No.1590  2016.08.29日常の難行苦行に関する考察

私は、前回のコラムに、自分が経験した難行苦行に付いて、『家族の誰かが病気だったり、借金返済の目途が付かなかったり、配偶者とか子供達が自分の思うようにしてくれなかったり、ならなかったりとか、 舅・姑との関係が上手くいかなかったり、職場の同僚、上司に気に食わない人物が居たり、と、問題は山ほど起こります。』と申しました。 しかし、これらは、自分の思うようにしたいと云う気持ちに沿わないことから起きる難行苦行です。これも正に難行苦行ですが、その自分の思うようにしたいと云う気持ちをどう静めるかと云う葛藤も、 難行苦行です。つまり、自分の思い通りにならないことも難行苦行ですが、自分の思い通りにしたいと云う気持ちを静めねばならない事態も、難行苦行だと言って良いと思います
   あの強姦致傷容疑で逮捕された俳優の場合は、自分の思い通りにしたいと云う気持ちを静められなかったが故に法律に依って裁かれる身となりました。もし、自分の行き過ぎた欲望との 闘いと云う難行苦行に打ち克っていれば、罪を犯さなかったのではないかと思います。この世には、私たちの欲望を刺激することが溢れかえっています。食欲、性欲、名誉欲、財欲を刺激して、 金儲けを企んでいる企業や人間が私たちを狙っています。テレビコマーシャル、インターネットサイト等が最たるものだと考えます。

   殆どの人は、その欲望に打ち克って、身を破滅させることも、罪を犯すことも有りません。欲望は誰にでもあります。仏法は欲望を否定はしていません。しかし、 行き過ぎた欲望を『煩悩(ぼんのう)』と申しますが、これを肯定する訳では有りません。しかし、これにどう対処するかを説き教えるのが仏法でなければならないと思います。 そして仏法の中で、坐禅しても、滝に打たれても、煩悩は決して無くならないことを見極めて、教えを説くのが、唯一、親鸞の説く仏法だと、私は考えています。

   前回のコラムで、日常生活の難行苦行を解決する手掛かりは、『人間の裏の裏まで見極めること』だと云う親鸞聖人の方法にあると申しましたが、これを言い換えますと、 「人間の心の中に生じている欲望とか煩悩の事実に目を瞑(つ)むることなく、しっかりと見定めること」だと、私は解釈致します。また、米澤秀雄先生がいつも申されている、 「自分とは何か、人間とは何か」と云う問いの答えを持つことが、同時に非常に大切だとも思います。米澤秀雄先生は、人間は二つの自分を持っている、それは自我と自己だ、と。そして、自我とは自分が作り上げた自分であり、 自己とは、宇宙の〝はたらき〟に依って、生まれ、宇宙中の存在に生かされて生きている自分だと言われています。
   今日、ウォーキング中に、私は、曇り空の空の雲を見上げて考えました。「雲があるから自分があるのだ」と。雲があるから雨が降る。雨が降るから、植物が育つ、植物が育つから、 米やパン、野菜が食べられる。雨が降るから、私たちは水が飲める。動物も生きられるから、人間は蛋白質が摂取出来る。そして、雲は何故出来るのか?太陽が輻射熱で海水を蒸発させてくれるから・・・と、 考えていくと、宇宙の全てが私の〝いのち〟を生かしてくれていることに頷けました。

   一方で、私の体には、動物の血が流れています。動物の本能的な欲望を持って生まれて来ました。そして、他の動物に比べて格段に優れた頭脳を持つ人間に生まれたことで、 欲望を効率よく満たす方法を編み出せたために、過ぎたる欲望(これを煩悩とも言う)を満たせる動物になり、それが、難行苦行の原因になっている、つまり自我を持った動物になった訳では無いかと考え、 人間には、自己と自我と云う二つの自分がある、と、私は納得しているところです。

   ややこしい事を申して参りましたが、次回からの『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説をお読み頂ければ、「自分とは何か、人間とは何か」と云う問いの答えを持つことになり、 ひいてはそれが、親鸞聖人の『人間の裏の裏まで見極めること』になり、日常の難行苦行に対処するヒントになるのではないかと思っています。。

なむあみだぶつ


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No.1589  2016.08.24『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説―(3)日常の難行苦行

●無相庵のはしがき①
   今日のコラムを書き上げている最中に、22歳の俳優の強姦致傷事件の報道がありました。逮捕された俳優自身と、その母親である有名女優さんは、 取り返しのつかない不幸に見舞われているのですが、皆さんはどの様なことを思われたでしょうか。私も色々な思いを持ちましたが、下記の〝無相庵のはしがき②〟以下を仕上げて、 いざ更新処理をしようとした時、題名の『日常の難行苦行』の〝難行苦行〟の私の捉え方に不十分さがあること、そして、米澤秀雄先生の詳細解説の冒頭に書かれている、 『落とし穴』に落ちている自分自身に気付かされ、更新を止めて、書き直そうと思いました。しかし、内容自身に嘘偽りがあるのではなく、 作成している時点での気持ち・考えを申し述べたことは間違いありませんので、この〝無相庵のはしがき①〟を添えて、更新することに致しました。 後日、その経緯を報告させて頂きます。今回は歎異鈔第九章原文も付け加えましたので、親鸞と唯円が落ちた〝落とし穴〟とはどんな穴だったかを、改めてご確認頂きたく思います。

●無相庵のはしがき②
   米澤秀雄先生は、私たちの日常生活そのものが難行苦行であるから、特別に坐禅する必要は無いと仰る、また、日常生活の難問が解決出来なければ、 それは仏法ではないとまで仰います。私は全く同感です。同感ですが、でも、日常生活の難問はなかなか容易に、一件落着とは参りませんよね。例え解決したとしましても、また、 形を変えて難問が持ち上がると云うのが我々の日常生活ではないでしょうか。家族の誰かが病気だったり、借金返済の目途が付かなかったり、 配偶者とか子供達が自分の思うようにしてくれなかったり、義父義母との関係が上手くいかなかったり、職場の同僚、上司に気に食わない人物が居たり、問題は山ほど起こります。 それらは、斯く言う私が全て経験したものばかりです。ある時は、同時に複数の問題を抱えた事さえありますが、どの様に難問に対処すれば良いのでしようか。 米澤秀雄先生の詳細解説の中に、手掛かりを見つけたいと思います。

●歎異抄第九章原文
「念仏もうしそうらえども、踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこころおろそ
かにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころ
のそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろ
うやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞も
この不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろ
こぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いち じょう)
とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえ
て、よろこばせざるは、煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏か
ねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたるこ
となれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがため
なりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか
所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく
おぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで
流転せる苦悩の旧里(きゅう り)はすてがたく、いまだうまれざる安
養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よく
よく煩悩の興盛(ごうじょう)にそうろうにこそ。なごりおしくおもえ
ども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべなり。いそぎまいりたきこころな
きものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこ
そ、いよい大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつ じょう)と存じ
そうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもま
いりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやし
くそうらいなまい」と云々。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説―(3)日常の難行苦行
   それで、第九章の話になるけれど――第九章が、『歎異鈔』は唯円房が書いたと云う証拠になるんやね。「唯円房同じ心にてありけり」と、こう書いてあるので、 ここで『歎異鈔』は唯円房が書いたんであろうと、こうなるんや。で、私は『親鸞聖人のことば』に載ったのにも書いてるけど、親鸞と云う人は、信仰上みんなが落ち入りやすい落とし穴に、 自分が落ちて、自分で這い上がって、そして後から来る者――唯円も落とし穴に落ちて、そして先生のところへ相談に行った。そしたら親鸞が、自分の落ちた落とし穴に、 唯円も落ちとると云うことが分かって、そこからどうして出るかと云うこと、そのことを懇切に教えているのや。

   煩悩がなくなるといいと云うのは、あの小乗仏教と言うんか、煩悩滅尽したのを阿羅漢と言うんか。生きながら煩悩を滅尽したのを阿羅漢と称するんやね。 釈尊の当時は、やっぱり煩悩を滅尽するのがいいように考えられておったかも知らん。ところが人間と云うのは、煩悩を滅尽することが出来ないもんやと云うことを見極めたところに、 親鸞があると云うことですね。煩悩滅尽でけんのや。そう云う滅尽出来ん、そう云うものなればこそ、弥陀の誓願があると、こう云うふうに親鸞はうまいこともっていくんやね。 うまいこともってくって、これ本当なんや。

   実は、さっきもここ(福井市・恵徳寺)の住職(三上正広師)に言うとったんやけど、こないだ岐阜県から五十二、三の女の人から手紙が来て、その手紙を読みましたら、 中日新聞に私の「こころの詩」と云うのが毎週出てるんやが、それを読んどるんやと。で、私の本も読んだ、と書いてあったが、その人が、まあいずれ主婦やと思うんやけど、その人がね、 「自分はいいことも思うけれども、思うてはならんことも思う」と。それで「どうしたら思うてはならんことを思わんようになれるのか、そう云う方法を教えてくれ」と言うんや。真面目な人やね。

   それで九章の「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」。これが非常にものを言うんや。人間と云うのは死ぬまで、我――思うてならんことと云うのは、 自我の心。自我と云うのは、いつも言うように、自分の思うようにしたい、自分さえよければいい、自分ひとりしかおらん、自分中心に考える心。そう云う思うてならん心と云うのは、 そう云うことを実行すると家庭が破壊するような心なんでしょう。それは自我の心なんや。そう云う煩悩が起こると、こう云うことを五十二歳の奥さんが「どうしてらこれが起こらんようになるのか」と。

   起こっても差しつかえないんですのや。私もそれと同じや。私も七十過ぎたけれども、今も思うてはならん事を思うんや、と言うて、人前に言われんようなことを思うんやと言うて、 書いてやったら、安心したらしいね。だから、私でも間に合うことがあるんや。これ、冗談でなく、大事なことなんやね。

   「煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」、急ぎ浄土へ行きたいと思わん、と。娑婆がいい、と。これでいいんや、と。そういうことを親鸞が言うとるんやね。 で、急ぎ浄土へ行きたい、煩悩も起こらん、こういうことになったら、弥陀の誓願は必要ないんやないかと、こういう事まで親鸞は言うとるんですね。
   ついでをもって言うとくと、――これ、大事なことやと思うんやけど、外国の仏教学者がね。「浄土真宗は仏教ではない」と言うとるんやと。皆さん、どう思われるかな。 というのは、これは仏教というのは、悟りを求めて難行苦行するもの、それが仏教であるということになっとるんや。そういう目から見ますと、浄土真宗というのは仏教やないと言われても仕方がない。 例えば、これ後の方にあるんやけど、凡夫の身をもって悟りを開くというのは、もっての外やという。これは唯円の言葉やけど、そういう言葉が書いてある 。この、悟りを求めて難行苦行するのが仏教ということになったら、浄土真宗というのは難行苦行せんのや。南無阿弥陀仏と称えるだけで、浄土へ行かれるというので、易行ということになっとるのや。
   易行ということになっとるのです。だから浄土真宗は仏教でないと、外国の学者が考えるのも無理はないと思うな。悟りを求めて難行苦行するのが仏教ならば、 浄土真宗はナンマンダブを称えるだけで浄土へ行かれるのやで、楽なもんや、と。

   親鸞は、仏法と言えば浄土真宗であると、こういうふうに言うとるんですね。私もそう思う。何故そう思うかと言うと、親鸞という人は、人間の裏の裏まで見極めた人で、 それがどうしたら助かるか、そういうことをはっきりさせたんやと思うから、親鸞こそ真の仏法者であると、こう私は考えております。

   私はよく言うのや。悟りを求めて難行苦行するので代表的なものをあげると、禅宗です。禅宗は坐禅して、坐禅して悟りを開くということになると、 あの道元から反対が出て来るんやけど、あの坐禅もひとつの難行苦行であると思う。
   私は公の席でも、禅宗のお寺さんがおっても、はっきり言うんやけど、禅宗のお寺さんでも今は皆、奥さんがあって、子どもさんがあるんですよ。だから私は言うんや。 坐禅しとると、その最中に赤ん坊が泣き出す、と。奥さんがおらん、と。そういう事になったら、放っておかれんやろ、と。坐禅どころでなかろう、と思うんや。

   在家仏法が本当やと思うのは、我々の日常生活が難行苦行である。日常生活が難行苦行であると、こう思うんや。奥さんのご機嫌は取らんならんし、旦那さんのご機嫌も取らんならんし、 子どもの機嫌も取らんならんし、日常生活が難行苦行でないの。それからみたら、坐禅なんか何じゃい、ちゅうんや。

   で、寒修行たらやっとる。滝に打たれるちゅうなことやっとる。法華宗で、ああいうこと、何んや、ただしばらくでないか。ところが日常生活の難行苦行ちゅうのは、 ずっと連続しとるんや。ちっとも休まんのやで。その日常生活の難行苦行を、法蔵菩薩の修行というんだろうと、私は思うんですね。

   昔の説教では、あの法蔵菩薩が五劫思惟(ごこうしゆい)、兆載永劫(ちょうさい・ようごう;物凄く永い)の修行をされて、南無阿弥陀仏を成就して下さった。 我々はそれをいただくだけや。それで易行や、と。何を言うとるんや。勝手な、自分の都合のいいことばっかり言うて、それで言うとる本人は助かっとるかというと、何も助かっとらんのやぞ。 愚痴ばっかりこぼしとるんや。

●無相庵のあとがき
   米澤秀雄先生は、このような日常生活の難問の解決法を示せないから、浄土真宗の門徒、信者は、新興宗教に走るのだとも申されます。では、どうすれば、良いのでしょうか。 米澤秀雄先生は、「仏法と言えば浄土真宗であると、こういうふうに言うとるんですね。私もそう思う。何故そう思うかと言うと、親鸞という人は、人間の裏の裏まで見極めた人で、 それがどうしたら助かるか、そういうことをはっきりさせたんやと思うから、親鸞こそ真の仏法者であると、こう私は考えております。」と本文中に述べられていますが、 どうやら、手掛かりは「人間の裏の裏まで見極める」と云うところではなかろうかと私は考えましたが、『人間の裏の裏』に付いて、少し時間を頂いて、考察を重ねたいと思います。

なむあみだぶつ


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No.1587  2016.08.18『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説―(2)自我の死

●無相庵のはしがき
   法然上人が開祖の浄土宗は、南無阿弥陀仏をとなえれば、死んでから浄土に往生出来る(成仏出来る)と云う教えだと思いますが、法然上人のお弟子の親鸞聖人を開祖とする浄土真宗は、 生きている間に、他力(縁)に目覚め、念仏に目覚めて浄土往生が確定する身となることで、この世での救いを重んじる教えであると、私は考えております。

   考えてみますと、お釈迦様は、死んでからのことは、誰にも分かることではないから、議論する意味は無いとおっしゃったそうですから、私には、浄土真宗の教えの方が、 お釈迦様のお考え方に沿っているように思えます。米澤先生が度々、「仏法が日常生活の役に立たねば、それは仏法ではない」、と仰っておられますから、私はその感化を受けているかも知れません。

   そして、今日の表題である『自我の死』は、歎異抄の第九章で親鸞聖人の言葉の中に、「死んでから行く世界が浄土だ」と受け取られる表現があることを米澤秀雄先生が気にされて、 死とは肉体の死ではなく〝自我の死〟だと考えれば、矛盾は無いとお考えになったが故のことだと解釈しています。

   ただ、歎異抄の著者とされている唯円房が歎異抄第九章を書き残された真意は、浄土が、死んでからの世界か死ぬ前に感じる世界かを明らかにすることではなく、 私たちの日常生活での悩み苦しみの元凶である『煩悩(ぼんのう)』が、実は私たちが救われるキッカケとなる大切なものだと云う親鸞聖人の考えを伝え残しておきたいと云うことだと私は考えます。
   その『煩悩』と云うのは、『欲望』では無く、「自分の思うようにしたい、して欲しい」、「自分さえ良ければ良い、自分が一番大事」、「この世は全て、自分のためにある」、 と云う自己中心的な意識でありますが、厄介なことに、自分では意識していない、いわゆる〝無意識〟の意識なので、消し去ることは出来ないと云うのが、親鸞聖人のお立場だったと思います。 私が思うには、その無意識の自己中心的考えが消えることを、米澤秀雄先生の言われる『自我の死』と言うのではないかと思います。

   ここで、歎異抄九章の原文を改めて、ご確認頂きたいのですが、その原文では、「早くお浄土へ行きたい」と思えないのは、「私は死にたくない、今のままが良い」と云う煩悩の所為であり、 疲れが出たり、お医者さんの診断で、病名を告げられたら、もう死ぬのではないかと、あれこれ思い悩むのも、この世に執着する煩悩の所為であると説かれています。
   そして、更に、念仏をすれば、喜び励む心が湧き上がり、浄土へ早く行きたい、と云うような心になるとしたら、むしろ、「自分には煩悩が無いのではないかしら」と、 心配するべきことなのだとさえ言われています。

   さて、その『煩悩』にどのように対処すれば、私たちの『救い』に転じるのでしょうか。それを〝無相庵あとがき〟で、論じたいと思います。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説―(2)自我の死
   『歎異抄』の第九章には、私として思い出があります。  前に東本願寺本山から『親鸞聖人のことば』と云う題になって『歎異抄入門』と云うのが出てますが、あれはもとはラジオで放送されたもので、一章ずつをいろんな講師が担当して放送した。 それを集めて一冊の本にしたわけで、たまたまその時、私に第九章が当たったわけです。それで非常に私は困った、何故困ったかと云うと、『歎異抄』をお読みの方はご承知のように、 これは死後の浄土になっとる。「力なくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」と、こう言う。「いささか所労のこともあれば・・・・」と云う言葉もあるし、 これは死後の浄土になっておるんですわ。

   ところが、親鸞の考え方は「現生不退(げんしょうふたい)」、「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」であって、それと第九章とは矛盾するのでないかと、私が思いましてね。 それで第九章を扱うのに、まあ読んでみなければ分かりませんけれど、私はちょっと苦労したわけです。

   今度もその第九章、『親鸞聖人のことば』を読み返してみましたけれども、今の考えと変わっておりません。それでまあ、第九章を扱うのに大変都合が良かったのは、 私が禅の書物を覗いておったためだと、こう思いますね。禅の書物を覗いておった時に、禅では「大死(だいし)一番、絶後(ぜつご)によみがえる」と云う言葉があるのや。「大死一番、絶後によみがえる」。 昔からいっぺん死んだら二度と死なんと、こう言うのに、大死一番して息が絶えた後に、よみがえってくるなんていうことは、おそろしい矛盾です。で、これが禅ではまかり通っている。
   ここで一番注意せねばならんのは、「大死」と言うて、大きな死と言う。大きいと云う字を使ってあることですね。これは私、第九章を扱う場合に、この死は自我の死である、と。

   いつも私が申し上げるのは、人間は自我と自己とで出来ておると、こう云うことを言うております。自己と云うものがあるのや。その自己が皆に分からん。で、私は最近、 人間は何のために生まれてきたか、そう云うことを自分でも考えておるし、そう云うことを方々で話しもしとる。何のために人間に生まれてきたか。
   私は医者をやっておりますが、医者になるために生まれてきたんでない。医者をやっとるのはメシを食うためや。何のために人間に生まれてきたか、と、 こう云うことが人間の根本問題であろう。で、この「自己とは何ぞや。これ人生の根本問題なり」と云うことを清沢満之【きよざわ まんし、真宗僧侶、宗教学者、哲学者(1863年 - 1903年)】が言われたが、 何のために人間に生まれてきたか、そう云うことを一般の人は何も考えておらんやね。

   で、何のために人間に生まれてきたかと言うと、自分自身に遇うために、人間に生まれてきたのである、と。 こう私は思うし、そう云うことを教えるのが仏法だと、こう思うとるんや。それが長い間、仏法をみんな感違いしてきたと思うんやね。例えば浄土真宗なら、ナンマンダブをとなえて、 死んで極楽へ行くように、そういうふうに言うてきた歴史があるのや。

●無相庵のあとがき
   救われるためには、自分の『煩悩』に気付かねばなりませんが、私たちは、往々にして、他人の煩悩には敏感であって、それが基で、争いが起こります。国と国の場合には戦争、紛争に発展してしまいます(現在の、 中国、北朝鮮を巡る東アジアの緊張関係は、正に、国(政権)の煩悩がもたらしているものです)。

   他人の煩悩が気になると云うことは、実は、自分の中にも同じ煩悩があるからなので、お釈迦様は、苦しみ・悩みから解放されるには、自分の煩悩を無くさねばならないと説かれました。 しかし、なかなか自分で自分の煩悩を消し去ることは出来ません。お手上げ状態になります。そうすると、最終的には、「煩悩とは何か?、煩悩を持つ人間とは何か?、何故人間に生まれてきたのか?」と、 自問自答が始まります。その事を米澤秀雄先生が、詳細解説の末尾で、『で、何のために人間に生まれてきたかと言うと、自分自身に遇うために、人間に生まれてきたのである、と。 こう私は思うし、そう云うことを教えるのが仏法だと、こう思うとるんや。』と仰っているわけです。

   他の動植物は、煩悩を持たないと思われます。煩悩を持つのは、頭脳を与えられた人間だけだと思います。その人間に生まれて、自分の煩悩と向き合ううちに、 煩悩を処理する智慧に目覚めることでしか、煩悩を抱えながらも、煩悩に依って苦悩することのない日常生活を過せる身とはなれないと思います。

   では、上述した『自分の煩悩と向き合う中に、煩悩を処理する智慧に目覚める』と云うことは、具体的にはどういうことか。これは、祖師方、先生方のお言葉を借りて申し上げるよりも、 拙くはありますが、過去約一年間の私の試行錯誤の経験から申し上げる方が、お伝え出来るのではないかと考えました。
   『煩悩』は誰にもあります。そして、決して消え去ることはありません。私は今も誰よりも沢山の強、しかも根強い『煩悩』を抱えております。しかし、その『煩悩』は、私が作り出したものではなく、 私の祖先の祖先からの遺伝的なものだと考えました。『煩悩』だけでは有りません。私の〝せっかち〟な性格も、また背の低さを含めた身体的なものも、そして、糖尿病も母から受け継いだものです。 そして何よりも、念仏者の祖父そして母から受け継いで、形となったのがこの無相庵だとも考えました。今の私は、私が築いた私ではない事に漸く気付かされました。そして、それは私だけでなく、人は皆、 自分では自分をどうすることも出来ず、縁を引き受けて生きるしかない存在だと思えた頃から、他の人々の『煩悩』や性格、生き様を責める気持ちは失せました。

   否、私には『煩悩』がありますから、責める心は今も持っております。しかし以前と少し違っきたことは、相手を責めるだけではなく、 同時に、同じ『煩悩』を持って生きる者同士でもあるなと思えるようになったことです。
   しかし、人間は油断しますと、直ぐに、自らの『煩悩』に苦しみ悩むのだとも思います。これからは、相手の言動に不快な気持ちが芽生えた時は、直ぐに反応せずに、 時間をおく努力を自らに課したい思っております。

なむあみだぶつ


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No.1587  2016.08.18『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説―(1)原文紹介

●無相庵のはしがき
   お盆を挟んで、10日振りのコラムとなりました。今回から、 『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』詳細解説の連載に取り組ませて頂きますが、 『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第九章』に付きましては、以前コラムNo.1508で、 冒頭部分の一部を引用させて頂いておりますので重複する部分もあるかと思いますが、悪しからず、ご了承下さい。
   先ず今回は、歎異抄第九章原文をご紹介致します。この九章の命題は、煩悩に関する親鸞聖人のはっきりとした考え方を伝えるものです。 お釈迦様がこの世に出られて以降の500年位までは、煩悩は私たちを苦しめるものであるから、難行苦行の修行をして、何とか滅しなければならないと云う考え方だったと思います。 しかし、それは出家したお坊さんなら可能かも知れませんが、家庭を持って生活をする私たちのような普通の者では、煩悩があるからお金を稼ぐし、社会的地位を上げる 努力が出来ると云う考え方を否定出来なくなり、煩悩を認めた上で、心豊かで且つ心平穏生活が営める道はないかと、先師達が求め至ったのが、他力念仏の浄土門だったと思います。

   しかしその道も、口で言うほど容易な道では無かったわけです。その他力念仏の難しさとその難しさを超える道筋を示されているのが、下記の第九章の原文だと私は 思っております。

●歎異抄第九章原文
「念仏もうしそうらえども、踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこころおろそ
かにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころ
のそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろ
うやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞も
この不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろ
こぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いち じょう)
とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえ
て、よろこばせざるは、煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏か
ねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたるこ
となれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがため
なりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか
所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく
おぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで
流転せる苦悩の旧里(きゅう り)はすてがたく、いまだうまれざる安
養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よく
よく煩悩の興盛(ごうじょう)にそうろうにこそ。なごりおしくおもえ
ども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべなり。いそぎまいりたきこころな
きものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこ
そ、いよい大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつ じょう)と存じ
そうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもま
いりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやし
くそうらいなまい」と云々。

●無相庵のあとがき
   次回からの、米澤秀雄先生の詳細解説に付きましては、〝無相庵のはしがき〟と〝無相庵のあとがき〟で、詳細解説の要点を、 一般の方々にも分かり易い言葉でまとめさせて頂こうと考えております。勿論、この無相庵を訪ねて来られる方々は、私が日常生活で出合う極普通の人々では無く、人生を真剣に生きようと ある程度仏法、或いは宗教に関する予備知識を持っておられると思っての表現をさせて頂こうと考えております。

   これまでも、コラムは仏教言葉を極力使わないでおこうとチャレンジしたこともありましたが、途中で挫折して参りました。それは、 ひとえに私の信心が借り物であったからだと思っております。今も、それは決して解消されてはいませんが、ベトナムの禅僧のティク・ナット・ハン師に大いに触発されまして、 本来、仏教徒ではない方々にこそ、仏法が日常生活に役立つ教えであることを発信するのが、無相庵が為すべきことだと思いましたので、今回は出来得る限りの努力を致します。 不安一杯のスタートではありますが、お付き合い下さいますよう、お願い致します。

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No.1586  2016.08.08 『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(4)生きてはたらく念仏

●無相庵のはしがき
   皆さん、一昨日(土曜日;『怒りの炎を抱きしめる』)、 昨日(日曜日;『ひとりひとりがブッダとなる』)の『こころの時代』で、ティク・ナット・ハン師のお姿とお言葉に接しられましたでしょうか。 今回の無相庵コラムは、『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説に戻りますが、米澤秀雄先生が心底から願っておられる仏法のあり方を実際に体現されているのが、 ティク・ナット・ハン師だと云うことが、今回の法話を読まれればお分かりになるものと思っており、絶妙のタイミングとなったなあ、と私は思っております。

●歎異抄第八章原文
 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいに
て行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにて
つくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力に
して、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非
善なりと云々。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(4)生きてはたらく念仏

   我々は生きることの方が大事や。生きると云うことは、大変なことですよ。この世はお互い人をだまさにゃ、生きておられんのや。私、医者やってるけど、相当、人をだましてきたな。 この薬は効くぞと言うて、効きもせん薬あげたりしてさ。だから私は地獄へ落ちる。私は死んでも、葬式なんかして貰わんでもいいんや。枕経なんか、あげて貰わんでもいいんや。枕経あげて、 極楽へ行くと思ったら、大きな間違いやで。

   法名と云うのも、別に必要無いと言っていいと思う。
   法名を拒否した人に、私の知ってる範囲で二人おる。森林太郎(森鴎外)は、「森林太郎の墓と書かれるだけで結構や」と。これは法名を拒否しました。もう一人は、 絵描きであった熊谷守一。これは法名を拒否しました。私は親がくれた俗名のままで死んでいけばいいと、私も法名を拒否する。
   法名と云うのはどう云うのかと言うと、これは天皇陛下のおくり名みたいなもので、今は明治から変わって、明治天皇と云うのは、明治時代の天皇と言うんで、 年号がそのまま天皇の名前になりますけども、昔はそうではなかった。その天皇が一生かかってやった仕事をたたえて、おくり名にしたんですね。神武天皇とか仁徳天皇とか、 そう云う天皇の一代の業績をたたえて、おくり名と云うのをおくった。法名と云うのもそう云うもんであるはずや。

   そんなことでなしに、その人が一生涯やった仕事、これがその人の本命であったと云うことで、法名をつけるのが本当です。ですからその門徒の生活をよく知っておって、 そしてお寺さんが法名つけるのが本当ですね。生きてる間に法名をつけてる人もあるで、私も自分の法名考えて、「牛盗人」と云う法名にしようかと思ったこともあるんや。 「牛盗人といわれるとも、後世者、念仏者と言われるな」と、親鸞さまが言われたそうやから、牛盗人で結構やないか。世の中悪くしたのは私だて。だから法名なんか、結構な法名貰うと、 かえって私は迷惑するわ。

   お経については、この前申した言霊信仰と云うのが日本人にある。言葉と云うものが霊力を持っておると云う信仰を、日本人は持っとる。お経あげるとお経の功徳でと、こう言うんや。 言霊信仰と同じ。それで死んだ者が成仏すると、こう思うんや。何代前の祖先がたたっとるから、お経あげて成仏させないかんとか。そんなことあるかな。皆、死ぬと成仏することは間違いない。 もう迷わんのや。

   私は出来るものなら、生きてる間に成仏すべきであると思う。こう云うもの(コップを示し)はもう迷わんな。人間だけでしょう、迷うのは。物を買う場合にも、 あれにしようかこれにしようか、人間は迷うけど、このコップは何も迷わんな。このお寺に買われてここにおかれると、こわれるまで迷わず成仏しとるのや。こう云うもんで、生きてる人間だけや、 迷うてるのは。死んだら迷わんのや。

   死んでから幽霊になって出るとか、あんなこと嘘やな。霊があると云う考え方も、人間がたたりを畏れる心から出てくるんですね。 それから死んでもいのちがあるようにと云う心から生まれてくるのが、霊と云う考え方であると思う。死ぬと成仏するのは間違いない。皆さんも安心して死なれればいい。生きてる間が大変やで。 生きてますと問題が起こってくるんや。生きてる間の問題に答えられなかったら、仏法でも何でも無いと思うんや。生きている間の問題に真宗が答えておらんから、新興宗教に皆走るんや。 そう云う新興宗教を軽蔑して、しかも生きてる間の問題に答えられんと云うところに、長い間眠ってきた浄土真宗があると云うことです。生きてる問題に答えられねばならん。

   なぜ、○○会とか、○○の教えとかへ行くかと言うと、生きとる問題に真宗が答えてくれんからや。そう云う生きてる問題に答えることが、大事なことであると思うんですね。 そう云う責任を、教化に当たる人が持っとると云うことを、考えなければならんと思うんです。生きとる問題が一番大事でないの。 死んでからはどうでもいいんや。死んでから化けて出ようと思ったら、化けて出てもいいけれども、生きてる間の問題に、根底的に答えるところに、 南無阿弥陀仏があると思うですね。生きてる問題に答えられんようなものなら、何にもならんと私は思う。

   口の中のガンになった、ある人が、まだ生きて居られると思うけど、非常に悲痛な手紙を安田(理深;りじん)先生のところへ出され、安田先生は教学的にこれに答えられた。それで、 その人は納得されたらしいですけれど、私はその人(僧)の手紙を読むと、機の深信がないなちゅうことを、痛感しましたね。自分は顔じゅうガンになって、目の玉もえぐりとられるのでないか、 と云うことを心配しとるんや。そう云うことを心配すると云うのは、機の深信がない証拠なんや。機の深信を説教では言うとったやろ。言うとるけど、自分に機の深信が無いんや。 安田先生はうまく教学的に答えられたけど。機の深信のあった例を言うと、やはり顔がガンになって、顔半分えぐり取られた人が九州にいて、それが、看護婦に鏡見せてと言うても見せてくれんで、 院長先生が回診の時に、見せてくれと言うたら、院長が鏡持って来させて、見せた。自分のふた目と見られん、片っ方えぐりとられた顔見て、 「自分の根性にふさわしい顔になった」――これは機の深信のあった証拠や。お寺さんでありながら、説教しておりながら、自分の機の深信がいかに大切かと云うことを、 その人のものを読んで感じましたね。

   南無阿弥陀仏をただ唱えるのやったら口称の念仏と言うもんで、浄土宗です。南無阿弥陀仏を食って自分の血となり肉となって、南無阿弥陀仏が働くと云うふうにならなければ、 真宗でないと私は信じておる。 皆、南無阿弥陀仏が尊いと言うけど、何が尊いのか。生きて働くと云うのが尊いので、その南無阿弥陀仏が生きて働かなかったら、南無阿弥陀仏の話を聞いておっても、何にもならんではないかと思うんやね。 親鸞と云う人は、生きて働く南無阿弥陀仏を掴みたかったんであろうと私は思うんです。生きて働く南無阿弥陀仏を掴んだところを、信心と言われたんであろうと私は思うんです。 だから親鸞さまの言われた信心と云うのは、特別なものではなくて、皆に仏智に目覚めることさえ出来れば信心であると、こう云うことが言える。

   皆さんはご覧になったかどうか知らんけど、11月30日のNHKテレビに、松本梶丸君と亀井君と、山越初枝さんと云うおばあさんが出ました。そのおばあさんの話に、 皆、感動したわけや。そのおばあさんと云うのは、苦労して南無阿弥陀仏に会うた、一介の市井のおばあさんですよ。ああ云うものは妙好人として褒め称えてはならんと思う。ああ云うのは、 掃いて捨てるほどあるはずやと私は思う。妙好人なんて言うと、特殊な人間のように思われて、そう云うことになってはいかんと思う。掃いて捨てる程の人々を生み出さなければ、浄土真宗でないと思う。 誰の心にも仏智があって、誰の心にもある仏智を目覚ましめるような、そう云う浄土真宗で無ければ、何万門徒があると威張ったって、何にもならん。それよりも一介の市井のおばあさんの中に、 その念仏が生きとると云う方がはるかに大切なことだと思う。

   教育の核心と云うのは、仏智を目覚ましめる、このことこそ人間教育の核心だ。人間は皆メシ食っていかねばならん。そこでメシを食うための教育、学校教育と云うのは、 メシ食うための教育ばかりやるようになる。その成果がどうなったかと言うと、親を金属バットで殺すような、そう云う者が出てくるのです。あれは真実の宗教教育を疎かにしてきた罰が当たっていると思う。 ああ云うのを見ても、真宗の者が何ら反省しなかったら、これは浄土真宗でないと思う。あれは我々の責任であると、こう云うふうに考えてもらわねばいかんと思う。

   昔は儒教があったんや。徳川時代には儒教があって、明治まで儒教が生きておった。儒教と云うものは、人間を、人格を形成する根本になっておったんや。ところが、 大正・昭和になってから、そう云うものがなくなってしまった。仏法と云うのは、民間の一つの信仰くらいに考えておるでしょう。そう云うことが間違いのもとや。 儒教のような人間形成の根本になるようなものが、今日ないんです。今の学校教育と云うのは、点数がよければいいと云うような教育や。点数がよければ大学へ入って、そんなものが人間教育やったら、 お粗末なもんでないかと。

●無相庵のあとがき
   米澤秀雄先生は「死んでからはどうでもいいんや」と、随分思い切ったことを仰り、そして「生きてる間の問題に答えられなかったら、仏法でも何でも無いと思うんや」と、 今回の法話で持論を徹底的に説かれておられます。ご自身が日本国中ご講演に赴かれ、その持論をお説きになって居られたことは間違いございませんが、やはり、 浄土真宗の本家本元(本願寺)が旧態依然としている限りは、ご自分の講演活動も〝焼け石に水〟だと歯がゆい思いを抱かれておられたのだろう、と、私は推察しております。

   浄土真宗はこれまで、妙好人を尊い存在として紹介してきました。それに加えまして、本願他力の教えは易行難信だとして、「国に一人、郡に一人」と、 信心獲得の困難性が伝えられてきました。この言い伝えも、全くおかしいではないかとの米澤秀雄先生のご批判は尤もだとも思います。

   ティク・ナット・ハン師の番組を見ても、多分、浄土真宗の教団の方々も、末寺のお寺さんたちも行動を起こされないと思われます。それは、 伝統に基づいた色々な行事・慣習を変革することは、法名の付与や枕経読経、或いは葬儀などの法事のあり方を見直すことにもなりかねません。それは、お寺さんにとりましては、 経済的リスクが伴うことでございますから、無理からぬことではないかと想像するからでございます。
   それに反しまして、幸い在家である私は、医者で生計を立てられていた米澤秀雄先生と同様、経済的リスクはございませんので、この機会に心をすっぱり入れ替えまして、 『機の深信』とか、『自然法爾』、『煩悩具足の凡夫』など、一般の方々に難解な言葉ではなく、ティク・ナット・ハン師のように、 分かり易い言葉でお釈迦様や親鸞さまの仏法の大切なところを伝える工夫をして、この無相庵から発信したいと思います。

    どのように進めればいいか、しばらく考えさせて頂きたいと思っていますので、無相庵コラム更新は、来週の盆明けからになるかも知れません。

なむあみだぶつ


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No.1585  2016.08.04怒りの炎を抱きしめる(訂正追記、編集有り、土曜日再放送有ります)

   今週の日曜日(7月31日)のNHK「こころの時代」で、放送されたのが、『怒りの炎を抱きしめる』と云う題で、ベトナムの禅僧、 〝ティク・ナット・ハン〟(Thich Nhat Hanh 釈一行、1926年10月11日 -、現在90歳 )氏の色々な場面でのお言葉を紹介したものでした。
   〝ティク・ナット・ハン〟氏は、世界的にも著名なキリスト教の〝キング牧師〟が、その〝ティク・ナット・ハン〟氏をノーベル平和賞受賞候補者に推薦した程の禅僧です。私は、 その〝ティク・ナット・ハン〟師を今回の「こころの時代」で初めて存じ上げました。これぞ、お釈迦様の仏法を、私たち現代人に分かり易い言葉で説かれる希有な、 お釈迦様の生まれ変わりと申しても良いお坊様だと、非常に感動を覚えました。また、親鸞聖人が晩年に説かれた『自然法爾(じねんほうに)』(人為を捨て、ありのままにまかせること。 )の教えそのものであるとも思いました。 今回は、この『怒りの炎を抱きしめる』の放送内容を、先ずはご確認頂きたいと思います。 きっと、〝抱きしめる〟と云う本当の意味をお分かりになり、「あゝ、そうだったんだ。日常生活で繰り返し湧き上がる怒り、不安、不信の煩悩を抱きしめよう!」と、思い直されるものと思います。そして、 悩ましい日常生活に生きる仏法を実感されると思います。
   今週の土曜日(8月6日)に再放送されますので、〝ティク・ナット・ハン〟氏のご表情と共に拝聴して頂きたいものです。    

なむあみだぶつ

追記
   実は、『怒りの炎を抱きしめる』の放送は、昨年の4月15日に為されたものでしたが、私は何故か見ておりませんでした。 ただ、その時の私が、今回程の感動を得ていたとは限りません。私たちの心身は刻々と変化しており、法話を聴きましても、聴く度に受け取り方が異なる事は、皆様もお気付きの事と思います。


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No.1584  2016.08.01『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(3)陽光の草、日陰の草

●無相庵のはしがき
   私たちは無意識のうちに、自分の力で、自分の意思と努力で生きていると思い込んでいます。でも、日常生活で思う通りにならないことが多いのではないでしょうか。それでも、やはり、 これまで通り、何とかしようと、目の前のこと、明日の事をどうしようかと、これまた無意識のうちに、頭脳をフル回転させています。そして、人生はこの繰り返しで空しく過ぎてしまうのではないでしょうか。

   今日の米澤先生の法話は、「釈尊が悟りを開かれたのは、縁起の理を覚られたと云うことです。この〝縁起の理〟を短い言葉で表わすと、南無阿弥陀仏になるということです。また、 宿業を引き受けて生き抜いている姿を、南無阿弥陀仏と言うんです」がポイントだと思います。草木は、草木自身が、自身が生える場所を選べません。その草木の宿業だと云うことを称しての今日の表題、 「陽光の草、日陰の草」だと思います。他の動物たちも植物たちも、あらゆる生き物は宿業を引き受けて、ありのままを生き抜いていますが、人間だけが、宿業を素直に引き受けられません。 それは、高等な頭脳を持ったが故に、でしょうか・・・?

●歎異抄第八章原文
 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいに
て行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにて
つくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力に
して、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非
善なりと云々。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(3)陽光の草、日陰の草

   それから、念仏と云うのは、口で唱える念仏と言うよりも、我々は念仏の中に生きているのやと、南無阿弥陀仏の中に生きとる。太陽でも何でも、皆、南無阿弥陀仏しとる。 つまり、皆宿業を引き受けて生き抜いている姿を、南無阿弥陀仏と言うんですから。私が言うのは、釈尊が悟りを開かれたのは、縁起の理を覚られたと云うことですね。 この縁起の理と言うのを短い言葉で表現すると、南無阿弥陀仏になると言うことです。 太陽は太陽の業を引き受けて、東から西へ沈む。そう云うことに飽きもせず、毎日繰り返しておる。これ太陽が南無阿弥陀仏している証拠である。春になると芽が出て、夏に茂って、秋になって葉が落ちる、 枯れ木になって枯れてゆく。これが草や木の南無阿弥陀仏であると、こういうことですね。だから皆、南無阿弥陀仏の中に、我々が生かされて生きておる。こう云うことは間違いない。 それを大行(たいぎょう)と言うわけです。大行と云うのは、南無阿弥陀仏。事実、真実が南無阿弥陀仏、それが大行であると言うことですね。大行のほかに何もないと、こう云うことです。

   ある人が、京都の禅宗の寺の管長が、テレビで話しをしとったのを見たと。それが生死一如(しょうじいちにょ)と云うことを言うた。 対談している相手が生死一如をもっと詳しく分かるように言ってくれと言うたら、これ以上言うたら哲学になるから、もう言わんと言うて、止めたという。――と云うことは、管長自身は分かってるんやろ。 分かってるんやろけど、それを伝えることは出来んのや。方法が無いんです。

   禅宗のお寺でも生死一如、つまり法性法身を悟るんや。悟るけれども、それを伝える方法が無い。それを伝える方法があると云うところに、浄土真宗の本当の値打ちと言うか、 尊いところがあると思う。南無阿弥陀仏と云う言葉で、法性法身と通ずると云うことです。法性法身と云うのは親鸞も書いとる。「無上仏というは色も形もなくまします」と、こう書いております。 無上仏と法性法身と、同じことなんや。と云うことは、法性法身というのは、離言の法性と言うて、言葉を離れてると。言葉を離れてるから、言葉で表現することが出来ん。出来んけど、分かる能力は皆、 持っとるのや。その法性法身が分かる能力を「仏智」と言うんですね。人間を超えた智慧、その人間を超えた智慧が、人間の全てにあるのや。だから、そう云う仏智は目覚めるか目覚めんかの違いであって、 学校教育はどう云うことをやっているかと言うと、人間智と言うか、世間智と言うか、これを発達させるために学校と云うのはあるんやね。

   それから、こう云う仏智を如何にして目覚めさせるかと云うことが、真実の宗教の問題であって、仏法の問題であって、真実の仏智を目覚ますことが出来なかったら、 そんなものは真宗でもなければ、仏法でもないと、こうまで言うて差し支えない。

   で、釈尊が悟られた縁起の理を、一言で表すと、南無阿弥陀仏になると云うことですね。だから、南無阿弥陀仏の中に、全部宇宙が収まってしまうと、こう云うことを言われるのは、 法螺でもなんでもない。現象の本質を言い当てた言葉である、こう云うことですね。 だから南無阿弥陀仏さえあれば、どんな苦労にも耐えていける。「日の当たるところに生えるもあれば、北の方の日の当たらぬ所に生える草もある」と、言うてきた人がいますが、その人も、 日の当たらん北の方に生える草のようなもんや、今は。昔はよかったんや。昔はご主人が繊維会社を経営して、悠々としてやっておったんや。その時にも私が岐阜と愛知行くと、来ました。 それでもその時に「あんた韋提希夫人(イダイケブニン)や」と私、言うてやった。

   韋提希夫人と云うのは、頻婆娑羅(ヒセンバシャラ)王と云うご主人が釈尊に帰依して、釈尊を招待して仏法を聞いておった。ところがお相伴で聞いておったんやね。 無責任に聞いておったんや。教養として聞いておった。そう云う仏法の聞き方とか、仏法書の読み方と云うのがあるわね。教養として聞いとる。何も自分は切実に求めてないのや。教養として聞いとる。 そう云うのがあるんです。結構な話やと思うて聞いとる。しかし日常生活の中に何も生きておらなかったら、そんなもん聞いてないのと一緒でないかと思うんや。

●無相庵のあとがき
   先週の土曜日(7月30日)の神戸新聞に、坐禅が人気だと云う特集記事が載っていました。『ストレス社会 坐禅人気ー女性に子供、近年は管理職も』と云う見出しがありました。 そして、米アップル創業者(スティーブ・ジョブズ氏)ら著名な実業家や、米大リーグのイチロー選手らが坐禅を取り入れて大成功しているが故に、禅の心を〝逆輸入〟しているのだと云う表現もありました。
   また、国内外に禅を広める活動を続けておられる曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんが、「成熟社会を迎え、将来への不安やストレスを抱える人が増える中、 物や事にとらわれないシンプルな生き方が求められているのでは」と指摘されているとか、そして、「単なるゲームに終わらせないよう、 本来の意味を踏まえた魅力を示していかなければ」とも仰っているとも述べられていました。

   では、その〝本来の意味〟とは何でしょうか?私が長くご指導頂いていた、曹洞宗の故西川苔台老師は、坐禅を究められた方でしたが(坐禅している時は無我になれたと)、 日常生活に戻ると人間関係で悩ましくなったと、坐禅が、日常生活にそのまま役に立つことは難しかったと言って居られました。30年以上も坐禅された方のお言葉です。それに比べ、週に一回位の座禅で、 「心が落ち着き、また明日からも頑張ろうと思える」としても、それは、法話をお相伴で聞いているのと同じであって、お相伴で坐禅していると云うことではないかと、私は思いました。

   日常生活に仏法が生きて働くようになるには、日常生活の場面・場面で自分の心に湧き上がる煩悩の炎を燃え上がらせている大元の芯の正体に興味を持つことこそが、 途中下車にならない仏道だと私は思います。

なむあみだぶつ


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No.1583  2016.07.28平和を考える、識者に聞く――テロの根は信仰より社会

●無相庵のはしがき
   このコラム作成中に、神奈川県相模原市の精神障害者のケアー施設で、19人の殺害と、20人を越える重軽傷者が出る事件が報じられました。 はっきりした動機は未だ明らかになっていませんが、海外のテロ事件との違いは、殺害の手段が刃物か銃かの違いで、人生に挫折した若者が人生の意味を身勝手に作り上げた末の、 確信犯な凶行としか思えません。また今週は、私みたいな年老いた者からすれば、世の中が大変なことになると思われる、ポケモンGOって言うんですか、人類の一番大切な他への配慮を、 人間の価値観から排除し否定するスマホゲームが爆発的流行になりました。
   そんな日に、神戸新聞朝刊に掲載された、信仰に関連する表題の記事に目が止り、今回のコラムは、『歎異抄ざっくばらん』の詳細解説を中断して、 皆さまと共に宗教・信仰に付いて改めて考えてみたいと思った次第です。
   その記事の序文に、『冷戦が終結し全面戦争の脅威が薄れた世界に、イスラム教などの宗教が絡む「テロの時代」が到来して久しい。人々を救済するはずの宗教が、 残虐な大量殺人に結び付くように見えるのは何故か。宗教学者の島田裕巳さんに聞いた。』と、あります。

   島田裕巳(しまだひろみ):1953年東京都生まれ。宗教学者、東京女子大非常勤講師。東大大学院博士課程修了。日本女子大教授などを歴任。 「宗教消滅」「日本の10大新宗教」など著書多数。

   相模原の大量殺害事件を他人事と考えてはならないと思いますが、他人事と受け止めている自分に気付き、私自身、大いに反省しています。 精神障害者ケアー施設の職員の大変な実態も、我が子を障害者ケアー施設に預けねばならない親御さんの生活の実態を、私は全く知りませんでしたし、 思いも及びませんでした。テロにせよ、今回の相模原の事件の根は、私を含めた社会の一人一人が、世間に沢山存在している、いわゆる弱者への無関心が一番問題だと思います。 その事が、信仰と無関係か、社会のあり方に関係するかに付きましては、無相庵のあとがきに譲りたいと思います。

●記事本文から(取材記者との一問一答形式となっている)
――新著「殺戮の宗教史」で、世界は宗教の激動期に入ったと説いた。
   「経済のグローバル化に伴って先進国で共同体の解体が加速し、共同体を基盤とする宗教、特にキリスト教の力が急速に弱まっている。他方、全世界的にはイスラム教徒が増加を続け、 近い将来、キリスト教を抜いて世界最大の宗教になる勢いを示している。世界は今後、無宗教圏とイスラム圏に二分されていこうとしていると言っていい」

――昨年来、フランスやベルギーで相次いでいるテロとの関連はどうか。
   「欧州では戦後、経済成長を支える労働力として、アフリカなどのイスラム教国から大量の移民を迎え入れてきた。しかし、近年の世俗化(無宗教化)により個人主義が強まり、 異質な他者を理解し受容する懐の深さが失われる中で、イスラム教徒たちは社会から疎外され、経済成長の恩恵にもあずかれず、不満を募らせている。その意味で今回のテロは、 世俗化とイスラム化が交錯する欧州を象徴している」

――欧州では移民排斥を叫ぶ極右勢力も支持を伸ばしている。イスラム教は危険な宗教なのか。
   「そうは思わない。テロリストは信者のごく一部にすぎず、その信仰は総じて浅薄だ。高度化する資本主義に不当に抑圧されている同胞の社会的な苦境がまずあり、 正義感や使命感に燃えたいちずな若者たちが『神の意思』を大義名分に凶行に及んでいる。テロは個人の内面の信仰ではなく、社会を映し出している」

――各国の若者が戦闘員になっているとされる過激派組織「イスラム国」(IS)をどうみる。
   「資本主義社会の堕落を糾弾するISの原理主義的な主張には一定の訴求力があるが、彼らの凶行はイスラム圏も含めて世界的に非難されている。 社会的支持のないテロリズムは長続きしない」

――しかし宗教は、中世の魔女狩りや十字軍から最近の過激派のテロまで、実に多種多様な殺りくを生み出してきた。
   「確かに宗教は、共同体内の争いを調停し平穏を保つ一方で、時に外部に敵をつくることで仲間の結束を図ってきた。善悪、正邪、聖俗などの一元論で対立や戦争をあおってきた」

――とすれば、宗教がなくなれば平和になるのか。新著では、世界が将来的に無宗教化する可能性も示唆している。
    「先進国の宗教離れに加え、新興国の発展の歪みを受け止める形で伸びてきたキリスト教原理主義の福音派も、経済成長の鈍化とともに勢いに陰りが見える。 グローバル化するイスラム教も、やがて資本主義に迎合して宗教色を薄めるだろう。ただ、それで平和になるかどうか別問題だ」

――何が問題か。
    「同類を殺す動物はヒトだけだという。つまり人類は、互いに殺し合う本性の暴走を防ぐために、宗教という『歯止め』を考案し、時に暴走を許しつつも何とか生き延びてきた。 無宗教化は社会から規範が失われることを意味する。神の声が消えた社会で、人々は共存共栄に向け新たな規範を生み出せるのか、楽観は許せない状況だ」

――日本はどうなる?
    「高度成長期に弱者の受け皿として急成長した立正佼成会やPL教団、霊友会などの新宗教が近年、軒並み信者を減らしている。既成の仏教や神道にも衰退の兆しがある。 日本でも世俗化が加速しているのは間違いない」

――欧州と同様に非寛容で攻撃的な社会が到来するということか。
    「その可能性はある。ただ全知全能の唯一神が消滅する欧州と違い、災害が多発する現実を宿命と受け止める日本人の一般的な宗教観は、融通無碍と言える。その分、 世俗化の衝撃も欧州ほど激しくないかもしれない」

――いずれにしても宗教を抜きに未来を語ることは出来ないようだ。
    「その通り。人類が創造し、人類が制御出来ないほど巨大なリスクを内包している点で、宗教と原子力は似ている。老朽化した核兵器や原発の廃絶が簡単でないように、 宗教が力を失い、教団が消滅し、信者が絶滅したとしても、殺りくが刻印された教義や歴史は長く残る。それをどう扱うのか。世界の命運は、他でもない、私たちの手に委ねられている」     (聞き手は共同通信記者・山下憲一)

●無相庵のあとがき
   相模原で起きた大量殺人事件は、世界で頻発するテロが無差別殺人であるのに反して、特定の人々に狙いを絞って起こしたもので、現象的には、予告していたことと、 犯行直後に警察に出頭した自爆的行為も、テロと酷似していると思います。そして、私は、彼にこの事件を起こさせるべく追い詰めたのは、人生の挫折感と、その挫折感の裏返しの自己顕示欲では無かったか、 と思います。島田裕巳氏は、テロの根は信仰ではなく社会だと断定しておられるけれども、我々人類は、これまでの宗教・信仰に(その歴史も含めて)大きな問題があったと考えねば、 テロリスト組織がもし核兵器を手に入れたら、テロで世界、地球、人類は不幸な結末を迎えかねないと考えました。

   島田氏が言う、○○宗教とか、○○主義そのもの自体に問題があるのではなく、その宗教の教えとか主義に従ってと言いますか、 それを利用する人間そのものに根本的な問題があると考えねばならないのではないかと、私は考えます。
   昨今の「政治と金」の問題もそうです。幾ら法律を完璧に致しましても、「自分の思うようにしたい、自分さえ良ければいい、世界の全ては自分一人の為にある」と云う自己中心の煩悩に、 問題があると、私たち一人一人が、気付き、目覚めない限り、法律だけでは、解決しないと思います。

   私と、相模原の犯人とは、全く同じ煩悩、つまり上記した「自分の思うようにしたい、自分さえ良ければいい、世界の全ては自分一人の為にある」と云う執拗な思いを持っています。 それは、今、絶頂期にある安倍総理も同じ煩悩を持っている事は間違いないのです。犯人を取り調べている刑事、検察官も全く同じです。偶々、そのような環境に生まれなかった、 偶々今までそのような挫折に遭遇しなかっただけだと皆が目覚めることがなければ、今回の事件も、テロも私たちは防げないと、私は思います。

   結論を申しますと、テロは一神教(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)の欧米社会とその信者が多い国々で起きている事実はありますが、一神教そのものに問題があるのではなく、 教化者と信者自身が、何を宗教に求めているかにかかっていると思います。人間には、自我があります。 その「自分の思うようにしたい、自分さえ良ければいい、世界の全ては自分一人の為にある」と云う自我を満足させることがテロの目的だとすれば、それは、宗教の目的では無いのですから、 信仰とは関係無い行為だと断じていいと考えます。

   テロの根は信仰にも、社会にも無く、人間の自我にあると云うのが、無相庵の結論です。

   ここまで述べて来まして、ふと、信仰と社会を対立的に取り上げること自体、どうなのかな?と思いました。社会とは、信仰も、そして、 政治、経済、文学、医療の歴史も全て含んで現在の社会があるのではないかと思うのです。そう云う意味を込めて島田氏が「テロの根は信仰より社会」と仰ったとしたら、私の批判は当たらないなと、 考えた次第であります。そして、テロ、そして今回のような事件を起こさせない唯一の対策は、世界の一人一人が、自分の隣近所、自分の親族の中で孤立していたり、不幸な状況にありそうだと、 気になる人が居たら、声かけして家に呼んで話を聞いて上げたりして、「あなたには無関心で無い人間も居る」と云うことを伝えることでしか無いと思っています。私は、昨年末頃から、 親族、知人友人に対してそう云う努力しています。ただ、隣近所とは希薄な関係にあるからでしょう、目立って悪い状況にある人が見当たりません。

なむあみだぶつ


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No.1582  2016.07.25『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(2)庭と語り雀と話す

●無相庵のはしがき
   「庭と語り雀と話す」と云う心境は、言わば〝悟りの世界〟の心境だと思われます。それはなかなか私たちが至り得ない境地のように思われますが、今回の主人公(倉田しずえさん) のお母様が至られたご心境なのです。そのお母様は、真宗の、多分親鸞仏法の法話を30年間聴聞されて念仏三昧の人となられた、尊い、しかも市井(しせい)のおばあちゃんです。 その市井のおばあちゃんと云うところが大事であると、米澤秀雄先生はお考えになられての今回のご法話です。真宗ならばこそ、誰でも、そのような心境に至れると云うことを仰りたいのです。

●歎異抄第八章原文
 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいに
て行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにて
つくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力に
して、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非
善なりと云々。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(2)庭と語り雀と話す
   今日申すことは、従来の教学からは違うでしょう。私の言うことは、徹頭徹尾、従来の教学と違うだろうと思うんです。やがて大谷派からも排除されることになる。 排除されてもいいんです。私は医者をやってるので、お粥すすってもやっていけるから。これにすがらねばならんと云うことはない。ただし、生きる姿勢、生きる心の支えと云うものは、 やはり念仏であると思うんですね。それだけは自分自身のためにも、明らかにしなければならんと思うております。

   行者のために非行非善といった、――行者と云うのは念仏の行者ですけれど、念仏の行者と云うと、念仏をしょっちゅう唱えている人のように思われるけど、 私は念仏を心の支えにして生きておる、生活者のことであるととっております。生活者、生活者が非常に大事なので、親鸞がなぜ越後から関東へ行かれたかと言うと、生活者にじかに接して、 生活者に本願の念仏を伝えたい、そう云う心から関東に行かれたと思うんですね。生活者の中に入り込んで、生活者に人間に生まれた喜び、そう云う誇り、 そう云うものを伝えられたのであると信じております。

   ところが、お寺に生まれた者の最大の不幸は、はじめから念仏の中に育っておるので、念仏を有り難いとも思わずに育っておるから信心がないから、 今日までの真宗は駄目だったんじゃないかと思うんです。
   これは松任(石川県松任市)の人らしいけど、「母は生きている」と云う題の文や。倉田しずえって、女の人やな。

   『私の母は、正直な人のよい、世間ずれのしない人でした。若い時から働いて働いて、腰を伸ばす間もなく働いた人です。祖父は厳しい方でしたから、父も母も大変苦労しました。 私もよく叱られました。父は昭和25年10月に無くなりました。それから母は少し変わりました。仕事はよくやりましたが、お寺参りするようになりました。腰がひどく曲がっていたので、 息子に自転車やバイクに、自動車に乗せて貰い、どんな忙しい時でも、お寺参りは欠かしませんでした。息子も黙って送り迎えをしてあげたようです。母は昭和53年12月、84歳でこの世を去りました。 母は30年ほど聞かせて貰ったわけです。『お文(ふみ)さま』(蓮如上人が浄土真宗の教義を説いて門徒に与えた書簡80通を選んで編集したもの)は暗記していました。亡くなる5年前頃より体が弱くなり、 仕事も出来なくなってから、念仏三昧の日々を暮らしていました。たまに私が行くと、喜んで「お前さん、ようござったのう。今は誰も居らん。皆田んぼや。おら一人や」と言い、茶の間の窓際に坐り、 庭を眺め、「雀と話しとったがやあ」と言う。花咲けば美しく咲いてくれたと喜び、草木雀猫、あらゆるものの生命を感じ、友としてこれらと話合っていたのだと思います』
   こう云うのを念仏三昧と言うんだね。念仏三昧と云うのは、ナンマンダブ、ナンマンダブ言うてるのが念仏三昧でないんや。花や雀や、そう云うものと、話が出来るのが、念仏三昧です。

   『私も本を少し読み始めていたので、話し相手をしたら喜んで「お文さま」を一、二ずつ聞かしてくれました。帰ると言うと、「また、ございのう」と言ったのに、 私は孫の守りであまり行けなかったのが、今くやまれてなりません。生きている間は、そんなにも思わなかった母が、月日が経つにつれ、だんだん心の中にやきつき始め、今日までの60年の間のことが、 回り燈籠のように見え隠れしています。年老いて小さくなり、背を丸め、念仏三昧の姿が、私のいのちのある限り、南無阿弥陀仏を聞かしてくれるでしょう。
   ついでに私のことを少し書かせて下さい。昨年10月21日でした。私ども、妹、弟、夫婦は母のお骨を抱いて、京都の東本願寺の納骨所に行きました。 休憩所の柱に「人間に生まれた限りは、どうしても会わねばならぬ人がいる。それは私自身である」と書いてあるのを見て、手帖に写してきました。それから色々と苦しみながら、自分を見ようとしたが、 なかなか見えませんでした。ある朝2時頃目がさめ、ひょいと自分と云うものに気が付き、あまりのことに恥ずかしく情けなく、仏さまのお顔も拝めず、人さまにも会うのも辛く、生きていられない程、 苦しみ、悩みが続きました』

   こう云うことが大事なことや。そこで初めて我が身に遇うたんや。恥ずかしくて、仏さまのお顔も拝めん、人にも会えん、そう云うお恥ずかしいものに遇わなければ、 私に遇うたとは言われんのや。
   『でも今はとても静かに、お念仏がひとり口に出ます。ああ、勿体ないことです。私一人でない、親鸞さまも一緒だと聞こえてきます。目をうるませ、勿体ないと合掌することが、 日に幾度かあります。これもお母様のお陰と喜んでいます』

   こう云うことが書いてある。これを何故私が読みたかったかと言うと、苦労と引き替えや、と。この人は別に苦悩がないようやけど、自分自身の姿を見ると、まことにお恥ずかしくて、 人前にも出られん。そう云う自分に遇うと云うことが、本当の自分自身に遇うたことであるし、本当の念仏に遇うたことや、と云うことを言いたかったために、こう云うのを読んだわけですね。

●無相庵のあとがき
   倉田しずえさんも、お母様と同様に、念仏三昧の念仏者となられたのは凄いことです。しかも、ある時〝ひょいと〟なのです。

   何故〝ひょいと〟そう云うことが起こるのか知りたいものですが、米澤先生に言わせれば、「自分の思い通りにしたい、自分さえよければよい、 世界の全ては自分一人のためだけに存在する」と云う自己中心的な心を自分の内に気付いた時が、〝ひょいと〟自己に目覚めた時だと仰います。そして、それを浄土門では、『機の深信』、つまり、 己れの罪悪深重、煩悩熾盛なることに深く思い至った瞬間として、重要視致します。

   それならば、私も、昨年末のいつ頃だったかは定かではありませんし、〝ひょいと〟と云う感覚も覚えておりませんが、 過去の自分の辿った人生の節目節目で自分が選択した時の心の裡にあったのは、まさに自己中心、自分のことしか考えなかったことに思い至り、卑怯な男だった、情けない男だったと思い、 これからの人生は決して長くはないけれど、誠心誠意、他の人にも、自分自身にも恥ずかしくない生き方をしようと決意したと記憶しています。 今思いますと、それからは、ビジネスに於きましても、私生活に於きましても、これまでと何処か違った人間関係の景色が現じているように感じています。

なむあみだぶつ


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No.1581  2016.07.18『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(1)途中下車の宗教

●無相庵のはしがき
   歎異抄第八章は、お念仏が生まれたのも、人間の仕業ではなく、また、私が念仏に出遇い、念仏を称えるようになったのも、私が聞法に努力したからでもありません。 全ては、私を超えた〝はたらき〟、すなわち他力に依るものでありますから、非業非善だと親鸞聖人が仰ったのですね。私たちは、良い結果が得られた時は、常に自分の手柄にしたがり、悪い結果の時には、 他の所為にしがちですが、全ては、他力で生じた結果であります。ある意味で無責任の考え方のように思われるかも知れませんが、そうではなくて、 この世が自分中心に回っていると考え違いをしている自己に目覚められた親鸞聖人の自分自身への戒めとして言い残された考え方だと受け取りたいものです。

   今日の『途中下車の宗教』と申しますのは、浄土真宗以外の全ての宗教・宗派の教えを指して名付けたものです。言い換えますと、人は最後は親鸞聖人の教えに行き着かざるを得ない、 宗教の終着駅だと云うことなのですが、また、米澤秀雄先生は随分思い切った、思い上がったことを申されたものだと、私は思いました。しかし、親鸞聖人の教えを自ら証明者として体現された方なればこそ、 宣言出来たのでないかと、思います。
   「真宗の欠点は、自分で努力せずに、努力の限界を見きわめずに、努力はいかんと言うとる連中が多いと云うことやね。これが根本的な間違いであると思う。努力の限りを尽くして、 その限界まで行ってみんことには、努力が無効と云うことが分かるはずがない。自力の限りを知って、初めて他力に帰すると云うことがあるんですよ。」の〝自力の限りを知って〟 と云う意味を我が身に引き当てて、吟味したいと思います。

●歎異抄第八章原文
 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいに
て行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにて
つくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力に
して、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非
善なりと云々。

●『歎異抄ざっくばらんー歎異抄第八章』詳細解説―(1)途中下車の宗教
   第八章は、念仏は大行であると云うことを説いたところで、短いところですけれども、私は大事なところだと思います。
   ところが大行と言うだけで、大行と云うものはどう云うものか、分かっておらんのでないかと、私は思うんですね。大行と云うのはどう云うことや。大行と言うと、 非常に我々から離れたところにあるように、考えているんでないかと思う。雑草が一本生(は)える。これが大行や。そう云うことが分からんのや。雑草が一本一本生える。人間は、雑草一本作ることは、 全然出来んのや。雑草一本生えるのは、不思議な〝はたらき〟なんで、人間を超えた〝はたらき〟が、皆、大行なんですね。だから宇宙中が南無阿弥陀仏である。と言えるんです。 宇宙中が南無阿弥陀仏で、その南無阿弥陀仏の中に、我々が生きてるんや。誰か自分で生まれようと思っても、生まれたものがあるかと言うんや。

   だからこれは、我がはからいでないと云うことは、まことに私が生きてると云うことが、我がはからいでない一証拠であると思うんです。宇宙中が南無阿弥陀仏やで、 全部南無阿弥陀仏の中の出来事であると、こう云うふうに見きわめたところに、親鸞の宗教があると、私は信じております。この世で何を信じておろうと、創価学会を信じておろうが、 南無阿弥陀仏の中におることは、間違いないんや。だからどんな人も、軽蔑することは出来んのや。途中下車して、そこが本当の駅やと思うてるだけの話や。 真宗と云うのは終着駅。終着駅を見きわめたのが、親鸞であると思うんです。途中下車を本当の駅と思うとるのや。気の毒やけど、憐れむことは出来んのや。みんな途中下車をやって来たのやで。 で、自分の昔の姿やなと思う以外、ないと思うんです。だから誰も軽蔑出来んのや。そう云うものを軽蔑したら、大きな間違いでないかと思うんです。

   私はなぜこう云う強いことを言えるかと云うと、私の言うたことで目が覚めて、そう云うことを諸仏称名と言うんですけれど、諸仏称名と云うのは証明者があると云うことですわ。 十七願に諸仏称名の願と言われているけど、南無阿弥陀仏が本当であると云うことの、証明者がなければいかんのや。いくら南無阿弥陀仏が本当やと言うても、 自分でそれを真実であることを証明出来ないと駄目だし、自分以外の者でも、南無阿弥陀仏が真実であると云う、証明者がでてこなければならんと、私は思う。諸仏称名、その諸仏と云うのは、 南無阿弥陀仏が真実であると云うことの、証明者であると思うんです。その証明者を生み出すのが、真宗の教えだと思うんや。私は真宗に学者はいらんと思うんや。学者よりも真実の教化者と云うのか、 自分で南無阿弥陀仏が真実であると云うことを、自分自身証明した人によって、南無阿弥陀仏は広まって行くものやと思うんや。 先月は、儒教とか老子・荘子の話を致しましたけれども、親鸞と違うところは、先月もうしたように、親鸞は儒教を否定しているけども、儒教でも老子でも荘子でも、 狙うているところは間違いないけれども、それに到達する道がない、方法がない。 南無阿弥陀仏と云うのはその方法を見つけたと云うところに、非常に素晴らしいところがあるんだ。だから儒教と云うても、狙うているところは一つなんです。「誠は天の道なり、 これを誠にするは人の道なり」――こう云うことが儒教の根本にある。誠は天の道なり――親鸞も言うとる、真実と。ところが真実、これを誠にするは人の道なりと云うことで、 修養と云うことが始まる。修養と云うのは努力です。人間の努力や自力です。努力が始まるのや。 よく、真宗の欠点は、自分で努力せずに、努力の限界を見きわめずに、努力はいかんと言うとる連中が多いと云うことやね。これが根本的な間違いであると思う。努力の限りを尽くして、 その限界まで行ってみんことには、努力が無効と云うことが分かるはずがない。自力の限りを知って、初めて他力に帰すると云うことがあるんですよ。

●無相庵のあとがき
   「途中下車した人を軽蔑してはいけない」と言われているご忠告は、日常生活で大切にしたいお言葉です。途中下車した姿は、自分の過去の姿だからです。これは宗教だけでなく、 私たちが日常生活にも応用すべき戒めだと思います。交通ルールを守らない人、世間の常識・ルールを守らない人を目にした際、その人を咎(とが)めるものですが、それは過去の自分の姿ではないかと云う 寛容な気持ちを抱く冷静さを以て対処することが、家族・親族間、近隣同士も含めて、無用な争い、もめ事を回避する生活の知恵だと思われます。

   また勝手申しますが、今週は、我が社の決算処理に忙しく、来客が水・木・金と連続しますので、木曜コラム更新を取り止めさせて頂きます。ご了承下さい。

なむあみだぶつ


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