浄土宗と浄土真宗とどこが違うかと言うと、 法然上人のねらいは間違っておらんけれども、それを正確に、確実にしたところに、親鸞と云う方のお仕事があると、こう思われますね。
例えば、法然上人は十八願だけですけれども、親鸞さまは四十八願のうちの八願を採用しておられる。これもここで申したと思うんですけれども、十七願と云うのは、 「咨嗟(ししや)して」と云う言葉がついておる、と。これは十七願の中にあるのですが、十七願は法然が取り上げておらん。十七願の中に、阿弥陀仏と云うのは形がないんやから、 形のない阿弥陀仏が立つことが出来るのには、皆から「南無阿弥陀仏」とほめたたえられたいと。そのほめたたえられるところに、阿弥陀仏は立つことが出来る。これも例えをもって以前に申したことがある。例えば母親。自分がいくら母親と言うたってあかんのや。子どもが「お母さん」と呼んでくれた時に、母親になれるのや。だから人が呼んでくれんとあかんわけで、 自分でいくら母親のつもりでいたってあかんのや。だからそのように阿弥陀仏も皆から「南無阿弥陀仏」と言われたい。それは「咨嗟して」と云うのは、感動を言う言葉なので、心の底から感動して、 南無阿弥陀仏あればこそ、と。そうした時に、阿弥陀仏が立つことが出来る、と。これは浄土真宗と浄土宗との大きな違い目になるんでないかと、私は思うんですね。 こんなことを言うた人は今までないけれども、「咨嗟」と云うことを、そう重く取り上げた人は無いんです。
例えば口称の念仏。浄土宗などでは口称の念仏と言うて、ナンマンダブ、ナンマンダブと言うてりゃいい、と。感動がなくても、口先だけでもナンマンダブ、ナンマンダブと、 言うてれば、浄土宗になるのや。ところが親鸞さまは、心の底から感動して、「南無阿弥陀仏とほめたたえられたい」と、そう云うところに阿弥陀仏が立つことが出来ると、こう云うことですから、 これは「咨嗟して」と云う言葉は、たった二字やけども、大きな意味をもっているのでないかと、私は思うですね。
だから、感動なしに南無阿弥陀仏を口先だけでとなえるのを、空念仏と言うのでないかと思うんですね。空念仏と中身のある念仏と、どう違うかと言うと、心の底から感動して、 「南無阿弥陀仏あればこそ、自分は生きていかれる」と、こう云うことでなければならんのでないかと思うんや。そう云う点でも、この「咨嗟して」、心の底から感動してと云うのは、現生不退――現生正定聚と関係がある。現生正定聚と関係があると言うのは、 これは現益(げんやく)になるからですね。現益。現益と当益(とうやく)。これは親鸞さまが言われたことでなくて、後から出て来た真宗学者が、こう言うことを言い出したんだろうと思いますけれど、 「浄土真宗は現当二益(げんとうにやく)である」と、こういうふうに言われる。この世もめでたく後の世もめでたくと云うのが、現当二益の現益当益と云うものだろうと思うんですね。
●無相庵のあとがき
米澤秀雄先生は、法然上人よりも親鸞聖人、浄土宗よりも浄土真宗に重きを置かれていると思われるご表現をされていますが、『法然』と云う名前は、 『自然法爾』の『然法』から取られたものと思われますので、親鸞聖人の至られた覚りは、師匠法然上人の至られた覚りを踏襲されたものと考えるのが自然であり、もし、 浄土宗の念仏が空念仏だと云う評価が世間一般のものであるならば、それは、法然上人以降の浄土宗のお坊さん方の受け取り方が間違っていると考えるべきだと私は思います。 浄土宗に唯円房に倣(なら)って、『浄土宗版ー歎異抄』を発表されるお坊さんが出て来て欲しいものです。なむあみだぶつ
No.1603 2016.10.13『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(1)原文紹介
●無相庵のはしがき
少し間が開きましたが、今回から『歎異抄ざっくばらんー歎異抄』詳細解説を中心とした従来のコラムに戻らせて頂きます。そこで、先ずは、第十章の原文紹介から始めさせて頂きますが、 この十章は、第一章から続いて来ました、著書の唯円房が耳に残っていた親鸞聖人のお言葉を書き綴った、歎異抄の前半部分でした。そして、第十一章からは、 関東のお弟子方の間で、親鸞聖人の教えとは異なる解釈の数々を、正に唯円房が歎き心を持って書き綴られた後半部分が始まるわけであります。そう云う意味で、第十章は、唯円房が、これこそが、 親鸞聖人が伝え遺したい念仏の教えの止(とど)めとも云うべきお言葉が書かれているのだと思われます。非常に大切な第十章だと思います。●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』詳細解説―(1)原文紹介
「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。
●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第十章』の現代語訳
親鸞聖人は「念仏と云うものは、何もはからわず、何にもとらわれないで称えることが最も大切なのです。私たちが言葉で称えることも、説明する事も出来るものではなく、 また私たちの考えが及ばない世界のものであるからです。」とおっしゃいました。
●無相庵のあとがき
念仏と云う言葉を聞きますと、大抵の方々は、何か呪(まじな)いの唱え言だと思われるのではないでしょうか、私も長年、そのように、少し抵抗感、違和感を覚えて来たと云うのが、 正直なところです。しかし、今では、『仏』とは、『他力』のことであり、『縁』とも言うべきこと。また、第十一章の主題とも言うべき『自然(じねん)』のことだと理解しています。また、 『真理』とも言い換えてもよいかも知れません。そして、『念仏』とは、「他力のお陰で今、私はここに生かされて生きております」と云う、納得の気持ちを表現したものだと思います。
しかし、私たちは誰でも他力に依って生かされていることは間違い無いのであります。太陽があるから米や野菜を食べられます。太陽のお陰で水も飲めます。酸素も吸えます。でも、 他力である太陽に感謝することを忘れています。忘れていても、他力は生かしてくれています。何故でしょうか。そのことを『不可称不可説不可思議のゆえに』と、親鸞聖人が仰っていたのでしょう。
なむあみだぶつ
No.1602 2016.10.10大発見ー菜根譚(さいこんたん)
●無相庵のはしがき
昨日の日曜日の『こころの時代』は、興福寺貫首の多川俊映師のご出演で、「唯識で読む菜根譚」でした。
私はこの『菜根譚』と云う熟語に初めて出会いました。これまでの多くの仏法の先生方、特に米澤秀雄先生を含めましても、全くお聞きしたことの無い熟語だったのですが、 私がこれまでの数回のコラムで、仏法の覚りをテーマにして参りました目的は、仏法が私たちの日常生活の役に立つものでなければならないと云うところにありました。米澤秀雄先生は、常に、 「仏法は、その応用問題である私たちの日常生活の問題を解決出来なければ、何の意味も無い」とまで仰り、また、「浄土真宗の門徒は、命日にはお寺さんを呼んでお経を上げて貰うが、 日常の悩みを何とかしようと、新興宗教に走っている。これは仏法を説く側のお寺さんに問題がある」とも、著作集の中で指摘されています。勉強家であった米澤秀雄先生なら〝菜根譚〟をご存知無いはずはなかろうと思うのですが、私の記憶にある限り、一度も〝菜根譚〟と云う熟語を用いられなかったと思います。 また、私の存じ上げている他の殆どの先生方も、お使いにならなかったと思いますが、この菜根譚は、一般の人々には勿論有用だと思いますが、私を含め、新興宗教や 倫理の会等を低級な教えと考えておられる仏教徒には、特に有用な教えだと思いました。
私は、既に菜根譚に関する2冊の本を注文したところですので、詳細な注釈は後日になりますが、私と同様、初めて『菜根譚』と云う熟語に初めて出会われた方は、 次の『菜根譚とは?』をご参考にして頂き、共に勉強して頂きたいと思うことであります。●菜根譚とは?
菜根譚は、「田中角栄、吉川英治、川上哲治ら各界のリーダーたちから座右の書として愛されてきた。」 と説明されています。儒教、道教、仏教をバランスよく取り入れて、約400年前の中国(明)の官吏の一人が357の教えにまとめたものだと云われています。仏教を説く人も、またその教えを聴く仏教徒も、日常生活に様々な問題があることを承知しながらも、倫理・道徳を中心に教える教団を低級だと見なして近寄らない人々も多いようです。 斯く言う私が、その代表でありますが、この際勉強し実践し有用性を確認し、今後に生かしたいと思っているところでございます。
既に、菜根譚をご存知で、実践された方もいらっしゃるかも知れません。もし、宜しければ、ご感想とご見解をお聞かせ頂ければ幸いでございます。●無相庵のあとがき
今週の土曜日の午後14時から、多川俊映師の『こころの時代』の再放送があるはずですので、どうかご覧頂きたいと思いますが、以下に、 多川俊映師の『明日への言葉』から抜粋引用して、菜根譚に示されている処世訓の中から、二つ程紹介させて頂きます。①『悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るは、悪中(あくちゅう)にも尚(なお)善路(ぜんろ)有り。善を為(な)して人の知らんことを急(いそ)ぐは、善処(ぜんしょ)即(すなわ)ち是(これ)悪根(あっこん)なり。』
これは、「いけないことを私達はする。それを人に知られると困るが、その人の心の中に善の方向性、よくなってゆく芽がその中にある。 つまり、隠す気持ちの中にいい方向性が芽生えているのである。また、良い事をするが、人に早く自分のいいことを知ってもらいたい。しかし、社会はそう簡単にはそうですとは言わない、 無視したり、評価されない。そうすると、なんだと一瞬思うその中に、悪根が芽生えてくるのである。良い悪いは線引きがしっかりしているわけではない、しきりがあいまいなのである。」②『人の小過を責めず、人の陰私をあばかず、人の旧悪を念(おも)わず、三者をもって徳を養うべし。 またもって害に遠かるべし。』
これは、「他人のちょっとした間違いを咎めない、人の隠しておきたいことを暴かない、人の古い間違いをいつまでもネチネチと責めないことである。この3つを日常生活で行えば徳が養われてゆく。 又そうすると人に恨まれることはない、実利になるのである。」菜根譚には、上記のような教えが、357並んでいるものと思われます。
なむあみだぶつ
No.1601 2016.10.06人に生まれた喜びに付いて
前回のコラムで、「人として生まれたことを喜びましょう」と申し上げましたが、この喜びは、笑顔で以て発言するものではございません。むしろ、しんみりとした表情で申し上げるべきものであります。 本当は、「犬ではなく、人間に生まれたことを喜びましょう」と云うべきだったと思います。私たちは、毎日、喜びではなく、むしろ苦しみに出遭うことが多いです。犬も、散歩に連れて行きますと、 飼い主を困らせる位に前へ前へと行きたがり、大いに喜びを表しますが、もし交通事故に会えば、苦痛で悲鳴を上げます。人間も犬も喜びあり、苦しみもありますが、人間と犬の違いは、 喜びに出会った事そのことを喜べますし、その余韻に浸ることもありますが、犬の喜びは瞬間的です。また、反面、犬は苦しみに出会っても、それも瞬間的ですが、 人間は、苦しみに出会ったこと自体が悩みとなります。一方で、苦しみに出会った原因を考えて、苦しみに出会わないように対策がとれます。犬はどうかと申しますと、 自分の〝いのち〟は飼い主任せです。自分で自分の〝いのち〟を守ることは出来ません。
また、人間は、太陽のお陰で海の水が蒸発して雲になり、雨が降って、野菜や果物が食べられることを知り、太陽への感謝の気持ちが湧き、空気のお陰で、 呼吸出来ていることを知り、また感謝の気持ちが湧き上がります。頭脳を与えられた人間に生まれたからこそだと私は思います。
そもそも、人間は、空間的に言えば、大宇宙の果てまでの想像力すら持ち合わせていますし、時間的に言えば、地球の誕生、 生命(単細胞)の誕生以降の何十億年を遡れますし、また、私たち人類が地球上に生まれ出た数百万年前にまで遡ることが出来ます。これは、犬にも、その他の高等動物にも出来ません。
そんな人間に生まれたことを、仏法に出遇えてその意味と喜びに気付かせて貰えることこそが、人間に生まれさせて頂いたからだと思うのです。なむあみだぶつ